元旦礼拝 「山を動かす年」 マタイ十七章十九節~二十節   仁井田義政 牧師

                           

みなさんあけましておめでとうございます。二〇一四年元旦、新しい年が始まりました。元旦の礼拝では、教会の新年の御言と標語とからメッセージを行なうことにしています。またそのメッセージの内容は、教会新聞の一月号にも掲載しています。それは、溝の口キリスト教会のみなさんが、ひとつの御言とひとつの標語によって、心を同じくして新年を出発するようにとの願いからです。今年の御言と標語は、マタイ十七章から与えられました。

 

 

2014年度の御言

「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことはなにもない。」 

マタイ一七章二〇節 (新共同訳)

 

 2014年度の標語

「小さな信仰でも、山を動かす力があることを信じて行動しよう」

 

★そのときイエス様は、三人の弟子達を連れて、祈るために山に登って行かれました。その三人とは、弟子達を代表するペテロ・ヨハネ・ヤコブで、その他の弟子達は山の下に残ることになったのです。そこにてんかんの子を持つ父親が、弟子達に息子の癒しを祈ってもらうためにやってきました。しかし弟子達の祈りは失敗してしまいました。息子の父親も弟子達もがっかりしている時、イエス様が山から下りて来られ、父親の願いを受けて祈られると、たちまちてんかんの子が癒やされたのです。すると弟子達は「そっと」イエス様の所に来て、自分達の失敗の原因を尋ねました。その「そっと」と言う言葉に、弟子達の失敗による信仰の委縮が見られます。

 

★私達クリスチャンの中にも弟子達と同じように、気をつけないと信仰の委縮が起こってしまいます。「私は信仰が足りないから出来ないのだろうか」とか、「私には満ち溢れた信仰は無理なのだろうか」などと委縮するのです。イエス様は、私達の信仰の不足を否定はしません。「あなたがたの信仰が薄いからです。」と言われている通りです。だからと言って委縮する必要がないことを「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことはなにもない。」という言葉で教えておられます。

 

★弟子達は、自分たちに与えられた権威でてんかんを癒せると思っていました。しかし失敗したのです。てんかんの子を持つ父親は、イエス様にお願いして癒しの奇跡を見たのです。その違いは何でしょうか。それを解き明かす鍵句は、父親のイエス様への言葉にあります。父親は「主よ、あわれんで下さい。」(十五節)と願っただけでした。つまり自分の信仰や力でなく、イエスの力に期待したのです。

 

★しかし二十一節は、さらにクリスチャン達を委縮させます。「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出ていきません」とあるからです。「そうか、やっぱり祈りが足らないからなのだ。断食していないからなのだ。だから自分の祈りには力がないのだ。」と信仰が萎縮してしまうのです。でも聖書の欄外の注を良く見ていただきたいのです。この節は信頼できる古い写本には記されておらず、後に書き加えられたものと見られることが記されています。そうするとイエス様の言葉がスッキリとします。

   

★私達はイエス様の言われた御言に正確に立って、信仰の萎縮を吹き飛ばして「辛子種のような信仰でも、山をも動かすことができる」と、信仰を活動させるべきです。私たちの力が山を動かすのではないのです。私たちの祈りに応えて、イエス様が山をも動かして下さるのです。私達は「主よ、あわれみ給え」と信じて祈れば良いのです。その言葉はギリシャ語の「キリエ・エレイソン」です。この言葉は、教会において大切にされ告白されてきました。そのため多くの讃美歌に取り入れられ作曲され、歌われました。私達の信仰がたとえからし種一粒ほどの小さな信仰であっても、イエス様の力を信じて祈れば、山も動くのです。どんな時にも「主よ、あわれみ給え」と祈って、大きな山を動かす年と致しましよう。

 

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