11月17日礼拝メッセージ「嘆きと悲しみと涙からの救い」

(礼拝メッセージ)「嘆きと悲しみと涙からの救い」マルコ16章9~20節  

                                                                            仁井田義政 牧師

 マルコによる福音書は、16章8節で終わっていると思われます。9節からはマルコが書いたのではなく、別の人が紀元100年頃に追加文として書いたものだと言われています。神の言葉に人の書いた追加文を載せておいて良いのかという疑問は残ります。そのためにかっこ付きで記されています。またこの部分は、破損した部分を補ったのかも知れないという説もあります。そういう訳で、今週と来週は二つの追加文からメッセージを行ない、マルコによる福音書講解メッセージの終了と致します。

★どの物語も「その後にどうなった」という説明があって落ち着くのです。童話の「ウサギとカメ」でも足の遅いカメが、足の速いウサギが油断して寝ている隙に追い抜き、最後は勝利して喜ぶことで完成するのです。ところがマルコによる福音書では、イエス様の復活後「恐ろしかった」で終わっているので、文としては未完成の感が残るのです。

★弟子達は、マグダラのマリヤの「私は今、復活の主に会いました」という知らせを信じませんでした。マグダラのマリヤが、イエス様によって7つの悪霊から救われた人であることはマルコにはなく、ルカ8章2節からの引用です。また、エマオの二人の弟子のこともマルコにはなく、ルカ24章13~35節の引用です。また14節に「弟子達の不信仰とかたくなな心をお責めになった」と記されています。それは叱られたのではなく、お責めになられたことを示しています。

★イエス様の死なれた後「嘆き、かなしみ、泣いて」いたのは、イエス様が殺されてしまった悲しみだけではなく、自分の立場の不安さによってでもありました。イエス様は、人間の「嘆き、悲しみ、涙」に解決を与える為に復活されたのです。またイエス様は、自分を痛めつけた人々に復讐する為にではなく、「嘆き、悲しみ、泣く」人々を救い出し、勝利を与えるために復活されたのです。

★ですからあなたが「嘆き、悲しみ、泣いて」いても、イエス様は、あなたを救い出すことが出来るのです。復活のイエス様は「御言に伴うしるしをもって、御言を確かなものとされた」(16:20)と記されています。かたくなな心を捨て去って、復活されたイエス様を信じましょう。

 11月10日礼拝メッセージ「ガリラヤで待たれる意味」

(礼拝メッセージ) 「ガリラヤで待たれる意味」マルコ16章1~8節

仁井田義政 牧師

今日の聖書の箇所は、イエス様が墓から甦られた驚きが記されています。死んだ人が甦るなどと言うことは、二千年前の人々にとっても尋常なことではありません。イエス様を信じてガリラヤからついて来た女性達にとっても、信じられないことでした。当然、その事実に女性達は驚きました。その驚き慌てふためく女性達に、御使いは「驚いてはいけません」と言われました。しかし女性達は「恐れて、墓から逃げ去った」と記されています。

★イエス様が殺されたことで、男の弟子達は、自分達にも及ぶ可能性のある迫害に怯え、部屋に閉じこもってしまいました。女性達は土曜の夜、つまり安息日が終わった瞬間に行動を開始し、香油を買って日曜日の朝に備えたのです。

★女性達は墓に向う途中で、墓の前の数トンもある石の戸を思い出しました。女性の力で転がすことは不可能です。墓に着くと、すでに石は転がされていました。驚いて墓の中をのぞくと、御使いがいて「驚いてはいけません。あの方は甦られました」と言いました。しかし女性達は「すっかり震え上がって、気も転倒し」逃げ去ってしまいました。イエス様が「三日目に甦る」(マルコ10:34)と言われた御言を信じていなかったからです。

★御使いは、イエス様があなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこであなたがたに会いますとも言いました。それはペテロの裏切りと関係しています。「あなたは今夜、私を知らないと三度言います」と言われたことと関係しています。ペテロはガリラヤの漁師でしたが、三年前に従ったのです。結末は裏切りでした。しかし復活のイエス様は、ペテロと他の弟子達をガリラヤに戻し、信仰のやり直しのチャンスを与えてくださったのです。

