8月18日礼拝メッセージ「主の晩餐とその意味」

(礼拝メッセージ)「主の晩餐とその意味」マルコ14章22~26節

仁井田義政 牧師

こんにち聖餐式は、世界中の教会で行なわれています。それでは聖餐式はどれほどの意味があるのでしょうか。私達は、主の行なわれた主の晩餐に戻って、その真の意味に立ちかえりたいと思います。

★この日の晩餐は、既に前菜が終わりました。前菜は食欲増進のために出されます。日本では「お通し」と言われるのがそれに当たります。少量のパンも出されていて、ソースのようなものにつけて食べたのです。それが終わると、その食事の主催者が祈ってパンを分けるのです。分け終わると、今度は神様に感謝してぶどう酒を分ける。それをイエス様が主催されました。

★イエス様はパンを裂かれた時、「これは私の体です」と言われました。またさかずきを取って「これは、私の契約の血です」と言われました。聖書における神様との契約の時には、羊が殺され、その肉は分けて食べられました。イエス様は、契約の時の羊肉の意味をパンに移し、契約の時の羊血の意味をぶどう酒に移して宣言されました。さらにはその契約の時に殺される子羊を御自分の十字架の死に譬えておられるのです。そして翌日殺されるのです。

★イエス様は「この中に私を裏切る者がいる」と言われました。弟子達は「まさか私ではないでしょう」と不安になりました。その後十二人の弟子達は、イエス様を裏切ってしまうことになりました。しかし弟子達は、その後の教会の聖餐式に加わり続けました。加わることのできなかったのは、自殺してしまったユダだけです。疑い深い弟子のトマスを初め十一人の弟子達はイエス様のご復活後もみな聖餐に加わったのです。

★そうしてみますと、晩餐に与かる資格について、何の罪もない者だけが与かる資格をもつとの考えは、間違っていることを意味しています。それとは反対に、信仰の面で弱さを感じている人が受けるべきなのです。そうしてその弱さを、イエス様の裂かれた御体と、流された十字架の血潮を、不完全な我が身に受け入れることによって、イエス様の命に満ち溢れて頂くのです。こんな私さえイエス様は、神様の愛の中に招き入れて下さっていると、感動に包まれてその愛を受ける、それが聖餐式です。あなたも、イエス様が主人として招いて下さる晩餐とその意味を深く知り、晩餐(聖餐)に与かりましょう。

8月11日礼拝メッセージ「九人はどこにいるのか」

(礼拝メッセージ)「九人はどこにいるのか」ルカ17章11~19節 仁井田幸子師

十人の癒しを通して、私達の信仰姿勢を見つめましょう。

★この皮膚の病(ツァラアト)の人たちは、どのような状況にあったのでしょう。レビ記13章に細かく記されているように、祭司は、この病の人の患部を見て確かめ「汚れている」と宣言します。そののち宣言された人は、衣類を引き裂き、髪の毛を乱し、その口ひげをおおって「汚れている!汚れている」と自ら叫ばなければならず、その上、家族を離れ一人で人里離れた所に住まなければなりませんでした。また神様から呪われた者という偏見によって差別されていました。ですから、肉体的にも精神的にも霊的にも苦しみの中にあったのです。

★彼らが追いやられてひっそりと住んでいた村をイエス様が通られたのです。彼らは、その病のためにイエス様に近付くことはできませんでしたが、遠くから声を張り上げ「どうぞ憐れんでください」と求めました。幸いなことにイエス様は目を留められ、祭司の所に行って患部を見せ「きよめ」を宣言してもらうよう(レビ記14章)促されました。

