9月23日礼拝メッセージ「この人のなさったことはみな素晴らしい」

(マルコNO38)「この人のなさったことはみな素晴らしい」7:31-37

                                                        仁井田義政牧師

 二週留守にしましたが、祝福された礼拝とコンサートであったと聞いています。良い礼拝になるかどうかは、聞く耳を持った会衆であるかどうかが大切です。今日の聖書の箇所ではそのことが伝わってきます。

★イエス様はガリラヤ湖の近くに戻って来られました。しかし地図で見ますと、なぜこんな遠回りをしてデカポリスに行かれたのかという疑問が残ります。デカポリスは「十の町」の意味であり、ここも外国です。ガリラヤ湖の近くですが、異邦人の入植地なのです。ユダヤ人から見たら汚れた豚を飼う町であり、5章に出て来るゲラサ人の地なのです。

★その地で、人々が耳と言葉の不自由な人をイエス様の所に連れてきて、この人に「手を置いて祈ってくださるように」お願いしました。するとイエス様は「耳に手を差し入れ、自分のつばを手にしてその人の舌につけて」祈られました。人々が「手を置いて」と願ったことを超えて、その人の閉塞に触れて下さったのです。

★私達人間にとって、コミュニケーションが取れないことは大きな苦しみです。罪の為との迷信が信じられている社会ではなおさらのことです。その祈りの時に、イエス様が「深いため息」をつかれた(34節)ことが記されています。それは、その人の苦悩の人生への同情を示しています。そしてアラム語で「エパタ=開け」と言われたのです。するとすぐに、その人はコミュニケーションが取れるようになりました。

★聖書は、デカポリスの人々が「この人のなさったことはみな素晴らしい」と言ったと記しています。イエス様は、この最も美しい信仰の言葉を異邦人から引き出しているのです。

★あなたも、自分自身の中にあるいは家族の中に、何らかの閉されたものがあり不自由があるのではないでしょうか。イエス様はあなたの苦しみに同情し、深く嘆息し「開け!エパタ」と言って、閉塞を開いてくださいます。そして「この人のなさったことはみな素晴らしい」との驚きと感動が、あなたの体験となるのです。そのことを信じて、イエス様のなさる「素晴らしい」御業を心から期待しましょう。

 

9月16日礼拝メッセージ「神を仰ぎ見る」

(礼拝メッセージ)「神を仰ぎ見る」詩篇63篇1~11節

                          楠 亜紀子師

 今日は詩編63篇から「神を仰ぎ見る」と題して、恵みをお分かちしたいと思います。

★詩篇は150の歌からできている「賛美歌集」であり、今から二千年以上前に書かれたものです。しかし現代に生きる私たちが読んでも、慰められ励まされ共感するところが多いことから、聖書の中で最も親しまれている書物だそうです。

★63篇はダビデが書いたものです。ダビデはイスラエル王国の二代目の王ですが、初代王のサウルや、実の子供アブシャロムからも命を狙われ、その度に荒野に逃げ込むことがありました。今日の63篇は、アブシャロムから命を狙われた時のことです。「荒野」は、日中は太陽がジリジリと照り付け、夜になると野の獣がうろつくような広大な荒れた土地です。ダビデは肉体的にも精神的にも厳しい状況に置かれていましたが、どのような思いをもって神様に目を向けたのでしょうか。ダビデは不平不満を言うのではなく、1節「神よ、あなたは私の神…」と神様に絶対的な信頼を置き、神様を見上げました。ダビデは肉体的な必要はたくさんあったと思いますが、何よりも神様を求め、神様に渇き、神様を慕いました。

★2節「私はあなたの力と栄光を見るために…聖所であなたを仰ぎ見ています」とあります。聖所とはエルサレムでの礼拝を指します。しかし、荒野にいても何処にいても神様を見上げ礼拝するなら、聖所で礼拝する時と同じ豊かさを持ちます。3~4節でダビデは神様の恵みは自分の命より大切だと歌い、神様をほめたたえています。更に6~7節では、夜更けに床の上で神様の恵みを思い巡らせ、ひな鳥が母鳥の陰に守られているように、神様からずっと守られてきたことを感謝して喜び賛美しています。

★私たちの人生にも色々なことがあります。時には、まるで荒野にいるかのような厳しい状況に置かれることがあるかもしれません。しかし、環境や状況に左右されず、ダビデのようにいつも神様を見上げ、神様に信頼するなら、神様は必ず守り助けて下さいます。神様の力強い右の手が私たちを支えて下さいます。私たちもいつも神様をほめたたえ、両手を上げて賛美しましょう。

