(11月18日礼拝メッセージ)「恵みが取り囲む」

(メッセージ)「恵みが取り囲む」詩篇32篇10節,ローマ3章24節

                           仁井田幸子師

 今日の御言を自分のものに出来れば、必ず幸せになれます。これから3つのポイントでお話しします。①聖書の言う「恵み」とは。②私達は本当に恵みを受け取っているか。③どうしたら恵みを受け取り幸せに満たされるか。

①聖書の言う「恵み」とは、全く価値のない者に神様から与えられるものです。私達は、能力のある者、価値のある者に与えられるものだと考えがちですが、それは違います。善い行ないをする者に与えられるのでもありません。イエス様を救い主として信じる者に、何の生産性もない無きに等しい者に、神様はあふれるばかりにこの恵みを注がれるのです。(ローマ3:24)

②それではそのような神様からのプレゼントを私達は受け取っているでしょうか。イエス様の十字架の赦しを知ってクリスチャンになった私達は、毎日どれだけ感謝し喜んでいるでしょうか。環境に押しつぶされて意気消沈していませんか。今日の御言を告白したダビデは、完璧な人ではありませんでした。大きな罪を犯し、激しい悔い改めの後、自らの小ささを知り、神様の恵みの大きさに驚き、こんな小さな者を神様の「恵みが取り囲んでいる」と告白できたのです。私達は、自分は神様からそんなに恵みが与えられるはずがないと思い込んでいたり、神様と一対一の関係が希薄なため神様に対する期待・求めが小さかったりしていないでしょうか。もう一度、自分を見つめ直し神様からの恵みをどれだけ受け取っているかチェックしましょう。

③恵みを頂く方法は、ただ一つ。信仰によってです。価値のないものに与えられるという御言を信じ、期待し求めることです。そしてどんな時も、ダビデが告白したように恵みが自分を取り囲んでいると受け止めることです。そうするならば、必ず幸せになれます。

11月11日礼拝メッセージ「信仰の次元を高くせよ」

(マルコNO45) 「信仰の次元を高くせよ」9章9~13節

                          仁井田義政牧師

 イエス様と弟子達の3人は姿変わりの高い山から下りて来られました。その途中、イエス様は「今見たことをキリストの復活を見るまでは誰にも話してはならない。」と言われました。それでも弟子達はイエス様が十字架につかれる意味も、復活するという意味も理解できていませんでした。

★3人の弟子達は「律法学者は、救い主の現れる前に、預言者のエリヤが現れると言っていますが、預言者エリヤが表れていないのですか」と質問しました。先程山の上でイエス様と話すエリヤを見たには見たが、すぐ消え去ってしまったからです。エリヤがイエス様と一緒に山から下りてきたら別だったでしょうが、山を下りる弟子達と一緒にイエス様しかいなかったのです。

★8章31節で「人の子は・・かならず・・殺され・・なければならない」と言われています。自分は殺されて命を失うが、人々には永遠の命を与えると言い、この地上の王にはならないと言うが、世界人類の永遠の王となると言う。既成概念で凝り固まっていた弟子達には到底理解できず信じられない事でした。本当に父なる神様の言われる通り、イエス様にしっかりと聞く以外に人間には知るすべがありません。それを教えて下さるのが神様からの啓示なのです。そして神様からの啓示はイエス様を通して行われます。ですから神様は「彼の言う事を聞きなさい」と語りかけて下さったのです。

★イエス様は救い主の受難は、聖書に「かいてある 」(12節)とおりに行われるのだと言われました。さらにイエス様はエリヤも旧約の預言のとおりすでに来ましたよと言われました。そのエリヤとは洗礼者のヨハネの事ですと話されました。洗礼者のヨハネは、聖書に書かれているエリヤとしてすでに来たのに「人々は…好き勝手な事を彼にしたのです」(13節)とイエス様は言われました。「好き勝手な事」とは洗礼者のヨハネ殺害の事です。

★「好き勝手な」生き方は現代人の理想とする生き方です。クリスチャンも気をつけなければ現代の風潮に流される危険があります。「自分の好き勝手」に合わなければ、いとも簡単にイエス様をも裏切ってしまう危険があるのです。私達は自分の「好き勝手な」信仰から脱皮しなければなりません。そして「これは私の愛する子である。彼の言う事を聞きなさい」(9章7節)という御言にしっかりと従うクリスチャンになる事です。自分の「好き勝手」な生き方を、足の下に踏みつけて、さらに次元の高い信仰者となりましょう。

