9月20日礼拝「誰にも騙されないように」

第二テサロニケ (NO5)「誰にも騙されないように」2章1~3節 

「誰にも騙されないように」という今日の御言は、現代に生きる私達クリスチャンにとっても大切なことです。なぜかというと、世界中に異端がはびこっており、日本にも続々と異端が入ってきているからです。

★パウロは、イエス様が昇天された20年後くらいに、既にこの手紙に書いています。テサロニケ教会は、キリストの再臨についての教理がしっかりしていませんでした。パウロは、そのことについて視察から帰ってきたテモテから聞きました。その隙間に異端が入り込み、蝕み始めていたのです。その異端は「主の日が来た」(2:2)という異端でした。

★パウロはそれに対して「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい」と記しました。第一は「霊によってでも騙されるな」です。異端の教祖は、「私は直接、聖霊によって教えられた」と自分の言葉の権威付けをして騙します。第二は「ことばによってでも騙されるな」です。それは流暢な言葉による宣教を意味することだと考えられます。どんな感動的言葉も間違いは間違いなのです。第三は「私たちから出たかのような手紙によってでも騙されるな」です。それらは異端の常套手段なのです。

★パウロは、騙されて「落着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください」と書きました。「落着きを失う」という言葉は、「船が台風で荒海に流される様子」から来ている言葉だそうです。異端に騙されると、落ち着いた生活が出来なくなります。会社を辞めたり、学業を止めたりして、共同生活を始めたりします。また「心を騒がせる」とは、風に逆立つ波のように、落ち着きを失い長期にわたって揺さぶられる生活を意味する言葉なのです。

★「あの教会は凄く伝道に熱心である」とか、「あの指導者は、今まで知らなかった新しいことを教える」とか、「あの牧師はいつも山に籠って断食し、神と交わり、聖霊によって神様と直接会話して、神様から直接真理を教えて頂いている」等と言うのが危ないのです。正しい信仰は、神のことばである聖書によってのみ成立するのです。もちろん異端も自分達の主張に役立つようなところは「これは聖書の言っていることです」と言って、聖書の言葉を多用します。しかし騙されないようにしましょう。私達は聖書の御言にしっかりと立って、「誰にも、どのようにも騙されないように」しましょう。

9月13日礼拝「パウロの信仰の祈り」

第二テサロニケ (NO4)「パウロの信仰の祈り」1章11~12節 

 

今日の御言で、パウロはテサロニケ教会の信徒達が素晴らしい信仰を持ち続けるようにと祈っています。

★パウロは「私達の神があなたがたを召しにふさわしい者にして下さいますように」と祈っています。神様を信じて間もない人は、私は自分が信じたからクリスチャンになったと思っています。しかし、信仰が成熟した人は、神様が召して下さったので、私はクリスチャンになったと思っています。パウロは「生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった」(ガラテヤ1:15)とさえ言っています。「それは召しにふさわしい者とするためです」と召しの目的が記されています。それはキリストの素晴らしさと同じようになる為です。

★クリスチャンが自分の信仰の力を自負している間は、その信仰は危ういのです。私達の信仰の力ではなく、神様の御力が信仰を全うさせて下さるのです。ですから自分の弱さを認め、神様の御力を知れば、神様に祈り御言を聞くことを第一とするのです。そのような信仰生活をする人が、神様の御力に守られて信仰を全うすることが出来るのです。テサロニケの時代は、迫害という戦いの相手がはっきりしていました。しかし今は、真綿で首を絞められるように、やんわりとクリスチャン生命を絶たれてしまう時代なのです。気が付いたら信仰を失っていた、というようなことが起こりうるのです。

★クリスチャン達が、神様の召しとその目的を知って感謝して生きる時、それよってキリストが栄光を受けられるのです。そして信仰を守り通したクリスチャンもまた、栄光を受けるのです。それはキリストと同じ姿に変えられるからです。私達は、キリストと同じく罪が全くない者とされます。キリストと違う点はただひとつ、キリストは全く罪のない御方であられましたが、私達は罪を赦された罪のない者という一点だけなのです。 

★今日の御言は、迫害の真っただ中にいるテサロニケ教会の人々の為に祈るパウロの祈りです。テサロニケの教会の人々の信仰は、素晴らしい信仰でした。しかしパウロは、人間の弱さをも見抜いていたのです。神様はクリスチャン達の信仰を守り、信仰を全うすることが出来るように、御力を注いでくださるという事実にすがって祈っています。今は、キリストが天において私達の為に祈って下さっています。ですから私達も、「主よ、私の信仰を守って下さい」と祈りましょう。

