(礼拝メッセージ・マタイNO124)「ゲッセマネの孤独」マタイ26章36~46節 仁井田義政牧師
イ
エス様と弟子達は、ゲッセマネの園へと向かいました。イエス様は、その所ではかり知れない孤独の中で祈り続けられました。イエス様の額からは「汗が血の滴りのように流れ落ちた」とルカ22章44節に記されています。弟子達はイエス様のそのお苦しみを知らず「皆眠り込んでいた」のです。
★「ゲッセマネの祈り」という絵には、岩の上に手を置いて祈るイエス様が描かれています。しかし聖書は「地に身を投げ出して」祈り始められたと記されています。額を地にすりつけ、地を這う虫のようになって祈られたのです。今までのイエス様の生涯に、このような悲しみの姿はありませんでした。
★イエス様は死を恐れたのではなく、神に裁かれる死を恐れたのです。神の御子が人間の罪の身代わりとされ、父なる神に裁かれる、その恐れであり悲しみでした。我らの目には死後が見えないので、或る面でのんきなのです。しかしイエス様には死後が見えました。罪人の死後の地獄です。
★弟子達は、イエス様が血のような汗を流しながら祈っておられる意味を知りませんでした。弟子達は「一時も目を覚ましていることは出来なかったのですか」とイエス様に言われました。それでも弟子達は起きていることが出来ず、イエス様に三回も起こされているのです。弟子達は、イエス様のお苦しみの意味を知らなかったのです。それは現代人も同じです。イエス様は、父なる神から捨てられ、弟子達にも理解されず、たった独りで祈られたのです。孤独の祈りです。
★イエス様は弟子達の所に来られ「まだ眠っているのか。・・見なさい。時が来ました。」と言われました。神様の定められた計画が実行される時が来たのです。もう裏切りのユダがゲッセマネの園のふもとから、敵の兵隊を連れて登ってきていたのです。イエス様は「立ちなさい。さあ行くのです。私を裏切るものが近づきました。」と言われました。このような状況でこの言葉を聞いたら「さあ逃げましょう」と聞こえることでしょう。しかしそれとは反対に、イエス様は敵の来る方へと向かわれたのです。それは、人間が誰一人地獄の苦しみに遭うことがないようにと願っての行動でした。イエス様はその苦しみを一人で背負う決意で、敵の前に歩き出されたのです。私達は、イエス様のお苦しみを前に眠っていてはなりません。しっかりと目を覚まして、イエス様のお苦しみの祈りの意味を知りましょう。