第一コリントNO32「聖餐にあずかる」11章17~34節 仁井田義政 牧師
今日の聖書の箇所には、西暦一世紀頃の教会における聖餐式の様子が記されています。それから二千年を経た今日の教会でも、聖餐式が行なわれています。聖餐式にあずかるということはどのような意味があるのでしょうか。
★一世紀の教会では「イエス様の最後の晩餐」のように、まさに夕食だったのです。最初の頃は夕食を兼ねた聖餐も素晴らしく機能していました。(参照:使徒2:46)それは単なる夕食ではなく「主の晩餐」と言う名の教会のサクラメント(儀式)でした。しかし時間に余裕がある裕福な者は、夕方早くから飲み食いしてしまい、時間が自由にならない貧しい者や奴隷達が、仕事を終えてから来る頃には、聖餐のパンとぶどう酒が無くなってしまうということが起こりました。
★このように裕福で自由に時間がとれる階層と、貧しくて時間の取れない階層が聖餐式で分れてしまう様なことであれば、聖なる聖餐式の場が分裂の時となって、神の教会が軽んじられていることになってしまいます。そこで教会は聖餐式と食事とを分離して、現代の聖餐式の形になったのだと思われます。教会で初めて聖餐式を見られた方は、そのパンの小ささと杯の小ささに驚かれたことと思います。
★聖餐式を行なう大切な理由は、大きく分けてふたつあります。ひとつは、「キリストの十字架」という過去の事実を思い起こすことです。それは、私の罪の為に十字架について下さったイエス様を思い起こすためです。ふたつ目は、「主の来られるまで主の死を告げ知らせる」ということです。「告げ知らせる」とは、宣教に関わることです。
★このように聖餐式は、自分の罪の為に十字架について下さったという、イエス様の大きな愛を忘れないように、感謝と信仰を燃え立たせる為のものです。それと同時に「今も生きておられ、やがて再び来て下さるキリストを宣べ伝える」という宣教への献身の場なのです。信仰の修正と感謝、そして宣教の働きへの献身が、聖餐式において行なわれなければなりません。
各月の第一日曜日は、溝の口キリスト教会の聖餐式の日です。信仰を正して、心から主の聖餐にあずかりましょう。