アドベントNO.2「エッサイからの若枝」

アドベントNO.2「エッサイからの若枝」イザヤ10章33節~11章2節

仁井田義政 牧師

  預言者イザヤの時代、イスラエルは国の80%近くをアッシリヤに占領され、人々は打ちのめされていました。それが8章22節の文章に現わされている「苦難と闇。苦悩の暗闇。暗黒。追放された者」という言葉です。そのような絶望的な社会に向かって、キリスト誕生の預言が希望を与える光として告げ知らされたのです。

★イスラエルは、アッシリヤ軍によって完膚なきまでに打ちのめされました。それは根元から切られた木のようで、回復は絶望的に見えました。歴史的には、アッシリヤのティグラテ・ピレセルが切ったのです。しかし聖書は「それは主である」と記しています。それは民の不信仰のゆえでした。神様はイスラエルに不信仰の間違いを教えるために、他民族であるアッシリヤ軍を用いたのです。そのことは10章33~34節で示されています。

★しかし預言者イザヤは、「切り倒された根株から、新芽が生えて実を結ぶ」と預言しました。「実を結ぶ」とは、元気になり成長し、木の目的である実を実らせるということです。また「ダビデの若枝」と言わずに「エッサイの若枝」と預言されたのも大切なことです。それは軍事力を持った強い人ではなく、エッサイのように弱い人に見えるキリストによって、世界中に希望を与えるのです。それは「主の霊がその上に留まる」からです。(11:2)

★イザヤ書11章10節に「その日」という言葉が出てきます。「その日」とは、イエス様の誕生の日とも再臨の日ともとれる言葉です。アドベントなので、誕生の日と受け止めてみましょう。エッサイの根であるキリストが来られると、「国々の旗として立つ」と預言されています。つまり世界に祝福が広まるということです。また「彼の憩う所」とは、イエス様を迎える国のことです。イエス様を迎える国や人は、「栄光に輝く」のです。切り倒された株から出た人が、実を結ぶ素晴らしい人になるのです。それはキリストのことです。

★あなたが今、命の力を失っていたとしても、イエス様を信じるその時から、あなたの将来は動き出すのです。そうして必ず多くの実を結び実のある人生となるのです。イエス様があなたの救いの為に来て下さいました。そのイエス様を信じて希望の人生を生き始めましょう。

アドベント第一週「死の陰の地に光が照った」

アドベント第一週死の陰の地に光が照ったイザヤ8章22節~9章2節 

                          仁井田義政 牧師

12月に入りました。今日からアドベントに入ります。アドベントとは、ラテン語の「アドベンティウス」からの言葉で「来る」を意味します。750年も前にイザヤは、イエス様について「死の陰の光」として来られると預言しました。

★「暗の中を歩んでいた民」「死の陰の地に住んでいた民」は、何を意味しているのでしょうか。それは1節の中に「しかし、苦しみのあった所に闇が無くなり」とある通り、人間の苦しみのことです。その苦しみから逃れるために、人々は霊媒や占いのようなオカルト宗教を頼ってしまうのです。

★イエス様が来られると「苦しみのあった所に希望が与えられる」と9章1節に記されています。エルサレムからは遠いガリラヤ地方は、異邦人とユダヤ人が混在する「異邦人のガリラヤ」と軽蔑された地でした。神様から捨てられていると思われていたその地が「神の光栄を受けた」と記されています。イエス様がその地方から出られたからです。

★新約聖書には、イエス様が暗闇で死の恐怖におののく弟子達を助けられたことが記されています。まさに差別の地の中心にあるガリラヤ湖で、この問題が起こったのです。夜中の嵐で誰も助けに来ることが出来ない状況に、イエス様が近づかれ救ってくださったのです

★預言者イザヤは、イエス様の誕生を「闇を照らす大きな光」と預言しました。私達人間は、様々な問題に取り囲まれると希望を失ってしまうことがあります。どんなに目を凝らして出口を見つけようとしても、闇が深くて見つからないのです。イエス様は、あなたの暗闇を照らす大きな光として来て下さいました。イザヤは、イエス様は決して小さな光などではなく「大きな光」であると預言したのです。光と暗闇は共存できません。光は闇を追い出すのです。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ9:2)

イエス様は、私達の暗闇を照らす為に来て下さいました。そのイエス様を心からお迎えしましょう。

11月24日 礼拝メッセージ「東から西の果てまで」

(礼拝メッセージ マルコNO86)東から西の果てまで」16章 別の追加文

仁井田義政 牧師

今日は、マルコによる福音書の最後の追加文です。先週話しました9~20節の追加文より新しいのです。よってマルコによって書かれた可能性がさらに低いと言うことになります。しかし初代教会の信仰の姿がそこに記されていることはだけは事実です。その生き生きとした信仰を学びましょう。

