(2月3日礼拝)「パリサイ人の罠にかかるな」

(礼拝メッセージ)「パリサイ人の罠にかかるな」マルコ10章1~12節

                                                                                           仁井田義政牧師

 本日の10章6~9節の御言は、パリサイ人がイエス様を合法的に殺す為に、その罪名作りの為に必死になって考えた罠です。そういうパリサイ人の質問であることを心得て読まなければなりません。そのような緊迫した中で教えられた大切な教えなのです。

★イエス様は、10章に入って三つの話をされました。まず離婚問題。次は子供問題。さらに財産問題です。どれも日常の大切な事ばかりです。この話が終わると、32節の「先頭に立って」という有名な言葉が出て来ます。この流れの中で、今日の離婚問題も読まれなければなりません。

★パリサイ人が提示した律法は、1300年も前の律法でした。女性は人間として扱われていない時代の言葉でした。しかしパリサイ人は、イエス様が女性を人間として扱われることを知っていました。そしてそれがすなわち、イエス様が律法を無視することと考えていたのです。そこでイエス様は、パリサイ人に「モーセはあなたがたに、何と命じていますか」(3節)と質問されました。パリサイ人は自信を持って「モーセは妻に離婚状を渡せば離婚しても良いと言っています」と答えました。その逆は絶対に許されていなかったのです。モーセは紀元前1300年も前の人です。その間ずっと男尊女卑が続いていたのです。

★男だけが優位に立つ結婚などあってはいけません。結婚は、互いの親や家を離れて神が二人をひとつとしたと聖書にあります。そのひとりを傷つけることは自分を傷つけることです。ですから結婚を軽んじてはならないと言われたのです。イエス様の弟子達まで、男性優位が当然と思っていました。男性が自由に離婚を決められないなら「結婚しない方がましです」(マタイ19:10)と言っています。 

★結婚は、神様が作られた大切なものです。人と人とが親の家を離れてひとつとなるのです。ですから結婚相手を選ぶ時は、軽い心で決断してはなりません。互いの思い込みや不十分さの結果、離婚が起こるのです。そのことで互いに傷つくのです。パリサイ人はイエス様が「離婚をしてはいけない」と答えれば愛がないと責め、「離婚しても良い」と言えば律法を破ったという罠をかけたのです。どちらの答えでも罠にかかるのです。イエス様はどちらでもなく、人間の罪のために「先頭に立って」十字架に向われるのです。イエス様の愛に感謝しましょう。

1月27日礼拝メッセージ「味のある人」

(礼拝メッセージ)「味のある人」マルコ9章43~50節

                      仁井田義政牧師

 今日の御言の結論は、最後の「自分自身の内に塩気を保ち、互いに和合して暮らしなさい」(50節)の御言です。塩気を保って、クリスチャン同士が和やかに暮らすには、どうしたらよいでしょうか。

★自分の手が、足が、目が、自分の信仰の躓きとなるようなら切って捨てよとイエス様は言われました。私達の基本的欲望は大きく分けると、食欲・性欲・睡眠欲が上げられます。この人間の基本的欲求がくせ者で、自分自身の信仰を躓かせるものともなるのです。躓くとは真っ直ぐに歩けない、または倒れるという意味です。

★自分の信仰の妨げとなるなら「手も、足も、目も切り捨てよ」とは、厳しい言葉です。もちろん文字通りと言うよりも、それほどに注意しなさいという意味です。そして「両手、両足がそろったままでゲヘナに投げ込まれるよりもましだからです」と続きます。ゲヘナとはベンヒンノムの谷のことで、そこは生ごみが捨てられた場所で、いつも火がくすぶっていました。「彼らを食う蛆は尽きず、火は消えることがない」とは、そこから来ているのです。

★さらにイエス様は「自分自身の内に塩気を保ちなさい」と教えられました。塩には防腐作用があります。また塩気は味となります。私達は食べることが大好きです。みんなで美味しい料理を囲むと、和やかな交わりが生まれます。しかしその料理が塩気のない料理だったとしたらどうでしょう。決して和やかな交わりにはなりません。イエス様は「塩味のきいた、味のある人間となって、互いに和合して暮らしなさい」と教えられました。

