6月17日礼拝メッセージ「小さなことにも忠実に」

(礼拝メッセージ)「小さなことにも忠実に」マタイ25章14~30節

                         楠 亜紀子師    

 今日は「小さなことにも忠実」というタイトルで御言をお分かちしたいと思います。

★今日の御言は、私たち信仰者がこの終末の世にあって、どのように備えなければいけないかということが書かれています。25章14節からは「忠実」であることの大切さが書かれています。ある主人が三人の僕それぞれにタラントを預けて旅に出かけました。タラントとは「才能」と言う意味ですが、五タラントを預かった僕は、すぐに行って商売をしてさらに五タラントをもうけました。この僕は、主人から何も指示されていないのにすぐに行って商売をしたのです。それではなぜ「すぐに行った」のでしょうか。それは、主人を喜ばせたいという思いからではないでしょうか。どうしたらご主人に喜んでもらえるだろうと考えて、預かったタラントを活用したのではないでしょうか。二タラントを預かった僕も、同じようにしました。それでは一タラント預かった僕は、どのようにしたでしょうか。この僕は主人を怖い人だと思い、預かったタラントを減らしては怒られるのではないかとの臆病な心から地中に隠しておきました。

★よほどたってから主人が旅から帰って来て、彼らと清算をしました。五タラントを預かった僕は、さらに五タラントもうけたことを報告すると、主人は良い忠実な僕だと喜んでくれました。二タラントを預かった僕も、同じようにほめられました。しかし、一タラント預かった僕は悪い怠け者の僕だと怒られ、持っていたタラントを取り上げられてしまいました。

★ここに出てくる主人とは神様のこと、僕とは私たちのことです。神様は私たち一人ひとりにタラントを預けて下さっています。そして私たちがそのタラントを活かすことを喜ばれます。私たちは神様から預かっているタラントを忠実に管理し、喜んで用いているでしょうか。また、神様に喜んでいただきたいと願っているでしょうか。私たちにもいつの日か神様に報告をする日が来ます。その時には、「よくやった、忠実な僕だ」と神様から喜んでいただけるように、小さなことにも忠実に歩みましょう。

6月10日礼拝メッセージ「二千頭の豚と一人の人間」

(礼拝メッセージ)「二千頭の豚と一人の人間」マルコ5章14~20節

                        仁井田義政 牧師  

 ゲラサの地で一人の人がイエス様によって救われました。しかし、めでたしめでたしとはいかなかったのです。イエス様はそのゲラサから追い出されるのです。二千頭の豚と一人の人間とどちらに価値があるかという問題が起こったのです。

★レギオンという汚れた霊がその人から出て行って、その人は正気に戻りました。レギオンとは、ローマの五千人からなる軍団のことです。彼は、ローマから彼の住んでいる町に進軍してくる五千人の軍隊を見たのかもしれません。そうならば、その軍隊によって残酷な殺りくが行われたのも見たかも知れません。異教の世界では、悪霊的なものが自分に乗り移ってしまったと言う間違った恐怖を信じやすいのです。日本における民間信仰の「狐憑き」等がその例です。また「厄年の厄払い」などもそうでしょう。

★今日の聖書には、一人の人が汚れた霊から解放されるために、二千頭の豚が犠牲になったと記されています。ここに、一人の人間と二千頭の豚の価値の問題が起こったと思われます。16-17節に、この人に起こったことや、豚のことなどを詳しく話すと、「この地方から離れてください」とイエス様に言ったことが記されています。乗り越えられない文化を乗り越え、嵐に遭いながら来て下さった救い主イエス様を、私欲の為に追い返したのです。

★汚れた霊から救われた人は、イエス様に「お供をしたい」と願いました。しかしイエス様は「家に帰り、自分の体験したことを家族に知らせなさい」と言われました。それで彼はゲラサの地にとどまり、自分の家族に伝道しました。その地方全体に、イエス様の救いを伝道したのです。私達も、救いを家族に伝えるのは、自分しかいないと考えるべきです。

