第一コリントNO30「他人の利益の為に」10章23節~11章1節 仁井田義政 牧師
「自由」ということほど現代において大切なことはありません。何でも自由に発言し、何でも自由に行動できる、それが現代の人間の基本的人権や権利と結びつく大切なことです。さらに資本主義社会に生きている者にとって、利益の追求も大切なこととして共通理解を得ていると思われます。今日の聖書の箇所には、その「自由」と「利益」という二つの言葉が出てきます。
★パウロは「クリスチャンは何をしても良いのです」と記しています。「何をしても良い」と言っても、ここでは偶像に捧げられた肉についてのことで、食事に限定されています。絶対的真理から見るなら偶像などと言う神は存在しない。だからどのような食べ物も、食べようが食べまいが自分の良心を痛めることなく、全く自由であると言っているのです。
★しかし、パウロはさらに「全てのことはしても良いのです。しかし全てが利益になるとは限りません」と記しました。そしてパウロは読者が誤解しない様に、さらに「利益と言っても、自分の利益ではなく他の人の利益のことです」と記しました。自分の良心が傷つかなくても、その事によって他の人の良心が傷つくのであれば、クリスチャンはそれを慎むべきだと言うのです。私達は、利益や良心と言うと自分のことと思います。ここに、一般倫理や一般道徳とは違うキリスト教倫理、またはキリスト教道徳の優れた真理があるのです。クリスチャンは「ユダヤ人やギリシャ人、または神の教会にも躓きを与えないようにしなさい。」と教えています。
★パウロは確信を持って、私はその様に生きています。「私を見習って下さい」と言いました。しかしこのキリスト教倫理・道徳は、パウロの創作ではありません。ですからパウロは「私がキリストを見習っているように」とその出所を明らかにしているのです。イエス様こそ「人々が救われるように」と、自分の利益をひとつも求めずに生涯を送られたお方でした。
★私達の模範はキリストです。イエス様は十字架の死に至るまで、ご自分の利益をひとつも求められなかったお方です。パウロはそのキリストに習って、自分の利益も自由も制限して、人々の利益の為に生きた使徒なのです。私達クリスチャンも自分の自由と利益を制限してでも、人々と教会の為に生きるクリスチャンとなろうではありませんか。