7月11日礼拝「パウロの同労者テモテ」

ピリピ書講解(NO9) 「パウロの同労者テモテ」2 章 19~24 節
                    仁井田義政牧師
パウロは、2章の終わりに二人の同労者について記しています。ひとりはテモテで、もう一人はエパフロデトです。パウロの伝道は、決してパウロひとりの働きではありません。このような人達が一緒に働いてくれたので、伝道が出来たのです。今週は、テモテを紹介したいと思います。


★テモテは、ルステラという町の出身で、父はギリシャ人、母はユダヤ人(使徒 16:1)です。彼の祖母ロイスも母のユニケも、聖書の神様を信じていた
人でした。(Ⅱテモテ 1:5)。テモテは、パウロによってキリストに導かれた青年でした。パウロは、ピリピ教会の設立をテモテと一緒に行ないました。だからピリピの人達は、テモテを良く知っていたのです。


★獄中のパウロは、ピリピ教会の状況を知りたいと思い、テモテを遣わしました。そしてこの手紙で、ユウオデアとスントケの問題解決をしたかったのです。パウロのこの手紙が「良い結果となった」という知らせを聞いて、励ましを受けたいと願いました。この手紙を届ける適任者は、ピリピ教会の設立に共に働き、今もピリピ教会を愛し心配しているテモテだったのです。パウロは、テモテを信頼して遣わす計画をしたのです。


★パウロは、一般的なクリスチャンの生活を例にして、テモテの献身的な奉仕を際立たせています。それは「誰もみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいない」という言葉です。しかしテモテは「子が父に仕えるように福音に奉仕し」と言っています。それはパウロに仕えてはいるが、福音の創始者イエス・キリストに仕えていると言う意味の言葉です。


★パウロはこの手紙を書きながら、もうすぐ下るだろう判決を待っていました。その結果をピリピ教会に知らせるためでした。しかし結果はこの手紙に書かれていないので、判決は保留となりました。この後にも、獄中からコロサイとピレモンへの手紙を書いているので、明らかです。


★テモテはパウロの判決の出ないまま、この書をもってピリピ教会へ向かいました。向かったといっても、当時の旅は命がけのものでした。青年テモテは、命がけで福音の為に働いたのです。私達もテモテのように、イエス・キリストの為に、福音の為に、心から奉仕する人となりましょう。

7月4日礼拝「星のように輝け」

ピリピ書講解(NO8) 「星のように輝け」2章12~18節

               仁井田義政牧師

 パウロは、「十字架の死にまでも従われました」というキリストの模範を受けて「そういう訳ですから」と続けます。キリストがそのように従順に生涯を全うされたように、あなたがたも従順を心掛けて信仰生涯を全うしなさいと言っています。そのためには、どのようなことが必要であり大切なのでしょうか。

★パウロがピリピにいた時、信徒達は他の教会になかったほど従順でした。その時から十年近くもパウロを見ていないのですが、彼らは変わらず従順でした。イエス様も、今は肉眼では見えない存在です。当時のパウロとピリピ教会の関係と同じです。だからますます従順であるようにとパウロは記しています。教えに従順に従うことによって、救いの達成に努めるのです。イエス様も、生涯の全てで父なる神様に従順であられました。

★神様に従順に生きるとは、具体的にはどのようなことを意味するのでしょうか。私達の人生には、楽しいことも苦しいことも起こります。楽しいことが起こった時には傲慢にならず、苦難の時には「つぶやかず、疑わずに行ないなさい」と教えています。それは「理屈をこねない」で従うことです。理屈は、自分中心の考えの理由付けになりかねないからです。イスラエル民族が奴隷から解放されて出エジプトした時も、神様の守りを信じないで不平ばかりを言って、神様の怒りをかいました。

★15-16節に「曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、…世の光として輝くためです」とあります。他の訳では「星のように輝く」と訳しています。「邪悪な世代」とは、神に敵対している時代のことであり、神をも恐れないで嘘をつく人々の闊歩する時代のことです。その暗闇のような世の中で、燦然と輝く星のように生きるのです。その秘訣を「いのちのことばをしっかり握って」と教えています。

★パウロは、ピリピの信徒達が神様に従順に生きてくれれば「あなたがたに努力し苦労して伝えた私の働きが無駄ではなかった」と確信することが出来るというのです。神に敵対した邪悪な時代にあって、クリスチャン生涯を全うし、夜空の星のように輝く生き方をするためには、神様に対する徹底した従順が必要です。私達は、神様に従順なクリスチャンになって、夜空の星のように輝くクリスチャンになりましょう。

