10月13日礼拝メッセージ「茨の冠の王イエス」

(礼拝メッセージ)「茨の冠の王イエス」マルコ15章16~21節

                        仁井田義政牧師

 ピラトの官邸において、イエス様は政治犯として極刑が確定しました。ローマに対する政治犯の極刑は、十字架刑です。ローマ人にとって十字架刑に決まった者は、人間として扱いませんでした。イエス様も兵士達のおもちゃにされたのです。

★ピラトの庭で兵隊に囲まれたイエス様は、既に三回の裁判にかけられていました。①大祭司②領主ヘロデ③ピラトの官邸での裁判です。その裁判の後、イエス様は激しい鞭打ちにあっています。この時に命を落とす者がかなりあったと言われています。兵隊に渡されたイエス様は、肉体的限界であったことに間違いありません。

★ローマ兵に渡されると、全部隊が招集されました。その目的は、イエスをいたぶり楽しむためでした。全部隊とは、ギリシャ語の「スペイラン」で600人の兵士から構成されていました。その半分と見ても300人が集まったのです。兵士達はイエス様に紫のマント、茨の冠、王の権威の象徴である笏の代わりに葦の棒を持たせました。そうして「王様万歳」とからかったのです。

★イエス様は、大祭司の庭で想像を絶する屈辱を受けました。(14:65)今回で二度目です。神の御子イエス様が、この屈辱にじっと耐えられたのです。一言も兵隊への悪口も言われなかったし、命乞いもしませんでした。何故でしょう。それはイエス様が、私達の罪を背負って身代わりとなり、罪の裁きを受けているという自覚と確信に満ちていたからです。

★イエス様は私達の救いを完成させる為に、御自分の自尊心も、神の子としての名誉も、全て犠牲にされました。肉片が飛び散る鞭を受けながらも、300人から600人からなる兵士達の嘲笑を受けながらも、そのあざ笑いを一身に受けて耐えられたのです。まるでそのようにされるのを自らが望んでおられるかのようです。そうです。イエス様はそれを強く望んでおられたのです。私達人間のあらゆる苦痛を自分の身に引き受けて下さっていたのです。

★私達はそのイエス様の愛に応えるために、私達も苦痛を受ける覚悟で生きているでしょうか。むしろ少しの苦痛でも引き受けることを避けて生きていないでしょうか。私達もイエス様の為ならば、喜んで苦痛を引き受けるクリスチャンとなろうではありませんか。

10月6日礼拝メッセージ「主の沈黙とピラトの驚き」

(礼拝メッセージ)主の沈黙とピラトの驚きマルコ15章1~15節

仁井田義政牧師

イスラエルの最高裁で、イエス様の死刑が確定しました。その後、大祭司によってローマの総督ポンテオ・ピラトの官邸に送られました。イスラエルはローマの植民地だったので、ピラトによる裁判を受けなければならなかったのです。ピラト官邸における裁判も、不思議な裁判となりました。それはイエス様の沈黙にありました。今日はそのイエス様の沈黙と、そこから見えて来る救いの真理に心を留めましょう。

★大祭司の庭での裁判の後、イエス様は人々からリンチに遭いました。もう既に顔も、見るも無残に腫れあがっている状態だったでしょう。イエス様は縄で縛られて、犬のようにピラトの前に立たされたのです。ピラトには「イエスはユダヤ人の王と言っている」と、その罪状が伝えられていたはずです。罪状は、大祭司の庭の裁判では「自分を神と等しいと言った」という宗教的罪でしたが、ピラトの所では「イエスはユダヤの王と言った」という政治犯に変えられていました。

★イエス様はピラトの「あなたはユダヤ人の王ですか」との質問に、はっきりと「その通りです」と答えられました。大祭司の裁判でも「あなたは神の子キリストか」との問いに「私はそれです」とはっきりと答えられました。両裁判の共通していることは、その一言以外は「沈黙」をし続けたことです。裁判で被告人は、必死になって自己弁護するものです。