★二千年前の古代社会では、女性達の立場は非常に低いものでした。日本の文化はさらに遅れており、男女の差別は現代にもなくなっていません。聖書は、イエス様の復活を「女性達が、弟子達に伝えた」と記しています。ですが男達は、女性の言うことを馬鹿にして信じなかったのです。女性達から「イエス様に会った」と聞いた後も、絶望してエマオの村に帰る者まで出たのです。女性達が日曜日の朝にイエス様の復活を伝えたのに、弟子達が信じたのは、イエス様が彼らのいる部屋に現れた日曜日の夜でした。女性達の言葉にも、男性と同じように真実があると確信させられたのです。

★今日の聖書の箇所には「彼ら」と言う言葉が出てきます。女性達から「主の復活」を聞いた弟子達のことです。その弟子達によって、世界に宣教が開始されたのです。弟子達によって伝えられたのは、神の言葉です。神の言葉には悪意や悪が全くなく、「きよく」「朽ちることのない」真理そのものです。その神の言葉は「信じる者には現世の救いだけではなく、永遠の命という救いも与えます。

★そのように、弟子達によって世界宣教が開始されました。しかしそれは弟子達だけの宣教ではありませんでした。「その後、イエスご自身、彼らによって、きよく、朽ちることのない、永遠の救いのおとずれを、東の果てから、西の果てまで送り届けられた」と追加文は記しています。復活のイエス様ご自身が、世界宣教を開始されたのだという確信が、初代教会の信仰として満ち溢れていたのです。初代教会は「私達は主のお手伝いをしているにすぎない」という確信に満ちていました。そしてイエス様は、2019年の現代に至るまで、人々を救う活動を続けておられるのです。

★甦られたイエス様は、今も東から西の果てまで宣教を続けておられます。私達も、イエス様が今も働いておられることを信じる信仰に立ちましょう。そして、イエス様と共に宣教に出ていくクリスチャンとなりましょう。

 11月17日礼拝メッセージ「嘆きと悲しみと涙からの救い」

(礼拝メッセージ)「嘆きと悲しみと涙からの救い」マルコ16章9~20節  

                                                                            仁井田義政 牧師

 マルコによる福音書は、16章8節で終わっていると思われます。9節からはマルコが書いたのではなく、別の人が紀元100年頃に追加文として書いたものだと言われています。神の言葉に人の書いた追加文を載せておいて良いのかという疑問は残ります。そのためにかっこ付きで記されています。またこの部分は、破損した部分を補ったのかも知れないという説もあります。そういう訳で、今週と来週は二つの追加文からメッセージを行ない、マルコによる福音書講解メッセージの終了と致します。

★どの物語も「その後にどうなった」という説明があって落ち着くのです。童話の「ウサギとカメ」でも足の遅いカメが、足の速いウサギが油断して寝ている隙に追い抜き、最後は勝利して喜ぶことで完成するのです。ところがマルコによる福音書では、イエス様の復活後「恐ろしかった」で終わっているので、文としては未完成の感が残るのです。

★弟子達は、マグダラのマリヤの「私は今、復活の主に会いました」という知らせを信じませんでした。マグダラのマリヤが、イエス様によって7つの悪霊から救われた人であることはマルコにはなく、ルカ8章2節からの引用です。また、エマオの二人の弟子のこともマルコにはなく、ルカ24章13~35節の引用です。また14節に「弟子達の不信仰とかたくなな心をお責めになった」と記されています。それは叱られたのではなく、お責めになられたことを示しています。

★イエス様の死なれた後「嘆き、かなしみ、泣いて」いたのは、イエス様が殺されてしまった悲しみだけではなく、自分の立場の不安さによってでもありました。イエス様は、人間の「嘆き、悲しみ、涙」に解決を与える為に復活されたのです。またイエス様は、自分を痛めつけた人々に復讐する為にではなく、「嘆き、悲しみ、泣く」人々を救い出し、勝利を与えるために復活されたのです。

★ですからあなたが「嘆き、悲しみ、泣いて」いても、イエス様は、あなたを救い出すことが出来るのです。復活のイエス様は「御言に伴うしるしをもって、御言を確かなものとされた」(16:20)と記されています。かたくなな心を捨て去って、復活されたイエス様を信じましょう。

