6月13日礼拝「霊により心をひとつにして」

ピリピ書講解(NO5)「霊により心をひとつにして」1章27~30節

仁井田義政牧師

 パウロは、迫害の中にあるピリピの教会に「福音にふさわしく生活しなさい」と教えています。しかし「福音にふさわしく」と言われると、たちまち私達は自信を失ってしまうのです。なぜでしょうか。

★パウロはローマの獄中にいましたが、パウロの願いは釈放されて自由の身になることではありませんでした。また釈放されて、自分を信頼してくれているピリピの教会に行き、互いに喜び合うことでもなかったのです。パウロがただひとつ獄中で願っていたのは「ピリピの教会の信徒達が福音にふさわしく」生きることでした。

★それでは、福音にふさわしく生きるとは、どのようなことなのでしょうか。「福音にふさわしく生きる」とは、律法主義的に生きることの反対の言葉です。私達が「福音にふさわしく生きなさい」と言われると、不安になるのは律法主義になっている証拠です。「福音にふさわしく生きる」生活とは、すでにイエス様に救われていると信じて生きることです。

★私達クリスチャンは、すでに救われているのです。しかし救われているクリスチャン同士でも、考え方や気質は違います。いやその違いこそ大切であり、教会の力なのです。しかし、心においてはひとつにならなければなりません。心をひとつにするのは、聖霊様の働きです。聖霊様は、ペンテコステの日に強い教会を建て上げられました。使徒の働きは、聖霊様に満たされて歩んだ初代教会の歴史なのです。

★パウロは「福音にふさわしく生きる」生活として、「どんなことがあっても反対者たちに驚かされることはない」と教えています。反対者は迫害者を含みますが、その陰でキリスト教徒迫害に人々を用いているサタンのことでもあります。「驚かされることはない」は、馬が突然、何事かに驚き慌てふためく様子です。福音にふさわしく生きる時、驚かないというのです。迫害する者にはそれが滅びの印であり、迫害されるクリスチャンにとっては、それが救われていることの印だからです。「信仰だけでなく、キリストの為に苦しみをも賜った」(29節)という理解が、クリスチャンを強くするのです。

★そのような教会の力は「霊をひとつにし、心をひとつに」(27節)する以外ありません。私達も聖霊に満たされて、ひとつ心となりましょう。そして迫害や逆境に負けないクリスチャンになりましょう。

6月6日礼拝「キリストのために生きる」

ピリピ書講解(NO4)「キリストのために生きる」1章20~26節

仁井田義政牧師

 獄中にあるパウロは、今日の御言にあるように、切なる祈りを捧げています。「切なる祈り」は、生きるにしても死ぬにしても、キリストが崇められることでした。私達の切なる祈りは何でしょうか。

★パウロは、処刑の決定がいつ下されるか分からないような状況にありました。処刑となれば、ローマの平和を乱し皇帝にたてついた者として、民衆の前に引き出され、そこで見世物にされ、殺されるのです。そのような状況下で、自分の生と死を前にして、切なる祈りをしていたのです。

★パウロの切なる祈りは、「生きるにも死ぬにもキリストが崇められますように」でした。パウロは獄中にあっても、自分の罪がさらに重くなるようなキリスト伝道を続けていたのです。パウロにとっては、「私にとって生きるのはキリスト」だったからです。その「生きる」とは、人生の目的のことです。

★パウロは、「死ぬこともキリストの為、生きるのも教会の為になる」という二つの板挟みになっていました。パウロは「死んでキリストのもとに行くこと、これ以上の幸せはない。しかし生きていれば、教会の為に活動ができるという生き方でした。処刑されずに生きながらえれば、ピリピ教会にも再度行って、信仰の励ましも出来ると思っていたのです。しかし、それは実現しませんでした。パウロは、数年後に処刑されたのです。

★パウロは、「私の人生の存在目的は、キリストの為に生きるところにある」「私にとって生きるのはキリスト、死ぬことも益です」と言っています。私達日本のクリスチャン達に必要なのは、まさにパウロのような人生目的の明確化なのです。私達日本の多くのクリスチャン達は、イエス様を信じた後も相変わらず「自分の為に生きている」ことが多いのではないでしょうか。しかし自分の為に生きるという古い生き方は、洗礼の時に殺してしまったのではないでしょうか。新しくなった私達の人生の目的は、生きるにも死ぬにも、キリストの為になるように生きることなのです。そうするのは、キリストが私達を救うために十字架で死んでくださったからです。