★十人は、イエス様の言葉を信じ、祭司のもとへ向かいます。その途中で一人のサマリヤ人は、病が癒されたことと、小さな自分に素晴らしいことをして下さったことに感動し、大声で神をほめたたえながら引き返し、イエス様の足元にひれ伏し感謝したのです。サマリヤ人は、ユダヤ人から偶像礼拝の民族として軽蔑され嫌われていました。しかし、神様を信じ律法を重んじていると自負するユダヤ人の九人は、戻って来なかったのです。肉体の癒しだけで満足してしまったのかもしれません。イエス様は、「十人清められたのではなかったのか。他の九人はどこにいるのか」と言われました。そしてそのサマリヤ人に「あなたの信仰があなたを直した(救った)のです。」と最高の誉め言葉をかけて下さいました。人からも神からも嫌われていると思い、悲しくひっそりと生きてきた彼に、イエス様は肉体と心の癒しを与え、神から祝福された者という霊的な喜びも与えて下さったのです。

★さて、私達はどうでしょうか。九人のように自分の願いが叶えばそれで良しとしてしまうのでしょうか。それともこの人のように、主のしてくださったことに感動し、感謝することが出来るでしょうか。イエス様から「どこにいるのか」と言われないように、感謝する者となりましょう。(詩篇103:1-5)

                                                                    

8月4日礼拝メッセージ「裏切りと人間の災い」

礼拝メッセージ「裏切りと人間の災い」マルコ14章17~21節

仁井田義政牧師

過ぎ越しの祭の楽しいはずの晩餐会が始まりました。しかしその晩餐会は、イエス様と弟子達の最後の食事でした。イエス様は、ユダの裏切りを思い留まらせようとされました。その愛が、イエス様の心を痛めるのです。そのイエス様の葛藤が、今日の聖書のメッセージなのです。

★イエス様を裏切るユダの行動は、既に開始されていました。ある女性が三百万円もするナルドの香油をイエス様に注いだ時「なぜ三百万円もするものを注ぐのか」と怒りました。その後にイエス様を売るため、イエス様の命を狙う「祭司長達」の所に行ったことが記されています。(14:10-11)そして素知らぬふりをして晩餐会に出たのです。

★イエス様は食事をしている時に、「あなたがたの一人が私を裏切ろうとしている」と言われました。しかしそれが誰であるかは言われませんでした。ですから弟子達は「まさか私では」と心配になったのです。イエス様は「私と一緒に鉢に浸している者です」と言われました。これは詩篇41篇9節の引用で、決して裏切る者の特定ではなかったのです。

★イエス様は「確かに人の子は、自分について聖書に書いてある通り去って行きます」と言われました。「聖書に書いてある通り」とは、「私の十字架は罪の身代わりとして既に聖書で決まっている、ユダ!お前の裏切りがなくても、決まっているのだ」と言いたかったのです。イエス様は、最後の最後まで裏切り者のユダの名を明かさず、悔い改めて救われる時を与えました。そして「人の子を裏切るような者は生まれなかった方がよかったのです」と、悔い改めを促したのです。

★イエス様は、ユダの裏切り行動の全てを知っておられました。イエス様はそのユダにさえも、即座に裁きや災いを与えることはなさいませんでした。イエス様は、悔い改めを促しその人を愛し続けられるのです。そこに、私達には計り知れないイエス様の心の痛みがあるのです。ですから、ユダのような裏切り者になってはならないのです。私達をどこまでも愛して悔い改めるチャンスを待っておられるイエス様を裏切るような者は、生まれなかった方がよかったのです。私達はイエス様の愛をしっかりと受け留め、イエス様への信仰で人生を貫きましょう。

7月28日礼拝メッセージ「最後の晩餐とその準備」

礼拝メッセージ「最後の晩餐とその準備」マルコ14章12~16節

                  仁井田義政牧師                    

子達は、イエス様から過ぎ越しの食事の準備をするように言われました。その準備とは、過ぎ越しの祭で毎年行なう夕食でした。それが、イエス様にとって弟子達との最後の晩餐となったのです。

★イスラエルでは、一日は夕方から始まります。ですから夕方から金曜日が始まっていました。木曜日の晩餐には、神様に捧げて祈って頂いた羊の肉を持ち帰って、過ぎ越しの祭の晩餐をするのです。神様がイスラエル民族を救って下さったことを感謝する祭なので、一人で食べてはいけませんでした。子羊の肉一頭の丸焼きなので、十人から二十人で食べることが決められていました。また食べ残すのは罪になるので、全て完食しければなりませんでした。ですから十人から二十人が必要だったのです。

