4月24日礼拝メッセージ「光を高くかかげよ」

(礼拝メッセージ)マルコNO23「光を高くかかげよ」4章21~25節

                      仁井田義政 牧師

 この話を聞いているのは、一般大衆ではなく、イエス様の弟子達です。イエス様の過激な言動によって、自分にも危険が及ぶのではないかと感じ始めた弟子がいても不思議ではありません。そのような背景で今日の御言を聞くと、私達にも御言が迫ってきます。

★この時代の夜の部屋は、明かりがなければ真っ暗闇で、どこに何があるか全く見えない状態でした。唯一、その闇を照らす方法は、灯皿の火をともすことでした。その灯皿を枡や寝台の下に置いては、部屋が真っ暗になってしまいます。

★イエス様は、世の闇を照らす光です。しかし真理はある者達には「隠れて」います。(4:11)大衆もイエス様の母マリヤもイエス様の兄弟も、そしてこともあろうにイエス様の弟子達も、わからないのです。(4:10)ついには、イエス様の真理が十字架で葬り去られてしまうように見えました。しかし真理は覆い隠しても必ずあらわになり、覆い隠しているものを跳ねのけて明らかにされるのです。それはイエス様の復活でした。

★イエス様は「聞いていることによく注意しなさい」「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。自分の考えの量りでイエス様の言葉を聴くのか、他の人の考えの量りでイエス様の言葉を聴くのか。それでは誰の言葉を聴くのでしょうか。それは十字架で殺されても、墓に葬られても、数トンの石で塞がれても、復活された命と力に溢れた主の言葉を聞くのです。イエス様の言葉に対する理解力が、あなたを豊かにします。

★イエス様の言葉は真理です。しかし型破りのイエス様の真理を聞き、弟子達のある者は自分の身にも迫りつつある危険を感じて、気弱になっていたのでしょう。ですから「ともし火を高く掲げよ」との御言が語られたのです。イエス様の御言は、人間の暗闇を照らす真理の光です。その真理は、クリスチャンの私達の手にゆだねられました。誇りを持って、明かりを高い所に掲げなければなりません。クリスチャンの皆さん、イエス様の真理の光をもっと高くかかげようではありませんか。

 

(4月15日拝メッセージ)「御言と収穫」

(礼拝メッセージ)マルコNO22「御言と収穫」4章14~20節

                       仁井田義政 牧師

 弟子達は「先ほど話された種をまく人の譬えにはどのような意味があるのでしょう。」と聞きました。イエス様はその弟子達の質問を聞いて、弟子達の無理解にあきれてしまいました。イエス様は再度「種を蒔く人」の譬えの意味を説明して下さいました。

★道端に蒔かれるとは、こういう人の心に蒔かれる種のことです。御言の聞ける範囲に来ていたのに、固い地面の為に御言が跳ね返され、心に入れなかったのです。「鳥」とはサタンのことで、御言が地面に入らないように見張っているのです。それは種を蒔く人も、種も更にはサタンが悪いのではなく、受け入れない心の固い人が悪いのです。

★岩地に蒔かれるとは、こういう人の心に蒔かれる種のことです。イスラエルに行ってみると分かりますが、石ころではなく岩盤です。その上に土が覆っていることがあるのです。土がかぶっているので、良い地のように見えます。しかし太陽が昇ると芽を出しますが、根が張れないのですぐに枯れてしまいます。それは、困難や迫害や反対が起こるとすぐに信仰を捨ててしまう試練に弱い人のことです。

★茨の中に蒔かれるとは、こういう人の心に蒔かれる種のことです。一見その地は良い地のように見えるですが「世の心遣い、富の惑わし、その他の色々な欲望」が入り込むと、御言の成長が妨げられてしまうのです。イスラエルには、棘のある植物が二百種類ほどあると植物学者は言っています。棘のある二百種類もの欲望を取り除かなければ、御言は実を結ばないのです。

