7月21日礼拝メッセージ「美しいことをしてくれた」

礼拝メッセージ「美しいことをしてくれた」マルコ14章1~11節

                       仁井田義政牧師                    

 今日の聖書の箇所は、遠い昔にエジプトの奴隷であったイスラエルの民が、神様によって解放されたことを感謝する祭のところです。しかしその祭の最中に、エルサレムの指導者達の心は「イエス様」に対する悪意に満ちていました。そのような人間達の悪意の中で、ほっとするような出来事が起きました。そのことが、私達に対する美しい信仰の模範となったのです。

★祭司長達は大切な「過ぎ越しの祭」は上の空で、イエス様殺害の計画で心が支配されていました。「イエスを騙して」とあるように、目的のためには手段を択ばない悪意に満ちた殺害計画を練っていたのです。そしてユダも、イエスを売ろうとねらっていました。(14:10-11)

★そのような状況の中で、一人の女性が三百万円程もする香油をイエス様に注いでしまいました。その香油は、遠くインド辺りから輸入した物で、とても貴重なものでした。それを見ていた人々は、その「香油を売って貧しい人々に施せばよいのに」と憤慨しました。それは一見正論に思えます。このことを非難した一人は、弟子のユダでした。(ヨハネ12:4)それに対してイエス様は、「貧しい者に施すことは、あなたに施す気持ちさえあればこれからいつでもできます」と言われました。

★この女性は、石膏の壺を割ってイエス様に注ぎました。壺の口から流れ出るのが待てなかったのです。それは惜しむ心が全くなかったことを表わしています。どんなに深くイエス様の愛を知り、感謝していたかを表わします。十字架で子羊として殺される救世主に香油を注いだのです。ヘブル語のキリストを表す「メシヤ」という言葉は、「油注がれた者」と言う意味です。イエス様は文字通り、油注がれた者となりました。

★イエス様には、この女性の行為がどんなに嬉しかったことでしょう。自分を救って下さったイエス様に喜んで頂こうと香油を注いだこの女性を、イエス様は「出来る限りのことをしたのです」と言われました。また「この女性は立派なことをしてくれたのです」とも言われました。「立派な」と言うギリシャ語は「カロス」で「美しい」という意味です。この女性のしたことは美しい行為だったのです。それは、この女性の礼拝の姿勢は美しいという意味です。私達もこの女性に習って、イエス様に喜ばれる礼拝者になりましょう。

7月14日礼拝「あなたが神の使命に立ちあがる時」

「あなたが神の使命に立ちあがる時」第一サムエル記16章12~13節

郡山キリスト教会牧師 三箇義生牧師

今日は福島県の郡山市から、礼拝と信徒訓練会の特別講師として三箇義生先生をお招きいたしました。神様が用いておられる素晴らしい先生です。

本日、ダビデを通して神様のご計画を学びたいと思います。 三箇義生牧師

★「神は使命を与えられる」神様はこの世界を目的と計画を持って創造されました。そこには意味のないものは、一つもありません。私たちも生まれる前から神様に知られており、目的と計画の内に創造されました。そして、キリストの贖いによって本来の目的と計画に歩むように再創造されたのです。ダビデも神様の目的のためのご計画にあって、イスラエルの王となる召しを受けました。

★「神は使命を全うさせるために聖霊を注がれる」預言者サムエルは、神様からエッサイの息子ダビデに油を注ぐように命じられました。角から流れ落ちる油がダビデの頭に流れ落ちた時、目に見えない霊的な世界において、聖霊がその日以来激しく下り、彼の人生が神のご計画に歩むように働き始めました。

★「神は賜物を用いられる」神様はダビデの応答以来、彼の知らない所で彼の人生を動かし始めます。ダビデは竪琴の優れた奏者でした。神様はその与えられた能力を用い始めます。サウル王を慰めるため、彼は王宮へと招かれました。彼の賜物は、神によって用いられるようになったのです。