★それにしても聖書は、見事に人間の陥りやすい罪について記しています。自分と関係がない一人の人間よりも、二千頭の豚の方が大切なのです。ちょうど一人の人間の命よりも、何十億もの利益をもたらすはずの原発の方に価値があるという論理です。そこに人間疎外が起こるのです。イエス様は二千頭の豚の価格よりも、一人の人を尊ばれる御方です。その御方が、私達を救って下さり、守って下さっているのです。そのイエス様の愛を心から感謝して毎日を生きましょう。私達もイエス様を愛しましょう。心からイエス様に感謝の祈りを捧げましょう。

6月3日礼拝「いったい私に何をしようと」

(礼拝メッセージ)「いったい私に何をしようと」マルコ5章1~13節

                         仁井田義政 牧師

 私達は、行きたくない所に行く時には、短い距離でも足取りが重くなったりします。ユダヤ人にとって、ゲラサの地は行きたくない所でした。汚れた人たちの住んでいる所と思っていたからです。しかしイエス様は、弟子達にそこに行こうと言われました。途中で嵐に遭い、死ぬ目にあいました。「だから来たくなかった」と思ったに違いありません。とうとうそこに着きました。そこで最悪なことに、裸で墓場に住む悪霊に憑かれた人と出会ったのです。

★現代人には「悪霊に憑かれた」という言葉は奇妙に聞こえます。悪霊なるものが目に見えないからです。しかし、ここには社会生活が出来ない人、孤独な人、神も自分も信じられない人の姿が現わされています。神の存在を知りながらも、自分との関わりを願わない人などの姿が記されているのです。

★墓場に住んでいる人がなぜ鎖で繋がれたのか。それは他人へ危害を加える生き方をしていたからです。また夜昼となく叫び続けるからです。周りの人へ気遣いが出来ないのです。また石で自分を傷つけるのは、自分を尊敬することが出来ない人の姿でもあります。こうして見ると、この聖書の記事は、一気に現代人の生活にリンクされ得ることがわかります。

★この人は、大声で「 私に何をしようとするのですか」と叫びました。「大声で」とは、彼が本当に言いたかったことを現わします。この叫びは、現代の日本人に多い言葉です。それは「私は私。あなたはあなたでしょ。私に構わないで、今のままで良いのです」との姿勢を現わしています。これが悪霊の正体だと聖書は言っています。

★イエス様の質問に「私の名はレギオンです」と答えました。ラテン語つまりローマ語で、5000人~6000人からなる陸軍のことなのです。自分の生き方を変えられない程の力に捕らえられている姿です。しかしついに彼は、イエス様の力で解放されました。悪霊は二千頭の汚れた豚の中に入って、その人の中から消え去ったというメッセージなのです。 

★イエス様がこの一人を救ったからと言ってどれ程の手柄になるでしょう。しかしイエス様は、誰も関わりたくないゲラサ人の所に来て下さいました。イエス様はそうしてあなたの所にも来て下さったのです。イエス様はあなたが大切なのです。心を開いてそのイエス様の愛を信じて受け入れましょう。

 

5月27日ペンテコステ礼拝「突然と計画」

(ペンテコステ礼拝)  「突然と計画」使徒2章1~13節

仁井田義政 牧師

 先週が聖霊降臨の日でしたが、タンザニアのアレックス神父が来て下さり、また午後には弓野綾姉のタンザニアでの医療奉仕報告が行なわれましたので、ペンテコステメッセージを今日に変更させていただきました。聖書は聖霊が120名の人達に「突然」注がれたと記されています。

★弟子達にとって聖霊が注がれたのはまさに「突然」のように見えますが、神様にとっては深い御計画に基づくペンテコステの日でした。神の御業は全て突然に見えるものです。天地創造もイエス様の誕生もそうでした。また十字架も復活もそうだったのです。しかし天地創造も「初めに神が」と創世記1章1節にあるとおり偶然ではなかったのです。

