(礼拝メッセージ)マタイNO.101「無花果とイエス様」21章18~22節 仁井田義政牧師
先週は「激怒する主イエス」と言う題で、イエス様の宮清めについて話しました。その日エルサレムを出てベタニヤで宿泊されたイエス様が、翌日の朝早くエルサレムに帰られました。その途中にイエス様は空腹を覚えられて無花果の木に近づかれましたが、実がなっていなかったのでその木を呪って枯らしてしまったと言うのです。昨日の神殿での「激怒」と、今日の無花果の木への呪いは、共に「イエス様の怒り」と言えるでしょう。しかし今日のイエス様の怒りは、私達に何を教えようとしておられるのでしょうか。
★聖書は「イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた」と記しています。それは「入られた」と言うこととは明らかに違って「帰る」なのです。自分を殺そうとしているエルサレム、イエス様にとってそこが重要だったのです。「朝早く」朝食もとらないで、エルサレムに帰って来られたのです。その途中でイエス様は空腹を覚えられ、無花果の木に実を期待して近づかれました。
★しかし無花果の木に期待して近づかれると、その木は葉ばかりでひとつも実を結んでいなかったのです。マルコの福音書には「無花果のなる季節ではなかったからである」(11:13)と記されています。実がなる季節ではないのに実がなかったからといって、呪うのはいかがなものかと思います。
★しかしその謎をリューモーセ著の「聖書の世界が見える・植物編」が見事に答えています。彼によれば、無花果は過越祭の季節の3~4月頃は小さな実「パーグ」をつけるのだと言います。その実は小さな実で商品価値がないので、誰でも取って食べて良いのだそうです。しかし夏になると大きな実「テエナ」がなり、それは所有者の許可なく取ってはならないのだそうです。つまりイエス様は、誰でも取って良い「パーグ」を求めて木に近づかれましたが、葉ばかりでした。小さな実もならせないような木は、今後大きな実もならせることはないであろうと枯らされたのだと言うのです。へブル語では「パーグ」と「テエナ」で区別されているのに、新約聖書のギリシャ語では、無花果を区別せず「シューコン」の一語で訳している所に混乱があると言うのです。
★ 葉ばかりの無花果は、イスラエルの形式ばかりの神殿や儀式を表します。どんなに立派に見えても、実がなければ役に立たない木として処分されるのです。イエス様は私達の実を探しておられます。たとえ小さな実「パーグ」であっても、私達はやがて大きな実「テエナ」を結ぶ者になりましょう。