10月25日礼拝メッセージ「静かに仕事をしなさい」

第二テサロニケ(NO.10)「静かに仕事をしなさい」3章6節~15節

                     仁井田義政 牧師

 

今日の御言は、勤勉な労働の勧めです。パウロは第一の手紙でも取り上げましたが、第二の手紙では、第一の手紙よりも強い口調で、勤勉な労働の大切さを教えています。

★これは「キリストの御名によって」(3:6)の命令でした。それは「再臨は既に来た」とか、「直ぐに再臨あるから労働に意味がない」等と言う極端な者がいたからです。パウロは、テサロニケ教会開拓の初期には労働をしながら伝道をしました。パウロは労働を軽んじる「怠惰な者達から離れよ」と教えました。

★異端は仕事をしない自分達を、信仰者の理想的な姿であるかのように見せていました。パウロは「静かに仕事をし、仕事で得たパンを食べよ」(3:12)と、ここでもキリストの御名によって労働の命令を記しました。勤勉に働くことの勧めは、第一テサロニケで「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい」(4:11)と教えていました。しかしこの勧めにも従わなかった者達がいたのです。

★パウロは3章6節で「そのような兄弟達から離れよ」と言いました。また3章14節でも「そのような者と交際しないように」と教えています。非常に強い言葉です。どうしてかというと、6節と12節にある「キリストの御名によって命じた」ことに従わなかった者達だからです。それでは、その強い言葉の目的はどこにあるのでしょうか。それは「彼が恥じ入るようになる為です」(3:14)、また「しかし、その人を敵とはみなさず、兄弟として戒めなさい」(3:15)と、パウロが記していることから明らかです。それは異端者の悔い改めを願ってのことでした。

★私達も労働を軽んじてはなりません。「仕事をしないで暮らせる生活が出来たらどんなに幸せか」と思っている人は多いと思います。テサロニケ教会の信徒の中のみならず、現代の私達の中にもいるでしょう。しかし労働のない生活は、理想的な生活ではありません。神様が理想的な場所としてエデンの園を造られた時、そのエデンの園にさえ労働はあったのです。に「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた」(創世記2:15)とあるのです。エデンとは「喜び」という意味です。労働がなければ「喜び」の環境が失われるのです。仕事は、神様が人間に与えられた幸せになる為の自然なことなのです。労働を当然のこととして、勤勉に喜びつつ、静かに仕事をし、クリスチャンの素晴らしさを現わしましょう。

10月18日礼拝「パウロの祈り」

第二テサロニケ(NO.9)「パウロの祈り」3章1節~5節

第二テサロニケも3章に入りました。3章は結論の部分です。パウロは結論の最初の部分で、祈りの依頼をしました。

★パウロは偉大な先生であったのに、祈りの依頼をしています。パウロはこの手紙を、コリントから出していると思われます。そのコリントでは、困難な伝道の中にありました。そのためにパウロは「主のみことばがコリントでも早く広まるように」とテサロニケ教会に祈りの依頼をしているのです。

★その祈りの依頼の中に、「ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように」という内容があります。「ひねくれた」は、ギリシャ語の「アポトーン」が使われています。その意味は「異常な」で、コリントにキリスト教に対して異常な憎しみで迫害する者達がいることを伝えています。そのような迫害者は、パウロのいるコリントにだけいるのではありません。パウロが去った後のテサロニケにもいるのです。その中でパウロはテサロニケ教会の為に祈り、また自分達の為にも祈りを依頼しているのです。クリスチャンは、自分に問題を抱えつつも他者の為にも祈ることが出来るのです。主も十字架の上で「彼ら赦し給え」と祈られました。

★パウロは、テサロニケ教会も同じように迫害者達によって苦しめられているのを知っており、「主があなたがたの心を導いて、神の愛と、キリストの忍耐とを持たせて下さいますように」と伝えました。「導く」は、ギリシャ語の「カテウスノー」で、「真っ直ぐに」の意味です。どこに導くのかというと「神の愛」にです。そしてまた「キリストの忍耐」に導かれるようにとの祈りです。この地上には困難があるからです。

★パウロの祈りの依頼は、コリントで伝道している自分達も困難を乗り越える忍耐が必要であったからです。そのために「神の愛」の確信が必要だったのです。テサロニケ教会の信徒達も、パウロ達の信仰も立派な信仰でした。しかしそれだけで良かったのではありませんでした。互いに「神の愛と、キリストの忍耐とを持たせて下さいますように」と、祈り合うことが必要だったのです。ですから私達も互いに祈り合いましょう。プライバシー等の問題で、週報などに挙げられない祈りもあります。そのことも心にとめて、互いの為にいつも祈り合いましょう。

