8月19日礼拝メッセージ「神のことばを無視している」

(マルコNO35)「神のことばを無視している」7章1節~13節

                        仁井田義政 牧師

  イエス様の所に遠いエルサレムから、「律法学者が来た」ことが記されています。この律法学者達は聖書の研究者としての第一人者であり、パリサイ人達は聖書の実践者としての第一人者です。その人達がエルサレムから来て、イエス様に「どうして、昔の人達の言い伝えに従って歩まないのか」と質問したのです。イエス様はその質問者の偽善を見抜かれました。

★律法学者は、自他共に認める御言を専門に学んだ人達でした。それに対してイエス様は学問もなく、また学問のない弟子達と一緒に、ガリラヤ地方で一万人以上の人々を集めて「神の言葉だ」と話しておられたのです。それをエルサレムで知った学者達は、大変な異端が起ったかも知れないと心配し、エルサレムから調査に来たのです。直ぐにイエス様の弟子達の中に、規律違反を見つけました。弟子の一人が手を洗わないで食事をしたのです。すると学者達は「なぜあなたの弟子達は汚れた手でパンを食べるのか」と質問しました。

★するとイエス様は、750年前の預言者イザヤの言葉を引用して「この民は口先だけ。心は遠く離れている。」(イザヤ29:13)と学者達の偽善的信仰を責められたのです。イエス様は1200年前の「父と母を敬え」(出20:12)の御言を引用し、これを破る者は死罪にされると記されているが守っているのか、と学者達に迫りました。それは「神様に献金したからもう養育費はありません」と両親に言って、年老いた両親の養育を放棄している、それが偽善だと言われたのです。

★うわべでは学者達は「神様の言葉に忠実であるかのように見せているけれども、実は神様の言葉を無視している」と言われたのです。一事が万事で「これと同じことを沢山している」とイエス様は言われました。イエス様は神の言葉を形ではなく実践するように教えられたのです。 

★私達はこの言葉を平気で聞いていてはいけません。自分はどうだろうかと問わなければならないのです。本当に神様の為に奉仕しているのだろうか、自分の名誉や称賛の為に行なっているのではないだろうか。もしそうであるなら、たとえ忙しく奉仕していたとしても神様からは遠く離れてしまっていることになります。自らを省み悔い改めて、信仰の軌道修正をしましょう。御言に自分を従わせましょう。御言に忠実に生きるクリスチャンになりましょう。

8月12日礼拝メッセージ「くまなく走り回って」

(マルコNO34) くまなく走り回って6章53~56節

                        仁井田義政 牧師

 今日の聖書の箇所は、あまりメッセージには取り上げられない所かもしれません。前の湖で起こった有名な話の付け足しくらいにしか話されないことが多い所です。実は私も前のメッセージの時に、この部分まで聖書朗読に含めてしまおうかどうか迷ったのです。しかしどうしても、そうしてはならないという思いの方が優ったのです。それはイエス様と弟子達がベツサイダという港に向かっていたのに、なぜゲネサレという港に着いたのかということが気になったからです。その観点から今日の聖書をじっくり読んでみると、今まで気が付かなかった御言に目が留まりました。それは名もなき人々が、他の人々を愛して走り回る姿でした。

★聖書の前の所では、向かっていた港が「ベツサイダ」であったことが記されています。しかし着いた港はゲネサレの地でした。私達の人生には、時として嵐のようなことが起こり、目指した所に行けないこともあるのです。その結果、予定にもなかったゲネサレに着くこともあるのです。着いた所は予想外でも、イエス様が一緒でした。時計で言うと12時の方向に行こうとしたのに、9時の方向に行ってしまったのです。しかし、そこにはイエス様の救いを必要としている人達が、イエス様と弟子達を待っていました。

★そこに着くと、人々は「イエス様だと知って」とあります。つまり人々は前にイエス様を見たか、聞いたかであったことがわかります。その中にはイエス様の癒しを体験した人か、家族の病を癒して頂いた人がいたのではないかと思われます。その人々が、イエス様の持っておられる癒しの力を他の人たちに体験させてあげようと考え「走り回った」のです。「病人を床に乗せて運んできた」とも記されています。大変なことだったと思います。

★その土地の人々は、村や町や部落も「くまなく走り回って」、イエス様の前に人々を運んできたと記されています。「せめてイエス様の衣にでも触らせていただけるようにと願った」のです。そうしてイエス様の力に期待する人々が集まった所では、すべての人が癒されたのです。

★「くまなく走り回って」イエス様の所に人々を連れて来る働きをする信仰に燃える人を必要としています。そのような人たちの奉仕によって、イエス様の力が教会に満ち溢れるのです。私たちもそのようになって、主の救いの御業を見させて頂きましょう。

8月5日礼拝メッセージ「向かい風」

(マルコNO33) 「向かい風」6章45~52節

                        仁井田義政 牧師

 イエス様は、弟子達を「強いて舟に乗り込ませ」ました。そしてご自分はその地に残り、群衆を解散させていました。「強いて」という言葉から、弟子達はイエス様と一緒にいたかったのだと思います。弟子たちは「強いて」乗り込まされた舟で嵐に遭い、命の危険にあうことになってしまったのです。イエス様は、なぜ「強いて」弟子達だけで舟を出させたのでしょう。

★弟子達は、夕方から午前3時まで向かい風で悩んでいました。約10時間も舟の上で、もまれ続けていたのです。イエス様は、弟子達の舟が波でもまれているのを山の上で祈りながら見ておられました。しかし弟子達からは、そのイエス様が見えませんでした。前の嵐の時(4:35)は、イエス様が眠っておられたとは言え、舟におられました。そのために弟子達は、眠っておられたイエス様を起こして頼れたのです。しかし今度は、イエス様が舟におられないのです。弟子達の困難な時に、イエス様がおられない状況でした。

★これは、弟子達へのイエス様による信仰のテストであったと見ても良いと思います。パンの奇跡も、ピリポへの信仰の抜き打ちテストであったとヨハネは6章6節に記しています。あと1~2年でイエス様は弟子達の目には見えなくなるのです。その中で弟子達は人生の嵐に遭うことがあるのです。主が見えない不安に陥る可能性があるのです。これは、私達の誰もが陥る不信仰という危険です。しかしイエス様は、私達から決して目を離してはおられません。闇の深い「夜中の3時頃」私たちの所に来て下さるのです。

★イエス様が弟子達の舟に近づいて来られた時、それを見た弟子達は「幽霊だ」と怯えました。イエス様が来られるはずがないと思い込んでいたからです。怯える者には、イエス様が救いに来られてもわからないのです。イエス様をさえ、自分に危害を加える者と思ってしまうのです。イエス様は、そこを「通り過ぎよう」とのおつもりであったと記されています。まさにテストです。そのテストの結果、弟子達は0点でした。 

★私達も、人生の向かい風を体験することがあります。そのような時に「イエス様は、私がこんなに苦しんでいるのに何もしてくれない、イエス様は私の苦しみの世界にはおられない」と思ってしまうのです。しかしクリスチャンは、苦難の時にこそ、信仰のテストであると知りましょう。その嵐の海で、湖の上を歩いて来られる異次元のイエス様を知るのです。

7月29日礼拝メッセージ「パンの奇跡とその意味」

(マルコNO32)「パンの奇跡とその意味」6章30~44節

                        仁井田義政 牧師

 弟子達は伝道に成功して帰ってきました。弟子達の心身の疲れは極限に達していました。イエス様はそれを見て、弟子達に「あなたがただけで、寂しい所に行って休みなさい」と言われました。「あなたがただけで」とは、群衆を置いてという意味です。弟子達はそこでパンの奇跡という大切な体験をするのです。どうして大切なのかをお話しいたしましょう。

★今日のパンの奇跡の記事は、四福音書すべてに記されています。また同じようなパンの奇跡を、マルコは8章でも記しています。しかし弟子達は二度のパンの奇跡体験によっても、その意味を知らなかったのです。(8:16-21)この真理を知るのは、イエス様の復活後のことになるのです。

★弟子達は伝道から帰ってきましたが、イエス様の所には多くの群衆がいて、ゆっくり「食事をする暇もなかった」のです。イエス様は弟子達に「寂しい所に行って休みなさい」と提案しました。弟子達は群衆を置いて舟で向かいました。ところが群衆は陸路を走ったのです。そして舟が着く前に港に到着して、イエス様と弟子達を迎える有様でした。イエス様の目には、その群衆は「羊飼いのいない羊のように」見えました。イエス様は彼らを「深く憐れんだ」と記されています。その原語の意味は「内臓が痛む」です。

★聖書に記されている奇跡は、多くが願われて行なった奇蹟です。長血の女性の癒し、ヤイロの娘の蘇り等々もみなそうです。しかし、今日のこの奇跡は、誰も望んでいませんでした。弟子達は「解散し、自分で食べ物を買うように言いましょう。」とさえ言っていました。五千人の群衆の誰一人「イエス様、私達にパンをください」とも言っていません。それなのに、イエス様は「五つのパンと二匹の魚」を弟子達に配るように言われたのです。

★パンはイエス様ご自身であり、イエス様の言葉とも見ることが出来ます。それを配るのは弟子達です。主は最後の晩餐の時にも「これはあなたがたの為に裂かれる私の体です」と言われました。復活した日の夕方、エマオの村に帰った弟子の家でパンを裂いたこと(ルカ24:30)もありました。 

★イエス様は、弟子達にあなたが手にしているパンは五千人に配っても、十二の籠に残る程の豊かなものなのだと言われているのです。聖餐式はその具現化なのです。来週は聖餐式です。今日のパンの奇跡の意味をしっかりと信じて、大切な聖餐の式に与かりましょう。

7月22日礼拝メッセージ「真理は殺せず」

(マルコNO31)真理は殺せず6章14~29節

                        仁井田義政 牧師

 今日の御言は、弟子達の伝道派遣という聖書の記事に挟まれて出て来ています。それではなぜこの所にヘロデ王が洗者ヨハネを殺害したことが記されているのでしょうか。ヨハネの首を跳ねたヘロデは、「殺したはずのあのヨハネが生き返ったのだ」とイエス様を恐れたのです。ここに今日の「人を殺しても真理は殺せない」というメッセージがあるのです。

★ヘロデ・アンテパスはヘロデ大王の息子です。ヘロデ大王は、ベツレヘムの男の子を大量殺戮した残酷な王でした。ヘロデ大王の亡き後、ローマはヘロデ大王の子供たちにイスラエルを分断統治させました。ヘロデ・アンテパスには、ガリラヤ地方を支配させました。ヘロデ・アンテパスは、兄弟ピリポの妻ヘロデアを横取りしました。「洗者ヨハネの首を」と願ったのは、そのヘロデアの連れ子サロメなのです。

★ヘロデアは、罪を指摘された洗者ヨハネを憎んでいました。ヘロデ・アンテパスは罪を責められヨハネを捕えましたが、その教えに共鳴し「神の人を殺すことは出来ない」と保護していたのです。ヨハネは、捕われても躊躇なく罪を示しました。ヘロデアは、夫のアンテパスがヨハネを保護しているのを苦々しく思っていたのです。すぐにでも殺してしまいたかったのです。

★そのような時に、ヘロデ王の誕生日になりました。父親違いの娘サロメがお祝いの踊りをしました。するとヘロデ・アンテパスは気を良くし「何でも望むものを与えよう」と言ったのです。娘はその母と相談し、「洗者ヨハネの首を頂きなさい」と言いました。ヨハネを殺してしまえば罪を責められないと思ったのです。自分のかつての夫ヘロデ・ピリポを裏切った罪を隠蔽できると思いました。ヨハネを殺して安心できると思った途端、イエス様が出てきました。そして「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と、洗者ヨハネと同じメッセージを開始したのです。 

★人々は、イエス様を「洗者ヨハネの生き返りだ」と噂しました。やがてヘロデ・アンテパスは、イエス様をも殺しました。しかしヨハネを殺しても、イエス様を殺しても、真理を殺すことなど出来ないのです。真理に従わなければ、真理があなたを殺すのです。イエス様は「私は真理です」と言われました。真理の前に罪を悔い改めるか、真理を踏みにじって裁きを受けるか、二者択一しかないのです。謙遜になって真理の言葉を受け入れましょう。

7月15日礼拝メッセージ「遣わされた弟子達」

(マルコNO30)「遣わされた弟子達」6章6~13節

                        仁井田義政 牧師

 先週は、六田弁護士がご奉仕して下さいました。素晴らしい礼拝と信徒訓練会になりましたことを感謝致します。今日からまたマルコの福音書の講解メッセージに戻ります。今回は、あえて6節を再度入れさせていただきました。今日の御言の伝えようとしているところは弟子達の信仰についてです。

★イエス様の伝道は、ナザレの人々の不信仰によって失敗(こういう言い方が良いのかわかりませんが)してしまいました。しかし、それだからと言って失望し伝道を止めてしまわれたわけではありません。聖書には「それからイエスは近くの村々を教えて回られた」(6:6)と記されています。つまり直接本丸が駄目なら、外堀を埋めることからと言うわけです。故郷のナザレ伝道の失敗の原因は、イエス様にではなくナザレの人々の不信仰にあったからです。

★イエス様は、十二人の弟子達を六組に分けて近くの村々に遣わされました。まだみな弟子になったばかりで完成はしていないのです。そのような者に「権威」を与えて遣わされました。しかし伝道に「パンも袋もお金も二枚の下着も持って行ってはいけません」と言われました。

★イエス様は、どうしてパンもお金も持って行くことを禁じられたのでしょうか。それは権威を与えられた弟子達が、謙遜にその権威を用いた伝道をしなければならないことを知らせるため、また伝道は伝道者や牧師が一人でするものではないことを学ばせるためでした。他の人の助けが必要なのです。だからと言って人々の助けを得るために、イエス様の真理をソフトなものにしてはいけません。人々の救いは「悔い改め」させることから始まります。そして悪霊追放、病の癒しが行なわれるのです。弟子達による「近くの村々の伝道」は、ナザレの村の結果とは反対に大勢の病人が癒されたのです。

★44年前の3月の春の時でした。私は卒業したら教団や教区に金銭的援助も人的な援助も受けないで、信徒ゼロからの開拓伝道をするという考えでいました。理事達は心配して「そのような無謀な伝道は失敗するからやめなさい」と忠告して下さいました。その時に私は「イエス様の弟子達は何も持たないで行くことを命ぜられ、それに従いました。すると全員伝道に成功して帰ってきました。」と主張したのです。私達も、今まで以上に助け合い協力し合って伝道の働きをすれば、必ず不信仰な所まで伝道は到達し成功するのだと確信を持ちましょう。そしてますます伝道を前進させましょう。

 

7月1日礼拝メッセージ「イエス様の驚き」

(礼拝メッセージ) 「イエス様の驚き」マルコ6章1~6節

                        仁井田義政 牧師    

 イエス様はガリラヤ湖周辺の伝道を一時終えて、ご自分の故郷ナザレの村へと帰られました。しかしイエス様は、人々の不信仰のゆえにナザレでは「力ある御業を何一つできなかった」と聖書は記しています。今日は、信仰と神様の御業には密接な関係あることを学びましょう。

★イエス様の母マリヤは、ガリラヤ地方で「イエスは悪霊に憑かれている」と噂されていることを知って、イエス様を連れ戻しに来たことがありました。そのナザレに帰られるのです。安息日になり、イエス様はナザレの会堂に立って話すことになりました。誤解の渦巻くナザレの村で、よく会堂管理者の許可をとれたものだと思います。それはガリラヤの会堂管理者、つまり娘を助けて頂いたあの会堂管理者が、イエス様を迎えるように書状を送ったのではないかと思われます。

★会堂に集まった人々は、イエス様の話を聞き、その知恵と力に驚きました。かつてのイエス様とは全く違っていたからです。三十歳までのイエス様は、ナザレの大工でした。小さな村では、多くの人が幼少期から三十歳までのイエス様を知っており、それゆえにあまりの変化に驚き躓いたのです。「躓く」とは、信仰が倒れることです。イエス様に会って、イエス様の御言を聞いて、信仰が躓いたのです。つまり不信仰になったのです。

★ナザレの村の人々は、御言を聞き、イエス様の知恵と力を知りながら    不信仰になったのです。彼らの不信仰ゆえに、イエス様は力ある御業を何一つ行なうことが出来なかったと聖書は記しています。そして、イエス様は「彼らの不信仰に驚かれた」(6:6)とも記されています。イエス様は寂しく故郷を去ることになるのです。

★イエス様はナザレに来られる前に、長血の女性に「あなたの信仰があなたを癒したのです」(5:34)と、また会堂管理者ヤイロの娘が死んだと知らせがあった時、「恐れないで、ただ信じていなさい」(5:35-36)と言われています。イエス様から力を頂くためには、信仰が絶対的に必要なのです。しかしナザレの人々は不信仰であったので、イエス様は驚かれたのです。信仰に強く生きていますか。不信仰に注意し、生涯を信仰で貫きましょう。

6月24日礼拝メッセージ) 「二人の願い」

(礼拝メッセージ) 「二人の願い」マルコ5章21~43節

                        仁井田義政 牧師    

 今日は、長血の女性と会堂司ヤイロの娘の癒しという力あるイエス様のお働きをお話ししたいと思います。二人の祈りの違いと、二人の信仰の共通点とを聖書から見ていきましょう。

★イエス様は、カペナウムの会堂管理者ヤイロと既に何度か会っています。イエス様は、カペナウムの会堂で何度も教えられていますが、会堂管理者の許可がなければそのようなことは出来ません。ヤイロは既にイエス様に好意を持っていました。彼は何度かイエス様の奇跡も見ています。それでもまだヤイロの信仰は完全なものにはなっていませんでした。しかし死にかけている娘の病気が、ヤイロをイエス様へと導いたのでした。イエス様はヤイロの求めに応じて、死にかけているヤイロの娘のいる家に向かいました。

★ところが途中の道で、長血を患っている女性が、イエス様に後ろから触ったのです。イエス様は足を止め、女性を癒されました。この時、ヤイロはどんなに気をもんだことでしょう。私なら「イエス様、いま娘が死にそうなのです。この女性は後にしてください」と言うでしょう。

★イエス様が時間を取られている内に、娘死亡の知らせが届きました。長血の女性に時間を取られている間に死んでしまったのです。イエス様は、ヤイロに「恐れないでただ信じていなさい」と言われました。ヤイロの娘は十二歳で、将来のある子が死んだのです。ヤイロの家は、悲しみで混乱していました。しかしヤイロはイエス様の言葉を信じて、娘の死んだ部屋にイエス様を案内しました。そしてイエス様の「タリタクミ」という声を聞きました。それは「起きて歩け」という意味です。「タリタクミ」は、イエス様が話されたアラム語です。それを初代教会は大切に保存したのです。歴史的事実だからです。娘はその言葉によって起き上がりました。

★会堂管理者は、ユダヤ人の中でも人々から信頼されている人です。長血の女性は、人の前に出られない汚れた女性と見られていました。ヤイロは娘の為に祈り、長血の女性は自分の為に祈り求めました。イエス様への祈りは、その人がどのような立場であるとか、どのような状況にあるとかは関係ないのです。大切なのは、イエス様への信頼と信仰です。私達も、イエス様に強い信頼と信仰をもって、祈り求める人となりましょう。

6月17日礼拝メッセージ「小さなことにも忠実に」

(礼拝メッセージ)「小さなことにも忠実に」マタイ25章14~30節

                         楠 亜紀子師    

 今日は「小さなことにも忠実」というタイトルで御言をお分かちしたいと思います。

★今日の御言は、私たち信仰者がこの終末の世にあって、どのように備えなければいけないかということが書かれています。25章14節からは「忠実」であることの大切さが書かれています。ある主人が三人の僕それぞれにタラントを預けて旅に出かけました。タラントとは「才能」と言う意味ですが、五タラントを預かった僕は、すぐに行って商売をしてさらに五タラントをもうけました。この僕は、主人から何も指示されていないのにすぐに行って商売をしたのです。それではなぜ「すぐに行った」のでしょうか。それは、主人を喜ばせたいという思いからではないでしょうか。どうしたらご主人に喜んでもらえるだろうと考えて、預かったタラントを活用したのではないでしょうか。二タラントを預かった僕も、同じようにしました。それでは一タラント預かった僕は、どのようにしたでしょうか。この僕は主人を怖い人だと思い、預かったタラントを減らしては怒られるのではないかとの臆病な心から地中に隠しておきました。

★よほどたってから主人が旅から帰って来て、彼らと清算をしました。五タラントを預かった僕は、さらに五タラントもうけたことを報告すると、主人は良い忠実な僕だと喜んでくれました。二タラントを預かった僕も、同じようにほめられました。しかし、一タラント預かった僕は悪い怠け者の僕だと怒られ、持っていたタラントを取り上げられてしまいました。

★ここに出てくる主人とは神様のこと、僕とは私たちのことです。神様は私たち一人ひとりにタラントを預けて下さっています。そして私たちがそのタラントを活かすことを喜ばれます。私たちは神様から預かっているタラントを忠実に管理し、喜んで用いているでしょうか。また、神様に喜んでいただきたいと願っているでしょうか。私たちにもいつの日か神様に報告をする日が来ます。その時には、「よくやった、忠実な僕だ」と神様から喜んでいただけるように、小さなことにも忠実に歩みましょう。

6月10日礼拝メッセージ「二千頭の豚と一人の人間」

(礼拝メッセージ)「二千頭の豚と一人の人間」マルコ5章14~20節

                        仁井田義政 牧師  

 ゲラサの地で一人の人がイエス様によって救われました。しかし、めでたしめでたしとはいかなかったのです。イエス様はそのゲラサから追い出されるのです。二千頭の豚と一人の人間とどちらに価値があるかという問題が起こったのです。

★レギオンという汚れた霊がその人から出て行って、その人は正気に戻りました。レギオンとは、ローマの五千人からなる軍団のことです。彼は、ローマから彼の住んでいる町に進軍してくる五千人の軍隊を見たのかもしれません。そうならば、その軍隊によって残酷な殺りくが行われたのも見たかも知れません。異教の世界では、悪霊的なものが自分に乗り移ってしまったと言う間違った恐怖を信じやすいのです。日本における民間信仰の「狐憑き」等がその例です。また「厄年の厄払い」などもそうでしょう。

★今日の聖書には、一人の人が汚れた霊から解放されるために、二千頭の豚が犠牲になったと記されています。ここに、一人の人間と二千頭の豚の価値の問題が起こったと思われます。16-17節に、この人に起こったことや、豚のことなどを詳しく話すと、「この地方から離れてください」とイエス様に言ったことが記されています。乗り越えられない文化を乗り越え、嵐に遭いながら来て下さった救い主イエス様を、私欲の為に追い返したのです。

★汚れた霊から救われた人は、イエス様に「お供をしたい」と願いました。しかしイエス様は「家に帰り、自分の体験したことを家族に知らせなさい」と言われました。それで彼はゲラサの地にとどまり、自分の家族に伝道しました。その地方全体に、イエス様の救いを伝道したのです。私達も、救いを家族に伝えるのは、自分しかいないと考えるべきです。

★それにしても聖書は、見事に人間の陥りやすい罪について記しています。自分と関係がない一人の人間よりも、二千頭の豚の方が大切なのです。ちょうど一人の人間の命よりも、何十億もの利益をもたらすはずの原発の方に価値があるという論理です。そこに人間疎外が起こるのです。イエス様は二千頭の豚の価格よりも、一人の人を尊ばれる御方です。その御方が、私達を救って下さり、守って下さっているのです。そのイエス様の愛を心から感謝して毎日を生きましょう。私達もイエス様を愛しましょう。心からイエス様に感謝の祈りを捧げましょう。