第一コリントNO43「復活と刹那主義」15章29~34節 仁井田義政 牧師
一世紀の初代教会においては、異端的なギリシャ的一派が影響を与え始めていました。その一派とは、グノーシス主義です。日本語に訳するならば「主知主義」と言われた一派です。彼らは、「死者の復活はない」と主張していたのです。パウロはその間違いを正そうと今日の御言も書きました。
★ですがパウロは、その中で誤解を受けかねない言葉を書きました。「もしこうでなかったら、死者のゆえにバプテスマを受ける人たちは、何のためにそうするのですか。もし、死者は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは、死者のゆえにバプテスマを受けるのですか」(15:29)が死者の為の身代わり洗礼が有効であるかのように書いているのです。しかし死者のための洗礼についての言及は、聖書のここ以外にありません。それはコリント教会の中にあった一派の特有なものであったのではと考えられています。彼らがそのような事をしているのを「死者の復活がないなら、なぜあなたがたはそうしているのか」との意図であったと考えられます。
★しかしその影響は現代にも及んでいます。「イエスの御霊教団」では死者の身代わり洗礼をしています。「モルモン教」においても行なわれています。他にも身代わり洗礼とまではいきませんが、「誰にも死んだ後に救われるチャンスが与えられている」と教える「セカンドチャンス」の教えが教会に忍び込んでも来ています。死んだ者がイスラム教・仏教・神道に関係なく、身代わり洗礼によって救われるとは、何とこの地上の信仰の大切さを踏みにじってしまう教えでしょうか。
★パウロは「キリストの復活がなかったとしたら、死者の復活がないとしたら、私達はなぜ危険にさらされてまで伝道しているのでしよう。」と記しました。もし私達に復活という希望がないならば、人生に意味を失ってしまうのです。さらにパウロは「もし復活がないならば、明日は死ぬのだ、さあ飲み食いしようではないか。」と記しました。それは刹那主義であり快楽主義です。しかしキリストは蘇られたのです。ですからそれを信じる私達も生きるのです。復活のイエス様が、私達の希望です。感謝しましょう。確かな人生の希望がそこにあると告白しましょう。