2020年9月6日礼拝「永遠の滅びと栄光」

第二テサロニケ (NO3)「永遠の滅びと栄光」1章8~10節 

 今日の聖書箇所も、先週に続いてキリストの再臨の時に起こる大どんでん返しのことです。迫害のただ中にあって、敵対者の前には全く抵抗や反抗する力がない集団のように見えたキリストの教会。やられたらやり返す、これが人間社会の姿でした。しかしクリスチャン達は、どんなに迫害されても仕返しをすることなく、勝利を確信して生きたのです。それは御言に示されている真理をしっかりと信じぬいていたからです。

★初代教会のクリスチャン達が信じぬいたその真理とは、キリストの報復です。主を信じない人々や迫害者に対して、主は必ず報復されるのです。神は居ない、イエスは殺されてしまったではないかと言っている人に対して、必ず報復されるのです。人間の視覚や知力の中に納まってしまうようなものは神ではありません。むしろ神は見えないから神なのです。

★今は恵みの時で、神様を信じない人にさえ恵みは注がれています。しかしキリストの再臨の時には、神様を信じない人や迫害する人には、必ず永遠の滅びがあるのです。「永遠の滅び」とは、「滅んで無くなってしまう」のではありません。神学者カルヴァンは、そのことを「死ぬことのない死」と言っています。つまりそれは死後の世界で存在意義を完全に失った状態で、永遠に生きるのです。それが死ぬことのない死です。

★一方クリスチャン達は、キリストの再臨の時、主の栄光の中に入れられるのです。それは天国のことです。クリスチャン達が迫害されても仕返しをしなかったのは、キリストが再臨される時、クリスチャン達に勝利を与えて下さることを信じていたからです。天国でクリスチャンが受ける祝福は、永遠の命です。永遠の命とは永遠の滅びとは全く逆で、死後の世界で存在する意義に満ち溢れて、永遠に生きる命なのです。その素晴らしさは、想像を絶するものです。その様子を今日の御言の中で「感嘆の的」と言われている通りです。

★そのことを信じる時、人間は正しく生きることが出来るようになるのです。私達は、主の十字架による罪からの赦しという人生の勝利を確信しましょう。そしてイエス様の再臨の時に起こる大どんでん返しを信じましょう。そして天国での想像を絶する素晴らしさを目指して生きて行きましょう。

8月30日礼拝「苦難の意味」

第二テサロニケ (NO2)「苦難の意味」1章4~7節 

この手紙を受け取るテサロニケ教会は、激しい迫害の中にありました。教会外の人達からは、「お前の信じている神が本当に生きているなら、お前たちをどうして助けないのか」と言う人達がいたでしょう。クリスチャンも、そのように自問することがあったでしょう。今日の御言は、その質問に答えています。

★迫害については、神様が全能であるならば、クリスチャンの為に迫害している者を罰して、クリスチャンから迫害を取り払って下さっても良いはずです。そう考えるのは、クリスチャンでない人に限らず、クリスチャンでも少なくないでしょう。

★今日の御言は、その理由を「あなたがたを神の国にふさわしい者とするため」(5節)と記しています。旧約聖書の出エジプト記を思い出してみましょう。なぜ神様は全能であられるのに、イスラエルの民に四十年も荒野の旅をさせたのでしょう。それは、約束の地に信仰者を入れるためでした。荒野でテストを受けたのです。エジプトを出る時に二十歳以上だった人々は、みな荒野で滅んでしまいました。例外的に信仰者のヨシュアとカレブだけが、約束の地に入ることが出来ました。なんとモーセさえも入れなかったのです。

★苦難は、あなたをクリスチャンとして訓練する為にあるのです。クリスチャンは、どんな苦難にあっても滅ぼされることはありません。苦難がその人の人生にマイナスになることもありません。むしろプラスにさえなるのです。詩篇119篇71節に 「苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」とあります。「あなたのおきて」とは御言です。クリスチャンにはプラスになり、神様を信じない迫害者には、神の裁きとなって臨むのです。

★苦しみに遭う時、特にクリスチャンであると言うことで迫害や反対を受ける時、これは神様が私を愛して「私を神の国にふさわしい者とするために」(5節)訓練して下さっている証拠だと受け止めて、さらに信仰へと前進すべきなのです。苦難に遭えばあう程、信仰を強く持って、御言を信じ前進しましょう。