私達もパウロに倣って、「キリストの為に生きる」ことを揺るぐことのない人生目的としようではありませんか。

5月30日「前進する福音」

ピリピ書講解(NO3)「前進する福音」1章12~19節

仁井田義政牧師

先週はペンテコステであり、教会誕生の記念日でもありました。その日からこの手紙まで、30年近く年月が経過しています。今日の聖書箇所には「前進する福音」というテーマが記されています。

★パウロはローマの獄中にいます。小アジアからヨーロッパのギリシャ地方へと多数の教会を設立したパウロの逮捕は、当時諸教会に衝撃となって伝わったことでしょう。それを憂い心配する人達や、むしろ神様に捨てられたと思った人達もいたようです。ピリピの教会はパウロを信頼していたので、信徒達が心配していたと思われます。

★パウロはその教会に「私が捕えられたことは、福音の前進となった」と記しています。それはローマの獄中にいるからこそ、皇帝に仕える「親衛隊全員」にキリストを伝えることが出来たのだと言っているのです。私が捕えられていようと「福音は前進している」と、パウロは言っています。

★パウロは私が捕えられていても「福音が前進していることを喜び、これからも喜ぶと」と言っています。初代教会に全く問題がなかったわけではありません。パウロも「人々の中には、ねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいます。一方の人達は愛をもってキリストを宣べ伝え」(15-16節)と記しています。パウロは、不純な動機で伝えている人達を認めているのではありません。むしろ福音の力を信じて喜んでいるのです。異端は消滅し、純粋な福音は前進するからです。パウロは、ピリピの教会の祈りと、キリストの御霊の力を確信して、獄中にあっても前進している福音と教会を見て、喜びに満されているのです。

★パウロは自分が捕えられたことによって、福音の前進が停滞したり、消滅したりするとは考えていません。キリストの福音自体に力があると信じていたからです。来週の聖書箇所を見れば、パウロは明らかに自分の処刑を予感しています。しかしパウロには、喜びがありました。これからもどんなことがあっても「喜ぶ」と言っています。福音は、福音そのものに力があるので、どんなことがあっても前進するのです。だから2021年の現在、クリスチャンが人類総人口の三分の一にまで前進したのです。パウロのように私達も、祈りの力と福音の力を信じ、喜びましょう。

5月23日ペンテコステ記念礼拝「渇きを癒す聖霊」

ペンテコステ記念礼拝「渇きを癒す聖霊」ヨハネ7章37節~39節

                      仁井田義政牧師

 今日はペンテコステ記念礼拝です。イエス様は大勢の人達を前にして、この言葉を「大声」で言われました。その時、エルサレムには、神殿で行われる仮庵の祭に集うために、各地から人々が集まって来ていました。その日はギボンの泉から金の水差しで水を汲んで祭壇に注ぐ儀式が行われるのです。イエス様は、その時この人達に大切なことを伝えなければならないという思いに満たされました。

★イエス様は、「だれでも渇いているものは私のもとに来て飲みなさい。」と言われました。それは、旧約聖書にある約束でした。十字架以前、聖霊が働いていなかったのではありません。十字架以前は「川となって流れる」程には聖霊が与えられていなかったのです。イエス様は、大声で「渇くことのない水、聖霊が下ります」と叫ばれたのです。

★約束のように、ペンテコステに下った聖霊の特徴は、「生ける水の川が流れ出る」ので、なくなることがないのです。地上の水のように、渇いたらまた飲む必要もありません。聖霊はいつも一緒にいて下さり、満たして下さるのです。第一コリント6章19節に「あなたがたは聖霊の宮であり、自分自身のものでないことを知らないのですか」とあります。クリスチャンで、聖霊のことを知らない人がいたら大変です。しかし実際はいたのです。

★その人とは、使徒の働き5章に出てくるアナニヤとサッビラです。「彼らは聖霊を欺いた 」と記されています。アナニヤとサッビラは、主の弟子達に嘘をつきました。それが聖霊を欺くこととは知らなかったのです。私達は聖霊の宮となったのですが、聖霊は私達の人生の占有権を持っておられます。聖霊は、神様の御人格を持ち「喜怒哀楽」を持っておられるので、私達が聖霊を無視した生活を続けるならば、悲しまれるのです。

★聖霊は、神様が下さった良きものの中で、最高の贈り物です。この聖霊に満たされた時に教会が誕生しました。また、イエス様はヨハネ14章25節~27節に、この世を去って行く日が近づいた時、弟子達に約束しました。それは「聖霊を送る」と言うことであり、そのことによって特別な平安を残すという約束でした。今日は聖霊降臨の日です。聖霊に満たされて祈りましょう。そしていつも聖霊に満たされたクリスチャンになりましょう。