 11月10日礼拝メッセージ「ガリラヤで待たれる意味」

(礼拝メッセージ) 「ガリラヤで待たれる意味」マルコ16章1~8節

仁井田義政 牧師

今日の聖書の箇所は、イエス様が墓から甦られた驚きが記されています。死んだ人が甦るなどと言うことは、二千年前の人々にとっても尋常なことではありません。イエス様を信じてガリラヤからついて来た女性達にとっても、信じられないことでした。当然、その事実に女性達は驚きました。その驚き慌てふためく女性達に、御使いは「驚いてはいけません」と言われました。しかし女性達は「恐れて、墓から逃げ去った」と記されています。

★イエス様が殺されたことで、男の弟子達は、自分達にも及ぶ可能性のある迫害に怯え、部屋に閉じこもってしまいました。女性達は土曜の夜、つまり安息日が終わった瞬間に行動を開始し、香油を買って日曜日の朝に備えたのです。

★女性達は墓に向う途中で、墓の前の数トンもある石の戸を思い出しました。女性の力で転がすことは不可能です。墓に着くと、すでに石は転がされていました。驚いて墓の中をのぞくと、御使いがいて「驚いてはいけません。あの方は甦られました」と言いました。しかし女性達は「すっかり震え上がって、気も転倒し」逃げ去ってしまいました。イエス様が「三日目に甦る」(マルコ10:34)と言われた御言を信じていなかったからです。

★御使いは、イエス様があなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこであなたがたに会いますとも言いました。それはペテロの裏切りと関係しています。「あなたは今夜、私を知らないと三度言います」と言われたことと関係しています。ペテロはガリラヤの漁師でしたが、三年前に従ったのです。結末は裏切りでした。しかし復活のイエス様は、ペテロと他の弟子達をガリラヤに戻し、信仰のやり直しのチャンスを与えてくださったのです。

★イエス様の御体は、墓の中にはありませんでした。甦られたのです。そのイエス様はガリラヤに先回りして、ペテロ達に「さあ、ここからやり直そう。ここから始めよう」と言って下さる御方なのです。イエス様は墓から甦られました。そしていつも私達と一緒におられるのです。日曜日は、イエス様が甦られた記念の日です。そのイエス様を心から礼拝しましょう。

 11月3日礼拝メッセージ 「アリマタヤのヨセフ」

(礼拝メッセージ) 「アリマタヤのヨセフ」マルコ15章42~47節

仁井田義政 牧師

今日の聖書の箇所は、イエス様の埋葬の様子を記している所です。そこに出て来るのが、アリマタヤのヨセフです。彼はイエス様を死刑に定めた側にいた議員の一人でした。しかし彼は、密かにイエスを信じていました。そのことを公けにするのを躊躇していたヨセフが、イエス様が十字架の上で死をむかえられると、勇気を出して「イエス様の死体を引き取らせてください」と願い出て、総督ピラトから了承を取り付けました。

★その時のヨセフは、「思い切って」と記されています。それはヨセフの決意でした。彼は議員という立場であり、その立場が彼の家の経済も支えていたことでしょう。彼には家族を守る責任もあったでしょう。ですからイエス様を密かに信じていても、イエスの殺害に表立って反対できないでいたのでしょう。エルサレムにイエス様の墓があるわけもなく、このままでは野ざらしにされてしまうでしょう。時は安息日が始まる夕方の時刻であり、もう心の中だけの信仰では我慢できず、「思い切って」申し出たのです。

★当時の裕福な人は、自分と家族の為に大きな洞窟の墓を作りました。その墓に、最初にイエス様を葬ったのです。その時、もう一人の隠れた弟子ニコデモが葬りの為に、没薬とアロエを混ぜた物を三十キロも持って来ました。十二弟子達は、自分の身の安全のために、十字架のイエス様を見捨てて逃げてしまっていました。また当時、政治的にも社会的にも何の力もない女性達が、途方に暮れてイエス様の死を見ていました。そのような中、ヨセフは自分と家族の為に作った墓に、イエス様を家族として葬ったのです。

★イエス様を埋葬したアリマタヤのヨセフは、イエス様を十字架に付ける側の人間でした。そのヨセフがイエス様の前に出てきたのです。ヨセフは、自分と家族の為の新しい墓に、まずイエス様に入って頂いたのです。家族として受け入れたのです。イエス様の十字架の時に逃げてしまっていた十二弟子達も、その後イエス様の愛によってクリスチャンとなりました。イエス様はその様に、全ての人が救われることを願っておられます。イエス様はあなたをも愛しておられます。あなたもアリマタヤのヨセフのように、思い切ってイエス様を信じる者になりましょう。

 