8月23日礼拝「教会の成長に感謝する」

第二テサロニケ (NO1)「教会の成長に感謝する」1章1~3節 

この手紙は、第一の手紙を書いた直ぐか一年後くらいに書かれたものです。テサロニケの教会は、第一の手紙にもありましたように、素晴らしい信徒達がいました。しかしその教会にも、どうしても補わなければならない信仰の欠けたところがありました。それは、キリストの再臨についてでした。

★この手紙には、送る側のパウロ、シルワノ、テモテという三人の名が記されています。シルワノはラテン語です。それはシラスの事です。テモテは青年テモテです。この三人は、テサロニケの町にも一緒に伝道に行きました。ですからテサロニケ教会信徒にとっては顔見知りでした。そして三人の名が記されているのは、この手紙はパウロの個人的考えではなく、働き人三人の共通の考えであることをテサロニケの信徒達に示しているのです。

★パウロは「父なる神と主なるキリストから恵みと平安がありますように」と挨拶を書きました。教会は、同じ趣味を持った人が集まるグループ活動とは違います。それは、神とキリストの教会なのです。そして2節に「恵みと平安があなたがたにありますように」と記されているように、教会は神の豊かな恵みが満ち溢れている所なのです。

★パウロは、テサロニケ教会の信仰が目に見えて成長しているのを見て「感謝しなければなりません。それが当然なのです」と記しました。テサロニケ教会が、相互の愛に成長しているからです。教会の成長は、神様の御業です。ですからクリスチャンは、神様にそのことをいつも感謝しなければならないのです。むしろ「感謝するのが当然」なのです。

★私達は、今日の御言から教会の在り方を学ばなければなりません。教会は、神なるイエス様の所有であることを知らなければなりません。いつも教会の集まりを「神様に感謝しなければならない」のです。教会を成長させて下さっているのは、神様だからです。そして相互の愛を高め合いましょう。愛されることだけを求めてはいけません。教会の成長の目に見えるしるしは、集まる人の数だけではありません。相互の愛こそ、目に見える教会の成長なのです。互いに愛をもって祈り会い、支え合いましょう。毎日、兄弟姉妹のことを祈るクリスチャンになりましょう。

8月16日礼拝「キリストの恵みが」

第一テサロニケ (NO15)「キリストの恵みが」5章23~28節 

 

今日は、第一テサロニケの最終のメッセージになります。パウロはこの手紙を書き終えるにあたって、祈りを書き記しました。この手紙は祈りで始まり、祈りで終わろうとしているのです。

★「平和の神ご自身が、あなたがたの霊、たましい、体が完全に守られますように」これは、キリストの再臨の時まで完全に守られますようにと言うことです。霊、たましい、体は3分割ではなく、あなたの存在の全てが守られますようにとの祈りです。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをして下さるという、神様に信頼した祈りなのです。

★パウロは、「私達の為にも祈って下さい」と祈りの依頼をテサロニケの教会の人々にしています。神様の守りが必要なのは、教職も信徒もないのです。ですから互いの祈りが必要なのです。さらにパウロは、「全ての兄弟達に、聖なる口づけをもって挨拶を仕合なさい」と記しました。当時教会には、自由人も奴隷も集まっていました。ですからパウロのこの「聖なる挨拶」の勧めは、教会においては全ての人間は平等なのだから、クリスチャンとして差別することなく平等に接しなさいと言う革命的な勧めだったのです。またパウロは「手紙の朗読の命令」を記しました。それは当時文字を読めない人が多かったからです。パウロの手紙が、文字を読める人たちの独占にならないように、「全ての兄弟達の前で朗読をしなさい」と勧めているのです。

★手紙を書き終えるにあたって、パウロは祝祷を記しました。その中の「キリストの恵み」とは、私達を愛するイエス・キリストの強い愛のことと理解して間違いはありません。完璧な教えをしたとしても、キリストの強い愛がテサロニケの人々に注がれていなければ意味がないのです。しかし幸いなことに、キリストは溢れるばかりの愛を注いでくださっているのです。パウロは、そのキリストの愛にテサロニケ教会の人々を委ねたのです。

