7月30日礼拝メッセージ「愛すれば愛するほど」

第二コリントNO32「愛すれば愛するほど」12章14~18節 

                        仁井田義政 牧師 

 パウロは、反対者のいるコリント教会に三度目の訪問をしようとしています。その教会には、パウロに反対する偽教師に騙された人々がいたのです。衝突は予想されることでした。それでも行くことを決意しました。

★パウロがコリント教会から給料をもらわなかったことは、先週話した通りです。パウロは、他の教会から援助を受けてコリント教会を創立したのです。その教会に、パウロから遣わされたテトスと同行者が、エルサレム教会の為に募金に来ていました。偽教師達は「今までパウロは無欲に振舞ったが、エルサレ教会の献金から騙し取った」と人々に言いふらしたようです。

★パウロは、コリント教会へ訪問するに当たって、経済的な負担をコリント教会にはかけまいと、「私が欲しいのはお金ではなく、あなたがた自身である」「あなたがたのたましいの為には財も、自分自身さえ使い尽くす」と言いました。それは無限の愛でした。しかし「私が愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか」と、愛すればこその心の痛みを記しました。イエス様も正にそうでした。愛すれば愛するほど、人々からは愛されない人生を歩むことになってしまったのです。そして十字架につけられました。

★偽教師は、パウロがコリント教会から金銭を受け取らなかったことを逆手にとって、パウロはコリント教会の人々を安心させ、実は金銭を奪おうとしているのだと人々に教えました。パウロはそれに対して「自分もテトスもその他の同労者も、悪賢く何かを奪い取ったことがあるか」と潔白を主張しました。「私達は同じ心で」つまり、あなたがたの魂の為に、つまりクリスチャンとして救われて欲しいと純粋な心によって「大いに喜んで財を費やし、私自身をさえ使い尽くして来た」と言いました。

★パウロはキリストに出会わなかったなら、イスラエル社会で有能な教師となる道が敷かれていたのです。その教師としての仕事は、ビジネスとしても人が熱望する程の立場だったのです。しかしイエス様によって救われた後は、死をも覚悟して旅をしなければならなくなったのです。なぜそんな危険を冒してまで旅をしたのでしょうか。人々の救いの為です。しかし「愛すれば愛するほど、その人から憎まれる」ことになりました。悲しいことです。私達は自分の魂を愛する人の愛を、しっかりと受け止めることの出来る人になりましょう。

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7月23日礼拝メッセージ「真の使徒のしるし」

第二コリントNO31「真の使徒のしるし」 12章11~13節 

                        仁井田義政 牧師 

 パウロは、偽教師達に「パウロは使徒などではない」と反対されました。その偽教師達の狙いは、パウロからコリント教会を奪い取ることでした。パウロはコリント教会を偽教師達の毒牙から救い出すために、愚かなことと知りつつも自分を誇って見せざるを得なかったのです。

★パウロは、自慢話が神様の御前に愚かなことと知りつつもそうせざるを得ず、コリント教会の人達に「あなたがたが、無理に私をそうしたのです」と言っています。偽教師達が私に対して悪口をいう時、パウロ先生はそのような方ではありませんと言うべきだったというのです。

★パウロは愚かになって、偽教師達に負けない自慢話をしようとしても「たとえ私は取るに足らない者であっても」と謙遜な言葉が出てしまうのでした。謙遜こそが、パウロのクリスチャンとしての生き方だったからです。反対に偽教師達はコリント教会の人々に、これ以上ない「大使徒」として自分を紹介していたようです。それに対してのパウロは「あの大使徒たちに」と言っています。それは皮肉を込めた言葉です。

★それでは、本当の使徒としてのしるしは何なのでしょうか。パウロは、使徒としてのしるしの最初は「忍耐を尽くして」の福音宣教ですと言っています。忍耐を抜きにして不思議や、しるし、力ある業ばかりを求めると、偽教師の罠にはまるのは現代も同じです。私達の教会にも、キリストの教会として奇蹟は起こっています。しかしそれを売り物にはしないのです。

★偽教師達は、パウロに教えられた教会は不完全な教会なので、私達が完全にすると言っていたようです。パウロはコリント教会に教理的な意味で「劣る点は何一つない」、あえて言うなら「給料を私が貰わなかったこと」と言っています。パウロは考えがあって「お金目的で新しい教えを持って来た」と言われないために、細心の注意をはらったのです。パウロの生活を支えていたのは、マケドニアの諸教会でした。(11:9)    

★使徒のしるしは、「忍耐を尽くしての宣教」です。その宣教の中で、信じる者に御業が現わされるのです。困難な時も教会を投げ出さずに伝道牧会する、それこそ真の使徒のしるしであることを知りましょう。

