3月19日礼拝メッセージ「豊かに蒔けば、豊かに刈り取る」

第二コリントNO20「豊かに蒔けば、豊かに刈り取る」9章1~7節

                         仁井田義政 牧師

fa927cb0-s 今日の御言の最初に「この奉仕については」と記されています。この奉仕とは、エルサレム教会への献金のことです。そして「今更、あなたがたに書き送る必要がない」と記しています。本当に書き送る必要がないのかというと、そうではありません。それは「あなたがたが当然知っていることではあるが」という意味です。当然知っていながら、その知っていることが出来ないでいることが私達にはよくあります。それを打ち破るには、信仰と勇気が必要なのです。今日の御言からその信仰と勇気を学びましょう。

★この献金のアイディアは、最初コリント教会から出されたものでした。パウロ達もコリント教会のアイディアに感動し、マケドニヤやアカヤの諸教会でコリント教会を誇ったのです。しかし何としたことか、コリント教会がこの奉仕に対して熱意を失ってしまったのです。パウロは「あなたがたを誇ったことが無駄にならず、あなたがたも恥をかくことがないように」と記しました。

★パウロは「献金は惜しみながら、渋りながらではなく」と献金の仕方について教えました。神様への献金は、捧げる者の心と信仰が大切であることを教えたのです。旧約聖書で、カインとアベルの捧げ物が有名です。兄のカインは農拓者となり畑でとれた物を、アベルは牧畜者となり羊の最高のものを捧げたのでした。神様はアベルの捧げ物を受け入れ、カインの捧げ物は受け入れませんでした。アベルは最高の捧げ物を持ってきたからです。(創世記4:1~7)

★パウロは「少しだけ蒔くものは、少しだけ刈り取り、多く蒔くものは多く刈り取る」と教えました。「少しだけ蒔く者」の「少し」は、原語では「けちけち」という意味です。その結果は「けちけちした収穫」しか得ることが出来ないのです。「豊かに蒔く者」の「豊か」の原語の意味は「たっぷりと」です。そうすると「たっぷりと」還って来るというのです。神様は、そのような人を全ての面で豊かに祝福してくださるのです。

★パウロはさらに続けて「いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにすべきである」と教えました。私達も気前の良いクリスチャンとなって、喜んで主のお働きの為に献金する人となりましょう。

3月12日礼拝メッセージ「熱意があり熱心である人」

第二コリントNO19 「熱意があり熱心である人」8章16~24節

                         仁井田義政 牧師

images 今日の御言を見ますと、パウロはガラテヤからテトスをコリント教会に遣わそうとしています。その他に二人の奉仕者をもテトスと一緒に遣わそうとしています。それはエルサレム教会が迫害の為に貧しくなってしまっていたからです。その為の献金を集めるためでした。

★それではパウロは、なぜ自らコリント教会に行かなかったのでしょう。それはパウロがコリント教会のある人達から「不正をしている。利をむさぼっている」(7:2)と言われていたからだと思われます。また「それは主の前ばかりではなく、人の前でも公明正大な事を示そうと考えているからです」8:21)とその理由が述べられています。

★この献金は、エルサレム教会の貧しさを助けるためにだけあったのでしょうか。それだけとは思われません。貧しさだけならばマケドニア地方の教会も「極度の貧しさの」(8:2)なかにあったのです。マケドニア地方の教会はその「極度の貧しさ」の中で喜んで献金しているのです。貧しさに対する援助以上の何かが献金をする目的があったと考えなければなりません。

★それはパウロが、ユダヤ人の人々は救われて10年以上たっても、「救われる為には律法と信仰が必要」と考えていた背景があると考えられます。「信仰のみによる救い」ということが理解できないでいたのです。そこで激しい議論がエルサレム会議(使徒15章)でありました。その異邦人教会の「誠意を、ユダヤ人教会の人々に示す為」(19節)なのです。

★イエス様は「ユダヤ人も異邦人も兄弟姉妹となること」を望んでおられました。世界宣教を実現するためには「異邦人教会とユダヤ人教会の融和」が必要だったのです。テトスは、自分から進んで行こうとする熱心がありました。他の二人も、主の奉仕の為に熱心な人達でした。

★パウロの選んだ人は、主の為に熱心で熱意を持った人でした。パウロは、熱心のある人がこの奉仕を成し遂げることが出来ると信じたのです。熱心は聖霊が与えて下さいます。私達も聖霊に燃やされて、熱い信仰の人となりましょう。そしてテトスと他の二人のように世界宣教に自分を捧げましょう。

