9月15日礼拝メッセージ「人々の恐れの中に立つイエス」

(礼拝メッセージ)「人々の恐れの中に立つイエス」マルコ14章43~52節

 仁井田義政牧師

今日の御言は、イエス様が逮捕されるところです。ユダは既にイスラエルの指導者たちや、ローマの兵隊たちと厳密な打ち合わせをしていました。人間の行動は、常に恐れが動機となり得ます。ゲッセマネの園にも、人間の様々な恐れが渦巻いています。しかしイエス様には、全く恐がありませんでした。その偉大なお姿を、今日の御言で見ていきましょう。

★なぜイエス様を捕えるために、剣やこん棒を持って来たのでしょう。イエス様が怖かったからです。暗闇でイエス様を捕らえ損ないでもしたらどうなるかとユダも怖かったでしょう。兵士達にイエス様が確実にわかるように、「わたしが接吻する人がイエスだから、その人を捕らえよ」と打ち合わせをしていました。イエス様の弟子達も先ほどまで眠かったのに、ペテロは眠気から覚め戦闘モードに入り、兵士に剣で切りかかりました。ペテロも怖かったのです。また亜麻布一枚まとった青年が丸裸で逃げて行ったことが、今日の聖書の箇所に出ています。怖かったからです。

★祭司長・律法学者・長老達も、イエス様に自由に行動されることを恐れました。だから暴力によってでもイエス様の言動を封じようとしたのです。ローマ皇帝も、その支配地域でイエス様と弟子達が暴動を起こす可能性のあることが怖かったのです。だから軍を用いてでもイエス様を逮捕したのです。弟子達は弟子達で、イエス様とこれ以上一緒にいると自分達の身に危険が及ぶことを恐れました。彼らも逮捕されたなら拷問と死が待っていることが怖かったのです。だから逃げたのです。

★しかしイエス様だけ恐れませんでした。ペテロが切りかかって切り落とした兵士の耳を、奇跡的な御力で元通りに治してあげました。また自分の弟子に、暴力を振るうことを許しませんでした。イエス様は御自分の死で、聖書の言葉が実現すると確信しておられたのです。 

★人々の目には、イエス様は自分を「神の子キリスト」と言いながら、自分の命を守る力さえない人のように見えました。弟子達もそうですだからみんなイエス様を捨てて逃げたのです。人々の心の中には、それぞれの立場で恐れが存在していました。その恐れが、一人の人の殺害にまで向かってしまったのです。イエス様の恐れない姿をゲッセマネの園で見ることのできる人は幸いです。イエス様は偉大な神の御子です。迷いも恐れもない真実な救い主なるキリストです。そのイエス様をしっかりと信じましょう。

9月8日礼拝メッセージ「目を覚ましなさい」

(礼拝メッセージ)「目を覚ましなさい」マルコ14章32~42節 仁井田義政牧師

最後の晩餐の後、イエス様と弟子達は、オリーブ山のゲッセマネの園に向かいました。この聖書の箇所は、何度読んでも心が締めつけられます。眠る弟子達と「目を覚まして祈られるイエス様」の姿に心が痛むのです。

★イエス様はいつもの祈りの場所であるゲッセマネの園に着くと、苦しみ始められました。それは「悲しみの為に死ぬほど」だとのイエス様の言葉が記されています。人間の罪に対する神の裁きは、生半可なものではないのです。その苦しむイエス様を「目を覚まして祈って」見ていなさいと言われました。イエス様は弟子達にも一緒に祈って欲しかったのです。

★ではイエス様は死が怖かったのでしょうか。弟子でも勇敢に平安の中で死んで行った殉教者はたくさんいます。ステパノは石打ちの刑に遭いましたが、その迫害の中で勇敢に死んでいきました。イエス様はステパノより臆病なのでしょうか。そうではありません。ステパノは神に愛されて殉教の死を受け入れ、イエス様は神に捨てられて死を迎えるのです。

