10月2日礼拝メッセージ「苦しみを通して」

第二コリントNO2「苦しみを通して」1章8~11節 仁井田義政 牧師


138088368370500717225_5-1_20131004194804苦しみは誰にとっても嫌なもので、できれば避けたいところです。しかし私達は人生の中で必ず苦しみを体験するのです。苦しみに遭った時に、苦しみの意味が分からないこと程苦しいことはありません。聖書は私達の人生に起こる苦しみには、大切な意味があると教えています。それでは苦しみにはどの様な意味があるのでしょう。パウロの体験から見てみましょう。

★苦しみにも種類がありますが、パウロが体験した苦しみは「非常に激しい苦しみ」でした。命さえも危うくなり、死を覚悟した程でした。もうこの苦しみから救われるのは、ほぼ百パーセント無理と思える状態でした。神様に従い、イエス様の教会を小アジアからヨーロッパにまで作ってきたパウロが、なぜこのような苦しみに遭わなければならないのでしょうか。

★パウロは苦しみの「極限の中」で、人にも自分にも何ものにも頼れない状態の中で、苦しみの意味を見出したのです。それは人間の力には頼ることが出来ないということでした。激しい苦しみに遭う時に、そのどん底で、苦しみが絶望になるか、一筋の希望となって立ち上がれるかは、その所での発見にかかっているのです。パウロがそこで発見したのは「自分自身を頼まず、イエス様を死から甦らせて下さった神様に頼る」と言う生き方でした。

★苦しみの中で「神様を絶対に信頼するという信仰」を得たパウロは、神に頼る信仰により救い出されました。その体験はパウロの信仰の大きな飛躍となり、財産となりました。「今回救い出して下さった神は、将来のいかなる苦難からも救い出して下さる」との確信でした。神様への絶対的信仰は、苦しみと苦難を通して与えられたのです。苦難のどん底にある時、神様を見るか、絶望を見るかで、その人の後の人生まで左右するのです。

★パウロは、コリント教会に自分の為にとりなしの祈りを要請をしました。教会は祈りの交わりでなければなりません。パウロの為のとりなしの祈りは、パウロとその働きに「恵み」となって現れると確信しました。苦しみにさえも意味があるのです。苦しみは私達を強い信仰へと導きます。また苦しみを教会が共有する時、教会はとりなしの祈りの教会へと変わっていきます。私達は苦しみに遭った時、絶望的な自分の状況を見ないで、何でも出来る神様を見ましょう。教会はとりなしの祈りに満ちた所となりましょう。

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