5月31日ペンテコステ礼拝「再臨と聖霊」

第一テサロニケ (NO4)「再臨と聖霊」2章17~20節 

                          仁井田義政 牧師 

今日は、聖霊降臨記念礼拝・ペンテコステです。そこでメッセージ題は「再臨と聖霊」とさせていただきました。しかし今日の聖書箇所には「聖霊」と言う言葉はひとつもありません。ただ再臨と聖霊は切り離すことが出来ないのです。

★パウロがこの手紙を書いている時は、テサロニケを去って1年あまりです。この時もテサロニケ教会は、激しい迫害の真っただ中にありました。パウロはそれを聞いて、どんなに心配で切ない思いをしていたことでしょう。2章17節の「引き離された」という語は「孤児にされた」という意味の言葉です。コロナで引き離されている私達の教会のようです。しかしパウロも言っているように、私達も心においてはひとつです。

★パウロは「二度もあなたがたの所に行くことを心に決めた」のです。それは、心で思ったと言うことではなく、実際に計画したのです。「しかしサタンが私達を妨げた」と言っています。それが迫害の危険の為であったのか、あるいは病気の為であったのかはわかりません。両方であったかもしれません。行きたいのに行けない。会いたいのに会えない。パウロはその時に「主イエスが再び来られる時」を想いました。イエス様と会いたいのに会えない。イエス様が来たいのに来られない。それは時が来ていないからです。

★パウロとテサロニケ教会は、距離的に離れています。しかし祈り合い、心はひとつとなっていました。イエス様と私達も、天国と地上に離れています。しかし心はひとつです。主も祈り私達も祈っているからです。イエス様は、ご自分と教会が天と地に離れている間、教会が孤児にならないようにと「聖霊」を送って下さっていました。(ヨハネ14:16~18)

★今、新型コロナウイルスのためクリスチャンが教会から引き離されています。キリストが天に帰られた時から、もう一度来られる間の時代、つまり現代は聖霊の時代なのです。聖霊に助けられて生きるなら「主イエスが来られる時、私達の望み、喜び、誇りの冠となる」(19節)ことが出来るのです。パウロは、テサロニケの信徒達に「あなたがたこそ、私達の誉れであり、喜びなのです」(20節)と言いました。再臨の日は近いのです。聖霊に満たされて、どんな困難の中にあっても、聖霊によって勝利しましょう。

5月24日礼拝「神のことばの力」2章13~16節 

第一テサロニケ (NO3)「神のことばの力」2章13~16節 

                         仁井田義政 牧師 

今日の御言は、私達の生活にとって神の御言がどの様に働くかを明確に示しています。神の御言は、その力を本気で信じる者と、そうかも知れない程度に信じている者とでは、全くその力が違って現れるのです。

★この手紙を書いた時、パウロはテサロニケ教会から距離的に遠く離れた所にいました。2章の最後には「行きたくても行けない」と記しています。しかし、パウロの耳に伝わってくるのは、テサロニケの信徒達の「信仰に満ちた」素晴らしい信仰でした。牧師にとって、信徒達が信仰に溢れ、御言を信じて生活しているのを見ることほど嬉しいことはありません。

★テサロニケ教会のクリスチャン達は、パウロが伝えたメッセージを文字通りに神のことばとして受け入れました。御言を神のことばとして信じて行動すると、どんな事がおこるのでしょう。それはパウロの体験したことでもありました。「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」と、自明なこととして書き送りました。神様は御言を信じる者に働かれ、私達の生活に奇跡を起こして下さるのです。

★それでは、テサロニケ教会の信徒達にどのような奇跡が起こったのでしょう。第一には、信仰をもってまだ一年あまりのテサロニケ教会が、地域一帯の教会の模範となってしまったことです。第二には、ユダヤ人の迫害にも負けないで、純粋な信仰を守り通していたことです。パウロは、迫害を逃れて夜中にその町を脱出し、次の町ベレヤに向かいました。まだ教会には役員もいなかったでしょう。壮年会・婦人会・青年会などの組織もなかったでしょう。しかしその教会の信徒達が、迫害にも負けないで他の教会の信仰の模範となったのです。これが、御言をそのまま神のことばとして信じたテサロニケ教会に起こった神様の奇跡なのです。

★奇跡というと、病気が治った等の目に見えることと思ってしまいます。確かに神様は、病気をも癒される御方です。しかし神様は、神のことばを信じる私達を強くし、どんな反対にも微動ともしない強い信仰の人にして下さるのです。生活の中で様々な困難を覚えながら生きている私達に必要なのは、そのような神の力なのです。御言を信じ、神様の奇跡を体験する者になりましょう。

5月17日礼拝メッセージ「神様に喜ばれる生活」

第一テサロニケ (NO2)「神様に喜ばれる生活」2章1~12節 

                        仁井田義政 牧師 

  先週のメッセージの中で、テサロニケ人への手紙の中には、「優しい言葉が多く記されている」と話しました。今日の御言にも、その優しさが「父親のような愛、母親のような愛」として出て来ます。パウロのそのような愛の起源は、どこにあるのでしょうか。どうすれば私達もそのような愛に近づくことが出来るのでしょうか。

★パウロはテサロニケに来る前、ピリピの町で牢獄での地震の奇跡を体験していたことは先週話しました。その結果、看守家族が救われ洗礼を受けたのです。その後パウロは、ローマの市民権を持っていたために釈放されました。神様の素晴らしい救出の強い確信をもって、テサロニケに来たのは確実なのです。

★パウロには、テサロニケでの伝道で心がけていたことがあります。それは、他の巡回宗教者や巡回哲学者と同じように見られないことでした。当時のギリシャには、そのような地方を回りながら金品を得ていた人々が多くいたからです。そこでパウロは、アルバイトをして生活費を得ていました。パウロは天幕作りの技術を持っていたので、その仕事をしていたのでしょう。

★パウロは、テサロニケの人々に「母の愛のような、父の愛のような愛で接した」と記しています。7節で「母親が子供を育てるように、優しく振る舞い」8節では「命までも与えたいと思う程に」愛したことが記されています。さらには11節で「父がその子供にするように慰めを与え、厳かに命じました」と記されています。両方に優しさを現わす語が用いられているのです。

★パウロは「父と母のような愛で」愛しました。しかしそれは人に喜ばれる為ではないと言っています。人に喜ばれる目的の愛は、人に喜ばれなくなった時に破綻します。パウロは「しかし、私達の心をお調べになる神を喜ばせようと」(4節)と愛の目的を記しています。だからその言葉には、人に対してのへつらいも、むさぼりもないのです。  

★私達も「神様を喜ばせるために」というところに、全ての愛の起源と動機を置いて生活する時、全ての生活が改まるのです。クリスチャン生活の動機は、全て神様を喜ばせることにあるということを確認し、神様に喜ばれる生活をしましょう。

5月10日礼拝「響き渡る信仰」

第一テサロニケ (NO1)「響き渡る信仰」1章1~10節 

                  仁井田義政 牧師 

 先週で、パウロによる一番初めの手紙「ガラテヤ人への手紙」を話し終えました。今日からは、二番目の手紙「第一テサロニケ人への手紙」をお話します。パウロがテサロニケの町で伝道したのは49年頃で、その様子は使徒17章に記されています。パウロは、50年頃にテサロニケ教会に二通の手紙を書きました。この手紙には、愛と優しい言葉が満ち溢れています。

★パウロは、挨拶文の中で「あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています」と記しました。「信仰の働き」は伝道のことです。「愛の労苦」は、人々への愛です。「キリストへの望み」は、復活と再臨のキリストへの信仰のことです。テサロニケの教会の人々は、それを守るために必要な忍耐に満ちていることを私は知っていると記しているのです。そして「あなたがたこそ、神に愛されている人々、神に選ばれた人々である」と記しました。一年前に生まれたばかりの教会には、信仰の純粋さがありました。

★パウロは、言葉だけによるのでなく「力と聖霊と強い確信を持って伝えた」と記しています。パウロがビリピの町で逮捕されて獄中にいた時、地震が起こり、その結果、看守の一家が救われたということが、このパウロの強い確信につながっていたのかもしれません。テサロニケ教会の人々も、御言を「聖霊による喜びを持って受け入れ」ました。御言を受け入れただけではなく、苦難の中でも御言を実践する教会となっていたのです。

★多くの苦難の中でも動じることなく、御言を信じる純粋な信仰と、聖霊による喜びに満たされた生き方は、教会の模範でした。先週までお話しましたガラテヤの教会とは全く違っていました。テサロニケ教会の良い評判は、「あらゆる所に響き渡っている。」(8節)と記されています。「それは真の神を知って、偶像からきっぱりと離れ、生ける神に仕える者となったからである」とも記されています。

★テサロニケ教会は、一年前に生まれたばかりの赤ちゃん教会です。その教会が苦難の中にあっても「聖霊による喜び」に満ちていたのです。私達も聖霊に満たされた信徒となり、あらゆる教会の模範となりましょう。