★「神は忠実な歩みを活かされる」次にダビデが神に導かれたのは、父や兄達に仕える毎日からのスタートです。羊飼いとして任された羊をライオンや熊からから守り、安全に育つ環境を整えました。そして戦場にいる兄達に弁当を届けるように命じられ、それを届けました。ダビデは任された働きに忠実でした。

★「信仰によって立ち上がる時」戦場で神を侮るペリシテ人ゴリヤテを見、彼を倒すことを決意したダビデに立ちはだかったのは、兄エリアブでした。さらに信仰だけでは不充分だと言ったのはサウル王でした。私達が信仰によって使命に立とうとする時、意外な所からやってくる妨げに驚かないようにしましょう。

★「私にはできないが神にはできる」神の使命に立つ時、自分を見てはいけません。自分の弱さ、足りなさを感じるだけです。神の召しの前にモーセは「私は言葉の人ではありません」と、エレミヤは「私は若すぎます」と、イザヤは「汚れています」と言いました。自分の弱さ、足りなさを見て、自分に失望し自分にはできないと結論しました。確かに人間は神のご計画に応えることができません。しかし神様はそのことをご存知で、私達に使命を与えられました。できない私を用いて可能とされる神を信じる信仰の人を神は待っておられます。

7月7日主日礼拝メッセージ「目を覚ましていなさい」

(主日礼拝メッセージ)「目を覚ましていなさい」マルコ13章28~37節                                                                                                  仁井田義政 牧師

 弟子達がエルサレム神殿のきらびやかさに目を奪われている時、イエス様にはハッキリとエルサレム神殿のはかなさが見えていました。私達人間には本当のことが見えないことが多いのです。だからイエス様は今日の御言で、私達に「目を覚ましていなさい」と言われているのです。

★イエス様は、今日の弟子達との会話の二日くらい後に十字架で殺され、そののち天に帰られました。しかし、イエス様はもう一度私達の所に来てくださいます。イエス様は「イチジクの木に葉が出ると夏が近いように、その前兆は必ずあります」と言われました。ただ関心がないとその前兆が分からないのです。

★イエス様は「この天地は滅びます。しかし、私のことばは決して滅びることがありません」(13:31)と言われました。自然も、人間の作った全ての建築物も、必ず滅びます。しかしイエス様の言葉だけは、決して滅びることがないのです。そのことを霊的な目を覚ましてしっかりと見なければなりません。

★キリストを殺しキリスト教徒を迫害した人々も、ローマ帝国も滅びました。しかしイエス様の言葉を信じる教会は、決して滅びませんでした。今ある中国もアメリカも日本も、必ず滅びる時が来ます。しかしイエス様は、「私のことばは決して滅びることがありません」と言われています。ここに出てくるイエス様の「ことば」は複数形であり、イエス様の全てのことばは滅びることがないのです。

★イエス様は「目を覚ましていなさい」と三度も言われました。まず霊的な目を覚まして、イエス様が再臨されることを忘れないようにしましょう。二番目に、私達の人生には神様からの使命があることを忘れないようにしましょう。三番目に、いつイエス様が再臨されても、その時に眠っていないようにしましょう。それは信仰のことです。目を覚ますとは、「イエス様のことばは永遠になくなることはない」と信じて、イエス様のことばに生きることです。信仰の目を覚まして、イエス様にお仕えする生活をしましょう。

(6月30日主日礼拝メッセージ)「力と栄光のキリスト」

(主日礼拝メッセージ)「力と栄光のキリスト」マルコ13章14~27節

                         仁井田義政 牧師                    

今日の御言も、13章4節の「世の終わりにはどんな前兆があるのですか」という弟子達の質問に答えられたイエス様の言葉です。

★イエス様は「荒らす憎むべきものが、自分が立ってはならない所に立っているのを見る・・・山に逃げよ」と教えられました。「憎むべき者」は、サタン的な霊力を持った者と考えることもできるでしょう。立ってはならない所に立つ、つまり自分を神として礼拝させるような者と考えることもできます。そのような者がサタンの力を帯びて現れた時には「山に逃げよ」と教えられました。戦ってはならないのです。その時に起こることは、天地万物が創造された時以来なかったような激しい苦難の日だからですとも教えられました。

