1月14日礼拝メッセージ「喜びをいっぱいにする」

(礼拝メッセージ)マルコNO13喜びをいっぱいにするマルコ2章18~22節

                                                                                    仁井田義政 牧師

  今日から、マルコによる福音書の連続メッセージに戻ります。イエス様は人々と楽しく食事をしていたことで、パリサイ人や洗礼者ヨハネの弟子達に非難されました。その答えとして、あの有名な「新しい葡萄酒は新しい革袋に入れなさい」という有名な話をされました。     

★パリサイ人達は、一週間に二度断食していました。月曜日と木曜日です。 バプテスマのヨハネの弟子達も、彼らの先生が蜂蜜とイナゴを食べて生きている人でしたから、当然のように断食もしていました。イエス様も決して断食を排除してはいません。イエス様の四十日の断食は有名です。

★それではイエス様は、断食をどのように考えておられたのでしょうか。イエス様は、断食を自分達の信仰の立場を誇示するために用いるべきではないと考えていました。私達は週に二回しているのに、あなたは何故しないとか言うのはもってのほかであり、すべき時に自由にするのが断食だと考えておられたのです。だからイエス様は断食そのものを否定しておられるのではなく「花婿が取り去られる時がくる。その時、彼らは断食する」と言われているように、どうしてもしなければならない時にすれば良いのです。

★イエス様は、食事に招かれると何処にでも喜んで行かれました。罪人の家にでも、パリサイ人の家にでも、喜んで行かれたのです。イエス様の食事の記事は数多くあります。十字架に付けられる最後の夜にも晩餐をもたれました。イエス様は復活後も、エマオの弟子の家で食事をし、ガリラヤ湖で弟子達の為に魚を焼き朝食の準備し、使徒の働き1章4節に記されているように「一緒にいるとき」(シュナリドメノス)も食事をしているのです。今も花婿なるイエス様が一緒におられるのです。修行的な断食や宗教的格付けの為の断食は、無用です。

★イエス様は、硬い顔よりもイエス様と一緒にいる喜びに爆発している顔を喜ばれます。旧約時代の考えのままに生きている人は、断食を好みます。イエス様は「花婿が自分達と一緒にいる時は、断食できないのです。」(19節)と言っておられます。今の時代は、花婿なるイエス様が私達と一緒にいて下さる時代なのです。「新しい葡萄酒は新しい革袋に」(22節)入れましょう。イエス様と一緒であることを喜び、その喜びで教会をいっぱいにしましょう。その喜びに満ちて、クリスチャン全員で今年の計画を立てましょう。

2018年1月18日礼拝メッセージ「霊に燃え主に仕えよ」

(礼拝メッセージ)「霊に燃え主に仕えよ」ロ-マ12章9~21節

                          仁井田義政 牧師

  新年第一回目の主日礼拝の朝を迎えました。牧師にとって、この第一回目の礼拝にどのような御言をお伝えするかは、非常に大切なことであると思っています。教会の中には、黙示録3章に出て来る「生ぬるい」教会もあるかもしれません。神様が望んでおられるのは、熱く燃える教会であり、熱く燃えるクリスチャンです。その神様の御心を、今年最初の礼拝の御言として、「霊に燃え主に仕えよ」という題でお話しいたします。

★今日の御言には「勤勉で怠らず」とあります。どの社会でも、勤勉さが成功の鍵であることは明らかです。学生は勉強に、社会人は仕事に勤勉さが求められます。勤勉とは、たゆまぬ努力のことです。「たゆまぬ」とは忍耐強い努力のことです。「よーし!今年こそやるぞ」と決意しても、私達は三日で終わることが多いのです。今日は7日ですから、もう終わっているかもしれません。御言が私達に勤勉であることを求めています。

★続いて「霊に燃え」とあります。人間は、努力や単なる決心で「勤勉で怠らず」という生活を続けられないことが多いのです。それで聖書は、「霊に燃え」と教えています。霊に燃えるとは、聖霊に心が燃やされ続けることです。聖書の中の「燃えた」という事件を拾ってみると、①出エジプト3章のモーセと消えない柴。②第1列王記18章のエリヤの祈りにより祭壇に下った火。③ ルカ24章32節のエマオの途上における弟子達の心に燃えた炎などがあります。聖霊に燃やされ続けるクリスチャンになりましょう。

★続いて「主に仕えなさい」とあります。主にお仕えするということは、クリスチャンにとって最高の幸せです。ところが主に仕えるということは、そう簡単ではないのです。まずお金に淡白(13節)にならなければなりません。敵をも愛する(14~20節)という自分との戦いもしなければなりません。悪に対して善で勝つ(21節)生き方をしなければならないのです。

★モーセもエリヤもエマオの弟子達も、あるいは使徒の働き2章に出て来る弟子達も、信仰が生ぬるくなった時に、神の火を体験して信仰の炎を熱く燃やしたのです。信仰のリバイバルです。単に「勤勉で怠らず」と言っているのではなく、「霊に燃え、主に仕えなさい」と言っているのです。「勤勉で怠らず霊に燃え、主に仕える」2018年、信仰の炎を燃やしましょう。

2018年 元旦礼拝「主の恵みの年を告げ知らせる」

元旦礼拝「主の恵みの年を告げ知らせる」ルカ4章14~21節

                         仁井田義政 牧師

 皆さん、あけましておめでとうございます。今年最初のメッセージとして、ルカの福音書4章14~21節の御言から、元旦のメッセージをお伝えいたします。

★イエス様は宣教を開始される前、40日間の祈りによって聖霊に満たされ、伝道を開始されました。その結果、ガリラヤ地方の会堂で教え「みなの人にあがめられた」と14節に記されています。その後、自分の故郷のナザレの村に帰り安息日にいつものように会堂へと入られました。

★イエス様は、会堂で聖書を朗読するために一抱えもあるイザヤ書を指名し、そのイザヤ書を会堂司が持ってきてイエス様に渡しました。イエス様はもちろん当時、章も節もないイザヤ書の61章1~2節を選んで朗読されたのです。そこは「聖霊が」「油が」と記されているところです。メシヤは油注がれた者の意であり、イエス様ご自身を指すところでした。そしてそこには「主の恵みの年を告げ知らせるために」と記されていました。「主の恵みの年」とは「ヨベルの年」のことです。ヨベルの年は、50年ごとに来る一切の束縛から解放される時でした。イエス様は、解放を告げる為に来られたのです。

★旧約聖書に記されているヨベルの年は50年に一回でしたが、本当のヨベルの年は、油注がれた方であるイエス様の宣言で始まりました。それでイエス様が「今日あなたがたが聞いたとおりに実現しました」と宣言されたのです。ナザレの人々にとっても、イエス様の言葉を聞いたその日から、恵みの年であるヨベルの年が始まったのです。

★しかしイエス様から直接「恵みの年」始まりを聞いたナザレの人々は、そのことを受け入れずに、「イエスを町の外に追い出し、丘の崖ふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした」(29節)と記されています。ナザレの人々は恵みの年の「福音」(18節)を聞きながら、受け入れなかったのです。

★2018年最初の日の元旦礼拝において、私達は聖霊満たされたイエス様が選ばれた聖書の御言を聞きました。今年もヨベルの年なのです。あなたを束縛している一切のことから解放する年なのです。それを信じるか、信じないか、イエス様を迎え入れるか、追い出すかはあなたにかかっているのです。追い出してしまうならば、2018年は何の変化もない一年になるでしょう。しかし受け入れ信じるならば、あなたにとって2018年は素晴らしい「恵みの年」となるのです。一年の始まりにイエス様の祝福を受け入れましょう。

2017年最後の礼拝「イエス様に送り出されて」

2017年最後の礼拝「イエス様に送り出されて」ルカ17章11~19節

                                                                                  仁井田義政 牧師

 今年最後の礼拝です。礼拝に大切なのは感謝です。感謝はどのような時に生まれ、どのような時に忘れてしまうのでしょうか。

★今日の御言には、重い皮膚病にかかった十人の人が出て来ます。普段は仲の悪いユダヤ人とサマリヤ人が、同じ所で生活していたようです。両方の町の境にツァラアトの村を作っていたのでしょう。その病のために「汚れている」という差別を受けて、本来敵対的な二つの民族がひとつになって生きていたのです。イエス様がその所を通られると、十人の病人は、遠く離れた所に立って「イエス様、どうぞ憐れんでください」と叫びました。

★イエス様はその声に「祭司の所に行って体を見せなさい」と言われました。それは病気の癒しの約束でした。彼らが祭司に体を見せに行く途中で、その病が次々に癒されました。しかしイエス様に感謝するために帰って来たのは、十人中一人であったと聖書は記しています。病気が治ったら、九人がイエス様との関わりから消えてしまったのです。汚れた病気だったことを後の人生で人々に知られたくなかった為であったかもしれません。しかし一人だけが九人から分かれたのです。

★その人はサマリヤ人でした。イエス様は「戻ってきたのはこの外国人のほかに誰もいないのですか」と言われました。サマリヤ人は「大声で神をほめたたえながらイエス様の足元にひれ伏して感謝した」のです。感謝の礼拝の姿でした。ユダヤ人から「サマリヤ人は神の恵みを受ける資格がない」と言われていた外国人なのです。しかしこのサマリヤ人はイエス様から「癒し」と「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」という祝福を受けたのです。

★大声で神をほめたたえながら、イエス様の所に帰ってきて礼拝したとありますが、この「大きな」はギリシャ語でメガです。「声は」フォンです。メガフォンを使ったような大声で神を賛美したのです。これこそ真の感謝の礼拝です。感謝できてこそ人間は心身が健康体なのです。イエス様は、感謝して礼拝したその人に「立ち上がっていきなさい」と言葉をかけて送り出して下さるのです。イエス様に心から感謝の礼拝をし、イエス様の力強い言葉に送り出されて、2018年に進んで行きましょう。

 

2017年12月24日 クリスマス礼拝「神が共におられます」

2017年クリスマス礼拝「神が共におられます」マタイ1章18~23節

                                                                                  仁井田義政 牧師

  皆さん、クリスマスおめでとうございます。今日の御言には、クリスマスがなぜ私達にとっておめでたいのかが記されています。

★まずその理由は、私達を罪から救ってくださる方の誕生ですと記されています。「罪」と言いますと、刑法に触れる犯罪のことだと誤解してしまうことが多いです。しかし聖書によると、それは罪の結果であって罪そのものではないことがわかります。聖書はもっと根源的な意味で「罪」という言葉を用いています。聖書で言う「罪」とは、関係の断絶のことです。どのような関係の断絶かと言いますと「神様との関係の断絶」なのです。

★人間は神様によって造られたものですから、本来は神様と一緒に生きていくのが自然でした。聖書の全てを二行くらいにまとめるならば「神様から離れた人間の悲惨と、その人間を救いに来て下さったイエス様」と言うことが出来るでしょう。神様との関係について言えば「人間と神様は、はじめ愛で繋がっていた」のですが壊れてしまい、そのためにボタンのかけ違いのように全てがずれてしまったのです。そして人間には、孤独、自分を大切に思えない、人を愛せない、犯罪等が入って来たのです。

★イエス様は、人間と神との関係修復の為に来て下さったのです。そのために「その名をイエスとつけなさい。御自分の民をその罪から救ってくださる方です」(21節)と記されています。イエス様の名前にその意味が込められています。当時使われていたアラム語で「イェーシュア」ですが、それは「神は救う」という意味です。道に迷ってどちらの方向に行ったら良いか不安な時に、道案内の人がそばに来てくれたら不安から救われます。イエス様は私達の所に、道案内に来て下さったのです。

★旅人は知らないところでよく迷います。知らない所で迷う時、不安で周りの美しさを楽しむ余裕すらありません。そのような時、その土地の人が「目的地まで私が送ってあげましょう。」と言うことがあります。そうすると旅人の心から一切の不安が消え去り、旅人は周りの景色の美しさを楽しむ余裕まで出て来るのです。イエス様は私達の人生の道案内です。いつも一緒に旅をして下さるのです。そのために私達は初めて人生の旅を楽しむ余裕が出て来るのです。私達を罪から救うために来て下さったイエス様に心から感謝しましょう。

12月17日アドベント礼拝3「マリヤの勇気とアドベント」ルカ1章27節~38節 

(アドベント礼拝3)「マリヤの勇気とアドベント」ルカ1章27節~38節                                        

                         仁井田義政 牧師

 今日は、アドベント第三週を迎えています。来週はいよいよクリスマス礼拝です。アドベントメッセージの中で、受胎告知は素晴らしく示唆に富んだところです。

★今日の聖書箇所には、天使の「おめでとう。恵まれた方。主が共におられます」と言う言葉に、マリヤが「ひどく、戸惑った」(29節)と記されています。この戸惑いがあればこそ、マリヤは私達からも遠くない存在です。マリヤはヨセフと婚約中で、マリヤは幸せでした。それなのに天使まで現れて「おめでとう」と言われたのです。ナザレの村の田舎娘に、神様がこれほどの扱いをするとは思いもよらないことでした。マリヤの「戸惑い」はそこに起こったのです。マリヤも私達と同じです。

★マリヤはこの時15歳か16歳の時であったと言われています。いいなずけのヨセフと将来の幸せが待っていたのです。婚約者ヨセフとの間でさえ結婚前に子供が出来たとなれば、両家にとって不名誉という時代なのです。ところがヨセフの知らない懐妊となれば、婚約の解消どころか、マリヤを拷問し相手を探し出し、両者を会衆の面前に引き出し、みんなで石を投げつけて処刑されてしまう時代なのです。幸せだったマリヤの身に不幸なことが起こったのです。

★マリヤは「どうしてそのようなことがあるでしょう」と言いました。自分の身に覚えがないのに、身ごもって殺される、こんな馬鹿げた恵みはないと思ったことでしょう。しかし、人間の常識的世界から見れば「どうしてそのようなことがありえましょう」という事態なのに、御使いは「聖霊が」つまり全能の神がそうして下さるのですと言ったのです。

★「聖霊がそうして下さる」と聞いても、それで全てが解決したわけではありません。身に迫る処刑が心配ですし、夫婦になる約束を交わした夫となるヨセフの怒りはどうなるのでしょう。しかしマリヤは「私は主のはしためです。あなたのお言葉通りにこの身になりますように」と受け止めるのです。信仰を持つ時に必要な勇気です。今なおマリヤの状況に心配事は残っています。勇気を奮い立たせて「私は主のはしためです」と言いました。つまり「主は私の主です」と言っているのです。そこから主の素晴らしい恵みと力が溢れ出すのです。マリヤのように、このアドベントの日にはっきりと主のしもべになりましょう。

12月10日アドベント2 礼拝メッセージ「キリストを迎えるために」

(アドベントメッセージ)「キリストを迎えるために」ルカ1章26~56節,マタイ1章18~25節 

                                                                                                     仁井田幸子 師                                       

 アドベント第二週に入りました。神様が人類に救い主を送るというご計画が実現するためには、そこに謙遜に従う人々がいました。今日は三人にスポットを当ててその信仰を学びましょう。

★一人目はもちろん乙女マリヤです。小さな町の小さな乙女マリヤに、御使いによって「聖霊によって神の御子を身ごもる」という、とてつもない知らせが伝えられました。マリヤには思いもよらない事でした。小さい頃から神様が救い主を送ってくださるという預言を聞いていましたが、まさか自分にそのような事が起こるとは、と困惑してしまいました。しかしマリヤは、戸惑いながらもご計画を受け入れました。ただそうすることには、大きなリスクがありました。マリヤはヨセフと言う青年と婚約していましたので、そのような身で妊娠していることになると、汚れたみだらな女性・婚約者を裏切った女性として、結婚は破棄され、死刑に処せられることになるのです。しかしマリヤは「お言葉通りこの身になりますように」と告白したのです。

★二人目はヨセフです。ヨセフはマリヤの妊娠を知って苦しみ、死刑になってはいけないと静かに去らせようとします。しかし神様はご計画を成就するため、ヨセフに御使いを遣わし説明します。ヨセフもまた、救い主を待ち望んでいた一人なので、戸惑いながらも受け入れ、「主の命じられたとおりになりますように」と告白します。そしてマリヤを迎え入れ支え続けます。

★三人目はエリサベツです。マリヤは御使いから、不妊の女と言われ既に歳をとっていたエリサベツも神様のご計画の中で奇跡的に妊娠していることを告げられ、エリサベツの家に向かいます。マリヤを迎えたエリサベツは、聖霊に満たされ、確信に満ちた言葉でマリヤを祝福します。その言葉で、妊娠への心配と不安の中にあったマリヤは励ましを受け、さらに主のご計画を確信し、あの有名な「マリヤの賛歌」を歌います。エリサベツとマリヤはそこで三ヶ月間、主を賛美し励まし合い、素晴らしい時を過ごします。

★この三人はみな、謙遜に神様のご計画に従いました。それゆえに今、私達は、救い主イエス様にお会いすることが出来ているのです。一人の人の従順から素晴らしい祝福が広がることを知って、私達も信仰を整えましょう。

 

12月3日アドベント礼拝「主は仕えるために来られた」  

(アドベントメッセージ)「主は仕えるために来られた」マタイ20章17~28節

                       仁井田義政 牧師                                 

 今年も今日からアドベントが始まります。クリスマスまでの四週間、イエス様は何故この世に来られたかを思いめぐらす信仰の時としたいと思います。今日はイエス様ご自身の御言から、イエス様は何のために来られたのかを見ていきましょう。

★今日の御言には、二人の弟子の母親が「イエス様、うちの子をイエス様の右と左に座らせて下さい」とお願いしました。自分の子供たちと話し合ってのことでしょう。親が子を思う姿としては理解できます。それを聞いた他の十人の弟子達が怒りました。これは、主が十字架に着くためにエルサレムに上る道での出来事でした。弟子達はクリスチャンでありながら、何も分かっていなかったのです。これはクリスチャンにとって大変不幸なことです。

★イエス様は、その弟子達に信仰のイロハのイから教えなければなりませんでした。そのイロハのイとは「イエス様は何のためにこの世に来られたのか」ということです。イエス様は「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべとなりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」と言われました。イエス様が私達を救うために、ゴルゴタの十字架へと向かっておられる時なのです。十字架において、ご自分の血の最後の一滴までも、私達の為に捧げ尽くしてくださるのです。それを聞いている者の中に、まもなくイエス様を裏切るイスカリオテのユダもいました。

★弟子達は、このエルサレム上りの時に至ってもイエス様の来られた目的を知らず母親まで巻き込んで「新しい国での自分の立場確保」の為に直談判をしています。私達も気をつけないと、キリストに仕えるよりも、自分の幸せや自分を喜ばせる為に、自分に仕えてしまうのです。自分達の身を温かい部屋で憩わせるために、イエス様を寒い馬小屋に追いやってしまうのです。もしそうならば、クリスチャンとして恥ずかしいことです。私達の為に来てくださったイエス様に、今度は私達がお仕えすべきではないでしょうか。アドベントのこの時に、私達の信仰を整えましょう。そして信仰に満ちて、クリスマスをお迎えしましょう。

11月26日礼拝メッセージ「主との驚きの食卓」

(礼拝メッセージ)マルコNO12「主との驚きの食卓」2章13~17節

                       仁井田義政 牧師

 今日の聖書箇所は、イエス様と十二弟子の一人となったマタイとの出会いのところです。イエス様との出会いで、マタイの人生は全く変わりました。

★この時期のイエス様は人々に大人気で、どこに行っても群衆に取り囲まれてしまいました。他の所に移動しようとしても、群衆がイエス様について来てしまうのでした。街道の収税所には、人々が「ローマの手先」と言って嫌う取税人が座っていました。通行税と荷物に関税をかけるためでした。人々は収税人を無視したいのです。しかしイエス様は収税人を「ご覧になって」自分の方から声をかけられたのです。そのことは収税人マタイにとって、衝撃でした。「罪人」と言われていた自分に対しての声かけだったからです。

★その声かけは、「わたしについて来なさい」という招きの声でした。マタイは収税所を後にして、自分の家にイエス様を招待しました。その家は税益で建てた大きな家であったろうと思われます。「収税人や罪人と言われていた人達も大勢いた」と記されているからです。罪人とは、刑法上の犯罪者とは違います。律法を守れなかった人達のことです。この時代の人は、二種類に分類されていました。律法を守れる人と守れない人です。ユダヤ人でも律法を守れない人は、罪人であると考えられていました。特にパリサイ派の人々はそう考えていたのです。ですからこの時も、「なぜあの人は罪人たちと一緒に食事をするのですか」と非難したのです。

★その非難に対し、イエス様は「健康な人に医者はいらない。いるのは病人です。私が来たのも正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました。これはパリサイ派の人々に対する皮肉です。彼らは、イエスがメシヤであるなら、律法を守る私達が招かれるのが当然と思っていたのです。しかしイエス様は、私は「自分は罪人だからイエス様をお招きし、信じるのにふさわしくない」と思っている人の為に来たのだと言われたのです。

★マタイの家の食卓で、主による素晴らしい人生の逆転が起こりました。あなたはどうされますか。パリサイ派の人々のように、イエス様の愛を知らずにそのまま人生を送りますか。それとも罪人や収税人のように、主と共に一緒の食卓に着き、最も親しい交わりに加えられて喜びの人生を始めますか。

イエス様を信じて、喜びの人生を生きる者になりましょう。

 

11月19日礼拝メッセージ「なぜ理屈を言っているのか」

(礼拝メッセージ)マルコNO11「なぜ理屈を言っているのか」2章6~11節

                       仁井田義政 牧師

 今日のメッセージの箇所は、ガリラヤのカペナウム町で起こったことの続きです。それは屋根を剥いで病人を吊り下ろしたという事件でした。そこにいた律法学者が、イエス様の言葉に疑問を持ちました。それはイエス様が「中風の人に、子よ、あなたの罪は赦されました」と言われたからです。そのことになぜ疑問を持ったのでしょう。

★律法学者は、聖書を全部暗記しているような人達でした。彼らも、イエス様は病人を癒すだろうと期待していました。しかしイエス様は罪の悔い改めの話をし、罪の赦し宣言をされましたが、癒しを行なわなかったのです。彼らはイエス様の「罪の赦しの宣言」に躓きました。「神は人を用いて癒しはするだろうが、罪の赦しは神のみにしかできない。イエスは人間なのに思い上がって罪の赦しまで宣言した。許しがたい」と心の中で呟いたのです。イエス様は、その呟きを見抜かれました。

★イエス様が「罪の赦しの宣言」をされたからといって、この人の罪が病気にしたと言っているのではありません。全ての人が罪人なのです。ですから律法学者も私達も罪人なのです。本当は病よりも罪の方が深刻なのです。ですから屋根を破ってまでも入って来たその人に、イエス様は罪の赦しを宣言されたのです。

★律法学者達は、優れたマジシャンを見に来る人達のように、イエス様の奇跡を見に来たのです。しかしイエス様は、誰も見ることが出来ない「罪の赦し」を宣言されたのです。律法学者達は、「罪の赦しの宣言など律法に触れることを無視さえすれば誰にでも出来る。しかし癒しは見えるので嘘はつけない。だから癒しの方が難しい」と思ったのです。

★中風の人は、屋根を裂いてイエス様の所に来ました。イエス様は、この人や私達に会うために、天を裂いて来られたのです。「人の子」(ダニエル7:13-14)「永遠の主権者」のことです。まず罪を赦す力があるから病も癒すことが出来る。病を癒す力があるから罪を赦すことが出来るのではありません。そこを間違うと、同じようで全く違う信仰となってしまうのです。最高のイエス様の御力は、罪の赦しの中に示されます。それが最高の奇跡なのです。私達は律法学者達のように理屈を言う者とならず、イエス様の罪の赦しと救いを信じる者となりましょう。