8月9日礼拝「御霊を消してはならない」

第一テサロニケ (NO14)「御霊を消してはならない」5章19~22節 

 

どんな時にも喜んでいる。絶えず祈る。全ての事に感謝する。これは先週のメッセージでした。なんと素晴らしい生き方でしょうか。それでは、どうしたらそのような生き方が出来るのでしょうか。今日の御言は、その秘訣を教えています。

★今日の御言は、「御霊を消してはならない」と教えています。マタイ25章に、花婿を迎える十人の灯を持った女性達が出てきます。五人の灯は途中で消えてしまい、あとの五人は予備の油を持っていたので、灯は消えなかったというイエス様の譬です。またイエス様の死に失望した弟子達が、エマオに帰る途中で、近寄って来た旅人の話を聞いた時に「心が燃えた」(ルカ24:32)と記されています。そのように、聖霊は炎に譬えられています。

★また「預言をないがしろにしてはいけません」と教えられています。預言とは御言のことです。エマオの弟子達の心が燃えたのは、旅人の姿をした復活のイエス様から御言を聞いた時でした。御言はそれを正しく伝えられ、正しく聞かれる時、私達の霊を燃え立たせる力を持っています。礼拝のメッセージは、聖霊を通してのイエス様の言葉です。ですからメッセージを聞いても聞かなくても良いなどと、預言を軽んじてはいけないのです。

★だからと言って、全ての牧師や宣教師が正しく聖書の話をしているとは限りません。ガラテヤ書1章6~9節に、すでに偽預言者が人々を信仰から落としていたのです。ですから「すべての事を見分けて、本当に良いものを堅く守りなさい」と教えられています。それだけではなく「悪はどんな悪でも避けなさい」と勧められています。

★テサロニケ時代は迫害の時代です。それから比べるならば、私達の日常生活の悩みや苦しみは、少し熱めのスープを飲むようなものです。あの煮え湯を飲まされるような時代に通用した御言が、現代の私達に通用しないはずはありません。いつも御霊の火を消さなうように気を付け、神様が語られる御言を重要なことと認識しているならです。そして御霊に満たされた生活をするのです。御霊が消えたような生活をしてはなりません。

★困難の中にあっても強く生きることの出来る秘訣は、御霊の燃え続けるクリスチャン生活をすることです。御霊に満たされた生活をしましょう。

8月2日礼拝「悪には悪で報いず」

 

第一テサロニケ (NO13)「悪に悪で報いず」5章14~18節 

8月に入りました。本来ならばこれから夏の行事等で、楽しいはずの月です。しかし今年は、そのような行事は全て中止となりました。日常の生活においても自由に行動が出来ず、不満やいら立ちが鬱積しているのではないでしょうか。今日の御言は、日常生活の薬となる御言です。 ★テサロニケ教会の信徒達は、愛においても信仰においても素晴らしい人達でした。今まで学んだ中では、そのように感じました。しかし例にもれず、テサロニケ教会にも「気ままな者、小心者、弱い者」がいたのです。教会は、その人達を助け励まさなければなりません。それは、牧師だけの働きでなく、信徒全員の働きとならなければなりません。 ★今日の御言は、「悪に対して善で」応えなさいと教えられています。初代教会つまり一世紀の教会は、悪意の荒波に揉まれる状況でした。キリスト教は、ローマの非公認宗教として迫害されたのです。また教会内に、悪意をもった異端が襲いかかりました。しかし教会は、主の教えとして「悪には善をもって勝利するように」と教えました。一世紀の教会は、それを厳守しました。その結果、迫害されながらも消滅させられることなく、ついにローマに勝ったのです。御言を守る者には、主が共におられて勝利させてくださるのです。 ★万事が思うように行かず、気が滅入る時の生活の秘訣はあるのでしょうか。聖書は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事に感謝しなさい。」と教えています。今まで私も、気難しい人や意地悪な人にも会いました。しかしそれが私にとってマイナスになったかというと、そうではなくその人に対応するために知恵を求めて祈り、その人と会わなかった以前より知恵が与えられました。 ★私達は神様の支配である「神の国」に生かされていますが、何の問題もない天国とは違います。ですから私達を憂鬱にするいろいろなことが日常に起こります。しかし私達も一世紀のクリスチャン達のように御言を実践するならば、必ず問題は問題でなくなり、解決し勝利するのです。私達も悪に悪で報いず、むしろ善をもって勝利するクリスチャンとなりましょう。

