10月15日礼拝メッセージ「圧倒的な勝利者」

(礼拝メッセージ)「圧倒的な勝利者」ローマ8章35~39節

                          仁井田幸子師

  今日の御言は、私達がイエス様によって力強く生きることが出来ると約束しています。今日、この御言をもう一度しっかり受けとめましょう。

★聖書は、私達がクリスチャンになっても苦しみが無くなるとは言っていません。かえって様々な苦しみを「喜びなさい」(マタイ5:10~12)とさえ言っています。なぜでしょうか。それは、私達が苦しむことによってさらに神様の大きな愛と慰めを体験するようになるからです。(第二コリント1:4~5)   35節に「私達をキリストの愛から離すのはだれですか。艱難ですか。苦しみですか。迫害ですか。飢えですか。裸ですか。危険ですか。剣ですか」と七つ記されていますが、それは完全数で、あらゆること全てに於いて「圧倒的な勝利者」となると言うことです。

★この「勝利」という言葉は、最上級のギリシャ語で、日本語には訳しきれない強い意味のものです。「圧倒的な勝利」「輝かしい勝利」「完璧な勝利」「勝って余りある」等。このことから私達は、やっとの思いで勝利するのではなく、絶対的な勝利者となれることが分かります。そして揺るがない平安へと導かれるのです。ドイツの音楽家ベートーヴェンも苦しみの中から立ち上がり、素晴らしい数々の曲を作りました。小さい時から天才ピアニストとして育ち、成人する頃には有名なピアニストになっていました。ところが27才の頃、耳が聞こえなくなり、絶望して死も考えたと言います。しかしその苦しみの中から、たとえ耳が聞こえなくても作曲は出来るとの希望が与えられ、あの有名な交響曲第九番「喜びの歌」を作曲しました。絶望からの勝利です。

★では私達は、どのようにすれば、圧倒的な勝利者となれるのでしょうか。ひとつは、常に神様との個人的な交わりをもつことです。交わりがないと信頼が揺らぎます。順境の時も逆境の時もどんな時も、神様に語りかけそして御声を聞くことです。次に私達が御言に従い、忠実であることです。不誠実・不真実・不忠実であるならば、神様に対する心の責めが生じ、力強く生きることが出来ません。

★私達は、常に神様と交わりをもち、御言を信じ忠実な者になりましょう。そして圧倒的な勝利者となりましょう。「世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(第一ヨハネ5:5)

2018年10月8日礼拝メッセージ「会堂を出るとすぐに」

(礼拝メッセージ) マルコ NO7「会堂を出るとすぐに」1章29~34節

                        仁井田義政牧師

 

 当時、安息日には医者でさえも病人に手当てすることは許されませんでした。しかしイエス様は会堂で癒しの御業を行なわれました。そして同じ日に、会堂を出てすぐに弟子になったばかりのペテロの姑をも癒されました。

★イエス様は、会堂を出ると「すぐに」ペテロの奥さんの家に向かわれました。「すぐに」と言う言葉には、イエス様の計画性が感じられます。ペテロの姑から見れば、イエス様は娘の夫を漁師生活から奪い取り、娘の生活を不安に陥れた人なのです。イエス様は、ペテロの姑が熱を出して寝ていることを知っておられたと思われます。安息日なので、医者に診てもらうことも出来ずに伏していたのでしよう。イエス様は礼拝が終わると「すぐに」ペテロの姑の癒しの為に向かわれました。イエス様は、ご自分に従う者の家族をしっかりと心に留めておられるのです。

★イエス様は、またも安息日破りをされました。安息日の掟を破ってでも早く癒してあげたいとのイエス様の真心をペテロの姑は体験したのです。するとペテロの姑の熱は癒されました。癒されるとすぐに料理を作って、イエス様とお弟子達を「もてなし」ました。この「もてなした」と言う言葉は、日本語では訳しにくい「未完了過去形」が使われています。それは「もてなし続けた」となるのです。つまり、それから事あるごとにもてなし続けたのです。世界で最初にイエス様にお仕えした人は、弟子達や他の者ではなく、名も無きペテロの姑だったのです。

★人々は日が沈むのを待って、ペテロの姑の所に押し寄せてきました。日没で安息日は終わり、新しい一日が始まったからです。イエス様は「多くの病を癒し、多くの悪霊を追い出され」ました。イエス様の権威に逆らうことは出来なかったのです。