 

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7月16日礼拝メッセージ「弱い時にこそ強いのです」

第二コリントNO30弱い時にこそ強いのです」12章7~10節 

                        仁井田義政 牧師 

 前回、パウロが第三の天に行って来たという体験が記されている箇所をお話ししました。それは誰でも体験できるなどと言うものではありません。パウロ自身も「その啓示があまりにも素晴らしい」体験だったと言っています。パウロは、神様から「高ぶることのないように・・ひとつの棘を与えられた」と言っています。その結果、パウロは「弱い時にこそ強い」自分を発見しました。

★信仰者にとって、最大の誘惑は「高ぶりと傲慢」です。パウロのように、神様に用いられる人ほど注意が必要です。パウロが「肉体にひとつの棘を与えられた」ということから見て、何らかの病気であったと考えられます。目の病気だったかも知れません。第三の天にも行き、使徒19章には、パウロの前掛けや手拭いを病者に当てただけでその病が癒されたことが記されています。まさに人々が求めていた超能力者です。しかし神様は、パウロが高ぶることがないようにと、肉体に棘を与えられたのです。

★パウロは、棘を取り除いて下さるようにと神様に三度も祈りました。三度の祈りとは激しい祈りです。イエス様のゲッセマネの祈りも三度でした。イエス様の「苦き杯=十字架」も、パウロの「肉体の棘」も取り除かれなかったのです。その両方の苦しみには目的がありました。イエスは十字架による人々の救いであり、パウロは謙遜な伝道者となることでした。しかも毎日肉体に感じる棘があるのに、「私の恵みはあなたに十分である」と神様は言われたのです。その中で感謝の生活をするように言われたのです。

★そのことによって、パウロは「神の力は 弱さの中に現れる」という逆説的真理に導かれました。一般的には「弱さ」は悪であり、「強さ」は善なのです。だから誰でも「強さ」を求めるのです。しかし強さや完全の中では、神様の力も恵みも見えなくなってしまうのです。私達に罪がなかったならば、キリストの十字架の愛は分からなかったでしょう。病がなければ神様が癒し主であられることを知らなかったでしょう。弱い私達をキリストの力が覆って下さるのです。だからたとえ弱さを持ったままでも、神様の力と恵みに包まれていることを感謝しましょう。苦しい時こそ、神様の恵みに包まれているのです。どんな時にも神様に感謝して信仰を成長させましょう。

 

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7月9日礼拝メッセージ「人生をいつまでも楽しむ秘訣」

2017特別礼拝「人生をいつまでも楽しむ秘訣」ピリピ3章5~9節   13~14節

杉田キリスト教会牧師 久保田顕先生

 私達は、どんな仕事やどんな肩書をもった人になれれば幸せになれるのでしょうか。すべてを手に入れた「福山雅治さんのようになりたい・・・」でしょうか。聖書にはそのような条件が満たされなくても、人生の喜びが約束されています。

★使徒パウロは、現代の福山さん以上の肩書と地位を手に入れていました。(4~6節)イエス様を知った時、パウロは「人生をいつまでも楽しむ秘訣」を手に入れたのです。むしろそれまで人生を楽しむ秘訣と思っていた「すべての肩書・地位がゴミとなった」(7~8節)と言っています。その理由は、パウロがキリストを知ったから(8節)です。キリストを信じる価値は、何にも変えられません。キリストを信じ従う人生には、他では埋められない喜びと楽しみが与えられるのです。

それではパウロは一体どこが変わったのでしょう。それは「キリストの家族となった。」(9節)というところにあります。罪人だったパウロは、イエス様の救いに与かり「神の家族」となり、希望と喜びを得たのです。ある一人のクリスチャンが「神様の救いがあれば頑張れる。私には神様という希望がある。」と、喜びに満ちて話された体験談を聞いたことがあります。聖書も「神を信じる者は失望で終わらない」(ローマ10:11)と言っています。私達も、神様と深い関係(神の家族)を築いて喜びをいただきましょう。

★パウロはイエス様を信じてから、その生活はどのように変わったのでしょうか。パウロは過去(罪)の生き方を振りかえらず、前(神・信仰)に向かって進んだのです。そして、人生の最後を迎えるまで、キリストと共に歩み続けたのです。あなたも「人生をいつまでも楽しむ秘訣」をしっかり学んで、信仰の長距離ランナーとなりましょう。

そして神様と一緒にある喜びの人生を走り続けましょう!!

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7月2日礼拝メッセージ「パウロの第三の天体験」

第二コリントNO29「パウロの第三の天体験」12章1~6節

                         仁井田義政 牧師

 パウロの敵対者の偽教師達は、できるだけ自分の優れたことをひけらかして、人々の関心と信頼を得ようとしました。そのような偽教師達から信徒達を守るために、パウロは自分の優れた体験を記さなければなりませんでした。それが第三の天に引き上げられたという体験なのです。

★パウロの第三の天体験は「主の幻と啓示」でした。信仰の世界は皆そうです。私達が救われたのも、私達が素直だから救われたのではありません。神様が救いに導いて下さったのです。常に神様の恵みが先行してアクションを起こされるのです。ですからパウロは、私が第三の天に行って来たからと言って「誇るのは無益なことなのですが」と言っているのです。

★パウロは「14年前に…この人は…第三の天にまで引き上げられました」と記しました。なぜ「私は」と言わないで「この人は」言うのでしょうか。それは人々がパウロを過大評価するといけないからです。しかし、来週話します7節において、この体験者はパウロであることがはっきりと分かります。パウロは、自分が過大評価されたり、偶像化されたり、教祖化されることを積極的に避けたのです。コリントの人たちの異教的文化と気質が、人間を教祖化することに慣れていたからです。

★さてパウロが行った第三の天ですが、第一の天は地球を取り巻く大気圏内ということが出来るでしょう。第二は宇宙。第三は霊的世界でしょう。そして第三の天をパラダイスと言っています。それはイエス様が十字架上で言われたパラダイスのことです。創世記に出てくる「エデンの園=楽園」を七十人訳ギリシャ語聖書では「パラダイス」と訳しました。天国と考えてよいのです。パウロにとって第三の天体験は実体験でした。「しかし誇ることは控えましょう。人々が私を偉大な者と勘違いするといけないからです」と記しています。そして「自分の弱さを誇りたい」というのです。 

★私達も優れた能力を褒められたりすると、自分が何者かであるかのようにふるまったりすることがあります。それがクリスチャンや牧師の命とりとなるのです。それを体験させたり、見せたりして下さったのは神様なのです。 クリスチャンは、自分より見せて下さった神様を誇るべきなのです。

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6月25日礼拝メッセージ「パウロの心の激しい痛み」

第二コリントNO28「パウロの心の激しい痛み」11章28~33節

                         仁井田義政 牧師

 迫害よりも使徒パウロの心を激しく痛めつけていたことがありました。それはいったい何でしょうか。

★教会の外側からの苦難とは、異端や偽教師、同じ民族ユダヤ人からの迫害でした。しかしパウロは、それに耐えながら伝道を続けて来たのでした。しかしそのパウロにも、耐えがたい苦しみがありました。それは、「日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります」(11:28)と今日の聖書の箇所に記されています。偽教師やその教えによって、信仰の弱い人は正しい教えに躓いてしまうのです。その事を聞くことによって、パウロの心は激しく痛み傷つき弱りました。現代の伝道者や牧師にとっても、そのことが心の激しい痛みとなり、最大の心の傷となるのです。

★パウロは、11章1節、17節、21節などで「愚か者達のする自慢話」と思えることをしてみました。しかし、どんなに福音の為に迫害されながら伝道してきたことを話しても、自分を偉大に見せようとしているようでしっくりこないのでした。なぜならば「父なる神が永遠にほめたたえられる方」であることを知っているからです。パウロは、私は使徒だからと言って強い人間ではなく、信徒達の不信仰に悩み、心を痛める弱い人間である」ことを告白しています。そのような弱い自分を使徒として用いて下さっている父なる神こそ、偉大なのですというのでした。私が弱い者という証拠に「ダマスコで迫害を受けた時、城壁の門は閉ざされたので、城壁の窓から籠に乗せられて釣り降ろされて、迫害を逃れました」と記しました。

★今日の御言で心に留めて頂きたいことは、信徒の一人が不信仰になる時、牧師の心は耐えられないほど激しく痛むということです。しかし人が不信仰になる時、本人はいたって元気であるということが多いのです。それは神様の御心に従うよりも、自分の思い通りに行動しようとするからです。その時の不信仰のエネルギーは強いものです。そのような時、パウロの心も牧師の心も激しく痛み、人々への心配が日々押しかかるのです。