★イエス様が復活されて弟子達に現れると、失っていた希望が燃え上がりました。そして「主よ、今こそイスラエルの国を再興してくださるのですか」(1章6節)と尋ねました。しかしそれは間違った希望でした。弟子達が正しい希望を持つのは、聖霊に満たされた時でした。聖霊のバプテスマによって、人間的な希望や考えが変えられるのです。教会は正しい目的を持たなければなりません。「聖霊が臨まれる時・・力を受けて・・・わたしの証人となります」と記されています。証言しない証言者はいないはずです。ですから聖霊によって、勇気と力が与えられる必要があるのです。

★創世記には、人間の分裂がどのようにして起こったか記されています。バベルの塔事件です。その結果、言葉の通じる民族同士が集団化し、あるいは分裂に分裂を重ねたのです。しかしペンテコステの聖霊によって、同じ主の証言者となり、同じ目的でひとつになったのです。それだけではありません。聖霊は、世代間のギャップを乗り越えさせ、教会をひとつにするのです。  

★人間の側には突然に見えることも、神様の側には突然などと言うことはありません。イエス様は、「聖霊があなたがたの上に臨まれる時、あなたがたは力を受けます。そして・・・地の果てにまでわたしの証人となります」と言われました。聖霊の力を受けると、教会に大収穫が起こるという約束の言葉です。その約束を信じて、聖霊の充満を求めて祈りましょう。

 

5月20日礼拝メッセージ「地の塩、世の光」マタイ5章13~16節

(礼拝メッセージ)地の塩、世の光マタイ5章13~16節

  特別講師 (タンザニヤ タボラ大司教区) アレックス・ンドワヨ 神父

 古代の聖書世界では、塩は高価なものでした。塩は食べ物に風味をつけ、また重要な保存料として用いられました。また、塩は人に渇きを覚えさせるものでもあります。イエス様は弟子たちがその教えを伝えることによって塩のように、世に豊かな風味をもたらし、イエス様が明かした真実を保ち続け、世界が真実を渇き求めることを望んでおられました。旧約聖書ではまた、塩の契約についても語られています。塩の契約が意味するものは永遠に続く関係性です。

★マルコは福音書の中で「塩に塩けがなくなる」という例えを用いました。イエス様の時代は、塩は私たちの知るように精製されるのではなく、死海のほとりで、塩分を含む湖の水が蒸発したあとの堆積物から採取して使っていました。この塩は分解されて塩けをなくすことがありました。このようなもろい塩は、イエスに従う者としての行いが、適切に教えを正しく活かし続けようと心がけなければ、クリスチャンとしての行いが、時とともに力を失いかねないということを示す良いたとえになります。味気のないものに風味を与え、悪くなってしまうものを保ち、神との完全な契約と誠実に神に従う心を表す。それこそがイエス様に従う者の姿なのです。

★この地上というかまどの中で塩の役割を果たすとは、そのかまどの火をあなたの中にもやし、周りのものに愛の火をともすこと、そしてその光を明るいままに燃やし続けるということです。私たちがキリストに従う者としてこれを行えば、私たちもまた、「世の光」となります。ここに、私たちは、塩と光という二つのイメージが見事に重なるのを見るのです。

★私たちは世の中で、多くの不公平、冷たい戦争、自己中心性、困難の中にある人への無関心さを目にします。私たちは、平和をもたらし、世界中で互いに愛し合い、犠牲を払い、自分を後回しにし、協力し合い、深く理解しあうように、神様から求められています。この求めは、イエス様の祈りの中に見出される一致の心と深く繋がっています。一つになることによって、私たちは互いに愛しあうようになります。愛することなしに、光となることはできません。一つになること、それは神を知り、愛するために必要なことです。イエス様は世の光です。イエス様に従うことで、私たちも世の光となることができるのです。