★皆さんが教会の礼拝に来られ、そして家に帰られる時、イエス様もあなたの家に一緒に帰られるのです。ペテロの姑が熱病で苦しんでいる時、律法破りと言われて自分の身に危険が及んでも解決して下さったように、イエス様はあなたの家族に対して強い愛を持っておられます。イエス様の強い癒しを信じましょう。皆さんが礼拝から帰られる時、イエス様も一緒に行って下さることを信じましょう。そして家族の救いを願いましょう。

 

2017年10月1日 礼拝メッセージ「イエス様の権威と力」

(礼拝メッセージ)マルコNO6「イエス様の権威と力」1章21~28節
仁井田義政牧師

 ガリラヤ湖の漁師4人を弟子にしたイエス様は、同じガリラヤのカペナウムの町に行かれました。そこにはユダヤ人達の会堂がありました。イエス様は安息日にそこに入って行かれ、そこで神様の御言を話し出されたのです。すると人々はその教えに驚きました。それは今まで聞いたことのない新しい教えだったからです。
★その新しい教えとは何だったのでしょうか。それまでの律法学者達の教えは「律法を守れない者は絶対に神の恵みに入れない。律法を守れ」と言うような教えでしたが、それとは真逆の「権威のある新しい教え」だったのです。
★シナゴークでの教えの内容を要約すれば、1章14~15節で言われた「時が満ち、神の国が近くなった。悔い改めて福音を信ぜよ」です。「時が満ちて、救い主の時代」が始まったのです。ですから「神の国は、誰でも悔い改めて信じるならば入れる近くに来た」のです。つまり悔い改めるならば、誰でも救われるという福音です。「自分は罪人で救われない」と思っている人々は、解決出来る教えを聞いたのです。
★するとイエス様の教えに汚れた霊が騒ぎ出し、イエス様の言葉に汚れた霊も出て行ったのです。イエス様が来られるまでは、汚れた悪霊「たち」は人の中に安心して住み込んでいたのです。共同訳聖書では、汚れた霊は「私達をかまわないでくれ」と言ったと記されています。それに対しイエス様は、「黙れ」と命じられました。それは「くつこをかけよ」の意味があります。「くつこ」とは馬の口につける籠のことです。
★イエス様の「権威ある力」を信じないで、自分は汚れた霊につかれているというクリスチャンがまれにいます。イエス様より汚れた霊の力が強いと信じていれば、汚れた霊はその人のうちに安心して住み続けるのです。しかし、この会堂にいた人のように、イエス様が会堂に来て下さって「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言われた言葉を信じ始めた時に、汚れた霊はその人のうちに住むことが出来なくなるのです。
どのような人でもイエス様の言葉を信じて実践するならば、新しい人生を始めることが出来るのです。イエス様の言葉には権威があります。私達の人生を変えることの出来るイエス様の力を信じましょうラヤ湖の漁師4人を弟子にしたイエス様は、同じガリラヤのカペナウムの町に行かれました。そこにはユダヤ人達の会堂がありました。イエス様は安息日にそこに入って行かれ、そこで神様の御言を話し出されたのです。すると人々はその教えに驚きました。それは今まで聞いたことのない新しい教えだったからです。
★その新しい教えとは何だったのでしょうか。それまでの律法学者達の教えは「律法を守れない者は絶対に神の恵みに入れない。律法を守れ」と言うような教えでしたが、それとは真逆の「権威のある新しい教え」だったのです。
★シナゴークでの教えの内容を要約すれば、1章14~15節で言われた「時が満ち、神の国が近くなった。悔い改めて福音を信ぜよ」です。「時が満ちて、救い主の時代」が始まったのです。ですから「神の国は、誰でも悔い改めて信じるならば入れる近くに来た」のです。つまり悔い改めるならば、誰でも救われるという福音です。「自分は罪人で救われない」と思っている人々は、解決出来る教えを聞いたのです。
★するとイエス様の教えに汚れた霊が騒ぎ出し、イエス様の言葉に汚れた霊も出て行ったのです。イエス様が来られるまでは、汚れた悪霊「たち」は人の中に安心して住み込んでいたのです。共同訳聖書では、汚れた霊は「私達をかまわないでくれ」と言ったと記されています。それに対しイエス様は、「黙れ」と命じられました。それは「くつこをかけよ」の意味があります。「くつこ」とは馬の口につける籠のことです。
★イエス様の「権威ある力」を信じないで、自分は汚れた霊につかれているというクリスチャンがまれにいます。イエス様より汚れた霊の力が強いと信じていれば、汚れた霊はその人のうちに安心して住み続けるのです。しかし、この会堂にいた人のように、イエス様が会堂に来て下さって「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言われた言葉を信じ始めた時に、汚れた霊はその人のうちに住むことが出来なくなるのです。
どのような人でもイエス様の言葉を信じて実践するならば、新しい人生を始めることが出来るのです。イエス様の言葉には権威があります。私達の人生を変えることの出来るイエス様の力を信じましょう。