小坂忠先生による礼拝&スペシャルライブコンサート

小坂忠先生による礼拝&スペシャルライブコンサート

今度の9月9日(日)に、小坂忠先生による礼拝&スペシャルライブコンサートが、溝の口キリスト教会で行なわれます。

★特別礼拝は午前11時50分からの合同礼拝になります。
★ライブコンサートは、午後3時30分開場です。
開演は午後4時です。
第一礼拝も第三礼拝もありませんので、ご注意ください。
11時50分からの合同礼拝にお集まりください。

 礼拝もコンサートも沢山の方々が来られますので、
お早めに会場にお越しください。

 

 

8月26日礼拝メッセージ「人を汚すもの」

(マルコNO36)「人を汚すもの」7章14節~23節

                        仁井田義政 牧師

 マルコ7章全体を通して語られているテーマは「汚れ」です。律法学者やパリサイ人は、イエス様の弟子達が「手を洗わなかった」と批判していながら、自分達はもっと大きな汚れと罪を神様の前に犯しているという偽善をイエス様に責められました。

★イエス様は、そこにいた弟子達とエルサレムから来た律法学者とパリサイ人に加えて群衆を呼び寄せられました。ここでの「呼ぶ」とは、大きな声を張り上げることです。群衆を呼んだのは、全ての人に知って欲しいことがあったからです。イエス様は「人の外側から入って人を汚すものなど何もない。人から出ていくものが人を汚すのである」と教えられました。

★弟子達は、イエス様のこの教えを聞いても理解できませんでした。イエス様は弟子達に「私の言うことを聞いて悟るようになりなさい」と話し「私の言葉で人間の言い伝えなどから解放されなさい」と話されました。それでも弟子達は理解できずに、群衆が去ってから「今の話はどんな意味ですか」とイエス様に質問しました。するとイエス様は、「あなたがたもそんなに鈍いのですか」と驚きました。

★理解しない弟子達に、イエス様は「体内に取り入れる食べ物は、人の体を害することがあっても、人の心まで汚すことはない。むしろ人の中から出て来る悪い考えが、人を汚すのである」と話されました。外側のことでなく、内側から出て行く汚れが人々に悪影響を与え、人々を不幸にするのですと教えられました。

★この汚れについての話は、弟子の一人が手を洗わないで食事をしたことに端を発したものです。自分の内にある汚れこそ、人々にまで悪影響を与え、その人を汚し駄目にしてしまうので、その事をしっかりと知って、聖い生活をするようにと教えられたのです。先週の御言と合わせて読むと、汚れは人の外から入るのではなく、内側から外に出て周りの人にまで影響を与えるのです。なぜ心の内側が汚れに満ちてしまうのでしょうか。イエス様は「神のことばを空文にしているからです」(7:13)と言われました。空文とは「無いものとしている」ことです。つまり聖書の御言を軽んじるところから、心が腐って来るのです。自分の汚れを人のせいにしてはいけません。私達は悪の影響を与える者ではなく、聖書の御言をしっかりと実践し、人々に良い影響を与える人となりましょう。

8月19日礼拝メッセージ「神のことばを無視している」

(マルコNO35)「神のことばを無視している」7章1節~13節

                        仁井田義政 牧師

  イエス様の所に遠いエルサレムから、「律法学者が来た」ことが記されています。この律法学者達は聖書の研究者としての第一人者であり、パリサイ人達は聖書の実践者としての第一人者です。その人達がエルサレムから来て、イエス様に「どうして、昔の人達の言い伝えに従って歩まないのか」と質問したのです。イエス様はその質問者の偽善を見抜かれました。

★律法学者は、自他共に認める御言を専門に学んだ人達でした。それに対してイエス様は学問もなく、また学問のない弟子達と一緒に、ガリラヤ地方で一万人以上の人々を集めて「神の言葉だ」と話しておられたのです。それをエルサレムで知った学者達は、大変な異端が起ったかも知れないと心配し、エルサレムから調査に来たのです。直ぐにイエス様の弟子達の中に、規律違反を見つけました。弟子の一人が手を洗わないで食事をしたのです。すると学者達は「なぜあなたの弟子達は汚れた手でパンを食べるのか」と質問しました。

★するとイエス様は、750年前の預言者イザヤの言葉を引用して「この民は口先だけ。心は遠く離れている。」(イザヤ29:13)と学者達の偽善的信仰を責められたのです。イエス様は1200年前の「父と母を敬え」(出20:12)の御言を引用し、これを破る者は死罪にされると記されているが守っているのか、と学者達に迫りました。それは「神様に献金したからもう養育費はありません」と両親に言って、年老いた両親の養育を放棄している、それが偽善だと言われたのです。