★良い地に蒔かれる人とは、柔らかい心に蒔かれる種のことです。それは道端のような土地であっても良く耕され、石地であっても石がのけられ、棘のある植物の根のある地であっても、その刺の欲望を抜き去り捨てる時に、その畑は良い地となり、百倍の実を結ぶのです。それは御言を聞く人の決断でと選択です。

★良い心で御言を聞く者は、「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」(マルコ4:20)と言われました。イスラエルの当時の農業では、十倍か二十倍になったら大収穫でした。しかしイエス様の言われた収穫は、その上の三十倍、六十倍、百倍の途方もない奇跡的な大収穫です。それを約束して下さっているのです。良い地に御言を頂き、大収穫をもたらそうではありませんか。

 

4月8日礼拝メッセージ「イエスご自身が近づいて」

(礼拝メッセージ)「イエスご自身が近づいて」ルカ24章13~43節

                         仁井田幸子師

    先週は、主の御復活を皆で感謝し、お祝いすることが出来ました。今日の聖書箇所は、復活直後の出来事です。

★エルサレムから11キロ離れたエマオに向かう二人の弟子に、イエス様が近づいて話しかけられます。二人はその御方がまさか復活されたイエス様とは気付かず、エルサレムで起きたイエス様の十字架の死と、お墓からお体が無くなってしまったことを話します。イエス様は、絶望と悲しみで意気消沈している二人に、聖書からその真の意味を解き明かされます。それでもなおその御方がイエス様であることに気付きません。ただ不思議なことに心(霊)が燃える体験をします。

★弟子の家に入り、用意された食事にイエス様がパンを裂き祝福されます。本来ならばその家の主人がすることです。そこで二人は初めて、見慣れたイエス様のパンを裂き祝福される御姿を見て、イエス様だとわかったのです。なんと幸せなことが起きたのでしょう。復活のイエス様が十二弟子ではないたった二人の弟子に近づき、共に歩き、聖書を解き明かし、パンを裂いて祝福して下さったのです。

★二人は、この素晴らしい出来事を知らせるべく、エルサレムに引き返します。弟子達に話している時に、イエス様が入って来られ、真ん中に立たれました。弟子達は、驚き恐れて幽霊を見ているのだと思ってしまいます。イエス様はおじ惑う弟子達に「わたしの手や足を見なさい。」そして「わたしにさわって見なさい」そして遂には焼いた魚を召し上がられたのです。イエス様は、至れり尽くせり、何としてでも、どのような方法をとってでも、弟子達に分かって欲しかったのです。そこまでして、人類に対する神様の愛が十字架と復活にあると示されたのです。

★それでは私達は、共に歩んでくださっているイエス様にどこで気が付くのでしょうか。聖書を解き明かされた時でしょうか。イエス様に「心の鈍い人たち」と言われた二人の弟子も、心のうちが燃えた体験をしました。私達も鈍い者ですが、心のうちが燃える者でありたいですし、正しい聖書知識によって神様の愛を理解する者でありたいです。私達の全人格(知情意)においてまた霊性において、ますます主を追い求め、愛してゆく者になりましょう。主が私達に近づいて、共に歩んでくださっています。

4月1日イースターメッセージ「マリヤと呼ばれて」

(イースターメッセージ)「マリヤと呼ばれて」ヨハネ20章11~18節

                       仁井田義政 牧師

 今日は、イエス様のご復活をお祝いするイースターです。一日楽しく明るく、主のご復活をお祝いしましょう。

★イエス様のご復活の朝、墓に行ったマグダラのマリヤ達は、イエス様の体が墓の中からなくなっていたので、悲しみ泣いていました。すると二人の天使が、墓の中からマリヤに声をかけたのです。天使は背中に羽が生えているように絵画などに描かれていますが、聖書にはそのようなことは書かれていません。当然マリヤは、この二人は墓の番人で、どこかにイエス様の体を移したのだろうと思ったのです。人間の常識と、死んだ人が蘇るはずがないという思い込みは、天使の声を聞いても信じられないのです。