★イエス様の御体は、墓の中にはありませんでした。甦られたのです。そのイエス様はガリラヤに先回りして、ペテロ達に「さあ、ここからやり直そう。ここから始めよう」と言って下さる御方なのです。イエス様は墓から甦られました。そしていつも私達と一緒におられるのです。日曜日は、イエス様が甦られた記念の日です。そのイエス様を心から礼拝しましょう。

 11月3日礼拝メッセージ 「アリマタヤのヨセフ」

(礼拝メッセージ) 「アリマタヤのヨセフ」マルコ15章42~47節

仁井田義政 牧師

今日の聖書の箇所は、イエス様の埋葬の様子を記している所です。そこに出て来るのが、アリマタヤのヨセフです。彼はイエス様を死刑に定めた側にいた議員の一人でした。しかし彼は、密かにイエスを信じていました。そのことを公けにするのを躊躇していたヨセフが、イエス様が十字架の上で死をむかえられると、勇気を出して「イエス様の死体を引き取らせてください」と願い出て、総督ピラトから了承を取り付けました。

★その時のヨセフは、「思い切って」と記されています。それはヨセフの決意でした。彼は議員という立場であり、その立場が彼の家の経済も支えていたことでしょう。彼には家族を守る責任もあったでしょう。ですからイエス様を密かに信じていても、イエスの殺害に表立って反対できないでいたのでしょう。エルサレムにイエス様の墓があるわけもなく、このままでは野ざらしにされてしまうでしょう。時は安息日が始まる夕方の時刻であり、もう心の中だけの信仰では我慢できず、「思い切って」申し出たのです。

★当時の裕福な人は、自分と家族の為に大きな洞窟の墓を作りました。その墓に、最初にイエス様を葬ったのです。その時、もう一人の隠れた弟子ニコデモが葬りの為に、没薬とアロエを混ぜた物を三十キロも持って来ました。十二弟子達は、自分の身の安全のために、十字架のイエス様を見捨てて逃げてしまっていました。また当時、政治的にも社会的にも何の力もない女性達が、途方に暮れてイエス様の死を見ていました。そのような中、ヨセフは自分と家族の為に作った墓に、イエス様を家族として葬ったのです。

★イエス様を埋葬したアリマタヤのヨセフは、イエス様を十字架に付ける側の人間でした。そのヨセフがイエス様の前に出てきたのです。ヨセフは、自分と家族の為の新しい墓に、まずイエス様に入って頂いたのです。家族として受け入れたのです。イエス様の十字架の時に逃げてしまっていた十二弟子達も、その後イエス様の愛によってクリスチャンとなりました。イエス様はその様に、全ての人が救われることを願っておられます。イエス様はあなたをも愛しておられます。あなたもアリマタヤのヨセフのように、思い切ってイエス様を信じる者になりましょう。

 

(10月27日礼拝メッセージ) 「この方は神の子であった」

 (礼拝メッセージ) この方は神の子であったマルコ15章33~41節  

                       仁井田義政 牧師

 先週に続き、イエス様の十字架の箇所です。先週は、イエス様が十字架につかれた午前9時から12時までのところでした。今日の箇所には、12時から午後3時までの十字架上のイエス様のお姿が記されています。特に、午後3時にイエス様が叫ばれた言葉を中心にお話しいたします。

★聖書には、12時になった時「全地は暗くなった」と記されています。突如として、雲が湧き出て一帯を覆ったのです。それは神様の怒りを表わしています。聖書には、暗闇が神様の怒りとして幾度も記されています。出エジプト記10章21~22節も、暗闇での裁きでしたし、イエス様の話された「トラントの譬え」でも、不忠実な僕の裁きも「闇に放り出だされる」と言っています。暗闇は、人々をも神の御子をも覆いました。そこに神様から捨てられている人間と、人間と連帯しておられるイエスの姿があるのです。