★その時代には、偽キリストや偽預言者が奇跡を起こして選民をも惑わすのです。世の終わりには、恐るべき偽キリストと偽預言者(偽牧師)が現れると預言されたのです。選民(神様に選ばれたクリスチャン信徒とも考えられる)をも、奇跡を見せて惑わすというのです。そのような奇跡としるしを行ない、神から遣わされたしるしの奇跡を行なう者があそこにいる、ここにいるという声を聞いても、騙されてはいけませんとイエス様は教えられました。

★しかしそのような時に、「人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来られる。」とイエス様は言われました。人から生まれるのではないのです。天から直接来られるのです。人間から生まれた者は、みな偽キリストです。世の中に、サタンの力が猛威を振っているかのように見える時、イエス様が「偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来られる。」のです。

★「人の子」とは、キリストのことです。神様による地球の最後の日、宇宙は壊滅します。しかしキリストは、クリスチャン達を一人もお見捨てにはなりません。天使を送り、地の果てから天の果てまで探し回って救出するのです。その人々は、神様が選ばれた「選びの民」つまりクリスチャンなのです。

★現代は、世界でも日本でも偽キリストや偽預言者が活動し始めています。その中でどのようにして正しい信仰を守るか、それは奇跡などに惑わされないことです。確かに神様は奇跡を行なうことができます。しかし偽キリストも、サタンの力で奇跡を行ないます。それではどのようにして判断したらよいのでしょうか。それは聖書によってです。聖書による正しい信仰に生きましょう。

(6月23日礼拝メッセージ)「最後までしっかりと立って」

(主日礼拝メッセージ)「最後までしっかりと立って」マルコ13章1~13節

                         仁井田義政 牧師                    

弟子達は、イエス様がエルサレムで既に主導権をおとりになったという思いでいっぱいになっていたと思われます。そこで今日の弟子達の質問と、イエス様の答えが始まるのです。

★イエス様と弟子達は、夜は今日もエルサレムを出てベタニヤで宿泊されました。その途中、弟子のひとりが神殿の建物の立派さに感動して言いました。イエス様が、これから神殿を拠点とすることになるだろうと思っていたと思われます。ところがイエス様は、「この巨大な神殿は、跡形もなく破壊されてしまう」と預言されたのです。

★イエス様が入るはずの神殿が破壊されるとは、とんでもない驚きであったと思います。その神殿でイエス様の左右の席に着きたいと思っていた二組の兄弟がいました。その四人が来て「いつ、そのような事が起きるのですか。その時にはどんな前兆がありますか」と質問しました。

★イエス様はその質問に答えて、「人に惑わされないように気を付けなさい」と言われました。それはクリスチャンをも惑わす偽キリストと、偽預言者が多く現れるということです。その時は、親からも子からも裏切られるような迫害が起こると、イエス様は言われました。

★この福音書は、西暦の67年頃にローマのクリスチャンのために書かれたと言われています。当時の64年に皇帝ネロによる迫害が起こりました。パウロは65年に殉教したと言われています。その67年頃に書かれたとすれば、パウロの死の二年後です。イエス様が預言された迫害を信徒達が体験している真っ只中です。

★その中でイエス様が言われた「最後まで耐え忍ぶ者は救われます」(13節)という信仰の戦いをしている時なのです。「耐え忍ぶ」というギリシャ語の意味は、「しっかりと立つ」です。それは「必ず勝利するのだから」という希望を見つめて立っている姿です。この福音書が書かれた3年後の西暦70年に、エルサレムの神殿はローマ軍によって跡形もなく破壊し尽くされてしまいました。今や神殿が正確にどこにあったかさえも、厳密には分からない状態です。イエス様の言われた通りになったのです。私達も偽預言者や偽牧師に惑わされることなく、正しい信仰に最後までしっかりと立ち続けましょう。