★からになった墓の中を見て絶望してしまったマリヤの後ろに、イエス様は立っておられました。暗い墓の中から、太陽が昇った外への視線の移動であったからでしょうか、イエス様のおられる世界がかえって明るすぎて、見えにくかったのです。人間は死んだら終わりなのだと思って、暗闇ばかり見てきた私達人間に、復活のキリストは眩しすぎて見えないのです。

★しかし復活のイエス様に会っていながら見えなかったマリヤが、その眩しさを越えることが出来たことを聖書は記しています。それを越えさせたのは「マリヤ」と呼ぶイエス様の声でした。マリヤは固有名詞で「マリヤ」と呼ぶイエス様の声を聞きました。イエス様から自分の名前を呼ばれる体験をした者は幸いです。復活の主イエス様との出会いは、自分の名前を呼ばれることによって起こるのです。  

★マグダラのマリヤは、一説によればイエス様と出会う前は、七つの悪霊につかれた女と言われていた人です。イエス様に出会うまでは、人々から人間扱いをされてこなかった女性だったようです。そのような自分をイエス様は分け隔てなくいつも「マリヤ」と呼んでくださったそのイエス様の呼ばれる優しい声の響きと、有難さがマリヤの心に残っていたのです。その記憶に、復活のイエス様が「マリヤ!」と呼ぶ声が共鳴したのです。その声がマリヤの心を貫いたのです。するとマリヤの口から「ラボニ~訳せば先生」と、信仰の言葉となって飛び出したのです。イエス様は、あなたの名をも呼んでおられます。その声を聞き、私達も「先生」と復活の主に信仰の目を開いて、マグダラのマリヤと共に主のご復活を喜び、お祝いしましょう。

3月25日受難週メッセージ「神の栄誉と人の栄誉」

(受難週メッセージ)「神の栄誉と人の栄誉」ヨハネ12章37~43節

                       仁井田義政 牧師

 受難週に入りました。使徒ヨハネは、受難週について7章もの紙面を使って記しています。三十三年間のイエス様の生涯を記す福音書の中で、実に三分の一を使っているのです。それ程にイエス様の受難に対する理解は、クリスチャンにとって重要なのです。私達の信仰が強いものになるかならないかは、イエス様の受難の理解にかかっていると言っても過言ではありません。今日の受難週の御言で、強い信仰のクリスチャンとなりましょう。

★日曜日にイエス様がエルサレムに入られた時、人々は大喜びで迎えました。死人からラザロを蘇らせたイエスが来られるのを知ったからです。(ヨハネ12:17)パリサイ派の人々は、群衆がイエス様を喜び迎えるのを見て「イエス殺害計画は失敗に終わった」と確信したのです。(12:19)

★イエス様が「私に従え、私は命をかけて支配国ローマを倒し、腐った宗教界の改革を行なう」と言えば、一気に群衆の心を掴むことが出来たのです。 しかしイエス様は「一粒の麦が死ななければ一粒のままです。もし死ねば多くの実を結ぶのです」等と群衆にとっては訳のわからないことを言うのです。ご自分の死の決意を「多くの人の為に死ななければならない」という言葉に、群衆の心は一瞬にしてイエス様から離れました。彼らにとって「死ぬ神の子」など考えたことも聞いたこともなかったのです。

★人々は、ラザロの甦りなど多くの奇跡にキリストへの信頼を強めたけれども、主の受難に関する話を聞いて信仰が終わったのです。しかし神の子の受難は、750年も前に預言したイザヤの預言の成就(12:40)でした。「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」(12:42)と聖書に記されています。何という軟弱な信仰でしょう。  

★皆さんは、強いクリスチャンになりたいと思いますか。その為には人から栄誉(称賛)を受けるよりも、神様からの栄誉を求める人にならなければなりません。イエス様は、人からの称賛を受けるよりは神様からの称賛を受けるため十字架を選ばれたのです。私達も人からの栄誉ではなく、神様からの栄誉を求めるクリスチャンになりましょう。そうする時に、あなたは強いクリスチャン、素晴らしいクリスチャンとなることが出来るのです。