10月11日礼拝「力強く生きる秘訣」

第二テサロニケ(NO.8)「力強く生きる秘訣」2章15節~17節

 今年は苦難の年でした。ある人はコロナの為に職を失いました。ラーメン屋さんの店主が泣きながら「店をたたむ他ない」と言っていました。今日の聖書の御言は、その揺れ動く社会の中において、いかにしたら動揺しない生活が出来るかを教えています。

★私達の生活は、全て言葉によって成り立っています。「初めに言葉ありき」です。器に悪い水を入れますと、悪い水が出て来ます。心に御言を入れると御言が出て来ます。パウロは「私達の言葉と手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい」と教えています。私達の言葉とは「説教」で、「手紙」とは「聖書」と言うことも出来るでしょう。

★パウロの祈りは、「私達の主イエス・キリストと、私達の父なる神が・・・強めてくださいますように」と祈りました。その中に「私達の主イエス・キリスト」と言う言葉があります。どんなに御言を耳で聞いても、イエス様を「私達の主と」認めないと、力を受けることが出来ないのです。また「私達を恵みに」「永遠の慰め」「素晴らしい望み」という言葉が続いています。そしてそれらを「与えて下さった」と記されています。それは過去形なのです。これから修行したら与えられるのではなく、既に与えられて持っているのです。ちょうど親が、銀行に子供の為に通帳を作り、預金しておいてくれたのと似ています。信仰を持って受け取れば良いのです。

★パウロは、迫害や異端問題で苦しむテサロニケの人々の為に「良いわざとことばにすすむように」にと祈りました。傷ついて心が弱っている人が「慰められるように」と祈りました。先に強くなることを求めるのではなく、まず神様から愛されていることを信じて、慰めを受けるのです。そうする時に人間は強くなれるのです。

★聖書は素晴らしい神様の御言です。神様は悩んでいる人に希望を与え、弱い人に力を与えられるのです。それが神様の私達に対する真の愛なのです。精神的にも辛いコロナ禍の中で、必要なのは神様のことばです。このような時代に「力強く生きる秘訣」は、キリストの愛が既に自分に与えられていることを知って、信じることです。今どんな境遇にいても、あなたに注がれているキリストの愛を信じて「力強い人」になりましょう。

10月4日礼拝「福音による栄光」

第二テサロニケ (NO7) 「福音による栄光」 2章9節~14節 

 テサロニケ時代も「キリストの再臨は既に起こっていたのだ」という異端が、教会内部に起こり出しました。教会外部からは強い迫害を受けていのです。そのような中に生きるテサロニケの教会に、パウロは「クリスチャンの勝利」を伝える手紙を書きました。それが今日の御言です。

★今日の御言には、「不法の人」の出現が預言されています。不法の人は、サタンではありません。サタンに利用されてキリストの真理に反対する宗教的人物です。もちろんその人は、自分がサタンに利用されているとも思っていません。自分の教えは真理だと教えるのです。その人には、偽りの力としるしと不思議が伴います。病気が治り、問題が解決することもあると聖書は言います。

★「不法の人」によって、多くの人々に対して欺きが行なわれます。その原因は、人々が「救いの為の真理を受け入れなかった」からであると聖書は記します。10節の真理は、ギリシャ語の「アレツェイアー」「しっかりと立つ」との意味があります。ぬかるむ沼地ではしっかりと立てません。イエス様は「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と、私こそ人間がしっかり立つことの出来る「真理である」と言われたのです。イエス様を信じない人には、不法の人による「欺き」が起こると忠告されています。しっかりと足を据える真理を持っていないからです。

★しかし「悪には、悪の喜びと快楽がある」(2:12)と聖書は言っています。それがなくて人々が悪に従った生活をするでしょうか。テサロニケの時代、異教の神殿には売春宿が併設されていました。それに加えて、キリスト教に対しての迫害が猛威をふるっていました。キリスト教の「清潔」という教理を踏みにじって、一般社会は勝ち誇っていたのです。敗北しているかのように見える教会に対して、パウロは、「しかしキリストの再臨の時に、栄光を受けるように定まっているのはクリスチャンである」とこの手紙で伝えたのです。

★テサロニケ時代の異教や異端のはびこる時代を背景にした中で、パウロはそれに騙されずに生きる秘訣は、「福音によって」のみ可能であることを教えています。そしてその福音の真の中に、私達は召されているのです。騙されることなく福音を信じ通すならば、必ずクリスチャンは栄光を受け、勝利するのです。誰にも騙されることなく福音そのもの信じぬいて生きましょう。

9月27日礼拝「背教者が起こる」

第二テサロニケ (NO6)「背教者が起こる」2章3~8節 

今日は、先週の御言の最後の節からです。それは、2章3節の後半の御言が今日のメセージと深く関係しているからです。3節の前半では「誰にも騙されないようにしなさい」と記されています。そして今日のメッセージは、世の終わりが近くなると「まず、背教がおこり」と記されています。パウロは、その背教とはどんなことなのかを説明しています。

★今日の御言の中の「不法の人」と言われるこの人は、サタンとは違う存在です。それはサタンに操られている人のことです。また「背教」は、イエス様を信じていた人の背教と見られやすいですが、背教「アポスタシア」は「逆らって立つ」の意味ですから、単に信仰に背を向けた人とは違います。キリスト教会に逆らって立つ人のことです。ですから「不法の人」も「滅びの子」も、背教者等のことで、サタンに操られた強力な権力を持った人のことなのです。

★背教者とは「自分こそ神である」と宣言し、真の教会を迫害する人です。そして自分を礼拝させようとして、礼拝しない者を迫害し、宗教の統一を図ろうとするのです。このようにパウロが教え記すのは、まだキリストは再臨していないという証拠を示す為でした。2章2節のように「主の日がすでに来たと言って、落ち着きを失っている者」がいたからです。

★究極的な背教者は、まだ起こっていません。背教者を徹底的に操つる悪しき存在(サタン)は、今まだ陰に隠れており、活動を制限されています。しかし、その悪しき働きは既に始まっているのです。やがてダムが崩壊するように、その力を現すでしょう。しかしクリスチャンは騙されてはなりません。その邪悪の権化であるサタンを滅ぼす力は、再臨の主にのみあるのです。

★キリストの再臨は、こっそりと来ていたり、「私が再臨のキリストだ」と、宣言する人によって来るのではありません。世界的な規模で、いや全宇宙的な規模で、キリストの再臨は行なわれるのです。その時に背教者であろうと、サタンであろうと、全て滅ぼされるのです。なぜならキリストこそ、王の王、主の主だからです。クリスチャンは、そのことを堅く信じなければなりません。再臨と共に現われるキリストの勝利を固く信じ、キリストへの信仰を強く持ちましょう。

9月20日礼拝「誰にも騙されないように」

第二テサロニケ (NO5)「誰にも騙されないように」2章1~3節 

「誰にも騙されないように」という今日の御言は、現代に生きる私達クリスチャンにとっても大切なことです。なぜかというと、世界中に異端がはびこっており、日本にも続々と異端が入ってきているからです。

★パウロは、イエス様が昇天された20年後くらいに、既にこの手紙に書いています。テサロニケ教会は、キリストの再臨についての教理がしっかりしていませんでした。パウロは、そのことについて視察から帰ってきたテモテから聞きました。その隙間に異端が入り込み、蝕み始めていたのです。その異端は「主の日が来た」(2:2)という異端でした。

★パウロはそれに対して「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい」と記しました。第一は「霊によってでも騙されるな」です。異端の教祖は、「私は直接、聖霊によって教えられた」と自分の言葉の権威付けをして騙します。第二は「ことばによってでも騙されるな」です。それは流暢な言葉による宣教を意味することだと考えられます。どんな感動的言葉も間違いは間違いなのです。第三は「私たちから出たかのような手紙によってでも騙されるな」です。それらは異端の常套手段なのです。

★パウロは、騙されて「落着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください」と書きました。「落着きを失う」という言葉は、「船が台風で荒海に流される様子」から来ている言葉だそうです。異端に騙されると、落ち着いた生活が出来なくなります。会社を辞めたり、学業を止めたりして、共同生活を始めたりします。また「心を騒がせる」とは、風に逆立つ波のように、落ち着きを失い長期にわたって揺さぶられる生活を意味する言葉なのです。

★「あの教会は凄く伝道に熱心である」とか、「あの指導者は、今まで知らなかった新しいことを教える」とか、「あの牧師はいつも山に籠って断食し、神と交わり、聖霊によって神様と直接会話して、神様から直接真理を教えて頂いている」等と言うのが危ないのです。正しい信仰は、神のことばである聖書によってのみ成立するのです。もちろん異端も自分達の主張に役立つようなところは「これは聖書の言っていることです」と言って、聖書の言葉を多用します。しかし騙されないようにしましょう。私達は聖書の御言にしっかりと立って、「誰にも、どのようにも騙されないように」しましょう。

9月13日礼拝「パウロの信仰の祈り」

第二テサロニケ (NO4)「パウロの信仰の祈り」1章11~12節 

 

今日の御言で、パウロはテサロニケ教会の信徒達が素晴らしい信仰を持ち続けるようにと祈っています。

★パウロは「私達の神があなたがたを召しにふさわしい者にして下さいますように」と祈っています。神様を信じて間もない人は、私は自分が信じたからクリスチャンになったと思っています。しかし、信仰が成熟した人は、神様が召して下さったので、私はクリスチャンになったと思っています。パウロは「生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった」(ガラテヤ1:15)とさえ言っています。「それは召しにふさわしい者とするためです」と召しの目的が記されています。それはキリストの素晴らしさと同じようになる為です。

★クリスチャンが自分の信仰の力を自負している間は、その信仰は危ういのです。私達の信仰の力ではなく、神様の御力が信仰を全うさせて下さるのです。ですから自分の弱さを認め、神様の御力を知れば、神様に祈り御言を聞くことを第一とするのです。そのような信仰生活をする人が、神様の御力に守られて信仰を全うすることが出来るのです。テサロニケの時代は、迫害という戦いの相手がはっきりしていました。しかし今は、真綿で首を絞められるように、やんわりとクリスチャン生命を絶たれてしまう時代なのです。気が付いたら信仰を失っていた、というようなことが起こりうるのです。

★クリスチャン達が、神様の召しとその目的を知って感謝して生きる時、それよってキリストが栄光を受けられるのです。そして信仰を守り通したクリスチャンもまた、栄光を受けるのです。それはキリストと同じ姿に変えられるからです。私達は、キリストと同じく罪が全くない者とされます。キリストと違う点はただひとつ、キリストは全く罪のない御方であられましたが、私達は罪を赦された罪のない者という一点だけなのです。 

★今日の御言は、迫害の真っただ中にいるテサロニケ教会の人々の為に祈るパウロの祈りです。テサロニケの教会の人々の信仰は、素晴らしい信仰でした。しかしパウロは、人間の弱さをも見抜いていたのです。神様はクリスチャン達の信仰を守り、信仰を全うすることが出来るように、御力を注いでくださるという事実にすがって祈っています。今は、キリストが天において私達の為に祈って下さっています。ですから私達も、「主よ、私の信仰を守って下さい」と祈りましょう。

2020年9月6日礼拝「永遠の滅びと栄光」

第二テサロニケ (NO3)「永遠の滅びと栄光」1章8~10節 

 今日の聖書箇所も、先週に続いてキリストの再臨の時に起こる大どんでん返しのことです。迫害のただ中にあって、敵対者の前には全く抵抗や反抗する力がない集団のように見えたキリストの教会。やられたらやり返す、これが人間社会の姿でした。しかしクリスチャン達は、どんなに迫害されても仕返しをすることなく、勝利を確信して生きたのです。それは御言に示されている真理をしっかりと信じぬいていたからです。

★初代教会のクリスチャン達が信じぬいたその真理とは、キリストの報復です。主を信じない人々や迫害者に対して、主は必ず報復されるのです。神は居ない、イエスは殺されてしまったではないかと言っている人に対して、必ず報復されるのです。人間の視覚や知力の中に納まってしまうようなものは神ではありません。むしろ神は見えないから神なのです。

★今は恵みの時で、神様を信じない人にさえ恵みは注がれています。しかしキリストの再臨の時には、神様を信じない人や迫害する人には、必ず永遠の滅びがあるのです。「永遠の滅び」とは、「滅んで無くなってしまう」のではありません。神学者カルヴァンは、そのことを「死ぬことのない死」と言っています。つまりそれは死後の世界で存在意義を完全に失った状態で、永遠に生きるのです。それが死ぬことのない死です。

★一方クリスチャン達は、キリストの再臨の時、主の栄光の中に入れられるのです。それは天国のことです。クリスチャン達が迫害されても仕返しをしなかったのは、キリストが再臨される時、クリスチャン達に勝利を与えて下さることを信じていたからです。天国でクリスチャンが受ける祝福は、永遠の命です。永遠の命とは永遠の滅びとは全く逆で、死後の世界で存在する意義に満ち溢れて、永遠に生きる命なのです。その素晴らしさは、想像を絶するものです。その様子を今日の御言の中で「感嘆の的」と言われている通りです。

