アドベント第1週

エペソの手紙(NO.4)(アドベント第一週)「聖霊の証印と保証」1 章 12~14 節
                        仁井田義政牧師

今日からアドベントが始まります。クリスマスの意味について、祈りなが
ら深く心に留める期間です。イエス様の御降誕を感謝して、有意義に過ごし
ましょう。
★今日の御言には「約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は御国を
受け継ぐことの保証です。」と記されています。世界のキリス教界の中で、い
ま最も注目されているのが聖霊です。アメリカの 1000 万人の読者をもつ『ク
リスチャニティ・トゥディ』は「アメリカで急激に成長を続けている教団は
二つある。アッセンブリー教団と、もう一つの教団だ。しかも両方とも聖霊
派である」と記しています。これはアメリカだけでなく、世界的な現象とな
っていると記しています。
★私達が「天地が創られる前から選ばれ」(4 節)、「キリストの血によって救
いを受けた」(7 節)のは、何のためだったのでしょうか。「それは神の栄光を
ほめたたえるためです。」と記されています。救いも聖霊のバプテスマも、ユ
ダヤ人クリスチャン達が最初に受けました。ユダヤ人クリスチャンである弟
子達は、はじめ異邦人は救われないと思っていました。しかしパウロは「あ
なたがたも救いの福音を聞き、信じたことにより、聖霊をもって証印を押さ
れました。」と記しました。それは異言の伴う聖霊のバプテスマです。エペソ
の信徒達は、パウロによって「聖霊のバプテスマ」を受けたのです。(使徒 19
章 1 節)
★聖霊のバプテスマとは、聖霊が私達の体の中に入って下さり、私達の内に
溢れるほど住んで下さることの印なのです。私達が神のものとなったことの
印なのです。
★私達は三週間前の礼拝で「神様は、私達を天地が造られる前から選んで下
さった」ことを学びました。先週は「主が十字架で血を流して下さった」こ
とを学びました。そして今日は、「私達の内に聖霊が入って住んでくださる」
ことを学んだのです。それは「神の栄光がほめたたえられるため」ですと記
されています。神様の素晴らしさを誇りましょう。イエス様が来られた目的
のひとつは、聖霊のバプテスマを与える為だったのです。

11月22日礼拝「歴史を貫く祝福」

エペソ人への手紙(NO.3)「歴史を貫く祝福」1章7~11節

                     仁井田義政 牧師

今、私達はコロナ禍の中で自由に行動出来ない状態にあります。パウロもこの手紙を自由に行動できないローマの獄中で書いています。ともに不自由な境遇です。もちろん獄中にあるパウロの不自由と、コロナ禍の私達の不自由とは比べものになりません。パウロはその不自由の中でどのように考え、どのようにエペソのクリスチャン達に伝えたのでしょうか。

★私達がクリスチャンであるのは、聖書の思想や哲学によるのではありません。キリストの血によるのです。血とはキリストの十字架のことです。ある人は「神様は天と地を言葉で創造されたが、教会を御子の血で創造された」と言いました。まさに神様は、広大無辺な宇宙の創造にではなく、私達の為に「御子の命」という大きな犠牲を払われたのです。

★パウロは、自分の命もエペソ教会の命も握っているローマ帝国という巨大な権力の真っただ中にいます。しかしパウロは、今日の御言で「私達(エペソ教会も)は、神の恵みを豊かに溢れるばかりに受けている」と言っています。 極限の不自由の中にあっても、「神はあらゆる知恵と思慮深さをもって知らせて下さる」とも言っています。

★その知らせて下さったこととは何でしょうか。それは「ムステリオン」であると言っています。日本語訳では「奥義」と訳されています。それはキリストの支配と教会の救済のことです。ローマ帝国が全ての国を支配しているかに見えても、真の支配者はキリストであると見ていたのです。そのことを現すのが、「いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められる」という御言です。

★パウロは、ローマの支配力を見せつけられている牢獄の中で「本当の支配者はキリストなのだ」と言っています。そのとおりパウロを捕え、エペソの教会や他の教会を迫害していたローマ帝国は、今や消滅し跡形もありません。日本の歴史においても、キリシタンを迫害した幕府は倒れ、自分を神としキリスト教会を迫害した明治天皇や昭和天皇も倒れ、象徴天皇となったのです。しかしキリストは、今も世界中で礼拝されています。それが分からないとすれば、目に覆いが掛かっているのです。覆いは信仰によって取り除かれます。祈りましょう。