★なぜ「和合して暮らしなさい」と教えられたのでしょうか。それは、弟子達が「誰が一番偉いか」と論じ合っていたからです。(34節)イエス様は子供を連れてこられて「この子供のようになりなさい」(36節)と教えられました。人間は自分を偉い者、絶対に正しい者とする時に、和合できないのです。そのような生き方は、神の教会の平和な交わりを壊してしまうのです。そして神様の「火」、つまり裁きがあるのです。

★イエス様は「火によって塩気を付けられるのです」と言われました。塩で味つけられた「味のある人」になりましょう。そうして愛に満ちた交わりのある教会になりましょう。

 

1月20日礼拝メッセージ「水一杯でも祝福がある」

(礼拝メッセージ)「水一杯でも祝福がある」マルコ9章38~42節

                      仁井田義政牧師

 私達が常識と考えていることでも、イエス様に全否定されることがあります。しかしイエス様の考えは、私達と比べものにならない程広いのです。今日の御言は、私達の教会がさらに拡大して強い教会になっていくために、大切な御言なのです。

★ヨハネは、イエス様から「雷の子」(マルコ3:17)という名を付けられた弟子です。彼は「先生の名を使って悪霊を追い出している人を、私達の仲間でないので止めさせました」とイエス様に報告しました。イエス様の名前を使っても従ってこない者は、当然イエス様もお怒りになられると思ったのです。この報告は、イエス様がエルサレムへと向かっている途上のことでした。その時弟子達は、「弟子達の中で誰が一番偉いのか」という論争をしていたのです。ヨハネは手柄として、イエス様に褒めてもらいたかったのでしょう。

★しかしイエス様は、「やめさせることはない」と言われました。イエス様は「私の名を使いながら、私達について来ないとしても、止めさせるほどのことではない」と言われたのです。それは、「私の名を使ったすぐ後に、私に反対することは出来ないからだ」ということです。ヨハネは「自分はイエス様に従っている」と思い込んで、偏狭な心になっていたのです。イエス様は、もっと「おおらかに」人々の救いを見ておられるのです。

★さらにイエス様は、「あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません」と言われました。イエス様は、そのように信仰のまだ不完全な者を批判し退けてはいけませんと教えられたのです。

教会は、信仰の弱い人を非難する所であってはなりません。その人を愛して、信仰を助けることが大切なのです。声を荒げて雷のように「従って来ないので止めさせました」と言っているヨハネが、実は一番わかっていなかったのです。しかしイエス様は、そのようなヨハネをも決して捨てはいません。40節で「私達に反対しないものは」と、ヨハネをイエス様の「私達」の中に入れて下さっておられるのです。

★私達の教会も、信仰の強い者も弱い者も、イエス様に「私達」と呼んでいただき、成長し大勢になって行きましょう。

 

(1月13日礼拝メッセージ)「弟子達は理解できなかった」

(礼拝メッセージ)「弟子達は理解できなかった」マルコ9章30~37節

                                                                      仁井田義政牧師

 クリスマスで中断していましたマルコによる福音書の講解メッセージを本日より再開します。2017年8月27日より開始されたマルコによる福音書講解メッセージは今回が47回目で、内容はイエス様の御生涯の終わりの部分に入っています。イエス様は、弟子達にご自分の十字架の死の意味を伝えました。

★イエス様は、今までと違っていました。今まで四千人、五千人と多くの人々を対象に福音を伝えてこられました。今は全く違いました。本拠地としていたガリラヤを通られたのに「人々に知られたくない」と、その人々に会うのを避けられたことが記されています。それは、これから十字架に向かうエルサレムへの道で、十字架の意味を弟子達に伝えるために、時間を取りたかったからだったと思われます。イエス様は、その旅路で幾度も十字架の真理を話されました。