11月4日礼拝「イエス様の言うことを聞きなさい」

(マルコNO44)「イエス様の言うことを聞きなさい」9章1~8節

                          仁井田義政牧師

 イエス様の教えは、弟子達にとって理解に困難を極めました。難しいからというのではなく、弟子達にはイエス様が言われた「救い主の十字架の死」などと言う考えは思いもよらないことだったからです。イエス様はその弟子達の無理解を埋める為に、3人を連れて山に登られました。そこで3人の弟子達は、イエス様をどのように信じなければならないかを天の父なる神様から聞き、学んだのです。

★それから6日経ってと記されています。いつから数えて6日だったのでしょうか。それは、弟子達にご自分の受難をはっきりと話されてから6日という意味です。6日経ってもイエス様の受難を弟子達は理解できなかったのです。そのため7日目に礼拝の為に「高い山に登られた」のでした。その高い山とは、ヘルモン山ともタボル山とも言われています。

★山に登ると、イエス様の姿が変わり白く輝きました。「姿が変わった」(2節)は、正しくは「変えられた」との受動形です。変えて見せたのではありません。父なる神様に変えられたのです。そして雲の中から「これは私の愛する子」(7節)という声が聞こえてきました。それは、イエス様が父なる神様にとってどの様な存在かを、父なる神様ご自身が教えられたことを意味しています。その言葉に続いて「彼の言うことを聞きなさい」と聞こえました。つまりキリストの受難は、弟子達がどんなに理解しようとしても、それは考えも及ばないことなので、イエス様に聞く以外に方法がないのです。

★高い山の上でのエリヤとモーセとイエス様の会話の内容は、マルコによる福音書にはありませんが、ルカ9章29~31節に「イエスのエルサレムで遂げようとしておられる最期について一緒に話していたのである」と記されています。十字架に着けられた弱く見えるイエス様が、実は強い神の子イエス様であると理解できなければ、34節にある「自分の十字架を負うて、イエス様の後をついてゆく」ことなど出来ないのです。後に弟子達と教会は、イエス様の弱く見える姿こそ、世界を変える力であることを確信するのです。

★だからこそ、イエス様のように無抵抗の歩みが、初代キリスト教会の重要な特色となったのです。天から「彼の言うことを聞きなさい」との父なる神の御声に従い、私達もイエス様の御声をしっかりと聴いて前進しましょう。

 

10月28日礼拝メッセージ 「叱られたペテロ」

(マルコNO43) 「叱られたペテロ」8章31~38節

仁井田義政牧師

   先週の聖書箇所でペテロは、イエス様に「あなたはキリストです」とはっきりと信仰告白をしました。ところが今日の御言では、ペテロがイエス様から激しく叱られたことが記されています。何故でしょう。その理由をお話ししましょう。

★先週の御言の中で、ペテロが「あなたはキリスト(救い主の意)です」と言った時、イエス様はすぐに「この事を誰にも言ってはならない」と言われました。それは、当時の人々が期待して待っていたキリスト像と変わらないものだったからです。その待望のキリスト像とは「地上の王」としてのキリストでした。しかしイエス様は、この世の王となるために来られたのではありません。

★イエス様は、正しいキリストについて話しておられます。それは、31節にあるように「多くの苦しみを受け・・殺され、三日目に甦る」というキリストでした。強いこの世の王としてキリストを待っていたペテロには、絶対に理解できなかったのです。

★イエス様が正しいキリストについて話し始められると、ペテロが「イエス様を脇にお連れしていさめ始めた」と言うのです。「いさめる」とは「叱る」ことです。つまりペテロは自分の考えを正当化して、イエス様を「先生、そんなことを言ってはいけません」と叱ったのです。ペテロがイエス様を「わきにお連れして」と記されていることから見ても明らかです。イエス様は、そのペテロを「下がれ、サタン」と激しい言葉で叱られました。

★そしてイエス様は群衆と弟子達を一緒に呼び寄せて、「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て十字架を負い、私について来なさい」と言われました。そして「自分の命を優先する者は、自分の命を失い、捨てる者は得る」と言われました。それは自分の得することばかりを求める者は、本当の生きる目的を失うということです。

★自分勝手なキリスト像をイエス様に押し付けて、イエス様に叱られるクリスチャンになってはいけません。イエス様に本当のキリストを教えていただき、その本当のキリストを信じて「私について来なさい」(8:34)と招いておられるイエス様に、心から従いましょう。

10月21日礼拝メッセージ「あなたはキリストです」

(マルコNO42) 「あなたはキリストです」8章27~30節

                          仁井田義政牧師

 イエス様と弟子達は、ガリラヤ湖周辺から徒歩で二日近くかかると思われるピリポ・カイザリヤという村に向かわれました。その地はイスラエルの国では最北に位置し、有名なヘルモン山のふもとにあります。湧き水と緑の豊かな地で、ヨルダン川の源流です。イエス様が弟子達とその地に行って「あなたがたは私を誰だと言いますか」と質問しました。あなたはこのイエス様の質問に何と答えますか。