★うわべでは学者達は「神様の言葉に忠実であるかのように見せているけれども、実は神様の言葉を無視している」と言われたのです。一事が万事で「これと同じことを沢山している」とイエス様は言われました。イエス様は神の言葉を形ではなく実践するように教えられたのです。 

★私達はこの言葉を平気で聞いていてはいけません。自分はどうだろうかと問わなければならないのです。本当に神様の為に奉仕しているのだろうか、自分の名誉や称賛の為に行なっているのではないだろうか。もしそうであるなら、たとえ忙しく奉仕していたとしても神様からは遠く離れてしまっていることになります。自らを省み悔い改めて、信仰の軌道修正をしましょう。御言に自分を従わせましょう。御言に忠実に生きるクリスチャンになりましょう。

8月12日礼拝メッセージ「くまなく走り回って」

(マルコNO34) くまなく走り回って6章53~56節

                        仁井田義政 牧師

 今日の聖書の箇所は、あまりメッセージには取り上げられない所かもしれません。前の湖で起こった有名な話の付け足しくらいにしか話されないことが多い所です。実は私も前のメッセージの時に、この部分まで聖書朗読に含めてしまおうかどうか迷ったのです。しかしどうしても、そうしてはならないという思いの方が優ったのです。それはイエス様と弟子達がベツサイダという港に向かっていたのに、なぜゲネサレという港に着いたのかということが気になったからです。その観点から今日の聖書をじっくり読んでみると、今まで気が付かなかった御言に目が留まりました。それは名もなき人々が、他の人々を愛して走り回る姿でした。

★聖書の前の所では、向かっていた港が「ベツサイダ」であったことが記されています。しかし着いた港はゲネサレの地でした。私達の人生には、時として嵐のようなことが起こり、目指した所に行けないこともあるのです。その結果、予定にもなかったゲネサレに着くこともあるのです。着いた所は予想外でも、イエス様が一緒でした。時計で言うと12時の方向に行こうとしたのに、9時の方向に行ってしまったのです。しかし、そこにはイエス様の救いを必要としている人達が、イエス様と弟子達を待っていました。

★そこに着くと、人々は「イエス様だと知って」とあります。つまり人々は前にイエス様を見たか、聞いたかであったことがわかります。その中にはイエス様の癒しを体験した人か、家族の病を癒して頂いた人がいたのではないかと思われます。その人々が、イエス様の持っておられる癒しの力を他の人たちに体験させてあげようと考え「走り回った」のです。「病人を床に乗せて運んできた」とも記されています。大変なことだったと思います。

★その土地の人々は、村や町や部落も「くまなく走り回って」、イエス様の前に人々を運んできたと記されています。「せめてイエス様の衣にでも触らせていただけるようにと願った」のです。そうしてイエス様の力に期待する人々が集まった所では、すべての人が癒されたのです。

★「くまなく走り回って」イエス様の所に人々を連れて来る働きをする信仰に燃える人を必要としています。そのような人たちの奉仕によって、イエス様の力が教会に満ち溢れるのです。私たちもそのようになって、主の救いの御業を見させて頂きましょう。

8月5日礼拝メッセージ「向かい風」

(マルコNO33) 「向かい風」6章45~52節

                        仁井田義政 牧師

 イエス様は、弟子達を「強いて舟に乗り込ませ」ました。そしてご自分はその地に残り、群衆を解散させていました。「強いて」という言葉から、弟子達はイエス様と一緒にいたかったのだと思います。弟子たちは「強いて」乗り込まされた舟で嵐に遭い、命の危険にあうことになってしまったのです。イエス様は、なぜ「強いて」弟子達だけで舟を出させたのでしょう。

★弟子達は、夕方から午前3時まで向かい風で悩んでいました。約10時間も舟の上で、もまれ続けていたのです。イエス様は、弟子達の舟が波でもまれているのを山の上で祈りながら見ておられました。しかし弟子達からは、そのイエス様が見えませんでした。前の嵐の時(4:35)は、イエス様が眠っておられたとは言え、舟におられました。そのために弟子達は、眠っておられたイエス様を起こして頼れたのです。しかし今度は、イエス様が舟におられないのです。弟子達の困難な時に、イエス様がおられない状況でした。

