5月26日礼拝メッセージ「大変な思い違い」

(礼拝メッセージ)「大変な思い違い」マルコ12章18~27節

                       仁井田義政 牧師  

 今日のイエス様との会話に出て来る人は、サドカイ派の人々です。彼らの歴史は、約千年前のサドクという祭司に遡ると言われています。サドカイ派は、永遠の命を信じないグループでした。彼らは、イエス様に「死後に命は存在すのかどうか」という議論を仕掛けてきたのです。

★サドカイ派の人々は、パリサイ派の人々といつも永遠の命はあるか無いかを論争をしていました。反対派をやり込める議論の模範が既に存在していたようです。イエス様の時代も、この両者は「永遠の命は存在するかどうか」で対立していました。(使徒23:7~8参照)

★今日の議論は、申命記の25章5節の氏族保存の御言を根拠にしているのは明らかです。イエス様は、彼らの間違いの原因に究明されました。原因は彼らがモーセ五書しか信じないところにありました。彼らは聖書全体を知らなかったのです。イエス様はモーセ五書にも永遠の命について記されている事を話しました。彼らは永遠の命は存在しないと思い込んでしまっていたのです。

★イエス様は「死人が甦ることはモーセの柴の個所にかかれている」(出3:6)と教えられました。イエス様の仰天な聖書の言葉の掘り起こしでした。彼らの信じているモーセ五書の中で、神様はモーセに「あなたの父の神、アブラハム・・・」と語り掛けられたというのです。それは先祖の神であることを示しています。先祖たちが死んだ後も天国にいるので、神様はそのように言われたのだと論証しました。そうしてあなたがたが信じないのは「聖書も神も力も知らないからだ」と言われました。

★イエス様は、あと数十時間で自らも死ぬ者としてこの言葉を話しています。それは十字架の死です。イエス様は十字架で「我が霊を御手にゆだねます」と祈り、死なれました。死後にも続く命を、父なる神にお委ねになられたのです。神様は、私達をも天国へと連れて行って下さるのです。 

★私達もサドカイ派のような「目に見えないものは存在しない」などと言う、偏狭極まりない考えに固まっていてはなりません。そういう考えで聖書を読んでも、イエス様が言われたように「聖書も神の力もしらない」クリスチャンになってしまうのです。黙示録を見ると、天国は神様の愛だけが満ち溢れている素晴らしい所であることが分かります。「7人と結婚した女性は天国で誰の妻になるのか」などと悩む必要がないのです。天国はこの世とは全く違う世界だからです。私達は、イエス様のように神様の力に全てをゆだねて天国に向かう人生を歩もうではありませんか。

 

5月19日礼拝メッセージ「真っ正直に生きる」

(礼拝メッセージ) 「真っ正直に生きる」マルコ12章13節~17節

                       仁井田義政 牧師  

 今日の御言は、イエス様を罠にかけてローマの法律に違反させるか、イスラエル民族の反感を買うようにしようという、イスラエルの指導者たちの悪企みのところです。イエス様はその罠を利用して、私達人間の全生活に及ぶ素晴らしい真理を教えられました。

★聖書には「わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の人数人をイエスのところへ送った。」と記されています。「彼らは」とは先程までイエス様と話していたイスラエルの指導者達のことです。送られたパリサイ人とヘロデ党の人達は、その思想においては両極端でした。パリサイ派は反ローマ的であり、ヘロデ党はローマの支配に妥協的でした。指導者達は彼らを使って「皇帝に税金を納めても良いでしょうか」という質問をさせたのです。

★イエス様は「彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」(12:15)と言われました。デナリ銀貨には、皇帝ティベリウスの肖像が刻まれていました。また「ローマ皇帝は神の子である」。の文字も刻まれていました。その彫像があるために神殿にその銀貨を捧げるのを嫌って、神殿の庭で両替をしていたのです。

★ イエス様はデナリ銀貨を取り「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」と彼らに質問しました。彼らは、「カイザルのです。」と言いました。そこでイエス様は「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(12:17)と言われました。イエス様は「納めるべきですか」という質問に、「返しなさい」と言われています。聖書の原語ギリシャ語で「納める」は、「与える」という意味なのです。与えるとは自分のものを他人に上げることです。しかしイエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。

★イエス様はなぜ「返しなさい」と言われたのでしょうか。実は私達はこの世に生きている限り、神様と国に全てを借りて生きているのです。税金も献金も「納める」というと惜しくなります。これは借りている分を返すという思いになることが大切なのです。「カイザルのものはカイザルに。神のものは神に返しなさい」なのです。クリスチャンは、この世にも神様にもごまかしのない真っ直ぐに生きて行くように心がけましょう。

5月12日礼拝メッセージ「神の愛と悲しみ」

(礼拝メッセージ) 「神の愛と悲しみ」マルコ12章1~12節

                        仁井田義政 牧師  

 先週のイエス様の言葉で、祭司長・律法学者・長老達が、神を恐れていると言いながら、人間を恐れていることが明らかになりました。イエス様は今日の譬えで、神の深い愛と悲しみについて話されました。

★イエス様は、ある人がぶどう園をしもべに託して旅に出たという譬話をなさいました。これは、私達の人生を現わしていると見ることも出来ます。神様が私達の人生で豊かな実を結ぶように用意をしてくださり、全てを任せて私達には見えない所に旅に出たようなものなのです。しもべ達は主人が近くに見えないのを良いことに、わがままに振る舞い、ぶどう園の全ての収穫物を自分達の物にしようと思ったのです。しかしぶどう園は、主人の持ち物です。主人は、収穫の季節が来たので、旅先から使者を遣わしました。

★しかしぶどう園のしもべ達は、主人からの使者を袋叩きにし、何も持たせず帰してしまいました。二番目の使者が来ると、今度は頭を殴り辱めて返してしまいました。その後も多くの使者が来ましたが、殺してしまいました。最後に主人が一人息子を遣わしましたが、今度は「あれは跡取りだ」と言って殺してしまいました。遣わされた使者とは旧約聖書の預言者たちのことで、最後に遣わされた一人息子とは、イエス様ご自身のことです。

★イエス様が譬えを話された時にその心にあったのは、イザヤ書5章1~17節のぶどう園の譬えと思われます。イエス様の誕生以前の750年前頃、イスラエルの人々は、神様から遣わされた預言者達を迫害しました。その結果、神様の裁きとしてバビロン捕囚となってしまうのです。今また同じことを繰り返し、ついに今度は最後に送られた神のひとり子イエス様を殺すのです。

★イエス様は、いらない石として人間に捨てられ、十字架で殺されようとしています。イエス様を殺そうとする者達は「群衆を恐れた」と記されています。イエス様を捨てる者は、人を恐れ人の奴隷となるのです。 

★私達も、イエス様を邪魔者扱いはしていないまでも、必要な時だけ利用していないでしょうか。イエス様はあなたを愛し、あなたの人生の基礎石となりたいのです。人の言葉などにびくともしない人生を築き上げて欲しいのです。あなたがそれを無視すれば、イエス様は悲しまれるでしょう。イエス様をしっかりとした土台として、クリスチャン人生を築き上げましょう。

5月5日 礼拝メッセージ「イエスが来られて困った人々」

 

(礼拝メッセージ) 「イエスが来られて困った人々」マルコ11章27~33節

                        仁井田義政 牧師  

 今日の聖書の箇所は、エルサレムの聖職者達がイエス様を殺そうという強い共通の怒りを持っているところです。なぜそれほどに怒りを持ってイエス様を殺そうとしたのでしょう。それが今日のメッセージの大切なポイントです。

★彼らの怒りは、前日にイエス様が神殿の庭で両替人や商売人達を追い出したことにありました。祭司達は、こうなるのを前から危惧していたのです。神殿の中では、何事も大祭司達の許可を取らなくてはなりませんでした。それなのに田舎者のナザレのイエスとガリラヤの漁師あがりの弟子達が、許可も得ずに自由に行動していることに我慢が出来なかったのです。ですから祭司長は、「何の権威によって、これらのことをしているのか」とイエス様に言ったのです。

★イエス様は「私の質問に答えてくれるならば、その後に私も答えます」と言われ、「バプテスマのヨハネは神様から遣わされたのか。それとも勝手にきたのか」と質問し、答えるように求めました。彼らはもしバプテスマのヨハネは「神からです」と言えば、それではどうして信じなかったのかと言われてしまうし、「勝手に来た」と言えば、群衆の多くはバプテスマのヨハネが神様から遣わされた人と信じていたから、暴動が起きる可能性があるし、何と答えて良いかわからなかったのです。

★祭司たちが自分の心を偽ってでも、自分達の欲を守ろうとしました。彼らはイエス様を殺して、自分たちの今までの生活を守ろうとしたのです。ついにイエス様を殺し、彼らの全ての心配事が消えたかに感じたのです。そうしてイエス様が来られる以前のように、何百年も何千年も彼らの権威と繁栄が続くと考えて安心したのです。しかしそれもつかの間にエルサレムは崩壊し、神殿はあった場所さえ分からなくなってしまったのです。

★このことは現代の私達にも起こりえます。自分の思いを通そうとすると、イエス様が邪魔になり、イエス様に自分の人生という枠の中で、勝手なことをしてもらっては困るという思いになります。そして、イエス様を自分の生活から抹殺するのです。つまり不信仰になるのです。その結果は破滅です。真理に貫かれているイエス様の考えよりも、欲にまみれた自分の都合を優先させたからです。私達はイエス様を心にお迎えし、自己第一主義を清めて頂きましょう。

 

4月28日礼拝メッセージ「山を動かす信仰」

(礼拝メッセージ)「山を動かす信仰」マルコ11章20~25節

    仁井田義政 牧師  

先週はイースターでした。イエス様が三日目に甦られたという事実に、世界の教会は喜びに沸いたのです。私達の教会も、その世界の教会と共に喜びの礼拝を持ちました。死んだ人を彫像にして祈っているのではありません。甦られて今も、現に私達と共におられる御方を礼拝しているのです。

★前日にイエス様が呪われたいちじくの木が枯れていました。弟子達はその力に驚きました。いちじくの木が枯れたのは、信仰の実を結ばないエルサレムの神殿や、イスラエルの国のことでした。イエス様を十字架につけてから、AD70年にローマによって神殿は破壊され、イスラエルの国は消滅してしまいました。それから約二千年間、エルサレムの神殿は崩壊したままなのです。今はモスクがその所に建っています。イスラエル人は西の壁でオープンシナゴークとして礼拝を捧げています。その様子を見て外国人が、泣いて祈っているようだと言い、「嘆きの壁」と呼ばれるようになりました。

★いちじくの木が枯れたことに驚いていた弟子達に、イエス様は「神を信じなさい。まことにあなたがたに告げます。だれでもこの山に向かって、『動いて海にはいれ。』と言って心の中で疑わず、ただ自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」と言われました。信仰の力は、特別な人にだけに現れるのではありません。「神を信じる者」に現れるのです。神を信じて疑わないで祈るならば、誰でも山を動かすようなことが出来るのです。

★それに続きイエス様は、祈りをする時には「誰かに対して恨み事があったら許してあげなさい」と言われました。私達が「山」のように感じることの多くが、人間関係にあるようです。その人が自分の人生に立ちはだかる大問題のように思ってしまうのです。その人から受けるマイナスの力が、神の守りよりも強いと感じる時に、大きな山のように感じてしまうのです。 

★イエス様はこのことを教えながら、父なる神を信じて高い山に挑戦していました。それは十字架です。全く罪のない自分を殺そうとする人々を恨まず「父よ、彼らを許したまえ」と祈られました。その時に山は動きました。イエス様はよみがえられ、世界中の教会で礼拝される御方となったのです。今あなたが、なにか大きな山のような問題を抱えていても、あなたに対する神様の大きく強い愛を信じるならば、山は動くのです。神様の祝福の力を信じましょう。

