(第一コリントNO4)「智者と学者と十字架」第一コリント1章18~25節 仁井田義政 牧師
パウロは「どの指導者が偉大な指導者なのか」という論争にとらわれてしまっているコリントの教会にこの手紙を書いています。彼らの多くは哲学と弁舌の優れた人を偉大な教師として求めるギリシャ人なのです。パウロはその事を教会の危機として察知しました。そして猛然とキリストの十字架について、その大切さを記しました。それは現代の教会にも必要なことです。
★イエス様の十字架は、単なる歴史的事実ではありません。パウロは十字架には神の言があると言いました。十字架が神の啓示でなければ、単なる愚かな事件になってしまいます。事実、十字架の意味が分からない人達には「愚かに見える」のです。智者と自称する者達は躓いたのです。
★パウロは「滅びに至る人には十字架は愚かに見える」と記しています。十字架は極悪人が処刑される死刑台です。そしてイエス様はその十字架で殺されたのです。その十字架に何か力がある等と信じるのは、愚かなことです。その愚かに見えるイエス様の十字架こそ、神の救いの言(啓示)であると言うのです。その言を聞いて信じることが、救われているしるしなのだとパウロは記しました。それは神様の知恵にかなっています。神様の知恵は人間の知恵をはるかに越えているので、人間には愚かに見えるのです。
★パウロは「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を求める。」と記しました。つまりキリストの十字架は、両方に理解されにくいのです。ユダヤ人は、事実かどうかどうでも良いのです。イエス様が神の子であるなら「十字架から降りて来い」と叫び、しるしを求めました。ギリシャ人は論理的で議論に耐えうるものを求めます。そのように十字架の言は、その両方に愚かに見えるのです。
★しかし愚かに見えても私達は十字架に着けられたキリストを述べ伝えるとパウロは言います。どんなに十字架が愚かに見えても、愚直なまでに十字架の真理を述べ伝えると言うのです。現代の教会も「十字架の愚かさ」を捨ててはいけません。人は謙遜になって、キリストの十字架の言を信じなければ救われないのです。「十字架の言は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私達には神の力」なのです。実直にキリストの十字架を伝え続ける溝の口教会を、私達はこの上もない誇りとしようではありませんか。