★弟子達は、その多人数の食事をどこでしたらよいか心配しました。町は大切な祭でごった返していたので、部屋の確保は至難の業でした。しかし、イエス様は「町に行って水がめを運んでいる男を見つけたら、その人が場所を貸してくれる」と言われました。通常、男性は革袋を用いるので、水がめを運んでいる男性を見つけやすかったのです。

★イエス様は「その男の家に、イエス様を入れて十三人の食事の出来る所が用意されている」と言われました。また「席が整った二階の部屋を見せてくれる」と言われました。「席が整った」は、言語では「じゅうたんが敷かれて」という意味です。神様が全てを用意しておられたのです。

★町に出て行ってみると「イエス様の言われたとおり」でした。私達人間には一分先のことさえ見ることが出来ませんが、イエス様には全てが見えるのです。そして私達の為に、過ぎ越しの食事を用意して下さるのです。しかも、この食事の後に数時間で捕らえられ、鞭打たれ、つばをかけられ。十字架で罵声を浴びせられ死にゆくご自分を知っておられてのことなのです。

★その最後の晩餐の時も、ユダを先頭にペテロもヨハネもタダイも、イエス様の十字架の救いの情熱を知りませんでした。私達とイエス様の間にそのようなずれはないでしょうか。イエス様の言葉は16節にありますように「イエスの言われた通り」に信じて、私たちは神様の祝福を体験する人となりましょう。

7月21日礼拝メッセージ「美しいことをしてくれた」

礼拝メッセージ「美しいことをしてくれた」マルコ14章1~11節

                       仁井田義政牧師                    

 今日の聖書の箇所は、遠い昔にエジプトの奴隷であったイスラエルの民が、神様によって解放されたことを感謝する祭のところです。しかしその祭の最中に、エルサレムの指導者達の心は「イエス様」に対する悪意に満ちていました。そのような人間達の悪意の中で、ほっとするような出来事が起きました。そのことが、私達に対する美しい信仰の模範となったのです。

★祭司長達は大切な「過ぎ越しの祭」は上の空で、イエス様殺害の計画で心が支配されていました。「イエスを騙して」とあるように、目的のためには手段を択ばない悪意に満ちた殺害計画を練っていたのです。そしてユダも、イエスを売ろうとねらっていました。(14:10-11)

★そのような状況の中で、一人の女性が三百万円程もする香油をイエス様に注いでしまいました。その香油は、遠くインド辺りから輸入した物で、とても貴重なものでした。それを見ていた人々は、その「香油を売って貧しい人々に施せばよいのに」と憤慨しました。それは一見正論に思えます。このことを非難した一人は、弟子のユダでした。(ヨハネ12:4)それに対してイエス様は、「貧しい者に施すことは、あなたに施す気持ちさえあればこれからいつでもできます」と言われました。

★この女性は、石膏の壺を割ってイエス様に注ぎました。壺の口から流れ出るのが待てなかったのです。それは惜しむ心が全くなかったことを表わしています。どんなに深くイエス様の愛を知り、感謝していたかを表わします。十字架で子羊として殺される救世主に香油を注いだのです。ヘブル語のキリストを表す「メシヤ」という言葉は、「油注がれた者」と言う意味です。イエス様は文字通り、油注がれた者となりました。

★イエス様には、この女性の行為がどんなに嬉しかったことでしょう。自分を救って下さったイエス様に喜んで頂こうと香油を注いだこの女性を、イエス様は「出来る限りのことをしたのです」と言われました。また「この女性は立派なことをしてくれたのです」とも言われました。「立派な」と言うギリシャ語は「カロス」で「美しい」という意味です。この女性のしたことは美しい行為だったのです。それは、この女性の礼拝の姿勢は美しいという意味です。私達もこの女性に習って、イエス様に喜ばれる礼拝者になりましょう。

