11月19日礼拝メッセージ「なぜ理屈を言っているのか」

(礼拝メッセージ)マルコNO11「なぜ理屈を言っているのか」2章6~11節

                       仁井田義政 牧師

 今日のメッセージの箇所は、ガリラヤのカペナウム町で起こったことの続きです。それは屋根を剥いで病人を吊り下ろしたという事件でした。そこにいた律法学者が、イエス様の言葉に疑問を持ちました。それはイエス様が「中風の人に、子よ、あなたの罪は赦されました」と言われたからです。そのことになぜ疑問を持ったのでしょう。

★律法学者は、聖書を全部暗記しているような人達でした。彼らも、イエス様は病人を癒すだろうと期待していました。しかしイエス様は罪の悔い改めの話をし、罪の赦し宣言をされましたが、癒しを行なわなかったのです。彼らはイエス様の「罪の赦しの宣言」に躓きました。「神は人を用いて癒しはするだろうが、罪の赦しは神のみにしかできない。イエスは人間なのに思い上がって罪の赦しまで宣言した。許しがたい」と心の中で呟いたのです。イエス様は、その呟きを見抜かれました。

★イエス様が「罪の赦しの宣言」をされたからといって、この人の罪が病気にしたと言っているのではありません。全ての人が罪人なのです。ですから律法学者も私達も罪人なのです。本当は病よりも罪の方が深刻なのです。ですから屋根を破ってまでも入って来たその人に、イエス様は罪の赦しを宣言されたのです。

★律法学者達は、優れたマジシャンを見に来る人達のように、イエス様の奇跡を見に来たのです。しかしイエス様は、誰も見ることが出来ない「罪の赦し」を宣言されたのです。律法学者達は、「罪の赦しの宣言など律法に触れることを無視さえすれば誰にでも出来る。しかし癒しは見えるので嘘はつけない。だから癒しの方が難しい」と思ったのです。

★中風の人は、屋根を裂いてイエス様の所に来ました。イエス様は、この人や私達に会うために、天を裂いて来られたのです。「人の子」(ダニエル7:13-14)「永遠の主権者」のことです。まず罪を赦す力があるから病も癒すことが出来る。病を癒す力があるから罪を赦すことが出来るのではありません。そこを間違うと、同じようで全く違う信仰となってしまうのです。最高のイエス様の御力は、罪の赦しの中に示されます。それが最高の奇跡なのです。私達は律法学者達のように理屈を言う者とならず、イエス様の罪の赦しと救いを信じる者となりましょう。

11月12日礼拝メッセージ「神様の約束を信じて」

(礼拝メッセージ)「神様の約束を信じて」ヨシュア記6章1~5節

                         楠 亜紀子 師

今日は旧約聖書のヨシュア記からご一緒に御言を学びたいと思います。

★今日の御言の中にヨシュアという人物が出てきますが、ヨシュアは、40年間荒野でイスラエルの民を導いたモーセの後継者です。イスラエルの民は、神様が約束されていた地、乳と蜜が流れるカナンの地を目指して進んでいます。しかしカナンの地に入るのは簡単ではなく、それぞれの土地に住んでいる民を追い出し、その土地を攻め取りながら進んで行かなければなりません。今まではモーセが民を導いていましたが、モーセが亡くなった後はヨシュアが民を導きました。

 

★1節に「エリコはイスラエルの人の前に城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった」とあります。エリコの町はとても大きくて高い石の壁で囲まれているため、なかなか攻め落とすことが難しい城壁の町でした。人間の目で見るなら、その高い城壁を見ただけで攻めることを諦めてしまいたくなるような光景だったことでしょう。行く手にはまさしく「大きな壁」が立ちふさがっています。しかし2節には「主がエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した」とあります。神様はすでに勝利を約束されています。そして3節から書かれてありますように、神様には作戦があります。イスラエルの戦士たちは町の周囲をぐるりと一度回り、六日間同じことをします。六日間は何も起こりませんが、七日目には神様のご計画通りに堅固な城壁が崩れ落ちます。

 

★私たちも人生の歩みの中で、問題や悩みなどの大きな壁が目の前に立ちふさがることがあるかもしれません。しかしそのような時、私たちは諦めてはいけません。どのような大きな壁であっても、神様はその壁を打ち崩す方法を持っておられます。たとえ毎日何も変化がなく、いつになったらこの壁が崩れるのだろうと思うことがあっても、必ず「神様の時」「勝利の時」が来ます。イスラエルの民が目に見える変化は何も無くても黙々と六日間廻ったように、私たちも神様の時、勝利の時を信じて、日々の信仰生活をこつこつと積み上げ、主の言葉に忠実に従い、主と共に勇敢に歩みましょう。

