(礼拝メッセージ) 「イエスが来られて困った人々」マルコ11章27~33節
仁井田義政 牧師
今日の聖書の箇所は、エルサレムの聖職者達がイエス様を殺そうという強い共通の怒りを持っているところです。なぜそれほどに怒りを持ってイエス様を殺そうとしたのでしょう。それが今日のメッセージの大切なポイントです。
★彼らの怒りは、前日にイエス様が神殿の庭で両替人や商売人達を追い出したことにありました。祭司達は、こうなるのを前から危惧していたのです。神殿の中では、何事も大祭司達の許可を取らなくてはなりませんでした。それなのに田舎者のナザレのイエスとガリラヤの漁師あがりの弟子達が、許可も得ずに自由に行動していることに我慢が出来なかったのです。ですから祭司長は、「何の権威によって、これらのことをしているのか」とイエス様に言ったのです。
★イエス様は「私の質問に答えてくれるならば、その後に私も答えます」と言われ、「バプテスマのヨハネは神様から遣わされたのか。それとも勝手にきたのか」と質問し、答えるように求めました。彼らはもしバプテスマのヨハネは「神からです」と言えば、それではどうして信じなかったのかと言われてしまうし、「勝手に来た」と言えば、群衆の多くはバプテスマのヨハネが神様から遣わされた人と信じていたから、暴動が起きる可能性があるし、何と答えて良いかわからなかったのです。
★祭司たちが自分の心を偽ってでも、自分達の欲を守ろうとしました。彼らはイエス様を殺して、自分たちの今までの生活を守ろうとしたのです。ついにイエス様を殺し、彼らの全ての心配事が消えたかに感じたのです。そうしてイエス様が来られる以前のように、何百年も何千年も彼らの権威と繁栄が続くと考えて安心したのです。しかしそれもつかの間にエルサレムは崩壊し、神殿はあった場所さえ分からなくなってしまったのです。
★このことは現代の私達にも起こりえます。自分の思いを通そうとすると、イエス様が邪魔になり、イエス様に自分の人生という枠の中で、勝手なことをしてもらっては困るという思いになります。そして、イエス様を自分の生活から抹殺するのです。つまり不信仰になるのです。その結果は破滅です。真理に貫かれているイエス様の考えよりも、欲にまみれた自分の都合を優先させたからです。私達はイエス様を心にお迎えし、自己第一主義を清めて頂きましょう。