6月16日礼拝メッセージ「神様への信頼」

(主日礼拝メッセージ)「神様への信頼」マルコ12章38~44節

                    仁井田義政 牧師                    

イエス様が十字架につけられる直前の緊迫した日の出来事として、貧しい女性の感動的な行為が聖書に記されました。それは、私達にこの女性のような人になりなさいとのイエス様の遺言と言えるでしょう。

★今日の聖書に記されている律法学者や金持ちの男性は、イエス様から良く言われていません。両方とも権力欲が強く、人の目に立派に見えるようにするのが大好きだからです。今日は父の日ですが、男性はこの逆の心を持って生きるならば、イエス様の心にかなう人となるのです。

★律法学者や金持ちの男性は、どうしてイエス様の御心にかなわなかったのでしょうか。律法学者は、自分の律法学者としての立場を見せびらかし、金持ちの男性は、人々からの尊敬を受けたくて、多くの献金を捧げたのです。イエス様の目は、そのことを見抜いておられました。

★今日の聖書の主人公は、神様にレプタ二つを投げ入れた女性です。イエス様はそれを見て、強い感動を覚えられました。どうしてそれほど感動されたのでしょう。レプタはこの時代の最小コインでした。日本円の最小コインは1円ですが、当時1レプタは100円くらいの価値がありました。ですからレプタ2つで約200円です。レプタ二つあれば、パンが買えたのです。しかも貧しい女性がそうしたのです。それがこの女性の「生活費の全部」(12:44)でした。この女性は、律法学者や金持ちのような、人に見せびらかすような卑しい考えから解放されていました。神様への感謝という澄み切った心でお捧げしたのです。イエス様は、その信仰を見逃すことはありませんでした。

★イエス様は、信仰の純粋性を見抜く目を持っておられました。「私の神様は明日の必要の全てを守って下さる」という信仰に立って、生活費の全部を捧げたのです。当時、女性よりも男性の方が神様に近いという考えがありました。しかしイエス様は、男性の弟子達を集めて「あなたがたの信仰も、この貧しいやもめに倣うように」と教えられたのです。イエス様は弟子達に「まことに、あなたがたに告げます」(12:43)と言われました。イエス様の感動の程がうかがえます。イエス様が4日前にエルサレムに入られてから、イエス様に近付いて来るのはイエス様の命を狙う人々ばかりでした。その中でこの女性の純粋な信仰に触れたのです。私達もこの女性のような純粋な信仰者になりましょう。

6月9日(ペンテコステ礼拝)「真実のキリストを見る」

(ペンテコステ礼拝)「真実のキリストを見る」マルコ12章35~37節

                         仁井田義政 牧師                    

 今日の御言は、イエス様の方から律法学者と民衆に質問されたことから始まります。その質問とは「キリストは、誰の子ですか」というものでした。この質問は、私達に対しての質問でもあるのです。

★そのことは、マタイとルカのイエス様の系図で「ダビデの子」と記されています。しかしイエス様は今日の御言で「タビデの子ではない」と言われています。なぜイエス様はその様なことを言われたのでしょうか。それは律法学者たちが、イエス様を「ダビデの子孫」であり、ローマを倒してくれる方と期待し、ローマを倒すことがキリストのしるしと考えたからです。

★イエス様は、詩篇110篇1節の「主は、私の主に仰せられる」という御言を引用し、ダビデ自身が「キリストはタビデの上にいる」と言っていると証言されたのです。それはローマを倒すのではなく、ローマをも救うのだという意味であり、異教徒達を倒すのではなく、本当のキリストはそれらの人々をも救うのだと言われているのです。

★イエス様は詩篇110篇1節の御言で、ご自分が死から甦って「神の右の座」に着くと言明されました。その右の座とは神の権力の座のことです。そこには「私が、あなたの敵を足の下に従わせるまでは、私の右の座に着いていなさい」と記されています。初代教会のステパノが殉教した時、天を見上げるとイエス様が神の右に立っておられたのです。(使徒7:55~8:1)