6月27日礼拝「私達の模範」

ピリピ書講解(NO7) 「私達の模範」2章5~11節

仁井田義政牧師

ピリピの教会は、素晴らしい教会でした。しかし教会内に、ユウオデヤとスントケという女性達の争いが起こりました。パウロは、その問題が教会の伝道力を奪う危険を感じ、その解決のために模範者としてのキリストを示しました。

★パウロは「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい」と記しました。それは、2章2~4節の「他の人を自分よりも優れた者と思いなさい。」との言葉を受けています。

★しかし現実的に、私達が他の人を愛せなくなった時、どうすれば良いのでしょうか。パウロは、キリストに倣いなさいと言っています。今日の御言の何節かは、当時の讃美歌の歌詞だった可能性があると言われています。ピリピの教会は、賛美によって生まれた教会と言っても良いのです。(使徒16章25節には、ピリピの夜の獄中で、パウロとシラスが讃美歌を歌っていたことが記されています。)

★今日の御言の内容は、謙遜のキリストです。神の子キリストが(しもべ)となり、十字架に付けられて殺されるまで、謙遜を貫き通されたのです。十字架につけられることは、ユダヤ人にとって屈辱的で堪えがたいことでした。(申命記21:22~23)しかしイエス様は、自らを低くし「苦難の僕」の預言(イザヤ53章)のように従い通したのです。

★人間の救いの為に、ご自分を低くして十字架の屈辱まで甘んじて受けて下さったキリストを、父なる神様は全ての上に高く引き上げてくださいました。天にあるもの、地にあるもの、地下にあるものが全て「膝をかがめる」世界の王として下さったのです。そのことで「父なる神様が崇められるためである。」と記されています。つまり、キリストの謙遜によって、父なる神様が栄光をお受けになるのです。

★キリストの謙遜は、「世界中で父なる神の名がほめたたえられる」という結果をもたらしたのです。つまりキリストの謙遜は、世界伝道につながったのです。そのキリストの十字架にまで至る謙卑があったゆえに、ユウオデヤとスントケという女性達も救われたのです。また私達も救われているのです。私達もキリストに倣って謙遜な者となり、互いに許し合い、教会の前進の為に、クリスチャン同士の平和を最優先しようではありませんか。

6月20日礼拝「一致を保ちなさい」

ピリピ書講解(NO6)「一致を保ちなさい」2章1~4節

仁井田義政 牧師

今日の中心的な御言は、「一致を保ち」です。ピリピの教会は、初代教会の中では素晴らしい教会でした。しかしそれは、他の教会と比べて問題が比較的に少なかったということです。パウロは、ピリピの教会に不一致という危険の芽を感じて、この手紙を書きました。

★今日の御言は、先週話しました御言と繋がっています。本来、手紙に章節はないので、繋がっているのは当然です。1節に「キリストの励まし、愛、御霊の交わり」という言葉が出てきます。ピリピの教会にそれがなかったからではなく、むしろあなたがたにはそれらがあるでしょうという意味で書かれています。あなたがたはキリストに愛され、そしてあなたがたもキリストを愛しているでしょう。「それならば」との意味です。

★ピリピの教会に、不一致問題が起こっていました。ただそれは、教会が二分するような大きな問題ではなく、むしろ個人的なものでした。それは4章2節にある「ユウオデアとスントケ」という二人の女性達のいざこざでした。この二人は、教会の女性達の中では指導的な存在で、福音を広めることに熱心でした。(4:3)

★教会は、キリストのもとに一致し志を同じくする時、最も大きな力を発揮することが出来ます。主は「二人が心を合わせて祈るなら」と、マタイ18章19節で教えています。サタンは教会がその力を持つことがないように、いつもちょっかいを出すのです。まるで主の教えを逆利用しているようです。

★ユウオデアとスントケは、教会で用いられていた人達でした。クリスチャンは用いられても、傲慢にならないように注意しなければなりません。その秘訣をパウロは「他の人を自分よりも優れた人と思いなさい」と教えています。しかし、これが一番難しいのです。私達は、自分を人よりも優れていると思いたいのです。それでパウロは、私達のその固い自我を砕くために、強烈な爆弾を投げ込んできました。それが、来週の御言に出てきます。

★パウロは1章2節で「私の喜びが満たされるように」と言っています。パウロの喜びは、遠く離れた地にあるピリピ教会の二人の姉妹達が互いに悔い改め「一致」してくれることでした。信徒達がひとつになる時、教会は最大の力をもって伝道することが出来るのです。私達も「一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志をひとつにして」伝道に前進しましょう。

6月13日礼拝「霊により心をひとつにして」

ピリピ書講解(NO5)「霊により心をひとつにして」1章27~30節

仁井田義政牧師

 パウロは、迫害の中にあるピリピの教会に「福音にふさわしく生活しなさい」と教えています。しかし「福音にふさわしく」と言われると、たちまち私達は自信を失ってしまうのです。なぜでしょうか。

★パウロはローマの獄中にいましたが、パウロの願いは釈放されて自由の身になることではありませんでした。また釈放されて、自分を信頼してくれているピリピの教会に行き、互いに喜び合うことでもなかったのです。パウロがただひとつ獄中で願っていたのは「ピリピの教会の信徒達が福音にふさわしく」生きることでした。

★それでは、福音にふさわしく生きるとは、どのようなことなのでしょうか。「福音にふさわしく生きる」とは、律法主義的に生きることの反対の言葉です。私達が「福音にふさわしく生きなさい」と言われると、不安になるのは律法主義になっている証拠です。「福音にふさわしく生きる」生活とは、すでにイエス様に救われていると信じて生きることです。

★私達クリスチャンは、すでに救われているのです。しかし救われているクリスチャン同士でも、考え方や気質は違います。いやその違いこそ大切であり、教会の力なのです。しかし、心においてはひとつにならなければなりません。心をひとつにするのは、聖霊様の働きです。聖霊様は、ペンテコステの日に強い教会を建て上げられました。使徒の働きは、聖霊様に満たされて歩んだ初代教会の歴史なのです。

★パウロは「福音にふさわしく生きる」生活として、「どんなことがあっても反対者たちに驚かされることはない」と教えています。反対者は迫害者を含みますが、その陰でキリスト教徒迫害に人々を用いているサタンのことでもあります。「驚かされることはない」は、馬が突然、何事かに驚き慌てふためく様子です。福音にふさわしく生きる時、驚かないというのです。迫害する者にはそれが滅びの印であり、迫害されるクリスチャンにとっては、それが救われていることの印だからです。「信仰だけでなく、キリストの為に苦しみをも賜った」(29節)という理解が、クリスチャンを強くするのです。

★そのような教会の力は「霊をひとつにし、心をひとつに」(27節)する以外ありません。私達も聖霊に満たされて、ひとつ心となりましょう。そして迫害や逆境に負けないクリスチャンになりましょう。

6月6日礼拝「キリストのために生きる」

ピリピ書講解(NO4)「キリストのために生きる」1章20~26節

仁井田義政牧師

 獄中にあるパウロは、今日の御言にあるように、切なる祈りを捧げています。「切なる祈り」は、生きるにしても死ぬにしても、キリストが崇められることでした。私達の切なる祈りは何でしょうか。

★パウロは、処刑の決定がいつ下されるか分からないような状況にありました。処刑となれば、ローマの平和を乱し皇帝にたてついた者として、民衆の前に引き出され、そこで見世物にされ、殺されるのです。そのような状況下で、自分の生と死を前にして、切なる祈りをしていたのです。

★パウロの切なる祈りは、「生きるにも死ぬにもキリストが崇められますように」でした。パウロは獄中にあっても、自分の罪がさらに重くなるようなキリスト伝道を続けていたのです。パウロにとっては、「私にとって生きるのはキリスト」だったからです。その「生きる」とは、人生の目的のことです。

★パウロは、「死ぬこともキリストの為、生きるのも教会の為になる」という二つの板挟みになっていました。パウロは「死んでキリストのもとに行くこと、これ以上の幸せはない。しかし生きていれば、教会の為に活動ができるという生き方でした。処刑されずに生きながらえれば、ピリピ教会にも再度行って、信仰の励ましも出来ると思っていたのです。しかし、それは実現しませんでした。パウロは、数年後に処刑されたのです。

★パウロは、「私の人生の存在目的は、キリストの為に生きるところにある」「私にとって生きるのはキリスト、死ぬことも益です」と言っています。私達日本のクリスチャン達に必要なのは、まさにパウロのような人生目的の明確化なのです。私達日本の多くのクリスチャン達は、イエス様を信じた後も相変わらず「自分の為に生きている」ことが多いのではないでしょうか。しかし自分の為に生きるという古い生き方は、洗礼の時に殺してしまったのではないでしょうか。新しくなった私達の人生の目的は、生きるにも死ぬにも、キリストの為になるように生きることなのです。そうするのは、キリストが私達を救うために十字架で死んでくださったからです。

私達もパウロに倣って、「キリストの為に生きる」ことを揺るぐことのない人生目的としようではありませんか。

5月30日礼拝「前進する福音」

ピリピ書講解(NO3)「前進する福音」1章12~19節

仁井田義政牧師

先週はペンテコステであり、教会誕生の記念日でもありました。その日からこの手紙まで、30年近く年月が経過しています。今日の聖書箇所には「前進する福音」というテーマが記されています。

★パウロはローマの獄中にいます。小アジアからヨーロッパのギリシャ地方へと多数の教会を設立したパウロの逮捕は、当時諸教会に衝撃となって伝わったことでしょう。それを憂い心配する人達や、むしろ神様に捨てられたと思った人達もいたようです。ピリピの教会はパウロを信頼していたので、信徒達が心配していたと思われます。

★パウロはその教会に「私が捕えられたことは、福音の前進となった」と記しています。それはローマの獄中にいるからこそ、皇帝に仕える「親衛隊全員」にキリストを伝えることが出来たのだと言っているのです。私が捕えられていようと「福音は前進している」と、パウロは言っています。

★パウロは私が捕えられていても「福音が前進していることを喜び、これからも喜ぶと」と言っています。初代教会に全く問題がなかったわけではありません。パウロも「人々の中には、ねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいます。一方の人達は愛をもってキリストを宣べ伝え」(15-16節)と記しています。パウロは、不純な動機で伝えている人達を認めているのではありません。むしろ福音の力を信じて喜んでいるのです。異端は消滅し、純粋な福音は前進するからです。パウロは、ピリピの教会の祈りと、キリストの御霊の力を確信して、獄中にあっても前進している福音と教会を見て、喜びに満されているのです。

★パウロは自分が捕えられたことによって、福音の前進が停滞したり、消滅したりするとは考えていません。キリストの福音自体に力があると信じていたからです。来週の聖書箇所を見れば、パウロは明らかに自分の処刑を予感しています。しかしパウロには、喜びがありました。これからもどんなことがあっても「喜ぶ」と言っています。福音は、福音そのものに力があるので、どんなことがあっても前進するのです。だから2021年の現在、クリスチャンが人類総人口の三分の一にまで前進したのです。パウロのように私達も、祈りの力と福音の力を信じ、喜びましょう。

5月23日ペンテコステ記念礼拝「渇きを癒す聖霊」

ペンテコステ記念礼拝「渇きを癒す聖霊」ヨハネ7章37節~39節

                      仁井田義政牧師

 今日はペンテコステ記念礼拝です。イエス様は大勢の人達を前にして、この言葉を「大声」で言われました。その時、エルサレムには、神殿で行われる仮庵の祭に集うために、各地から人々が集まって来ていました。その日はギボンの泉から金の水差しで水を汲んで祭壇に注ぐ儀式が行われるのです。イエス様は、その時この人達に大切なことを伝えなければならないという思いに満たされました。

★イエス様は、「だれでも渇いているものは私のもとに来て飲みなさい。」と言われました。それは、旧約聖書にある約束でした。十字架以前、聖霊が働いていなかったのではありません。十字架以前は「川となって流れる」程には聖霊が与えられていなかったのです。イエス様は、大声で「渇くことのない水、聖霊が下ります」と叫ばれたのです。

★約束のように、ペンテコステに下った聖霊の特徴は、「生ける水の川が流れ出る」ので、なくなることがないのです。地上の水のように、渇いたらまた飲む必要もありません。聖霊はいつも一緒にいて下さり、満たして下さるのです。第一コリント6章19節に「あなたがたは聖霊の宮であり、自分自身のものでないことを知らないのですか」とあります。クリスチャンで、聖霊のことを知らない人がいたら大変です。しかし実際はいたのです。

★その人とは、使徒の働き5章に出てくるアナニヤとサッビラです。「彼らは聖霊を欺いた 」と記されています。アナニヤとサッビラは、主の弟子達に嘘をつきました。それが聖霊を欺くこととは知らなかったのです。私達は聖霊の宮となったのですが、聖霊は私達の人生の占有権を持っておられます。聖霊は、神様の御人格を持ち「喜怒哀楽」を持っておられるので、私達が聖霊を無視した生活を続けるならば、悲しまれるのです。

★聖霊は、神様が下さった良きものの中で、最高の贈り物です。この聖霊に満たされた時に教会が誕生しました。また、イエス様はヨハネ14章25節~27節に、この世を去って行く日が近づいた時、弟子達に約束しました。それは「聖霊を送る」と言うことであり、そのことによって特別な平安を残すという約束でした。今日は聖霊降臨の日です。聖霊に満たされて祈りましょう。そしていつも聖霊に満たされたクリスチャンになりましょう。

5月16日礼拝「キリストにお会いする日のために」

ピリピ書講解(NO.2)「キリストにお会いする日のために」1章7~11節

  仁井田義政牧師 

ピリピの教会は、十年の間に大きく成長しました。今日の御言の大切な所は、「キリストの日まで純真な信仰を守って下さいますように」です。

★今日の御言の初めに「私がこのように考えるのは、正しいのです」と記しています。このようにとは、どのようになのでしょうか。それは、「私が投獄されている時も、共に恵みに与かった人々だからです」と、その意味が記されています。教会の人間関係は、利害関係ではないのです。牧師と信徒も利害関係ではありません。キリストの恵みに共に与かっている関係なのです。

★パウロは、ピリピのクリスチャン達の為に祈りました。それは、「あなたがたの愛が真の知識と識別力に、いよいよ豊かになりますように」との祈りでした。ピリピの教会が真の知識において、乏しかったのではありません。むしろ逆です。ですから「いよいよ豊かになり」と祈っています。異端やローマとユダヤ教徒達による迫害が強くなってきていたからです。

★パウロは、「あなたがたがキリストの日には純真で非難されるところがなく、義の実に満たされている者となりますように」と祈りました。「キリストの日」とは、キリストにお会いする日であり、再臨の時とも、人生の終わりの時とも言えるでしょう。そうなるために修行など必要ありません。「イエスキリストによって与えられる」のです。キリストにしっかりと信仰で結びついていれば、自然に実を結ぶことが出来るのです。それは、イエス様がヨハネの福音書15章の「私は真のぶどうの木」の譬えで、はっきりと教えられました。

★私達の人生は、死に向かっての人生ではありません。キリストにお会いする日に向かっての人生なのです。そのためにイエス様からたくさんの養分を与えて頂き、多くの実を結んでイエス様にお会いするのです。父なる神様も私達が多くの実を結ぶようにと、毎日世話をして下さっているのです。手抜きした畑は、直ぐに雑草におおわれてしまいます。私達の人生がそうならないように、イエス様は私達の為に働いて下さっているのです。私達をイエス様と教会から離そうとするものは断固拒否しましょう。

キリストにお会いするその日を目指して、ピリピのクリスチャン達のように、純粋な信仰を保ちましょう。

5月9日礼拝「福音を広める教会」

ピリピ書講解(NO.1)「福音を広める教会」1章1~6節

                   仁井田義政牧師 

 今日からピリピ人への手紙です。この手紙は、先週までお話していたエペソ書と同じく、西暦61年頃に書かれたものです。この手紙も、パウロがローマの獄中で書きました。ピリピ教会は、この手紙の出される十年ほど前にパウロの伝道によって出来たヨーロッパ最初の教会です。この手紙のキーワードは「喜び」です。パウロは、獄中でなぜ喜ぶことが出来たのでしょうか。

★ピリピ教会の始まりは、パウロの第二伝道旅行の時でした。その時の様子が、使徒16章6節から記されています。ヨーロッパ最初のクリスチャンは、紫布の商人ルデヤという女性でした。その後パウロは、ピリピでの伝道の時に捕えられ、獄中にいる時に地震が起こりました。その結果、牢獄の獄吏一家が救われクリスチャンになりました。パウロのビリピでの伝道は、数日間でした。その異邦人クリスチャンの二家族を残して、十年が経ったのです。

★ピリピの手紙は、パウロの手紙の中では穏やかな書き出しです。他の手紙の書き出しには「使徒パウロから」という書き出しが多いのです。それは、ピリピの教会にはパウロの使徒性を疑う者がいなかったことが反映しています。また十年たって教会が成長し、聖徒達、監督、執事達という役職を置くまでになっても、パウロと良好な関係にあったことを現わします。パウロの獄中での喜びは、そこにあります。神様に忠実なビリピの教会を思い出しては、神様に感謝し喜びを持って祈っていたのです。

★ピリピの教会は、パウロがいなくても、最初の日から今日まで福音を広め続けて来ました。異邦人の二家族から始まった信徒だけの教会が、十年間で、「監督、執事、信徒達」と形成された教会に成長したのです。紫布の商人ルデヤが、家を教会として提供したからです。しかしそれは、献身的に伝道しようとした教会に働いた復活のキリストの御業でした。

★パウロによるピリピ伝道は、小アジア伝道を聖霊に止められたことから始まりました。そらく、病気になったのです。しかしその夜、マケドニヤ人が「こちらに来て私達を助けて下さい」と懇願する幻を見たのです。パウロはそのピリピの教会を思い出し、喜びをもって祈ったのです。私達の教会も、福音を広めることに全力を注いで、主の救いの御業を見せていただきましょう。