9月24日礼拝メッセージ「イエス様が呼んでおられる」

(礼拝メッセージ)マルコNO5「イエス様が呼んでおられる」1章16~20節

                          仁井田義政牧師

  今日の聖書の箇所は、イエス様がガリラヤに来られてから数日~数週間は経っていたと思われます。その間にもイエス様は、幾度か人々を前に「神の福音」を話されたでしょう。実はガリラヤの漁師達とは少なくとも一ヶ月ちょっと前に、洗礼者ヨハネの活動していた荒野でイエス様と会っています。おそらくガリラヤの漁師達はエルサレムの神殿に巡礼に行っていたのでしょう。洗礼者ヨハネがイエス様が自分の方に歩いてこられるのを見て「見よ神の子羊」と行った時「洗礼者ヨハネの弟子がそのイエス様についていった」と記されているのが漁師たちなのです。イエス様の泊まっておられるところについて行ってイエス様から直接話を聞いているのです。その事はヨハネの福音書1章35節以降に記されています。ですからペテロもヨハネもガリラヤ湖の岸辺で、夕方イエス様に声を掛けられる前にイエス様の事を知っていたのです。それで再度イエス様に声をかけられ、その声に4人の漁師たちが即座にイエス様の弟子となって、イエス様について行ったということになるのです。

★シモンの家は代々の漁師でした。宗教などとは程遠い生活をしていたのです。しかも彼らは「異邦人のガリラヤ」と差別された地域に住んでいました。当時、宗教家が名を挙げたければ首都エルサレムに行くのが常でした。しかしイエス様は、エルサレムからガリラヤに来られたのです。

★イエス様は御自分の弟子を選ぶにあたって、漁師に声をかけられました。当時の漁師は、何の学問もなかった人々です。そのような人々を自分の弟子にするために呼び掛ける宗教家などいなかったはずです。そのハンディを無視して、漁師に呼びかけられたイエス様に驚いたことでしょう。しかも能力が有るかどうかではなく、「私が人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたのです。

★私達が、イエス様に用いられるかどうかは、イエス様の招きに従うかどうかだけなのです。シモン(ペテロ)とその兄弟アンデレは、イエス様の招きにすぐに従って弟子となりました。漁師という家業はどうなるのか等と心配せずに、一切を神様に委ねてイエス様の招きに従ったのです。他の漁師ヤコブとヨハネも同じでした。当時の宗教家の弟子達と比べれば、ガリラヤ湖に漂うゴミのように見えた者達が、イエス様の弟子として選ばれたのです。

★イエス様は、今も牧師や伝道者や宣教師になる人を求めておられます。また教会での奉仕者としても献身的に働く人を求めておられます。能力が有るかどうかではありません。「私に従ってきなさい」という言葉に従順に従うかどうかが大切なのです。イエス様が「私が人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたように、従う者にはその能力をも備えて下さるのです。牧師や伝道者に召される人も同じです。イエス様が人間をとる漁師にして下さるのです。イエス様にお仕えする人になる為に、今日はっきりと献身しましょう。

 

9月17日礼拝メッセージ「神の国が近づいた」

(礼拝メッセージ)マルコNO4「神の国が近づいた」1章14~15節

                       仁井田義政牧師

  イエス様はバプテスマのヨハネの殉教死を知ると、エルサレムからは遠いガリラヤ地方に帰られ「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(1章15節)と宣教を開始されました。その宣教の内容が、この御言の中に完璧な形で記されています。

★洗礼者ヨハネがヘロデ・アンテパス王に殺されることになったのは、実の兄弟のフィリポの妻を奪って結婚していたからです。ヨハネはその罪を悔い改めるように王に迫って殺されたのです。ヨハネの死を知って、イエス様は宣教を開始されました。それも首都エルサレムではなく、北の外れ、ガリラヤ地方で開始されたのです。

★聖書を注意して読みますと、イエス様は「神の福音を宣べ」と記されています。福音とは喜ばしい知らせのことです。「王様に子が生まれた」とか、「王子様が結婚」したとか、それを民に知らせるのが福音と言われたのです。現代においても良い知らせはあります。希望の学校に合格、入社決定、結婚、病気の快気など。しかしイエス様が伝え始められたのは「神の福音」です。人間からのものではなく、神からの福音です。