 

11月5日礼拝メッセージ「激しき求道者」

(礼拝メッセージ)マルコNO10「激しき求道者」2章1~5節

仁井田義政 牧師

 イエス様が人の住んでいない寂しい荒野におられても、あらゆる所からイエス様を求めて人々が集まってきました。ひっそりとカペナウムの町に入り家におられても、それを知った人々がその家に集まり、満員電車の混雑のような状態になってしまったのです。そこで奇想天外なことが起こりました。その出来事とは、激しく道を求める人達のとった行動でした。

★イエス様のおられた家は、既に戸口まで人々がいっぱいになっていました。イエス様が「今日何時から集会を行ないますから是非いらしてください」と言われたわけではないのです。むしろ数日間寂しい所におられたので、人々から離れて休まれたかったのではと思われます。しかし群衆が押し寄せてきてしまったのです。そこでイエス様は、その人達に御言を話しておられました。それは「あの福音の御言」でした。(1章15節)

★そこへ四人の者達が、中風の人をベッドに寝かせて運んできました。しかしその家は、人々がいっぱいで入れません。そこで四人の者達は、諦めず屋根に登り、屋根を剥ぎ大きな穴をあけたのです。その家中に泥煙と土が落ちたことでしょう。イエス様の話は中断され、人々も怒りに満ちていたでしょう。非常識極まりない行為です。すると屋根に開いた穴から、ベッドに寝たままの中風の者が吊り下ろされたのです。

★人々は埃まみれにされ、その行動を責める目で見ていたことでしょう。イエス様も集会を滅茶苦茶にされたのです。しかし、イエス様の見る目は違っていました。イエス様は、彼らの行動の中に信仰の最高の姿を見たのです。そして「子よ、あなたの罪は許されました」と言われました。「子よ」と言う言葉は、当時弟子として認めた時だけに使われた言葉です。病気の癒しを求めたのに「あなたの罪は赦されました」とイエス様は言われました。人間にとって、罪が許されることが最高の救いなのです。

★神の国に入る為に、どんな邪魔者も排除して屋根に穴をあけ、イエス様の救いに突進して来た者が、今日の主人公なのです。既に家いっぱいになっている人達は、自由に行動できる人達でした。しかしイエス様は彼らにではなく、不自由な体で必死にイエス様を求めて来た人に「子よ、あなたの罪は赦されました」と言われたのです。私達もこの人のように、激しくイエス様を求める人になろうではありませんか。

 

10月29日礼拝メッセージ「主の心が激しく痛んだ」

(礼拝メッセージ)マルコNO9主の心が激しく痛んだ1章40~45節

仁井田義政 牧師

 今日の聖書の背景も、町の外の寂しい所です。しかしそこに町から追い出された人がいました。「重い皮膚病」に侵され人です。その人は「神からも人からも捨てられた人」と言われ、自分でもそう思って疑わない人でした。当時の人々は、この病気の人に触れられると汚れると思い、逃げました。そのような人とイエス様が出会ったのです。

★その人は「お心ひとつで私を清くしていただけます」とイエスの前にひざまずきました。その病にかかった人は、人前に出て来ること自体が許されない時代でした。病気を隠してそっと去るか、隠しきれなければ「私は、汚れた者です。私から離れて下さい」と叫ばなければなりませんでした。しかし彼はイエス様の前にひざまずきました。彼の「お心ひとつで・・」という言葉は、確信と謙虚さに満ちています。

★イエス様は「深くあわれんで」、「手を伸ばして彼に触って」、「私の心だ、清くなれ」と言われ癒されました。「深く憐れんで」は、内臓が痛むという意味の強い言葉です。それと当時に「激しく憤って」という意味もあります。憤りは怒りのことです。イエス様は誰に怒られたのでしょうか。病人にでしょうか。そうではありません。彼を人間社会から荒野に追い出してしまった者達に憤りを感じられたのです。彼に対して、人々は手を引っ込めたのです。そして病人も手を差し出せない状況にされてしまっていたのです。その彼にイエス様は「手を差し出して」触れられたのです。イエス様は病気に対する差別であれ、どんな差別であれ、憤られるのです。

