礼拝メッセージ マタイNO54「たとえ一杯の水であっても」10章34節~11章1節 仁井田義政 牧師
マタイの福音書10章は、イエス様が12人の弟子達を初めて伝道に遣わすところです。今日の話を終えると、いよいよイエス様は弟子達を二人一組にして伝道に遣わします。伝道には反対がつきまといます。しかしその厳しい伝道の中でも、必ず弟子達の伝道に耳を傾け、クリスチャンになる人が起こされます。その為に行くのです。伝道者魂がそこにあります。
★ イエス様は弟子達に「私は平和をもたらすためではなく、剣をもたらす為に来た」と言われました。それは5章9節で「平和をつくる者は幸いです」と矛盾しないのでしょうか。イエス様は争いを起こすために来られたのでしょうか。そうではありません。人々が弟子達を迫害するのです。
★ですからキリストを第一にする決意が無ければ、伝道に出て行くことは出来ないのです。イエス様は「私よりも父や母を愛するものは私にふさわしいものではありません」と言われました。それは聖書の「父と母とを敬え」との教えに反するのではないでしょうか。そのようなことはありません。クリスチャンになる時や伝道する時、家族から強く反対されることがあります。理由もなく勘当されることさえあります。その痛みを乗り越えて信仰を第一とする時、やがて家族全員の救いにつながるのです。初めは反対され勘当されたけれども、最後には一番感謝されるのです。
★伝道する者に待っているのは厳しさだけではありません。40節にあるように、福音を信じる人達が必ず起こされるのです。弟子を受け入れることは、その人を受け入れるのではなくイエス様を受け入れるのです。伝道する者を受け入れる人は、その人を通して神様の祝福にあずかるものとなります。しかし、その人を拒否することは、イエス様を拒否することと同じです。その不信仰に対する神の報いがあるのです。
★「この小さい者のひとりに、水一杯でも飲ませるなら、その人は決して報いに漏れることはありません」とイエス様は言われました。聖書の世界である乾燥地帯では、旅人に貴重な水を無償で与えるのは当然なことでした。イエス様が遣わした者に与える「水一杯」という小さな親切さえ、主は決してお忘れにならず、必ず祝福されるのです。たとえ一杯の水であっても、尊敬のこもった水はそうなるのです。あなたも、キリストの弟子達にたとえ一杯の水であっても尊敬を込めて差し出す人になりましよう。