★そのステパノの殉教を、教会の敵サウロ(パウロ)が見ていました。まもなくサウロも救われて、誰よりも多くの人にキリストを伝える人となったのです。イエス様は、お生まれになる約千年前の王ダビデのように敵を殺してしまうのではなく、世界の王キリストは愛によって敵までも救ってしまうのです。ダビデは、どうしてこのようなことをキリスト誕生の千年も前に預言できたのでしょうか。イエス様は、その原因を「聖霊によって」(12:36)と言っておられます。聖霊に満たされる時、本当のキリストの姿が見えるのです。あなたも、聖霊に満たされて、真実のキリストを見る人となりましょう。

6月2日礼拝メッセージ 「何が一番大切なのか」

(礼拝メッセージ) 「何が一番大切なのか」マルコ12章28~34節

                      仁井田義政 牧師                                

私達の人生で一番大切なものは何か。これが定まらないと、いつも私達の人生はぐらぐらと揺れ動き、定まらない人生になってしまうのです。今日の御言は、私達がっしりとした背骨としなればならない大切な御言です。

★イエス様が、パリサイ派やサドカイ派やヘロデ党の人達の意地悪な質問に見事に答えられたのを知って、律法学者が来て「律法で一番大切なのは何ですか」と質問しました。律法学者はモーセの十戒をもとにして質問したのでしょうが、それをもとに細分化された戒めが284と、やってはいけない禁止命令が365ありました。つまりイエス様の時代に、計649もあったと思われます。「その中でどれが一番大切なのですか」と問われたと考えて良いでしょう。

★イエス様は、イスラエル人が毎朝唱えている「イスラエルよ。聞け」申命記6章4節を上げられました。もうひとつは、レビ記19章18節の「あなたの隣人をあなた自身のように愛さなければならない」を上げられました。律法学者は「どれが一番大切」と質問したのに、イエス様の答えは二つでした。それは二つで一つであり、一つで二つだからです。

★イエス様は「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ」と教えられました。そのように全身全霊で神を愛することです。これがないクリスチャンは、無脊髄動物のようです。では神様を愛する人は、なぜ隣人をも愛するのでしょうか。

★それは神様が隣人をも愛しておられるからです。レビ記19章9~18節には「貧しい人や身体的に不自由な人を愛せよ」と教えられています。なぜ愛するのか。神がその人達をあなたと同じように愛しているからです。そうして「あなたの神を恐れなさい。私は主である。」(14節)と記されています。 

★イスラエル人たちは、毎朝「聞きなさい。イスラエル。心を尽くし、知性を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」とシェマを唱えることを教えました。しかし本当の意味では、彼らの人生の背骨にはなっていなかったのです。イエス様に質問すると、イエス様が律法の中で最も大切なことを、的確に答えられたのです。律法学者は素直に「そのとおりです」言ったのです。イエス様は、「あなたは神の国から遠くない」と言われました。イエス様は神を愛し、人々を愛し、十字架にご自身を捧げたのです。私達もイエス様に倣って、神を愛し人を愛するしっかりと筋の通ったクリスチャンになりましょう。

 

5月26日礼拝メッセージ「大変な思い違い」

(礼拝メッセージ)「大変な思い違い」マルコ12章18~27節

                       仁井田義政 牧師  

 今日のイエス様との会話に出て来る人は、サドカイ派の人々です。彼らの歴史は、約千年前のサドクという祭司に遡ると言われています。サドカイ派は、永遠の命を信じないグループでした。彼らは、イエス様に「死後に命は存在すのかどうか」という議論を仕掛けてきたのです。

★サドカイ派の人々は、パリサイ派の人々といつも永遠の命はあるか無いかを論争をしていました。反対派をやり込める議論の模範が既に存在していたようです。イエス様の時代も、この両者は「永遠の命は存在するかどうか」で対立していました。(使徒23:7~8参照)

