第一コリントNO31「男らしさ、女らしさ」11章2~16節 仁井田義政 牧師
今日の聖書の箇所は難解なところです。一見すると、現代社会において最も嫌われる男女差別について書かれているように思えます。果たして現代の私達に、何を教えようとしているのでしょうか。
★この時代の一般的な社会常識は、女性は公の場所ではかぶり物を被るのが常識でした。それは、ユダヤ教社会やギリシャやローマ社会においても同じでした。しかしその反対に、男性は被る必要がありませんでした。キリスト教会では男女同権が進んだために、被り物をしない女性が出てきたのです。
★そのような急激な変化は、教会の伝道にブレーキをかける事態となり始めました。キリスト教の母体となったユダヤ教では女性の地位は低く、公の礼拝で「祈りや預言」は出来ませんでした。せっかく教会という公の場で、男性と同じように「祈りや預言」という奉仕が出来るようになったのに、被り物をしない女性が出てきたために、世の人々から受け入れられない危険があったのです。それは、当時女性が公の場で被り物をすることが、女性の慎ましさと心の優しさを現わすことだったからです。急進的な女性達の振舞いによって、教会が悪い教えによって破廉恥な女性を作っていると批判されかねない事態になったのです。時は迫害時代でした。
★パウロは男性と女性が同じではないことを説明しました。それは男女の差別ではなく区別です。その区別とは、男らしさ女らしさです。女性は「女の権威の象徴」(10節)として、あるいは「女の光栄」(15節)として、そうすべきなのですとパウロは記しました。だからと言って教会でどちらが尊いと言うのではありません。「主にあって、女は男なしには存在せず、男は女なしに存在しない」それは結婚のことでなく、奉仕のことです。男女が居て初めて、素晴らしい神の栄光が教会を通して現わされるのです。
★それでは、現代の教会においても女性は被り物をすべきなのでしょうか。現代の女性の多くは被り物を付けておりません。もし被り物をして集まれば、それこそ奇異に見えるでしょう。しかし聖書の原則は適用できます。女性は女性らしい光栄つまり素晴らしさを、男性は男らしさを失わないようにして、神様と教会に仕えることが大切なのです。