★今日の御言は、教会においていかなる差別もあってはならないという教えです。差別ほど、人間として愚かなことはないのです。そして全ての人の前で、御言の朗読を大切にしましょう。それは礼拝を共に大切にすると言うことです。「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者として下さいますように」との祈りをして終わります。

8月9日礼拝「御霊を消してはならない」

第一テサロニケ (NO14)「御霊を消してはならない」5章19~22節 

 

どんな時にも喜んでいる。絶えず祈る。全ての事に感謝する。これは先週のメッセージでした。なんと素晴らしい生き方でしょうか。それでは、どうしたらそのような生き方が出来るのでしょうか。今日の御言は、その秘訣を教えています。

★今日の御言は、「御霊を消してはならない」と教えています。マタイ25章に、花婿を迎える十人の灯を持った女性達が出てきます。五人の灯は途中で消えてしまい、あとの五人は予備の油を持っていたので、灯は消えなかったというイエス様の譬です。またイエス様の死に失望した弟子達が、エマオに帰る途中で、近寄って来た旅人の話を聞いた時に「心が燃えた」(ルカ24:32)と記されています。そのように、聖霊は炎に譬えられています。

★また「預言をないがしろにしてはいけません」と教えられています。預言とは御言のことです。エマオの弟子達の心が燃えたのは、旅人の姿をした復活のイエス様から御言を聞いた時でした。御言はそれを正しく伝えられ、正しく聞かれる時、私達の霊を燃え立たせる力を持っています。礼拝のメッセージは、聖霊を通してのイエス様の言葉です。ですからメッセージを聞いても聞かなくても良いなどと、預言を軽んじてはいけないのです。

★だからと言って、全ての牧師や宣教師が正しく聖書の話をしているとは限りません。ガラテヤ書1章6~9節に、すでに偽預言者が人々を信仰から落としていたのです。ですから「すべての事を見分けて、本当に良いものを堅く守りなさい」と教えられています。それだけではなく「悪はどんな悪でも避けなさい」と勧められています。

★テサロニケ時代は迫害の時代です。それから比べるならば、私達の日常生活の悩みや苦しみは、少し熱めのスープを飲むようなものです。あの煮え湯を飲まされるような時代に通用した御言が、現代の私達に通用しないはずはありません。いつも御霊の火を消さなうように気を付け、神様が語られる御言を重要なことと認識しているならです。そして御霊に満たされた生活をするのです。御霊が消えたような生活をしてはなりません。

★困難の中にあっても強く生きることの出来る秘訣は、御霊の燃え続けるクリスチャン生活をすることです。御霊に満たされた生活をしましょう。

8月2日礼拝「悪には悪で報いず」

 

第一テサロニケ (NO13)「悪に悪で報いず」5章14~18節 

8月に入りました。本来ならばこれから夏の行事等で、楽しいはずの月です。しかし今年は、そのような行事は全て中止となりました。日常の生活においても自由に行動が出来ず、不満やいら立ちが鬱積しているのではないでしょうか。今日の御言は、日常生活の薬となる御言です。 ★テサロニケ教会の信徒達は、愛においても信仰においても素晴らしい人達でした。今まで学んだ中では、そのように感じました。しかし例にもれず、テサロニケ教会にも「気ままな者、小心者、弱い者」がいたのです。教会は、その人達を助け励まさなければなりません。それは、牧師だけの働きでなく、信徒全員の働きとならなければなりません。 ★今日の御言は、「悪に対して善で」応えなさいと教えられています。初代教会つまり一世紀の教会は、悪意の荒波に揉まれる状況でした。キリスト教は、ローマの非公認宗教として迫害されたのです。また教会内に、悪意をもった異端が襲いかかりました。しかし教会は、主の教えとして「悪には善をもって勝利するように」と教えました。一世紀の教会は、それを厳守しました。その結果、迫害されながらも消滅させられることなく、ついにローマに勝ったのです。御言を守る者には、主が共におられて勝利させてくださるのです。 ★万事が思うように行かず、気が滅入る時の生活の秘訣はあるのでしょうか。聖書は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事に感謝しなさい。」と教えています。今まで私も、気難しい人や意地悪な人にも会いました。しかしそれが私にとってマイナスになったかというと、そうではなくその人に対応するために知恵を求めて祈り、その人と会わなかった以前より知恵が与えられました。 ★私達は神様の支配である「神の国」に生かされていますが、何の問題もない天国とは違います。ですから私達を憂鬱にするいろいろなことが日常に起こります。しかし私達も一世紀のクリスチャン達のように御言を実践するならば、必ず問題は問題でなくなり、解決し勝利するのです。私達も悪に悪で報いず、むしろ善をもって勝利するクリスチャンとなりましょう。

