5月5日礼拝メッセージ「ニヒリズムを超えて生きる」

(礼拝メッセージ) マタイNO47ニヒリズムを超えて生きる」9章18~26節 仁井田義政 牧師

今日は、会堂管理者の娘と長血の女性の記事を両方そのままの状態でお話し致しましょう。それは長血の女性が、会堂管理者の娘の記事に挟まれて出てくるからです。

★マタイの家でパリサイ人やヨハネの弟子達から発せられたイエス様と弟子達への非難は、嫌な空気を漂わせたことでしょう。その空気を引き裂くように、会堂管理者がイエス様の所に飛び込んできました。「娘が死にました。来て下さい」と必死で願いました。するとイエス様は「立って」会堂管理者の家に向かわれました。通常ユダヤ教の祭司達は、死体に近づかないのです。それは「死人に触れると汚れる」と信じていたからです。しかし、イエス様は「立って」会堂管理者の家に向かわれました。

★しかしその途中で、長血の病気に苦しむ女性がイエス様の足を止めるのです。当時は長血の病も汚れたものと言われており、その病にかかった者は、神殿の婦人の庭に入ることさえ赦されませんでした。その女性に触られた者も汚れると言われていたからです。そのためにその女性は、イエス様から隠れてイエス様の衣に触りました。イエス様はそのことを察知して、隠れて触った女を叱りつけるのではなく、「娘よ」と言われました。それは神の子イエス様に「あなたは私の子、私の愛する娘」と言われたことなのです。

★一方、会堂管理者はどんなに気を揉んでイエス様と長血の女性の時間を過ごしていたでしょう。他の福音書には「娘が死にかけています」(マルコ5:23)と父親の言葉を記しています。イエス様が長血の女性に関わっている間に、最愛の娘が死んでしまいました。しかしイエス様は、その娘が死んでいたのに「死んでいない。眠っているだけだ」と言われました。人々は、嘲笑いました。イエス様が死んだ女の子の手をとると、娘は生き返りました。祭司達は死体に触れることなど絶対にしません。しかしイエス様は、死の向こうにまで手を差し入れて立ち上がらせて下さったのです。

★この二人の女性とイエス様の働きに共通している事は何でしょうか。二人の周りに共通しているのは「死」です。長血の女性は「まもなく私は死ぬ」という恐怖に支配されていました。会堂管理者の娘の周りの人々は「娘は死んでしまった。」という恐怖に支配されていました。両方とも、人間は死ねば全てを失うというニヒリズムの中に支配されていたのです。ニヒリズムは、現代の人間をも暴力的に支配しています。しかしイエス様は私達の死の向こうにまで御手を差し伸べて下さるのです。死が全てを奪うのではありません。イエス様にある者は死後の完全な命があるのです。死が全ての終わりと思う所にニヒリズムが起こります。イエス様を信じて、ニヒリズムを超えた人生に立ち上がりましょう。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする