5月16日礼拝「キリストにお会いする日のために」

ピリピ書講解(NO.2)「キリストにお会いする日のために」1章7~11節

  仁井田義政牧師 

ピリピの教会は、十年の間に大きく成長しました。今日の御言の大切な所は、「キリストの日まで純真な信仰を守って下さいますように」です。

★今日の御言の初めに「私がこのように考えるのは、正しいのです」と記しています。このようにとは、どのようになのでしょうか。それは、「私が投獄されている時も、共に恵みに与かった人々だからです」と、その意味が記されています。教会の人間関係は、利害関係ではないのです。牧師と信徒も利害関係ではありません。キリストの恵みに共に与かっている関係なのです。

★パウロは、ピリピのクリスチャン達の為に祈りました。それは、「あなたがたの愛が真の知識と識別力に、いよいよ豊かになりますように」との祈りでした。ピリピの教会が真の知識において、乏しかったのではありません。むしろ逆です。ですから「いよいよ豊かになり」と祈っています。異端やローマとユダヤ教徒達による迫害が強くなってきていたからです。

★パウロは、「あなたがたがキリストの日には純真で非難されるところがなく、義の実に満たされている者となりますように」と祈りました。「キリストの日」とは、キリストにお会いする日であり、再臨の時とも、人生の終わりの時とも言えるでしょう。そうなるために修行など必要ありません。「イエスキリストによって与えられる」のです。キリストにしっかりと信仰で結びついていれば、自然に実を結ぶことが出来るのです。それは、イエス様がヨハネの福音書15章の「私は真のぶどうの木」の譬えで、はっきりと教えられました。

★私達の人生は、死に向かっての人生ではありません。キリストにお会いする日に向かっての人生なのです。そのためにイエス様からたくさんの養分を与えて頂き、多くの実を結んでイエス様にお会いするのです。父なる神様も私達が多くの実を結ぶようにと、毎日世話をして下さっているのです。手抜きした畑は、直ぐに雑草におおわれてしまいます。私達の人生がそうならないように、イエス様は私達の為に働いて下さっているのです。私達をイエス様と教会から離そうとするものは断固拒否しましょう。

キリストにお会いするその日を目指して、ピリピのクリスチャン達のように、純粋な信仰を保ちましょう。

5月9日礼拝「福音を広める教会」

ピリピ書講解(NO.1)「福音を広める教会」1章1~6節

                   仁井田義政牧師 

 今日からピリピ人への手紙です。この手紙は、先週までお話していたエペソ書と同じく、西暦61年頃に書かれたものです。この手紙も、パウロがローマの獄中で書きました。ピリピ教会は、この手紙の出される十年ほど前にパウロの伝道によって出来たヨーロッパ最初の教会です。この手紙のキーワードは「喜び」です。パウロは、獄中でなぜ喜ぶことが出来たのでしょうか。

★ピリピ教会の始まりは、パウロの第二伝道旅行の時でした。その時の様子が、使徒16章6節から記されています。ヨーロッパ最初のクリスチャンは、紫布の商人ルデヤという女性でした。その後パウロは、ピリピでの伝道の時に捕えられ、獄中にいる時に地震が起こりました。その結果、牢獄の獄吏一家が救われクリスチャンになりました。パウロのビリピでの伝道は、数日間でした。その異邦人クリスチャンの二家族を残して、十年が経ったのです。

★ピリピの手紙は、パウロの手紙の中では穏やかな書き出しです。他の手紙の書き出しには「使徒パウロから」という書き出しが多いのです。それは、ピリピの教会にはパウロの使徒性を疑う者がいなかったことが反映しています。また十年たって教会が成長し、聖徒達、監督、執事達という役職を置くまでになっても、パウロと良好な関係にあったことを現わします。パウロの獄中での喜びは、そこにあります。神様に忠実なビリピの教会を思い出しては、神様に感謝し喜びを持って祈っていたのです。

★ピリピの教会は、パウロがいなくても、最初の日から今日まで福音を広め続けて来ました。異邦人の二家族から始まった信徒だけの教会が、十年間で、「監督、執事、信徒達」と形成された教会に成長したのです。紫布の商人ルデヤが、家を教会として提供したからです。しかしそれは、献身的に伝道しようとした教会に働いた復活のキリストの御業でした。

★パウロによるピリピ伝道は、小アジア伝道を聖霊に止められたことから始まりました。そらく、病気になったのです。しかしその夜、マケドニヤ人が「こちらに来て私達を助けて下さい」と懇願する幻を見たのです。パウロはそのピリピの教会を思い出し、喜びをもって祈ったのです。私達の教会も、福音を広めることに全力を注いで、主の救いの御業を見せていただきましょう。

5月2日礼拝「祈り合う教会」

エペソ書講解(NO.25)「祈り合う教会」6章19~24節

  仁井田義政牧師 

今日はエペソ人への手紙の講解メッセージ25回目で、最終回となります。この手紙の中にも記されているように、パウロはエペソの信徒達の為に祈っていました。そのパウロが「私の為にも祈って下さい」と祈りの依頼をしています。祈り合うことが教会の姿であると言うことがわかります。

★パウロは獄中で鎖に繋がれています。自由を奪われて、明日の命さえ保証のない毎日を送っていました。それに加えて、ローマの兵隊や看守による脅しや暴力さえあったと思われます。その脅しや暴力にさえも動じないで、福音の奥義を大胆に語れるように祈って下さいと祈りの依頼をしました。

★パウロは、エペソの教会がどのような困難の中で信仰の戦いをしているかを知っていました。そのエペソの教会を励ます為、パウロは獄中で祈りながらこの手紙を書き、弟子のテキコに持たせてエペソに送ったのです。それは、獄中のパウロが何をしているかを知らせるためでした。

★パウロは「私の為に祈って下さい」と依頼した後に、教会の為に祈ってこの手紙を終わるのです。その祈りは、23-24節の祝祷でした。その祈りをする理由は、父なる神とキリストから平安と愛が、信じて祈る者に下って来るからです。そのキリストの愛は、朽ちることのない愛です。

そして「主イエスキリストを朽ちぬ愛をもって愛する全ての人の上に恵みがありますように」と祈っています。そのような信仰の人の上に、神の恵みは豊かに注がれるのです。

★この手紙を書いているパウロは、獄中で鎖に繋がれています。私達も、今はコロナの鎖によって礼拝もウエブで行なう等、不自由な生活をしています。その不自由さの中にあって、牧師達は教会のため、兄弟姉妹のために祈り、メッセージをします。私も皆さんに「コロナ禍の不自由な中にあっても、福音の奥義を大胆に知らせることが出来るように祈って下さい」と、祈りの依頼をしたいのです。牧師が皆さんの為に祈り、皆さんが牧師の為に祈るという祈り合う教会こそ、キリストの恵みの満ち溢れた真の教会なのです。この時を生かして、私達も互いに祈り合う教会となり、恵みに溢れた教会となりましょう。

4月25日礼拝「立ち上がれクリスチャン」

エペソ書講解(NO.24)「立ち上がれクリスチャン」6章10~18節

                      仁井田義政牧師 

 エペソの手紙も、いよいよ結論の部分に入ってきました。パウロは、エペソの教会にこの手紙を送った目的をはっきりさせています。その結論は、現代のクリスチャンである私達にも、そのまま必要なことでもあります。

★今日の聖書箇所には、「立つ」という言葉、(ギリシャ語で「ステーナイ」という言葉)が4回出て来ます。何から立ち上がるのでしょうか。それは死んだような生き方からです。それは4章17節~6章9節までに記されている問題です。つまり不道徳な問題、お酒の引き起こす問題、夫婦の問題、親子の問題、奴隷と主人の問題などです。

★パウロは、「主にあってその大能の力によって強められなさい」と奨めています。それは、クリスチャン生活が戦いの生活だからです。それでは、何との戦いなのでしょうか。パウロは「悪霊に対するもの」と教えています。しかし神様の大能があるので、恐れる必要はありません。サタンは私達を騙し、神様の大能には目を向けないようにします。それが、サタンの主たる仕業なのです。ですからパウロは、神様の大能の力にフォーカスして、「立ち上がれ」と言うのです。

★さらにパウロは、「武装せよ」と教えています。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音、信仰の大盾、救いの兜、御霊の与える剣で武装せよと言っています。しかしそれはみな防御品です。「御霊の剣」は攻撃的な武器のように見えますが、「剣」は、ギリシャ語の「マカイラ」で、神殿で犠牲を捧げる為に用いられていた短いナイフのことなのです。「悪い者が放つ火矢」は、サタンの放つ火矢です。サタンは疑いを火矢として使うのです。火矢の火は、最初は小さな火ですが、放って置くと人生の全てを焼き尽くし瓦礫にしてしまいます。それを信仰の大盾で守れと教えています。