7月26日礼拝[互いの間に平和を」

第一テサロニケ (NO12)「互いの間に平和を」5章12~13節 

 

今日の御言は短い箇所ですが、クリスチャンが信仰生活を勝利していくために大切なことが記されています。

★パウロは、ここで「お願い」をしています。テサロニケ教会がその素晴らしさをこれからも「続ける為」でした。またそれは、教会にとっても大切なことでした。そのこととは、「あなたがたを指導し、訓戒する人々を尊敬する」ことです。この時代は、長老と言われた人々が教会の指導をしていました。御言を教える長老と、教会を管理する長老とがいました。現代の牧師と役員に相当するでしょう。

★その働きは、指導と訓戒です。「指導」は、心を砕くとも訳せる言葉です。心を砕いて指導するのです。テサロニケに立てられた長老は、教会の歴史がないため信仰を持って間もない人達でした。その人達が、迫害の真っただ中で教会を指導し、信徒達を訓戒したのです。教会の指導者達は、イエス様によって立てられたのです。

★パウロは「主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい」と教えました。これらの長老は、自分で長老になったのではありません。「主にあって」指導し訓戒する人となったのです。そのことをしっかりと認めない信徒は、困難や誘惑の多い時代にクリスチャンとして成長しません。また、長老が神様から立てられたと言っても、みんな完全な人達なのではありません。牧師をはじめ、みな不完全です。ですから「愛をもって深い尊敬を払いなさい」(13節)と勧められているのです。

★私達は、テサロニケの教会時代のような迫害時代にも、現代の日本のような誘惑の時代にも、キリストの教会として勝利し、成長する教会でなければなりません。そのためにも、聖書の教えている正しい教会の姿勢にしっかりと立たなければなりません。それは、イエス様によって指導の働きを委託された牧師・役員と、お互いの立場を認め合い、平和を保つ教会となることです。溝の口教会は、お互いの立場を認め合う聖書的な教会となり、主にある教会として、勝利し続けましょう。

7月19日礼拝あなたがたは光の子供です」

第一テサロニケ (NO11)「あなたがたは光の子供です」5章1~11節 

 

イエス様が再臨されるという教えを聞けば「それはいつなのか」と知りたくなります。しかしイエス様は「何年、何月、何日」との指定をしておられません。それでは何も見えていないことと同じではないかと言う人もいるでしょう。しかしパウロは、あなたがたは「光の子、昼の子供です」と言っています。どのようにしてクリスチャンは「光の子、昼の子供」になるのでしょうか。

★私達は、キリストが突然来られるという真理を知っています。クリスチャンでない人は、キリストが来られると言うことさえ知りません。光の届かない所にいるからです。6節の「他の人々のように霊的に眠った状態でいないように」しましょう。

★光の子供たちは、第一に「真理に照らされている子供たちです。御言によって「信仰と愛を胸当てに、鎧いで」身を守ります。第二は「救いの望みのかぶと」を着けます。かぶとがなければ、致命傷を受けるからです。そして慎み深く生きるのです。「世の終わり」等の言葉に浮つくことなく、仕事をするのです。

★10節に「主が私達の為に死んでくださったのは、目覚めている時も、眠っている時も、主と共に生きるためです」と記されています。キリストが十字架で私達の為に死んで下さったのは、再臨がいつあっても驚くことなく、私達がいつも主と共に生きるためなのです。それは、キリストの再臨があるのは、クリスチャンが神に裁かれるためではなく、救いを得るためです。ですから、クリスチャンは安心して「互いに励ましあい、徳を高めあうように」(11節)日々を用いましょう。

★人々は、聖書の真理もキリストの教えも知らないために、暗闇の手探りの生活をしています。不安で占いに心が魅かれ、占いの本が売れ、新興宗教や異端に心が迷わされます。更にはパワースポットなどと言って訪ね歩くのです。本当の真理は、聖書にあります。本当の救いは、キリストにあります。落ち着いた生活は、真理の光に照らされたクリスチャン生活にあるのです。皆さんは真理に照らされた「光の子供たち」です。ですから光のある生活から目を離して闇の人となってはいけません。ますますキリストの真理に照らされて、光の子供となっていきましょう。