(4月21日復活祭礼拝)「死に勝利さえ出来たなら」

(復活祭礼拝)「死に勝利さえ出来たなら」第一コリント15章54~58節

                         仁井田義政 牧師                    

今日はイースターの朝です。皆さんイースターおめでとうございます。

私達人間は死を恐れます。しかしイエス様のご復活によって「死は敗北した」と聖書は記しています。

★イエス様は「死んだ後、三日目に甦る」と預言されました。そしてその通りに甦られました。その後四十日間にわたって弟子達に現れたことが記されています。(使徒1:3)その四十日の間に、弟子達をはじめ五百人以上の人々にご自分の生きておられることを、復活されたお体をもって証明されました。第一コリントが書かれたのは、55年~56年頃です。その時には直接見た500人以上の「大多数の人々が生きていた」(第一コリント6:6)と記しています。

★また「コリント人への手紙」を書いたパウロは、キリストの直弟子ではなく、最初はクリスチャンを捕えて殺す迫害者でした。ですからキリストが甦って五百人の人々に現れた時には、この著者パウロはクリスチャンではありませんでした。それどころか、クリスチャン達を殺すことに使命を感じる正義感に燃える心の熱い青年だったのです。事実、教会は最初の殉教者のステパノを彼のもとで出しています。パウロはステパノを殺した張本人なのです。その後に、パウロは熱烈に復活のイエス様を信じるクリスチャンになりました。

★パウロにとっても私達にとっても、イエス様が甦られたことは「私達人間に伝えられた福音」(嬉しい知らせ)です。それまでは、死が私達人間に圧倒的な力で存在していたからです。しかしイエス様の「死からの蘇り」によって、死はその力を失いました。「死は勝利に飲まれた」と記されている通りです。

★死に対して勝利を与えられた者の生き方は、その信仰に「固く立って動かされることなく、いつも主の業に励む」(コリント15:58)ことです。私達の人生がこの世だけで終わるのではないことを知った時、初めて自分の人生が無駄ではないことを感じるのです。それは、イエス様のように「私は死んでも生きる」という確信が湧き上がって来るからです。死に勝利さえ出来たならば、私達から殆どの恐れは消え去っていきます。イエス様は、私達に先んじて死んで蘇られました。ですから私達も蘇ることが出来、主と共に永遠に生きることが出来ると確信するのです。イエス様の「私を信じる者はたとえ死んでも生きるのです」という御言に感謝し、心からイースターをお祝いしましょう。

4月7日礼拝メッセージ「いちじくとイエス様」

(礼拝メッセージ)「いちじくとイエス様」マルコ11章12~19節 

                     仁井田義政 牧師                    

 イエス様は、ロバの子に乗ってエルサレムに入られました。その日の夕方、イエス様はエルサレムを出られ、ベタニヤに退かれました。その翌日の朝、つまり月曜日にこの二つの事件が起こったのです。いちじくの呪いと、宮清めという事件です。この二つは、実はひとつのことなのです。

★いちじくの木に実がなかったので、イエス様が怒りその木を呪われたというのです。普通の人間ならばよくあることですが、イエス様にしては短気すぎると思ってしまいます。しかも「いちじくの実を結ぶ季節でなかった」と聖書は記しているのです。さらにその日は、神殿の庭で両替人の机なども倒して、暴力的にさえ見えてしまいます。

★まずいちじくの件ですが、イスラエル在住のリュ・モーセ博士の著書「聖書の世界が見える」(植物篇)で「いちじくは、4月に付く最初の実をパーグという。その後のいちじくはティエナーという」と記されています。最初の実のパーグは、大きくならず商品にならないので、旅人がとって食べても良いことになっている。実はそれもなっていなかったのだ」と言っています。