5月3日礼拝メッセージ「この基準に従って進む」

ガラテヤ書(NO17)「この基準に従って進む」6章11~18節 

仁井田義政 牧師 

パウロは、今日の聖書の部分に、ガラテヤ人の手紙の結論を書きました。それは、「信仰の基準」です。

★12節では、「基準」に従わないクリスチャン達のことが記されています。それは、ユダヤ主義キリスト教の人々です。彼らは、十字架も復活も信じていました。しかし「割礼を受けることも必要だ」と教えたのです。自分達と自分達の教えを信じる人をユダヤ教の一派として、ローマからの迫害を受けないようにしようとしたのかもしれません。しかしパウロは、それは「見栄の為」と記しました。見栄とは、「人の目にどう見られているか」ということを優先するものです。この言葉で、一気に現代味を帯びることとなります。

★私達クリスチャンは、十字架に以外に誇りとするものがあってはならないとパウロは記しました。十字架を重要なことと信じる時に、「私に対して世界は死ぬ」と記されています。それは、世間の評価が気にならなくなると言うことです。「私も世界に対して十字架につけられた」とは欲望のことです。様々な欲望は、信仰の邪魔となります。「自分を十字架につけて殺さなかった」為に、どれほど多くのクリスチャンが、途中で信仰から離れるかしれません。

★十字架を誇ることは、クリスチャン信仰の基準です。「基準」は、ギリシャ語の「カノン」です。救いの基準となるものは、唯一キリストの十字架であると信じることが、キリスト信仰の基準なのです。それは、神の新しい創造なのです。つまり古い割礼の民であるユダヤ人ではなく、キリストへの信仰によって創られた新しいイスラエルこそが、真の神の民なのです。パウロはその人々に「平安と哀れみがあるように」と祈っています。

★パウロは、手紙の最後に至って「私は、この身にイエスの焼き印を帯びている」と記しました。焼き印とは、真っ赤に焼けた所有者の印を家畜に押すことです。絶対に消えないのです。それは、パウロが受けた迫害の傷のことかもしれません。イエス様も、十字架の上でその身に傷を受けられました。キリストの十字架の救い、これこそ信仰の「物差し」、つまりカノンであり「基準」です。十字架のみの救いを信じて、強く生きましょう。

4月26日礼拝「御霊に蒔く人」

ガラテヤ書(NO16)「御霊に蒔く人」6章6~10節

仁井田義政 牧師

 教会には牧師がおりクリスチャン達がおります。そうして男性を兄弟と呼び、女性を姉妹と呼びます。「教会に来ている人はみな家族です」と言う意味で、兄弟姉妹を使っているのです。私は初めて教会に行った時「教会には兄弟や姉妹で来ている人が多い」と勘違いしました。さあ、今日は「信仰の家族」についての御言です。

★教会は、牧師と信徒によって構成されています。牧師の起源は、旧約時代に神殿で従事していたレビ人に見ることが出来るでしょう。彼らは、土地を耕したり羊を飼ったりせず、神様にお仕えする奉仕に専心していたのです。その宮を支える為に献金をするようにされたのです。それを受けて「御言を教えられる人は、教える人と良いものを分け合いなさい」(6節)と記されているのです。それは献金のことです。牧師はその献金の中から生活の為の費用を得て、専心御言に仕える働きをするのです。

★6章8節には「自分の肉の為に蒔く者は、肉から滅びを刈り取ります」と記されています。「自分の肉の為に蒔く者」とは、自分の生活の為に全ての収入を使ってしまい、何とも思わない人のことです。そのような人は自分の欲望を優先させて生きるので、人生のどこかで誘惑に負けてしまいます。その結果は、信仰からも遠ざかり、兄弟姉妹としての教会の交わりからも遠ざかり、結果的に滅びを刈り取ることになるのです。

★「御霊の為に蒔く者」とは、教会の使命を知っている人のことです。教会は「福音の宣教」と言う霊の使命を持っています。教会に献金を献げるのは、御霊に献げることなのです。聖書は「思い違いをしてはいけません。・・自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(7~8節)と記しています。

★また「善を行なうのに飽いてはいけません」とも記されています。善は全ての人に対してすべきです。しかし「特に信仰の家族に対して行ないましょう」と聖書は勧めています。私達は神様の家族です。家族である私達が愛し合うことなくして宣教も成り立ちません。御霊は宣教の御霊です。忠実に献金を捧げることによって、しっかりと「御霊に蒔く人」になりましょう。