7月14日礼拝「あなたが神の使命に立ちあがる時」

「あなたが神の使命に立ちあがる時」第一サムエル記16章12~13節

郡山キリスト教会牧師 三箇義生牧師

今日は福島県の郡山市から、礼拝と信徒訓練会の特別講師として三箇義生先生をお招きいたしました。神様が用いておられる素晴らしい先生です。

本日、ダビデを通して神様のご計画を学びたいと思います。 三箇義生牧師

★「神は使命を与えられる」神様はこの世界を目的と計画を持って創造されました。そこには意味のないものは、一つもありません。私たちも生まれる前から神様に知られており、目的と計画の内に創造されました。そして、キリストの贖いによって本来の目的と計画に歩むように再創造されたのです。ダビデも神様の目的のためのご計画にあって、イスラエルの王となる召しを受けました。

★「神は使命を全うさせるために聖霊を注がれる」預言者サムエルは、神様からエッサイの息子ダビデに油を注ぐように命じられました。角から流れ落ちる油がダビデの頭に流れ落ちた時、目に見えない霊的な世界において、聖霊がその日以来激しく下り、彼の人生が神のご計画に歩むように働き始めました。

★「神は賜物を用いられる」神様はダビデの応答以来、彼の知らない所で彼の人生を動かし始めます。ダビデは竪琴の優れた奏者でした。神様はその与えられた能力を用い始めます。サウル王を慰めるため、彼は王宮へと招かれました。彼の賜物は、神によって用いられるようになったのです。

★「神は忠実な歩みを活かされる」次にダビデが神に導かれたのは、父や兄達に仕える毎日からのスタートです。羊飼いとして任された羊をライオンや熊からから守り、安全に育つ環境を整えました。そして戦場にいる兄達に弁当を届けるように命じられ、それを届けました。ダビデは任された働きに忠実でした。

★「信仰によって立ち上がる時」戦場で神を侮るペリシテ人ゴリヤテを見、彼を倒すことを決意したダビデに立ちはだかったのは、兄エリアブでした。さらに信仰だけでは不充分だと言ったのはサウル王でした。私達が信仰によって使命に立とうとする時、意外な所からやってくる妨げに驚かないようにしましょう。

★「私にはできないが神にはできる」神の使命に立つ時、自分を見てはいけません。自分の弱さ、足りなさを感じるだけです。神の召しの前にモーセは「私は言葉の人ではありません」と、エレミヤは「私は若すぎます」と、イザヤは「汚れています」と言いました。自分の弱さ、足りなさを見て、自分に失望し自分にはできないと結論しました。確かに人間は神のご計画に応えることができません。しかし神様はそのことをご存知で、私達に使命を与えられました。できない私を用いて可能とされる神を信じる信仰の人を神は待っておられます。

7月7日主日礼拝メッセージ「目を覚ましていなさい」

(主日礼拝メッセージ)「目を覚ましていなさい」マルコ13章28~37節                                                                                                  仁井田義政 牧師

 弟子達がエルサレム神殿のきらびやかさに目を奪われている時、イエス様にはハッキリとエルサレム神殿のはかなさが見えていました。私達人間には本当のことが見えないことが多いのです。だからイエス様は今日の御言で、私達に「目を覚ましていなさい」と言われているのです。

★イエス様は、今日の弟子達との会話の二日くらい後に十字架で殺され、そののち天に帰られました。しかし、イエス様はもう一度私達の所に来てくださいます。イエス様は「イチジクの木に葉が出ると夏が近いように、その前兆は必ずあります」と言われました。ただ関心がないとその前兆が分からないのです。

★イエス様は「この天地は滅びます。しかし、私のことばは決して滅びることがありません」(13:31)と言われました。自然も、人間の作った全ての建築物も、必ず滅びます。しかしイエス様の言葉だけは、決して滅びることがないのです。そのことを霊的な目を覚ましてしっかりと見なければなりません。