5月13日 母の日「マリヤと理想的なお母さん」

母の日「マリヤと理想的なお母さん」エペソ6章1~3節 ルカ1章35節

                         仁井田義政 牧師

 いつも母の日には「お母さんに感謝しましょう」と、子供たちへメッセージが伝えられます。しかし今日は「子供たちに尊敬されるお母さんとは、どういうお母さんなのかを聖書から学びましょう。

★ マリヤはイエス様を身ごもった時、神様から「おめでとう」と言われました。子供に尊敬される母親は、神様から「おめでとう」と言われる母親でなければなりません。自分で産んだ子供でも神様からの預かりものなのです。ですから子供達から「お母さんありがとう」と言われる以前に、神様から「おめでとう」と言われる母親でなければなりません。

★子供たちからも尊敬される母親は、聖霊に満たされた母親です。マリヤには、財産も地位も学歴もありませんでした。しかし尊敬される母親になる為に聖霊に満たされていました。また聖霊の影響を自分だけでなく、人にも与える人でした。聖霊に満ちたマリヤを迎えたエリサベツも、聖霊に満たされたのです。あなたは何に満ちていますか。ご主人への不平・不満・小言・家計が苦しい・子供たちが言うことを聞かないと言ってイライラの毎日。それでは尊敬されません。聖霊に満たされましょう。

★子供たちに尊敬される母親は、御言を信じて感謝の祈りをする人です。マリヤは、聖書の御言を信じ切った人でした。マリヤの讃歌と言われる言葉は、旧約聖書の詩篇からのものなのです。マリヤは聖書を愛する人でした。そしてマリヤは「自分がどんなに幸せ者か」を神様に感謝する人でした (48~49節)。マリヤは「自分に与えられた幸せは、代々にわたって人々にも与えられる」と信じる人でもありました。

★「私はマリヤのようなお母さんになるのは無理です」という人がいるかもしれません。実はマリヤもそのひとりだったのです。「どうしてそのような事になりえましょう」(34節)と言っています。どのようにして可能なのでしょう。それは、今日の御言です。第一に聖霊に満たされることです。第二は聖書の御言を信じ切ることです。第三は神様に感謝することです。第四は人々の幸せの為に祈ることです。これはお母さんたちだけに限るのではありません。お父さんたちにも同じく適用されます。そのように生き始める時、私達は子供たちから「ありがとう」と尊敬される人となるのです。子供たちから「お母さんありがとう」と言われるお母さんになりましょう。

5月6日礼拝メッセージ「どうして怖がるのか」

(礼拝メッセージ)マルコNO25「どうして怖がるのか」4章35~41節

                      仁井田義政 牧師

 多くの人は、恐怖や恐れや心配事に取りつかれているように生きています。これら三つの事は、恐れの程度の差を現している言葉です。私達の悩みの全ては、何らかのかたちで命と結びついています。そしてイエス様は、恐怖や怖れや心配事をどのように解決したらよいかを教えておられます。

★聖書には、イエス様が風を叱って嵐を静められたと記されています。このところを読むと、50年以上も前に聖書を初めて読んだ時のことを思い出します。聖書を読んで感動したというならまだしも、幻滅してしまったのです。聖書には素晴らしい事ばかりが書かれていると思って読み始めた私は、うろたえました。しかしそれは聖書の文字は読んでいても、その真理を読んでいなかった結果の失望でした。

★イエス様は、この数時間前まで神の国の力について教えておられました。その後、弟子にガリラヤ湖の東岸ゲラサの地に行こうと言われました。それは他民族への伝道の為でした。すると渡航中に突然嵐が起こり、弟子達は命の危険を感じて恐怖に襲われました。ところがイエス様は舟尾の方で安心して眠っておられました。

★弟子達は、恐怖の為にパニック状態となりました。そうして眠っておられたイエス様に不満を感じ、嫌みを言ってしまうのです。イエス様が湖を叱りつけると嵐が止んでしまいました。そして「どうして、そんなに怖がるのか」と言われました。そうしてそのように恐れてしまうのは「信仰がないからです」と言われました。この信仰がないから怖がるという言葉は、一気に私達の実生活に入って来きます。