3月5日礼拝メッセージ「それを成し遂げなさい」

第二コリントNO18それを成し遂げなさい」8章6~15節

                         仁井田義政 牧師

538658c3fdf241a439f7de390a741766 イエス様が言われた「聖霊を受けると力を受け、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てにまで」教会が出来るということが実現しつつありました。今やアジアを越え、ヨーロッパのコリントにまで教会は拡大していました。しかし今、その教会発祥の地のエルサレム教会が、迫害の真っ只中にあり経済的な窮乏に苦しんでいました。パウロは、エルサレム教会の為にコリント教会に献金をお願いしました。

★しかし聖書をよく読んでみると、この献金はパウロが勧めたのでも、テトスが勧めたのでもなく、コリント教会の提案で始まったことが分かります。「このことを他に先んじて願った」(10節)のは、コリント教会であったと記されています。そしてその提案が、ガラテヤ地方の諸教会にまで広まったのでした。しかし、その提案者のコリント教会が献金を中断してしまっていました。おそらくその後に起こった指導者争い、異端問題、道徳問題等で、中断してしまっていたのでしょう。

★コリント教会は、問題がいっぱいでした。しかしパウロは「全ての祝福を数えてしなさい」(7節)と教えています。「望みも消えゆくまでに、世の嵐に悩むとき、数えてみよ主の恵み、我が心は安きを得ん」という聖歌604番が思い出されます。神様の与えて下さった恵みの中で、最もおろそかにされやすいのは「献金の恵み」です。問題が起こると最初に中断されてしまうのが献金です。パウロは「イエス様は私達に全てを献げて下さった」(9節)と献げる恵みを教えています。

★パウロは「喜んでしようと思ったのですから、今持っているもので、それを成し遂げられるはずです」(11節)と記しました。また12節には「熱意があるならば、持っている程度に応じて」と記しました。神と神の教会を愛する熱意でのことです。このような捧げものによって「困難の中にある教会も、そうでない教会も平等になる」と教えています。 

★パウロは、自分たちが提案した献金を「成し遂げ」て(11節)下さいと勧めました。すでに困難の中にあり極度の貧しさの中にあったマケドニアの教会は、成し遂げたのです。私達も「持っている程度に応じて」(12節)神様に心からお献げし、与えられた献金の恵みを成し遂げましょう。

2月26日礼拝メッセージ「これも神の恵みなのです」

第二コリントNO17「これも神の恵みなのです」8章1~5節

                                                                 仁井田義政 牧師

e117cdb3bd56d3e68dab004fb36e200e今まで話してきましたコリント教会にあった異端問題、指導者問題、性的な悪習慣の問題、使徒パウロに対しての根も葉もない悪評、それらのことが一応収束したのです。「コリント教会が正しい信仰に戻りつつある」ことをテトスから聞き、パウロはコリント教会の信徒達を再度「全幅の信頼を寄せることができるのを喜んだ」(7:16)のでした。そして全幅の信頼がなければ話せない「神の恵み」について記し始めました。

★その神の恵みは、既にマケドニアの諸教会で行なわれていました。マケドニア地方には、ピリピ教会、テサロニケ教会、ベレヤ教会がありました。その教会に、エルサレム教会の窮状が伝えられたのです。すると彼らも大変な試練と苦しみの中にありながら、エルサレム教会への献金を開始したのです。

★その献金は、パウロに勧められて始まったのではありません。「彼らは自ら進んで・・・ささげた」(8:3)のです。「聖徒たちを支える交わりの恵みにあずかりたいと熱心に私達に願ったのです」(8:4)とあります。「ぜひ私達にもエルサレムの聖徒たちの為に献金させて欲しい、私達もその恵みに預かりたい」とすすんで献金したのです。

★なぜ、そのような献金が出来たのでしょうか。それはまず「自分自身を主に捧げていた」(8:5)からです。イエス様が自分の為に命を捧げて下さったことを信じ、感謝するクリスチャンだったからです。コリント教会は、マケドニア教会とは比べものにならないほど豊かでした。たとえ豊かな人であっても、献金は、主に自分を捧げきっていない人には出来ないことなのです。 

★献金を今日の御言は「恵み」と言っています。献金を「恵み」と取るか、「負担」と取るかは、その人の信仰姿勢にかかっています。ですから献金の勧めには非常に微妙な問題をはらみます。しかしパウロはコリント教会の信徒達への「全幅の信頼を寄せ」(7:16)勧めました。私も皆さんへの全幅の信頼を寄せて「献金は負担なのではなく、神様からの恵みなのです。」とお勧めします。マケドニアの諸教会のように自ら進んで捧げましょう。献金することは、神様からの恵みのひとつです。自ら願って献金の出来る人になりましょう。