★イエス様は彼に「祭司に重い皮膚病が治ったとだけ伝えよ。私の癒しを誰にも言ってはならない」と厳しく戒めました。病気の癒しの為にだけ祈る呪術者、シャーマンと受け取られることを嫌ったのです。「祭司に見せなさい」と言われたのは、癒しの証明は祭司だけが出せたからです。それは彼が社会復帰をするために必要なことでした。しかし彼は、イエスによる病の癒しを言い広めてしまいました。その結果、イエス様は町に入れなくなってしまったのです。

★イエス様は、その人の苦しみを見て、激しくあわれみの心を現され、その人に手を伸ばされたのです。イエス様は、私達の願いを「内臓が痛むほどに」心配して下さいます。そして救って下さいます。あなたを誰よりも愛して下さっているイエス様を信じる者になりましょう。

 

10月22日礼拝メッセージ「群衆を残して」1章35~39節

(礼拝メッセージ)マルコNO8「群衆を残して」1章35~39節

                       仁井田義政 牧師

 カペナウムの町でのイエス様の伝道は大成功でした。しかし、イエス様は朝早く祈り、弟子達を連れてその町を出て行ってしまわれたのです。それはキリストの不思議あり、奥義です。奥義はミステリーです。ミステリーであればこそ、聖霊によって見せて頂く以外に方法はないのです。そしてこの奥義を知ったならば、私達もそのように生きることが大切なのです。

★前日、カペナウムにあったペテロの姑の家に、多くの人々がキリストを求めて押し寄せて来ました。イエス様が伝道を開始してすぐの大成功です。病を癒すイエス様の名声がカペナウム中に広まりました。しかしイエス様は早朝の祈りの中で、その大成功にご自分の使命の危険を感じたのです。

★朝、弟子達はイエス様がおられないことに気付き「イエスを追って来て、彼をみつけ」(36-37節)と記されています。それは「懸命に後を追い、捜し歩いて見つけた」という意味なのです。弟子達は、昨日の祈り残された群衆が来ていることを伝え「みんながあなたを探しております」と言いますと、イエス様は「さあ、別の近くの村里へ行こう」と言われました。イエス様は明らかに「癒し」のみを求める群衆を嫌ったのです。

★イエス様は「さあ別の村里に行こう、そこにも福音を知らせよう。わたしはそのために出てきたのだから」(38節)と弟子達に言いました。福音とは何でしょうか。それは神様との関係を正しくすることです。その関係の為には「悔い改め」が必要なのです。イエス様は、人気を得て拍手喝采を受ける為に来られたのではないのです。福音を伝えるためです。イエス様はカペナウムの町の「癒し」のみを求める大群衆よりも、村里の少数の福音を求める人を選ばれたのです。

★誰でも派手なことに心引かれる部分があります。一人二人よりも大衆からの喝采を求める傾向があります。イエス様が早朝の祈りの中で、はっきりと決意されたこと、それはこのカペナウムの大衆を置き去りにすることでした。癒しのみを求めてはなりません。癒しのみを求める人をイエス様は置き去りにされます。神様の完成して下さった福音を信じ、神の国に入れて頂きましょう。そうすれば病も癒されるのです。イエス様は福音を伝える為に来られたのです。イエス様を正しく信じましょう。イエス様は群衆の拍手喝采よりも、あなたの正しい信仰を喜ばれるのです。

 

10月15日礼拝メッセージ「圧倒的な勝利者」

(礼拝メッセージ)「圧倒的な勝利者」ローマ8章35~39節

                          仁井田幸子師

  今日の御言は、私達がイエス様によって力強く生きることが出来ると約束しています。今日、この御言をもう一度しっかり受けとめましょう。

★聖書は、私達がクリスチャンになっても苦しみが無くなるとは言っていません。かえって様々な苦しみを「喜びなさい」(マタイ5:10~12)とさえ言っています。なぜでしょうか。それは、私達が苦しむことによってさらに神様の大きな愛と慰めを体験するようになるからです。(第二コリント1:4~5)   35節に「私達をキリストの愛から離すのはだれですか。艱難ですか。苦しみですか。迫害ですか。飢えですか。裸ですか。危険ですか。剣ですか」と七つ記されていますが、それは完全数で、あらゆること全てに於いて「圧倒的な勝利者」となると言うことです。

