5月3日礼拝メッセージ「この基準に従って進む」

ガラテヤ書(NO17)「この基準に従って進む」6章11~18節 

仁井田義政 牧師 

パウロは、今日の聖書の部分に、ガラテヤ人の手紙の結論を書きました。それは、「信仰の基準」です。

★12節では、「基準」に従わないクリスチャン達のことが記されています。それは、ユダヤ主義キリスト教の人々です。彼らは、十字架も復活も信じていました。しかし「割礼を受けることも必要だ」と教えたのです。自分達と自分達の教えを信じる人をユダヤ教の一派として、ローマからの迫害を受けないようにしようとしたのかもしれません。しかしパウロは、それは「見栄の為」と記しました。見栄とは、「人の目にどう見られているか」ということを優先するものです。この言葉で、一気に現代味を帯びることとなります。

★私達クリスチャンは、十字架に以外に誇りとするものがあってはならないとパウロは記しました。十字架を重要なことと信じる時に、「私に対して世界は死ぬ」と記されています。それは、世間の評価が気にならなくなると言うことです。「私も世界に対して十字架につけられた」とは欲望のことです。様々な欲望は、信仰の邪魔となります。「自分を十字架につけて殺さなかった」為に、どれほど多くのクリスチャンが、途中で信仰から離れるかしれません。

★十字架を誇ることは、クリスチャン信仰の基準です。「基準」は、ギリシャ語の「カノン」です。救いの基準となるものは、唯一キリストの十字架であると信じることが、キリスト信仰の基準なのです。それは、神の新しい創造なのです。つまり古い割礼の民であるユダヤ人ではなく、キリストへの信仰によって創られた新しいイスラエルこそが、真の神の民なのです。パウロはその人々に「平安と哀れみがあるように」と祈っています。

★パウロは、手紙の最後に至って「私は、この身にイエスの焼き印を帯びている」と記しました。焼き印とは、真っ赤に焼けた所有者の印を家畜に押すことです。絶対に消えないのです。それは、パウロが受けた迫害の傷のことかもしれません。イエス様も、十字架の上でその身に傷を受けられました。キリストの十字架の救い、これこそ信仰の「物差し」、つまりカノンであり「基準」です。十字架のみの救いを信じて、強く生きましょう。

4月26日礼拝「御霊に蒔く人」

ガラテヤ書(NO16)「御霊に蒔く人」6章6~10節

仁井田義政 牧師

 教会には牧師がおりクリスチャン達がおります。そうして男性を兄弟と呼び、女性を姉妹と呼びます。「教会に来ている人はみな家族です」と言う意味で、兄弟姉妹を使っているのです。私は初めて教会に行った時「教会には兄弟や姉妹で来ている人が多い」と勘違いしました。さあ、今日は「信仰の家族」についての御言です。

★教会は、牧師と信徒によって構成されています。牧師の起源は、旧約時代に神殿で従事していたレビ人に見ることが出来るでしょう。彼らは、土地を耕したり羊を飼ったりせず、神様にお仕えする奉仕に専心していたのです。その宮を支える為に献金をするようにされたのです。それを受けて「御言を教えられる人は、教える人と良いものを分け合いなさい」(6節)と記されているのです。それは献金のことです。牧師はその献金の中から生活の為の費用を得て、専心御言に仕える働きをするのです。

★6章8節には「自分の肉の為に蒔く者は、肉から滅びを刈り取ります」と記されています。「自分の肉の為に蒔く者」とは、自分の生活の為に全ての収入を使ってしまい、何とも思わない人のことです。そのような人は自分の欲望を優先させて生きるので、人生のどこかで誘惑に負けてしまいます。その結果は、信仰からも遠ざかり、兄弟姉妹としての教会の交わりからも遠ざかり、結果的に滅びを刈り取ることになるのです。

★「御霊の為に蒔く者」とは、教会の使命を知っている人のことです。教会は「福音の宣教」と言う霊の使命を持っています。教会に献金を献げるのは、御霊に献げることなのです。聖書は「思い違いをしてはいけません。・・自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(7~8節)と記しています。

★また「善を行なうのに飽いてはいけません」とも記されています。善は全ての人に対してすべきです。しかし「特に信仰の家族に対して行ないましょう」と聖書は勧めています。私達は神様の家族です。家族である私達が愛し合うことなくして宣教も成り立ちません。御霊は宣教の御霊です。忠実に献金を捧げることによって、しっかりと「御霊に蒔く人」になりましょう。

4月19日礼拝「御霊の人の証拠」

ガラテヤ書(NO15)「御霊の人の証拠」6章1~5節

仁井田義政 牧師

先週は復活祭でした。イエス様が復活の日や次の日曜日に弟子達に会われたこと、そしてトマスとの再会を見ても、弟子達に対するイエス様の愛は驚くばかりです。

★今日の聖書にあるように、ガラテヤ地方のクリスチャン達を「御霊の人」と呼びました。私達が「御霊の人」と呼ばれることがあったならば、「違います」と言いたくなるのではないでしょうか。パウロはこの手紙で、教会のクリスチャン達を本来あるべき姿に戻そうとしているのです。

★御霊の人とは、どのような人のことでしょうか。御霊の人と言うと、何か他の人とは明らかに違う人、預言をしたりする人、と勘違いしている人が大勢います。むしろ5章22節のクリスチャンの品性に関わる意味での「御霊の人」なのです。6章1節の「柔和」と5章23節の「柔和」は結びついています。つまり「御霊の人」とは、柔和さを備えた人と言うことなのです。

★パウロは、「御霊の人」はその柔和な心で過ちに陥った人を正してあげなさいと言っています。「過ちに陥った」とは、誘惑に負けた人のことです。私達は、誘惑に負け信仰を踏み外した人に対して案外きびしいものです。パウロは、「自分自身も誘惑に陥らないように」とも勧めています。

★パウロは、「互いに重荷を負い合い、キリストの律法を全うしなさい。」(2節)と言いました。キリストの律法とは、どんなことでしょうか。キリストの律法は、「私が・・愛したように」(ヨハネ15:12~13)と教えています。重荷を負わせるのとは違います。重荷を負い合うのです。悩み、困っている人の為に犠牲を払うのです。5節には「人には、それぞれに負うべき重荷がある」と言っています。

★2節の重荷は、「バロス」。5節は「フォールティオン」です。2節は他人の重荷であり、5節は人それぞれの重荷のこと、つまり使命なのです。ですから「御霊の人」とは、人の落ち度に対して強く自分の正しさを建てて攻撃することなく、その人が道を外して車輪が溝に落ちていたら、むしろ柔和に無償で助けてあげる人であり、それを神様からの使命として行なえる人のことなのです。私達も「御霊の人」として、柔和な心を持ちましょう。

4月12日イースター「イースターの喜び」

(イースターメッセージ)「イースターの喜び」マタイ28章1~10節

                       仁井田義政 牧師          

今日はイースターです。今年のイースターは、世界中に新型コロナウイルスが蔓延しているため、みんなで主のご復活をお祝いすることが出来ません。人類全体の規模において、これほど死を近くに感じることはなかったのではないかと思います。イエス様も死んで墓に葬られました。ところがその朝は、予想に反して墓から女性達が大喜びで帰って来ることになるのです。

★イエス様は、マタイ17章23節で「そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」と言っておられました。しかしその言葉を聞いても、弟子達は信じていなかったのです。全ての恐れは、イエス様の言われた言葉を信じないことから起こるのです。

★イエス様の墓にいた御使いは、「急いで行って弟子達にこのことを知らせなさい」(28章7節)と言いました。どうして、そのように言ったのでしょう。それは、絶望した弟子達がいるからです。神様は、弟子達を心配しておられるのです。女性達は、その言葉に従って「急いで」「大喜びで」「走って」(28章8節)弟子達の所に知らせに行きました。「大喜びで」の言葉は、ギリシャ語の「メガ」であり、大きな喜びを表わす言葉です。

★女性達は「大きな喜び」を伝えに急ぎ走りました。しかし弟子達は、女性達の知らせを信じないであろうことが予想されました。当時の人は、女性の言葉を信じなかったからです。弟子達に「よみがえられたイエス様を見たのか」と聞かれたら、イエス様の復活のお体を見てはいないので、「いいえ」と答えるしかない状態でした。すると、走っていた女性達をイエス様が「おはよう」と迎えられました。復活のイエス様でした。日本語の聖書には「おはよう」と訳されていますが、ギリシャ語は「喜びなさい」と言う言葉なのです。   

★日本も世界も、今コロナ問題で死の足音が忍び寄って来ているのを感じて、息を殺して自粛しています。自分達の身にせまる危険を感じて身を隠している弟子達のようです。しかし恐れの中で、キリストだけが希望を下さるのです。イースターの朝に、復活のイエス様は「メガ的な喜びで喜びなさい」と勧めておられるのです。私達もイエス様のご復活に感謝し、「大きな喜び」に満ちて、心から主を賛美しましょう。

(4月5日受難週メッセージ)「自分を十字架につけよ」

(受難週メッセージ)ガラテヤNO14「自分を十字架につけよ」5章16~26節

仁井田義政 牧師

 今日は受難週です。今日のメッセージの大切な所は、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉をさまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」という御言です。

★ヨハネ福音書5章39節を見ますと「聖書は私について証言しているのです」と話しておられます。確かにイザヤ53章を見ますと、そのことは明白なことです。つまりイエス様の十字架は、イエス様ご自身の考えではなく、父なる神様の人類救済の計画であったのです。その計画が、イエス様の十字架によって完成したのです。

★ですからイエス様は、地上の生涯を終わるにあたって「完了した」と十字架の上で叫ばれたのです。イエス様のように、壮絶な苦しみの中で「完了した」と言える人生があるでしょうか。さらには空虚の中にご自分を投げ出されるのではなく、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と、父なる神に死後の自分を完全に委ねられたのです。神の御心を完全に生きられた方の死の姿を、はっきりとそこに見ることが出来るのです。

★ガラテヤ書には、死ぬ時に「完成した」と言えない人生が記されています。多くの人は死が近づくと「人生でやり残したことがある」と後悔し、死後の自分に虚無を感じて恐れるのです。ガラテヤ5章19~21節に、肉の欲について「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 ねたみ、酩酊、遊興」と記されています。この中の罪汚れを行なったことのない人が一人でもいるでしょうか。肉の欲望によって人生を失敗し、生き直したいと思っても出来ずに死を迎えるのです。

★しかし、イエス様が私達の代わりに十字架について下さったのですから、私達も十字架に自分を付けてしまうことが大切なのです。それでは「自分をキリストの十字架につけてしまう」とは、どういうことなのでしょうか。それは、罪に満ちた私達の裁きをイエス様が身代わりとなって受けて下さったと信じることです。イエス様の十字架の苦しみは、私の罪のためであったと信じることです。そのことによって、私達は人生をやり直せるのです。

★ですから、自分の罪を全て十字架の上につけてしまわなければなりません。そして5章22~23節にあるように「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を求めて生きるのです。イエス様は私達の罪をご自分の身に引き受けて、十字架で滅ぼして下さったので、私達はこれからの人生を御霊に導かれて生きる人となりましょう。

3月29日礼拝メッセージ「十字架の恵みのもとに」5章2~15節

(メッセージ)ガラテヤNO13「十字架の恵みのもとに」5章2~15節

仁井田義政 牧師

今日の御言の中には、ぎょっとする程に厳しいパウロの言葉があります。異端的な教えは、キリストの十字架を無駄にしてしまう危険をはらんでいるからです。

★パウロは「もし割礼を受けるなら、キリストの十字架の救いは、あなたがたにとって何の益もないものになる」と言っています。なぜ割礼を受けるということが、キリストの救いを無駄にすることなのでしょうか。それは割礼というひとつの習慣によって救われようとすれば、神様は全ての律法を守ることを求められると言うのです。当然人間は、全ての律法を守り通すことなどできないのです。99%守ったとしても、キリストの十字架が無駄になるのです。

★イエス様は、十字架の救いを信じる時にどんな罪からも救って下さるので、割礼が有っても無くても関係がないのです。それなのに「救われるためには、割礼を受けることが絶対に必要だ」と言うところに間違いがあり、異端性があるのです。そう言っているパウロが、使徒16章3節でテモテに割礼を薦めている所があります。それは、救いの為でなく伝道の為でした。日本の教会でも、伝道の為に元旦礼拝、幼児祝福式(七五三)を行なっています。それは聖書には無いことです。救いの為ではなく伝道の為なのです。

★パウロは、律法によって人が救われるのではなく、イエス様の十字架を信じる信仰によって救われるということが、ユダヤ人達の躓きなのだと言いました。躓くという言葉は、「腹を立てる」という意味もあります。パウロは「それほど割礼にこだわるのであれば、皮膚を切るだけではなく去勢してしまいなさい」と過激な言葉を記しました。

★パウロは、ユダヤ主義者達が異邦人クリスチャン達を「なってない」と言って差別をしていることを聞いたのです。そのようにして、分裂を起こしている原因は、ユダヤ人達が異邦人を「自分達は正しい。あなたがたは間違っていると差別しているからではないか」と言っているのです。キリストの前に正しい人などは一人もいません。みんな罪人で、キリストの恵みによって救われたのです。その赦しと恵みに生かされているのが、クリスチャンなのです。教会は内部で争っていては弱体化してしまいます。私達は、イエス様の十字架の恵みにしっかりと繋がったクリスチャン生活をしましょう。

3月22日礼拝メッセージ「キリストによる自由」

(メッセージ)ガラテヤNO12「キリストによる自由」4章21節~5章1節

仁井田義政 牧師

 パウロは、20節で「どうしたら良いかと困っている」と記し、筆を置いて考えたと思われます。そしてひとつのヒントを創世記に見出し、今日の箇所を書き始めたと思われます。それが今日の「キリストによる自由」なのです。

★パウロは、アブラハムから生まれた二人の子供達と子孫について記し始めました。イシマエルの誕生は創世記16章に、イサクの誕生は創世記21章に書かれています。イシマエルは、女奴隷のハガルから人間的な考えによって生まれました。ですからイシマエルがアブラハムの子であっても、アブラハムの実子とは認められませんでした。つまり奴隷の子だったのです。それと同じように、律法を守ることに執着するなら、イシマエルと同じく律法の奴隷となると言うのです。またそうであるなら、律法を守ることを奨励しているエルサレム神殿の信仰と同じ罪の奴隷となると言うのです。

★しかし、律法が与えられるはるか以前に、神様はアブラハムに約束の子イサクを与えられました。それはイシマエルが生まれて14年後に、神の約束の子イサクが奇跡的に生まれたのです。アブラハム100歳、サラが90歳の時の子です。イサクが生まれると、年上のイシマエルがイサクをいじめ始めました。その結果ハガルとその子イシマエルは追放されてしまいます。この恨みが現代にまで続くアラブ系のイスラムと、イスラエルの対立なのです。西暦600年頃にムハンマドが、イシマエルがアブラハムの長男であって、その子孫のアラブ民族こそ神に祝福された民であると主張し、イスラム教が出てきたのです。そしてついにエルサレムに神殿を建て上げたのです。

★イエス様は、「神の国は地上の国ではない」と教えられました。パウロも今日の御言4章16節で「上にあるエルサレムの相続」を主張しました。それは天国のことです。地上の天国ではありません。そのことによって、律法からも地上の争奪戦からも解放されたのです。ユダヤ教もイスラム教も、地上支配にこだわりますが、クリスチャンは天国にこだわります。律法にこだわれば、律法を100%守れる人はいないので、神の裁きを受けるのです。地上の国にこだわれば、戦争の奴隷となるのです。イエス様は、私達を罪からも戦争からも解放して下さったのです。ですから異端の教えの奴隷になってはなりません。キリストによって与えられた完全な自由を大切にして、生きて行きましょう。

3月15日礼拝メッセージ「キリストのようになるまで」

(メッセージ)ガラテヤNO11「キリストのようになるまで」4章12~20節

                        仁井田義政 牧師          

 先週の御言4章11節で、パウロは「あなたがたの為に労したことは無駄だったのではないかと案じている。」とガラテヤ教会を嘆いています。そして、今日の御言の20節では「あなたがたのことをどうしたら良いかと困っている」と言っています。パウロは、ガラテヤの教会が再度キリストのようになるようにと、産みの苦しみを感じつつこの手紙を書いています。

★パウロが初めてガラテヤ地方に行った時、病気の為に弱っていました。その病気は「軽蔑したり、嫌ったり」(14)とあるように、外見からもわかる病気だったようです。それにもかかわらず、天使でも迎えるかのように、またキリストを迎えるかのように、私を迎えてくれた」(14)とあります。

★しかしパウロが次の伝道地を求めてガラテヤを後にすると、異端の教師が入り込みました。すると偽教師の「熱心さに」感動し、パウロが伝えた「恵みに満ちた真理」を排除したのです。パウロは、熱心さが善し悪しの基準になるのではなく、その伝えられている内容にあると言っているのです。

★パウロは「私の子供達よ、あなたがたがキリストのようになるまで、産みの苦しみをしている」(19)と記しました。牧師にとって、一度救われた者が異端を信じてしまったり、信仰を無くしてしまったりするのを見ることは一番辛いことです。その時パウロは、ガラテヤの教会に行って信徒達と話すことも出来ない状態でした。反対者とその指導者がいるからです。パウロは「こんな異端問題でなく」、恵みに満ちた福音をあなたがたに話すことが出来たらどんなに幸せだろうと嘆きました。

★そして「どうしたら良いか困っている」と記しています。パウロの伝えたのは「神の恵みに溢れた自由のある」キリスト教です。一方、異端的な律法主義的ユダヤ主義的キリスト教は、規律のとれた統一性のあるキリスト教です。「割礼を受けよ」と言えばみな割礼を受け、「律法を守れ」と言えば613の戒めを守ったのです。異端は全体主義「ファシズム」の形態を取るのです。教会は、神様の恵みが最優先です。

★パウロの伝えたキリスト教は、自由を一番大切にしました。それがキリストの体である教会の姿です。キリストのようになることが教会であり、キリストがそうであられたように、あらゆる束縛からの解放こそが福音なのです。教会は、その解放の喜びによってひとつとなりましょう。

2020年3月8日礼拝「アバ父の御霊に生きる」

(メッセージ)ガラテヤNO10「アバ父の御霊に生きる」4章1~11節

仁井田義政 牧師

いよいよガラテヤ書は4章から文面が変わって、クリスチャン達の自由について書かれ始めました。キリストを信じることは自由をもたらすのです。

★精神的に子供の状態であるとは、どういうことなのでしょうか。パウロは子供と大人の違いを例に記しました。一般的に人間は、親や教師等から教育や躾を受けます。パウロは、その様子はその家の子供であっても奴隷と何ら変わりがないと言います。親も教師も不完全な人間ですので、その教育や躾にも理不尽なことや偏りがあることも少なくありません。それで親を尊敬できなくなることも起こるのです。大人になると親の躾の元から離れ、親の言うことを聞かなくなることがあります。

★本当の自由になるためには、親を越えた完全な真理と結びつかなければなりません。大人になるということは、親を替えることです。つまり肉親の親よりも高度の愛を持つ神に信頼を移動することです。このことが出来ないと、大人になって自由になったと思っても、肉親としての親に支配されています。親を恨んだりして生きている人が多いのはその為です。本当の大人になるとは「神を父」とし、しかも「アバ父」として信頼することなのです。

★大人になっても子供の状態に留まっているのは、親との関係だけではありません。パウロは、偶像の奴隷となっている状態もそうだと言っています。当時ガラテヤ地方も、アルテミス、アフロディテ、先祖までが神として礼拝されていました。現代も、星占い、手相占い、姓名判断、印相、家相、風水等々、人間が囚われるものが多くあります。テレビ、ラジオでまで毎日放送しているほどです。それらに囚われているのは、その奴隷の証拠です。クリスチャンはそれらのいっさいから自由にされたのです。

★そして完全に自由になるには、神を「アバ、父」と呼ぶキリストの御霊にいつも満たされることです。イエス様は、神を「アバ、父」と呼んだ最初の御方です。イエス様は、その御霊を私達にも与えて下さいました。極端な言い方ですが、理路整然とした祈りさえいらないのです。「アバ、父よ」との信頼した一言の祈りさえ出来れば、全ての不安が消え去るのです。「アバ、父」の御霊に満たされるとは、そういうことなのです。私達は、いつまでも幼稚な教えに翻弄されることなく、「アバ、父よ」と祈るキリストの御霊に満たされて、自由な人生を生きて行こうではありませんか。

3月1日礼拝メッセージ「キリストにあってひとつ」

(メッセージ)ガラテヤ NO9「キリストにあってひとつ」3章15~29節

仁井田義政 牧師

現代はグローバルの時代で、数時間でどこの国にも行くことが出来ます。ですからクリスチャンは、パウロの時代以上に差別の問題を解決しておかなければならないのです。パウロの時代も、ローマ帝国の支配のもとに昔のグローバル時代でした。パウロは、そこで起こった異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンの問題に、聖書的に取り組みました。

★ユダヤ主義的な偽教師は、「律法」を持っていない異邦人を一段低く見たのです。しかしパウロは、「律法はアブラハムとの約束から430年後に与えられたもので、アブラハムとの約束の方が先である」(3:17)と言いました。つまり神様は、律法を与えていなかった時に既にアブラハムを祝福しておられると、聖書の記録をもとに主張しました。

★パウロはさらに聖書を用いて、神様はアブラハムを祝福された時に「あなたの子孫たちによって」と複数形で言わず、「子孫に」(創世記12:7)と単数形で言われたと主張しました。それはユダヤ民族という民族によってではなく、「キリストによって祝福する」という約束のことであると示したのです。つまり神様は律法がなかった時に、アブラハムにキリストによる全人類の祝福の約束をされたのだと記しました。

★それでは、律法は何のために与えられたのかという問題がユダヤ人クリスチャンたちから起こります。パウロはその問題にも答えました。律法は、キリストが現れるまでの養育係であって、「律法は全ての人を罪の下に閉じ込める為に与えられた」(3:22)と記しました。律法は「自分は罪人である」ということを教え、キリストの赦しにのみ救いがあることを教える「養育係」(3:24)の働きをし、有効であったと記しました。

★そこにはユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、男子も女子もなく、神の御子イエス様によって救って頂いた尊い人達であるのに、皮膚の一部に傷をつけたかどうか等と言う「割礼」のことで「異邦人はそれがないから劣っている」等という差別は愚かなことであり、「イエス様を信じる者はひとつであり、アブラハムの子孫なのです。そして、その祝福の相続人なのです」と言っています。グローバルな時代が来ています。益々クリスチャンは、聖書の教える真理に立ち、人間の平等を大切にしましょう。それが平和の道なのです。