★イエス様は既に8章31節で、弟子達にご自分の十字架の死の意味について話されました。そして今日の部分でも、十字架の意味を明確に話されているのに、弟子達は理解できませんでした。知恵の不足ではなく、明確に聞くのを「恐れていた」(32節)のです。弟子達にとって、自分の立身出世のためには、イエス様の死は都合が悪く、言ってほしくない「怖い」話だったのです。

★イエス様は「お座りになられて」、十二弟子達に話されたことが記されています。「お座りになる」とは、聖書時代の重大な教えをなさる時の正式な姿勢です。弟子達は「誰が一番偉いか」誰が十二人の中でリーダーなのかという話で盛り上がっていました。その弟子達にイエス様は「道を歩きながら何を話していたのか」と質問しましたが、弟子達は答えませんでした。

★イエス様は立ち上がられ、子供の手を引いて連れてきて、弟子達の真ん中に立たせました。そして、弟子達の間で自分を偉いと人に認めさせたい、権力を行使したいと思う者は、私の弟子としてふさわしくない、むしろこの一人の子供を私の名のゆえに受け入れる人こそ、私を受け入れるのです」と教えられました。弟子達にとって子供など何の価値もない小さな存在だったのです。弟子達に上に立ちたいと思うならば、価値のないと思われているものを大切にする者となれと教えられたのです。

★イエス様が十字架に向かわれる大切な道で、弟子達は立身出世の事ばかりに心を奪われていました。私達もイエス様の弟子です。それなのにイエス様の最も大切な教えが耳に入らないとしたらそれ以上悲しいことがあるでしょうか。私達は、聖書の中で一番聞きたくない言葉をしっかりと聞く年としましょう。

 

1月6日礼拝メッセージ「イエスから目を離さないで」

(礼拝メッセージ)「イエスから目を離さないで」ヘブル書12章1~3節

                                                                              仁井田義政牧師

 今日は、2019年の最初の主日礼拝です。改めてあけましておめでとうございます。今年の御言として、ヘブル書12章1~3節の御言を掲げさせていただきました。それはここに集う皆様が、今日の御言に立って素晴らしい一年間を過ごして頂きたいからです。今日の御言の真理に従えば、クリスチャンとして必ず素晴らしい人生を歩み、信仰の勝利者となることが出来ます。

★前の11章に旧約聖書中の信仰勝利者11人が記されています。それらの人々だけではありません。「多くの証人(マルテュスは殉教者とも訳せる)達が私達を取り巻いている」と聖書は記しています。しかもそれらの人々をはるかに超えて、私達の信仰の見本となられた御方は、イエス様です。

★しかし気を付けないと、私達は失敗に引きずり込まれることがあるのです。そうならないために「重荷と、罪を捨て」去ることが大切です。新共同訳と口語訳は、強い言葉「かなぐり捨てて」と記しています。それは身に着けていた物を乱暴に捨てるというような意味です。

★「信仰の創始者、完成者である、イエスから目を離さないように」との聖書の勧めは、あなたが元気でいる為の大切なことなのです。信仰の創始者は「指導者、あるいは見本」という意味です。イエス様のご生涯には、苦難がなかったわけではありません。罪に引きずり込もうとする誘惑がなかったわけではありません。しかしイエス様はそれらの苦難に勝利されました。誘惑の富や地位や名誉や人々の称賛に自分の人生を置かずに、信仰の勝利者の道を進まれたのです。

★イエス様は苦難の中にあっても、神様の御心を実行することを喜びとされました。イエス様にとって、神様の御心とは何でしょうか。それは、イエス様の御生涯にとって最も大切なことの人々を罪から救うという神様が決められた「十字架の死」だったのです。イエス様は恥も外聞もなく、ひたすら神様に喜ばれる道に生きることを望み、それを実践されたのです。それゆえに勝利者となり「神の御座の右に」着座されたのです。

★私達も、イエス様のように神様の喜ばれる道を最優先に2019年を歩き出しましょう。そうすればイエス様が私達を守り助けて下さいます。今年の最初の主日礼拝で「私は一切の罪をかなぐり捨てて、イエス様から目を離さないで進んで行きます。」と決心し、勝利者の道を歩き出しましょう。