★ピリポ・カイザリヤとは、皇帝の名前がついた皇帝の別荘地です。この地をヘロデ・ピリポが領主となって支配していました。皇帝にゴマをすって、皇帝を神とする神殿を建てたのです。もう一つ大きな神殿がありました。牧畜の神パンが祀られた神殿です。ヘロデは、政権維持の為に妥協し、そうしたのです。イエス様が弟子達をその地に連れて行って、「あなたがたは私を誰だと言いますか」と質問された意義は大きいと思います。

★まずイエス様は、「人々は私を誰と言っているか」と弟子たちに質問されました。すると「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます」と答えました。みな人間としては偉大な人物でした。しかし皆、人間だったのです。イエス様はさらに「では、あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」と質問されました。

★ペテロは「あなたはキリストです」と答えました。それは「あなたは救い主です」と告白したことです。この告白は、マルコの福音書全体にとって頂点であると見ることが出来ます。イエス様はその言葉を聞かれ、その後ご自分の「受難と復活」のことを話され、十字架の待つエルサレムへと一気に南下して行かれたのです。

★今日、イエス様は私達にも「あなたがたは私を誰と言いますか」と聞かれています。私達の周りにも、当時のピリポ・カイザリヤの村のように多くの偶像の社寺があります。イエス様は、日本にいる私達にも「人々は私を誰と言っていますか。そしてあなたがたは私を誰と言いますか」と質問しておられます。私たちはその質問に答えなければなりません。私達は一同声をそろえて「あなたはキリストです」と告白しましょう。それが教会です。それが礼拝なのです。イエス様はその告白を喜んで下さいます。

10月14日礼拝メッセージ「イエス様がはっきり見える」

(マルコNO41)「イエス様がはっきり見える」8章22~26節

                          仁井田義政牧師

 聖書は、イエス様が行なわれた奇跡の記事で溢れています。今日の盲人の癒しを通して「あなたにはイエス様が見えますか」ということが伝えられています。見えていなければ「はっきりと見える人になりましょう」と語りかけられているのです。

★7章には、律法学者とパリサイ人のことが書かれていました。彼らは学者でしたが、イエス様が見えない人たちでした。そして7章24~30節には、「ツロの女性」のイエス様に対する信仰が記されています。ツロの女性には、イエス様が見えたのです。7章31~37節は、耳が聞こえるようになった人の記事です。8章1~21節は、イエス様の行なっていることが分からない弟子達の記事です。そして今日の御言には、イエス様の奇跡によって「見えるようになった盲人」のことが記されています。聖書は、私達にキリストの本当の姿を見ていますかと問いかけているのです。

★生まれたままの人間は、誰であっても霊的な目も耳も不自由で、本当のイエス様を見ることが出来ません。その声も聞こえないのです。今日の聖書の盲人のように、イエス様に手を取って導いて頂くことが大切なのです。パリサイ人や律法学者は、本当のイエス様が見えませんでした。イエス様が手を取って盲人と相対したように、私達も礼拝において御言を聞く時も、イエス様と真剣に相対して、イエス様の御業を受け入れなければなりません。

★今回のイエス様の奇跡は、二回に分けられています。二回目には「はっきりと見えるようになった」と記されています。第一回目に何が見えるようになったのでしょうか。まず目の前にいるイエス様が見えたのでしよう。次の奇跡では「全てのものがはっきり見えるようになった」のです。 

★人間は誰でも、イエス様をはっきり見えるようになるまでは、全てのこともはっきりと見えないのです。私達は、イエス様を見るまで私利私欲に目がくらみ、立身出世に目がくらんで、本当に大切にしなければならないものが見えないことが多いのです。政治家の忖度問題、大会社のデータ偽造、改ざん問題、スポーツ界のパワハラ、セクハラ。どれもこれも立身出世や、私利私欲に目が曇らせられて起こることなのです。イエス様に目を開いて頂かなければならないのです。いつもイエス様をはっきりと見ることの出来る人になりましょう。そうすれば全てが見える人になるのです。

 

10月7日礼拝メッセージ「パンがひとつしかない」

(マルコNO40) 「パンがひとつしかない8章14-21節 仁井田義政牧師

 イエス様と弟子達は、ガリラヤ湖上の舟の中にいました。ところが弟子たちがパンを持ってくるのを忘れてしまったのです。イエス様はその機会を用いて、大切なことを話されましたが、弟子達は「パンがひとつしかない」という現実に心が支配され、イエス様の話など心に入って来ませんでした。

