(メッセージ マタイNO126)「彼は痛めつけられた」マタイ26章57~68節 仁井田義政牧師
先週はイースターでした。今日からまたマタイの講解メッセージに戻ります。イエス様の御受難と御復活についてお話しすることになります。受難と十字架と復活のないキリスト教は、塩気のない塩のようになってしまいます。それは、キリスト教信仰にとって最も大切なことなのです。
★イエス様は、ゲッセマネの園で捕らえられて、大祭司の庭で裁判を受けられました。そもそも大祭司カヤパは、ユダヤ人から選ばれたのではなく、ローマから選ばれた人でした。ですからいつもローマに睨まれないように気を使っている指導者でした。ラザロが生き返った時も、イエス様への人気がローマを刺激するとして、彼はイエス殺害計画を提案しました。(ヨハネ11:49)
★大祭司カヤパは、立場上、正式な裁判に見せなければなりませんでした。二人以上の証人を立てようとしたことが、その事の証拠です。しかしどれも、一致した証言を得ることが出来ませんでした。偽りの裁判だったからです。イエス様は不利な嘘の証言が次々出ても、自己弁護せず黙っておられました。決定的な罪の証拠となったのは、大祭司カヤパの「あなたは神の子なのか」という質問でした。イエス様ははっきりと「あなたの言うとおりです」と答えられました。
★ そのイエス様の言葉によって、大祭司カヤパは「イエスは神を冒涜した」と死刑を宣告しました。群衆もそれに同意しました。そしてイエス様につばきをかけ、こぶしで殴り、嘲笑の平手打ちをして「お前が神の子キリストなら、いま打った者がだれか言い当てて見よ」と嘲笑いました。イエス様は、彼らの侮辱の限りをただ黙って受けられたのです。
★人々の目には、イエス様は縄で縛られて自由を失った哀れな人間に見えました。唾を掛けられても、何一つ手出しも出来ない弱い人間の姿にしか見えなかったはずです。夜中じゅうイエス様に対する侮辱が続きました。しかしイエス様は、人々のなすがままに任せられたのです。それは、イザヤ53章7~8節に預言された救い主の姿でした。それも知らずに、人々はキリストつまり救い主に悪口雑言を浴びせ、唾を吐き、拳や平手で打ち続けたのです。イエス様のその忍耐は、何のためであったのでしよう。それは、私達人間を罪から救うためでした。我慢に我慢し、その仕打ちを忍ばれたのです。私達は御受難の主のお姿に、救い主イエス様を見ようではありませんか。