5月16日礼拝「キリストにお会いする日のために」

ピリピ書講解(NO.2)「キリストにお会いする日のために」1章7~11節

  仁井田義政牧師 

ピリピの教会は、十年の間に大きく成長しました。今日の御言の大切な所は、「キリストの日まで純真な信仰を守って下さいますように」です。

★今日の御言の初めに「私がこのように考えるのは、正しいのです」と記しています。このようにとは、どのようになのでしょうか。それは、「私が投獄されている時も、共に恵みに与かった人々だからです」と、その意味が記されています。教会の人間関係は、利害関係ではないのです。牧師と信徒も利害関係ではありません。キリストの恵みに共に与かっている関係なのです。

★パウロは、ピリピのクリスチャン達の為に祈りました。それは、「あなたがたの愛が真の知識と識別力に、いよいよ豊かになりますように」との祈りでした。ピリピの教会が真の知識において、乏しかったのではありません。むしろ逆です。ですから「いよいよ豊かになり」と祈っています。異端やローマとユダヤ教徒達による迫害が強くなってきていたからです。

★パウロは、「あなたがたがキリストの日には純真で非難されるところがなく、義の実に満たされている者となりますように」と祈りました。「キリストの日」とは、キリストにお会いする日であり、再臨の時とも、人生の終わりの時とも言えるでしょう。そうなるために修行など必要ありません。「イエスキリストによって与えられる」のです。キリストにしっかりと信仰で結びついていれば、自然に実を結ぶことが出来るのです。それは、イエス様がヨハネの福音書15章の「私は真のぶどうの木」の譬えで、はっきりと教えられました。

★私達の人生は、死に向かっての人生ではありません。キリストにお会いする日に向かっての人生なのです。そのためにイエス様からたくさんの養分を与えて頂き、多くの実を結んでイエス様にお会いするのです。父なる神様も私達が多くの実を結ぶようにと、毎日世話をして下さっているのです。手抜きした畑は、直ぐに雑草におおわれてしまいます。私達の人生がそうならないように、イエス様は私達の為に働いて下さっているのです。私達をイエス様と教会から離そうとするものは断固拒否しましょう。

キリストにお会いするその日を目指して、ピリピのクリスチャン達のように、純粋な信仰を保ちましょう。

5月9日礼拝「福音を広める教会」

ピリピ書講解(NO.1)「福音を広める教会」1章1~6節

                   仁井田義政牧師 

 今日からピリピ人への手紙です。この手紙は、先週までお話していたエペソ書と同じく、西暦61年頃に書かれたものです。この手紙も、パウロがローマの獄中で書きました。ピリピ教会は、この手紙の出される十年ほど前にパウロの伝道によって出来たヨーロッパ最初の教会です。この手紙のキーワードは「喜び」です。パウロは、獄中でなぜ喜ぶことが出来たのでしょうか。

★ピリピ教会の始まりは、パウロの第二伝道旅行の時でした。その時の様子が、使徒16章6節から記されています。ヨーロッパ最初のクリスチャンは、紫布の商人ルデヤという女性でした。その後パウロは、ピリピでの伝道の時に捕えられ、獄中にいる時に地震が起こりました。その結果、牢獄の獄吏一家が救われクリスチャンになりました。パウロのビリピでの伝道は、数日間でした。その異邦人クリスチャンの二家族を残して、十年が経ったのです。

★ピリピの手紙は、パウロの手紙の中では穏やかな書き出しです。他の手紙の書き出しには「使徒パウロから」という書き出しが多いのです。それは、ピリピの教会にはパウロの使徒性を疑う者がいなかったことが反映しています。また十年たって教会が成長し、聖徒達、監督、執事達という役職を置くまでになっても、パウロと良好な関係にあったことを現わします。パウロの獄中での喜びは、そこにあります。神様に忠実なビリピの教会を思い出しては、神様に感謝し喜びを持って祈っていたのです。

★ピリピの教会は、パウロがいなくても、最初の日から今日まで福音を広め続けて来ました。異邦人の二家族から始まった信徒だけの教会が、十年間で、「監督、執事、信徒達」と形成された教会に成長したのです。紫布の商人ルデヤが、家を教会として提供したからです。しかしそれは、献身的に伝道しようとした教会に働いた復活のキリストの御業でした。