★その福音の内容については、まず「時が満ちた」と言われました。ついにその時が来たのです。長い間待ち望んでいた人類の救い主が、時満ちて活動を開始されたのです。キリストの時代が始まったのです。次に「神の国は近くなった」と言われました。「神の国」とは、福音を信じる者が入れて頂ける神様の守りのことです。そこに入れるという知らせが来たけれども、そこに入るには私達人間のすべきことがあるのです。それは次に「悔い改めて福音を信じなさい」とイエス様が言われたことです。悔い改めるとは、今まで神様を無視していた生活を悔い改めて、神様を礼拝する者となることです。 

★イエス様が、遠く離れた「異邦人のガリラヤ」と言われていた所から福音宣教を開始されたと言うことは、最も神様から遠い生き方をしていたあなたのそばにも神の国が近づいたと言う喜ばしい訪れ、福音なのです。あなたも、イエス様によってごくそばに神の国が近づいたことを知って、今までの神様を無視した生き方を悔い改めて、神の福音を信じましょう。

9月10日 礼拝メッセージ「荒野で生きる」

(礼拝メッセージ) マルコNO3「荒野で生きる」1章12~13節   仁井田義政牧師

 今日 の御言には、イエス様が荒野でどのように生きられたのかが記されています。荒野のような時代に生きる私達人間にとって大切な御言です。

★イエス様は洗礼の後すぐに「御霊によって荒野に追いやられた」と記されています。前節では、天が裂けて「私の愛する子」との祝福の御言を聞いたばかりなのです。その祝福された洗礼を受けてすぐに、荒野に追いやられたのです。決してサタンによってではありません。聖霊によってです。そこにはサタンがおり、イエス様の命を狙う獣がいたのです。「荒野」というギリシャ語は「捨てられた」と言う意味です。人が住むに適さない土地なので、人に捨てられた地が荒野なのです。

★荒野は、人の住みにくい所です。祈りの言葉さえ、空しく荒野の砂に消えて行く所です。野の獣がイエス様を食べようとして、イエス様が弱るのを待っているのです。またサタンは、信仰を捨ててもっと楽な道を歩めと誘惑してきます。しかしイエス様は、御言で誘惑を逆襲されたのです。

★イエス様には、荒野の中で「御使たちが仕えていた」と記されています。人に捨てられた荒野で、イエス様には御使いが仕えていました。私達の為にも、御使いは遣わされています。どんな荒野にいても、私達は一人ではありません。神様の強い守りに囲まれているのです。厳しい荒野で私達が生きるために必要なのは、「御言による信仰」です。御言を捨て、信仰を捨ててしまうならば、御使いも離れていってしまいます。サタンも獣も私達を襲って、信仰生命を断ってしまうでしょう。しかし御言を信じて告白する限り、神様の命令によって御使いが私達を守るのです。そして御言を信じていれば、悪魔は私達に何一つ手出しが出来ません。御言を信じているクリスチャンにとって、サタンなど全く恐れる必要がないのです。

★私達の世界では、40日間断食をされ荒野の中のイエス様のように、疲れ、飢え渇き、身体的に衰弱してしまっている人がいるかもしれません。そのような時、サタンはあなたを誘惑します。その誘惑にいち早く気付いて、御言によって退ける人となるならば、「荒野で生きる」力を身に着けた人となったのです。そのような人が信仰の勝利者となるのです。荒野の試練を体験されたイエス様は、あなたの苦しみを一番知っておられます。あなたもイエス様のように神様の御言を信じて、信仰による勝利者となりましょう。

9月3日礼拝メッセージ「裂けた天」

(礼拝メッセージ) マルコNO2「裂けた天」1章9~11節 

                         仁井田義政 牧師 

   先週から、マルコによる福音書の講解メッセージに入りました。洗礼者のヨハネが荒野に人々を導き、「救い主を迎えるために罪を悔い改めて準備するように」と叫んだのです。それは「荒野で叫ぶ者の声」でした。そこにナザレからイエス様が来られて、洗礼を受けられました。

★イエス様の母マリヤとバプテスマのヨハネの母エリサベツは、従妹でした。エリサベツの夫は祭司ザカリヤです。ザカリヤ夫婦に年老いてから与えられた子が、バプテスマのヨハネなのです。イエス様の母とヨハネの母が従妹同士であれば、当然バプテスマのヨハネとイエス様も従弟同士です。しかしヨハネは祭司の子で、イエス様はナザレの大工ヨセフの妻マリヤの子なのです。イエス様の出身地は異邦人のガリラヤと言われ、差別されていました。