7月26日礼拝[互いの間に平和を」

第一テサロニケ (NO12)「互いの間に平和を」5章12~13節 

 

今日の御言は短い箇所ですが、クリスチャンが信仰生活を勝利していくために大切なことが記されています。

★パウロは、ここで「お願い」をしています。テサロニケ教会がその素晴らしさをこれからも「続ける為」でした。またそれは、教会にとっても大切なことでした。そのこととは、「あなたがたを指導し、訓戒する人々を尊敬する」ことです。この時代は、長老と言われた人々が教会の指導をしていました。御言を教える長老と、教会を管理する長老とがいました。現代の牧師と役員に相当するでしょう。

★その働きは、指導と訓戒です。「指導」は、心を砕くとも訳せる言葉です。心を砕いて指導するのです。テサロニケに立てられた長老は、教会の歴史がないため信仰を持って間もない人達でした。その人達が、迫害の真っただ中で教会を指導し、信徒達を訓戒したのです。教会の指導者達は、イエス様によって立てられたのです。

★パウロは「主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい」と教えました。これらの長老は、自分で長老になったのではありません。「主にあって」指導し訓戒する人となったのです。そのことをしっかりと認めない信徒は、困難や誘惑の多い時代にクリスチャンとして成長しません。また、長老が神様から立てられたと言っても、みんな完全な人達なのではありません。牧師をはじめ、みな不完全です。ですから「愛をもって深い尊敬を払いなさい」(13節)と勧められているのです。

★私達は、テサロニケの教会時代のような迫害時代にも、現代の日本のような誘惑の時代にも、キリストの教会として勝利し、成長する教会でなければなりません。そのためにも、聖書の教えている正しい教会の姿勢にしっかりと立たなければなりません。それは、イエス様によって指導の働きを委託された牧師・役員と、お互いの立場を認め合い、平和を保つ教会となることです。溝の口教会は、お互いの立場を認め合う聖書的な教会となり、主にある教会として、勝利し続けましょう。

7月19日礼拝あなたがたは光の子供です」

第一テサロニケ (NO11)「あなたがたは光の子供です」5章1~11節 

 

イエス様が再臨されるという教えを聞けば「それはいつなのか」と知りたくなります。しかしイエス様は「何年、何月、何日」との指定をしておられません。それでは何も見えていないことと同じではないかと言う人もいるでしょう。しかしパウロは、あなたがたは「光の子、昼の子供です」と言っています。どのようにしてクリスチャンは「光の子、昼の子供」になるのでしょうか。

★私達は、キリストが突然来られるという真理を知っています。クリスチャンでない人は、キリストが来られると言うことさえ知りません。光の届かない所にいるからです。6節の「他の人々のように霊的に眠った状態でいないように」しましょう。

★光の子供たちは、第一に「真理に照らされている子供たちです。御言によって「信仰と愛を胸当てに、鎧いで」身を守ります。第二は「救いの望みのかぶと」を着けます。かぶとがなければ、致命傷を受けるからです。そして慎み深く生きるのです。「世の終わり」等の言葉に浮つくことなく、仕事をするのです。

★10節に「主が私達の為に死んでくださったのは、目覚めている時も、眠っている時も、主と共に生きるためです」と記されています。キリストが十字架で私達の為に死んで下さったのは、再臨がいつあっても驚くことなく、私達がいつも主と共に生きるためなのです。それは、キリストの再臨があるのは、クリスチャンが神に裁かれるためではなく、救いを得るためです。ですから、クリスチャンは安心して「互いに励ましあい、徳を高めあうように」(11節)日々を用いましょう。

★人々は、聖書の真理もキリストの教えも知らないために、暗闇の手探りの生活をしています。不安で占いに心が魅かれ、占いの本が売れ、新興宗教や異端に心が迷わされます。更にはパワースポットなどと言って訪ね歩くのです。本当の真理は、聖書にあります。本当の救いは、キリストにあります。落ち着いた生活は、真理の光に照らされたクリスチャン生活にあるのです。皆さんは真理に照らされた「光の子供たち」です。ですから光のある生活から目を離して闇の人となってはいけません。ますますキリストの真理に照らされて、光の子供となっていきましょう。

7月12日礼拝「死に関する無知」

第一テサロニケ (NO10)「死に関する無知」4章13~18節 

 パウロは「眠った人々のことについては、兄弟達、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません」と書き記しました。この教会は素晴らしい人々のいる教会でしたが、3章10節に記されているように「信仰の不足を補いたい」と思う部分があったのです。それは、キリストの再臨のことであり、またその時の死者の甦りのことでした。