3月18日礼拝メッセージ「神の国の奥義」

(礼拝メッセージ)マルコNO21神の国の奥義4章10~13節 

                         仁井田義政 牧師

 先週は「百倍の祝福」という題で、イエス様の「譬え」から話しました。一粒の麦が良い地に蒔かれると百倍の祝福となるという話です。譬えは、分かりにくいことを分かりやすくするための方法です。しかしその譬えを聞いた「人々と弟子達」が、それでも分からなかったというのです。悲しい限りです。何が分からないのかというと、11節に記されている「神の国の奥義」です。今日は「神の国の奥義」についてお話しいたしましょう。

★イエス様は、この譬えで何を教えられたかったのでしょうか。それは神の国の力です。イエス様は、この世には二つの力があることを教えておられます。実を結ばせない力と、実を結ばせる力です。実を結ばせない力は、種の一粒さえも失わせる力です。実を結ばせる力は、百倍の実を結ばせる力です。神の国とは、神様の支配力です。どうすれば神の力ある支配に入れるか、その奥義をイエス様は教えられたのです。

★神の国は「悔い改め」によって始まります。日本は「罪の悔い改めの弱い民族だ」と言われています。ですから日本の宗教も、みな罪の悔い改めをせずして「百倍の実を結ぶ」約束を、一足飛びに約束しようとするのです。そして日本人の多くは、家内安全、商売繁盛、病気の癒しだけに関心があり、日本の宗教はこぞってそれを約束するかたちをとっているのです。

★イエス様は「見るには見るが、聞くには聞くが、悔い改めて許されることがない」と言われました。イエス様の伝道の第一声が、「神の国は近くなった、悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:14-15)という言葉であったことを忘れてはなりません。それでは悔い改めとは、何を悔い改めるのでしょうか。それは、イエス様を信じなかった不信仰の罪です。その罪を悔い改めないでは信仰を全うすることは出来ません。また徹底した罪の悔い改めがなくては、神の力ある支配に入れないのです。

★ギリシャ語のムステリオンは、英語のミステリーの語源です。ミステリーとは隠されている真理のことです。なぜ隠されているのでしょうか。順序を踏まないとその真理に到達できないようにされているのです。人間が罪や欲望を持ったままで踏み込むことがないようにとの神様の知恵なのです。私達は、今までの信仰の姿勢を悔い改め立て直し、これからはイエス様を第一にしていきましょう。それが信仰の奥義なのです。そうする時、神様の祝福のもとで私達は百倍の実を結ぶ人となるのです。

3月11日礼拝 マルコNO20「百倍の祝福」

(礼拝メッセージ)マルコNO20「百倍の祝福」4章1~9節 

                         仁井田義政 牧師

 マルコの福音書の4章に入りましした。3章の終わりの所で、イエス様は「神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟姉妹、また母なのです」と言われました。そして4章でイエス様は、その「神の御心に従う人」とはどのような人かを話されました。

★イエス様の何者をも恐れぬ物言いと、病気の癒しの奇跡の連続に狂喜して、多くの人々がイエス様のおられたガリラヤ湖岸辺に集まってきました。その人々の多さの為に、イエス様が浜辺にいるスペースさえなかったのです。人々は、この魅力的なイエス様について行こうとして集まって来たのです。しかしこの狂喜してイエス様に従おうとしている者達の多くが、ご自分を裏切る者になることを、イエス様は知っておられたのです。

★そして熱狂的にイエス様を求めてきた者達全てが、御心を行なう人となるのではないこともイエス様は知っておられました。イエス様は種まきの譬えを話されました。種をまく人はイエス様です。種はイエス様の真理の言葉です。土地は聞く人たちの心のことです。踏み固められた道に落ちた種は、エルサレムから来た律法学者達のようにイエス様に敵対する心で聞く人のことです。土の薄い岩地に落ちた種は、多くの頑張りのきかない心の人です。棘の根のある土地に落ちた種は、欲望の心を持ったまま従おうとした人のことです。

