9月19日礼拝「忠実な兄弟達へ」

コロサイ書講解(NO1)「忠実な兄弟達へ」1章1~2節

                           仁井田義政牧師

 いま私達は、パウロによる手紙が書かれた順番をたどって聖書を読み、神の言葉を聞いています。61年頃にピリピ書とコロサイ書が書かれました。この頃に、ようやく初めて「マルコによる福音書」が書かれています。このコロサイ人への手紙の内容は、異端に気をつけなさいというものです。それらのことを踏まえて、コロサイ書の学びへと入っていきましょう。

★コロサイの教会は、パウロが伝道した教会ではありません。行ったこともないと思われます。おそらく、パウロが神の僕と認めているエパフラスの開拓によって出来た教会でした。その教会にパウロが手紙を出す権利があるのでしょうか。パウロはそのことを「神の御心によるキリスト・イエスの僕」と自己紹介し、手紙を書く権利を表わしています。使徒とは「遣わされた者」の意であり、使命と指導権があることをそれとなく主張しているのです。

★パウロは、自分が伝えていないからその教会の信徒達の信仰水準が低いなどとは考えてはいませんでした。そのことは「コロサイにいる聖徒達へ」と挨拶文を書いていることから見ても明らかです。「聖徒」とは、選ばれたという意味です。さらに「キリストにある兄弟達へ」と記しました。それは「キリストの救いの中にある兄弟達へ」という意味です。

★さらにパウロは、「私達の父なる神から恵みと平安がありますように」と記しました。クリスチャンは唯一の神を信じています。しかしその神は、宇宙の法則や宇宙の生命などとは違うのです。愛に満ち溢れた「父なる神」なのです。私達を子として扱って下さり、ひとり子のキリストさえ惜しみなく私達の為に与えて下さったのです。パウロは「その愛に満ちた父なる神から、絶えず恵みと平安があなたがたの上にありますように」と祈って、挨拶文を終わっています。

★そのような素晴らしいキリストの救いと、それを信じている素晴らしい信仰のコロサイ教会の人々を惑わそうとして、巧妙な異端が入ってきていました。この時パウロはローマの獄中にあったのですが、コロサイ教会に近づきつつある異端の様子を聞いて、居てもたってもいられずにこの手紙を書いたのです。私達も決して異端に騙されないように、祈りの時を持ちましょう。

9月12日礼拝「使徒パウロの祝祷」

ピリピ書講解(NO18)「使徒パウロの祝祷」4章21~23節

仁井田義政牧師

ピリピ人への講解メッセージも、今回をもって終わりとなります。ピリピの教会は、パウロが伝道したヨーロッパ最初の教会でした。その教会の信仰は、素晴らしいものでした。迫害と貧しさの中にあっても、しっかりとした信仰を持ち続けた教会でした。彼らの信仰をほめるパウロの言葉が溢れている手紙でした。今日の箇所は、手紙の終わりの挨拶と祝祷です。

★当時は、口述筆記が一般的でした。この手紙がパウロのものであることを証明する為に、最後にあたってパウロは自分でこの部分を書いたとみられます。またこの手紙は、教会の礼拝で朗読されるもので、個人に宛てたものではありません。

★パウロは、ピリピ教会の人々に「キリスト・イエスにある全ての聖徒達へ」と書きました。主にある者は「聖徒」なのです。それは選び分かたれたという意味が含まれる言葉です。またパウロは、「私と一緒にいる兄弟達がよろしくと言っています」とも記しました。パウロは、獄中でも孤独ではありませんでした。一緒にいる兄弟達が牢獄の内か外に居たのです。それは、ローマのクリスチャン達であろうと思われます。

★また「聖徒達とカイザルの家の人達がよろしくと言っています」とも記しました。カイザルの家の人とは、皇帝に仕える人達のことですから、ローマ人であることは明らかです。クリスチャンは何処に住んでいようと、どの様な民族であろうと、兄弟であり聖徒なのです。ですから世界を旅行して、どの国に行ってもクリスチャンのいる国であれば「ア―メン」と「ハレルヤ」で、心が通じ合うのです。

★パウロは、この手紙の最後においても祈っています。その中で「主イエス・キリストの恵みがあなたがたの霊とありますように」と祈りました。その中での「霊」は、クリスチャンの一番奥深いところを指しています。それは、心の底からキリストの恵みに満たされて生活されますようにとの祈りです。

★パウロは、この祝祷をもってペンを置きました。その祈りの内容は、現代のクリスチャンである私達にも充分に必要な内容です。私達も、全存在が関わる霊の深みにまで、キリストの恵みに満たされて生きましょう。

9月5日礼拝「余りある霊的祝福」

ピリピ書講解(NO17)「余りある霊的祝福」4章14~20節

仁井田義政牧師

 今日の御言にも、パウロに送られた献金に対してのお礼の言葉が記されています。その喜びの中で、パウロは献金の霊的な意味を教えました。私達も今日の御言で、献金の霊的な意味をはっきりと知りたいと思います。

★ピリピの教会は、何度もパウロに献金を送ってくれていました。パウロが「そのような教会はひとつもなかった」と言う程でした。当時の教会は、迫害の真只中にあり、貧しかったのです。しかしピリピの教会は、貧しくても送り続けてくれたのです。

★パウロは、献金を欲しがっていると誤解されては困ると思いました。そこでパウロは、私の欲しいのは献金についての霊的な理解力であると記したのです。そのことをパウロは「収支」という商業用語を用いました。例えば果物の栽培農家は、実がなるとそれを売って、果物の世話や肥料にかかった金額を引いて決算をするのです。献金とは神様に捧げる行為で、神様が捧げた人達に捧げた献金より余りある霊的な祝福を与えて下さるのだと、献金の霊的な面を教えているのです。

★パウロは、献金は「神様への香ばしい香りである」と教えました。それは、旧約時代の祭壇の上で燃やして捧げた動物犠牲に起因します。それを新約では、献金として捧げるようになりました。家畜を屠る時には、献げる人は心に痛みを感じました。それが神様を愛することの証拠となり、神様が喜ばれる香ばしい香りとなったのだと記しました。それと同じように、献金も神様を礼拝することに関わる大切な霊的な意味があるのだと教えたのです。

★19節に「神は、ご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要の全てを満たして下さいます。」と記されています。これは聖書のことばであり、神様の約束です。聖書には一箇所だけ「わたしを試してみなさい」(マラキ3:10)と記されています。神様はそのように祝福を約束して下さっているのです。献金は強制ではありません。しかし霊的なことなのです。

皆さんがこの霊的な真理を理解して、献金を献げることが出来ますように。

そうすることによって、皆さんの信仰にまた経済に、豊かな祝福が与えられるのです。

8月29日礼拝「主にある喜び」

ピリピ書講解(NO16)「主にある喜び」4章10~13節

仁井田義政牧師

今日の御言で、パウロはピリピの教会から届いた献金に感謝の言葉を記しています。そこに、当時の教会と信徒達の様子を見ることが出来ます。

今日の御言を解くカギとなるところは、10節の「私は主にあって非常に喜びました」です。

★ピリピの教会は、幾度も献金をしてパウロを助けました。しかしその献金が、一時途絶えたことがあったのです。おそらく教会に何かあったのでしょう。貧しい教会でした。その貧しさの中で献金をし続けて来てくれたのです。

★その教会から献金が届いたのです。パウロは、ピリピの教会から届いた献金に喜びました。ピリピ教会のエパフロデトが届けてくれたのです。「パウロがローマで獄中生活に入った」と知って、自分達も献金をして助けようとしたのだと思います。そのことによって、獄中生活のパウロの心が明るくなったのです。

★しかしパウロは、献金が届いたということだけで喜んだのではありません。それは、ピリピ教会の信徒達が主を愛して献金をしてくれたことに喜んだのです。主のためには獄中に入ることさえいとわない使徒パウロの窮乏を補うために捧げた献金だったからです。

★献金を捧げたピリピ教会の信徒達とパウロの上には、いつも主がおられるという信仰です。これがキリストにある交わりです。これがコイノニアなのです。遠くローマとピリピと言う距離的には離れていたとしても、キリストにある交わりには何の妨げもありません。ピリピ教会の信徒達の愛に満ちた心を知ったパウロは、獄中にあっても花が一面に咲いたように感じたのです。またこの感謝の手紙を受け取ったピリピの教会の信徒達も、迫害や極度の貧しさの中にあって、使徒パウロの喜びを感じて喜んだのです。

★私達も今、コロナの為に活動が制限され、不自由を強いられています。心が疲れ暗くなりがちな毎日です。ですから私達も「主にある」交わりを何よりも大切にし、祈り合い愛し合いましょう。

8月22日礼拝「平和の神と共に生きる」

ピリピ書講解(NO15) 「平和の神と共に生きる」4章8~9節

仁井田義政牧師

 ピリピの教会は、当時の異教社会の中で小さな教会として存在していました。そこにはギリシャの神々を祀る神殿があり、ローマの神々を祀る神殿もありました。さらにはローマ皇帝を神として祀る神殿まであり、その他にもエジプトの神もシリアの神も、礼拝されていたのです。その中で教会は存続し、成長して行かなければなりませんでした。パウロは、その教会に遺言的な言葉として、今日の部分を書きました。