★イエス様は「パリサイ人とヘロデのパン種に気を付けなさい」と言われました。パリサイ人とは、イエス様を試そうとして議論を仕掛け天からのしるしを求めた人達のことです(11節)。ヘロデは、ローマからイスラエルの支配権を委ねられた政治的権力者です。パン種は、イースト菌のことで「少量でもパン全体に影響を与える」働きをします。イエス様は、パリサイ人とヘロデの言葉がどんなに小さなことでも悪い影響を与えるので気をつけなさいと話されたのです。

★パンがないことを議論している弟子達には、イエス様の教えなどうわの空でした。なぜパンを忘れたのか。誰がその係だ。お前は自分の分しか持ってこなかったのか。等々の話が飛び交っていたのでしょう。「パンがひとつしかない」という問題で弟子達の心はいっぱいになり、イエス様の真理を聞く余裕がなかったのです。これは私達にも起こりうることです。それは信仰の危機なのです。

★ パリサイ人のパン種は、「偽善に気をつけよ」ということでした。ヘロデのパン種は、「政治的なこと」です。政治が悪ければ食卓を直撃するので、政治活動によって、良い世の中にしようとします。しかしそれを絶対的であるかのように思い込んでしまう危険性が潜んでいるのです。絶対ではないものを絶対的と思い込んでしまう、それが信仰の危機なのです。

★イエス様は「まだ、わからないのですか」と言われました。イエス様の一番そばにいる弟子達がまだ悟っていないのです。彼らは既に二度もパンの奇跡を見ていたのです。ですからパンに不足しても、イエス様が必ず守ってくださることを知るべきでした。今日の聖書は、耳の障害者と目の障害者の癒しに挟まれています。あなたがたは「目がありながら見えないのですか」「耳がありながら聞こえないのですか」(18節)とイエス様は皮肉を込めて嘆かれたのです。「政治も宗教も絶対ではありません。あなたと同じ舟に乗っている私こそ絶対なのです」と言われたのです。そのイエス様が私達と共におられ、守ってくださることを信じましょう。

9月30日礼拝メッセージ「奇跡とイエス様」

(マルコNO39) 「奇跡とイエス様」8章1-13節

                                                    仁井田義政 牧師

 今日の御言は、七つのパンで四千人以上の人々に食事を与えたというイエス様の奇跡が記されているところです。このようなパンの奇跡は、6章34節からの聖書にもあります。6章の五つのパンの奇跡と比べてみると、全く状況が違うのです。なぜイエス様はパンの奇跡を二度も行なわれたのでしょうか。それは、人々の為にその奇跡が必要だったからです。

★今日の箇所の荒野は、6章34節から出て来る荒野よりも厳しい状況でした。6章は弟子がイエス様に語りかけましたが、今日の箇所では、イエス様が弟子達に語りかけられたと記されています。6章は夕食一食のことでしたが、今回は三日も食べ物がなかったと記されています。6章は雨季の青草の上に座りましたが、今回は乾燥の季節で土の上に座っています。6章は近くに集落がありましたが、今回は全く人間の住んでいる気配のない荒野で、「空腹のまま帰らせたら途中で動けなくなる」という厳しい状況でした。

★イエス様がパンの奇跡を行なわれたのは、自分をひけらかし誇示する為ではありませんでした。三日間もイエス様の話を聞き続け求め続けた人達に「食べる物がなかったので、可哀想に思い」という純粋な心からです。「可哀想に」は、内臓が痛むという意味の強い言葉です。イエス様は、イエス様を信じる者が苦しんでいる時、内臓が痛むほどに心配して下さるのです。その結果、奇跡が起こるのです。

★その噂を聞きつけたと思われるパリサイ人が、イエスを試そうとして議論を仕掛けてきました。「パンの奇跡を聞いたぞ。それは本当なのか。あなたが救い主なら私の前でも奇跡を行なって見せろ」とイエス様を試そうとしたのです。つまり「奇跡を行なって見せたら信じよう」との上から目線なのです。イエス様はその挑戦的な言動に「深く嘆息」されました。

★「奇跡を行なって見せて下さったらあなたを信じましょう」などという願いに、イエス様はお応えになられません。パリサイ人は自分の方からイエス様の所に来たのに「イエスは彼らを離れて、また舟に乗って向こう岸へ行かれた」というのです。イエス様は信じる者には豊かに恵みを注がれます。余ったパンが七つの籠にいっぱいになったと記されています。恵みに満ち溢れたイエス様を信じ、イエス様の豊かな恵みの中に生きましょう。

