2月2日礼拝メッセージ「イエスの愛は民族を越えて」

礼拝メッセージ(マタイNO78)「イエスの愛は民族を越えてマタイ15章29~39節 仁井田義政 牧師

今日の15章の箇所にはパンの奇跡が記されています。実はパンの奇跡は前の14章にも記されています。同じような記事をどうして記しているのでしょうか。

★イエス様が異邦人のツロやシドンから、ガリラヤ湖の岸つまりイスラエルに帰って来られたかのように記されていますが、マルコによる福音書は「ガリラヤ湖の岸を通り、デカポリスに行かれた」と記しています。つまりイエス様はまた異邦人の地に行かれたのです。それはその地で癒しの奇跡を受けた人々が「イスラエルの神をあがめた」とあることからも明らかです。イエス様は異邦人の地でパンの奇跡を行なわれたのです。

★第一回目のパンの奇跡の時と、第二回目の時とに違いはあるのでしょうか。それは大いにあります。14章の奇跡の時には相手はユダヤ人達でした。弟子達はイエス様の所に来て人々の空腹を心配し、「群衆を解散しめいめいで食物を買うようにさせてください」と願いました。しかし今日の15章の第二の時には、弟子達は何も言わないのです。イエス様の方から弟子達に「この人々は食べ物を持っていない」と言っておられるのです。どうして弟子達は言わなかったのでしょう。それは、14章は同胞のユダヤ人達が対象だったからです。今日の対象者は異邦人なのです。弟子達には明らかな越えられない民族差別がありました。それに対してイエス様は、14章のユダヤ人の時も「深くあわれんで」(14:14)彼らを見られました。そして今日の異邦人の時も「かわいそうに」(15:32)と人々を見られました。その原語の意味は「はらわたが痛む」という言葉です。

★イエス様は民族主義を超えておられました。この時の異邦人の置かれた状況は、前のパンの奇跡の時よりも厳しい状況でした。前の時は「草の上に座らせ」(14:19)と記され、それは雨期だったことがわかります。今回は「地面に座るように」(15:35)と記されています。それから乾季だったことがわかります。さらに、前の時には人々が「歩いて来た」のに、今回は病人を「運んで来た」のです。そして「足元においた」とあります。そのように状況は前の時よりも格段に厳しいものでした。民族主義に捉えられていた弟子達には、それを見抜くことが出来ませんでした。

★イエス様は民族を越えて「深く憐れみ・かわいそうに思われて」救いの手を差し伸べられました。キリストの弟子である私達にも、民族を越えた愛を示すように求められています。私達の手に少ししかなくても、それを分け与えなさいと言われるのです。私達も民族を越えた愛を持ちましょう。

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