★多くの人は、悪霊の罠にかかってしまい、神様の大能の力が見えないようにされてしまいます。しかし私達は、様々な問題があったとしても、いつも祈りによって目を覚ましましょう。神様の大能の力を信じましょう。サタンの最も恐れることは、あなたが目を覚まし、立ち上がって戦いを開始することなのです。

4月18日礼拝「神は人を差別しない」

エペソ書講解(NO.23)「神は人を差別しない」6章1~9節

  仁井田義政牧師 

 エペソ書も最終章の6章に入りました。今日の御言は5章からの続きで、クリスチャン倫理、道徳についての教えです。クリスチャンとして、どのように家族や社会で生活していくべきかを教えています。今日は、親子関係について、(しもべ)と主人と言う人間関係についての教えです。

★「子供達よ、主にあって両親に従いなさい」という教えは、子供に対する教えだけではありません。年老いた両親のことまで含まれます。「主にあって」とは、キリストに倣ってとの意味と考えてよいのです。イエス様は、十字架の上で、マリヤの老後を弟子のヨハネに託しました。マリヤは、この時五十歳くらいだったと思います。私達もキリストに倣いましょう。

★さらに「父たちよ、子どもを怒らせてはいけません」「主の教育と訓戒によって育てなさい」と教えられています。新共同訳聖書は「主が、しつけ諭されるように育てなさい」と訳しています。しかし子供は直ぐ駄々をこね、自分の思うように行かないと怒ります。そのような時にも、子供達の成長を信じて、神様の助けを求めて祈りながら育てることが必要なのです。

★最後に、(しもべ)達に対しての教えが続いています。この時代一人の自由人に三~五人くらいの(しもべ)が仕えていたと言われています。奴隷に「主人に従いなさい」とあるから、奴隷制度を認めているのではありません。当時の社会がそうだったのです。そういう社会情勢の中で、当時クリスチャンになる奴隷が非常に多くいました。その(しもべ)達に形ではなく「主に仕えるように仕えよ」と教えました。それが、奴隷の立場を守り、主人の心まで変える「急がば回れ」の方法だったのです。

★教会には、奴隷の主人達も救われてクリスチャンとなって入って来ました。そこで主人達に「奴隷を脅すことはやめなさい」と教えました。現代的に言えば「パワハラ」を止めよとの教えです。その理由は「神は人を差別されることがない」(9節)からです。

★主は、子供も老人も奴隷も主人も差別されることはありません。私達も主に倣い、差別のない人になりましょう。

4月11日礼拝「夫婦愛の秘訣」

エペソ書講解(22)「夫婦愛の秘訣」5章21~33節

                    仁井田義政牧師 

 今日の御言は、結婚式の時などによく読まれる所です。今日の御言が、私達に何を教えようとし、どのように世界歴史に影響を与えて来たかをお話しいたします。

★オリンピックの関係者が女性蔑視発言で失脚しました。今日の御言は、誤解を受けやすい所でもあります。それは22節の「妻たちよ、主に従うように自分の夫に従いなさい」という部分です。しかも、32節に「これは教会を指して言っているのです」とあっては、夫婦のことか教会のことかが分からなくなります。

★次に「夫たちよ。キリストが教会を愛し・・自分の妻を愛しなさい。」と記されています。パウロは、エペソの性道徳のゆるい異教社会に生きるクリスチャンに対して、この手紙を書きました。まさに聖書の一夫一婦制を、教会とキリストの関係で話しているのです。「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」と言うのです。単に男女の愛ではなく、キリストがその間に入っておられるのです。

★ パウロは「妻は夫に仕え、夫はキリストが教会に自分を捧げたように、妻を愛しなさい」と記しました。ある人が「妻は仕えるだけで良くて、夫は妻の為に死ななければならないのか」と言いました。ギリシャ、ローマ時代は男性が断然優位な異教社会で、そこに教会の一夫一婦制が爆弾のように投じられたのです。そして33節の「自分の妻を自分と同じように愛しなさい」これが、パウロのそして聖書の結論なのです。

★昨年「ジェンダー・ギャップ指数2020年」が発表されました。いわゆる「世界男女同権度ランク」です。我が国は、世界153カ国中121位という不名誉な状態でした。その一覧表をみると、軒並み上位はキリスト教の広まった国々です。日本の下にはイスラム教国が名を連ねています。聖書は、夫婦の関係を単に男女の愛というロマン主義に留まりません。21節の「キリストを恐れ尊んで、互いに従う」という信仰と愛、キリストと教会の関係が模範となった夫婦愛を理想としているのです。そのようにして、家庭から男女同権の祝福された未来を築いていきましょう。

