2月12日礼拝メッセージ「主の任命に応えよう」

(礼拝メッセージ)マルコNO17「主の任命に応えよう」3章13~19節

                        仁井田義政 牧師

イエス様は、二千年前に御自分の計画を成し遂げるために、山において十二人を任命されました。

★山は、旧約聖書の出エジプト記の出来事と関係しています。モーセは、シナイ山に登りそこで神様から十戒を受け取りました。十戒が与えられ、十二部族からなるイスラエルが建国されたのです。しかし後のバビロン捕囚で、イスラエルは十部族を失いました。イエス様の時代には、イスラエルに二部族しかいませんでした。イエス様は新しい神の国の建国に、イスラエル十二部族を象徴して、山に登り十二人を世界宣教の為に選ばれたのです。

★クリスチャン達は、皆その新しい神の国の国民なのです。神の国の国民であるクリスチャンには、弟子達と同じ使命があります。第一の使命は、「身近に置くため」と記されています。イエス様と共にいることです。自分のことを優先させて、時々イエス様の近くに来るではいけません。第二は「彼らを遣わして福音を宣べさせるためである」と記されています。イエス様は、身近に置いた者を福音宣教のために遣わされるのです。

★十二弟子達は、どのように優れた人達だったのでしょうか。イエス様に従う前の彼らの職業や教育水準もまちまちでした。ペテロのように漁師だった人達が数人います。熱心党員シモンのように、いつでもテロリストとなりうる国粋主義者もいたのです。そうかと思えば収税人マタイのように、お金の為に体制にべったりの人もいました。またヤコブとその兄弟ヨハネように、「ボアネルゲ=雷の子」というニックネームをつけられるほど感情沸騰型の人もいました。最後にイエス様の「身近」から離れ、イエス様を売る裏切り者となったイスカリオテのユダの名が出てきます。

★弟子の中に優れた人は一人もいませんでした。それをイエス様は「御自分のそばに置くため」に選ばれたのです。なぜそばに置くのでしよう。イエス様ご自身から学ぶためにです。そして私達クリスチャンには、全ての人に「福音を宣べ伝える力」と、「悪霊を追い出す権威」が与えられるのです。あなたが今、イエス様のそばに生きているならば、今まで自分を見ていた以上に、あなたには力が与えられています。イエス様があなたを呼び寄せ、あなたを福音の為に任命されているのです。主に信頼され主から宣教の為に任命されているのですから、その任命に応えるクリスチャンとなりましよう。

2月4日礼拝メッセージ「イエス様に触ろうとして」

(礼拝メッセージ)マルコNO16「イエス様に触ろうとして」マルコ3章7~12節

仁井田義政 牧師

 今日の聖書には、イエス様を求めて集まる大群衆の姿が記されています。その群衆は外国からも集まって来ました。大群衆の力は指導者たちの力に優るのです。イエス様にとって天下を取るための最大のチャンスが到来したのです。しかし、イエス様は「群衆が押し寄せてこないように小舟を用意しなさい」と弟子達に命じられました。その真意はどこにあるのでしようか。

★イエス様の噂を聞いて、町や村やツロやシドンという外国からも人々が集まってきました。ずいぶん遠くからも来ました。イエス様の癒しの力を信じて集まってきた人達です。イエス様は「大勢の人なので、押し寄せてこないように、弟子達に命じられた」と記されています。共同訳や詳訳聖書は、「押し潰されないように」と翻訳しています。イエス様が群衆に「押し潰される」などということがあるのでしょうか。いざとなれば、湖の上を歩くことさえ出来たはずです。

★イエス様は、群衆が目的のためには「イエス様さえ踏み潰す」ことを見抜いておられたということが出来るでしょう。この三年後には、このような群衆が「イエスを十字架に付けよ」と叫び、ついに十字架につけてしまったのです。イエス様の本当の力を知って恐れたのは、汚れた霊だけであったことを聖書は記しています。人間だけが知らなかったのです。

★さらに「イエスはご自身のことを知らせないようにと、厳しく彼らを戒められた。」と記されています。次々に病気を治して「この事を出来るだけ多くの人々に言い広めよ」とご自身の癒しの力を誇示して扇動するのが、イエス様が成功者になるためのチャンスだったでしょう。しかもすでにパリサイ人とヘロデ党が手を組んでイエス殺害の計画に入っていたので、その計画を粉砕するためにも群衆の力こそ必要であったはずです。しかしイエス様はそのようなご利益だけを求める群衆には、何の力もないことを知っておられました。ですから私のことを知らせてはいけないと厳しく戒められたのです。