4月19日礼拝「御霊の人の証拠」

ガラテヤ書(NO15)「御霊の人の証拠」6章1~5節

仁井田義政 牧師

先週は復活祭でした。イエス様が復活の日や次の日曜日に弟子達に会われたこと、そしてトマスとの再会を見ても、弟子達に対するイエス様の愛は驚くばかりです。

★今日の聖書にあるように、ガラテヤ地方のクリスチャン達を「御霊の人」と呼びました。私達が「御霊の人」と呼ばれることがあったならば、「違います」と言いたくなるのではないでしょうか。パウロはこの手紙で、教会のクリスチャン達を本来あるべき姿に戻そうとしているのです。

★御霊の人とは、どのような人のことでしょうか。御霊の人と言うと、何か他の人とは明らかに違う人、預言をしたりする人、と勘違いしている人が大勢います。むしろ5章22節のクリスチャンの品性に関わる意味での「御霊の人」なのです。6章1節の「柔和」と5章23節の「柔和」は結びついています。つまり「御霊の人」とは、柔和さを備えた人と言うことなのです。

★パウロは、「御霊の人」はその柔和な心で過ちに陥った人を正してあげなさいと言っています。「過ちに陥った」とは、誘惑に負けた人のことです。私達は、誘惑に負け信仰を踏み外した人に対して案外きびしいものです。パウロは、「自分自身も誘惑に陥らないように」とも勧めています。

★パウロは、「互いに重荷を負い合い、キリストの律法を全うしなさい。」(2節)と言いました。キリストの律法とは、どんなことでしょうか。キリストの律法は、「私が・・愛したように」(ヨハネ15:12~13)と教えています。重荷を負わせるのとは違います。重荷を負い合うのです。悩み、困っている人の為に犠牲を払うのです。5節には「人には、それぞれに負うべき重荷がある」と言っています。

★2節の重荷は、「バロス」。5節は「フォールティオン」です。2節は他人の重荷であり、5節は人それぞれの重荷のこと、つまり使命なのです。ですから「御霊の人」とは、人の落ち度に対して強く自分の正しさを建てて攻撃することなく、その人が道を外して車輪が溝に落ちていたら、むしろ柔和に無償で助けてあげる人であり、それを神様からの使命として行なえる人のことなのです。私達も「御霊の人」として、柔和な心を持ちましょう。

4月12日イースター「イースターの喜び」

(イースターメッセージ)「イースターの喜び」マタイ28章1~10節

                       仁井田義政 牧師          

今日はイースターです。今年のイースターは、世界中に新型コロナウイルスが蔓延しているため、みんなで主のご復活をお祝いすることが出来ません。人類全体の規模において、これほど死を近くに感じることはなかったのではないかと思います。イエス様も死んで墓に葬られました。ところがその朝は、予想に反して墓から女性達が大喜びで帰って来ることになるのです。

★イエス様は、マタイ17章23節で「そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」と言っておられました。しかしその言葉を聞いても、弟子達は信じていなかったのです。全ての恐れは、イエス様の言われた言葉を信じないことから起こるのです。

★イエス様の墓にいた御使いは、「急いで行って弟子達にこのことを知らせなさい」(28章7節)と言いました。どうして、そのように言ったのでしょう。それは、絶望した弟子達がいるからです。神様は、弟子達を心配しておられるのです。女性達は、その言葉に従って「急いで」「大喜びで」「走って」(28章8節)弟子達の所に知らせに行きました。「大喜びで」の言葉は、ギリシャ語の「メガ」であり、大きな喜びを表わす言葉です。

★女性達は「大きな喜び」を伝えに急ぎ走りました。しかし弟子達は、女性達の知らせを信じないであろうことが予想されました。当時の人は、女性の言葉を信じなかったからです。弟子達に「よみがえられたイエス様を見たのか」と聞かれたら、イエス様の復活のお体を見てはいないので、「いいえ」と答えるしかない状態でした。すると、走っていた女性達をイエス様が「おはよう」と迎えられました。復活のイエス様でした。日本語の聖書には「おはよう」と訳されていますが、ギリシャ語は「喜びなさい」と言う言葉なのです。   

★日本も世界も、今コロナ問題で死の足音が忍び寄って来ているのを感じて、息を殺して自粛しています。自分達の身にせまる危険を感じて身を隠している弟子達のようです。しかし恐れの中で、キリストだけが希望を下さるのです。イースターの朝に、復活のイエス様は「メガ的な喜びで喜びなさい」と勧めておられるのです。私達もイエス様のご復活に感謝し、「大きな喜び」に満ちて、心から主を賛美しましょう。