★それにしてもなぜイエス様は、沈黙を続けられたのでしょうか。それは、イエス様を裁こうとしている御方が、父なる神様であることを知っておられたからです。イエス様は、私達の全ての罪を身代わりとなって引き受けて下さったのです。そのために父なる神様に裁かれるのです。自分を弁護して無罪とでもなれば、私達人間を救う神様の計画は崩れ去ってしまうのです。

★ですから、被告人の沈黙が続く前代未聞の裁判となったのです。ピラトはその沈黙に驚きました。私達も、今日の御言に現わされているイエス様の沈黙に驚かなければなりません。イエス様は私達をそれほど愛しておられるのです。そのイエス様の愛を受け取る人になりましょう。

9月29日礼拝メッセージ「鶏が鳴きペテロは泣いた」

(礼拝メッセージ)「鶏が鳴きペテロは泣いた」マルコ14章66~72節 仁井田義政牧師

 ペテロは、イエス様が「あなたは今夜、三度わたしを知らないと言う」と預言された通りに、イエス様を三度も否定してしまいました。その時ペテロはイエス様の言われたことを思い出し、イエス様を見ました。するとイエス様もペテロを見ました。イエス様の目とペテロの目が合いました。そのことは、ルカ22章60~62節に記されています。そのようなことを心に置きながら、今日の御言を見ていきましょう。

★イエス様が大祭司の家で夜中の裁判を受けている間、祭司長の家の庭で兵隊や群衆が、火を焚いて暖を取っていました。寒さが身に染みる夜だったからでしょう。ペテロも闇に紛れて焚火にあたっていました。しかし火に照らされたペテロの顔を、大祭司の女中が凝視し「あなたもナザレ人イエスと一緒にいた」と言ったのです。それに対して、ペテロは「あなたが何を言っているのか分からない」と動揺し、即座に否定しそこを逃げ出しました。

★しかし女中は着いてきて、しつこく「この人はイエスと一緒にいた」と叫んだのです。ペテロはそれを否定しました。これで二度目です。今度は女中の騒ぎを聞いた複数の者達が「あなたはイエスの弟子だ、その証拠にガリラヤ訛りがある」と言い出しました。ペテロは「その人を知らない」と否定しました。その時、二度目の鶏が鳴いたのです。するとイエス様はペテロを見、ペテロもイエス様を見ました。二人の目と目が合いました。イエス様の目は慈愛に満ちていました。

★その時「ペテロは泣き出した」と記されています。イエス様は、既に死刑が宣告されていました。その御顔は、兵隊達に殴られ唾を吐きかけられ、腫れあがり無惨な状態でした。しかしその御顔には一つの迷いも見えませんでした。恐怖で嘘をついてしまった自分とは、全く違ったイエス様の御顔を見たのです。イエス様の御顔には勝利が満ちていました。

★ペテロに対して、イエス様は「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と言われました。その優しい目でした。ペテロはその愛の目を見て激しく泣いたのです。イエス様はペテロを許してくださいました。そのように、弱い私達のためにもいつも愛して祈って下さっています。そのイエス様をいつも信じ続けようではありませんか。

 

9月22日礼拝メッセージ「あなたはキリストですか」

(礼拝メッセージ)「あなたはキリストですか」マルコ14章53節~65節 仁井田義政牧師

イエス様は、ついにゲッセマネの園で逮捕されました。夜中にもかかわらず、イエス様に対する裁判が即刻行なわれたのです。弟子のペテロは、その様子を人々に紛れながら見ていました。この裁判で「あなたはほむべき方のキリストですか」と質問されました。それにイエス様は「わたしは、それです」とはっきりと答えられました。今日の御言の中心はそこにあります。

★イスラエルの指導者達は、イエス様を殺害することを数年前から決めて命を狙っていました。彼らはいみじくも神様に仕える者達です。その立場上、彼らは正義のある裁判をしたように見せなければなりませんでした。祭司長達は、人々にイエスが犯罪者であるという証言を求めました。しかし勝手な証言ばかりで、どれも矛盾してしまうのでした。証言にならない証言と、反論しないイエス様に、大祭司は業を煮やして「あなたはキリストですか」と質問しなければなりませんでした。