★今日の議論は、申命記の25章5節の氏族保存の御言を根拠にしているのは明らかです。イエス様は、彼らの間違いの原因に究明されました。原因は彼らがモーセ五書しか信じないところにありました。彼らは聖書全体を知らなかったのです。イエス様はモーセ五書にも永遠の命について記されている事を話しました。彼らは永遠の命は存在しないと思い込んでしまっていたのです。

★イエス様は「死人が甦ることはモーセの柴の個所にかかれている」(出3:6)と教えられました。イエス様の仰天な聖書の言葉の掘り起こしでした。彼らの信じているモーセ五書の中で、神様はモーセに「あなたの父の神、アブラハム・・・」と語り掛けられたというのです。それは先祖の神であることを示しています。先祖たちが死んだ後も天国にいるので、神様はそのように言われたのだと論証しました。そうしてあなたがたが信じないのは「聖書も神も力も知らないからだ」と言われました。

★イエス様は、あと数十時間で自らも死ぬ者としてこの言葉を話しています。それは十字架の死です。イエス様は十字架で「我が霊を御手にゆだねます」と祈り、死なれました。死後にも続く命を、父なる神にお委ねになられたのです。神様は、私達をも天国へと連れて行って下さるのです。 

★私達もサドカイ派のような「目に見えないものは存在しない」などと言う、偏狭極まりない考えに固まっていてはなりません。そういう考えで聖書を読んでも、イエス様が言われたように「聖書も神の力もしらない」クリスチャンになってしまうのです。黙示録を見ると、天国は神様の愛だけが満ち溢れている素晴らしい所であることが分かります。「7人と結婚した女性は天国で誰の妻になるのか」などと悩む必要がないのです。天国はこの世とは全く違う世界だからです。私達は、イエス様のように神様の力に全てをゆだねて天国に向かう人生を歩もうではありませんか。

 

5月19日礼拝メッセージ「真っ正直に生きる」

(礼拝メッセージ) 「真っ正直に生きる」マルコ12章13節~17節

                       仁井田義政 牧師  

 今日の御言は、イエス様を罠にかけてローマの法律に違反させるか、イスラエル民族の反感を買うようにしようという、イスラエルの指導者たちの悪企みのところです。イエス様はその罠を利用して、私達人間の全生活に及ぶ素晴らしい真理を教えられました。

★聖書には「わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の人数人をイエスのところへ送った。」と記されています。「彼らは」とは先程までイエス様と話していたイスラエルの指導者達のことです。送られたパリサイ人とヘロデ党の人達は、その思想においては両極端でした。パリサイ派は反ローマ的であり、ヘロデ党はローマの支配に妥協的でした。指導者達は彼らを使って「皇帝に税金を納めても良いでしょうか」という質問をさせたのです。

★イエス様は「彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」(12:15)と言われました。デナリ銀貨には、皇帝ティベリウスの肖像が刻まれていました。また「ローマ皇帝は神の子である」。の文字も刻まれていました。その彫像があるために神殿にその銀貨を捧げるのを嫌って、神殿の庭で両替をしていたのです。

★ イエス様はデナリ銀貨を取り「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」と彼らに質問しました。彼らは、「カイザルのです。」と言いました。そこでイエス様は「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(12:17)と言われました。イエス様は「納めるべきですか」という質問に、「返しなさい」と言われています。聖書の原語ギリシャ語で「納める」は、「与える」という意味なのです。与えるとは自分のものを他人に上げることです。しかしイエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。

★イエス様はなぜ「返しなさい」と言われたのでしょうか。実は私達はこの世に生きている限り、神様と国に全てを借りて生きているのです。税金も献金も「納める」というと惜しくなります。これは借りている分を返すという思いになることが大切なのです。「カイザルのものはカイザルに。神のものは神に返しなさい」なのです。クリスチャンは、この世にも神様にもごまかしのない真っ直ぐに生きて行くように心がけましょう。