★弟子達は、イエス様の苦しみの意味が分かりませんでした。それはまさに人間の姿であり、気付けない私達の姿でもあるのです。イエス様は「アバ父よ、私からこの杯を取り除いて下さい」と祈られました。それほど父なる神に捨てられることは、耐えがたいことなのです。弟子達は、そのようなイエス様の苦しみを理解できず眠ってしまいました。神から捨てられると言うことが、それほど深刻なこととはどうしても思えないのです。

★イエス様は祈り終えられると「時が来ました」と言われました。「時」それは一点のことです。旧約時代から、イエスの誕生からの全歴史は、この一点を目指して、つまりこの時を目指して時間は進んできたのです。ついにその時が来た!人間の罪のためにイエス様が十字架に着けられる、それが神様の計画でした。祈りの中で、イエス様はついに確信されたのです。

★眠さに負けて祈らなかった弟子達は、この大切な真理を知ることが出来ませんでした。しかし祈るイエス様は、その真理を疑いや迷いを挟むことが出来ない領域で知ったのです。あなたはイエス様の十字架の話を聞いても、人ごとのように眠っていないでしょうか。イエス様はあなたに「まだ眠っているのですか」と言われます。祈りの中で霊的な目を覚まし、ゲッセマネの園で、私達のために苦しまれるイエス様に感謝しましょう。

9月1日の礼拝メッセージ「声も出せない求めに」

(礼拝メッセージ)「声も出せない求めに」ルカ8章43~48節

                                                      仁井田幸子師

8月11日にお話した十人の病める人達は、遠くから声を張り上げてイエス様に癒しを求めました。しかし今日の聖書に出てくる女性は、声も出せずにそっと、しかも必死にイエス様に近づきました。

★この女性は十二年間の長きにわたって出血を伴う婦人病を患っていました。レビ記15章にあるように、この病気の人は「汚れた者」として神殿の礼拝も他人との接触も禁じられていました。そのうえ多くの医者からひどい目にあわされ財産の全てを使い果たし(マルコ5:26)、肉体的にも精神的にも宗教的にも経済的にも苦しみの中にありました。

★そのような苦しみと悲しみの中にあったこの女性がイエス様のことを耳にし、必死の思いで群衆にまぎれ込み、イエス様の衣の裾に触りました。自分の切なる願いを声も出せずに、ただただ触ったのです。ところが、たちどころに出血が止まり、癒されたことを知るのです。

★この時、イエス様はご自分の体から力が出ていったことを覚えられ、「わたしに触ったのは誰ですか」と群衆を見回されました。(通常、イエス様のご意志によって癒されています)女性は隠しきれず震えながら進み出て御前にひれ伏し、自分の身に起こった素晴らしいことを全て話しました。本来ならば、他人との接触も禁じられており群衆の中に紛れ込むことも許されない身で、イエス様の衣の裾に触ってしまったため、罰せられても仕方がないと恐れて御前に出たこの女性に、信じられないイエス様の言葉がかけられます。

★イエス様は、長い間深い悲しみにあったこの女性に「娘よ!あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」との慰めに満ちた最高の祝福を与えられました。長い間婦人病を患っていたため、女性としての自覚さえも失っていたこの女性に、「娘よ!」という言葉によって女性としての自信も与えて下さいました。また群衆の前に出されたことによって、この女性の完治の事実を群衆に認めさせることも出来、そして何よりもこの女性の信仰を明らかにし、神様の平安と祝福を与えることが出来ました。

★さて私達の求めはどうでしょうか。すぐにあきらめてしまうことはないでしょうか。声も出せない程の苦しみから必死で主の衣に触ったこの女性のように、信仰をもって切に求めるものになりましょう。

8月25日礼拝メッセージ「崩れ去る自信」

(礼拝メッセージ)「崩れ去る自信」 マルコ14章27~31節

                                                   仁井田義政 牧師

 最後の晩餐を終えた弟子達は、ゲッセマネの園へと向かいました。エルサレムは家が密集していて庭が造れず、金持ち達は谷を挟んだ向かい側に庭園などを造ったのです。イエス様はそこをしばしば祈りの場とされました。イエス様の一番弟子ペテロが、イエス様の一番近くを歩いています。イエス様は「あなたがたは躓きます」と話し始められました。それは「注意せよ」とのイエス様の教えでした。