(4月5日受難週メッセージ)「自分を十字架につけよ」

(受難週メッセージ)ガラテヤNO14「自分を十字架につけよ」5章16~26節

仁井田義政 牧師

 今日は受難週です。今日のメッセージの大切な所は、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉をさまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」という御言です。

★ヨハネ福音書5章39節を見ますと「聖書は私について証言しているのです」と話しておられます。確かにイザヤ53章を見ますと、そのことは明白なことです。つまりイエス様の十字架は、イエス様ご自身の考えではなく、父なる神様の人類救済の計画であったのです。その計画が、イエス様の十字架によって完成したのです。

★ですからイエス様は、地上の生涯を終わるにあたって「完了した」と十字架の上で叫ばれたのです。イエス様のように、壮絶な苦しみの中で「完了した」と言える人生があるでしょうか。さらには空虚の中にご自分を投げ出されるのではなく、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と、父なる神に死後の自分を完全に委ねられたのです。神の御心を完全に生きられた方の死の姿を、はっきりとそこに見ることが出来るのです。

★ガラテヤ書には、死ぬ時に「完成した」と言えない人生が記されています。多くの人は死が近づくと「人生でやり残したことがある」と後悔し、死後の自分に虚無を感じて恐れるのです。ガラテヤ5章19~21節に、肉の欲について「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 ねたみ、酩酊、遊興」と記されています。この中の罪汚れを行なったことのない人が一人でもいるでしょうか。肉の欲望によって人生を失敗し、生き直したいと思っても出来ずに死を迎えるのです。

★しかし、イエス様が私達の代わりに十字架について下さったのですから、私達も十字架に自分を付けてしまうことが大切なのです。それでは「自分をキリストの十字架につけてしまう」とは、どういうことなのでしょうか。それは、罪に満ちた私達の裁きをイエス様が身代わりとなって受けて下さったと信じることです。イエス様の十字架の苦しみは、私の罪のためであったと信じることです。そのことによって、私達は人生をやり直せるのです。

★ですから、自分の罪を全て十字架の上につけてしまわなければなりません。そして5章22~23節にあるように「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を求めて生きるのです。イエス様は私達の罪をご自分の身に引き受けて、十字架で滅ぼして下さったので、私達はこれからの人生を御霊に導かれて生きる人となりましょう。

3月29日礼拝メッセージ「十字架の恵みのもとに」5章2~15節

(メッセージ)ガラテヤNO13「十字架の恵みのもとに」5章2~15節

仁井田義政 牧師

今日の御言の中には、ぎょっとする程に厳しいパウロの言葉があります。異端的な教えは、キリストの十字架を無駄にしてしまう危険をはらんでいるからです。

★パウロは「もし割礼を受けるなら、キリストの十字架の救いは、あなたがたにとって何の益もないものになる」と言っています。なぜ割礼を受けるということが、キリストの救いを無駄にすることなのでしょうか。それは割礼というひとつの習慣によって救われようとすれば、神様は全ての律法を守ることを求められると言うのです。当然人間は、全ての律法を守り通すことなどできないのです。99%守ったとしても、キリストの十字架が無駄になるのです。

★イエス様は、十字架の救いを信じる時にどんな罪からも救って下さるので、割礼が有っても無くても関係がないのです。それなのに「救われるためには、割礼を受けることが絶対に必要だ」と言うところに間違いがあり、異端性があるのです。そう言っているパウロが、使徒16章3節でテモテに割礼を薦めている所があります。それは、救いの為でなく伝道の為でした。日本の教会でも、伝道の為に元旦礼拝、幼児祝福式(七五三)を行なっています。それは聖書には無いことです。救いの為ではなく伝道の為なのです。

★パウロは、律法によって人が救われるのではなく、イエス様の十字架を信じる信仰によって救われるということが、ユダヤ人達の躓きなのだと言いました。躓くという言葉は、「腹を立てる」という意味もあります。パウロは「それほど割礼にこだわるのであれば、皮膚を切るだけではなく去勢してしまいなさい」と過激な言葉を記しました。

★パウロは、ユダヤ主義者達が異邦人クリスチャン達を「なってない」と言って差別をしていることを聞いたのです。そのようにして、分裂を起こしている原因は、ユダヤ人達が異邦人を「自分達は正しい。あなたがたは間違っていると差別しているからではないか」と言っているのです。キリストの前に正しい人などは一人もいません。みんな罪人で、キリストの恵みによって救われたのです。その赦しと恵みに生かされているのが、クリスチャンなのです。教会は内部で争っていては弱体化してしまいます。私達は、イエス様の十字架の恵みにしっかりと繋がったクリスチャン生活をしましょう。