★信徒の皆さん、そのようなことのないように、御言にしっかりと立ちましょう。そして正しく信仰を守り、神様の御心に従順に従いましょう。

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6月18日礼拝メッセージ「何を見つめて歩んでいますか」

「何を見つめて歩んでいますか」マタイ14章22~33節 

                          楠 亜紀子師

 今日はペテロの姿を通して、私たちはいつも何を見つめて歩むべきなのかということをご一緒に考えてみたいと思います。

★イエス様は多くの人々の病気を癒されたり、五つのパンと二匹の魚で五千人ほどの人たちに分け与えられる奇跡をなさいました。多くの人々はイエス様のみわざを見て喜び熱狂しましたが、イエス様は弟子たちが群集の熱狂や興奮に巻き込まれてしまわないよう船に乗り込ませ、群集から離れるようにされました。弟子たちが船を漕いでいると逆風と大波に翻弄され、何時間も湖の上で格闘することとなります。弟子たちが大変な思いをしながら船を漕いでいると、イエス様が弟子たちの所へ来られましたが、弟子たちはイエス様が来られてもイエス様だと分からず、かえっておびえてしまいました。まさかイエス様が湖の上まで来てくださるとは思わなかったのでしょう。それと同時に心の中は不安と恐れでいっぱいだったため、一番大切なことを見ることができなかったのではないでしょうか。私たちも困難や悩みだけに目を向けていると大切なことを見失い、最も近くに来て下さるイエス様が分からないということにならないでしょうか。

★28節「するとペテロが答えて言った。主よ、あなたでしたら私に水の上を歩いて…」ペテロはイエス様のお言葉に従い船から降りて水の上を歩きましたが、途中で怖くなり沈みかけてしまいます。ペテロは最初、まっすぐイエス様を見て歩きましたが、しばらくすると風と波に目を向けてしまい、その時に恐れの心が来たのです。そのようなペテロに、イエス様は信仰が薄い人だとおっしゃいました。信仰生活は水の上を歩くのと同じです。目の前にある困難や悩みだけに目を向けていると、不安と恐れの中に沈み込んでしまいます。私たちはどのような時もイエス様から目を離さず、御言をしっかり握り締めているなら必ず向こう岸に辿り着けます。そして、どのような強い風も嵐も、共にいて下さるイエス様が静めて下さるのです。

あなたは今、何を見つめて歩んでおられますか…。風と波を見つめていますか。それともイエス様をまっすぐ見つめて歩んでいますか。

 

 

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6月11日礼拝メッセージ「苦難によるパウロの証明」

第二コリントNO27「苦難によるパウロの証明」11章16~27節

                         仁井田義政 牧師

 コリント教会のある人達は、偽教師たちの自慢話に感動し彼らを信じました。パウロはその人々を救い出すために、あえて自慢話と誤解を受ける危険性のある話をしなければならなかったのです。そのパウロの苦労が、ここに記されています。

★パウロは自分を愚か者と思う者の為に、不本意ながら私は自分を誇って見せると記しました。あえて偽教師の立場に立って、自分を愚かにして、不本意ながら自慢話をするのです。それは「多くの人が肉によって誇っている」からです。その「肉によって」は、生まれながらの能力や家系図のことです。偽教師はそれを誇ったのでした。「私も愚かになって言います。私もヘブル人、イスラエル人、アブラハムの子孫です」とパウロは言いました。

★さらに、自分がキリストの僕である証拠は、キリストの為にどれだけ労苦したかであると言いました。キリストの僕であることは、「狂気したようになって言いますが」と記しています。これだけは絶対にゆずれないという強い意味です。その証拠は何か。キリストの救いを伝える為に、数々の苦難に遭いながら伝道して来た事実です。キリストの為に生きる使徒でなければ、このような苦難の連続に耐えることは出来ないとパウロは主張しました。

★その苦労は「同国民の難。異邦人の難。投獄の難。暴動の難。偽兄弟の難など数々の苦難に遭いながら伝道して来たのです。パウロは私達と同じ人間です。食べ物がなければ飢え、寒さにあえば凍えるし、心配があれば    不眠症になるのです。その弱さを持ちながら、イエス様の福音が各地に伝えられたことこそ、パウロがキリストの僕である事実の証明なのです。

★パウロは福音の為に例えどんな困難があっても、決して諦めないで伝道して来ました。自分の生活の安定や平安よりも、人々を救おうとするキリストの愛に生きて来たのです。パウロは当時の最高権力国ローマの市民権を持っており、ユダヤ人国家であっても手が出せない高い立場にあったのです。それらを教会の為にかなぐり捨てて、夜も眠れぬほどにキリストの教会の為に生きてきたのです。これ以上の使徒としての証明や証拠はありません。

私達もキリストにある者として、パウロのように少しでも苦難による証明を人生の中に持とうではありませんか。

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6月4日礼拝(ペンテコステ礼拝)「なぜ聖霊派は成長したのか」

