12月17日アドベント礼拝3「マリヤの勇気とアドベント」ルカ1章27節~38節 

(アドベント礼拝3)「マリヤの勇気とアドベント」ルカ1章27節~38節                                        

                         仁井田義政 牧師

 今日は、アドベント第三週を迎えています。来週はいよいよクリスマス礼拝です。アドベントメッセージの中で、受胎告知は素晴らしく示唆に富んだところです。

★今日の聖書箇所には、天使の「おめでとう。恵まれた方。主が共におられます」と言う言葉に、マリヤが「ひどく、戸惑った」(29節)と記されています。この戸惑いがあればこそ、マリヤは私達からも遠くない存在です。マリヤはヨセフと婚約中で、マリヤは幸せでした。それなのに天使まで現れて「おめでとう」と言われたのです。ナザレの村の田舎娘に、神様がこれほどの扱いをするとは思いもよらないことでした。マリヤの「戸惑い」はそこに起こったのです。マリヤも私達と同じです。

★マリヤはこの時15歳か16歳の時であったと言われています。いいなずけのヨセフと将来の幸せが待っていたのです。婚約者ヨセフとの間でさえ結婚前に子供が出来たとなれば、両家にとって不名誉という時代なのです。ところがヨセフの知らない懐妊となれば、婚約の解消どころか、マリヤを拷問し相手を探し出し、両者を会衆の面前に引き出し、みんなで石を投げつけて処刑されてしまう時代なのです。幸せだったマリヤの身に不幸なことが起こったのです。

★マリヤは「どうしてそのようなことがあるでしょう」と言いました。自分の身に覚えがないのに、身ごもって殺される、こんな馬鹿げた恵みはないと思ったことでしょう。しかし、人間の常識的世界から見れば「どうしてそのようなことがありえましょう」という事態なのに、御使いは「聖霊が」つまり全能の神がそうして下さるのですと言ったのです。

★「聖霊がそうして下さる」と聞いても、それで全てが解決したわけではありません。身に迫る処刑が心配ですし、夫婦になる約束を交わした夫となるヨセフの怒りはどうなるのでしょう。しかしマリヤは「私は主のはしためです。あなたのお言葉通りにこの身になりますように」と受け止めるのです。信仰を持つ時に必要な勇気です。今なおマリヤの状況に心配事は残っています。勇気を奮い立たせて「私は主のはしためです」と言いました。つまり「主は私の主です」と言っているのです。そこから主の素晴らしい恵みと力が溢れ出すのです。マリヤのように、このアドベントの日にはっきりと主のしもべになりましょう。

12月10日アドベント2 礼拝メッセージ「キリストを迎えるために」

(アドベントメッセージ)「キリストを迎えるために」ルカ1章26~56節,マタイ1章18~25節 

                                                                                                     仁井田幸子 師                                       

 アドベント第二週に入りました。神様が人類に救い主を送るというご計画が実現するためには、そこに謙遜に従う人々がいました。今日は三人にスポットを当ててその信仰を学びましょう。

★一人目はもちろん乙女マリヤです。小さな町の小さな乙女マリヤに、御使いによって「聖霊によって神の御子を身ごもる」という、とてつもない知らせが伝えられました。マリヤには思いもよらない事でした。小さい頃から神様が救い主を送ってくださるという預言を聞いていましたが、まさか自分にそのような事が起こるとは、と困惑してしまいました。しかしマリヤは、戸惑いながらもご計画を受け入れました。ただそうすることには、大きなリスクがありました。マリヤはヨセフと言う青年と婚約していましたので、そのような身で妊娠していることになると、汚れたみだらな女性・婚約者を裏切った女性として、結婚は破棄され、死刑に処せられることになるのです。しかしマリヤは「お言葉通りこの身になりますように」と告白したのです。

★二人目はヨセフです。ヨセフはマリヤの妊娠を知って苦しみ、死刑になってはいけないと静かに去らせようとします。しかし神様はご計画を成就するため、ヨセフに御使いを遣わし説明します。ヨセフもまた、救い主を待ち望んでいた一人なので、戸惑いながらも受け入れ、「主の命じられたとおりになりますように」と告白します。そしてマリヤを迎え入れ支え続けます。

★三人目はエリサベツです。マリヤは御使いから、不妊の女と言われ既に歳をとっていたエリサベツも神様のご計画の中で奇跡的に妊娠していることを告げられ、エリサベツの家に向かいます。マリヤを迎えたエリサベツは、聖霊に満たされ、確信に満ちた言葉でマリヤを祝福します。その言葉で、妊娠への心配と不安の中にあったマリヤは励ましを受け、さらに主のご計画を確信し、あの有名な「マリヤの賛歌」を歌います。エリサベツとマリヤはそこで三ヶ月間、主を賛美し励まし合い、素晴らしい時を過ごします。

★この三人はみな、謙遜に神様のご計画に従いました。それゆえに今、私達は、救い主イエス様にお会いすることが出来ているのです。一人の人の従順から素晴らしい祝福が広がることを知って、私達も信仰を整えましょう。

 

12月3日アドベント礼拝「主は仕えるために来られた」  

(アドベントメッセージ)「主は仕えるために来られた」マタイ20章17~28節

                       仁井田義政 牧師                                 

 今年も今日からアドベントが始まります。クリスマスまでの四週間、イエス様は何故この世に来られたかを思いめぐらす信仰の時としたいと思います。今日はイエス様ご自身の御言から、イエス様は何のために来られたのかを見ていきましょう。

★今日の御言には、二人の弟子の母親が「イエス様、うちの子をイエス様の右と左に座らせて下さい」とお願いしました。自分の子供たちと話し合ってのことでしょう。親が子を思う姿としては理解できます。それを聞いた他の十人の弟子達が怒りました。これは、主が十字架に着くためにエルサレムに上る道での出来事でした。弟子達はクリスチャンでありながら、何も分かっていなかったのです。これはクリスチャンにとって大変不幸なことです。

★イエス様は、その弟子達に信仰のイロハのイから教えなければなりませんでした。そのイロハのイとは「イエス様は何のためにこの世に来られたのか」ということです。イエス様は「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべとなりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」と言われました。イエス様が私達を救うために、ゴルゴタの十字架へと向かっておられる時なのです。十字架において、ご自分の血の最後の一滴までも、私達の為に捧げ尽くしてくださるのです。それを聞いている者の中に、まもなくイエス様を裏切るイスカリオテのユダもいました。

★弟子達は、このエルサレム上りの時に至ってもイエス様の来られた目的を知らず母親まで巻き込んで「新しい国での自分の立場確保」の為に直談判をしています。私達も気をつけないと、キリストに仕えるよりも、自分の幸せや自分を喜ばせる為に、自分に仕えてしまうのです。自分達の身を温かい部屋で憩わせるために、イエス様を寒い馬小屋に追いやってしまうのです。もしそうならば、クリスチャンとして恥ずかしいことです。私達の為に来てくださったイエス様に、今度は私達がお仕えすべきではないでしょうか。アドベントのこの時に、私達の信仰を整えましょう。そして信仰に満ちて、クリスマスをお迎えしましょう。

11月26日礼拝メッセージ「主との驚きの食卓」

(礼拝メッセージ)マルコNO12「主との驚きの食卓」2章13~17節

                       仁井田義政 牧師

 今日の聖書箇所は、イエス様と十二弟子の一人となったマタイとの出会いのところです。イエス様との出会いで、マタイの人生は全く変わりました。

★この時期のイエス様は人々に大人気で、どこに行っても群衆に取り囲まれてしまいました。他の所に移動しようとしても、群衆がイエス様について来てしまうのでした。街道の収税所には、人々が「ローマの手先」と言って嫌う取税人が座っていました。通行税と荷物に関税をかけるためでした。人々は収税人を無視したいのです。しかしイエス様は収税人を「ご覧になって」自分の方から声をかけられたのです。そのことは収税人マタイにとって、衝撃でした。「罪人」と言われていた自分に対しての声かけだったからです。

★その声かけは、「わたしについて来なさい」という招きの声でした。マタイは収税所を後にして、自分の家にイエス様を招待しました。その家は税益で建てた大きな家であったろうと思われます。「収税人や罪人と言われていた人達も大勢いた」と記されているからです。罪人とは、刑法上の犯罪者とは違います。律法を守れなかった人達のことです。この時代の人は、二種類に分類されていました。律法を守れる人と守れない人です。ユダヤ人でも律法を守れない人は、罪人であると考えられていました。特にパリサイ派の人々はそう考えていたのです。ですからこの時も、「なぜあの人は罪人たちと一緒に食事をするのですか」と非難したのです。

★その非難に対し、イエス様は「健康な人に医者はいらない。いるのは病人です。私が来たのも正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました。これはパリサイ派の人々に対する皮肉です。彼らは、イエスがメシヤであるなら、律法を守る私達が招かれるのが当然と思っていたのです。しかしイエス様は、私は「自分は罪人だからイエス様をお招きし、信じるのにふさわしくない」と思っている人の為に来たのだと言われたのです。

★マタイの家の食卓で、主による素晴らしい人生の逆転が起こりました。あなたはどうされますか。パリサイ派の人々のように、イエス様の愛を知らずにそのまま人生を送りますか。それとも罪人や収税人のように、主と共に一緒の食卓に着き、最も親しい交わりに加えられて喜びの人生を始めますか。

イエス様を信じて、喜びの人生を生きる者になりましょう。

 

11月19日礼拝メッセージ「なぜ理屈を言っているのか」

(礼拝メッセージ)マルコNO11「なぜ理屈を言っているのか」2章6~11節

                       仁井田義政 牧師

 今日のメッセージの箇所は、ガリラヤのカペナウム町で起こったことの続きです。それは屋根を剥いで病人を吊り下ろしたという事件でした。そこにいた律法学者が、イエス様の言葉に疑問を持ちました。それはイエス様が「中風の人に、子よ、あなたの罪は赦されました」と言われたからです。そのことになぜ疑問を持ったのでしょう。

★律法学者は、聖書を全部暗記しているような人達でした。彼らも、イエス様は病人を癒すだろうと期待していました。しかしイエス様は罪の悔い改めの話をし、罪の赦し宣言をされましたが、癒しを行なわなかったのです。彼らはイエス様の「罪の赦しの宣言」に躓きました。「神は人を用いて癒しはするだろうが、罪の赦しは神のみにしかできない。イエスは人間なのに思い上がって罪の赦しまで宣言した。許しがたい」と心の中で呟いたのです。イエス様は、その呟きを見抜かれました。

★イエス様が「罪の赦しの宣言」をされたからといって、この人の罪が病気にしたと言っているのではありません。全ての人が罪人なのです。ですから律法学者も私達も罪人なのです。本当は病よりも罪の方が深刻なのです。ですから屋根を破ってまでも入って来たその人に、イエス様は罪の赦しを宣言されたのです。

★律法学者達は、優れたマジシャンを見に来る人達のように、イエス様の奇跡を見に来たのです。しかしイエス様は、誰も見ることが出来ない「罪の赦し」を宣言されたのです。律法学者達は、「罪の赦しの宣言など律法に触れることを無視さえすれば誰にでも出来る。しかし癒しは見えるので嘘はつけない。だから癒しの方が難しい」と思ったのです。

★中風の人は、屋根を裂いてイエス様の所に来ました。イエス様は、この人や私達に会うために、天を裂いて来られたのです。「人の子」(ダニエル7:13-14)「永遠の主権者」のことです。まず罪を赦す力があるから病も癒すことが出来る。病を癒す力があるから罪を赦すことが出来るのではありません。そこを間違うと、同じようで全く違う信仰となってしまうのです。最高のイエス様の御力は、罪の赦しの中に示されます。それが最高の奇跡なのです。私達は律法学者達のように理屈を言う者とならず、イエス様の罪の赦しと救いを信じる者となりましょう。

11月12日礼拝メッセージ「神様の約束を信じて」

(礼拝メッセージ)「神様の約束を信じて」ヨシュア記6章1~5節

                         楠 亜紀子 師

今日は旧約聖書のヨシュア記からご一緒に御言を学びたいと思います。

★今日の御言の中にヨシュアという人物が出てきますが、ヨシュアは、40年間荒野でイスラエルの民を導いたモーセの後継者です。イスラエルの民は、神様が約束されていた地、乳と蜜が流れるカナンの地を目指して進んでいます。しかしカナンの地に入るのは簡単ではなく、それぞれの土地に住んでいる民を追い出し、その土地を攻め取りながら進んで行かなければなりません。今まではモーセが民を導いていましたが、モーセが亡くなった後はヨシュアが民を導きました。

 

★1節に「エリコはイスラエルの人の前に城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった」とあります。エリコの町はとても大きくて高い石の壁で囲まれているため、なかなか攻め落とすことが難しい城壁の町でした。人間の目で見るなら、その高い城壁を見ただけで攻めることを諦めてしまいたくなるような光景だったことでしょう。行く手にはまさしく「大きな壁」が立ちふさがっています。しかし2節には「主がエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した」とあります。神様はすでに勝利を約束されています。そして3節から書かれてありますように、神様には作戦があります。イスラエルの戦士たちは町の周囲をぐるりと一度回り、六日間同じことをします。六日間は何も起こりませんが、七日目には神様のご計画通りに堅固な城壁が崩れ落ちます。

 

★私たちも人生の歩みの中で、問題や悩みなどの大きな壁が目の前に立ちふさがることがあるかもしれません。しかしそのような時、私たちは諦めてはいけません。どのような大きな壁であっても、神様はその壁を打ち崩す方法を持っておられます。たとえ毎日何も変化がなく、いつになったらこの壁が崩れるのだろうと思うことがあっても、必ず「神様の時」「勝利の時」が来ます。イスラエルの民が目に見える変化は何も無くても黙々と六日間廻ったように、私たちも神様の時、勝利の時を信じて、日々の信仰生活をこつこつと積み上げ、主の言葉に忠実に従い、主と共に勇敢に歩みましょう。

 

11月5日礼拝メッセージ「激しき求道者」

(礼拝メッセージ)マルコNO10「激しき求道者」2章1~5節

仁井田義政 牧師

 イエス様が人の住んでいない寂しい荒野におられても、あらゆる所からイエス様を求めて人々が集まってきました。ひっそりとカペナウムの町に入り家におられても、それを知った人々がその家に集まり、満員電車の混雑のような状態になってしまったのです。そこで奇想天外なことが起こりました。その出来事とは、激しく道を求める人達のとった行動でした。

★イエス様のおられた家は、既に戸口まで人々がいっぱいになっていました。イエス様が「今日何時から集会を行ないますから是非いらしてください」と言われたわけではないのです。むしろ数日間寂しい所におられたので、人々から離れて休まれたかったのではと思われます。しかし群衆が押し寄せてきてしまったのです。そこでイエス様は、その人達に御言を話しておられました。それは「あの福音の御言」でした。(1章15節)

★そこへ四人の者達が、中風の人をベッドに寝かせて運んできました。しかしその家は、人々がいっぱいで入れません。そこで四人の者達は、諦めず屋根に登り、屋根を剥ぎ大きな穴をあけたのです。その家中に泥煙と土が落ちたことでしょう。イエス様の話は中断され、人々も怒りに満ちていたでしょう。非常識極まりない行為です。すると屋根に開いた穴から、ベッドに寝たままの中風の者が吊り下ろされたのです。

★人々は埃まみれにされ、その行動を責める目で見ていたことでしょう。イエス様も集会を滅茶苦茶にされたのです。しかし、イエス様の見る目は違っていました。イエス様は、彼らの行動の中に信仰の最高の姿を見たのです。そして「子よ、あなたの罪は許されました」と言われました。「子よ」と言う言葉は、当時弟子として認めた時だけに使われた言葉です。病気の癒しを求めたのに「あなたの罪は赦されました」とイエス様は言われました。人間にとって、罪が許されることが最高の救いなのです。