11月15日礼拝「私達が選ばれた目的」

エペソ人への手紙(NO.2)「私達が選ばれた目的」1章4~6節

                     仁井田義政 牧師

今日の御言は、神様の選びの目的です。「神様はなぜ私達を選んで、クリスチャンにして下さったのか」と言うことです。私達の信仰が大きく飛躍するために「神の選び」についてお話しいたしましょう。

★「私が選んでクリスチャンになった」と言うことと、「神様が私を選んで下さったので、私はクリスチャンになれた」という間には大きな開きがあります。私達は「私が選んでクリスチャンになった」と言う方が自然と理解しやすいのです。しかし御言に、神様が私を選んで下さったと記されています。エペソの教会は、設立されてから少なくとも十年以上経っています。パウロは、手紙に「神の選び」について書いています。「神の選び」を知って、さらに信仰がしっかりするようにとの願いをもって書いたのです。

★今日の御言には「神の永遠の選び」(5節)のことが記されています。神様は天地を創造される以前から私達を選ばれていたと言うのです。しかも4節の「彼にあって選び」とは、キリストにあって選ばれたということです。さらに5節においては「愛を持って選ばれた」と記されています。その愛は、ギリシャ語の「アガペー」という最高の愛を表わす言葉が用いられています。私達は、最高の愛で選ばれ、愛され続けているのです。

★神様は、私達に与えられた「アガペー」の愛をどのようにして示されたでしょうか。それを「神がその愛する方にあって」と記されています。それは私達の為に十字架について下さった主キリストにあってと言う意味です。6節の「その方によって与えられた恵みの栄光」とは、(ギ)「恵み=カリス」と「栄光=ドクサー」です。「恵み」は、人間の功績によらない神様の恵みのことです。「栄光」とは、その素晴らしさのことです。私達を選んで下さった目的は、そのことによって神様が「ほめたたえられる」ためなのです。

★「ほめたたえられるため」と言っても、決して強制ではありません。神の選びという神の愛と、私達の罪の為に十字架について下さったキリストの愛を知ったならば、「神の恵みと栄光をほめたたえる」ことなくいることは出来ないのです。それが礼拝です。私達クリスチャンは、神の永遠の選びに感謝して、生涯に亘って、私達をアガペーの愛で愛し続けて下さっている神様をほめたたえ、礼拝しましょう。

11月8日「与えられている霊的祝福」

エペソ人への手紙(NO.1)「与えられている霊的祝福」1章1~3節

                     仁井田義政 牧師

  先週で第二テサロニケが終わりました。今日からお話しますエペソ人への手紙は、テサロニケの時代から一気に10年後くらいになります。パウロは、ローマの獄中からこの手紙を書いていると思われます。内容は、クリスチャン達の霊的成長です。この学びをすることによって、私達も霊的な成長を目指しましょう。

★パウロは今、ローマの獄中でこの手紙を書いています。それなのに、何と澄み切った書き出しの挨拶でしょうか。そこには囚人としての惨めさがひとつも感じられません。捕えられてなお、キリストの使徒としての誇りに満ち溢れています。宛先に「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒達へ」と記されています。パウロは、エペソの信徒達に「忠実な聖徒」と記しました。エペソは、アルテミス神殿のある町です。そこで信仰を守った聖徒達なのです。

★パウロは「私達の・・主イエス・キリスト」と記しました。神様の前には、ユダヤ人も異邦人も民族に差別などありません。「私達の」なのです。しかも「私達の父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安が・・ありますように」と記しました。ギリシャ風の「喜ぶ」を、「恵みと平安が」に変えています。また「平安がありますように」と記しました。これは、人間同士のことだけではなく、神様との平和のことなのです。日本の手紙では「拝啓」が、通常ですが、クリスチャンの手紙には「主の御名を賛美いたします」と書くことが多いです。クリスチャン達は、初代教会から教会特有の言葉をもちました。

★さらにパウロは、「父なる神がほめたたえられますように」と記しました。神様に求めることばかりでなく、神様がほめたたえられることを求めることが大切なのです。自分のことだけしか祈らないクリスチャンは、ついには罪に落ちていく危険があるのです。パウロは、今日の御言の最後で「天にある全ての霊的祝福をもって、私達を祝福して下さいました」と過去形で記しています。それは神様からの「天にある全ての霊的な祝福」は、既に送られているからです。あとは信仰をもって受け取れば良いのです。