★私達の人生にも、突然予期しないことが起こります。まさに「突風」体験です。その突風が、ガンの告知や会社の倒産、あるいは家族の死であったりするのです。その時、私達人間は恐怖を感じます。そして恐怖は、最も身近かなものに攻撃となって向けられることがあります。配偶者に、親に子に、親戚に、友人に「私を何も理解してくれない」と怒りが向けられるのです。イエス様は、それを防ぐ方法はただ神様の守りを信じる信仰だと言っておられます。イエス様が一緒にいて下さる人生、なんという素晴らしい人生でしょう。たとえ嵐が吹く時があっても、イエス様が一緒の船に乗っていて下さるのです。怖がる必要などありません。平安に満たされて歩みましよう。

 

4月29日礼拝メッセージ「平安に生きるために」

(礼拝メッセージ)マルコNO24「平安に生きるために」4章26~34節

                      仁井田義政 牧師

今日の御言でイエス様が「神の国は」と、農業の話を譬えにして話しておられます。それは神の国に入ると、平安だからです。

★「神の国」を、イエス様は「人が地に種を蒔くようなものです。」と言われました。植物の成長が人の手によらないように「神の国は人の手によらない」(28節)と言われました。そこには、ギリシャ語の「オートマティ」という言葉が使われています。それはオートマ(自動)という英語の語源です。植物は、昼も夜も成長する力を持っています。その自然界に満ちている神様の力を、自分の中にも満ちていると信じるのが「神の国」に入ることなのです。神の国は目に見えないのです。

★イエス様は「神の国は小さな辛子種のようなものです」と言われました。 初心者はそこを間違うのです。小さな信仰でも心に宿したならば、神様にそのことを感謝して自分自身を神様にお委ねするのです。すると、神の国の「オートマティ」が働いて、神様への信頼が成長し、やがて大きな木のようになり、小鳥が巣をかける程の木となるのです。

★そのように「神の国」に入るとは、神様の守りの力があることを信じることです。昔、貧しい人が船で他国に行かなければならなくなりました。ようやく船のチケットを購入し乗船しました。しかし何日も食事をしないで我慢しました。食事代がなかったからです。この人はみるみる衰弱していったので、乗務員が心配して「どうして食事をしないのですか、どこか体の調子でも悪いのですか」と聞きました。貧しい人は実情を話しました。すると乗務員が「お客様、チケット代には全ての食事代も入っています」と言いました。それを聞いて貧しい人は、それから安心して食事の席に着いたというのです。ある人は神の国の力を知らないのです。食事代も全て入っている船に乗っていながら食事をしない人のように、神の国の恵みを知らないのです。

★人々は、自分は神様に守られていると信じられないほど傷ついています。その傷が癒されなければ平安になれません。神様の守りを信じましょう。そうすれば恵みに満ちた神様の「オートマティ」、つまりオートメイションが始まります。イエス様はあなたを愛して神の国に招いておられます。そのイエス様の愛と恵みの力を信じましょう。イエス様を信じて、平安に生きる人になりましょう。

4月24日礼拝メッセージ「光を高くかかげよ」

(礼拝メッセージ)マルコNO23「光を高くかかげよ」4章21~25節

                      仁井田義政 牧師

 この話を聞いているのは、一般大衆ではなく、イエス様の弟子達です。イエス様の過激な言動によって、自分にも危険が及ぶのではないかと感じ始めた弟子がいても不思議ではありません。そのような背景で今日の御言を聞くと、私達にも御言が迫ってきます。

★この時代の夜の部屋は、明かりがなければ真っ暗闇で、どこに何があるか全く見えない状態でした。唯一、その闇を照らす方法は、灯皿の火をともすことでした。その灯皿を枡や寝台の下に置いては、部屋が真っ暗になってしまいます。