2月19日礼拝メッセージ 「不安と慰め」

第二コリントNO16「不安と慰め」7章5~16節   仁井田義政 牧師

54la_katabami1 今日の聖書には、気落ちし不安に満ちていたパウロが、コリント教会に遣わしていたテトスとの再会によって、大きな喜びに満たされたことが記されています。

★パウロは、コリント教会に激しい内容の「涙の手紙」(2:4)を書きました。それをテトスに託してコリントの教会に遣わしたのですが、テトスの帰りが大幅に遅れたのです。心配になったパウロは、港町トロアスまで出てテトスの帰りを待ちました。しかし季節は冬となり、航路は閉鎖されてしまいました。あとテトスが帰って来る方法は陸路しかありません。パウロは陸路のどこかでテトスに会えることを願い、テトスが帰って来ると思われる陸路をたどりました。しかしテトスには会えずに、ついにヨーロッパのマケドニアまで来てしまいました。

★そのマケドニアにいた時、パウロは「外には戦い、内には恐れ」がありました。おそらく異教徒の迫害と、コリントの人々の反応のことでしょう。しかしついにテトスが帰って来たのです。テトスはパウロにコリント教会の人々の現状を伝えました。コリント教会の信徒達の大半は、パウロ先生を信頼していること。またパウロの手紙を読んで、反パウロの人達の中にも悔い改める人達が起こったこと。また教会が勇気をもって異端者に対して「処罰を断行させたこと」(11節)を聞きました。

★不安と恐れの中にあったパウロの心は「平安と喜びにあふれ」ました。  テトスに会って良い知らせを聞き、一気にパウロは霊的にも精神的にも健康を取り戻しました。コリント教会に「愛情が増し」(15節)「全幅の信頼をよせることができるようになった。」(16節)のです。

★パウロを「気落ちした不安な」状態から慰めて下さったのは、神様です。(6節)パウロはコリント教会で激しい反対に遭いましたが、その場所にテトスが3通目の手紙を持って行ったのです。テトスは、勇気ある信仰の使者でした。「不安」の中にあったパウロは、そのテトスの働きによって「慰め」を受けたのです。私達も、テトスのような勇気ある御言の使者となろうではありませんか。

2月12日礼拝メッセージ「心を開いて下さい」

第二コリントNO15「心を開いて下さい」7章2~4節   仁井田義政 牧師

s-004 パウロは、誠心誠意をもってコリント教会を開拓したのです。開拓初期に、主が幻の中で「恐れないで、語り続けよ。この町には私の民がたくさんいるから」と語り掛けました。その結果、当時世界の中で最も堕落した町と言われたコリントに教会が出来たのです。しかし今やコリント教会のある者達は、パウロに心を閉ざしてしまったのです。

★パウロがコリント教会での働きを終え、他の地方に伝道に出て行きました。その後にコリント教会に入って来た反パウロ主義の指導者の教えによって、人々はパウロに心を閉ざしてしまったのです。そのような中で、パウロが「愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなる」(第二コリ12:15)という状態になってしまうのでした。

★パウロに対する悪口のひとつは、金銭問題でした。勿論パウロは、この教会から金銭をだまし取ったことなどありませんでした。むしろ金銭には細心の注意を払っていたのです。神様に仕える者にとって、金銭問題の疑いが最もつらいことです。私達の教会はそういうことがないように毎月、会計報告を出しています。コリントに来た異端的な偽牧師は、信徒達からパウロへの信頼を落とすために、偽りの情報を流したと思われます。

★パウロは、そのようなコリント教会の信徒達に言葉を選びながら「あなたがたを責める為にこう言うのではありません。それはあなたがたを命がけで愛しているからそう言うのです。」と語り掛けました。さらには「私とあなたがたは一心同体なのです。私のあなたがたに対する信頼は今も大きく、大いなる誇りです。」また「どんな苦しみの中にあっても、あなたがたを思うと喜びに満ち溢れてくるのです」ともパウロは記しました。

★そして「あなたがたも心を開いてほしい」と語り掛けました。このような状態こそ牧師の苦しみです。牧師はその人を愛して忠告します。しかし、その忠告を受けた側に忠告を受け入れる心がないと、その忠告は地に落ちてしまいます。私も牧師になって何度そのようなことを体験したことでしょうか。パウロは何度も「心を開いて下さい」と願っています。イエス様も同じです。私達は神様の御言を「心を開いて」受け入れ、そして従いましょう。

 

2月5日礼拝メッセージ「霊肉ともに聖く」

第二コリントNO14 「霊肉ともに聖く」6章11節~7章1節  仁井田義政 牧師


30818-holy-week-cross-1200.630w.tnコリント教会のある者達は、パウロを誤解していました。愛情を込めて話し、愛情をもって手紙を書いても、ある人々にとってパウロは単にうるさい人に過ぎなかったのです。パウロは愛情をもって話しました。ですから聞く者達も心を開いて聞くべきなのです。

★パウロは「釣り合わないくびきを共にしてはならない。」と教えました。これは、未信者と結婚することの注意と考えられてきました。それも含まれるでしょう。しかしそれだけではありません。これは、信徒達が置かれていたコリントの町の異教的習慣への注意なのです。それは「神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう」との文によって明らかです。

★神様の恵みに満ちた約束は「彼らの間に住み、歩む。彼らの神となり、彼らは私の民となる」との約束であり、「私はあなたがたの父となり、あなたがたは私の息子、娘となる」との恵み溢れた約束でした。その条件は、異教文化からの(特にコリントの宗教は不品行、ポルネイアーと結びついていました)脱出と分離でした。イスラエルの歴史には、10部族喪失の歴史があります。西暦前587年頃、バビロンのネブカデネザル王はイスラエルを滅ぼしました。それから約70年後に、ペルシャ王クロスがバビロニアを滅ぼしイスラエルを解放しました。しかし帰ったのは、ユダ族とベニヤミン族だけでした。その他の10部族がバビロニアに残ったのです。その後この10部族は歴史から消え去ってしまいました。

★パウロは、「霊肉の汚れから自分をきよめ、聖さを全うしよう。」と7章1節で教えています。霊「プニューマ」の汚れは、信仰の汚れです。真の神様を信じている、愛していると言いながら他の神々も礼拝しているならば、霊的に汚れた生き方をしているのです。そのような人に神様は共にいて下さいません。また肉は「サルコス」欲望です。物質欲、性的な欲、名誉欲等々です。この欲望に従って生きる人とは、神様は共にいて下さいません。自らを聖くするならば、「全能の主」が私達と一緒にいて下さるのです。神様の教えにはひとつの間違いもありません。御言に従って、霊肉を共に聖くしようではありませんか。

1月29日礼拝「恵みを無駄にせず」

第二コリントNO13「恵みを無駄にせず」 6章1~10節 仁井田義政 牧師

jesus-foot-washing019 先週に続いて、今日の御言にも「懇願」と言う御言があります。神様が懇願しておられ、パウロが懇願しているのです。しかしコリント教会には嘆かざるを得ない状況がありました。突然パウロはイザヤ書の49章8節の御言を引用して「神の恵みを無駄にしてはなりません」と筆を進めました。

★コリント教会の現状は、信仰を持ってクリスチャンになったのに偶像礼拝者に戻る人もいたのです。またパウロの伝道によって正しい教えで始まったのに、偽教師の影響で信仰からずれてしまった人達もいました。パウロは、750年も前に預言者イザヤに預言された御言によって「恵みの時、救いの時が来たのに、その神の恵みを無駄にしてはならない」と訴えたのです。

★パウロは、自分の日常生活が人々のつまずきとならないように注意を払い生活して来たと記しました。それは神様が人々の救いを願い「懇願」しておられるからです。第一は、精神的な「悩み・苦しみ・嘆き」を、忍耐の限りを尽くして乗り越えました。第二は、迫害の「鞭・投獄・暴動」に耐えました。第三は、福音の為に「労役・徹夜・断食」という苦労も甘んじて受けました。さらに純潔と知識・寛容と親切を聖霊と偽りのない愛をもって人々に接してきました。パウロは、自分の生活のことで人々が躓かないように気を付けていたのです。

★ パウロは、ひたすら神様に喜ばれるように心掛けて、使徒の務めを果たして来ました。パウロは「悪評を流す者。人を騙す者」と言われても、真実のみを語り、死にそうになっても、生かされ、罰せられる事があっても、殺されず。悲しんでいるようであっても、喜んでおり。貧しいように見えても、多くの人を富ませ。何も持っていないようでも、すべてのものを持っている」という使徒としての生活をしてきたのです。そのように生きることが出来たのは「真理のことばと、神の力」(7節)とによったのです。

★今は誰でもイエス様を信じるならば救われる「恵みの時代、救いの日」となったのです。ですからイエス様もパウロも私達も、ひとつになって懇願します。神様のあなたへの恵みを無視せず、イエス様を信じて、イエス様と一緒にこれからの人生を歩いてゆきましょう。