(2018年最後の礼拝メッセージ)「主の恵みを何一つ忘れるな」

(今年最後の礼拝メッセージ)「主の恵みを何一つ忘れるな」詩篇103篇1~5節

                         仁井田義政牧師

 2018年の最後の礼拝を迎えました。今日の御言である詩篇103篇によって、悪いものは全て捨て去り、良いものだけを持って2019年を迎えたいと思います。 

★ダビデは「我が魂よ、主をほめたたえよ」と言っています。人間は良いことは自分の力、悪いことは神が行なったと思いがちです。しかし、そのような自己中心の人間性に勝つためには「我が魂よ、主をほめたたえよ」と自分で自分の心を矯正しなければなりません。「聖なる御名を」とは、私は汚れている者で、本来ならば神様をほめたたえる資格も権利もない者ですが、神様の恵みによってほめたたえますという意味です。

★そして「主の良くして下さったことを何一つ忘れるな」と続きます。神様がして下さった良いことは全部忘れて、自分の失敗での辛いことはみんな神様のせいにしてしまいやすい私達人間。だから「神様のしてくださった良いことは何一つ忘れ」ないように思い出し、数え上げる必要があるのです。神様は、あなたに今年どんな良いことをしてくださいましたか。書き出して数えてみましょう。大きなことも、そしてどんな小さなことも書き出してみましょう。

★ダビデは、主がしてくださったことのリストを三つあげています。まず3節の前半に「主はあなたの全ての咎をゆるして下さった。」と、3節後半には「あなたの全ての病をいやして下さった。」と、そうして4節の「命を穴から贖って下さった」と記しています。穴とは墓穴、あるいは地獄のことで、「永遠の命を与えて下さった」という意味なのです。

★また4節の後半には「恵みとあわれみとの冠をかぶらせ」とあります。冠は王としての姿のことです。私たちは悩みを支配する王権をも与えられているのです。しかしそれは恵みによるのです。そのような能力が私たちに有るからではなく、信仰の恵みによるのです。この恵みは今年一年で終わるのではありません。「あなたの一生を良いもので満たされる。」と記されているように、一生続くのです。ですから当然迎えようとしている新しい年にも及ぶのです。信仰に満ち希望に満ちて、新年に向かって行きましょう。今日の御言に従って、神様の良くして下さったことを何一つ忘れることなく、感謝しましょう。

(クリスマス礼拝メッセージ)「天には栄光、地には平和を」

(クリスマス礼拝メッセージ)「天には栄光、地には平和を」ルカ2章8~14節

                         仁井田義政牧師

みなさん、クリスマスおめでとうございます。今日はクリスマス合同礼拝です。心を合わせてイエス様のお誕生をお祝いしましょう。

★ 今日の聖書には、天使が現れた時、羊飼いたちが荒野にいたことが記されています。夜に荒野にいたことから見て、彼らは雇われの羊飼いたちだったろうと言われています。この地方は、昼間は暑く太陽を避ける場所もないところであり、夜はその反対に寒さの厳しいところです。ですから羊飼いの労働は、寒さに耐えながら、羊の群れを肉食獣から守らなければならない過酷なものでした。しかも賃金は少なく、休日もない労働だったのです。羊飼いたちは、天使の出現に「ひどく恐れた」と記されています。それは恐怖でした。神様に裁かれて殺されると思ったのです。恐怖におののく羊飼いたちに、御使いは「恐れる必要はありません。喜びを知らせに来たのです」と告げました。

★まず御使いが伝えた「喜びの知らせ」は、第一義的に「羊飼いたちのあなたがたの為に」です。それと同時に、第二義的には「民全体の為に」です。羊飼いたちは経済的に貧しく、宗教的にも価値のない人たちと思われていたのです。神様からも人々からも捨てられた人間の屑と思われていた人々だったのです。それなのに御使いが現れて「あなたがたの為に救い主が生まれました」と伝えたのです。

★御使いが羊飼いたちに伝えたキリスト誕生の地は、タビデ王の出身地でした。ダビデの子孫として生まれるとの預言にのっとっています。それなのに御使いから、「みどりごが布にくるまれて飼い葉桶に寝かされている」と伝えられました。それは「馬小屋に生まれた」ということです。羊飼いたちでさえ、馬小屋で生まれた者はいなかったに違いありません。しかも救い主はボロ「布に包まれて」寝かされているというのです。

