8月25日礼拝メッセージ 「安息日の主の愛」

礼拝メッセージ(マタイ59 「安息日の主の愛」マタイ12章1~14節   仁井田義政牧師 

私達日本人も、宗教は戒律だと思っている人が多いようです。イエスの時代もそうでした。イエス様は、間違った信仰と戦わなければならない時に差し掛かりました。それは弟子達と一緒に麦畑の中を通る道で起こりました。

★その日は安息日で、会堂で行なわれる礼拝に向かっている道でのことでした。会堂に続く道には、律法に非常に厳格なパリサイ派の人々も歩いていました。その時、イエス様の弟子達が「ひもじくなったので麦の穂を」取って食べたのでした。弟子達は、何らかの理由で朝食をとる時間がなかったのかもしれません。パリサイ派の人々はそれを見て、一大事とばかりイエス様の弟子達を責め始めました。

★パリサイ派の人々は、律法を破る人々に対して非常に厳しい人々でした。イエス様の弟子達は、朝食よりも礼拝が大切と言うことで会堂に向かっていたのでしょう。途中、麦畑の中を通った時、空腹を感じて麦の穂をしごいて口に入れたのです。それをパリサイ人達が「安息日に脱穀と言う仕事をした」と言って弟子達を責めたのです。イエス様は「ダビデとその家来がひもじかった時に、神殿の祭司が神に供えた供え物を彼らに与えた。そのようにしても罪でなかった」と言われました。

★イエス様は「私は憐れみは好むが、いけにえは好まない」(ホセア6:6)という旧約からの行動原則を持っておられました。それは、神様は律法を全てに優先させるのではなく、愛を全てに優先させることを意味します。「神は愛」だからです。さらに、イエス様はご自分を指して「人の子は安息日の主です」と言われ、安息日にも「愛」を優先させ、自由に行動すると宣言されました。私達は自分を正しいと確信している時に、気をつけないと「自分の目の梁」を棚に上げて、他人の「目の塵」を指摘していることがあります。気をつけなければなりません。

★安息日の会堂でパリサイ派の人々は、イエス様を罠にかけようとして「片手の萎えた人」を癒やすのが正しいかどうかと迫りました。イエス様は罠と知りつつ、ためらわずにその人を癒されました。その結果、パリサイ派の人々から「どのようにしてイエスを滅ぼそうか」と、命を狙われるようになりました。私達のイエス様は律法の重荷から私達を解放し、律法の根底にある律法に勝る愛をもって、私達を愛し守って下さるのです。このお方に従って律法に囚われることなく、愛によって自由な人生を生きましょう。

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