★イエス様は、世の闇を照らす光です。しかし真理はある者達には「隠れて」います。(4:11)大衆もイエス様の母マリヤもイエス様の兄弟も、そしてこともあろうにイエス様の弟子達も、わからないのです。(4:10)ついには、イエス様の真理が十字架で葬り去られてしまうように見えました。しかし真理は覆い隠しても必ずあらわになり、覆い隠しているものを跳ねのけて明らかにされるのです。それはイエス様の復活でした。

★イエス様は「聞いていることによく注意しなさい」「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。自分の考えの量りでイエス様の言葉を聴くのか、他の人の考えの量りでイエス様の言葉を聴くのか。それでは誰の言葉を聴くのでしょうか。それは十字架で殺されても、墓に葬られても、数トンの石で塞がれても、復活された命と力に溢れた主の言葉を聞くのです。イエス様の言葉に対する理解力が、あなたを豊かにします。

★イエス様の言葉は真理です。しかし型破りのイエス様の真理を聞き、弟子達のある者は自分の身にも迫りつつある危険を感じて、気弱になっていたのでしょう。ですから「ともし火を高く掲げよ」との御言が語られたのです。イエス様の御言は、人間の暗闇を照らす真理の光です。その真理は、クリスチャンの私達の手にゆだねられました。誇りを持って、明かりを高い所に掲げなければなりません。クリスチャンの皆さん、イエス様の真理の光をもっと高くかかげようではありませんか。

 

(4月15日拝メッセージ)「御言と収穫」

(礼拝メッセージ)マルコNO22「御言と収穫」4章14~20節

                       仁井田義政 牧師

 弟子達は「先ほど話された種をまく人の譬えにはどのような意味があるのでしょう。」と聞きました。イエス様はその弟子達の質問を聞いて、弟子達の無理解にあきれてしまいました。イエス様は再度「種を蒔く人」の譬えの意味を説明して下さいました。

★道端に蒔かれるとは、こういう人の心に蒔かれる種のことです。御言の聞ける範囲に来ていたのに、固い地面の為に御言が跳ね返され、心に入れなかったのです。「鳥」とはサタンのことで、御言が地面に入らないように見張っているのです。それは種を蒔く人も、種も更にはサタンが悪いのではなく、受け入れない心の固い人が悪いのです。

★岩地に蒔かれるとは、こういう人の心に蒔かれる種のことです。イスラエルに行ってみると分かりますが、石ころではなく岩盤です。その上に土が覆っていることがあるのです。土がかぶっているので、良い地のように見えます。しかし太陽が昇ると芽を出しますが、根が張れないのですぐに枯れてしまいます。それは、困難や迫害や反対が起こるとすぐに信仰を捨ててしまう試練に弱い人のことです。

★茨の中に蒔かれるとは、こういう人の心に蒔かれる種のことです。一見その地は良い地のように見えるですが「世の心遣い、富の惑わし、その他の色々な欲望」が入り込むと、御言の成長が妨げられてしまうのです。イスラエルには、棘のある植物が二百種類ほどあると植物学者は言っています。棘のある二百種類もの欲望を取り除かなければ、御言は実を結ばないのです。

★良い地に蒔かれる人とは、柔らかい心に蒔かれる種のことです。それは道端のような土地であっても良く耕され、石地であっても石がのけられ、棘のある植物の根のある地であっても、その刺の欲望を抜き去り捨てる時に、その畑は良い地となり、百倍の実を結ぶのです。それは御言を聞く人の決断でと選択です。

★良い心で御言を聞く者は、「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」(マルコ4:20)と言われました。イスラエルの当時の農業では、十倍か二十倍になったら大収穫でした。しかしイエス様の言われた収穫は、その上の三十倍、六十倍、百倍の途方もない奇跡的な大収穫です。それを約束して下さっているのです。良い地に御言を頂き、大収穫をもたらそうではありませんか。