11月15日礼拝「神の素晴らしさを現わす」

(第一コリントNO18)神の素晴らしさを現わす」第一コリント6章1220

                         仁井田義政 牧師

 大都会のコリントには様々な人間が流れ込み、その価値観は多種多様になっていました。パウロはその町に生きるクリスチャンに、永遠不変のクサビを打ち込みました。それは「クリスチャンの自由」というクサビでした。

★当時のコリントの町には「人間の望むことをすることは何でも自由である」という思想でした。自由人一人に対して奴隷を三人~五人をもっていたコリントの人々は、暇を持て余し昼間から享楽にふけっている有様でした。パウロはそれを「しかし全てが益になるわけではない」と記しました。    現代でも、競馬・競輪・競艇・パチンコなどギャンブルも公営であれば何でも行なうことは自由です。しかしそれらは中毒となる危険が多いのです。全てが益になるわけではないのです。

★パウロは「あなたがたはキリストの体の一部です」と、クリスチャン達に第二のクサビを打ち込みました。それは教会とは何かという教会論です。イエス様が死者の中から復活されたのは、新しい霊的な体になられたということです。それと同じく私達がクリスチャンになったことは、キリストを甦らせた神の力が私達にも働き、新しい体になったということです。それはキリストの体である教会の一部とされたということです。先週の礼拝で話しました「洗礼」によって、古い汚れた自分は死んで、新しいキリストの御体の一部になったのでいす。

★パウロが第三のクサビとして打ち込んだのは「神の栄光を現しなさい。」という言葉でした。それは新しい価値観に生きるクリスチャンの生き方です。「自分の喜び、自分の楽しみ、自分の成功のために生きている」のは、古いままの価値観に生きているのです。「あなたがたは買とられたのです」とパウロは記しました。それは主の奴隷になったことを意味します。奴隷は主人を喜ばせるために生きるのです。クリスチャンに与えられた新しい価値は「神の栄光を現す」ことなのです。 

★私達の溝の口教会においても全く同じです。それぞれが「自分の為に生きるのではなく、神様の栄光のために生きるのだ」と、その目指すものをはっきりさせて生き始める時、教会は最強の集団となり、クリスチャンは輝くクリスチャンとなるのです。心を新たにし、今日の御言葉に従って「神様の素晴らしさを現す生活」を始めようではありませんか。

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