9月23日礼拝メッセージ「この人のなさったことはみな素晴らしい」

(マルコNO38)「この人のなさったことはみな素晴らしい」7:31-37

                                                        仁井田義政牧師

 二週留守にしましたが、祝福された礼拝とコンサートであったと聞いています。良い礼拝になるかどうかは、聞く耳を持った会衆であるかどうかが大切です。今日の聖書の箇所ではそのことが伝わってきます。

★イエス様はガリラヤ湖の近くに戻って来られました。しかし地図で見ますと、なぜこんな遠回りをしてデカポリスに行かれたのかという疑問が残ります。デカポリスは「十の町」の意味であり、ここも外国です。ガリラヤ湖の近くですが、異邦人の入植地なのです。ユダヤ人から見たら汚れた豚を飼う町であり、5章に出て来るゲラサ人の地なのです。

★その地で、人々が耳と言葉の不自由な人をイエス様の所に連れてきて、この人に「手を置いて祈ってくださるように」お願いしました。するとイエス様は「耳に手を差し入れ、自分のつばを手にしてその人の舌につけて」祈られました。人々が「手を置いて」と願ったことを超えて、その人の閉塞に触れて下さったのです。

★私達人間にとって、コミュニケーションが取れないことは大きな苦しみです。罪の為との迷信が信じられている社会ではなおさらのことです。その祈りの時に、イエス様が「深いため息」をつかれた(34節)ことが記されています。それは、その人の苦悩の人生への同情を示しています。そしてアラム語で「エパタ=開け」と言われたのです。するとすぐに、その人はコミュニケーションが取れるようになりました。

★聖書は、デカポリスの人々が「この人のなさったことはみな素晴らしい」と言ったと記しています。イエス様は、この最も美しい信仰の言葉を異邦人から引き出しているのです。

★あなたも、自分自身の中にあるいは家族の中に、何らかの閉されたものがあり不自由があるのではないでしょうか。イエス様はあなたの苦しみに同情し、深く嘆息し「開け!エパタ」と言って、閉塞を開いてくださいます。そして「この人のなさったことはみな素晴らしい」との驚きと感動が、あなたの体験となるのです。そのことを信じて、イエス様のなさる「素晴らしい」御業を心から期待しましょう。

 

9月16日礼拝メッセージ「神を仰ぎ見る」

(礼拝メッセージ)「神を仰ぎ見る」詩篇63篇1~11節

                          楠 亜紀子師

 今日は詩編63篇から「神を仰ぎ見る」と題して、恵みをお分かちしたいと思います。

★詩篇は150の歌からできている「賛美歌集」であり、今から二千年以上前に書かれたものです。しかし現代に生きる私たちが読んでも、慰められ励まされ共感するところが多いことから、聖書の中で最も親しまれている書物だそうです。

★63篇はダビデが書いたものです。ダビデはイスラエル王国の二代目の王ですが、初代王のサウルや、実の子供アブシャロムからも命を狙われ、その度に荒野に逃げ込むことがありました。今日の63篇は、アブシャロムから命を狙われた時のことです。「荒野」は、日中は太陽がジリジリと照り付け、夜になると野の獣がうろつくような広大な荒れた土地です。ダビデは肉体的にも精神的にも厳しい状況に置かれていましたが、どのような思いをもって神様に目を向けたのでしょうか。ダビデは不平不満を言うのではなく、1節「神よ、あなたは私の神…」と神様に絶対的な信頼を置き、神様を見上げました。ダビデは肉体的な必要はたくさんあったと思いますが、何よりも神様を求め、神様に渇き、神様を慕いました。

★2節「私はあなたの力と栄光を見るために…聖所であなたを仰ぎ見ています」とあります。聖所とはエルサレムでの礼拝を指します。しかし、荒野にいても何処にいても神様を見上げ礼拝するなら、聖所で礼拝する時と同じ豊かさを持ちます。3~4節でダビデは神様の恵みは自分の命より大切だと歌い、神様をほめたたえています。更に6~7節では、夜更けに床の上で神様の恵みを思い巡らせ、ひな鳥が母鳥の陰に守られているように、神様からずっと守られてきたことを感謝して喜び賛美しています。

★私たちの人生にも色々なことがあります。時には、まるで荒野にいるかのような厳しい状況に置かれることがあるかもしれません。しかし、環境や状況に左右されず、ダビデのようにいつも神様を見上げ、神様に信頼するなら、神様は必ず守り助けて下さいます。神様の力強い右の手が私たちを支えて下さいます。私たちもいつも神様をほめたたえ、両手を上げて賛美しましょう。