3月1日礼拝メッセージ「主よ、まさか私では」

 (礼拝メッセージ・マタイNO122)「主よ、まさか私では」マタイ26章17~25節 仁井田義政牧師

 イエス様と弟子達は、最後の夜を迎えようとしていました。その時は毎年行なわれている過越しの祭があり、世界中からユダヤ教徒達がエルサレムに来ていたのです。それは過越しの祭を共に祝うためでした。イエス様と弟子達も、遠く離れたガリラヤからこの過越しの祭を目指して来ていたのです。

★過越しの祭は、イエス様の時代より1500年も前の、イスラエルがエジプトの奴隷から解放された事件に遡ります。「エジプトでの奴隷生活は430年」と出エジプト記12章40節に記されています。この事が過越しの日から始まりであり、奴隷から解放されたイスラエル建国記念日ともなったのです。

★イエス様の時代、イスラエルはローマの植民地であり、イスラエルの国粋主義者達はローマからの解放を祈っていました。救世主による解放を待ち望んでいたのです。ですからイエス様がエルサレムに入城された時、群衆は興奮し「ホサナ=主よ、救い給え」と叫んだのです。しかし、大祭司や祭司長達や民の長老達は、ローマの支配を歓迎して旨い汁を吸っていたのです。そのような理由から、過ぎ越しの祭でイエスを捕らえると暴動がおこるかもしれないと、イエス逮捕をためらっていたのです。弟子の中にも国粋主義者はいました。   ユダほどではないにしても、他の弟子達も「いつ御国の位にお着きになられるのですか」と質問する程でした。過ぎ越しの祭がそのような中で始まりました

★イエス様は、過越しの食事の席で「私を裏切る者がこの中にいる」と言われました。弟子達はそのイエス様の言葉に「まさか私のことではないでしょう」と言いました。ユダも他の弟子達と同じように「まさか私ではないでしよう」と言いました。マタイでは、裏切る者はユダであるとイエス様が弟子達に告げられたかのように見えますが、そうではありません。ヨハネの福音書13章28節には「その時、ユダに言われたことを知っている者は誰もいなかった」と記されています。

★人々は、過越しの祭に昔エジプトで奴隷から解放されたように、今ローマからの解放を期待していたのです。しかしイエス様は戦うどころか、死を決めておられたのです。人々はイエス様に絶望し、弟子達はイエス様に失望したのです。ついに、ユダはイエス様を裏切ります。当然ユダに対する神の裁きは最も厳しいものになることは議論の余地がありません。私達はユダのようにならないよう、信仰に強く生きて信仰を守り通すクリスチャンになりましょう。

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