★神の国に入る為に、どんな邪魔者も排除して屋根に穴をあけ、イエス様の救いに突進して来た者が、今日の主人公なのです。既に家いっぱいになっている人達は、自由に行動できる人達でした。しかしイエス様は彼らにではなく、不自由な体で必死にイエス様を求めて来た人に「子よ、あなたの罪は赦されました」と言われたのです。私達もこの人のように、激しくイエス様を求める人になろうではありませんか。

 

10月29日礼拝メッセージ「主の心が激しく痛んだ」

(礼拝メッセージ)マルコNO9主の心が激しく痛んだ1章40~45節

仁井田義政 牧師

 今日の聖書の背景も、町の外の寂しい所です。しかしそこに町から追い出された人がいました。「重い皮膚病」に侵され人です。その人は「神からも人からも捨てられた人」と言われ、自分でもそう思って疑わない人でした。当時の人々は、この病気の人に触れられると汚れると思い、逃げました。そのような人とイエス様が出会ったのです。

★その人は「お心ひとつで私を清くしていただけます」とイエスの前にひざまずきました。その病にかかった人は、人前に出て来ること自体が許されない時代でした。病気を隠してそっと去るか、隠しきれなければ「私は、汚れた者です。私から離れて下さい」と叫ばなければなりませんでした。しかし彼はイエス様の前にひざまずきました。彼の「お心ひとつで・・」という言葉は、確信と謙虚さに満ちています。

★イエス様は「深くあわれんで」、「手を伸ばして彼に触って」、「私の心だ、清くなれ」と言われ癒されました。「深く憐れんで」は、内臓が痛むという意味の強い言葉です。それと当時に「激しく憤って」という意味もあります。憤りは怒りのことです。イエス様は誰に怒られたのでしょうか。病人にでしょうか。そうではありません。彼を人間社会から荒野に追い出してしまった者達に憤りを感じられたのです。彼に対して、人々は手を引っ込めたのです。そして病人も手を差し出せない状況にされてしまっていたのです。その彼にイエス様は「手を差し出して」触れられたのです。イエス様は病気に対する差別であれ、どんな差別であれ、憤られるのです。

★イエス様は彼に「祭司に重い皮膚病が治ったとだけ伝えよ。私の癒しを誰にも言ってはならない」と厳しく戒めました。病気の癒しの為にだけ祈る呪術者、シャーマンと受け取られることを嫌ったのです。「祭司に見せなさい」と言われたのは、癒しの証明は祭司だけが出せたからです。それは彼が社会復帰をするために必要なことでした。しかし彼は、イエスによる病の癒しを言い広めてしまいました。その結果、イエス様は町に入れなくなってしまったのです。

★イエス様は、その人の苦しみを見て、激しくあわれみの心を現され、その人に手を伸ばされたのです。イエス様は、私達の願いを「内臓が痛むほどに」心配して下さいます。そして救って下さいます。あなたを誰よりも愛して下さっているイエス様を信じる者になりましょう。

 

10月22日礼拝メッセージ「群衆を残して」1章35~39節

(礼拝メッセージ)マルコNO8「群衆を残して」1章35~39節

                       仁井田義政 牧師

 カペナウムの町でのイエス様の伝道は大成功でした。しかし、イエス様は朝早く祈り、弟子達を連れてその町を出て行ってしまわれたのです。それはキリストの不思議あり、奥義です。奥義はミステリーです。ミステリーであればこそ、聖霊によって見せて頂く以外に方法はないのです。そしてこの奥義を知ったならば、私達もそのように生きることが大切なのです。

★前日、カペナウムにあったペテロの姑の家に、多くの人々がキリストを求めて押し寄せて来ました。イエス様が伝道を開始してすぐの大成功です。病を癒すイエス様の名声がカペナウム中に広まりました。しかしイエス様は早朝の祈りの中で、その大成功にご自分の使命の危険を感じたのです。