イースター礼拝「死は勝利にのまれた」

2021イースター礼拝「死は勝利にのまれた」第一コリント15章51~58節

                              仁井田義政牧師                          

みなさん、イースターおめでとうございます。イエス様は墓から三日目に甦られました。まさに死は勝利にのまれた瞬間でした。その喜びのメッセージをお伝え致します。

★今日の聖書第一コリント15章の全体には、キリストの復活とクリスチャンの復活のことが記されています。パウロは、12~13節で「どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言っている人がいるのですか。復活がないならキリストの復活もなかったでしょう」と言いました。主は復活なされたのです。その証拠に「500人以上の人達に同時に現れた」(6節)ことによっても明らかです。キリストは、眠った者の初穂として甦えられたのです。

★パウロは「私はあなたがたに神の奥義を告げましょう」(51節)と言いました。神の奥義とは「ミステリー」という英語になった言葉です。それは科学的な研究で分かることではないのです。神からの啓示を「聞く」ことによるのです。私達は「終わりのラッパと共に変えられる」のです。それは、戦争の勝利を告げるラッパのことです。それでは、今まで人間は何と戦って来たのでしょうか。その敵は、「最後の敵である死」(26節)と記されています。人間の歴史は、死との戦いだったのです。しかしキリストが死から甦って下さることによって、「死は勝利にのまれた」(54節)のです。

★「死よ、お前のとげは何処にあるのか」と勝ち誇った言葉を記しました。ここにある「とげ」とは、拷問の時に用いられた鞭についている金属の棘のことです。人間は一生涯、死の恐怖にさいなまされて来たのです。ウイルスの問題、経済的問題など、みんな死を恐れていました。極論をいえば、どんな名医を見つけても、最後は死が勝利するのです。死は、私達人間の最後の敵だったのです。しかし、キリストの復活によって、死に対する勝利のラッパが吹かれ、死に勝利したのです。

★「ですから堅く勝利の信仰に立って、主の業に励みなさい」と奨められています。主の業とは、人々を救う業のことです。「あなたがたは自分達の労苦が無駄ではないことを知っており」と続いています。私達は信仰を込めて「死は勝利にのまれた」と告白し、心から感謝しましょう。

3月28日礼拝「光の子として」

エペソ人への手紙(N0.21)「光の子として」5章6~21節 

                            仁井田義政牧師

 エペソ人への手紙からの連続メッセージは、今日で21回目になります。その中で、何度もエペソの町が堕落した町であったかを話してきました。その町にある教会が、エペソ教会だったのです。その町は、にぎやかな町でしたが、空しい言葉に溢れた町でした。パウロは、その中に生きているクリスチャンが空しい人生になってしまわないように、今日の御言を記しました。

★パウロは、「空しい言葉に騙されてはならない」と忠告しました。空しい言葉によって生活が実を結ばないのです。それは「不従順な子ら」の生き方でした。自分の快楽を優先し、神に不従順な生き方です。

★「あなたがたも、以前は暗闇、しかし今は光となった」と記されています。これは洗礼の時のことを言っています。エペソ教会の人達は、かつては同じように闇の生活をしていました。しかしキリストの救いによって、「光の子となった」のです。しかしエペソ教会のある人は、「闇」の中に戻って行ってしまったのです。キリストの救いが無駄になったのです。

★突然「酒によってはいけません。そこには放蕩があるからです。詩と、賛美と、霊の歌によって」と記されています。それは聖霊のことを伝えたかったからです。聖霊に満たされることは、酒と共通している面があるからです。それは、聖霊に満たされて「詩と、賛美と、霊の歌」を歌う時に、解放、喜び、平和を感じるからです。そして「キリストの名によって、父なる神に感謝しなさい」と教えています。

★聖書に「光と闇」が出てくる最初の所は、創世記の1章1~3節です。初めの世の中は、何もなく「茫漠としていた」と記しています。口語訳は「混沌としていた」と訳しています。神様は、その混沌に「光よ、あれ」と言われました。すると光が出来たのです。

神様は、今も教会を通し混沌に向かって「光よ、あれ」と御言を発しておられます。神様の言葉以外に、この混沌と暗闇を照らすものはありません。礼拝は、そこに集う人達が心の中まで神様の光に照らされる素晴らしい時なのです。ですから空しい言葉に騙されてはなりません。光の子らしく、光り輝く人生を歩もうではありませんか。