★エペソ人への手紙は、まさに3節に記されているように「天にある全ての霊的祝福」に満ち溢れています。私達も霊的祝福を受けましょう。

11月1日「いつも恵みに包まれて」

第二テサロニケ(NO.11)「いつも恵みに包まれて」3章16節~18節

                     仁井田義政 牧師

3

テサロニケ第二の手紙を8月23日に話し始めて、今日が終わりとなります。

★パウロは、16節において「平和の主が、どんな場合にも、いつもあなたがたに平和を与えて下さいますように」と祈っています。そしてさらに「どうか、主があなたがた全てと共におられますように」と祈っています。主が共におられること、これぞ究極の平和なのです。イエス様は「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われました。「見よ」には注意してという意味があります。信仰によって注意して見ないと見えないのです。さらにイエス様は、ヘブル語で「インマヌエル」と預言されました。それは「神は私達と共におられる」との意味です。

★パウロの手紙には、口述筆記者がいました。ローマ人への手紙の最後には、「テルテオ」という筆記者名が記されている通りです。しかしパウロは、自分の手で最後の挨拶の部分を書くことによって、パウロ自身の手紙であることを証明しました。既に「パウロの手紙」などと言って偽物が出回っていたからです。(2章2節参照) 当然ですが、このようにして異端が教会に入り込まないように注意していたのです。

★いよいよ第二テサロニケ人への手紙も、18節の最後の言葉になりました。18節は祝祷です。その内容は「主イエス・キリストの恵みが、あなたがた全てと共にありますように」です。主は、いつも共にいて下さるだけではありません。いつも、いつまでも、私達に恵みを注いでくださっているのです。

★この書は「主イエスの恵み」を祈る祈りで始まっており、「主イエスの恵み」を祈る祈りで終わっています。教会と教会に連なる人達は、主イエスの恵みによって挟まれているのです。あるいは覆われているのです。どんな問題がクリスチャンに起こり、降りかかって来ても、恵みに溢れたイエス様がいつも一緒にいて下さるのです。「主イエスの恵みがあなたがた全てと共にあるように」というパウロの願いは、そのままイエス様の願いでもあります。ですからたとえどんな困難の中にあっても、イエス様の恵みを信じて立ち上がる力を頂きましょう。イエス様の恵みに感謝して一緒に祈りましょう。

10月25日礼拝メッセージ「静かに仕事をしなさい」

第二テサロニケ(NO.10)「静かに仕事をしなさい」3章6節~15節

                     仁井田義政 牧師

 

今日の御言は、勤勉な労働の勧めです。パウロは第一の手紙でも取り上げましたが、第二の手紙では、第一の手紙よりも強い口調で、勤勉な労働の大切さを教えています。

★これは「キリストの御名によって」(3:6)の命令でした。それは「再臨は既に来た」とか、「直ぐに再臨あるから労働に意味がない」等と言う極端な者がいたからです。パウロは、テサロニケ教会開拓の初期には労働をしながら伝道をしました。パウロは労働を軽んじる「怠惰な者達から離れよ」と教えました。

★異端は仕事をしない自分達を、信仰者の理想的な姿であるかのように見せていました。パウロは「静かに仕事をし、仕事で得たパンを食べよ」(3:12)と、ここでもキリストの御名によって労働の命令を記しました。勤勉に働くことの勧めは、第一テサロニケで「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい」(4:11)と教えていました。しかしこの勧めにも従わなかった者達がいたのです。

★パウロは3章6節で「そのような兄弟達から離れよ」と言いました。また3章14節でも「そのような者と交際しないように」と教えています。非常に強い言葉です。どうしてかというと、6節と12節にある「キリストの御名によって命じた」ことに従わなかった者達だからです。それでは、その強い言葉の目的はどこにあるのでしょうか。それは「彼が恥じ入るようになる為です」(3:14)、また「しかし、その人を敵とはみなさず、兄弟として戒めなさい」(3:15)と、パウロが記していることから明らかです。それは異端者の悔い改めを願ってのことでした。

★私達も労働を軽んじてはなりません。「仕事をしないで暮らせる生活が出来たらどんなに幸せか」と思っている人は多いと思います。テサロニケ教会の信徒の中のみならず、現代の私達の中にもいるでしょう。しかし労働のない生活は、理想的な生活ではありません。神様が理想的な場所としてエデンの園を造られた時、そのエデンの園にさえ労働はあったのです。に「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた」(創世記2:15)とあるのです。エデンとは「喜び」という意味です。労働がなければ「喜び」の環境が失われるのです。仕事は、神様が人間に与えられた幸せになる為の自然なことなのです。労働を当然のこととして、勤勉に喜びつつ、静かに仕事をし、クリスチャンの素晴らしさを現わしましょう。