★なぜ「知らないでいてもらいたくない」と言っているのかというと、「他の望みのない人々のように、悲しみに沈むことがないためです」と説明しています。他の人々とは、クリスチャンではない人々のことです。クリスチャンでない人は、人間の死を「永遠の別れ、永遠の眠り、完全に消滅し無になる、霊がさまよっている」などと思っています。また「死んだらみんな仏さんになる」等と、お坊さんも仏教の死後観として教え、仏教徒もそう考えています。しかしそれは仏教にさえ無いことなのです。

★それでは今日の聖書の「眠った人々」とは、何を意味するのでしょうか。それは遺体であり、骨のことです。現代のような火葬とは違い、霊は神のもとに行っても、体は骨になって横たわっていました。その有様のことを言っているのです。テサロニケの教会では「再臨される時に生きている者の体が、栄光の体に変えられて天に迎えられるのは分かるが、すでに死んでしまった者の体は土になり、骨は横たわったままで眠っている。それはどうなるのか」との心配と議論があったのです。

★それに対してパウロは、キリストの死と復活を例に用いて説明しています。キリストが死んだ後、キリストの霊は体の甦りまで体と共にあったのでしょうか。そうではありません。十字架で最後の息を引き取った時、キリストの霊はその体を出たのです。その後キリストは黄泉に下り、私達の罪の裁きを受けて地獄に行ったのです。(使徒2章31~32節参照)しかし3日目に地獄から甦られたのです。

★パウロは、「キリストが復活されたように、必ずキリストにある者は甦るのです」と言いました。そうして今日の最後の御言で「この言葉を持って互いに慰めあいましょう」(18節)と言っています。死は全ての人に及びます。しかし、皆さんは死について無知であって欲しくありません。希望に満ちて、慰め合い励まし合いましょう。

7月5日礼拝「兄弟愛と勤労」

第一テサロニケ (NO9)「兄弟愛と勤労」4章9~12節 仁井田義政 牧師

 

 今日の聖書の御言は、「兄弟愛と勤労」の関係についての教えです。私達は兄弟愛と仕事について結び付けて考えたことがあるでしょうか。初代教会では、この二つは一つに結び付いていました。

★テサロニケ教会には「愛については何も書き送る必要がないほどである。」と言っています。特に今日の御言「兄弟愛=フィラデルフィア」は、クリスチャン同士の愛のことです。クリスチャンは神の家族であり兄弟なのです。ですからテサロニケ教会の人々は、自分の教会の人々だけでなく「マケドニヤの諸教会」の人達にも兄弟愛を示しました。パウロは「ますますそうであってください」と勧めました。

★兄弟愛は、迫害下の教会において現実的な力となりました。クリスチャンに対する仕事の解雇や財産の没収が、迫害となって迫っていたのです。テサロニケ教会の信徒は、迫害で貧しくなった人達を献金で助けました。自分の教会だけでなく、他の教会の人々をも経済的に助けたのです。第二コリント8章1節に当時の迫害と、マケドニヤ地方教会の助け合いが記されています。テサロニケ教会もマケドニヤ地方にあった教会の一つでしたが、兄弟愛を示してマケドニヤの諸教会に良い影響となったのです。

★しかしその兄弟愛を良いことに、働こうとしない人がテサロニケ教会の一部に出てしまいました。それは、「主が明日再臨すれば仕事など不必要」と考えて仕事を辞め、兄弟愛に頼る人達が出てきたのです。パウロはその様な人に、「落ち着いた生活をして、自分の仕事に身を入れるように」と教えています。第二テサ3章10~12節には、さらに厳しく「働きたくない者は食べるなと命じました。」と記されています。しかしそれは「働けない者」のことではなく「働かない者」であることに注意しなければなりません。

★このように兄弟愛と勤労は、二つではなく一つなのです。私達は落ち着いた生活をし、日々の労働にいそしみ、経済的にも祝福され、神と人々の為に用いるお金と心を持つべきです。間違っても信仰の熱心さを装って、「人の助けを当てにしてはいけない」のです。落ち着いて勤勉に働き、兄弟姉妹を助けることが出来るように、経済的にも自立しましょう。兄弟愛フィラデルフイァと自立は一つであると心に留めて、仕事に励みましょう。