★さらに御使い達は、「いと高き所に栄光が神にあるように。地の上に平和が御心にかなう人々にあるように。」と賛美しました。クリスマスは、イエス様の誕生のお祝いと、イエス様を貧しい馬小屋に送って下さった神様への感謝でもあるのです。もうひとつは「地には平和」です。しかしイエス様の誕生から二千年過ぎても「地に平和」は実現していません。それは「御心にかなう人々にあるように」とあるからです。羊飼いたちは神様から心の平和を頂きました。私達も、羊飼いの様にイエス様を訪ね、イエス様から心の平和を頂きましょう。

(待降節Ⅲメッセージ)「マリヤとアドベントの幸せ」

(待降節Ⅲメッセージ)「マリヤとアドベントの幸せ」ルカ1章45~48節

                         仁井田義政牧師                          

 アドベント第三週に入りました。今朝の聖書箇所に記されているマリヤは「たましいからの幸せと喜び」を感じておりました。何がそうさせたのでしょう。今日は、マリヤが感じた幸せを考えてみましょう。

★マリヤはこの時、十代であつたと考えられています。私達は十代の時にどんなことを考えていたのでしょう。人からの評価が一番気になる時期で、お化粧や着る物に興味が向く時です。異性からモテるかモテないかが自己評価の基準になったり、モテなければ自分には価値がないと思い、モテれば価値があると思ったりします。そのように自分の価値を他人の評価に依存する傾向は、その後も続きます。それが人間関係の悩みにもなるのです。マリヤは天使の声を聞いて、そのような視点から神様に目を向けたのです。

★マリヤは、神様との関係に幸せの根拠を見出しました。マリヤは天使から声をかけられたことに、「主はこの卑しいはしために目を止めて下さった」と言いました。「卑しい」とは、神様の恵みを受ける権利がひとつもない者なのにという意味です。「それなのに神様は目を止めて下さった」と言って、神様に心から感謝する人になりました。

★私たち人間は、周りの人々の言動によって深く傷つきます。友達や家族や同僚の言動で傷つきます。それは、他の人によっての自己評価をしているからです。15~18歳のマリヤは、「これから後のどの時代の人々も、私を幸せ者と思うでしょう」と歌いました。それは、今後だれもこの私の幸せを奪うことは出来ないという意味です。

★アドベントは、世の喧騒から神様の御声に耳を傾ける時です。世の中の人々の評価から、神様の愛による評価に目を向ける時です。他人の評価は変わります。ですから多くの人が傷つき失望するのです。そのような傷ついた生き方では、せいぜい自分の為にできるのは自己憐憫か、その人への仕返しくらいです。そのような生き方のどこに喜びがあるでしょう。

★マリヤの胎にイエス様が宿って下さったように、あなたにもイエス様は来てくださいます。イエス様がこんな私の所に来てくださったと信じると、マリヤのように幸せになるのです。アドベントは、あなたが幸せになる日です。幸せに生きる為に、マリヤのように神様の愛を信じ、イエス様に目を向ける人になりましょう。

12月9日礼拝待降節Ⅱ「待降節と人類」

(待降節Ⅱメッセージ)「待降節と人類」ルカ3章23~38節

                         仁井田義政牧師                          

二週続けてキリストの系図からのメッセージです。私達にとってマタイによる系図も、ルカによる系図も、キリストを迎えようとするアドベントの大切なメッセージなのです。それは、平和の主の到来を待ち望むアドベントにふさわしい御言なのです。

★先週お話しましたマタイは、キリストの系図をイスラエル民族の父祖アブラハムから始めていますが、ギリシャ人と思われるルカは、人類の祖先とされるアダムとエバから始めています。アメリカ・ロックフェラー大学のマーク・ストークル氏と、スイス・バーゼル大学のデビッド・セイラー氏は、遺伝子情報を解析した結果、現代の人類は20万年~10万年前に一組の男女から始まったと発表しました。そのことは比較解剖学、古生物学、血清学、遺伝学などの明白な証拠すべてに基づく結論なのです。 聖書の創世記に記され、ルカの福音書に記されているアダムとエバからの人類史が、ようやく現代のDNAの解析によって近づいたのです。

★アダムとエバという一組の夫婦から人類が生まれたということは、私達がみな兄弟であると言うことです。兄弟であると言うことは平等です。国籍や民族、肌の色、そのようなことで差別や区別は、創造者なる神への冒涜なのです。神様が一組の夫婦から世界人類を創られたという科学も支持するに至った考えを私達が持つ時、神様による「神に栄光、地に平和」(ルカ2:14)が訪れるのです。

★イエス様は人類の救いの為に来られました。ルカが記す系図は人類の系図です。その人類の頂点にイエス・キリストが来られたのです。それは、神様が愛しておられる人類全ての救い主となる為です。イエス様は、全ての民族の為にご自分の体を十字架につけられたのです。

★それこそ、まさしく「諸人こぞりて迎えまつれ」です。どこの民族であろうと、手を取り合ってイエス様を心からお迎えする準備をしようではありませんか。それが本当のアドベント、つまりキリストの降誕を待ち望む週間なのです。いよいよクリスマスに向かって、バプテスマのヨハネが叫んだように「主の道を真っ直ぐにし」、つまり神様の前に喜ばれない部分があるならばそれを正すのがアドベント週間です。「諸人こぞりて」イエス様をお迎えする信仰の準備をしましょう。

(アドベント礼拝1)「キリストの系図の女性達」

(アドベント礼拝)「キリストの系図の女性達」マタイ1章1~16節 2018.12.2

                 仁井田義政牧師

 今日からイエス様の御降誕を待ち望むアドベント(待降節)に入りました。新約聖書は、イエス様の系図から始まります。その系図は、アブラハムから約二千年間が記されています。しかしこの系図を読んだユダや人達は、戸惑いを感じたことと思います。それは、この時代の系図には絶対に載せない女性四人の名が記されていたからです。今日は、なぜ四人の女性達の名が記されているのかを、アドベントメッセージとしてお話し致します。

★この系図は、キリストがアブラハムの子孫、ダビデの子孫であることを示すために記されました。ユダヤ人とは、3節に出て来る「ユダ」と言う人の子孫のことです。ユダヤ教は、この民族の信仰です。彼らのもうひとつの名がイスラエル人です。それは1章2節に出て来る「ヤコブ」に由来します。この名前は、神様がヤコブにつけて下さった名前であり、イスラエルの正式名称であり、今もイスラエルは国名ともなっています。

★系図の中に四人の女性達が出て来ます。イスラエル人の記す家系図に女性の名が記されることは、普通ありませんでした。しかもこの四人ともイスラエル人達が嫌う異邦人の女性達なのです。キリストの系図に、異邦人の女性の名が記されたことは、人種差別や男女差別の撤廃されたことを意味しています。

★しかも四人の中の三人は、道徳的に問題のある人達でした。3節に出て来る「タマル」は売春婦になった人です。(創世記38:24) 5節の「ラハブ」は、エリコの町の売春婦でした。(ヨシュア記2:1) 6節に「ウリヤの妻」と出てくる女性は、バテシェバのことでタビデ王と不倫関係になりソロモンを生んだ女性です。(Ⅱサムエル11:5) 四人の女性の中で唯一信仰深い人でした。そのことはルツ記に記されています。

★旧約聖書には、このような女性達をキリストの系図に載せなくても多くの信仰深い女性達がいたのです。どうして、このようなキリストの系図に傷がつくような女性達の名を載せたのでしょうか。神様にとってみれば、これが完全な系図なのです。綺麗事ばかりではない人間生活。民族の差別もあれば私達の人間生活はドロドロとした罪にまみれた生活です。イエス様はそれら全てから私達を救って下さるのです。イエス様は私達の救い主です。今日からアドベントです。私達は、イエス様をお迎えする準備をしましょう。