10月18日礼拝「パウロの祈り」

第二テサロニケ(NO.9)「パウロの祈り」3章1節~5節

第二テサロニケも3章に入りました。3章は結論の部分です。パウロは結論の最初の部分で、祈りの依頼をしました。

★パウロは偉大な先生であったのに、祈りの依頼をしています。パウロはこの手紙を、コリントから出していると思われます。そのコリントでは、困難な伝道の中にありました。そのためにパウロは「主のみことばがコリントでも早く広まるように」とテサロニケ教会に祈りの依頼をしているのです。

★その祈りの依頼の中に、「ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように」という内容があります。「ひねくれた」は、ギリシャ語の「アポトーン」が使われています。その意味は「異常な」で、コリントにキリスト教に対して異常な憎しみで迫害する者達がいることを伝えています。そのような迫害者は、パウロのいるコリントにだけいるのではありません。パウロが去った後のテサロニケにもいるのです。その中でパウロはテサロニケ教会の為に祈り、また自分達の為にも祈りを依頼しているのです。クリスチャンは、自分に問題を抱えつつも他者の為にも祈ることが出来るのです。主も十字架の上で「彼ら赦し給え」と祈られました。

★パウロは、テサロニケ教会も同じように迫害者達によって苦しめられているのを知っており、「主があなたがたの心を導いて、神の愛と、キリストの忍耐とを持たせて下さいますように」と伝えました。「導く」は、ギリシャ語の「カテウスノー」で、「真っ直ぐに」の意味です。どこに導くのかというと「神の愛」にです。そしてまた「キリストの忍耐」に導かれるようにとの祈りです。この地上には困難があるからです。

★パウロの祈りの依頼は、コリントで伝道している自分達も困難を乗り越える忍耐が必要であったからです。そのために「神の愛」の確信が必要だったのです。テサロニケ教会の信徒達も、パウロ達の信仰も立派な信仰でした。しかしそれだけで良かったのではありませんでした。互いに「神の愛と、キリストの忍耐とを持たせて下さいますように」と、祈り合うことが必要だったのです。ですから私達も互いに祈り合いましょう。プライバシー等の問題で、週報などに挙げられない祈りもあります。そのことも心にとめて、互いの為にいつも祈り合いましょう。

10月11日礼拝「力強く生きる秘訣」

第二テサロニケ(NO.8)「力強く生きる秘訣」2章15節~17節

 今年は苦難の年でした。ある人はコロナの為に職を失いました。ラーメン屋さんの店主が泣きながら「店をたたむ他ない」と言っていました。今日の聖書の御言は、その揺れ動く社会の中において、いかにしたら動揺しない生活が出来るかを教えています。

★私達の生活は、全て言葉によって成り立っています。「初めに言葉ありき」です。器に悪い水を入れますと、悪い水が出て来ます。心に御言を入れると御言が出て来ます。パウロは「私達の言葉と手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい」と教えています。私達の言葉とは「説教」で、「手紙」とは「聖書」と言うことも出来るでしょう。

★パウロの祈りは、「私達の主イエス・キリストと、私達の父なる神が・・・強めてくださいますように」と祈りました。その中に「私達の主イエス・キリスト」と言う言葉があります。どんなに御言を耳で聞いても、イエス様を「私達の主と」認めないと、力を受けることが出来ないのです。また「私達を恵みに」「永遠の慰め」「素晴らしい望み」という言葉が続いています。そしてそれらを「与えて下さった」と記されています。それは過去形なのです。これから修行したら与えられるのではなく、既に与えられて持っているのです。ちょうど親が、銀行に子供の為に通帳を作り、預金しておいてくれたのと似ています。信仰を持って受け取れば良いのです。

★パウロは、迫害や異端問題で苦しむテサロニケの人々の為に「良いわざとことばにすすむように」にと祈りました。傷ついて心が弱っている人が「慰められるように」と祈りました。先に強くなることを求めるのではなく、まず神様から愛されていることを信じて、慰めを受けるのです。そうする時に人間は強くなれるのです。

★聖書は素晴らしい神様の御言です。神様は悩んでいる人に希望を与え、弱い人に力を与えられるのです。それが神様の私達に対する真の愛なのです。精神的にも辛いコロナ禍の中で、必要なのは神様のことばです。このような時代に「力強く生きる秘訣」は、キリストの愛が既に自分に与えられていることを知って、信じることです。今どんな境遇にいても、あなたに注がれているキリストの愛を信じて「力強い人」になりましょう。