6月28日礼拝「クリスチャン生活の原則」

第一テサロニケ (NO8)「クリスチャン生活の原則」4章1~8節 

 今日の御言には、実際的なクリスチャン生活についての教えが記されています。テサロニケ教会は、素晴らしい信徒達がいる教会でした。しかしこれからも、ずっとそのような教会であり続けるという保証はどこにもありません。パウロは、クリスチャン生活の大切な原則を4~5章に書きました。

★通常、人間の生活原則は、自分を喜ばせることだと考えている人が多いと思います。法を踏みはずしても、お金をばらまいても、それを目指す政治家もいます。また奥さんがいるのに不倫を重ねるタレントもいます。それは自分を喜ばせるという原則に生きている証拠です。しかしクリスチャンは、「神を喜ばせる」ことを求める生活原則でなければなりません。パウロは、そのように「歩みなさい」と教えています。つまりクリスチャンは、「神を喜ばせる」という生き方を、揺るがない太い一本の道とすることが大切なのです。

★パウロは、テサロニケで救われてきた人たちに第一に教えたのは、「聖く」なることでした。当時の町には、「不品行」が溢れていました。異教社会では一般的に性の乱れが起こっていました。日本も政府公認の遊郭がありました。川崎にも品川にも遊郭がありました。日本最大の遊郭は、浅草の「吉原遊郭」でした。その廃止の完全施行は、昭和33年(1958年)4月1日、つまり戦後なのです。遊郭のある町には、大きな神社やお寺がありました。参拝して遊んで帰ったのです。また「妾の数が男の力量」と言われていた時代もあったのです。異教社会のテサロニケの町も、偶像礼拝と性の乱れがひとつとなっていました。

★私達クリスチャンは、神様の聖さの側に召されたのです。イエス様を信じた時、聖霊も私達の内に住んで下さるようになりました。ですから聖い生活を軽んじたり、拒む者は、聖霊を軽んじ聖霊を拒むことになるのです。

★クリスチャンになっても、そのような汚れた生活を求めたり続けたりしている人は、6節にあるように必ず「神様の裁き」を受けることになります。私達の内に住んでくださっている聖霊を悲しませ、聖霊を与えて下さった神様を拒むことになるからです。そのような汚れた文化に染まらず、神様の召して下さった「聖い生活」をするためには、どうすれば良いのでしょうか。それは、自分を喜ばせる生き方ではなく「神様を喜ばせる」原則に生きることが大切なのです。

6月21日礼拝「主が来られる時までに」

第一テサロニケ (NO7)「主が来られる時までに」3章11~13節 

仁井田義政 牧師 

今日の聖書の箇所には、パウロの祈りが記されています。それは、テサロニケ教会の為に「昼も夜も熱心に祈る」(10節)祈りでした。今日のパウロの祈りは3つあります。しかし最終的にはひとつの祈りになっています。それは「主が来られる時までに」という祈りです。

★第一番目の祈りは、「主が私達の道を開いて下さいますように」でした。 神様は、私達の為に道を開いて下さいます。私達が失敗するのは、神様が開いて下さるのを待てずに、自分で開こうとする時です。パウロは、神様が道を開いて下さるのでなれば進まない人でした。

★第二番目の祈りは、「あなたがたの愛を増し、満ち溢れさせて下さいますように」という祈りでした。まず「互いの間の愛」です。クリスチャン同士が愛し合う存在でなければなりません。次は「全ての人に対する愛」です。それは、クリスチャン以外の人への愛です。すでにテサロニケ教会の信徒の特徴は1章4節に記されていたように「愛」でした。パウロは、それがさらに「増して、満ち溢れる」ようにと祈りました。

★ 第三番目の祈りは、「主イエスが来られる時までに、聖く責められるところのない者となりますように」との祈りでした。現代の教会とクリスチャンに不足しがちなのは、「キリストの再臨信仰」ではないでしょうか。世紀末が近づくと、世の中も終末論が強調されるようになります。しかし、教会とクリスチャンは世紀末に関係なく、「再臨信仰」に満ちていなければなりません。いつイエス様が再臨されても「神の御前で、聖く責められることのない者となる」ことを強く願うべきなのです。

★初めに「今日の聖書箇所には3つの祈りがありますが、最終的にはひとつの祈りになっています」と言いました。そのひとつの祈りとは「キリストが来られる時、聖く、責められるところのないようにして下さいますように」というものです。クリスチャンの生活は、「神様の御前に立って責められることはないかどうか」を自己吟味して生きることです。今日の3つの祈りを心からの祈りとし、神様に喜ばれるクリスチャンになりましょう。