★イエス様は、ゼカリヤ書13章7節の預言を引用し、聖書の預言の通りに「みな躓く」と話されました。するとペテロが「たとえ全部の者が躓いても私は躓きません」と言いました。イエス様はそれを聞いて「今夜、鶏が二度鳴く前に、私を知らないと三度言います」と言われました。三度とは「完全に」という意味なのです。

★ペテロは「力を込めて」言い張りました。他の弟子達も皆そう言いました。ペテロと弟子達の過剰な自信です。ペテロの「私だけは」ということと、「私達だって」という自信は、クリスチャンにとってもっての外です。立派に見えて他を批判しているクリスチャンが、最も弱いのです。

★イエス様は、これからゲッセマネで起こる逮捕と、十字架の死も敗北とは思っておられません。ゲッセマネでのユダの裏切り、そして逮捕、不当な裁判、十字架の死、と続きますが、必ず復活すると言われています。そして、弟子達より早くガリラヤに行き、そこで弟子達の裏切りの弱さを拭い去ると約束されました。その言葉のようにイエス様は復活された後、弟子達のいるガリラヤ湖のほとり現れ、ペテロに「三度私を愛するか」と言われました。三度「知らない」と言って裏切ってしまったペテロから、三度「私はあなたを愛します」との告白を引き出すためでした。

★ゲッセマネの園に向かう途中の暗い夜に聞いたイエス様の教えは、私達クリスチャンにとって重要です。イエス様に躓いて、イエス様から離れてしまう危険性と弱さがあるのです。それは決してペテロだけのことではありません。クリスチャンの全員です。ガリラヤ湖でのペテロのように、弱い自分に対するイエス様の愛に触れるのです。自分の確信よりも、イエス様の愛を確信するクリスチャンになりましょう。

8月18日礼拝メッセージ「主の晩餐とその意味」

(礼拝メッセージ)「主の晩餐とその意味」マルコ14章22~26節

仁井田義政 牧師

こんにち聖餐式は、世界中の教会で行なわれています。それでは聖餐式はどれほどの意味があるのでしょうか。私達は、主の行なわれた主の晩餐に戻って、その真の意味に立ちかえりたいと思います。

★この日の晩餐は、既に前菜が終わりました。前菜は食欲増進のために出されます。日本では「お通し」と言われるのがそれに当たります。少量のパンも出されていて、ソースのようなものにつけて食べたのです。それが終わると、その食事の主催者が祈ってパンを分けるのです。分け終わると、今度は神様に感謝してぶどう酒を分ける。それをイエス様が主催されました。

★イエス様はパンを裂かれた時、「これは私の体です」と言われました。またさかずきを取って「これは、私の契約の血です」と言われました。聖書における神様との契約の時には、羊が殺され、その肉は分けて食べられました。イエス様は、契約の時の羊肉の意味をパンに移し、契約の時の羊血の意味をぶどう酒に移して宣言されました。さらにはその契約の時に殺される子羊を御自分の十字架の死に譬えておられるのです。そして翌日殺されるのです。

★イエス様は「この中に私を裏切る者がいる」と言われました。弟子達は「まさか私ではないでしょう」と不安になりました。その後十二人の弟子達は、イエス様を裏切ってしまうことになりました。しかし弟子達は、その後の教会の聖餐式に加わり続けました。加わることのできなかったのは、自殺してしまったユダだけです。疑い深い弟子のトマスを初め十一人の弟子達はイエス様のご復活後もみな聖餐に加わったのです。

★そうしてみますと、晩餐に与かる資格について、何の罪もない者だけが与かる資格をもつとの考えは、間違っていることを意味しています。それとは反対に、信仰の面で弱さを感じている人が受けるべきなのです。そうしてその弱さを、イエス様の裂かれた御体と、流された十字架の血潮を、不完全な我が身に受け入れることによって、イエス様の命に満ち溢れて頂くのです。こんな私さえイエス様は、神様の愛の中に招き入れて下さっていると、感動に包まれてその愛を受ける、それが聖餐式です。あなたも、イエス様が主人として招いて下さる晩餐とその意味を深く知り、晩餐(聖餐)に与かりましょう。

