17日礼拝メッセージ「群衆と二人の盲人」

(礼拝メッセージ)マタイNO98群衆と二人の盲人マタイ20章29節~34節 仁井田義政 牧師

イエス様と弟子達によるエルサレムへの旅は、今日の聖書の箇所で終わろうとしています。「彼らはエリコを出ていくと」という文は、そのことを現わしています。その旅の最後の所で、イエス様と「二人の盲人」との出会いが起こりました。その出会いには大切な意味があったのです。

★盲人は、群衆のようなエルサレムへ向かう旅人ではありませんでした。道端に座って物乞いをするしか生活の術がない人々であったのです。当時の人々からは差別された人達でした。彼らはイエス様が通られると聞いて「大声でイエス様に叫んだ」のでした。群衆は彼らを黙らせようとしましたが、彼らは必死に叫び続けたのです。そこには諦めないイエス様への求めがありました。

★イエス様はその盲人たちの声に「立ち止り」ました。イエス様にとって、この数日後には十字架に付けられ殺されるという、残された時間の少ないこの時に、盲人のために時間を取られたのです。それは群衆たちにとって、関わる価値のない盲人たちでした。盲人たちは、今までのようなお金を求める願いではありませんでした。また20章20節の弟子達のような権力を求める願いでもありませんでした。はっきりと「目が見えるようになることです。」という願いでした。その願いの背景には、長い間の差別と苦しみがありました。盲人たちは、人々から「神にも捨てられた人」と言われていた時代なのです。

★イエス様が、二人を「かわいそうに思って」癒されたことが記されています。「わいそう」の原語の意味は「内蔵が痛む」と言う意味で、イエス様がご自分のことのように、盲人たちの苦しみを感じられたことを表しています。イエス様が祈り、目に触られるとすぐに彼らの目が見えるようになりました。その後の彼らの行動が大切です。彼らは「イエス様について行った」のです。心の眼が開かれたのです。即座に、イエス様に着いてゆく価値を感じたのです。★聖書が私達に伝えているのは、目も見え五体満足で、当然の権利としてエルサレムにイエス様と一緒に向かっていた多くの群衆は、実は霊的に何一つ見ることが出来ない霊的な盲目であり、それに対し盲目で何も見えなかった二人の盲人達は、誰よりも深く「主」であり「ダビデの子」であるイエス様の愛を見たということです。あなたはどうでしょう。私達もイエス様の愛に心の目を開かれ、即座にイエス様について行く者になろうではありませんか。

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