★イエス様は「 聞く耳のある者は聞きなさい」と譬えの最後で言われました。聞く耳のある心で聞くということが「良い地に落ちた種」で「百倍の実を結ぶ」と言われた人の心なのです。この譬えは神の国の例えです。来週お話しします4章11節を見て下さい。そこには「神の国の奥義が知らされているが」と、この譬えの後に弟子達にイエス様は話されています。神の国とは神の支配のことです。イエス様の支配を、現実の社会と生活において聞く耳を持って聞き実践する者は「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」と言われたのです。 

★イエス様の御言には、百倍の実を結ばせる力があります。聞く耳を持って聞き実践さえすれば、絶対に多くの実を結ぶのです。少なくとも三十倍、普通でも六十倍、多ければ百倍、それ以上の実を結ぶのです。イエス様の真理は、私達を豊かにします。イエス様は真剣に私達の心に種をまかれます。私達も、喜んでその種を良い心で受け止めようではありませんか。

 

3月4日礼拝 マルコNO19「神の家族」

(礼拝メッセージ)マルコNO19「神の家族」3章31~35節 

                         仁井田義政 牧師

 イエス様の活動は、あまりにも革新的でした。その結果ユダヤ教の当局者にとがめられ、「彼は悪霊につかれている」という噂を流されたのです。そのためイエス様の家族が、ナザレの村から連れ戻しにきました。そのことを知ってイエス様は、「神の家族」について重要な話をされました。

★イエス様の家族が連れ戻しに来た時、イエス様のおられた家には大勢の人達が「イエスを囲んで座って」いました。「座って聞く」ことは、当時の正式な聞く者の姿勢でした。しかしイエス様の家族は「外に立って」イエス様を自分の所に呼び寄せようとしていました。家に入って行こうとはしなかったのです。

★弟子のひとりが、「あなたのお母さんが、外に来ています」とイエス様に伝えました。当時の社会は、血のつながりが全てに優先しました。しかしイエス様は「私の母とは誰のことですか。また、私の兄弟とは誰のことですか」と答えられ、そして「群衆を見回して、神の御心を行なう人は、誰でも私の兄弟、私の母なのです」と言われたのです。この言葉は家族にとっても、聞いていた群衆にとっても、ショッキングな言葉でした。ですから、この言葉が聖書の中に残っているのです。

★それではイエス様は、家族を無視されたのでしょうか。そのようなことはありません。イエス様は十字架に着かれた時、その苦しみの中で五十歳くらいの母親を弟子のヨハネに託しています。ほかの兄弟も、イエス様が十字架に着かれ三日目に甦られた後、エルサレム教会の初代牧師となっています。「主の兄弟ヤコブ」がその人です。

★イエス様が「神の御心を行なう者が私の家族なのである」と言われた言葉の上に、教会は立っています。教会で男性を「兄弟」と言い、女性を「姉妹」呼ぶのは、神の家族だからです。今日は聖餐式があります。神の家族は、イエス様を中心に食事を共にするのです。欠けたことの多い群衆を見回し、「神の御心を行なうものは誰であっても、私の家族なのです」と言われたイエス様の言葉を噛みしめながら、神の家族の絆を確かめる聖餐式をうやうやしく頂こうではありませんか。私達は神の家族です。

2月25日礼拝メッセージ「心配してはいけません」

(礼拝メッセージ)「心配してはいけません」マタイ6章25~34節

                                                                               楠 亜紀子師

 今日は、マタイの福音書6章から御言葉をお分かちします。

★マタイの福音書5章から7章は山上の説教と言われ、イエス様は山の上で

大勢の人々に教えられました。そこに集まっていた多くの人々の関心事と言えば「食べる物」や「着る物」でした。そのような人々にイエス様は、そのようなことだけに心がとらわれ、心配してはいけませんと教えられました。