★この「勝利」という言葉は、最上級のギリシャ語で、日本語には訳しきれない強い意味のものです。「圧倒的な勝利」「輝かしい勝利」「完璧な勝利」「勝って余りある」等。このことから私達は、やっとの思いで勝利するのではなく、絶対的な勝利者となれることが分かります。そして揺るがない平安へと導かれるのです。ドイツの音楽家ベートーヴェンも苦しみの中から立ち上がり、素晴らしい数々の曲を作りました。小さい時から天才ピアニストとして育ち、成人する頃には有名なピアニストになっていました。ところが27才の頃、耳が聞こえなくなり、絶望して死も考えたと言います。しかしその苦しみの中から、たとえ耳が聞こえなくても作曲は出来るとの希望が与えられ、あの有名な交響曲第九番「喜びの歌」を作曲しました。絶望からの勝利です。

★では私達は、どのようにすれば、圧倒的な勝利者となれるのでしょうか。ひとつは、常に神様との個人的な交わりをもつことです。交わりがないと信頼が揺らぎます。順境の時も逆境の時もどんな時も、神様に語りかけそして御声を聞くことです。次に私達が御言に従い、忠実であることです。不誠実・不真実・不忠実であるならば、神様に対する心の責めが生じ、力強く生きることが出来ません。

★私達は、常に神様と交わりをもち、御言を信じ忠実な者になりましょう。そして圧倒的な勝利者となりましょう。「世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(第一ヨハネ5:5)

2018年10月8日礼拝メッセージ「会堂を出るとすぐに」

(礼拝メッセージ) マルコ NO7「会堂を出るとすぐに」1章29~34節

                        仁井田義政牧師

 

 当時、安息日には医者でさえも病人に手当てすることは許されませんでした。しかしイエス様は会堂で癒しの御業を行なわれました。そして同じ日に、会堂を出てすぐに弟子になったばかりのペテロの姑をも癒されました。

★イエス様は、会堂を出ると「すぐに」ペテロの奥さんの家に向かわれました。「すぐに」と言う言葉には、イエス様の計画性が感じられます。ペテロの姑から見れば、イエス様は娘の夫を漁師生活から奪い取り、娘の生活を不安に陥れた人なのです。イエス様は、ペテロの姑が熱を出して寝ていることを知っておられたと思われます。安息日なので、医者に診てもらうことも出来ずに伏していたのでしよう。イエス様は礼拝が終わると「すぐに」ペテロの姑の癒しの為に向かわれました。イエス様は、ご自分に従う者の家族をしっかりと心に留めておられるのです。

★イエス様は、またも安息日破りをされました。安息日の掟を破ってでも早く癒してあげたいとのイエス様の真心をペテロの姑は体験したのです。するとペテロの姑の熱は癒されました。癒されるとすぐに料理を作って、イエス様とお弟子達を「もてなし」ました。この「もてなした」と言う言葉は、日本語では訳しにくい「未完了過去形」が使われています。それは「もてなし続けた」となるのです。つまり、それから事あるごとにもてなし続けたのです。世界で最初にイエス様にお仕えした人は、弟子達や他の者ではなく、名も無きペテロの姑だったのです。

★人々は日が沈むのを待って、ペテロの姑の所に押し寄せてきました。日没で安息日は終わり、新しい一日が始まったからです。イエス様は「多くの病を癒し、多くの悪霊を追い出され」ました。イエス様の権威に逆らうことは出来なかったのです。

★皆さんが教会の礼拝に来られ、そして家に帰られる時、イエス様もあなたの家に一緒に帰られるのです。ペテロの姑が熱病で苦しんでいる時、律法破りと言われて自分の身に危険が及んでも解決して下さったように、イエス様はあなたの家族に対して強い愛を持っておられます。イエス様の強い癒しを信じましょう。皆さんが礼拝から帰られる時、イエス様も一緒に行って下さることを信じましょう。そして家族の救いを願いましょう。

 