8月11日礼拝メッセージ「九人はどこにいるのか」

(礼拝メッセージ)「九人はどこにいるのか」ルカ17章11~19節 仁井田幸子師

十人の癒しを通して、私達の信仰姿勢を見つめましょう。

★この皮膚の病(ツァラアト)の人たちは、どのような状況にあったのでしょう。レビ記13章に細かく記されているように、祭司は、この病の人の患部を見て確かめ「汚れている」と宣言します。そののち宣言された人は、衣類を引き裂き、髪の毛を乱し、その口ひげをおおって「汚れている!汚れている」と自ら叫ばなければならず、その上、家族を離れ一人で人里離れた所に住まなければなりませんでした。また神様から呪われた者という偏見によって差別されていました。ですから、肉体的にも精神的にも霊的にも苦しみの中にあったのです。

★彼らが追いやられてひっそりと住んでいた村をイエス様が通られたのです。彼らは、その病のためにイエス様に近付くことはできませんでしたが、遠くから声を張り上げ「どうぞ憐れんでください」と求めました。幸いなことにイエス様は目を留められ、祭司の所に行って患部を見せ「きよめ」を宣言してもらうよう(レビ記14章)促されました。

★十人は、イエス様の言葉を信じ、祭司のもとへ向かいます。その途中で一人のサマリヤ人は、病が癒されたことと、小さな自分に素晴らしいことをして下さったことに感動し、大声で神をほめたたえながら引き返し、イエス様の足元にひれ伏し感謝したのです。サマリヤ人は、ユダヤ人から偶像礼拝の民族として軽蔑され嫌われていました。しかし、神様を信じ律法を重んじていると自負するユダヤ人の九人は、戻って来なかったのです。肉体の癒しだけで満足してしまったのかもしれません。イエス様は、「十人清められたのではなかったのか。他の九人はどこにいるのか」と言われました。そしてそのサマリヤ人に「あなたの信仰があなたを直した(救った)のです。」と最高の誉め言葉をかけて下さいました。人からも神からも嫌われていると思い、悲しくひっそりと生きてきた彼に、イエス様は肉体と心の癒しを与え、神から祝福された者という霊的な喜びも与えて下さったのです。

★さて、私達はどうでしょうか。九人のように自分の願いが叶えばそれで良しとしてしまうのでしょうか。それともこの人のように、主のしてくださったことに感動し、感謝することが出来るでしょうか。イエス様から「どこにいるのか」と言われないように、感謝する者となりましょう。(詩篇103:1-5)

                                                                    

8月4日礼拝メッセージ「裏切りと人間の災い」

礼拝メッセージ「裏切りと人間の災い」マルコ14章17~21節

仁井田義政牧師

過ぎ越しの祭の楽しいはずの晩餐会が始まりました。しかしその晩餐会は、イエス様と弟子達の最後の食事でした。イエス様は、ユダの裏切りを思い留まらせようとされました。その愛が、イエス様の心を痛めるのです。そのイエス様の葛藤が、今日の聖書のメッセージなのです。

★イエス様を裏切るユダの行動は、既に開始されていました。ある女性が三百万円もするナルドの香油をイエス様に注いだ時「なぜ三百万円もするものを注ぐのか」と怒りました。その後にイエス様を売るため、イエス様の命を狙う「祭司長達」の所に行ったことが記されています。(14:10-11)そして素知らぬふりをして晩餐会に出たのです。

★イエス様は食事をしている時に、「あなたがたの一人が私を裏切ろうとしている」と言われました。しかしそれが誰であるかは言われませんでした。ですから弟子達は「まさか私では」と心配になったのです。イエス様は「私と一緒に鉢に浸している者です」と言われました。これは詩篇41篇9節の引用で、決して裏切る者の特定ではなかったのです。

★イエス様は「確かに人の子は、自分について聖書に書いてある通り去って行きます」と言われました。「聖書に書いてある通り」とは、「私の十字架は罪の身代わりとして既に聖書で決まっている、ユダ!お前の裏切りがなくても、決まっているのだ」と言いたかったのです。イエス様は、最後の最後まで裏切り者のユダの名を明かさず、悔い改めて救われる時を与えました。そして「人の子を裏切るような者は生まれなかった方がよかったのです」と、悔い改めを促したのです。