(ペンテコステ礼拝)「なぜ聖霊派は成長したのか」使徒1章8節

                         仁井田義政 牧師

   今日はペンテコステ記念礼拝です。キリスト教の報道は「世界中で聖霊派が目覚ましい成長を遂げている」と伝えています。その成長の理由は何でしょうか。聖霊のバプテスマによって教会は誕生したのです。そして「エルサレム・ユダヤ・サマリの全土・および地の果てまで」(使徒1章8節)教会は拡大するとイエス様が約束されたからに他なりません。

★今から116年前の1901年、アメリカ・カンザス州トペカの町あったベテル聖書学院の女学生から始まりました。その女性の名はミス・アグネス・オズマンです。その人に始まったというより、その人によって教会に聖霊のバプテスマが戻ったということが正しいでしょう。教会は長い間、聖霊の力を忘れてしまっていました。

★近代の世界の教会は、自由神学の影響を受け、力を失いつつありました。そのような時に、アメリカ・カンザス州のアグネス・オズマンに聖霊が注がれ、一気に宣教の熱意に満たされたアッセンブリー教団が誕生したのです。アッセンブリー教団を代表とする聖霊派の神学は、新生・聖化・神癒・再臨の伝統的教理の上に、聖霊のバプテスマを加えました。神様は20世紀の終わりと21世紀の初頭に、この信仰を持つクリスチャンと教会を用いて教会刷新を続けているのです。

★しかし、今も聖霊派をよく思わない人々がいます。反対者は第一コリント12章から14章の御言をミクロ的に見て反論します。しかしマクロ的に見ますと、14章18節でパウロは「私は・・・多くの異言を話すことを神に感謝しています」と言っています。そし12章から14章の結論というべき39節でも、パウロは「異言を話すことを禁じてはいけません」と言っています。

★教会発祥の原動力となった聖霊のバプテスマは、20世紀終り頃まで消え去っていました。そのために世界の教会は、宣教の無力さを体験したのです。しかしついに教会は、聖霊の力の真理に戻ったのです。今や聖霊派は、世界の教会を動かし始めたのです。現在すでにペンテコステ派は、プロテスタントの中で第1位となりました。特に「世界のアッセンブリー教団の発展は目覚ましい」と報道されています。ですから私達の教会も、しっかりと聖霊のお働きの上に教会の伝道の基礎を置き、聖霊によって成長しましょう。

 

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5月28日礼拝メッセージ「光の天使に偽装して」

第二コリントNO26「光の天使に偽装して」11章7~15節

                      仁井田義政 牧師

 パウロの使命は、「まだキリストの教えが伝わっていない所に、キリストを伝える」ことでした。日本で伝道されたマクリンというアメリカ人宣教師が、そのような人でした。この人が創立した教会が、アッセンブリーには沢山あります。パウロが福音伝道の為にコリント教会を去った後に、コリント教会に入ってきたのが偽教師達でした。パウロは激しくその本性を暴こうと、この書を書きました。

★パウロは、コリントにおいて極貧の中で天幕作りのアルバイトをしながら伝道しました。しかしギリシャ文化ではそのような労働は奴隷の仕事で、有能な哲学などの教師は多くの給料を得るのが当然でした。パウロがコリント教会から給料をもらわなかったのは無能だったからと、偽教師に批判されたのでした。

★なぜパウロは、コリント教会から給料をもらわなかったのでしょうか。コリントの町には、お金の為の新しい教えがあふれていました。新しい宗教や哲学も、その目的があったのです。パウロは「キリスト教もその目的をもってやってきた」と思われたくなかったのです。だからと言って、パウロが霞を食べて生きていたわけでありません。最初は天幕作りをし、その後はピリピ教会からの献金によって生活し、伝道活動をしたのです。

★偽教師たちはパウロの伝えた正統的な教理に縛られず、すこぶる自由に魅力的な教えをしました。それは、サタンが光の天使に変装して人々を惑わすのに似ているとパウロは指摘しました。彼らの目的はお金なのです。牧師や伝道者にとって、お金の為に牧師や伝道者になったと言われる程、屈辱的なことはありません。パウロは第一コリント9章14~15節で、そのようなことを言われるくらいなら「死んだ方がましだ」と言っています。

★偽教師たちは、人々の欲望に応え、幸せに導く天使に偽装してコリント教会に入ってきました。しかしそのような偽教師やその教えに心酔した者達も、その最後は神様の厳しい裁きによって裁かれるのです。私達の教会は成熟した教会となり、どんなに光の天使に偽装した偽教師にも決して騙されず、しっかりと正しい真理の上に立つ強い教会となりましょう。

 

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