★パウロによるピリピ伝道は、小アジア伝道を聖霊に止められたことから始まりました。そらく、病気になったのです。しかしその夜、マケドニヤ人が「こちらに来て私達を助けて下さい」と懇願する幻を見たのです。パウロはそのピリピの教会を思い出し、喜びをもって祈ったのです。私達の教会も、福音を広めることに全力を注いで、主の救いの御業を見せていただきましょう。

5月2日礼拝「祈り合う教会」

エペソ書講解(NO.25)「祈り合う教会」6章19~24節

  仁井田義政牧師 

今日はエペソ人への手紙の講解メッセージ25回目で、最終回となります。この手紙の中にも記されているように、パウロはエペソの信徒達の為に祈っていました。そのパウロが「私の為にも祈って下さい」と祈りの依頼をしています。祈り合うことが教会の姿であると言うことがわかります。

★パウロは獄中で鎖に繋がれています。自由を奪われて、明日の命さえ保証のない毎日を送っていました。それに加えて、ローマの兵隊や看守による脅しや暴力さえあったと思われます。その脅しや暴力にさえも動じないで、福音の奥義を大胆に語れるように祈って下さいと祈りの依頼をしました。

★パウロは、エペソの教会がどのような困難の中で信仰の戦いをしているかを知っていました。そのエペソの教会を励ます為、パウロは獄中で祈りながらこの手紙を書き、弟子のテキコに持たせてエペソに送ったのです。それは、獄中のパウロが何をしているかを知らせるためでした。

★パウロは「私の為に祈って下さい」と依頼した後に、教会の為に祈ってこの手紙を終わるのです。その祈りは、23-24節の祝祷でした。その祈りをする理由は、父なる神とキリストから平安と愛が、信じて祈る者に下って来るからです。そのキリストの愛は、朽ちることのない愛です。

そして「主イエスキリストを朽ちぬ愛をもって愛する全ての人の上に恵みがありますように」と祈っています。そのような信仰の人の上に、神の恵みは豊かに注がれるのです。

★この手紙を書いているパウロは、獄中で鎖に繋がれています。私達も、今はコロナの鎖によって礼拝もウエブで行なう等、不自由な生活をしています。その不自由さの中にあって、牧師達は教会のため、兄弟姉妹のために祈り、メッセージをします。私も皆さんに「コロナ禍の不自由な中にあっても、福音の奥義を大胆に知らせることが出来るように祈って下さい」と、祈りの依頼をしたいのです。牧師が皆さんの為に祈り、皆さんが牧師の為に祈るという祈り合う教会こそ、キリストの恵みの満ち溢れた真の教会なのです。この時を生かして、私達も互いに祈り合う教会となり、恵みに溢れた教会となりましょう。

4月25日礼拝「立ち上がれクリスチャン」

エペソ書講解(NO.24)「立ち上がれクリスチャン」6章10~18節

                      仁井田義政牧師 

 エペソの手紙も、いよいよ結論の部分に入ってきました。パウロは、エペソの教会にこの手紙を送った目的をはっきりさせています。その結論は、現代のクリスチャンである私達にも、そのまま必要なことでもあります。

★今日の聖書箇所には、「立つ」という言葉、(ギリシャ語で「ステーナイ」という言葉)が4回出て来ます。何から立ち上がるのでしょうか。それは死んだような生き方からです。それは4章17節~6章9節までに記されている問題です。つまり不道徳な問題、お酒の引き起こす問題、夫婦の問題、親子の問題、奴隷と主人の問題などです。

★パウロは、「主にあってその大能の力によって強められなさい」と奨めています。それは、クリスチャン生活が戦いの生活だからです。それでは、何との戦いなのでしょうか。パウロは「悪霊に対するもの」と教えています。しかし神様の大能があるので、恐れる必要はありません。サタンは私達を騙し、神様の大能には目を向けないようにします。それが、サタンの主たる仕業なのです。ですからパウロは、神様の大能の力にフォーカスして、「立ち上がれ」と言うのです。

★さらにパウロは、「武装せよ」と教えています。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音、信仰の大盾、救いの兜、御霊の与える剣で武装せよと言っています。しかしそれはみな防御品です。「御霊の剣」は攻撃的な武器のように見えますが、「剣」は、ギリシャ語の「マカイラ」で、神殿で犠牲を捧げる為に用いられていた短いナイフのことなのです。「悪い者が放つ火矢」は、サタンの放つ火矢です。サタンは疑いを火矢として使うのです。火矢の火は、最初は小さな火ですが、放って置くと人生の全てを焼き尽くし瓦礫にしてしまいます。それを信仰の大盾で守れと教えています。