(10月27日礼拝メッセージ) 「この方は神の子であった」

 (礼拝メッセージ) この方は神の子であったマルコ15章33~41節  

                       仁井田義政 牧師

 先週に続き、イエス様の十字架の箇所です。先週は、イエス様が十字架につかれた午前9時から12時までのところでした。今日の箇所には、12時から午後3時までの十字架上のイエス様のお姿が記されています。特に、午後3時にイエス様が叫ばれた言葉を中心にお話しいたします。

★聖書には、12時になった時「全地は暗くなった」と記されています。突如として、雲が湧き出て一帯を覆ったのです。それは神様の怒りを表わしています。聖書には、暗闇が神様の怒りとして幾度も記されています。出エジプト記10章21~22節も、暗闇での裁きでしたし、イエス様の話された「トラントの譬え」でも、不忠実な僕の裁きも「闇に放り出だされる」と言っています。暗闇は、人々をも神の御子をも覆いました。そこに神様から捨てられている人間と、人間と連帯しておられるイエスの姿があるのです。

★午後3時になると、イエス様は「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と突然、沈黙を破って叫ばれました。イエス様は、十字架上で7つの言葉を話しておられます。マルコはその内の二つを記しています。「エロイ・・」はヘブル語でもギリシャ語でもありません。イエス様が話しておられたのは、アラム語です。それがそのまま、初代教会で大切にされていたことがわかります。イエス様の十字架後30年くらいの教会でも、イエス様のこの十字架の言葉が大切にされていたのです。

★イエス様の死刑を執行したローマの百人隊長は、イエス様の十字架の正面に立って見ていました。イスラエル人から見れば、百人隊長は異邦人であり、聖書も神も知らない無知の人であると思われていました。その百人隊長が、イエス様を「この方はまことに神の子であった」と告白したのです。マルコによる福音書は「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」(1章1節)で始まっています。つまり、イエス・キリストが神の子であると言うことを明らかにするために書かれたのです。ローマ人の百人隊長が、異邦人として世界で初めて「この方はまことに神の子であった」と告白したのです。百人隊長が「イエス様の正面に立って」いたからです。あなたもイエス様の正面に立って、真のイエス様を見る人になりましょう。

(10月20日礼拝メッセージ) 「主は虫けらのように」

(礼拝メッセージ) 「主は虫けらのように」マルコ15章21~32節 仁井田義政 牧師

 今日の聖書の箇所は、イエス様がゴルゴタの丘に引いて行かれ、十字架が立てられるところです。それは神の子イエス様が、虫けらのように扱われるところです。そのお姿を見るようにと、聖書はその様子を記しています。

★当時は死刑の判決を受けた者は、十字架を背負って街中を歩かされました。それは群衆に見せしめとするためでした。すでに屈強な兵隊たちから鞭と暴力を受けていたイエス様は、そのゴルゴタの道で幾度も倒れました。そこにクレネ人シモンがいました。名前がシモンというユダヤ人名なので、エルサレムの過越しの祭に来たと思われます。兵隊は無理やりイエスの十字架を背負わせました。この人もクリスチャンになったと思われます。それは福音書が書かれた時には、彼の二人の息子たちは有名なクリスチャンだったと思われるからです

★イエス様が死刑場に着くと、兵隊はイエス様に没薬を混ぜたブドウ酒を与えようとしました。それは鎮痛剤で受刑者への情けなのです。しかし、イエス様はそれを許否されました。それは激痛をそのまま受け取るためです。人々は、激痛に苦しむイエス様をあざ笑いました。道行く人々も、祭司長も民衆も「お前は『神の子』とか『王』とか言ったのだから、自分を救え」と言って笑ったのです。十字架の上に「ダヤ人の王」と書かれた罪状書が一層イエス様の悲惨さを現わしていました。

★虫けらのように扱われる姿こそ、救い主のしるしでした。(詩篇22:6~8) 虫けらのように、ゴキブリのように忌み嫌われて、容赦なく打ち叩かれ、捨てられるイエス様が、旧約聖書に預言された救い主であったのです。上記の詩篇の中には「頭をふり」まで記されており、それが成就したのです。人々は「神に救い出させよ、彼のお気に入りは神なのだから」と言ってはやし立てましたが、イエスは救い出されることを一切願いませんでした。苦しむことを最後の一滴まで漏らすまいと、苦しみを追い求められたのです。

★この御方を人々はあざ笑いました。イエス様はその中で十字架についておられたのです。私達は、そのお姿を今日の礼拝で見たのです。それでも「十字架から降りてきて、自分を救ってみろ。そうしたら信じよう」と言えるでしょうか。イエス様は絶対に十字架から降りて来られません。ですから私達は、イエス様をあざ笑う人ではなく、信じる人になりましょう。