★イエス様は、ユダの裏切り行動の全てを知っておられました。イエス様はそのユダにさえも、即座に裁きや災いを与えることはなさいませんでした。イエス様は、悔い改めを促しその人を愛し続けられるのです。そこに、私達には計り知れないイエス様の心の痛みがあるのです。ですから、ユダのような裏切り者になってはならないのです。私達をどこまでも愛して悔い改めるチャンスを待っておられるイエス様を裏切るような者は、生まれなかった方がよかったのです。私達はイエス様の愛をしっかりと受け留め、イエス様への信仰で人生を貫きましょう。

7月28日礼拝メッセージ「最後の晩餐とその準備」

礼拝メッセージ「最後の晩餐とその準備」マルコ14章12~16節

                  仁井田義政牧師                    

子達は、イエス様から過ぎ越しの食事の準備をするように言われました。その準備とは、過ぎ越しの祭で毎年行なう夕食でした。それが、イエス様にとって弟子達との最後の晩餐となったのです。

★イスラエルでは、一日は夕方から始まります。ですから夕方から金曜日が始まっていました。木曜日の晩餐には、神様に捧げて祈って頂いた羊の肉を持ち帰って、過ぎ越しの祭の晩餐をするのです。神様がイスラエル民族を救って下さったことを感謝する祭なので、一人で食べてはいけませんでした。子羊の肉一頭の丸焼きなので、十人から二十人で食べることが決められていました。また食べ残すのは罪になるので、全て完食しければなりませんでした。ですから十人から二十人が必要だったのです。

★弟子達は、その多人数の食事をどこでしたらよいか心配しました。町は大切な祭でごった返していたので、部屋の確保は至難の業でした。しかし、イエス様は「町に行って水がめを運んでいる男を見つけたら、その人が場所を貸してくれる」と言われました。通常、男性は革袋を用いるので、水がめを運んでいる男性を見つけやすかったのです。

★イエス様は「その男の家に、イエス様を入れて十三人の食事の出来る所が用意されている」と言われました。また「席が整った二階の部屋を見せてくれる」と言われました。「席が整った」は、言語では「じゅうたんが敷かれて」という意味です。神様が全てを用意しておられたのです。

★町に出て行ってみると「イエス様の言われたとおり」でした。私達人間には一分先のことさえ見ることが出来ませんが、イエス様には全てが見えるのです。そして私達の為に、過ぎ越しの食事を用意して下さるのです。しかも、この食事の後に数時間で捕らえられ、鞭打たれ、つばをかけられ。十字架で罵声を浴びせられ死にゆくご自分を知っておられてのことなのです。

★その最後の晩餐の時も、ユダを先頭にペテロもヨハネもタダイも、イエス様の十字架の救いの情熱を知りませんでした。私達とイエス様の間にそのようなずれはないでしょうか。イエス様の言葉は16節にありますように「イエスの言われた通り」に信じて、私たちは神様の祝福を体験する人となりましょう。

7月21日礼拝メッセージ「美しいことをしてくれた」

礼拝メッセージ「美しいことをしてくれた」マルコ14章1~11節

                       仁井田義政牧師                    

 今日の聖書の箇所は、遠い昔にエジプトの奴隷であったイスラエルの民が、神様によって解放されたことを感謝する祭のところです。しかしその祭の最中に、エルサレムの指導者達の心は「イエス様」に対する悪意に満ちていました。そのような人間達の悪意の中で、ほっとするような出来事が起きました。そのことが、私達に対する美しい信仰の模範となったのです。

★祭司長達は大切な「過ぎ越しの祭」は上の空で、イエス様殺害の計画で心が支配されていました。「イエスを騙して」とあるように、目的のためには手段を択ばない悪意に満ちた殺害計画を練っていたのです。そしてユダも、イエスを売ろうとねらっていました。(14:10-11)