6月14日礼拝メッセージ「パウロの喜びと生きがい」

第一テサロニケ (NO5)「パウロの喜びと生きがい」3章6~10節 

仁井田義政 牧師 

パウロがこの手紙を書いている地は、コリントであると考えられています。コリントからテサロニケまでは往復1000キロになります。そこからテモテが帰ってきました。テモテの報告は、素晴らしいものでした。パウロはその報告を聞いて、「私達には今、生きがいがあります」と、喜びに満たされました。

★テモテは、パウロにテサロニケ教会の素晴らしい信仰の姿を知らせました。「良い知らせ」は「ユーアゲリオン」で、福音と訳せる言葉です。テサロニケ教会の信徒達は「信仰と愛」に満ちていました。パウロがテサロニケの信徒達を心配しているように、彼らもパウロに会いたいと願っていました。

★パウロは、コリントの町で苦戦していました。そのコリントで「恐れるな、黙っているな」(使徒18:9~11)という主の声を聞いていました。つまり恐れていたのです。その中での吉報だったのです。

★パウロは、テサロニケ教会についての素晴らしい知らせを聞いて、「私達には今、生きがいがあります」と記しました。良い知らせを聞いて「もうテサロニケ教会に行かなくても大丈夫だ」と言ったのではありません。「是非会って、あなたがたの信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っている」(10節)と記したのです。テサロニケの信徒達の信仰は素晴らしかったのですが、それで完成ではないのです。イエス様の素晴らしさと比べるならば、足元にも及ばないのです。イエス様のようになることが、私達の姿勢でなければなりません。その為には互いに「顔を」見ることが大切なのです。私達もようやく来週から「会って、顔を見る」礼拝が出来るのです。

★信徒は牧師・伝道者によって励まされ、牧師・伝道者は信徒達の信仰の素晴らしさによって励まされるのです。コリントの地で伝道に苦戦していたパウロは、迫害にも負けず純粋な信仰を持って戦っているテサロニケ教会の信徒達に励まされました。また自分達にキリストの救いを伝えてくれたパウロに切に会いたがっていることを聞いて、「喜びを感じ、生きがい」を感じ励まされたのです。私達も来週、同じ思いを持って礼拝に集まり、神様への感謝の礼拝を一緒に捧げようではありませんか。

6月7日礼拝「苦難と忍耐」

第一テサロニケ (NO5)「苦難と忍耐」3章1~5節 

仁井田義政 牧師 

一年の折り返しの6月に入りました。1-2月は会議の月でしたし、3月に入りますとコロナの影響が始まり、今日まで自粛生活が続いています。しかし私達は「神の国」に生かされています。神の国とは、神様の支配のことです。ですからどんな苦難があっても、耐え忍ぶことが出来るのです。

★当時、テサロニケ教会の人達が受けていた迫害は、すさまじいものでした。それを知ってパウロは、直ぐに飛んで行きたかったが行けなかったと、先週の御言の中に記されていました。パウロは心配で、若いテモテをテサロニケに遣わしました。

★テモテ派遣の目的は、ユダヤ教徒や同国民から迫害を受けているテサロニケ教会の人々を励ますためでした。イエス様を信じたら、そよ風のような日が来るのではありません。迫害する者や反対する者が起こって来るのです。そのことはイエス様も「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ24:3-13)と教えています。

★迫害や問題が起こると、信仰を持って間もない人達は動揺することが多いのです。いや信仰の長い人であっても動揺するでしょう。今日の聖書箇所に出ている「動揺」という言葉は、ギリシャ語で「ダイネスサイ」で、犬がシッポを振るという意味の語から来ています。妥協と引き換えの御褒美に、シッポを振る様子を意味しています。同国人からは「混合宗教」への誘惑、ユダヤ教からは「割礼」を受けるようにとの律法主義の誘惑が突き付けられていたのです。それを受け入れさえすれば「迫害をすぐにやめる」との条件を突き付けられて誘惑されたのです。それに「動揺」し、シッポを振る子犬のようになってしまうことを意味しています。

★パウロは、迫害の中で信仰から落ちていってしまう者がいるのではないかと心配したのです。テサロニケ教会の人々が誘惑され信仰を失ってしまうようなことがあるならば、私達の労苦が無駄になってしまうと心配し、テモテを遣わしたのです。私達も、御馳走を前にシッポを振る子犬のようになってしまってはなりません。最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。苦難の時には、忍耐を持って信仰を貫く人になりましょう。