10月13日礼拝メッセージ「茨の冠の王イエス」

(礼拝メッセージ)「茨の冠の王イエス」マルコ15章16~21節

                        仁井田義政牧師

 ピラトの官邸において、イエス様は政治犯として極刑が確定しました。ローマに対する政治犯の極刑は、十字架刑です。ローマ人にとって十字架刑に決まった者は、人間として扱いませんでした。イエス様も兵士達のおもちゃにされたのです。

★ピラトの庭で兵隊に囲まれたイエス様は、既に三回の裁判にかけられていました。①大祭司②領主ヘロデ③ピラトの官邸での裁判です。その裁判の後、イエス様は激しい鞭打ちにあっています。この時に命を落とす者がかなりあったと言われています。兵隊に渡されたイエス様は、肉体的限界であったことに間違いありません。

★ローマ兵に渡されると、全部隊が招集されました。その目的は、イエスをいたぶり楽しむためでした。全部隊とは、ギリシャ語の「スペイラン」で600人の兵士から構成されていました。その半分と見ても300人が集まったのです。兵士達はイエス様に紫のマント、茨の冠、王の権威の象徴である笏の代わりに葦の棒を持たせました。そうして「王様万歳」とからかったのです。

★イエス様は、大祭司の庭で想像を絶する屈辱を受けました。(14:65)今回で二度目です。神の御子イエス様が、この屈辱にじっと耐えられたのです。一言も兵隊への悪口も言われなかったし、命乞いもしませんでした。何故でしょう。それはイエス様が、私達の罪を背負って身代わりとなり、罪の裁きを受けているという自覚と確信に満ちていたからです。

★イエス様は私達の救いを完成させる為に、御自分の自尊心も、神の子としての名誉も、全て犠牲にされました。肉片が飛び散る鞭を受けながらも、300人から600人からなる兵士達の嘲笑を受けながらも、そのあざ笑いを一身に受けて耐えられたのです。まるでそのようにされるのを自らが望んでおられるかのようです。そうです。イエス様はそれを強く望んでおられたのです。私達人間のあらゆる苦痛を自分の身に引き受けて下さっていたのです。

★私達はそのイエス様の愛に応えるために、私達も苦痛を受ける覚悟で生きているでしょうか。むしろ少しの苦痛でも引き受けることを避けて生きていないでしょうか。私達もイエス様の為ならば、喜んで苦痛を引き受けるクリスチャンとなろうではありませんか。

10月6日礼拝メッセージ「主の沈黙とピラトの驚き」

(礼拝メッセージ)主の沈黙とピラトの驚きマルコ15章1~15節

仁井田義政牧師

イスラエルの最高裁で、イエス様の死刑が確定しました。その後、大祭司によってローマの総督ポンテオ・ピラトの官邸に送られました。イスラエルはローマの植民地だったので、ピラトによる裁判を受けなければならなかったのです。ピラト官邸における裁判も、不思議な裁判となりました。それはイエス様の沈黙にありました。今日はそのイエス様の沈黙と、そこから見えて来る救いの真理に心を留めましょう。

★大祭司の庭での裁判の後、イエス様は人々からリンチに遭いました。もう既に顔も、見るも無残に腫れあがっている状態だったでしょう。イエス様は縄で縛られて、犬のようにピラトの前に立たされたのです。ピラトには「イエスはユダヤ人の王と言っている」と、その罪状が伝えられていたはずです。罪状は、大祭司の庭の裁判では「自分を神と等しいと言った」という宗教的罪でしたが、ピラトの所では「イエスはユダヤの王と言った」という政治犯に変えられていました。

★イエス様はピラトの「あなたはユダヤ人の王ですか」との質問に、はっきりと「その通りです」と答えられました。大祭司の裁判でも「あなたは神の子キリストか」との問いに「私はそれです」とはっきりと答えられました。両裁判の共通していることは、その一言以外は「沈黙」をし続けたことです。裁判で被告人は、必死になって自己弁護するものです。

★それにしてもなぜイエス様は、沈黙を続けられたのでしょうか。それは、イエス様を裁こうとしている御方が、父なる神様であることを知っておられたからです。イエス様は、私達の全ての罪を身代わりとなって引き受けて下さったのです。そのために父なる神様に裁かれるのです。自分を弁護して無罪とでもなれば、私達人間を救う神様の計画は崩れ去ってしまうのです。

★ですから、被告人の沈黙が続く前代未聞の裁判となったのです。ピラトはその沈黙に驚きました。私達も、今日の御言に現わされているイエス様の沈黙に驚かなければなりません。イエス様は私達をそれほど愛しておられるのです。そのイエス様の愛を受け取る人になりましょう。