★そのことを信じる時、人間は正しく生きることが出来るようになるのです。私達は、主の十字架による罪からの赦しという人生の勝利を確信しましょう。そしてイエス様の再臨の時に起こる大どんでん返しを信じましょう。そして天国での想像を絶する素晴らしさを目指して生きて行きましょう。

8月30日礼拝「苦難の意味」

第二テサロニケ (NO2)「苦難の意味」1章4~7節 

この手紙を受け取るテサロニケ教会は、激しい迫害の中にありました。教会外の人達からは、「お前の信じている神が本当に生きているなら、お前たちをどうして助けないのか」と言う人達がいたでしょう。クリスチャンも、そのように自問することがあったでしょう。今日の御言は、その質問に答えています。

★迫害については、神様が全能であるならば、クリスチャンの為に迫害している者を罰して、クリスチャンから迫害を取り払って下さっても良いはずです。そう考えるのは、クリスチャンでない人に限らず、クリスチャンでも少なくないでしょう。

★今日の御言は、その理由を「あなたがたを神の国にふさわしい者とするため」(5節)と記しています。旧約聖書の出エジプト記を思い出してみましょう。なぜ神様は全能であられるのに、イスラエルの民に四十年も荒野の旅をさせたのでしょう。それは、約束の地に信仰者を入れるためでした。荒野でテストを受けたのです。エジプトを出る時に二十歳以上だった人々は、みな荒野で滅んでしまいました。例外的に信仰者のヨシュアとカレブだけが、約束の地に入ることが出来ました。なんとモーセさえも入れなかったのです。

★苦難は、あなたをクリスチャンとして訓練する為にあるのです。クリスチャンは、どんな苦難にあっても滅ぼされることはありません。苦難がその人の人生にマイナスになることもありません。むしろプラスにさえなるのです。詩篇119篇71節に 「苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」とあります。「あなたのおきて」とは御言です。クリスチャンにはプラスになり、神様を信じない迫害者には、神の裁きとなって臨むのです。

★苦しみに遭う時、特にクリスチャンであると言うことで迫害や反対を受ける時、これは神様が私を愛して「私を神の国にふさわしい者とするために」(5節)訓練して下さっている証拠だと受け止めて、さらに信仰へと前進すべきなのです。苦難に遭えばあう程、信仰を強く持って、御言を信じ前進しましょう。

8月23日礼拝「教会の成長に感謝する」

第二テサロニケ (NO1)「教会の成長に感謝する」1章1~3節 

この手紙は、第一の手紙を書いた直ぐか一年後くらいに書かれたものです。テサロニケの教会は、第一の手紙にもありましたように、素晴らしい信徒達がいました。しかしその教会にも、どうしても補わなければならない信仰の欠けたところがありました。それは、キリストの再臨についてでした。

★この手紙には、送る側のパウロ、シルワノ、テモテという三人の名が記されています。シルワノはラテン語です。それはシラスの事です。テモテは青年テモテです。この三人は、テサロニケの町にも一緒に伝道に行きました。ですからテサロニケ教会信徒にとっては顔見知りでした。そして三人の名が記されているのは、この手紙はパウロの個人的考えではなく、働き人三人の共通の考えであることをテサロニケの信徒達に示しているのです。

★パウロは「父なる神と主なるキリストから恵みと平安がありますように」と挨拶を書きました。教会は、同じ趣味を持った人が集まるグループ活動とは違います。それは、神とキリストの教会なのです。そして2節に「恵みと平安があなたがたにありますように」と記されているように、教会は神の豊かな恵みが満ち溢れている所なのです。

★パウロは、テサロニケ教会の信仰が目に見えて成長しているのを見て「感謝しなければなりません。それが当然なのです」と記しました。テサロニケ教会が、相互の愛に成長しているからです。教会の成長は、神様の御業です。ですからクリスチャンは、神様にそのことをいつも感謝しなければならないのです。むしろ「感謝するのが当然」なのです。

★私達は、今日の御言から教会の在り方を学ばなければなりません。教会は、神なるイエス様の所有であることを知らなければなりません。いつも教会の集まりを「神様に感謝しなければならない」のです。教会を成長させて下さっているのは、神様だからです。そして相互の愛を高め合いましょう。愛されることだけを求めてはいけません。教会の成長の目に見えるしるしは、集まる人の数だけではありません。相互の愛こそ、目に見える教会の成長なのです。互いに愛をもって祈り会い、支え合いましょう。毎日、兄弟姉妹のことを祈るクリスチャンになりましょう。