★朝、弟子達はイエス様がおられないことに気付き「イエスを追って来て、彼をみつけ」(36-37節)と記されています。それは「懸命に後を追い、捜し歩いて見つけた」という意味なのです。弟子達は、昨日の祈り残された群衆が来ていることを伝え「みんながあなたを探しております」と言いますと、イエス様は「さあ、別の近くの村里へ行こう」と言われました。イエス様は明らかに「癒し」のみを求める群衆を嫌ったのです。

★イエス様は「さあ別の村里に行こう、そこにも福音を知らせよう。わたしはそのために出てきたのだから」(38節)と弟子達に言いました。福音とは何でしょうか。それは神様との関係を正しくすることです。その関係の為には「悔い改め」が必要なのです。イエス様は、人気を得て拍手喝采を受ける為に来られたのではないのです。福音を伝えるためです。イエス様はカペナウムの町の「癒し」のみを求める大群衆よりも、村里の少数の福音を求める人を選ばれたのです。

★誰でも派手なことに心引かれる部分があります。一人二人よりも大衆からの喝采を求める傾向があります。イエス様が早朝の祈りの中で、はっきりと決意されたこと、それはこのカペナウムの大衆を置き去りにすることでした。癒しのみを求めてはなりません。癒しのみを求める人をイエス様は置き去りにされます。神様の完成して下さった福音を信じ、神の国に入れて頂きましょう。そうすれば病も癒されるのです。イエス様は福音を伝える為に来られたのです。イエス様を正しく信じましょう。イエス様は群衆の拍手喝采よりも、あなたの正しい信仰を喜ばれるのです。

 

10月15日礼拝メッセージ「圧倒的な勝利者」

(礼拝メッセージ)「圧倒的な勝利者」ローマ8章35~39節

                          仁井田幸子師

  今日の御言は、私達がイエス様によって力強く生きることが出来ると約束しています。今日、この御言をもう一度しっかり受けとめましょう。

★聖書は、私達がクリスチャンになっても苦しみが無くなるとは言っていません。かえって様々な苦しみを「喜びなさい」(マタイ5:10~12)とさえ言っています。なぜでしょうか。それは、私達が苦しむことによってさらに神様の大きな愛と慰めを体験するようになるからです。(第二コリント1:4~5)   35節に「私達をキリストの愛から離すのはだれですか。艱難ですか。苦しみですか。迫害ですか。飢えですか。裸ですか。危険ですか。剣ですか」と七つ記されていますが、それは完全数で、あらゆること全てに於いて「圧倒的な勝利者」となると言うことです。

★この「勝利」という言葉は、最上級のギリシャ語で、日本語には訳しきれない強い意味のものです。「圧倒的な勝利」「輝かしい勝利」「完璧な勝利」「勝って余りある」等。このことから私達は、やっとの思いで勝利するのではなく、絶対的な勝利者となれることが分かります。そして揺るがない平安へと導かれるのです。ドイツの音楽家ベートーヴェンも苦しみの中から立ち上がり、素晴らしい数々の曲を作りました。小さい時から天才ピアニストとして育ち、成人する頃には有名なピアニストになっていました。ところが27才の頃、耳が聞こえなくなり、絶望して死も考えたと言います。しかしその苦しみの中から、たとえ耳が聞こえなくても作曲は出来るとの希望が与えられ、あの有名な交響曲第九番「喜びの歌」を作曲しました。絶望からの勝利です。

★では私達は、どのようにすれば、圧倒的な勝利者となれるのでしょうか。ひとつは、常に神様との個人的な交わりをもつことです。交わりがないと信頼が揺らぎます。順境の時も逆境の時もどんな時も、神様に語りかけそして御声を聞くことです。次に私達が御言に従い、忠実であることです。不誠実・不真実・不忠実であるならば、神様に対する心の責めが生じ、力強く生きることが出来ません。

★私達は、常に神様と交わりをもち、御言を信じ忠実な者になりましょう。そして圧倒的な勝利者となりましょう。「世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(第一ヨハネ5:5)