3月21日礼拝「むしろ感謝しなさい」

エペソ人への手紙(N0.20)「むしろ感謝しなさい」5章1~5節 

                            仁井田義政牧師

 当時、エペソの町は道徳的に堕落していました。パウロは、クリスチャン達もその影響を受けてしまうのではないかと心配しました。むしろクリスチャンは、社会に道徳的影響を与えなければならないのです。どうすれば社会に影響を与えることが出来るのでしょうか。

★第一は、神にならう者となるということです。神に愛されている者として。愛のうちに歩むのです。キリストの愛の中にあることを忘れると、堕落するのです。その為には、「私達の為にささげもの」となってくださったキリストをしっかりと見続ける生活をすることです。

★第二は、みだらな話や下品な冗談を避けることです。これは性的な話や、それに関する下品な冗談を避けることです。避けるとは、自分がしなくても友人や家族がその話をするかも知れない時に、同じ話の中に加わらないことです。そのような話が出たら、席を外すとか「避ける」のです。

★第三は、「むしろ感謝する」ことです。みだらな冗談は、信仰にも悪い影響を与えてしまいます。また「私の人生には全く希望がない」と否定的な言葉を繰り返し言っている人で「すごく元気な人」を見たことはありません。

聖書は、「感謝しなさい」と教えています。どんな時にも感謝することが出来るように、自分を訓練するのです。神様に感謝することを心掛けた生活をする人に、誘惑はその力を失うのです。

★パウロは、5節で「不品行な者、汚れた者、むさぼる者」は偶像礼拝者なので、神の国を相続することが出来ません」と言っています。なぜ、そのような人達は偶像礼拝者なのでしょうか。それは、神様の言葉よりも自分の欲望や自分の考えを優先させる人だからです。自分の欲望や自分の考えを優先させる人は、自分を神様よりも上だと思っている人であって、自分を礼拝しているのです。私達は、そのような愚かな人になってはなりません。

堕落した社会に影響されてはなりません。愚かな話や下品な冗談から離れましょう。クリスチャンは、社会から影響を受けるのではなく、社会に影響を与えるのです。そして自分自身を救うために「神様に感謝する」生活をしましょう。

3月14日礼拝「聖霊を悲しませてはならない」

エペソ人への手紙(N0.19)「聖霊を悲しませてはならない」4章25~32節 

                            仁井田義政牧師

 今日の御言の中心は「聖霊を悲しませてはならない」です。聖霊様が、どのような時に悲しまれるのかを知りましょう。
★第一は「嘘をつかない」ことです。嘘をつくのは、カルトの常套手段です。嘘も神の為には善となると教えられるのです。イエス様は、悪魔に支配された人を「彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)と教えておられます。モーセの十戒にも「嘘をついてはならない」(出20:16)と記されています。

★第二は「怒っても罪を犯してはならない」ことです。不正に対して怒ることは、クリスチャンにとって必要です。しかし怒りは、自分の損得でのことが多いのです。ですから怒りは、早く鎮めることが大切です。「それは悪魔に機会を与えないように」と記されています。家族間においてはなおさらのことです。悪魔という言葉には「中傷するもの」という意味があります。家族が中傷し合う間柄になってしまうなら、悪魔は喜び、聖霊は悲しまれます。ですから「日が暮れるまで憤ったままでいてはなりません」と教えられています。そうしないと、ダムの水漏れのように、最初は小さくても一気に崩れて修復不可能になってしまうのです。

★第三は「盗んではならない」ことです。これは、金品だけのことではありません。仕事をサボる人は、労働時間を盗んでいるのです。経営者がサービス残業を強いるのも、同じです。自分がしたのではないことを、自分がした結果のように言うのも、名誉を盗んでいるのです。

★聖霊を悲しませてはなりません。洗礼を受けたその日から、聖霊は私達の内に住んで下さっています。そのことを意識しない人がいるのです。ですからパウロが、「あなたがたは知らないのか、あなたがたは聖霊の宮であって」(Ⅰコリント6:19)と言っています。聖霊は悲しまれるのです。先週の御言にあった「新しい人を着る」ということを徹底しないと聖霊は悲しまれるのです。

★私達は、聖霊が悲しまれないように注意しなければなりません。悪魔は、小さな隙間を狙っています。そして家族崩壊にまでつながるのです。ですから無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどの一切を捨て去るのです。お互いに親切にし、心の優しい人となるのです。聖霊が悲しまれることを脱ぎ捨て、新しい人となって、聖霊に喜ばれる人生を生きましょう。