 

1月22日礼拝メッセージ「懇願する神」

第二コリントNO12「懇願する神」5章16~21節 仁井田義政 牧師

5fea89f3bcdc626b097d52e2d9840cca 日本では、正月に多くの人々が神社や仏閣で神仏に懇願する姿が見られます。正月の参拝数一位の明治神宮には317万人が集まると言われています。如何に日本人は神仏に懇願する民であるかが分かります。しかし今日の聖書の中では、その逆に「神様が私達人間に懇願しておられる」ことを記しています。それこそ奇想天外であり、摩訶不思議な視点です。

★パウロにとって、かつてキリスト教は百害あって一利なしの存在でした。イエスが復活した!イエスの十字架は罪から救う!と言う話は、絶対に許せない神様への冒涜と考えていたのです。イエスがメシア(救い主)であるならば、ユダヤ人の嫌う木に架けられての死など絶対にありえないと考えていたからです。それゆえパウロは、教会を迫害し続けたのです。しかしダマスコへの道で復活のイエスと出会い、クリスチャンになりました。

★「誰でもキリストにあるなら新しく造られた者です」とパウロは言っています。古い自分が過ぎ去って、新しい見方をする人間へと創造されたのです。キリストを見る目も依然と全く変わりました。かつては忌み嫌うものから、今は最も慕わしい方になったのです。すると、神様の心がはっきりと見えてきました。

★ キリストの救いを受けた者は、同時にキリストの使命を持つのです。その使命をパウロは「和解の務め」(18節)「和解の言葉」(19節)と言っています。パウロを通し、クリスチャンを通し、教会を通して「神との和解を受けなさい」と「神が懇願しておられるかのようです」(20節)と言っています。懇願とは「ひたすらお願いしていること」です。神様に人間が懇願するというなら分かりますが、神様が「切なる願い」をしてくださっているとは何ということでしょう。神様はあなたが救われることを、懇願しずっとずっと待っておられたのです。

★イエス様はあなたを愛して、あなたが神様のもとに帰って来ることを懇願し続けて待っておられます。イエス様のあなたへの愛を信じましょう。そしてイエス様の切なる愛を素直に信じて、あなたもクリスチャンになって下さい。

1月15日礼拝「キリストの愛が私達を取り囲んでいる」

第二コリントNO11「キリストの愛が私達を取り囲んでいる」5章11~15節 仁井田義政 牧師 

imgres パウロの生涯は苦難の連続でしたが、そのような中にあっても、決してクリスチャンとしてのありようを失いませんでした。パウロは「キリストの愛が私達を取り囲んでいる」と告白しています。これがクリスチャンの原動力であり、全ての活動の動機なのです。今日はそのことを学びましょう。

★私達の人生には、神様に収支報告をしなければならない時が必ずやってきます。それはイエス様が話されたタラントの例えでもわかります。パウロは人生最期の時のことを「主を恐れることを知っているので、人々を説得するのです」と言いました。「恐れる」とは、強く敬うという意味です。

★パウロは自分のしようとしていることは、コリント教会の人々全ての為であって自分の為ではないと言いました。しかしコリント教会には、パウロに敵意を持つ人々がいたのです。そのことは「神の御前で」で明らかなのですが、「あなたがたの良心にも明らかになるように」と記しました。

★なぜパウロは、それ程までしてコリント教会に関わるのでしょうか。人々から見れば、そのようなパウロの粘着質が「気が狂っている」と見えたのでしょう。その情熱が「気が狂っている」と見えるならば、それは「ただ神のため」であるとパウロは言いました。また「キリストの愛が私達を取り囲んでいるからです」とも言いました。パウロは神様の愛を自分だけに見ていたのではありません。キリストを礼拝する「私達を」です。だから、罵られてもコリント教会を捨てることが出来なかったのです。

★信仰の成長は「自分の救い」から始まります。少し信仰が成長すると「人々の為」と言う信仰になります。つまり信仰の共同体である私達「教会の為に」となります。更に成長すると「キリストの為に」という信仰になるのです。もちろんそれらが別々になるというのではありません。全部内包された信仰となるのです。自分の救いを信じましょう。教会に注がれているキリストの愛を信じましょう。神様の愛は、私達を四方八方から取り囲んでくださっています。その先行する神様の愛を信じ、私達もキリストを愛する為に生きるクリスチャンへと成長しましょう。恐れることは何もありません。今日もキリストの愛が私達を取り囲んでいるのですから。