★罪の悔い改めの洗礼が、バプテスマのヨハネの洗礼でした。しかし罪のないイエス様が洗礼を受けようとしておられるのです。ヨハネは躊躇し止めようとしましたが、イエス様は「そうさせてもらいたい」と言われたのです。 その時のイエス様の姿は普通の人の姿であり、罪を悔い改める洗礼を受ける人達の一人として列に並ばれたのです。イエス様は罪がなかったのに、私達人間の列に並び、私達の列の一人となって下さったのです。

★イエス様が洗礼を受けられた時、天が裂け御霊が鳩のように下って来たと記されています。そして天から「これは私の愛する子」と声が聞こえたのです。それは御子イエス様への父なる神様の絶対なる信頼であり、信任の声です。イエス様の洗礼によって、四百年以上に亘る神様と人を隔てていた黒雲が裂けたことを現しています。つまり人間と天とがつながったのです。新しい時代が始まったのです。イエス様を初め、洗礼を受ける者達と神様とつながるようになったのです。そして天とつながった人達に聖霊が注がれるのです。さらにはつながった天から神様の声が聞こえる時代が始まったのです。 

★私達は、イエス様によって天が裂けて聖霊が下り、御言が聞こえる時代の中に生きているのです。しかもイエス様が、罪人である人間の列に加わって洗礼を受けて下さったことによって、神様がイエス様を「私の愛する子」と呼んでくださったのです。イエス様が人間側に立って洗礼を受けて下さったことによって、神様と人との間を覆っていた黒雲が裂けたのです。そのような時代に生きていることを信じ、神様に感謝しましょう。

8月27日礼拝メッセージ「荒野に与えられた希望」

マルコNO1「荒野に与えられた希望」1章1~8節 

                         仁井田義政 牧師 

  先週でコリント第二の手紙講解メッセージは終了しました。今日からは、イエス様の生涯が記されているマルコによる福音書を連続してお話いたします。著者のマルコは、十二弟子ではありません。弟子のペテロの通訳をしていたようで、ペテロからイエス様のことを直接聞いて記したものと思われます。執筆年代は、西暦60年頃から70年の間に書かれたと言われています。そうだとすれば、キリスト教会がローマ皇帝ネロの迫害に苦しんでいた時代に当たります。そのローマで迫害にあっているローマ人クリスチャンの為に書かれた福音書なのです。

★1節の最後に『はじめ』と書かれていますが、原文では「アルケイ=はじめ」が、いちばん最初に書かれています。これは「福音書を書き始める」ではなく、「始まり、福音、イエス・キリスト」の順で記されています。そして紀元前750年くらいの預言者イザヤの預言が引用されています。それはイエス様の誕生は偶然ではなく、預言されていたことを現わしているのです。

★続いて「荒野」という言葉が記されています。荒野からイエス・キリストの福音は始まると預言され、その預言の通りに荒野から始まったのです。この福音書が書かれた時、教会もクリスチャンも荒野の中を歩んでいました。迫害と問題の渦巻く荒野、希望が全く持てない荒野の真っただ中で、キリストによる新しい時代が始まったと宣言しているのです。あなたが今、どんなに希望を持てないような荒野にいたとしても、その荒野に新しい神の子の時代が始まったことを伝えているのです。

★神様は、希望が持てない荒野のような世界に救い主を遣わして下さいました。人間の側である私達がすべきことは「主の道を用意すること。主の通られる道を真っ直ぐにすること」なのです。それが「悔い改め」です。イエス様は荒野にいる私達に、水以上の祝福である聖霊のバプテスマを与えるために来てくださいました。

★突然、荒野の中から福音は始まったと記しています。イエス様は「ユウアゲリオン=福音」を荒野にもたらされたのです。分かりやすく訳すならば「素晴らしい知らせ」です。なぜ素晴らしい知らせなのでしょう。エルサレムの町にある神殿から排除されていた人々に、神様に受け入れられる道を開いて下さったからです。あなたもイエス様をお迎えしようではありませんか

8月20日第二コリント最終回「キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」

第二コリントNO34「キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」13章11~13節 

                         仁井田義政 牧師 

 「コリント人への第二の手紙」からのメッセジも、今日が最終回となりました。今日の部分は、手紙を書き送るための単なる最後の挨拶文ではありません。コリントへの手紙を書いた最終目的が凝縮されて記されています。