★ このいちじくのことと、次の神殿で両替人の机をひっくり返す事件とは、結び付いているのです。イエス様は「祈りの家を・・・強盗の巣にしてしまった」と怒り机をひっくり返されたのです。「強盗」とは、時には人を殺してでも他人の物を自分の物にしようとする人の行為です。宗教を金儲けの手段としている所は多いのです。神社等の絵馬も、最初は神の使いとして「馬を」捧げたのでした。それでは神社が馬を飼育しなければならなくなって大変になり、その対策として、馬の絵を描いた木札を売り出したのです。その方が多くの人が買えるようになり、神社やお寺は収入増となったというわけです。

★イエス様の行なわれた宮清めの行為を見て、神殿の庭の利権を持っていた祭司達や律法学者達は、イエス様を殺すことを計画しました。イエス様は、彼らの計画通りにあと数日で殺されるのです。神の子イエス様の為に小さい実さえ実らせていないいちじくの木と、神殿を商売の場にしてしまったイスラエルを重ねて、視覚的な教えとされたのです。つまりいちじくの木を枯らすという奇跡で、強盗の巣のようになってしまったエルサレムが神に捨てられて滅ぼされてしまうということを示したのです。たとえ私達の結ぶ実が、小さないちじくの実であっても、イエス様に喜ばれる実を結ぶクリスチャンになりましょう。

3月31日礼拝「神様の大いなるご計画」

メッセージ「神様の大いなるご計画」創世記45章1~8節

                           楠 亜紀子師

今日は創世記45章より「神様の大いなるご計画」と題して、恵みをお分かちしたいと思います。

★ヨセフは、兄弟の中で誰よりも父親から特別に可愛がられていました。しかし、父や兄たちが自分にひれ伏した夢を見たなどと語ったことから、兄たちの怒りを買い、通りがかった商人によってエジプトに売られてしまいます。ヨセフは、連れて行かれた主人の家で一生懸命働き、主人の信頼を得て財産を任されるまでになります。しかしその後、濡れ衣をきせられ、牢に入れられるなど理不尽な苦しみも受けますが、そこでもヨセフは忠実に働き、信用を得て囚人を管理することを任されます。

★ヨセフは家族から一人離れて異国の地で苦労は多かったはずですが、十数年経った時、エジプト全土を治める大臣になります。しかし神様はヨセフを大臣にすることを目的とされたのではなく、深いご計画を持っておられました。パロ王がある夢を見、ヨセフがその夢を解き明かしました。その夢で、数年後に大きな飢饉が起きることを知ったヨセフは、飢饉に備えて食料を蓄えます。このことによって、エジプト国内だけではなく、カナンに住んでいる父や兄たちもエジプトに行き、大臣となったヨセフから食料を買い、命が守られました。創世記45章4~5節で、「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わして下さったのです…。」神様が先にヨセフを遣わされ、神様の民の命を守られたのです。

★39章2~3節、21~23節には、「主がヨセフとともにおられたので…」とあります。「主がともにいてくださる」と言うのは、いつも自分の思う通り、願う通り、全てが順調に行くということではなく、時には難しい状況に置かれることがあるかもしれません。しかし、どのような時にも主が私たちとともにいて下さり、お守り下さるとは何と幸いなことでしょう。ヨセフのように、私たちの歩みも全て主の御手の中にあります。そして私たち一人ひとりに素晴らしいご計画を持っておられます。

どのような時にも全てを主にゆだね、主に信頼して歩んでいきましょう。

 

3月24日礼拝「主はロバの子に乗って」

メッセージ「主はロバの子に乗って」マルコ11章1~11節

                        仁井田 義政 牧師

イエス様と弟子達は、ついにオリーブ山のふもとのベタニア村まで来られました。イエス様は、そこからエルサレムに入るにあたって、当然のように二人の弟子に、ロバの子を連れてくるようにと命じられました。これは、ただイエス様がロバの子に乗られたというだけの意味ではありません。イエス様が救い主であられるという証明となる深い意味があるのです。

★イエス様は、ロバの子に乗ることが既に決まっているかのように行動されました。それは旧約のゼカリヤ書9章9~10節の中に「シオンの娘よ・・・あなたの王が・・柔和で、ロバに乗られる・・ロバ子の子ロバに」と預言されているからです。ローマの皇帝は馬を多く用いて戦争をしました。それほどローマは権力を維持するためには馬を絶対的に必要でした。しかしイエス様は世界の王となるための戦争をしないのです。しかしその支配は聖書が預言している通りに全地に及ぶのです。それがキリスト教会になっているのです。