★午後3時になると、イエス様は「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と突然、沈黙を破って叫ばれました。イエス様は、十字架上で7つの言葉を話しておられます。マルコはその内の二つを記しています。「エロイ・・」はヘブル語でもギリシャ語でもありません。イエス様が話しておられたのは、アラム語です。それがそのまま、初代教会で大切にされていたことがわかります。イエス様の十字架後30年くらいの教会でも、イエス様のこの十字架の言葉が大切にされていたのです。

★イエス様の死刑を執行したローマの百人隊長は、イエス様の十字架の正面に立って見ていました。イスラエル人から見れば、百人隊長は異邦人であり、聖書も神も知らない無知の人であると思われていました。その百人隊長が、イエス様を「この方はまことに神の子であった」と告白したのです。マルコによる福音書は「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」(1章1節)で始まっています。つまり、イエス・キリストが神の子であると言うことを明らかにするために書かれたのです。ローマ人の百人隊長が、異邦人として世界で初めて「この方はまことに神の子であった」と告白したのです。百人隊長が「イエス様の正面に立って」いたからです。あなたもイエス様の正面に立って、真のイエス様を見る人になりましょう。

(10月20日礼拝メッセージ) 「主は虫けらのように」

(礼拝メッセージ) 「主は虫けらのように」マルコ15章21~32節 仁井田義政 牧師

 今日の聖書の箇所は、イエス様がゴルゴタの丘に引いて行かれ、十字架が立てられるところです。それは神の子イエス様が、虫けらのように扱われるところです。そのお姿を見るようにと、聖書はその様子を記しています。

★当時は死刑の判決を受けた者は、十字架を背負って街中を歩かされました。それは群衆に見せしめとするためでした。すでに屈強な兵隊たちから鞭と暴力を受けていたイエス様は、そのゴルゴタの道で幾度も倒れました。そこにクレネ人シモンがいました。名前がシモンというユダヤ人名なので、エルサレムの過越しの祭に来たと思われます。兵隊は無理やりイエスの十字架を背負わせました。この人もクリスチャンになったと思われます。それは福音書が書かれた時には、彼の二人の息子たちは有名なクリスチャンだったと思われるからです

★イエス様が死刑場に着くと、兵隊はイエス様に没薬を混ぜたブドウ酒を与えようとしました。それは鎮痛剤で受刑者への情けなのです。しかし、イエス様はそれを許否されました。それは激痛をそのまま受け取るためです。人々は、激痛に苦しむイエス様をあざ笑いました。道行く人々も、祭司長も民衆も「お前は『神の子』とか『王』とか言ったのだから、自分を救え」と言って笑ったのです。十字架の上に「ダヤ人の王」と書かれた罪状書が一層イエス様の悲惨さを現わしていました。

★虫けらのように扱われる姿こそ、救い主のしるしでした。(詩篇22:6~8) 虫けらのように、ゴキブリのように忌み嫌われて、容赦なく打ち叩かれ、捨てられるイエス様が、旧約聖書に預言された救い主であったのです。上記の詩篇の中には「頭をふり」まで記されており、それが成就したのです。人々は「神に救い出させよ、彼のお気に入りは神なのだから」と言ってはやし立てましたが、イエスは救い出されることを一切願いませんでした。苦しむことを最後の一滴まで漏らすまいと、苦しみを追い求められたのです。

★この御方を人々はあざ笑いました。イエス様はその中で十字架についておられたのです。私達は、そのお姿を今日の礼拝で見たのです。それでも「十字架から降りてきて、自分を救ってみろ。そうしたら信じよう」と言えるでしょうか。イエス様は絶対に十字架から降りて来られません。ですから私達は、イエス様をあざ笑う人ではなく、信じる人になりましょう。

10月13日礼拝メッセージ「茨の冠の王イエス」

(礼拝メッセージ)「茨の冠の王イエス」マルコ15章16~21節

                        仁井田義政牧師

 ピラトの官邸において、イエス様は政治犯として極刑が確定しました。ローマに対する政治犯の極刑は、十字架刑です。ローマ人にとって十字架刑に決まった者は、人間として扱いませんでした。イエス様も兵士達のおもちゃにされたのです。

★ピラトの庭で兵隊に囲まれたイエス様は、既に三回の裁判にかけられていました。①大祭司②領主ヘロデ③ピラトの官邸での裁判です。その裁判の後、イエス様は激しい鞭打ちにあっています。この時に命を落とす者がかなりあったと言われています。兵隊に渡されたイエス様は、肉体的限界であったことに間違いありません。

★ローマ兵に渡されると、全部隊が招集されました。その目的は、イエスをいたぶり楽しむためでした。全部隊とは、ギリシャ語の「スペイラン」で600人の兵士から構成されていました。その半分と見ても300人が集まったのです。兵士達はイエス様に紫のマント、茨の冠、王の権威の象徴である笏の代わりに葦の棒を持たせました。そうして「王様万歳」とからかったのです。

★イエス様は、大祭司の庭で想像を絶する屈辱を受けました。(14:65)今回で二度目です。神の御子イエス様が、この屈辱にじっと耐えられたのです。一言も兵隊への悪口も言われなかったし、命乞いもしませんでした。何故でしょう。それはイエス様が、私達の罪を背負って身代わりとなり、罪の裁きを受けているという自覚と確信に満ちていたからです。

★イエス様は私達の救いを完成させる為に、御自分の自尊心も、神の子としての名誉も、全て犠牲にされました。肉片が飛び散る鞭を受けながらも、300人から600人からなる兵士達の嘲笑を受けながらも、そのあざ笑いを一身に受けて耐えられたのです。まるでそのようにされるのを自らが望んでおられるかのようです。そうです。イエス様はそれを強く望んでおられたのです。私達人間のあらゆる苦痛を自分の身に引き受けて下さっていたのです。

★私達はそのイエス様の愛に応えるために、私達も苦痛を受ける覚悟で生きているでしょうか。むしろ少しの苦痛でも引き受けることを避けて生きていないでしょうか。私達もイエス様の為ならば、喜んで苦痛を引き受けるクリスチャンとなろうではありませんか。

10月6日礼拝メッセージ「主の沈黙とピラトの驚き」

(礼拝メッセージ)主の沈黙とピラトの驚きマルコ15章1~15節

仁井田義政牧師

イスラエルの最高裁で、イエス様の死刑が確定しました。その後、大祭司によってローマの総督ポンテオ・ピラトの官邸に送られました。イスラエルはローマの植民地だったので、ピラトによる裁判を受けなければならなかったのです。ピラト官邸における裁判も、不思議な裁判となりました。それはイエス様の沈黙にありました。今日はそのイエス様の沈黙と、そこから見えて来る救いの真理に心を留めましょう。

★大祭司の庭での裁判の後、イエス様は人々からリンチに遭いました。もう既に顔も、見るも無残に腫れあがっている状態だったでしょう。イエス様は縄で縛られて、犬のようにピラトの前に立たされたのです。ピラトには「イエスはユダヤ人の王と言っている」と、その罪状が伝えられていたはずです。罪状は、大祭司の庭の裁判では「自分を神と等しいと言った」という宗教的罪でしたが、ピラトの所では「イエスはユダヤの王と言った」という政治犯に変えられていました。

★イエス様はピラトの「あなたはユダヤ人の王ですか」との質問に、はっきりと「その通りです」と答えられました。大祭司の裁判でも「あなたは神の子キリストか」との問いに「私はそれです」とはっきりと答えられました。両裁判の共通していることは、その一言以外は「沈黙」をし続けたことです。裁判で被告人は、必死になって自己弁護するものです。

★それにしてもなぜイエス様は、沈黙を続けられたのでしょうか。それは、イエス様を裁こうとしている御方が、父なる神様であることを知っておられたからです。イエス様は、私達の全ての罪を身代わりとなって引き受けて下さったのです。そのために父なる神様に裁かれるのです。自分を弁護して無罪とでもなれば、私達人間を救う神様の計画は崩れ去ってしまうのです。

★ですから、被告人の沈黙が続く前代未聞の裁判となったのです。ピラトはその沈黙に驚きました。私達も、今日の御言に現わされているイエス様の沈黙に驚かなければなりません。イエス様は私達をそれほど愛しておられるのです。そのイエス様の愛を受け取る人になりましょう。

9月29日礼拝メッセージ「鶏が鳴きペテロは泣いた」

(礼拝メッセージ)「鶏が鳴きペテロは泣いた」マルコ14章66~72節 仁井田義政牧師

 ペテロは、イエス様が「あなたは今夜、三度わたしを知らないと言う」と預言された通りに、イエス様を三度も否定してしまいました。その時ペテロはイエス様の言われたことを思い出し、イエス様を見ました。するとイエス様もペテロを見ました。イエス様の目とペテロの目が合いました。そのことは、ルカ22章60~62節に記されています。そのようなことを心に置きながら、今日の御言を見ていきましょう。

★イエス様が大祭司の家で夜中の裁判を受けている間、祭司長の家の庭で兵隊や群衆が、火を焚いて暖を取っていました。寒さが身に染みる夜だったからでしょう。ペテロも闇に紛れて焚火にあたっていました。しかし火に照らされたペテロの顔を、大祭司の女中が凝視し「あなたもナザレ人イエスと一緒にいた」と言ったのです。それに対して、ペテロは「あなたが何を言っているのか分からない」と動揺し、即座に否定しそこを逃げ出しました。

★しかし女中は着いてきて、しつこく「この人はイエスと一緒にいた」と叫んだのです。ペテロはそれを否定しました。これで二度目です。今度は女中の騒ぎを聞いた複数の者達が「あなたはイエスの弟子だ、その証拠にガリラヤ訛りがある」と言い出しました。ペテロは「その人を知らない」と否定しました。その時、二度目の鶏が鳴いたのです。するとイエス様はペテロを見、ペテロもイエス様を見ました。二人の目と目が合いました。イエス様の目は慈愛に満ちていました。

★その時「ペテロは泣き出した」と記されています。イエス様は、既に死刑が宣告されていました。その御顔は、兵隊達に殴られ唾を吐きかけられ、腫れあがり無惨な状態でした。しかしその御顔には一つの迷いも見えませんでした。恐怖で嘘をついてしまった自分とは、全く違ったイエス様の御顔を見たのです。イエス様の御顔には勝利が満ちていました。

★ペテロに対して、イエス様は「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と言われました。その優しい目でした。ペテロはその愛の目を見て激しく泣いたのです。イエス様はペテロを許してくださいました。そのように、弱い私達のためにもいつも愛して祈って下さっています。そのイエス様をいつも信じ続けようではありませんか。

 

9月22日礼拝メッセージ「あなたはキリストですか」

(礼拝メッセージ)「あなたはキリストですか」マルコ14章53節~65節 仁井田義政牧師

イエス様は、ついにゲッセマネの園で逮捕されました。夜中にもかかわらず、イエス様に対する裁判が即刻行なわれたのです。弟子のペテロは、その様子を人々に紛れながら見ていました。この裁判で「あなたはほむべき方のキリストですか」と質問されました。それにイエス様は「わたしは、それです」とはっきりと答えられました。今日の御言の中心はそこにあります。

★イスラエルの指導者達は、イエス様を殺害することを数年前から決めて命を狙っていました。彼らはいみじくも神様に仕える者達です。その立場上、彼らは正義のある裁判をしたように見せなければなりませんでした。祭司長達は、人々にイエスが犯罪者であるという証言を求めました。しかし勝手な証言ばかりで、どれも矛盾してしまうのでした。証言にならない証言と、反論しないイエス様に、大祭司は業を煮やして「あなたはキリストですか」と質問しなければなりませんでした。

