(受難週礼拝) 「この方は神の子であった」 ルカ23章44~49節 仁井田義政牧師
今日から受難週が始まります。そして来週の礼拝は、イースター合同礼拝です。マタイ連続メッセージを離れて、ルカの福音書からお話し致します。十字架の処刑ほど、非人間的なものはありませんでした。血みどろの人間の死にゆく過程が人々の目にさらされるのです。十字架を見ようと集まってきた人々も、様々な人々でした。直接イエス様の十字架のお姿を見ても、お言葉を聞いても、その感じ方は全く違ったのです。
★イエス様の十字架上のお姿は、全身血みどろでした。まともに見ることができないほどの様子でした。人々はイエス様の十字架上の言葉を聞きました。「父よ、彼らを赦して下さい。なぜなら、彼らは何をしているのかわからずにしているのですから」(ルカ23:34)。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか。」(マルコ15:34)。「父よ、私の霊をあなたのみ手にゆだねます」(ルカ23:46)などです。しかし、同じ十字架のイエス様を見ても、同じイエス様の御言葉を聞いても、受け止め方が違ったのです。
★人々の感じ方がどのように違ったのかを見てみましょう。一番人数の多かった人々は「光景を見に来た群衆」(48節)でした。彼らは悲しみながら去って行ったのです。二番目に多かった人々は「ガリラヤから来た人々」(49節)でした。その中には弟子達もいました。彼らは遠くからイエス様の十字架を見ていました。三番目は十字架のイエス様を監視していた「ローマ兵」(47節)でした。このローマ兵だけが十字架のイエス様を「本当に、この人は正しい方であった」と言いました。
★ローマ兵は、十字架刑を幾度も見てきたでしょう。しかしイエス様の死は、他の者と違うことに気がつきました。マルコの福音書15章39節には、ルカの福音書よりもさらに踏み込んで「イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言ったことが記されています。十字架のイエス様を単なる「胸を叩いて、悲しむ」と言うような、感傷的な心で受難週を過ごしてはなりません。あるいはガリラヤからの人達のように、イエス様の十字架を遠くから眺めている受難週であってもなりません。ローマ兵のように、十字架のイエス様の正面に立って、イエス様をしっかりと見て、御言葉を聞くことが大切なのです。そうする時、「この方は、まことに神の子であった」との信仰告白へ導かれるのです。来週のイースター礼拝には、「イエス様は神の子であった」と歓喜に満たされて、復活のイエス様のもとに集まり、共に礼拝しましよう。