★今日の部分は、「最後に」という言葉で始まっています。この手紙の最後と言う意味もありますが、それと同時にパウロの遺言と言う人もいます。いずれにしてもここでの「最後に」は、これだけは絶対に知って欲しいということを伝える文言なのです。パウロが絶対に知って欲しいと思って記したことは、異教文化の中でどう生きるかということです。

★わかりやすく言うと、イエス様も「カイザルのものはカイザルに、神のものは神返しなさい」(マタイ22:21)と教えられました。ピリピの文化には、キリスト教が伝わってくる以前に良い文化もありました。「それを認めて生活しなさい」と勧めているのです。例えば倫理道徳です。モーセの十戒の後半には「父と母を敬え、嘘をつくな、盗むな」などがあります。それらは、ローマもギリシャもエジプトもシリアも共通します。

★しかしパウロは、世の中の良いものを認めて生きると同時に、私から聞いたことを実行しなさいと教えています。十戒の前半は「唯一の神を信じて生きる」ことであり。新約的には、キリストの十字架を信じて生きることです。私達の神は、平和の神なのです。いたずらに異教徒達や異文化を争いに引きずり込んではなりません。

★パウロはこの所で、もし遺言であるとすれば「異教徒となるべくいさかいを起こすな。異教徒の文化に生きている人にも、愛に満ちた人がおり、親切な人もいる。柔和な人もいれば、寛容な人もいる。そういう人の評判の良いことは尊敬しなさい」と言うのです。クリスチャンだから、何でも反対というような尖った心では、異教社会で教会もクリスチャン達も生きてはいけないのです。しかしそれは妥協して生きることとは違います。神は平和の神なのです。良いものは良いと認めて、争うことなく生きて行きましょう。

8月15日礼拝「いつも主にあって喜びなさい」

ピリピ書講解(NO14) 「いつも主にあって喜びなさい」4章2~7節

仁井田義政牧師

 パウロは、十年前に開拓したピリピ教会を愛して、いつもその成長を祈っていたのです。そのような時に、ピリピ教会の二人の女性が対立していることを聞きました。しかもその二人は、ピリピ教会創設の時からパウロの伝道に協力した人達でした。パウロは、その解決の為にこの箇所を書きました。

★パウロは二人の女性の名を記しました。この手紙は、教会の信徒達の全員の前で読まれる手紙です。そこにこのように名前が記されるのは、異例と言えるでしょう。イエス様はこのような時に、マタイ18:15~17で「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、二人だけのところで責めなさい」と教えておられます。しかしパウロは、二人の争いを公にしました。ピリピの教会と二人を信じていたからでしょう。

★パウロは、二人の正義感から来る対立は、人間的な寛容さでは解決できないことを知っていました。その為に究極的な解決方法を記したのです。それは、「主にあって」解決することです。二人とも、主に集められた大切な人であることを認め合うことです。イエス様にとって自分の命を十字架に付け、その命を与える程に大切な人であることを互いに認め合うのです。

★そしてパウロは「主は近いのです」と書きました。それはキリストの再臨のことです。私達クリスチャンは、再臨の時に自分の大罪を主が赦して下さることを究極的に体験するのです。自分はキリストにその大罪を赦されるのに、赦して頂いた自分が他の人の罪を許していなかったとすれば、何と主の前に恥ずかしいことでしょう。

★争いの多くは、日頃の感謝が無いところから起こるのです。ですからパウロは「いつも主にあって喜びなさい」と記しました。私達の人生には、悲しいことや思うようにならないことが多いのです。それなのに、どのようにして「いつも喜ぶ」ことが出来るのでしょうか。それは、「主にあって」という方法によってです。そのためには、「何事も思い煩わないで、感謝を持って祈ること」です。そうすれば、「人の全ての考えにまさる神の平安が、あなたの心と思いを主にあって守られるのです」

人を許せない思いはありませんか。主にあってという言葉は、あらゆる問題からの解放の言葉です。いつも主にあって喜びましょう。

8月8日礼拝「使徒パウロの涙」

ピリピ書講解(NO13) 「使徒パウロの涙」3章17節~4章1節

仁井田義政牧師

 使徒パウロは、今ピリピの教会の信徒達にも涙をもって手紙を記しています。それは、人間に対する涙と共に天上におられるキリストに対する涙です。今日は、使徒パウロの涙についてお話いたしましょう。

★初代教会には、正しい信仰と間違った信仰が混在していました。それは、新約聖書がまだ書かれていなかったからです。最初の福音書マルコとピリピの手紙は、61年頃に書かれたものです。その混乱ぶりは、初代教会の指導的立場にあったペテロでさえ、異邦人との交わりに躊躇した程だったのです。パウロが、混乱を起こしてユダヤ教に引き戻そうとする人々を、3章2節で「犬に気を付けよ」と言っている程でした。

★パウロの伝えた信仰は、十字架のキリスト信仰でした。ユダヤ主義的キリスト教は、十字架のキリストに敵対する間違った信仰でした。「多くの人々が十字架のキリストの敵となっている」(3:18)と言っているのは、そういうことなのです。十字架のキリストを敵として歩むならば、その最後は滅びであり、地獄なのです。パウロは、涙ながらこのことを書いています。それは、人々が地獄に行ってしまうという悲しみの涙だけではなく、キリストの十字架まで無駄になってしまうという悲しみの涙なのです。私達罪人を愛してくださったイエス様の愛まで、踏みにじってしまうことになるからです。

★そしてパウロは、「信仰を自分の腹から、天国のキリストに向けよ」と勧めています。このところの「欲望」は「腹」です。「彼らの思いは地上のことだけである」とは、人間の利己愛と欲望のことです。クリスチャンの国籍は「天にある」のです。この世は私達にとって一時の旅であり、私達は異邦人なのです。

★パウロはクリスチャン達を「私の愛し慕う兄弟達、私の喜び、冠よ」と言っています。パウロにとって十字架のキリストを信じるクリスチャンは「愛し慕う、喜び、冠」なのです。それは、獄中のパウロを勇気づける「栄冠」なのです。牧師にとって、信仰を失っていく信徒を見ることほど辛いことはありません。その反対に信仰の喜びを生きている信徒を見ることほど嬉しいことはありません。それは牧師の栄冠です。パウロのこの願いは、イエス様の願いでもあります。私達も、しっかりと正しい信仰に立ちましょう。

8月1日礼拝「栄光を目指して」

ピリピ書講解(NO12) 「栄光を目指して」3章12~16節

仁井田義政牧師

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 今は東京オリンピック中です。今日の御言もマラソンに関する譬えで、信仰にとても大切なことが記されています。オリンピックには、多くの国々から選手達が栄冠を目指して来ています。各競技で金メダル受けるのは、たった一人です。しかし信仰生活のマラソンは全く違うのです。

★パウロは、「私はすでに得たのでもなく、完全にされているのでもありません。」と言っています。それを得るのは、復活の時なのです。ピリピの教会には、異端が入り込んでいました。「これを守れば、この儀式を受ければ、完全に復活に与かれる」というユダヤ主義的なキリスト教でした。その確信を得たいために、他の宗教では修行とか悟りを開くことなどが求められるのです。しかしパウロは、「私はそれら一切を必要としない」そして「私は栄冠を得るようにキリストに捕らえられている」と言っています。

★オリンピックのマラソンと信仰のマラソンと決定的に違うのは、走る全員が栄冠を受けることが出来るということです。つまり信仰のマラソンでは、順位ではなく、完走することが絶対的に大切なのです。後ろのものを忘れとは、4~6節のかつての栄光と罪のことであると思われます。

★マラソンを見ていると、先頭を走る人が後から走って来る人を気にすることがあります。しかし信仰のマラソンは、他人と自分を比べる必要がありません。なぜなら信仰のマラソンは、順位が大切なのではなく、ゴールを目指すことだけが唯一大切だからです。完走すれば、全ての走者に神様から栄冠を受けることができるのです。

★パウロは、私達が栄冠を得ることが出来るように、キリストが既に捕らえて下さっていると言っています。つまりイエス様が、私達と並走して下さっているのです。どんなに走ることが遅くても、決して叱咤しません。常に愛と恵みの言葉で、励まし続けて下さるのです。「私は栄冠を受ける為にキリストに捕らえられている。私は神様の恵みと愛の中に生きているのだ」と感謝しつつ生きて行くことこそ、クリスチャンが信仰の栄冠を受ける秘訣なのです。たとえ一番最後を走っていようと、並走して下さっているイエス様に感謝してゴールを目指しましょう。

私達もパウロと同じく、一心にゴールを目指して進みましょう。

7月25日礼拝「キリストの素晴らしさのゆえに」

ピリピ書講解(NO11) 「キリストの素晴らしさのゆえに」3章1~11節

仁井田義政牧師

 パウロは、3章1節で「喜びなさい」と勧めています。今日の御言は、クリスチャン生活にとても大切です。私達も、コロナ禍で心配事が絶えません。今日の御言に耳を傾けましょう。

★パウロは、「どうか、犬に気を付けて下さい。」と記しました。強烈な言葉です。さらに「悪い働き人に気を付けて下さい。」と続きます。つまりキリストの名を語るユダヤ主義的なキリスト教の異端が出ていたからです。 それは、「肉体だけの割礼の者に気を付けて下さい」との言葉で明らかです。
★パウロも、クリスチャンになる以前は人間的なものを誇っていました。彼は他の人と同じように、ユダヤ人という血統主義であり、パリサイ派という完全な律法主義者であり、律法を守るという聖さにおいては、ガマリエルの門下生としての学歴に自信を持っていました。それらは彼の人生において、神からも人からも愛されるために得で益としかならないことだったのです。

★今まで誇っていたそれらのものが、キリストを知った時に、それらが本当の信仰にとっては害になると分かったのです。神は律法を守る者を愛する神ではなく、むしろ律法を守れない罪人を愛する「哀れみの神」であることを発見したのです。ルターも、そのことを知るまでは修道院で難行苦行をしていました。しかし神は憐れみであり、「信仰による義」を知ったのです。

★パウロもルターも、罪人の自分を愛する神を知り、キリストを知って喜びに溢れたのです。人間的な誇り、生粋の血筋とか家系、財産をどれくらい持っているか、学歴があるか、何か特技を持っているか、人の役に立つ仕事をしているか等。そのような所に、安心と喜びをおいてはいけないのです。

★8節の「私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさのゆえに、それらのことを損と思っています。私はキリストの為に全てのものを捨てて、それらを塵あくたと思っています。」とパウロは宣言しました。私達も、キリストの愛を知る以前と以後とを、はっきりと区切るべきなのです。それが3章1節の「兄弟達よ、主にあって喜びなさい」と言う意味なのです。クリスチャン達が喜びの土台をしっかりとそこに据える時、喜びを失うことはないのです。私達も、キリスト・イエスに救われた素晴らしさを、人生のこのうえもない喜びとして、生きて行きましょう。

7月18日礼拝「戦友エパフロデトの紹介」

ピリピ書講解(NO10) 「戦友エパフロデトの紹介」2章25~30節

仁井田義政牧師

 パウロは、テモテの次にエパフロデトを紹介しています。紹介していると言っても、エパフロデトはピリピ教会の信徒です。それなのに紹介しているのです。彼が、ピリピ教会で高く評価されていなかったのかもしれません。パウロは、その彼を最高の言葉で紹介しています。

★エパフロデトは4章18節を見ると、パウロの所にピリピ教会から献金を届けてくれた人であったことが分かります。献金を届けた後にローマに留まり、パウロの釈放後に一緒に伝道したいと思っていたのかもしれません。

それが、今日の2章25節に出てくる「しかし」にかかっているのかもしれません。

★パウロは、エパフロデトを「私の兄弟」と紹介しています。それは、パウロと彼が信徒と先生の関係ではなく、兄弟の関係であり「同労者」であるということです。それは、福音伝道の為に同じ働きをする人という意味です。また「戦友」とも紹介しています。それは、福音伝道の戦いの為には命の危険さえ覚悟して行動する人のことです。それが迫害時の伝道でした。

★なぜパウロは、ピリピ教会にこのような紹介をしなければならなかったのでしょうか。それは、エパフロデトが生死をさまよう病気になったことによります。そのことがピリピ教会に「彼は志を遂行できずに、ホームシックになっている」という噂が伝わったのです。噂は尾ひれがつきやすいものです。ある時、私の噂がアメリカの教会に伝わりました。「仁井田先生は、幸子先生に結婚記念にグランドピアノを購入してあげた」というものでした。しかしそれは、家内が子供の頃に買って貰ったピアノでした。

★パウロは、神様が彼の病気を癒して下さったことを伝えました。エパフロデトは、迫害の時代に囚人パウロに、献金を届ける働きを主の使命として引き受けたのです。彼は、「私に任せろ」と豪語してピリピ教会を出発したのかもしれません。しかしその彼に「ローマでホームシックにかかっている」との噂があったので、ピリピ教会では評価されていなかったのかも知れません。ですから2章3節の「互いに人を自分よりも優れた人と思いなさい」とすすめたと考えられます。

私達はクリスチャンとして、「互いに認め合い、尊敬し合う」者となりましょう。