(メッセージ)マタイNO118山羊と羊との仕分けマタイ25章31~46節 仁井田義政 牧師

イエス様は、十字架にお付きになる数日前に、弟子達の世の終わりに関する質問に、様々な角度から数個の譬えをもって話されました。そして今日のイエス様の話がその結論なのです。イエス様は十字架で殺され葬られ、三日目によみがえり、天に帰って行かれた後、弟子達や人間の目には見えなくなる。しかしそれは旅に出ている人のようで、今は目には見えないけれども必ず帰ってくる。その時までのクリスチャンの生き方を教えられたのです。

★人の子は栄光を帯びて帰ってくるとイエス様は言われました。栄光とはイエス様が神であることの証明です。その時にはイエス様が神であることを誰も否定できません。しかも全ての御使いを伴って来られ、栄光の座に着かれるのです。その時に全ての国々の民がその前に集められ、裁かれるのです。

★その裁きを「羊と山羊を分けるように」とイエス様は言われました。イスラエルでは、羊と山羊は同じ群れの中で飼われていました。そのために頭数が多ければ多いほど、遠目には見分がつかない状態です。しかし羊には価値があり、山羊は羊と比べて格段に価値がありませんでした。そのように再臨の時にイエス様は絶対に見逃すことなく、最後の一頭まで仕分けされるのです。

★その仕分けの基準となるのは、「小さな者を助けたかどうか」によるとイエス様は言われました。「小さな者」とは、助けを必要としている人々のことです。こう言われると、クリスチャンといえども自信が待てなくなります。しかしそれは「私はあれをしました。これをしました」と思い出せることではなく、「いつ、そのようなことをしましたか」言う程のことです。

★一週間前に何を食べたか、思い出せる人は多くありません。あまりにも当たり前なので忘れているのです。しかし清水の舞台から飛び降りるような気持で、最高級のステーキを食べたなら一年経っても覚えているでしょう。イエス様が言われるのは大きなことではなく、あなたの周りにいる小さな者に、気負うことなく愛の手を差し出したかどうかのことです。それは家族であったり、友人であったり、近所の人であったり、ごく身近な人達への愛です。私達は自分でしたことさえ忘れてしまうような小さな愛を、イエス様は決して見逃すことがないと言われるのです。「あなたは小さな事に忠実だったから」と言って永遠の救いへと入れて下さるのです。私達の為に天国が用意されています。私達はこの世において、出来る限り愛の親切を人々に表そうではありませんか。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする