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9月17日礼拝メッセージ「神の国が近づいた」

(礼拝メッセージ)マルコNO4「神の国が近づいた」1章14~15節

                       仁井田義政牧師

  イエス様はバプテスマのヨハネの殉教死を知ると、エルサレムからは遠いガリラヤ地方に帰られ「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(1章15節)と宣教を開始されました。その宣教の内容が、この御言の中に完璧な形で記されています。

★洗礼者ヨハネがヘロデ・アンテパス王に殺されることになったのは、実の兄弟のフィリポの妻を奪って結婚していたからです。ヨハネはその罪を悔い改めるように王に迫って殺されたのです。ヨハネの死を知って、イエス様は宣教を開始されました。それも首都エルサレムではなく、北の外れ、ガリラヤ地方で開始されたのです。

★聖書を注意して読みますと、イエス様は「神の福音を宣べ」と記されています。福音とは喜ばしい知らせのことです。「王様に子が生まれた」とか、「王子様が結婚」したとか、それを民に知らせるのが福音と言われたのです。現代においても良い知らせはあります。希望の学校に合格、入社決定、結婚、病気の快気など。しかしイエス様が伝え始められたのは「神の福音」です。人間からのものではなく、神からの福音です。

★その福音の内容については、まず「時が満ちた」と言われました。ついにその時が来たのです。長い間待ち望んでいた人類の救い主が、時満ちて活動を開始されたのです。キリストの時代が始まったのです。次に「神の国は近くなった」と言われました。「神の国」とは、福音を信じる者が入れて頂ける神様の守りのことです。そこに入れるという知らせが来たけれども、そこに入るには私達人間のすべきことがあるのです。それは次に「悔い改めて福音を信じなさい」とイエス様が言われたことです。悔い改めるとは、今まで神様を無視していた生活を悔い改めて、神様を礼拝する者となることです。 

★イエス様が、遠く離れた「異邦人のガリラヤ」と言われていた所から福音宣教を開始されたと言うことは、最も神様から遠い生き方をしていたあなたのそばにも神の国が近づいたと言う喜ばしい訪れ、福音なのです。あなたも、イエス様によってごくそばに神の国が近づいたことを知って、今までの神様を無視した生き方を悔い改めて、神の福音を信じましょう。

9月10日 礼拝メッセージ「荒野で生きる」

(礼拝メッセージ) マルコNO3「荒野で生きる」1章12~13節   仁井田義政牧師

 今日 の御言には、イエス様が荒野でどのように生きられたのかが記されています。荒野のような時代に生きる私達人間にとって大切な御言です。

★イエス様は洗礼の後すぐに「御霊によって荒野に追いやられた」と記されています。前節では、天が裂けて「私の愛する子」との祝福の御言を聞いたばかりなのです。その祝福された洗礼を受けてすぐに、荒野に追いやられたのです。決してサタンによってではありません。聖霊によってです。そこにはサタンがおり、イエス様の命を狙う獣がいたのです。「荒野」というギリシャ語は「捨てられた」と言う意味です。人が住むに適さない土地なので、人に捨てられた地が荒野なのです。

★荒野は、人の住みにくい所です。祈りの言葉さえ、空しく荒野の砂に消えて行く所です。野の獣がイエス様を食べようとして、イエス様が弱るのを待っているのです。またサタンは、信仰を捨ててもっと楽な道を歩めと誘惑してきます。しかしイエス様は、御言で誘惑を逆襲されたのです。

★イエス様には、荒野の中で「御使たちが仕えていた」と記されています。人に捨てられた荒野で、イエス様には御使いが仕えていました。私達の為にも、御使いは遣わされています。どんな荒野にいても、私達は一人ではありません。神様の強い守りに囲まれているのです。厳しい荒野で私達が生きるために必要なのは、「御言による信仰」です。御言を捨て、信仰を捨ててしまうならば、御使いも離れていってしまいます。サタンも獣も私達を襲って、信仰生命を断ってしまうでしょう。しかし御言を信じて告白する限り、神様の命令によって御使いが私達を守るのです。そして御言を信じていれば、悪魔は私達に何一つ手出しが出来ません。御言を信じているクリスチャンにとって、サタンなど全く恐れる必要がないのです。

★私達の世界では、40日間断食をされ荒野の中のイエス様のように、疲れ、飢え渇き、身体的に衰弱してしまっている人がいるかもしれません。そのような時、サタンはあなたを誘惑します。その誘惑にいち早く気付いて、御言によって退ける人となるならば、「荒野で生きる」力を身に着けた人となったのです。そのような人が信仰の勝利者となるのです。荒野の試練を体験されたイエス様は、あなたの苦しみを一番知っておられます。あなたもイエス様のように神様の御言を信じて、信仰による勝利者となりましょう。

9月3日礼拝メッセージ「裂けた天」

(礼拝メッセージ) マルコNO2「裂けた天」1章9~11節 

                         仁井田義政 牧師 

   先週から、マルコによる福音書の講解メッセージに入りました。洗礼者のヨハネが荒野に人々を導き、「救い主を迎えるために罪を悔い改めて準備するように」と叫んだのです。それは「荒野で叫ぶ者の声」でした。そこにナザレからイエス様が来られて、洗礼を受けられました。

★イエス様の母マリヤとバプテスマのヨハネの母エリサベツは、従妹でした。エリサベツの夫は祭司ザカリヤです。ザカリヤ夫婦に年老いてから与えられた子が、バプテスマのヨハネなのです。イエス様の母とヨハネの母が従妹同士であれば、当然バプテスマのヨハネとイエス様も従弟同士です。しかしヨハネは祭司の子で、イエス様はナザレの大工ヨセフの妻マリヤの子なのです。イエス様の出身地は異邦人のガリラヤと言われ、差別されていました。

★罪の悔い改めの洗礼が、バプテスマのヨハネの洗礼でした。しかし罪のないイエス様が洗礼を受けようとしておられるのです。ヨハネは躊躇し止めようとしましたが、イエス様は「そうさせてもらいたい」と言われたのです。 その時のイエス様の姿は普通の人の姿であり、罪を悔い改める洗礼を受ける人達の一人として列に並ばれたのです。イエス様は罪がなかったのに、私達人間の列に並び、私達の列の一人となって下さったのです。

★イエス様が洗礼を受けられた時、天が裂け御霊が鳩のように下って来たと記されています。そして天から「これは私の愛する子」と声が聞こえたのです。それは御子イエス様への父なる神様の絶対なる信頼であり、信任の声です。イエス様の洗礼によって、四百年以上に亘る神様と人を隔てていた黒雲が裂けたことを現しています。つまり人間と天とがつながったのです。新しい時代が始まったのです。イエス様を初め、洗礼を受ける者達と神様とつながるようになったのです。そして天とつながった人達に聖霊が注がれるのです。さらにはつながった天から神様の声が聞こえる時代が始まったのです。 

★私達は、イエス様によって天が裂けて聖霊が下り、御言が聞こえる時代の中に生きているのです。しかもイエス様が、罪人である人間の列に加わって洗礼を受けて下さったことによって、神様がイエス様を「私の愛する子」と呼んでくださったのです。イエス様が人間側に立って洗礼を受けて下さったことによって、神様と人との間を覆っていた黒雲が裂けたのです。そのような時代に生きていることを信じ、神様に感謝しましょう。

8月27日礼拝メッセージ「荒野に与えられた希望」

マルコNO1「荒野に与えられた希望」1章1~8節 

                         仁井田義政 牧師 

  先週でコリント第二の手紙講解メッセージは終了しました。今日からは、イエス様の生涯が記されているマルコによる福音書を連続してお話いたします。著者のマルコは、十二弟子ではありません。弟子のペテロの通訳をしていたようで、ペテロからイエス様のことを直接聞いて記したものと思われます。執筆年代は、西暦60年頃から70年の間に書かれたと言われています。そうだとすれば、キリスト教会がローマ皇帝ネロの迫害に苦しんでいた時代に当たります。そのローマで迫害にあっているローマ人クリスチャンの為に書かれた福音書なのです。

★1節の最後に『はじめ』と書かれていますが、原文では「アルケイ=はじめ」が、いちばん最初に書かれています。これは「福音書を書き始める」ではなく、「始まり、福音、イエス・キリスト」の順で記されています。そして紀元前750年くらいの預言者イザヤの預言が引用されています。それはイエス様の誕生は偶然ではなく、預言されていたことを現わしているのです。

★続いて「荒野」という言葉が記されています。荒野からイエス・キリストの福音は始まると預言され、その預言の通りに荒野から始まったのです。この福音書が書かれた時、教会もクリスチャンも荒野の中を歩んでいました。迫害と問題の渦巻く荒野、希望が全く持てない荒野の真っただ中で、キリストによる新しい時代が始まったと宣言しているのです。あなたが今、どんなに希望を持てないような荒野にいたとしても、その荒野に新しい神の子の時代が始まったことを伝えているのです。

★神様は、希望が持てない荒野のような世界に救い主を遣わして下さいました。人間の側である私達がすべきことは「主の道を用意すること。主の通られる道を真っ直ぐにすること」なのです。それが「悔い改め」です。イエス様は荒野にいる私達に、水以上の祝福である聖霊のバプテスマを与えるために来てくださいました。

★突然、荒野の中から福音は始まったと記しています。イエス様は「ユウアゲリオン=福音」を荒野にもたらされたのです。分かりやすく訳すならば「素晴らしい知らせ」です。なぜ素晴らしい知らせなのでしょう。エルサレムの町にある神殿から排除されていた人々に、神様に受け入れられる道を開いて下さったからです。あなたもイエス様をお迎えしようではありませんか

8月20日第二コリント最終回「キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」

第二コリントNO34「キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」13章11~13節 

                         仁井田義政 牧師 

 「コリント人への第二の手紙」からのメッセジも、今日が最終回となりました。今日の部分は、手紙を書き送るための単なる最後の挨拶文ではありません。コリントへの手紙を書いた最終目的が凝縮されて記されています。

★パウロは、分裂状態にあったコリント教会に「終わりに兄弟達」と最後の挨拶文を書き始めました。コリント教会には、国籍や民族が違うユダヤ人、ギリシャ人、ローマ人がいました。それを「兄弟達」と呼んでいます。そして、そのクリスチャン達に「喜びなさい」と薦めています。どんな事があっても「主にあることを喜ぶ」ことが教会の一致する基本なのです。さらに「完全な者になりなさい」と薦めました。それは潔めのことであり、自己中心から「神様中心」になることを意味します。信仰者として大人になることです。

★次に出てくる「慰めを受けなさい」という言葉は、口語訳聖書と共同訳聖書では「互いに励ましあいなさい」と訳されています。それは人の弱さに気が付くことであり、自分の弱さを認めることでもあります。そして「一つ心になる」のです。民主主義の世界では意見が割れて一つになれない時、多数決という方法があります。しかし多数決などそれはあくまでも人間的な事であって、教会の本当の「一つ心は」、キリストがその中にいますこと以外にありません。キリストが中心であって初めて多数決が生きてくるのです。

★パウロはコリントの信徒達に「全ての聖徒達があなたがたによろしくと言っています」と挨拶を送りました。聖徒とは、キリストの働きの為に選ばれた者達です。パウロは、マケドニア教会においてこの手紙を書いていると思われます。マケドニア教会の信徒たちが、コリント教会の信徒達を思っていることを伝えています。それぞれの教会は同労者なのです。同業者ではありません。同業者であれば対立するでしょう。しかし同労者であれば、教会は違ってもキリストの福音を広める為に働く仲間なのです。教会を越えて労する御心がそこにあります。

★パウロは祝祷をもって長いコリントの手紙を終えます。それはまさに「キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがたと共にあるように。」との願いなのです。私達の教会も「キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」が豊かな教会となりますよう祈りましょう。

8月13日礼拝メッセージ「信仰を吟味しなさい」

第二コリントNO34「信仰を吟味しなさい」13章1~10節 

                        仁井田義政 牧師 

    コリント教会にいたパウロの反対者達は、当然自分達が正しいと思って反対したのです。パウロもまた自分が正しいと思って、彼らを正しい信仰に立ち返らせようとして警告と勧めをしてきたのです。最後の最後までパウロは、偽教師達に騙されたコリント教会のある者達に悔い改めて救われるようにと勧めています。

★しかしパウロは、罪を犯している者達に「今度は容赦しません」と伝えました。「二度目の滞在の時にも言っておいた」ことは、悔い改めなければ処罰として除名するということでした。この手紙でその事を伝えたのは、もう一度反対者達に悔い改める機会を与える為だったのです。

★反対者達がパウロ自身の使徒(アポストロス)としての証拠を求めたのは、強さ「雄弁さと奇跡」という証拠でした。しかしキリストは、人々を救うために「弱さのゆえに十字架に付けられ」雄弁な反論も奇跡もしなかったのです。そこにこそ「キリストの本当の愛があった」のです。そのキリストが、今は甦えられて神の力を持っておられるのです。パウロも同じでした。反対者達に悔い改める期間を与えたかったからです。それがコリントの反対者達には、パウロが優柔不断な人のように見えたのです。

★最初に話しましたように、コリントのパウロの反対者もパウロも、自分が正しいと主張して対立したのです。ですから信仰の吟味が大切なのです。ある時、イエス様の前に姦淫の現場を取り押さえられた女性が連れて来られました。この罪は当時「石打の刑=死刑」でした。人々は、イエス様を罠にかけ試そうとして連れてきたのです。その時イエス様は「罪のない者から石を投げなさい」と言われました。その結果、老人から始まり一人も石を投げつける者はいなかったのです。彼らは自分の信仰を吟味した結果でした。

★パウロは、最後の最後まで「あなたがたに厳しい処置をとることがないようにしてもらいたい」と切実に訴えています。(10節)それは使徒としてこの厳しい権威「除名する権能」が与えられたのは、教会を倒すためではなく、建て上げるのが目的だからだとパウロは言っているのです。パウロの使徒としての心、コリント教会の人々を愛する心がにじんでいます。これが伝道者や牧師の心です。私達も真理の聖書に照らし合わせ、自分の信仰を吟味しましょう。そして自分の信仰姿勢に責められる所があれば、潔く悔い改めて信仰の道をしっかりと力強く歩きましょう。

8月6日礼拝メッセージ「全ては築き上げるために」

第二コリントNO33「全ては築き上げるために」12章19~21節 

                        仁井田義政 牧師 

 パウロは、本心からではない「自分を誇る」という行為をしました。私達人間は、自分に誇るべきことがあれば、ひとつ残らず誇りたいのです。愚かなことです。コリント教会で何の制限もなく自分を誇っていたのが、偽教師達だったのです。パウロは、ここで「なぜ私は自己弁護しなければならなかったのか」について記しています。

★パウロが愚かなことと知りつつ、自分を誇り自己弁護した目的は、ただ一つコリント教会を建て上げるためでした。それは人々の正しい信仰のことです。パウロはやむを得ずした自慢話も「神の御前でキリストにあって語っているのです」と記しているように「キリストの中で」つまり、真実のみなのです。建て上げるとは、レンガや石を積み上げることに関する用語です。材料があっても、家に建て上げられなければ瓦礫なのです。

★パウロはコリント教会を建て上げるために、三回目の訪問を計画していました。しかし第二回目訪問の時のように、激しい反対に遭うのではないかと心配しました。パウロは、前回の訪問の時とは違う激しい決意を持っていました。それは、反対者が悔い改めない場合は処罰するということでした。

★教会をバラバラにしてしまっている原因は、第一コリント1章にあるように「仲間割れ」と「不品行」でした。優れた知識と能力を持った人間に付こうとするギリシャ人特有の習慣です。それとアフロディテ神殿公認の売春婦が千人もいた町だったからです。当時の地中海世界では「コリント風に生きる」との言葉が広まっていました。それは性の堕落した生活のことです。 クリスチャンになるには、その生活を変えなければなりませんでした。偽教師達は、そのままで良いですよと教えていたと思われます。 

★イエス様を信じる時は、どんな罪の生活をして来た者でも確かにそのままで信じれば良いのです。しかし信じたならば、そのままで良いはずがありません。「そのままで良いのだ」の言葉に騙されてはなりません。そのように話す牧師がいれば、その者は偽牧師です。聖書の「不品行」はギリシャ語の「ポルネイヤー」です。その言葉が「ポルノ」という英語になりました。クリスチャンは、聖い生活を目指し、キリストの教会に建て上げなければなりません。パウロは「全てはあなたがたを築きあげるためなのです」との私利私欲によらない真っ直ぐな心を記しています。私達はこれらの罪に気を付けて、素晴らしいキリストの教会を建て上げていきましょう。

7月30日礼拝メッセージ「愛すれば愛するほど」

第二コリントNO32「愛すれば愛するほど」12章14~18節 

                        仁井田義政 牧師 

 パウロは、反対者のいるコリント教会に三度目の訪問をしようとしています。その教会には、パウロに反対する偽教師に騙された人々がいたのです。衝突は予想されることでした。それでも行くことを決意しました。

★パウロがコリント教会から給料をもらわなかったことは、先週話した通りです。パウロは、他の教会から援助を受けてコリント教会を創立したのです。その教会に、パウロから遣わされたテトスと同行者が、エルサレム教会の為に募金に来ていました。偽教師達は「今までパウロは無欲に振舞ったが、エルサレ教会の献金から騙し取った」と人々に言いふらしたようです。

★パウロは、コリント教会へ訪問するに当たって、経済的な負担をコリント教会にはかけまいと、「私が欲しいのはお金ではなく、あなたがた自身である」「あなたがたのたましいの為には財も、自分自身さえ使い尽くす」と言いました。それは無限の愛でした。しかし「私が愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか」と、愛すればこその心の痛みを記しました。イエス様も正にそうでした。愛すれば愛するほど、人々からは愛されない人生を歩むことになってしまったのです。そして十字架につけられました。

★偽教師は、パウロがコリント教会から金銭を受け取らなかったことを逆手にとって、パウロはコリント教会の人々を安心させ、実は金銭を奪おうとしているのだと人々に教えました。パウロはそれに対して「自分もテトスもその他の同労者も、悪賢く何かを奪い取ったことがあるか」と潔白を主張しました。「私達は同じ心で」つまり、あなたがたの魂の為に、つまりクリスチャンとして救われて欲しいと純粋な心によって「大いに喜んで財を費やし、私自身をさえ使い尽くして来た」と言いました。

★パウロはキリストに出会わなかったなら、イスラエル社会で有能な教師となる道が敷かれていたのです。その教師としての仕事は、ビジネスとしても人が熱望する程の立場だったのです。しかしイエス様によって救われた後は、死をも覚悟して旅をしなければならなくなったのです。なぜそんな危険を冒してまで旅をしたのでしょうか。人々の救いの為です。しかし「愛すれば愛するほど、その人から憎まれる」ことになりました。悲しいことです。私達は自分の魂を愛する人の愛を、しっかりと受け止めることの出来る人になりましょう。

7月23日礼拝メッセージ「真の使徒のしるし」

第二コリントNO31「真の使徒のしるし」 12章11~13節 

                        仁井田義政 牧師 

 パウロは、偽教師達に「パウロは使徒などではない」と反対されました。その偽教師達の狙いは、パウロからコリント教会を奪い取ることでした。パウロはコリント教会を偽教師達の毒牙から救い出すために、愚かなことと知りつつも自分を誇って見せざるを得なかったのです。

★パウロは、自慢話が神様の御前に愚かなことと知りつつもそうせざるを得ず、コリント教会の人達に「あなたがたが、無理に私をそうしたのです」と言っています。偽教師達が私に対して悪口をいう時、パウロ先生はそのような方ではありませんと言うべきだったというのです。

★パウロは愚かになって、偽教師達に負けない自慢話をしようとしても「たとえ私は取るに足らない者であっても」と謙遜な言葉が出てしまうのでした。謙遜こそが、パウロのクリスチャンとしての生き方だったからです。反対に偽教師達はコリント教会の人々に、これ以上ない「大使徒」として自分を紹介していたようです。それに対してのパウロは「あの大使徒たちに」と言っています。それは皮肉を込めた言葉です。

★それでは、本当の使徒としてのしるしは何なのでしょうか。パウロは、使徒としてのしるしの最初は「忍耐を尽くして」の福音宣教ですと言っています。忍耐を抜きにして不思議や、しるし、力ある業ばかりを求めると、偽教師の罠にはまるのは現代も同じです。私達の教会にも、キリストの教会として奇蹟は起こっています。しかしそれを売り物にはしないのです。

★偽教師達は、パウロに教えられた教会は不完全な教会なので、私達が完全にすると言っていたようです。パウロはコリント教会に教理的な意味で「劣る点は何一つない」、あえて言うなら「給料を私が貰わなかったこと」と言っています。パウロは考えがあって「お金目的で新しい教えを持って来た」と言われないために、細心の注意をはらったのです。パウロの生活を支えていたのは、マケドニアの諸教会でした。(11:9)    

★使徒のしるしは、「忍耐を尽くしての宣教」です。その宣教の中で、信じる者に御業が現わされるのです。困難な時も教会を投げ出さずに伝道牧会する、それこそ真の使徒のしるしであることを知りましょう。

 

7月16日礼拝メッセージ「弱い時にこそ強いのです」

第二コリントNO30弱い時にこそ強いのです」12章7~10節 

                        仁井田義政 牧師 

 前回、パウロが第三の天に行って来たという体験が記されている箇所をお話ししました。それは誰でも体験できるなどと言うものではありません。パウロ自身も「その啓示があまりにも素晴らしい」体験だったと言っています。パウロは、神様から「高ぶることのないように・・ひとつの棘を与えられた」と言っています。その結果、パウロは「弱い時にこそ強い」自分を発見しました。

★信仰者にとって、最大の誘惑は「高ぶりと傲慢」です。パウロのように、神様に用いられる人ほど注意が必要です。パウロが「肉体にひとつの棘を与えられた」ということから見て、何らかの病気であったと考えられます。目の病気だったかも知れません。第三の天にも行き、使徒19章には、パウロの前掛けや手拭いを病者に当てただけでその病が癒されたことが記されています。まさに人々が求めていた超能力者です。しかし神様は、パウロが高ぶることがないようにと、肉体に棘を与えられたのです。

★パウロは、棘を取り除いて下さるようにと神様に三度も祈りました。三度の祈りとは激しい祈りです。イエス様のゲッセマネの祈りも三度でした。イエス様の「苦き杯=十字架」も、パウロの「肉体の棘」も取り除かれなかったのです。その両方の苦しみには目的がありました。イエスは十字架による人々の救いであり、パウロは謙遜な伝道者となることでした。しかも毎日肉体に感じる棘があるのに、「私の恵みはあなたに十分である」と神様は言われたのです。その中で感謝の生活をするように言われたのです。

★そのことによって、パウロは「神の力は 弱さの中に現れる」という逆説的真理に導かれました。一般的には「弱さ」は悪であり、「強さ」は善なのです。だから誰でも「強さ」を求めるのです。しかし強さや完全の中では、神様の力も恵みも見えなくなってしまうのです。私達に罪がなかったならば、キリストの十字架の愛は分からなかったでしょう。病がなければ神様が癒し主であられることを知らなかったでしょう。弱い私達をキリストの力が覆って下さるのです。だからたとえ弱さを持ったままでも、神様の力と恵みに包まれていることを感謝しましょう。苦しい時こそ、神様の恵みに包まれているのです。どんな時にも神様に感謝して信仰を成長させましょう。