★キリストを殺しキリスト教徒を迫害した人々も、ローマ帝国も滅びました。しかしイエス様の言葉を信じる教会は、決して滅びませんでした。今ある中国もアメリカも日本も、必ず滅びる時が来ます。しかしイエス様は、「私のことばは決して滅びることがありません」と言われています。ここに出てくるイエス様の「ことば」は複数形であり、イエス様の全てのことばは滅びることがないのです。

★イエス様は「目を覚ましていなさい」と三度も言われました。まず霊的な目を覚まして、イエス様が再臨されることを忘れないようにしましょう。二番目に、私達の人生には神様からの使命があることを忘れないようにしましょう。三番目に、いつイエス様が再臨されても、その時に眠っていないようにしましょう。それは信仰のことです。目を覚ますとは、「イエス様のことばは永遠になくなることはない」と信じて、イエス様のことばに生きることです。信仰の目を覚まして、イエス様にお仕えする生活をしましょう。

(6月30日主日礼拝メッセージ)「力と栄光のキリスト」

(主日礼拝メッセージ)「力と栄光のキリスト」マルコ13章14~27節

                         仁井田義政 牧師                    

今日の御言も、13章4節の「世の終わりにはどんな前兆があるのですか」という弟子達の質問に答えられたイエス様の言葉です。

★イエス様は「荒らす憎むべきものが、自分が立ってはならない所に立っているのを見る・・・山に逃げよ」と教えられました。「憎むべき者」は、サタン的な霊力を持った者と考えることもできるでしょう。立ってはならない所に立つ、つまり自分を神として礼拝させるような者と考えることもできます。そのような者がサタンの力を帯びて現れた時には「山に逃げよ」と教えられました。戦ってはならないのです。その時に起こることは、天地万物が創造された時以来なかったような激しい苦難の日だからですとも教えられました。

★その時代には、偽キリストや偽預言者が奇跡を起こして選民をも惑わすのです。世の終わりには、恐るべき偽キリストと偽預言者(偽牧師)が現れると預言されたのです。選民(神様に選ばれたクリスチャン信徒とも考えられる)をも、奇跡を見せて惑わすというのです。そのような奇跡としるしを行ない、神から遣わされたしるしの奇跡を行なう者があそこにいる、ここにいるという声を聞いても、騙されてはいけませんとイエス様は教えられました。

★しかしそのような時に、「人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来られる。」とイエス様は言われました。人から生まれるのではないのです。天から直接来られるのです。人間から生まれた者は、みな偽キリストです。世の中に、サタンの力が猛威を振っているかのように見える時、イエス様が「偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来られる。」のです。

★「人の子」とは、キリストのことです。神様による地球の最後の日、宇宙は壊滅します。しかしキリストは、クリスチャン達を一人もお見捨てにはなりません。天使を送り、地の果てから天の果てまで探し回って救出するのです。その人々は、神様が選ばれた「選びの民」つまりクリスチャンなのです。

★現代は、世界でも日本でも偽キリストや偽預言者が活動し始めています。その中でどのようにして正しい信仰を守るか、それは奇跡などに惑わされないことです。確かに神様は奇跡を行なうことができます。しかし偽キリストも、サタンの力で奇跡を行ないます。それではどのようにして判断したらよいのでしょうか。それは聖書によってです。聖書による正しい信仰に生きましょう。

(6月23日礼拝メッセージ)「最後までしっかりと立って」

(主日礼拝メッセージ)「最後までしっかりと立って」マルコ13章1~13節

                         仁井田義政 牧師                    

弟子達は、イエス様がエルサレムで既に主導権をおとりになったという思いでいっぱいになっていたと思われます。そこで今日の弟子達の質問と、イエス様の答えが始まるのです。

★イエス様と弟子達は、夜は今日もエルサレムを出てベタニヤで宿泊されました。その途中、弟子のひとりが神殿の建物の立派さに感動して言いました。イエス様が、これから神殿を拠点とすることになるだろうと思っていたと思われます。ところがイエス様は、「この巨大な神殿は、跡形もなく破壊されてしまう」と預言されたのです。