★イエス様は、弟子達に「主がお入り用なのです」と言ってロバを連れて来なさいと言われました。イエス様がご自分を「主が」と言われたのは、おそらくここが唯一だろうと思います。ロバに乗った不思議な「王」の入城なのです。一般大衆は不思議に思ったことでしょう。聖書に預言された王の入城であるのに、イスラエルの重要人物達、祭司長や律法学者達の出迎えがないのです。つまり王を迎える準備が何ひとつされていませんでした。現代的に言うならば、赤じゅうたんがないのです。 

★人々は上着を抜いて道に敷きました。もしイエス様が軍馬にまたがり、軍隊を率いて「私を迎えないものは処刑する」とオフレでも出せば、みんな恐れからイエス様を王として最高の礼儀を尽くして迎えたでしょう。しかしロバの子に乗っての入城です。イエス様は何の力も感じられない姿で入城されたのです。それは現代も同じです。イエス様は人々から無視されても、拒否されても、裏切られても仕返しの出来ない無力な方のように見えるかもしれません。

★ですから私達は信仰によってイエス様を真の王であり、救い主であると見なければならないのです。本当の救い主は「柔和でロバに乗られた」お方であるからです。そのお方こそ、全世界の王であり主なのです。私達はロバの子に乗られたイエス様を、私の主としてお迎えしましょう。

3月17日礼拝「何をして欲しいのか」

(礼拝メッセージ)「何をして欲しいのか」マルコ10章46~52節

                                                                    仁井田義政 牧師

 イエス様の一行は、エリコという町に入りました。そのエリコからエルサレムまで直線で約20キロの距離です。その町でひとりの盲人と出会ったのです。イエス様はその盲人に「私に何をして欲しいのか」と話しかけられました。今日はそのイエス様の言葉から聖書の真理を学びましょう。

★エリコの町は、エルサレムまで一日の距離です。過ぎ越しの祭りが近かったので、祭りに集う人々が各地からエルサレムに向かっていました。エルサレムに近づくにしたがって、イエス様の受難預言を無視した弟子達と、エルサレムでイエス様は王になると信じた群衆の期待は高まるばかりでした。イエス様こそローマから解放してくださる救い主だと信じていたのです。

★そこに、バルテマイと言う盲人が街道筋で物乞いをしていました。既にイエス様のうわさは、街道を通る人を通して聞いていたようです。イエス様の一行が来ると「私を憐れんでください」と叫び出しました。群衆は盲人を黙らせようとしました。イエス様には盲人ごときに使う時間などないと、群衆は思ったのでしょう。しかし盲人は、求め叫び続けました。イエス様は「あの人を呼べ」と足を止められたのです。

★盲人は、哀れさを演出するためのボロボロの上着を脱ぎ棄て、イエス様の所にやってきました。イエス様が「私に何をして欲しいのか」と語りかけると、「目が見えるようになる事です」と答えました。「何をして欲しいのか」とは弟子達にも36節で言われた言葉です。すると弟子達は「権力と富をください」と言ったのです。盲人は、そのような弟子達の求めていたものとは全く違い、「見えるようになること」ですと言いました。弟子達は目が見えたのに真理が見えず、盲人は目が見えなかったのに真理が見えたのです。

★ここに聖書の逆説が見えるのです。その後「イエス様の行かれる所について行った」と記されています。エリコから高低1000メートルもあるエルサレムに、イエス様と一緒に歩いて行ったのです。今まで一日中ほこりにまみれて道に座っていた彼にとって、どれほどきつい坂道だったかしれません。しかしイエス様についていくことは、彼にとって喜びとなりました。私達にも「私に何をして欲しいのか」とイエス様は言われます。私達も信仰の目を開けて頂き、バルテマイのように喜んでイエス様について行きましょう。