★大祭司の質問に、イエス様は「わたしは、それです」と答えられました。今日の御言の中心は、この大祭司の質問に答えられたイエス様の言葉の中にあります。「わたしは、それです」と言われたイエス様の言葉の原語は、「エゴ―、エィミー」と言うものです。自分が神の子キリスト、救い主であることは、イエス様の絶対に譲れないことなのです。

★イエス様の「わたしは、それです」との言葉に、大祭司は勝利を確信しました。イエスを死刑にする理由を引き出したのです。大祭司は衣を引き裂き怒りを現しました。衣を裂く行為は、この判決は絶対に元には戻せないことを現わすものでした。つまり死刑が決定したのです。そこにいた全員が大祭司の声に同調し、「イエスは死刑だ」と叫びました。イエスがキリストだと言うのは、嘘だと確信したのです。その後の彼らのイエス様に対する仕打ちは、唾を吐きかけ、顔に布をかぶせ叩き「いま叩いたのは誰か、言い当ててみよ」と言い、また役人達は、イエス様の顔を平手で打ちました。

★イエス様は、私はキリスト(救い主)だと言ったため殺されました。イエス様は、命をかけて自分が救い主であることを宣言されたのです。私達はイエス様を殺す側の人とならず、イエス様を救い主と信じる人になりましょう。

 

9月15日礼拝メッセージ「人々の恐れの中に立つイエス」

(礼拝メッセージ)「人々の恐れの中に立つイエス」マルコ14章43~52節

 仁井田義政牧師

今日の御言は、イエス様が逮捕されるところです。ユダは既にイスラエルの指導者たちや、ローマの兵隊たちと厳密な打ち合わせをしていました。人間の行動は、常に恐れが動機となり得ます。ゲッセマネの園にも、人間の様々な恐れが渦巻いています。しかしイエス様には、全く恐がありませんでした。その偉大なお姿を、今日の御言で見ていきましょう。

★なぜイエス様を捕えるために、剣やこん棒を持って来たのでしょう。イエス様が怖かったからです。暗闇でイエス様を捕らえ損ないでもしたらどうなるかとユダも怖かったでしょう。兵士達にイエス様が確実にわかるように、「わたしが接吻する人がイエスだから、その人を捕らえよ」と打ち合わせをしていました。イエス様の弟子達も先ほどまで眠かったのに、ペテロは眠気から覚め戦闘モードに入り、兵士に剣で切りかかりました。ペテロも怖かったのです。また亜麻布一枚まとった青年が丸裸で逃げて行ったことが、今日の聖書の箇所に出ています。怖かったからです。

★祭司長・律法学者・長老達も、イエス様に自由に行動されることを恐れました。だから暴力によってでもイエス様の言動を封じようとしたのです。ローマ皇帝も、その支配地域でイエス様と弟子達が暴動を起こす可能性のあることが怖かったのです。だから軍を用いてでもイエス様を逮捕したのです。弟子達は弟子達で、イエス様とこれ以上一緒にいると自分達の身に危険が及ぶことを恐れました。彼らも逮捕されたなら拷問と死が待っていることが怖かったのです。だから逃げたのです。

★しかしイエス様だけ恐れませんでした。ペテロが切りかかって切り落とした兵士の耳を、奇跡的な御力で元通りに治してあげました。また自分の弟子に、暴力を振るうことを許しませんでした。イエス様は御自分の死で、聖書の言葉が実現すると確信しておられたのです。 

★人々の目には、イエス様は自分を「神の子キリスト」と言いながら、自分の命を守る力さえない人のように見えました。弟子達もそうですだからみんなイエス様を捨てて逃げたのです。人々の心の中には、それぞれの立場で恐れが存在していました。その恐れが、一人の人の殺害にまで向かってしまったのです。イエス様の恐れない姿をゲッセマネの園で見ることのできる人は幸いです。イエス様は偉大な神の御子です。迷いも恐れもない真実な救い主なるキリストです。そのイエス様をしっかりと信じましょう。