★これは、弟子達へのイエス様による信仰のテストであったと見ても良いと思います。パンの奇跡も、ピリポへの信仰の抜き打ちテストであったとヨハネは6章6節に記しています。あと1~2年でイエス様は弟子達の目には見えなくなるのです。その中で弟子達は人生の嵐に遭うことがあるのです。主が見えない不安に陥る可能性があるのです。これは、私達の誰もが陥る不信仰という危険です。しかしイエス様は、私達から決して目を離してはおられません。闇の深い「夜中の3時頃」私たちの所に来て下さるのです。

★イエス様が弟子達の舟に近づいて来られた時、それを見た弟子達は「幽霊だ」と怯えました。イエス様が来られるはずがないと思い込んでいたからです。怯える者には、イエス様が救いに来られてもわからないのです。イエス様をさえ、自分に危害を加える者と思ってしまうのです。イエス様は、そこを「通り過ぎよう」とのおつもりであったと記されています。まさにテストです。そのテストの結果、弟子達は0点でした。 

★私達も、人生の向かい風を体験することがあります。そのような時に「イエス様は、私がこんなに苦しんでいるのに何もしてくれない、イエス様は私の苦しみの世界にはおられない」と思ってしまうのです。しかしクリスチャンは、苦難の時にこそ、信仰のテストであると知りましょう。その嵐の海で、湖の上を歩いて来られる異次元のイエス様を知るのです。

7月29日礼拝メッセージ「パンの奇跡とその意味」

(マルコNO32)「パンの奇跡とその意味」6章30~44節

                        仁井田義政 牧師

 弟子達は伝道に成功して帰ってきました。弟子達の心身の疲れは極限に達していました。イエス様はそれを見て、弟子達に「あなたがただけで、寂しい所に行って休みなさい」と言われました。「あなたがただけで」とは、群衆を置いてという意味です。弟子達はそこでパンの奇跡という大切な体験をするのです。どうして大切なのかをお話しいたしましょう。

★今日のパンの奇跡の記事は、四福音書すべてに記されています。また同じようなパンの奇跡を、マルコは8章でも記しています。しかし弟子達は二度のパンの奇跡体験によっても、その意味を知らなかったのです。(8:16-21)この真理を知るのは、イエス様の復活後のことになるのです。

★弟子達は伝道から帰ってきましたが、イエス様の所には多くの群衆がいて、ゆっくり「食事をする暇もなかった」のです。イエス様は弟子達に「寂しい所に行って休みなさい」と提案しました。弟子達は群衆を置いて舟で向かいました。ところが群衆は陸路を走ったのです。そして舟が着く前に港に到着して、イエス様と弟子達を迎える有様でした。イエス様の目には、その群衆は「羊飼いのいない羊のように」見えました。イエス様は彼らを「深く憐れんだ」と記されています。その原語の意味は「内臓が痛む」です。

★聖書に記されている奇跡は、多くが願われて行なった奇蹟です。長血の女性の癒し、ヤイロの娘の蘇り等々もみなそうです。しかし、今日のこの奇跡は、誰も望んでいませんでした。弟子達は「解散し、自分で食べ物を買うように言いましょう。」とさえ言っていました。五千人の群衆の誰一人「イエス様、私達にパンをください」とも言っていません。それなのに、イエス様は「五つのパンと二匹の魚」を弟子達に配るように言われたのです。

★パンはイエス様ご自身であり、イエス様の言葉とも見ることが出来ます。それを配るのは弟子達です。主は最後の晩餐の時にも「これはあなたがたの為に裂かれる私の体です」と言われました。復活した日の夕方、エマオの村に帰った弟子の家でパンを裂いたこと(ルカ24:30)もありました。 

★イエス様は、弟子達にあなたが手にしているパンは五千人に配っても、十二の籠に残る程の豊かなものなのだと言われているのです。聖餐式はその具現化なのです。来週は聖餐式です。今日のパンの奇跡の意味をしっかりと信じて、大切な聖餐の式に与かりましょう。

7月22日礼拝メッセージ「真理は殺せず」

(マルコNO31)真理は殺せず6章14~29節

                        仁井田義政 牧師

 今日の御言は、弟子達の伝道派遣という聖書の記事に挟まれて出て来ています。それではなぜこの所にヘロデ王が洗者ヨハネを殺害したことが記されているのでしょうか。ヨハネの首を跳ねたヘロデは、「殺したはずのあのヨハネが生き返ったのだ」とイエス様を恐れたのです。ここに今日の「人を殺しても真理は殺せない」というメッセージがあるのです。