★大祭司の質問に、イエス様は「わたしは、それです」と答えられました。今日の御言の中心は、この大祭司の質問に答えられたイエス様の言葉の中にあります。「わたしは、それです」と言われたイエス様の言葉の原語は、「エゴ―、エィミー」と言うものです。自分が神の子キリスト、救い主であることは、イエス様の絶対に譲れないことなのです。

★イエス様の「わたしは、それです」との言葉に、大祭司は勝利を確信しました。イエスを死刑にする理由を引き出したのです。大祭司は衣を引き裂き怒りを現しました。衣を裂く行為は、この判決は絶対に元には戻せないことを現わすものでした。つまり死刑が決定したのです。そこにいた全員が大祭司の声に同調し、「イエスは死刑だ」と叫びました。イエスがキリストだと言うのは、嘘だと確信したのです。その後の彼らのイエス様に対する仕打ちは、唾を吐きかけ、顔に布をかぶせ叩き「いま叩いたのは誰か、言い当ててみよ」と言い、また役人達は、イエス様の顔を平手で打ちました。

★イエス様は、私はキリスト(救い主)だと言ったため殺されました。イエス様は、命をかけて自分が救い主であることを宣言されたのです。私達はイエス様を殺す側の人とならず、イエス様を救い主と信じる人になりましょう。

 

9月15日礼拝メッセージ「人々の恐れの中に立つイエス」

(礼拝メッセージ)「人々の恐れの中に立つイエス」マルコ14章43~52節

 仁井田義政牧師

今日の御言は、イエス様が逮捕されるところです。ユダは既にイスラエルの指導者たちや、ローマの兵隊たちと厳密な打ち合わせをしていました。人間の行動は、常に恐れが動機となり得ます。ゲッセマネの園にも、人間の様々な恐れが渦巻いています。しかしイエス様には、全く恐がありませんでした。その偉大なお姿を、今日の御言で見ていきましょう。

★なぜイエス様を捕えるために、剣やこん棒を持って来たのでしょう。イエス様が怖かったからです。暗闇でイエス様を捕らえ損ないでもしたらどうなるかとユダも怖かったでしょう。兵士達にイエス様が確実にわかるように、「わたしが接吻する人がイエスだから、その人を捕らえよ」と打ち合わせをしていました。イエス様の弟子達も先ほどまで眠かったのに、ペテロは眠気から覚め戦闘モードに入り、兵士に剣で切りかかりました。ペテロも怖かったのです。また亜麻布一枚まとった青年が丸裸で逃げて行ったことが、今日の聖書の箇所に出ています。怖かったからです。

★祭司長・律法学者・長老達も、イエス様に自由に行動されることを恐れました。だから暴力によってでもイエス様の言動を封じようとしたのです。ローマ皇帝も、その支配地域でイエス様と弟子達が暴動を起こす可能性のあることが怖かったのです。だから軍を用いてでもイエス様を逮捕したのです。弟子達は弟子達で、イエス様とこれ以上一緒にいると自分達の身に危険が及ぶことを恐れました。彼らも逮捕されたなら拷問と死が待っていることが怖かったのです。だから逃げたのです。

★しかしイエス様だけ恐れませんでした。ペテロが切りかかって切り落とした兵士の耳を、奇跡的な御力で元通りに治してあげました。また自分の弟子に、暴力を振るうことを許しませんでした。イエス様は御自分の死で、聖書の言葉が実現すると確信しておられたのです。 

★人々の目には、イエス様は自分を「神の子キリスト」と言いながら、自分の命を守る力さえない人のように見えました。弟子達もそうですだからみんなイエス様を捨てて逃げたのです。人々の心の中には、それぞれの立場で恐れが存在していました。その恐れが、一人の人の殺害にまで向かってしまったのです。イエス様の恐れない姿をゲッセマネの園で見ることのできる人は幸いです。イエス様は偉大な神の御子です。迷いも恐れもない真実な救い主なるキリストです。そのイエス様をしっかりと信じましょう。