9月8日礼拝メッセージ「目を覚ましなさい」

(礼拝メッセージ)「目を覚ましなさい」マルコ14章32~42節 仁井田義政牧師

最後の晩餐の後、イエス様と弟子達は、オリーブ山のゲッセマネの園に向かいました。この聖書の箇所は、何度読んでも心が締めつけられます。眠る弟子達と「目を覚まして祈られるイエス様」の姿に心が痛むのです。

★イエス様はいつもの祈りの場所であるゲッセマネの園に着くと、苦しみ始められました。それは「悲しみの為に死ぬほど」だとのイエス様の言葉が記されています。人間の罪に対する神の裁きは、生半可なものではないのです。その苦しむイエス様を「目を覚まして祈って」見ていなさいと言われました。イエス様は弟子達にも一緒に祈って欲しかったのです。

★ではイエス様は死が怖かったのでしょうか。弟子でも勇敢に平安の中で死んで行った殉教者はたくさんいます。ステパノは石打ちの刑に遭いましたが、その迫害の中で勇敢に死んでいきました。イエス様はステパノより臆病なのでしょうか。そうではありません。ステパノは神に愛されて殉教の死を受け入れ、イエス様は神に捨てられて死を迎えるのです。

★弟子達は、イエス様の苦しみの意味が分かりませんでした。それはまさに人間の姿であり、気付けない私達の姿でもあるのです。イエス様は「アバ父よ、私からこの杯を取り除いて下さい」と祈られました。それほど父なる神に捨てられることは、耐えがたいことなのです。弟子達は、そのようなイエス様の苦しみを理解できず眠ってしまいました。神から捨てられると言うことが、それほど深刻なこととはどうしても思えないのです。

★イエス様は祈り終えられると「時が来ました」と言われました。「時」それは一点のことです。旧約時代から、イエスの誕生からの全歴史は、この一点を目指して、つまりこの時を目指して時間は進んできたのです。ついにその時が来た!人間の罪のためにイエス様が十字架に着けられる、それが神様の計画でした。祈りの中で、イエス様はついに確信されたのです。

★眠さに負けて祈らなかった弟子達は、この大切な真理を知ることが出来ませんでした。しかし祈るイエス様は、その真理を疑いや迷いを挟むことが出来ない領域で知ったのです。あなたはイエス様の十字架の話を聞いても、人ごとのように眠っていないでしょうか。イエス様はあなたに「まだ眠っているのですか」と言われます。祈りの中で霊的な目を覚まし、ゲッセマネの園で、私達のために苦しまれるイエス様に感謝しましょう。

9月1日の礼拝メッセージ「声も出せない求めに」

(礼拝メッセージ)「声も出せない求めに」ルカ8章43~48節

                                                      仁井田幸子師

8月11日にお話した十人の病める人達は、遠くから声を張り上げてイエス様に癒しを求めました。しかし今日の聖書に出てくる女性は、声も出せずにそっと、しかも必死にイエス様に近づきました。

★この女性は十二年間の長きにわたって出血を伴う婦人病を患っていました。レビ記15章にあるように、この病気の人は「汚れた者」として神殿の礼拝も他人との接触も禁じられていました。そのうえ多くの医者からひどい目にあわされ財産の全てを使い果たし(マルコ5:26)、肉体的にも精神的にも宗教的にも経済的にも苦しみの中にありました。

★そのような苦しみと悲しみの中にあったこの女性がイエス様のことを耳にし、必死の思いで群衆にまぎれ込み、イエス様の衣の裾に触りました。自分の切なる願いを声も出せずに、ただただ触ったのです。ところが、たちどころに出血が止まり、癒されたことを知るのです。

★この時、イエス様はご自分の体から力が出ていったことを覚えられ、「わたしに触ったのは誰ですか」と群衆を見回されました。(通常、イエス様のご意志によって癒されています)女性は隠しきれず震えながら進み出て御前にひれ伏し、自分の身に起こった素晴らしいことを全て話しました。本来ならば、他人との接触も禁じられており群衆の中に紛れ込むことも許されない身で、イエス様の衣の裾に触ってしまったため、罰せられても仕方がないと恐れて御前に出たこの女性に、信じられないイエス様の言葉がかけられます。