★ヘロデ・アンテパスはヘロデ大王の息子です。ヘロデ大王は、ベツレヘムの男の子を大量殺戮した残酷な王でした。ヘロデ大王の亡き後、ローマはヘロデ大王の子供たちにイスラエルを分断統治させました。ヘロデ・アンテパスには、ガリラヤ地方を支配させました。ヘロデ・アンテパスは、兄弟ピリポの妻ヘロデアを横取りしました。「洗者ヨハネの首を」と願ったのは、そのヘロデアの連れ子サロメなのです。

★ヘロデアは、罪を指摘された洗者ヨハネを憎んでいました。ヘロデ・アンテパスは罪を責められヨハネを捕えましたが、その教えに共鳴し「神の人を殺すことは出来ない」と保護していたのです。ヨハネは、捕われても躊躇なく罪を示しました。ヘロデアは、夫のアンテパスがヨハネを保護しているのを苦々しく思っていたのです。すぐにでも殺してしまいたかったのです。

★そのような時に、ヘロデ王の誕生日になりました。父親違いの娘サロメがお祝いの踊りをしました。するとヘロデ・アンテパスは気を良くし「何でも望むものを与えよう」と言ったのです。娘はその母と相談し、「洗者ヨハネの首を頂きなさい」と言いました。ヨハネを殺してしまえば罪を責められないと思ったのです。自分のかつての夫ヘロデ・ピリポを裏切った罪を隠蔽できると思いました。ヨハネを殺して安心できると思った途端、イエス様が出てきました。そして「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と、洗者ヨハネと同じメッセージを開始したのです。 

★人々は、イエス様を「洗者ヨハネの生き返りだ」と噂しました。やがてヘロデ・アンテパスは、イエス様をも殺しました。しかしヨハネを殺しても、イエス様を殺しても、真理を殺すことなど出来ないのです。真理に従わなければ、真理があなたを殺すのです。イエス様は「私は真理です」と言われました。真理の前に罪を悔い改めるか、真理を踏みにじって裁きを受けるか、二者択一しかないのです。謙遜になって真理の言葉を受け入れましょう。

7月15日礼拝メッセージ「遣わされた弟子達」

(マルコNO30)「遣わされた弟子達」6章6~13節

                        仁井田義政 牧師

 先週は、六田弁護士がご奉仕して下さいました。素晴らしい礼拝と信徒訓練会になりましたことを感謝致します。今日からまたマルコの福音書の講解メッセージに戻ります。今回は、あえて6節を再度入れさせていただきました。今日の御言の伝えようとしているところは弟子達の信仰についてです。

★イエス様の伝道は、ナザレの人々の不信仰によって失敗(こういう言い方が良いのかわかりませんが)してしまいました。しかし、それだからと言って失望し伝道を止めてしまわれたわけではありません。聖書には「それからイエスは近くの村々を教えて回られた」(6:6)と記されています。つまり直接本丸が駄目なら、外堀を埋めることからと言うわけです。故郷のナザレ伝道の失敗の原因は、イエス様にではなくナザレの人々の不信仰にあったからです。

★イエス様は、十二人の弟子達を六組に分けて近くの村々に遣わされました。まだみな弟子になったばかりで完成はしていないのです。そのような者に「権威」を与えて遣わされました。しかし伝道に「パンも袋もお金も二枚の下着も持って行ってはいけません」と言われました。

★イエス様は、どうしてパンもお金も持って行くことを禁じられたのでしょうか。それは権威を与えられた弟子達が、謙遜にその権威を用いた伝道をしなければならないことを知らせるため、また伝道は伝道者や牧師が一人でするものではないことを学ばせるためでした。他の人の助けが必要なのです。だからと言って人々の助けを得るために、イエス様の真理をソフトなものにしてはいけません。人々の救いは「悔い改め」させることから始まります。そして悪霊追放、病の癒しが行なわれるのです。弟子達による「近くの村々の伝道」は、ナザレの村の結果とは反対に大勢の病人が癒されたのです。

★44年前の3月の春の時でした。私は卒業したら教団や教区に金銭的援助も人的な援助も受けないで、信徒ゼロからの開拓伝道をするという考えでいました。理事達は心配して「そのような無謀な伝道は失敗するからやめなさい」と忠告して下さいました。その時に私は「イエス様の弟子達は何も持たないで行くことを命ぜられ、それに従いました。すると全員伝道に成功して帰ってきました。」と主張したのです。私達も、今まで以上に助け合い協力し合って伝道の働きをすれば、必ず不信仰な所まで伝道は到達し成功するのだと確信を持ちましょう。そしてますます伝道を前進させましょう。