2017年10月1日 礼拝メッセージ「イエス様の権威と力」

(礼拝メッセージ)マルコNO6「イエス様の権威と力」1章21~28節
仁井田義政牧師

 ガリラヤ湖の漁師4人を弟子にしたイエス様は、同じガリラヤのカペナウムの町に行かれました。そこにはユダヤ人達の会堂がありました。イエス様は安息日にそこに入って行かれ、そこで神様の御言を話し出されたのです。すると人々はその教えに驚きました。それは今まで聞いたことのない新しい教えだったからです。
★その新しい教えとは何だったのでしょうか。それまでの律法学者達の教えは「律法を守れない者は絶対に神の恵みに入れない。律法を守れ」と言うような教えでしたが、それとは真逆の「権威のある新しい教え」だったのです。
★シナゴークでの教えの内容を要約すれば、1章14~15節で言われた「時が満ち、神の国が近くなった。悔い改めて福音を信ぜよ」です。「時が満ちて、救い主の時代」が始まったのです。ですから「神の国は、誰でも悔い改めて信じるならば入れる近くに来た」のです。つまり悔い改めるならば、誰でも救われるという福音です。「自分は罪人で救われない」と思っている人々は、解決出来る教えを聞いたのです。
★するとイエス様の教えに汚れた霊が騒ぎ出し、イエス様の言葉に汚れた霊も出て行ったのです。イエス様が来られるまでは、汚れた悪霊「たち」は人の中に安心して住み込んでいたのです。共同訳聖書では、汚れた霊は「私達をかまわないでくれ」と言ったと記されています。それに対しイエス様は、「黙れ」と命じられました。それは「くつこをかけよ」の意味があります。「くつこ」とは馬の口につける籠のことです。
★イエス様の「権威ある力」を信じないで、自分は汚れた霊につかれているというクリスチャンがまれにいます。イエス様より汚れた霊の力が強いと信じていれば、汚れた霊はその人のうちに安心して住み続けるのです。しかし、この会堂にいた人のように、イエス様が会堂に来て下さって「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言われた言葉を信じ始めた時に、汚れた霊はその人のうちに住むことが出来なくなるのです。
どのような人でもイエス様の言葉を信じて実践するならば、新しい人生を始めることが出来るのです。イエス様の言葉には権威があります。私達の人生を変えることの出来るイエス様の力を信じましょうラヤ湖の漁師4人を弟子にしたイエス様は、同じガリラヤのカペナウムの町に行かれました。そこにはユダヤ人達の会堂がありました。イエス様は安息日にそこに入って行かれ、そこで神様の御言を話し出されたのです。すると人々はその教えに驚きました。それは今まで聞いたことのない新しい教えだったからです。
★その新しい教えとは何だったのでしょうか。それまでの律法学者達の教えは「律法を守れない者は絶対に神の恵みに入れない。律法を守れ」と言うような教えでしたが、それとは真逆の「権威のある新しい教え」だったのです。
★シナゴークでの教えの内容を要約すれば、1章14~15節で言われた「時が満ち、神の国が近くなった。悔い改めて福音を信ぜよ」です。「時が満ちて、救い主の時代」が始まったのです。ですから「神の国は、誰でも悔い改めて信じるならば入れる近くに来た」のです。つまり悔い改めるならば、誰でも救われるという福音です。「自分は罪人で救われない」と思っている人々は、解決出来る教えを聞いたのです。
★するとイエス様の教えに汚れた霊が騒ぎ出し、イエス様の言葉に汚れた霊も出て行ったのです。イエス様が来られるまでは、汚れた悪霊「たち」は人の中に安心して住み込んでいたのです。共同訳聖書では、汚れた霊は「私達をかまわないでくれ」と言ったと記されています。それに対しイエス様は、「黙れ」と命じられました。それは「くつこをかけよ」の意味があります。「くつこ」とは馬の口につける籠のことです。
★イエス様の「権威ある力」を信じないで、自分は汚れた霊につかれているというクリスチャンがまれにいます。イエス様より汚れた霊の力が強いと信じていれば、汚れた霊はその人のうちに安心して住み続けるのです。しかし、この会堂にいた人のように、イエス様が会堂に来て下さって「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言われた言葉を信じ始めた時に、汚れた霊はその人のうちに住むことが出来なくなるのです。
どのような人でもイエス様の言葉を信じて実践するならば、新しい人生を始めることが出来るのです。イエス様の言葉には権威があります。私達の人生を変えることの出来るイエス様の力を信じましょう。

9月24日礼拝メッセージ「イエス様が呼んでおられる」

(礼拝メッセージ)マルコNO5「イエス様が呼んでおられる」1章16~20節

                          仁井田義政牧師

  今日の聖書の箇所は、イエス様がガリラヤに来られてから数日~数週間は経っていたと思われます。その間にもイエス様は、幾度か人々を前に「神の福音」を話されたでしょう。実はガリラヤの漁師達とは少なくとも一ヶ月ちょっと前に、洗礼者ヨハネの活動していた荒野でイエス様と会っています。おそらくガリラヤの漁師達はエルサレムの神殿に巡礼に行っていたのでしょう。洗礼者ヨハネがイエス様が自分の方に歩いてこられるのを見て「見よ神の子羊」と行った時「洗礼者ヨハネの弟子がそのイエス様についていった」と記されているのが漁師たちなのです。イエス様の泊まっておられるところについて行ってイエス様から直接話を聞いているのです。その事はヨハネの福音書1章35節以降に記されています。ですからペテロもヨハネもガリラヤ湖の岸辺で、夕方イエス様に声を掛けられる前にイエス様の事を知っていたのです。それで再度イエス様に声をかけられ、その声に4人の漁師たちが即座にイエス様の弟子となって、イエス様について行ったということになるのです。