★イエス様は、長い間深い悲しみにあったこの女性に「娘よ!あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」との慰めに満ちた最高の祝福を与えられました。長い間婦人病を患っていたため、女性としての自覚さえも失っていたこの女性に、「娘よ!」という言葉によって女性としての自信も与えて下さいました。また群衆の前に出されたことによって、この女性の完治の事実を群衆に認めさせることも出来、そして何よりもこの女性の信仰を明らかにし、神様の平安と祝福を与えることが出来ました。

★さて私達の求めはどうでしょうか。すぐにあきらめてしまうことはないでしょうか。声も出せない程の苦しみから必死で主の衣に触ったこの女性のように、信仰をもって切に求めるものになりましょう。

8月25日礼拝メッセージ「崩れ去る自信」

(礼拝メッセージ)「崩れ去る自信」 マルコ14章27~31節

                                                   仁井田義政 牧師

 最後の晩餐を終えた弟子達は、ゲッセマネの園へと向かいました。エルサレムは家が密集していて庭が造れず、金持ち達は谷を挟んだ向かい側に庭園などを造ったのです。イエス様はそこをしばしば祈りの場とされました。イエス様の一番弟子ペテロが、イエス様の一番近くを歩いています。イエス様は「あなたがたは躓きます」と話し始められました。それは「注意せよ」とのイエス様の教えでした。

★イエス様は、ゼカリヤ書13章7節の預言を引用し、聖書の預言の通りに「みな躓く」と話されました。するとペテロが「たとえ全部の者が躓いても私は躓きません」と言いました。イエス様はそれを聞いて「今夜、鶏が二度鳴く前に、私を知らないと三度言います」と言われました。三度とは「完全に」という意味なのです。

★ペテロは「力を込めて」言い張りました。他の弟子達も皆そう言いました。ペテロと弟子達の過剰な自信です。ペテロの「私だけは」ということと、「私達だって」という自信は、クリスチャンにとってもっての外です。立派に見えて他を批判しているクリスチャンが、最も弱いのです。

★イエス様は、これからゲッセマネで起こる逮捕と、十字架の死も敗北とは思っておられません。ゲッセマネでのユダの裏切り、そして逮捕、不当な裁判、十字架の死、と続きますが、必ず復活すると言われています。そして、弟子達より早くガリラヤに行き、そこで弟子達の裏切りの弱さを拭い去ると約束されました。その言葉のようにイエス様は復活された後、弟子達のいるガリラヤ湖のほとり現れ、ペテロに「三度私を愛するか」と言われました。三度「知らない」と言って裏切ってしまったペテロから、三度「私はあなたを愛します」との告白を引き出すためでした。

★ゲッセマネの園に向かう途中の暗い夜に聞いたイエス様の教えは、私達クリスチャンにとって重要です。イエス様に躓いて、イエス様から離れてしまう危険性と弱さがあるのです。それは決してペテロだけのことではありません。クリスチャンの全員です。ガリラヤ湖でのペテロのように、弱い自分に対するイエス様の愛に触れるのです。自分の確信よりも、イエス様の愛を確信するクリスチャンになりましょう。

8月18日礼拝メッセージ「主の晩餐とその意味」

(礼拝メッセージ)「主の晩餐とその意味」マルコ14章22~26節

仁井田義政 牧師

こんにち聖餐式は、世界中の教会で行なわれています。それでは聖餐式はどれほどの意味があるのでしょうか。私達は、主の行なわれた主の晩餐に戻って、その真の意味に立ちかえりたいと思います。

★この日の晩餐は、既に前菜が終わりました。前菜は食欲増進のために出されます。日本では「お通し」と言われるのがそれに当たります。少量のパンも出されていて、ソースのようなものにつけて食べたのです。それが終わると、その食事の主催者が祈ってパンを分けるのです。分け終わると、今度は神様に感謝してぶどう酒を分ける。それをイエス様が主催されました。