★そのような状況の中で、一人の女性が三百万円程もする香油をイエス様に注いでしまいました。その香油は、遠くインド辺りから輸入した物で、とても貴重なものでした。それを見ていた人々は、その「香油を売って貧しい人々に施せばよいのに」と憤慨しました。それは一見正論に思えます。このことを非難した一人は、弟子のユダでした。(ヨハネ12:4)それに対してイエス様は、「貧しい者に施すことは、あなたに施す気持ちさえあればこれからいつでもできます」と言われました。

★この女性は、石膏の壺を割ってイエス様に注ぎました。壺の口から流れ出るのが待てなかったのです。それは惜しむ心が全くなかったことを表わしています。どんなに深くイエス様の愛を知り、感謝していたかを表わします。十字架で子羊として殺される救世主に香油を注いだのです。ヘブル語のキリストを表す「メシヤ」という言葉は、「油注がれた者」と言う意味です。イエス様は文字通り、油注がれた者となりました。

★イエス様には、この女性の行為がどんなに嬉しかったことでしょう。自分を救って下さったイエス様に喜んで頂こうと香油を注いだこの女性を、イエス様は「出来る限りのことをしたのです」と言われました。また「この女性は立派なことをしてくれたのです」とも言われました。「立派な」と言うギリシャ語は「カロス」で「美しい」という意味です。この女性のしたことは美しい行為だったのです。それは、この女性の礼拝の姿勢は美しいという意味です。私達もこの女性に習って、イエス様に喜ばれる礼拝者になりましょう。

7月14日礼拝「あなたが神の使命に立ちあがる時」

「あなたが神の使命に立ちあがる時」第一サムエル記16章12~13節

郡山キリスト教会牧師 三箇義生牧師

今日は福島県の郡山市から、礼拝と信徒訓練会の特別講師として三箇義生先生をお招きいたしました。神様が用いておられる素晴らしい先生です。

本日、ダビデを通して神様のご計画を学びたいと思います。 三箇義生牧師

★「神は使命を与えられる」神様はこの世界を目的と計画を持って創造されました。そこには意味のないものは、一つもありません。私たちも生まれる前から神様に知られており、目的と計画の内に創造されました。そして、キリストの贖いによって本来の目的と計画に歩むように再創造されたのです。ダビデも神様の目的のためのご計画にあって、イスラエルの王となる召しを受けました。

★「神は使命を全うさせるために聖霊を注がれる」預言者サムエルは、神様からエッサイの息子ダビデに油を注ぐように命じられました。角から流れ落ちる油がダビデの頭に流れ落ちた時、目に見えない霊的な世界において、聖霊がその日以来激しく下り、彼の人生が神のご計画に歩むように働き始めました。

★「神は賜物を用いられる」神様はダビデの応答以来、彼の知らない所で彼の人生を動かし始めます。ダビデは竪琴の優れた奏者でした。神様はその与えられた能力を用い始めます。サウル王を慰めるため、彼は王宮へと招かれました。彼の賜物は、神によって用いられるようになったのです。

★「神は忠実な歩みを活かされる」次にダビデが神に導かれたのは、父や兄達に仕える毎日からのスタートです。羊飼いとして任された羊をライオンや熊からから守り、安全に育つ環境を整えました。そして戦場にいる兄達に弁当を届けるように命じられ、それを届けました。ダビデは任された働きに忠実でした。

★「信仰によって立ち上がる時」戦場で神を侮るペリシテ人ゴリヤテを見、彼を倒すことを決意したダビデに立ちはだかったのは、兄エリアブでした。さらに信仰だけでは不充分だと言ったのはサウル王でした。私達が信仰によって使命に立とうとする時、意外な所からやってくる妨げに驚かないようにしましょう。

★「私にはできないが神にはできる」神の使命に立つ時、自分を見てはいけません。自分の弱さ、足りなさを感じるだけです。神の召しの前にモーセは「私は言葉の人ではありません」と、エレミヤは「私は若すぎます」と、イザヤは「汚れています」と言いました。自分の弱さ、足りなさを見て、自分に失望し自分にはできないと結論しました。確かに人間は神のご計画に応えることができません。しかし神様はそのことをご存知で、私達に使命を与えられました。できない私を用いて可能とされる神を信じる信仰の人を神は待っておられます。