10月4日礼拝「福音による栄光」

第二テサロニケ (NO7) 「福音による栄光」 2章9節~14節 

 テサロニケ時代も「キリストの再臨は既に起こっていたのだ」という異端が、教会内部に起こり出しました。教会外部からは強い迫害を受けていのです。そのような中に生きるテサロニケの教会に、パウロは「クリスチャンの勝利」を伝える手紙を書きました。それが今日の御言です。

★今日の御言には、「不法の人」の出現が預言されています。不法の人は、サタンではありません。サタンに利用されてキリストの真理に反対する宗教的人物です。もちろんその人は、自分がサタンに利用されているとも思っていません。自分の教えは真理だと教えるのです。その人には、偽りの力としるしと不思議が伴います。病気が治り、問題が解決することもあると聖書は言います。

★「不法の人」によって、多くの人々に対して欺きが行なわれます。その原因は、人々が「救いの為の真理を受け入れなかった」からであると聖書は記します。10節の真理は、ギリシャ語の「アレツェイアー」「しっかりと立つ」との意味があります。ぬかるむ沼地ではしっかりと立てません。イエス様は「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と、私こそ人間がしっかり立つことの出来る「真理である」と言われたのです。イエス様を信じない人には、不法の人による「欺き」が起こると忠告されています。しっかりと足を据える真理を持っていないからです。

★しかし「悪には、悪の喜びと快楽がある」(2:12)と聖書は言っています。それがなくて人々が悪に従った生活をするでしょうか。テサロニケの時代、異教の神殿には売春宿が併設されていました。それに加えて、キリスト教に対しての迫害が猛威をふるっていました。キリスト教の「清潔」という教理を踏みにじって、一般社会は勝ち誇っていたのです。敗北しているかのように見える教会に対して、パウロは、「しかしキリストの再臨の時に、栄光を受けるように定まっているのはクリスチャンである」とこの手紙で伝えたのです。

★テサロニケ時代の異教や異端のはびこる時代を背景にした中で、パウロはそれに騙されずに生きる秘訣は、「福音によって」のみ可能であることを教えています。そしてその福音の真の中に、私達は召されているのです。騙されることなく福音を信じ通すならば、必ずクリスチャンは栄光を受け、勝利するのです。誰にも騙されることなく福音そのもの信じぬいて生きましょう。

9月27日礼拝「背教者が起こる」

第二テサロニケ (NO6)「背教者が起こる」2章3~8節 

今日は、先週の御言の最後の節からです。それは、2章3節の後半の御言が今日のメセージと深く関係しているからです。3節の前半では「誰にも騙されないようにしなさい」と記されています。そして今日のメッセージは、世の終わりが近くなると「まず、背教がおこり」と記されています。パウロは、その背教とはどんなことなのかを説明しています。

★今日の御言の中の「不法の人」と言われるこの人は、サタンとは違う存在です。それはサタンに操られている人のことです。また「背教」は、イエス様を信じていた人の背教と見られやすいですが、背教「アポスタシア」は「逆らって立つ」の意味ですから、単に信仰に背を向けた人とは違います。キリスト教会に逆らって立つ人のことです。ですから「不法の人」も「滅びの子」も、背教者等のことで、サタンに操られた強力な権力を持った人のことなのです。

★背教者とは「自分こそ神である」と宣言し、真の教会を迫害する人です。そして自分を礼拝させようとして、礼拝しない者を迫害し、宗教の統一を図ろうとするのです。このようにパウロが教え記すのは、まだキリストは再臨していないという証拠を示す為でした。2章2節のように「主の日がすでに来たと言って、落ち着きを失っている者」がいたからです。

★究極的な背教者は、まだ起こっていません。背教者を徹底的に操つる悪しき存在(サタン)は、今まだ陰に隠れており、活動を制限されています。しかし、その悪しき働きは既に始まっているのです。やがてダムが崩壊するように、その力を現すでしょう。しかしクリスチャンは騙されてはなりません。その邪悪の権化であるサタンを滅ぼす力は、再臨の主にのみあるのです。

★キリストの再臨は、こっそりと来ていたり、「私が再臨のキリストだ」と、宣言する人によって来るのではありません。世界的な規模で、いや全宇宙的な規模で、キリストの再臨は行なわれるのです。その時に背教者であろうと、サタンであろうと、全て滅ぼされるのです。なぜならキリストこそ、王の王、主の主だからです。クリスチャンは、そのことを堅く信じなければなりません。再臨と共に現われるキリストの勝利を固く信じ、キリストへの信仰を強く持ちましょう。