★多くの人は、悪霊の罠にかかってしまい、神様の大能の力が見えないようにされてしまいます。しかし私達は、様々な問題があったとしても、いつも祈りによって目を覚ましましょう。神様の大能の力を信じましょう。サタンの最も恐れることは、あなたが目を覚まし、立ち上がって戦いを開始することなのです。

4月18日礼拝「神は人を差別しない」

エペソ書講解(NO.23)「神は人を差別しない」6章1~9節

  仁井田義政牧師 

 エペソ書も最終章の6章に入りました。今日の御言は5章からの続きで、クリスチャン倫理、道徳についての教えです。クリスチャンとして、どのように家族や社会で生活していくべきかを教えています。今日は、親子関係について、(しもべ)と主人と言う人間関係についての教えです。

★「子供達よ、主にあって両親に従いなさい」という教えは、子供に対する教えだけではありません。年老いた両親のことまで含まれます。「主にあって」とは、キリストに倣ってとの意味と考えてよいのです。イエス様は、十字架の上で、マリヤの老後を弟子のヨハネに託しました。マリヤは、この時五十歳くらいだったと思います。私達もキリストに倣いましょう。

★さらに「父たちよ、子どもを怒らせてはいけません」「主の教育と訓戒によって育てなさい」と教えられています。新共同訳聖書は「主が、しつけ諭されるように育てなさい」と訳しています。しかし子供は直ぐ駄々をこね、自分の思うように行かないと怒ります。そのような時にも、子供達の成長を信じて、神様の助けを求めて祈りながら育てることが必要なのです。

★最後に、(しもべ)達に対しての教えが続いています。この時代一人の自由人に三~五人くらいの(しもべ)が仕えていたと言われています。奴隷に「主人に従いなさい」とあるから、奴隷制度を認めているのではありません。当時の社会がそうだったのです。そういう社会情勢の中で、当時クリスチャンになる奴隷が非常に多くいました。その(しもべ)達に形ではなく「主に仕えるように仕えよ」と教えました。それが、奴隷の立場を守り、主人の心まで変える「急がば回れ」の方法だったのです。

★教会には、奴隷の主人達も救われてクリスチャンとなって入って来ました。そこで主人達に「奴隷を脅すことはやめなさい」と教えました。現代的に言えば「パワハラ」を止めよとの教えです。その理由は「神は人を差別されることがない」(9節)からです。

★主は、子供も老人も奴隷も主人も差別されることはありません。私達も主に倣い、差別のない人になりましょう。

4月11日礼拝「夫婦愛の秘訣」

エペソ書講解(22)「夫婦愛の秘訣」5章21~33節

                    仁井田義政牧師 

 今日の御言は、結婚式の時などによく読まれる所です。今日の御言が、私達に何を教えようとし、どのように世界歴史に影響を与えて来たかをお話しいたします。

★オリンピックの関係者が女性蔑視発言で失脚しました。今日の御言は、誤解を受けやすい所でもあります。それは22節の「妻たちよ、主に従うように自分の夫に従いなさい」という部分です。しかも、32節に「これは教会を指して言っているのです」とあっては、夫婦のことか教会のことかが分からなくなります。

★次に「夫たちよ。キリストが教会を愛し・・自分の妻を愛しなさい。」と記されています。パウロは、エペソの性道徳のゆるい異教社会に生きるクリスチャンに対して、この手紙を書きました。まさに聖書の一夫一婦制を、教会とキリストの関係で話しているのです。「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」と言うのです。単に男女の愛ではなく、キリストがその間に入っておられるのです。

★ パウロは「妻は夫に仕え、夫はキリストが教会に自分を捧げたように、妻を愛しなさい」と記しました。ある人が「妻は仕えるだけで良くて、夫は妻の為に死ななければならないのか」と言いました。ギリシャ、ローマ時代は男性が断然優位な異教社会で、そこに教会の一夫一婦制が爆弾のように投じられたのです。そして33節の「自分の妻を自分と同じように愛しなさい」これが、パウロのそして聖書の結論なのです。

★昨年「ジェンダー・ギャップ指数2020年」が発表されました。いわゆる「世界男女同権度ランク」です。我が国は、世界153カ国中121位という不名誉な状態でした。その一覧表をみると、軒並み上位はキリスト教の広まった国々です。日本の下にはイスラム教国が名を連ねています。聖書は、夫婦の関係を単に男女の愛というロマン主義に留まりません。21節の「キリストを恐れ尊んで、互いに従う」という信仰と愛、キリストと教会の関係が模範となった夫婦愛を理想としているのです。そのようにして、家庭から男女同権の祝福された未来を築いていきましょう。