★そして次に、自然界を通して「心配してはいけない」ことを教えて下さいました。空の鳥は種を蒔いたり刈り入れをしませんが、神様が養って下さいます。また野に咲いている花も自分で紡ぐことをしませんが、神様が装って下さいます。空の鳥も野の花も神様が養って下さるのですから、ましてやご自身の子供である私たちを養って下さらないわけがありましょうか。

私たちはイエス様のお話を聞いていた大勢の人々と同じように、無用な心配をしていることはないでしょうか。私たちのことを愛して下さるイエス様は、私たちが必要とするもの全てを与えてくださいます。

★それでは、私たちが求めなければならないものは何か他にあるのでしょうか。33節には「だから神の国とその義をまず第一に求めなさい」とあります。私たちが求めるべきものは、神の国と神の義です。神の国とは神様のご支配であり、その義とは神様の聖さです。私たちの心を神の国とし、神様を第一として生きなさいということです。私たちがいつも神様を第一とし、神様との関係が正しいものであるなら、私たちが生活していく上で必要なものは全て、天のお父さまが与えて下さるとの約束です。

★私たちは、明日のことを先取りして心配してしまうようなことはないでしょうか。私たちには明日のことが分からないので不安に思ってしまいますが、イエス様は私たちの明日をご存知です。今日も明日もいつまでも、私たちと共にいて下さり、私たちを愛し、守り、助けて下さるイエス様に、明日のことをおゆだねしましょう。そして、今日一日を精一杯生きましょう。

2月18日礼拝メッセージ「赦される罪と赦されない罪」

(礼拝メッセージ)マルコNO18「赦される罪と赦されない罪」3章20~30節

                          仁井田義政 牧師

 

イエス様は山の上で十二弟子を選んで、いつもの町へ帰って来られました。すると「また」大勢の人が家に押し寄せてきました。そこでイエス様は、赦される罪と赦されない罪について話されました。

★今日の御言には「家に戻られると」とありますが、現代の原語研究によると「帰られると」であり、共同訳はその方を用いています。その家は、おそらくペテロとアンデレの家であり、そこを活動拠点にしておられたと思われます。ペテロの奥さんと熱を癒していただいた姑が、御馳走を用意していたことでしょう。しかし群衆はイエス様に食事をする暇さえ与えず、自分たちの要求を続けました。

★イエス様の所に来た人々は、癒しや奇跡を求めて集まってきた群衆でした。自分の必要が満たされることが第一でした。そのような人達が熱心にイエス様の所に来ることを、エルサレムの律法学者達は妬みました。そして律法学者達は、イエス様と群衆を分断する為にエルサレムからガリラヤに来て、「イエスは悪霊につかれている」との噂を流しました。イエス様の「身内の者」も「イエスは悪霊につかれている」との噂を聞いて、イエス様を連れ戻しにやって来たのです。

★イエス様は律法学者達の悪意を知って、「悪霊は悪霊を追い出すなどと言う馬鹿なことはしない」と言われました。「聖霊」がこのことを行なっているのだと主張されました。そしてイエス様は「アーメン」と言って話されました。「アーメン」とは「真実」という意味です。そして「赦される罪と赦されない罪」を宣言されました。赦されない罪は「聖霊を汚す罪です」とイエス様は言われました。今日の御言の前の19節に「イエスを裏切ったイスカリオテのユダ」のことが記されているのが気にかかります。

★イエス様が十字架に着けられた時に、群衆はイエス様に対して悪口雑言を浴びせ続けました。その群衆に対してイエス様は「父よ、彼らを赦したまえ」と祈られました。ユダはイエス様を裏切った後「罪を悔いた」けれども「罪を改め」なかったのです。罪をその人に示すのは聖霊です。その聖霊の働きに逆らうことは赦されないのです。私達も「アーメン=真実です」と言って、そのことを教えられました。ですから私達は、罪を犯してしまった時には聖霊の罪の示しに従い、聖霊を敬うクリスチャンになりましょう。