★イエス様はパンを裂かれた時、「これは私の体です」と言われました。またさかずきを取って「これは、私の契約の血です」と言われました。聖書における神様との契約の時には、羊が殺され、その肉は分けて食べられました。イエス様は、契約の時の羊肉の意味をパンに移し、契約の時の羊血の意味をぶどう酒に移して宣言されました。さらにはその契約の時に殺される子羊を御自分の十字架の死に譬えておられるのです。そして翌日殺されるのです。

★イエス様は「この中に私を裏切る者がいる」と言われました。弟子達は「まさか私ではないでしょう」と不安になりました。その後十二人の弟子達は、イエス様を裏切ってしまうことになりました。しかし弟子達は、その後の教会の聖餐式に加わり続けました。加わることのできなかったのは、自殺してしまったユダだけです。疑い深い弟子のトマスを初め十一人の弟子達はイエス様のご復活後もみな聖餐に加わったのです。

★そうしてみますと、晩餐に与かる資格について、何の罪もない者だけが与かる資格をもつとの考えは、間違っていることを意味しています。それとは反対に、信仰の面で弱さを感じている人が受けるべきなのです。そうしてその弱さを、イエス様の裂かれた御体と、流された十字架の血潮を、不完全な我が身に受け入れることによって、イエス様の命に満ち溢れて頂くのです。こんな私さえイエス様は、神様の愛の中に招き入れて下さっていると、感動に包まれてその愛を受ける、それが聖餐式です。あなたも、イエス様が主人として招いて下さる晩餐とその意味を深く知り、晩餐(聖餐)に与かりましょう。

8月11日礼拝メッセージ「九人はどこにいるのか」

(礼拝メッセージ)「九人はどこにいるのか」ルカ17章11~19節 仁井田幸子師

十人の癒しを通して、私達の信仰姿勢を見つめましょう。

★この皮膚の病(ツァラアト)の人たちは、どのような状況にあったのでしょう。レビ記13章に細かく記されているように、祭司は、この病の人の患部を見て確かめ「汚れている」と宣言します。そののち宣言された人は、衣類を引き裂き、髪の毛を乱し、その口ひげをおおって「汚れている!汚れている」と自ら叫ばなければならず、その上、家族を離れ一人で人里離れた所に住まなければなりませんでした。また神様から呪われた者という偏見によって差別されていました。ですから、肉体的にも精神的にも霊的にも苦しみの中にあったのです。

★彼らが追いやられてひっそりと住んでいた村をイエス様が通られたのです。彼らは、その病のためにイエス様に近付くことはできませんでしたが、遠くから声を張り上げ「どうぞ憐れんでください」と求めました。幸いなことにイエス様は目を留められ、祭司の所に行って患部を見せ「きよめ」を宣言してもらうよう(レビ記14章)促されました。

★十人は、イエス様の言葉を信じ、祭司のもとへ向かいます。その途中で一人のサマリヤ人は、病が癒されたことと、小さな自分に素晴らしいことをして下さったことに感動し、大声で神をほめたたえながら引き返し、イエス様の足元にひれ伏し感謝したのです。サマリヤ人は、ユダヤ人から偶像礼拝の民族として軽蔑され嫌われていました。しかし、神様を信じ律法を重んじていると自負するユダヤ人の九人は、戻って来なかったのです。肉体の癒しだけで満足してしまったのかもしれません。イエス様は、「十人清められたのではなかったのか。他の九人はどこにいるのか」と言われました。そしてそのサマリヤ人に「あなたの信仰があなたを直した(救った)のです。」と最高の誉め言葉をかけて下さいました。人からも神からも嫌われていると思い、悲しくひっそりと生きてきた彼に、イエス様は肉体と心の癒しを与え、神から祝福された者という霊的な喜びも与えて下さったのです。

★さて、私達はどうでしょうか。九人のように自分の願いが叶えばそれで良しとしてしまうのでしょうか。それともこの人のように、主のしてくださったことに感動し、感謝することが出来るでしょうか。イエス様から「どこにいるのか」と言われないように、感謝する者となりましょう。(詩篇103:1-5)