★シモンの家は代々の漁師でした。宗教などとは程遠い生活をしていたのです。しかも彼らは「異邦人のガリラヤ」と差別された地域に住んでいました。当時、宗教家が名を挙げたければ首都エルサレムに行くのが常でした。しかしイエス様は、エルサレムからガリラヤに来られたのです。

★イエス様は御自分の弟子を選ぶにあたって、漁師に声をかけられました。当時の漁師は、何の学問もなかった人々です。そのような人々を自分の弟子にするために呼び掛ける宗教家などいなかったはずです。そのハンディを無視して、漁師に呼びかけられたイエス様に驚いたことでしょう。しかも能力が有るかどうかではなく、「私が人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたのです。

★私達が、イエス様に用いられるかどうかは、イエス様の招きに従うかどうかだけなのです。シモン(ペテロ)とその兄弟アンデレは、イエス様の招きにすぐに従って弟子となりました。漁師という家業はどうなるのか等と心配せずに、一切を神様に委ねてイエス様の招きに従ったのです。他の漁師ヤコブとヨハネも同じでした。当時の宗教家の弟子達と比べれば、ガリラヤ湖に漂うゴミのように見えた者達が、イエス様の弟子として選ばれたのです。

★イエス様は、今も牧師や伝道者や宣教師になる人を求めておられます。また教会での奉仕者としても献身的に働く人を求めておられます。能力が有るかどうかではありません。「私に従ってきなさい」という言葉に従順に従うかどうかが大切なのです。イエス様が「私が人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたように、従う者にはその能力をも備えて下さるのです。牧師や伝道者に召される人も同じです。イエス様が人間をとる漁師にして下さるのです。イエス様にお仕えする人になる為に、今日はっきりと献身しましょう。

 

9月17日礼拝メッセージ「神の国が近づいた」

(礼拝メッセージ)マルコNO4「神の国が近づいた」1章14~15節

                       仁井田義政牧師

  イエス様はバプテスマのヨハネの殉教死を知ると、エルサレムからは遠いガリラヤ地方に帰られ「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(1章15節)と宣教を開始されました。その宣教の内容が、この御言の中に完璧な形で記されています。

★洗礼者ヨハネがヘロデ・アンテパス王に殺されることになったのは、実の兄弟のフィリポの妻を奪って結婚していたからです。ヨハネはその罪を悔い改めるように王に迫って殺されたのです。ヨハネの死を知って、イエス様は宣教を開始されました。それも首都エルサレムではなく、北の外れ、ガリラヤ地方で開始されたのです。

★聖書を注意して読みますと、イエス様は「神の福音を宣べ」と記されています。福音とは喜ばしい知らせのことです。「王様に子が生まれた」とか、「王子様が結婚」したとか、それを民に知らせるのが福音と言われたのです。現代においても良い知らせはあります。希望の学校に合格、入社決定、結婚、病気の快気など。しかしイエス様が伝え始められたのは「神の福音」です。人間からのものではなく、神からの福音です。

★その福音の内容については、まず「時が満ちた」と言われました。ついにその時が来たのです。長い間待ち望んでいた人類の救い主が、時満ちて活動を開始されたのです。キリストの時代が始まったのです。次に「神の国は近くなった」と言われました。「神の国」とは、福音を信じる者が入れて頂ける神様の守りのことです。そこに入れるという知らせが来たけれども、そこに入るには私達人間のすべきことがあるのです。それは次に「悔い改めて福音を信じなさい」とイエス様が言われたことです。悔い改めるとは、今まで神様を無視していた生活を悔い改めて、神様を礼拝する者となることです。 

★イエス様が、遠く離れた「異邦人のガリラヤ」と言われていた所から福音宣教を開始されたと言うことは、最も神様から遠い生き方をしていたあなたのそばにも神の国が近づいたと言う喜ばしい訪れ、福音なのです。あなたも、イエス様によってごくそばに神の国が近づいたことを知って、今までの神様を無視した生き方を悔い改めて、神の福音を信じましょう。