★パウロは、分裂状態にあったコリント教会に「終わりに兄弟達」と最後の挨拶文を書き始めました。コリント教会には、国籍や民族が違うユダヤ人、ギリシャ人、ローマ人がいました。それを「兄弟達」と呼んでいます。そして、そのクリスチャン達に「喜びなさい」と薦めています。どんな事があっても「主にあることを喜ぶ」ことが教会の一致する基本なのです。さらに「完全な者になりなさい」と薦めました。それは潔めのことであり、自己中心から「神様中心」になることを意味します。信仰者として大人になることです。

★次に出てくる「慰めを受けなさい」という言葉は、口語訳聖書と共同訳聖書では「互いに励ましあいなさい」と訳されています。それは人の弱さに気が付くことであり、自分の弱さを認めることでもあります。そして「一つ心になる」のです。民主主義の世界では意見が割れて一つになれない時、多数決という方法があります。しかし多数決などそれはあくまでも人間的な事であって、教会の本当の「一つ心は」、キリストがその中にいますこと以外にありません。キリストが中心であって初めて多数決が生きてくるのです。

★パウロはコリントの信徒達に「全ての聖徒達があなたがたによろしくと言っています」と挨拶を送りました。聖徒とは、キリストの働きの為に選ばれた者達です。パウロは、マケドニア教会においてこの手紙を書いていると思われます。マケドニア教会の信徒たちが、コリント教会の信徒達を思っていることを伝えています。それぞれの教会は同労者なのです。同業者ではありません。同業者であれば対立するでしょう。しかし同労者であれば、教会は違ってもキリストの福音を広める為に働く仲間なのです。教会を越えて労する御心がそこにあります。

★パウロは祝祷をもって長いコリントの手紙を終えます。それはまさに「キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがたと共にあるように。」との願いなのです。私達の教会も「キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」が豊かな教会となりますよう祈りましょう。

8月13日礼拝メッセージ「信仰を吟味しなさい」

第二コリントNO34「信仰を吟味しなさい」13章1~10節 

                        仁井田義政 牧師 

    コリント教会にいたパウロの反対者達は、当然自分達が正しいと思って反対したのです。パウロもまた自分が正しいと思って、彼らを正しい信仰に立ち返らせようとして警告と勧めをしてきたのです。最後の最後までパウロは、偽教師達に騙されたコリント教会のある者達に悔い改めて救われるようにと勧めています。

★しかしパウロは、罪を犯している者達に「今度は容赦しません」と伝えました。「二度目の滞在の時にも言っておいた」ことは、悔い改めなければ処罰として除名するということでした。この手紙でその事を伝えたのは、もう一度反対者達に悔い改める機会を与える為だったのです。

★反対者達がパウロ自身の使徒(アポストロス)としての証拠を求めたのは、強さ「雄弁さと奇跡」という証拠でした。しかしキリストは、人々を救うために「弱さのゆえに十字架に付けられ」雄弁な反論も奇跡もしなかったのです。そこにこそ「キリストの本当の愛があった」のです。そのキリストが、今は甦えられて神の力を持っておられるのです。パウロも同じでした。反対者達に悔い改める期間を与えたかったからです。それがコリントの反対者達には、パウロが優柔不断な人のように見えたのです。

★最初に話しましたように、コリントのパウロの反対者もパウロも、自分が正しいと主張して対立したのです。ですから信仰の吟味が大切なのです。ある時、イエス様の前に姦淫の現場を取り押さえられた女性が連れて来られました。この罪は当時「石打の刑=死刑」でした。人々は、イエス様を罠にかけ試そうとして連れてきたのです。その時イエス様は「罪のない者から石を投げなさい」と言われました。その結果、老人から始まり一人も石を投げつける者はいなかったのです。彼らは自分の信仰を吟味した結果でした。

★パウロは、最後の最後まで「あなたがたに厳しい処置をとることがないようにしてもらいたい」と切実に訴えています。(10節)それは使徒としてこの厳しい権威「除名する権能」が与えられたのは、教会を倒すためではなく、建て上げるのが目的だからだとパウロは言っているのです。パウロの使徒としての心、コリント教会の人々を愛する心がにじんでいます。これが伝道者や牧師の心です。私達も真理の聖書に照らし合わせ、自分の信仰を吟味しましょう。そして自分の信仰姿勢に責められる所があれば、潔く悔い改めて信仰の道をしっかりと力強く歩きましょう。