★イエス様が入るはずの神殿が破壊されるとは、とんでもない驚きであったと思います。その神殿でイエス様の左右の席に着きたいと思っていた二組の兄弟がいました。その四人が来て「いつ、そのような事が起きるのですか。その時にはどんな前兆がありますか」と質問しました。

★イエス様はその質問に答えて、「人に惑わされないように気を付けなさい」と言われました。それはクリスチャンをも惑わす偽キリストと、偽預言者が多く現れるということです。その時は、親からも子からも裏切られるような迫害が起こると、イエス様は言われました。

★この福音書は、西暦の67年頃にローマのクリスチャンのために書かれたと言われています。当時の64年に皇帝ネロによる迫害が起こりました。パウロは65年に殉教したと言われています。その67年頃に書かれたとすれば、パウロの死の二年後です。イエス様が預言された迫害を信徒達が体験している真っ只中です。

★その中でイエス様が言われた「最後まで耐え忍ぶ者は救われます」(13節)という信仰の戦いをしている時なのです。「耐え忍ぶ」というギリシャ語の意味は、「しっかりと立つ」です。それは「必ず勝利するのだから」という希望を見つめて立っている姿です。この福音書が書かれた3年後の西暦70年に、エルサレムの神殿はローマ軍によって跡形もなく破壊し尽くされてしまいました。今や神殿が正確にどこにあったかさえも、厳密には分からない状態です。イエス様の言われた通りになったのです。私達も偽預言者や偽牧師に惑わされることなく、正しい信仰に最後までしっかりと立ち続けましょう。

6月16日礼拝メッセージ「神様への信頼」

(主日礼拝メッセージ)「神様への信頼」マルコ12章38~44節

                    仁井田義政 牧師                    

イエス様が十字架につけられる直前の緊迫した日の出来事として、貧しい女性の感動的な行為が聖書に記されました。それは、私達にこの女性のような人になりなさいとのイエス様の遺言と言えるでしょう。

★今日の聖書に記されている律法学者や金持ちの男性は、イエス様から良く言われていません。両方とも権力欲が強く、人の目に立派に見えるようにするのが大好きだからです。今日は父の日ですが、男性はこの逆の心を持って生きるならば、イエス様の心にかなう人となるのです。

★律法学者や金持ちの男性は、どうしてイエス様の御心にかなわなかったのでしょうか。律法学者は、自分の律法学者としての立場を見せびらかし、金持ちの男性は、人々からの尊敬を受けたくて、多くの献金を捧げたのです。イエス様の目は、そのことを見抜いておられました。

★今日の聖書の主人公は、神様にレプタ二つを投げ入れた女性です。イエス様はそれを見て、強い感動を覚えられました。どうしてそれほど感動されたのでしょう。レプタはこの時代の最小コインでした。日本円の最小コインは1円ですが、当時1レプタは100円くらいの価値がありました。ですからレプタ2つで約200円です。レプタ二つあれば、パンが買えたのです。しかも貧しい女性がそうしたのです。それがこの女性の「生活費の全部」(12:44)でした。この女性は、律法学者や金持ちのような、人に見せびらかすような卑しい考えから解放されていました。神様への感謝という澄み切った心でお捧げしたのです。イエス様は、その信仰を見逃すことはありませんでした。

★イエス様は、信仰の純粋性を見抜く目を持っておられました。「私の神様は明日の必要の全てを守って下さる」という信仰に立って、生活費の全部を捧げたのです。当時、女性よりも男性の方が神様に近いという考えがありました。しかしイエス様は、男性の弟子達を集めて「あなたがたの信仰も、この貧しいやもめに倣うように」と教えられたのです。イエス様は弟子達に「まことに、あなたがたに告げます」(12:43)と言われました。イエス様の感動の程がうかがえます。イエス様が4日前にエルサレムに入られてから、イエス様に近付いて来るのはイエス様の命を狙う人々ばかりでした。その中でこの女性の純粋な信仰に触れたのです。私達もこの女性のような純粋な信仰者になりましょう。