★イエス様が「全ての人々に私のことを伝えよ」と信頼して命じられる人々とは、どのような人々でしょう。それはイエス様が「私達の罪の為に十字架について死なれたこと。三日目に死人の中から復活し、今もなお私達と一緒におられること」を信じる人々です。ですからイエス様は、復活後に「全世界に出て行って福音を伝えよ」(マタイ28:19)と弟子達に命じられたのです。私達は今も生きておられる復活の主を心から信じる者になりましょう。

1月28日礼拝メッセージ 「イエス様の怒り」

(礼拝メッセージ)マルコNO15「イエス様の怒り」マルコ3章1~6節

                            仁井田義政 牧師

今日の御言には、ユダヤ人の会堂でイエス様が片手の萎えた人を癒されたことがもとで、パリサイ人とヘロデ党の人が、イエス殺害に団結する様子が記されています。そこに人間に対するイエス様の愛と、私達人間の持つ強情な罪が記されています。

★イエス様は安息日の度ごとに、礼拝の為に会堂に入られました。町には会堂があり、パリサイ人はそこでイエス様を待ち構えていたようです。「片手の萎えた人」が、その会堂の隅にうずくまっていました。パリサイ人は、イエス様の行動をじっと監視していました。それは、またイエス様が安息日の掟を破ってこの片手のなえた人を癒すのではないかと思ってのことでした。安息日違反の現場を押さえて、法的に処罰するためでした。

★片手のなえた人は、会堂の片隅にいました。当時このような病気の人は、神の罰を受けた人と言われ、軽んじられていたのです。イエス様は片手の萎えた人を会堂の中央に呼び出されました。礼拝において、このような人にこそ神様が恵みを与えたいと思っておられることを示す為でした。

★人々は、イエス様が律法を破ってその人を癒すかどうかを見ようとしていました。その人々にイエス様は、「安息日にして良いのは善か悪か」と問われました。しかし、彼らは「黙っていた」と聖書は記しています。その沈黙は人間のずるさを現わしています。「安息日にふさわしいのは善か悪か」という誰でもわかる真理の前にさえ、黙ってしまうのです。イエス様はそのような人間を見て、「嘆きながら」人を救うという正しい行ないを実行されるのでした。私達は、イエス様の前にそのような頑なさを持っていないでしょうか。

★イエス様は、安息日に片手の萎えた人を癒せばパリサイ人から命を狙われることを知っておられました。8時間くらい待って癒すなら、安息日が終わるので問題なかったのです。しかし差別され会堂の隅に追いやられている人も、神様に愛されている人であることをみんなに知って欲しかったのです。だからこそ「会堂の真ん中に」来るようにと言われたのです。しかし会衆は沈黙したのです。なんという人間の自己保身と強情さでしょうか。イエス様は、その強情さに怒りを感じられたのです。この日イエス様殺害を目的に「パリサイ人とヘロデ党は手を組んだ」ことが記されています。その強情さは、イエス様殺害を選択するのです。私達はイエス様の前に、強情と自己保身を捨て去りましょう。そして素直な心でイエス様をお迎え致しましょう。

 

1月21日礼拝メッセージ「疲れからの解放の日」

(礼拝メッセージ)マルコNO14「疲れからの解放の日」マルコ2章23~28節

                             仁井田義政 牧師

 安息日のことでした。イエス様とその弟子達が、麦畑のある道を通っている時に空腹を覚えて、ひとくち麦の穂を取って食べました。するとそれを見ていた律法学者・パリサイ人から「安息日破りである」と非難を受けました。するとイエス様はその非難に対し、安息日が何のためにあるのかを教え始められたのです。その教えは、私達の日曜日の礼拝にも関わる大切な教えです。

★空腹で安息日に麦の穂を摘んで食べた弟子達の行為は、パリサイ人の目には許されない律法違反行為でした。当時、安息日には一日に歩く距離さえ決められており、その距離は800メートルまででした。さらには煮炊きまでも禁止されていました。律法が神様から与えられた本来の目的は、本人だけでなく奴隷や家畜まで、労働から解放し休ませる為でした。それが長い年月の間に、人々を束縛する戒律となってしまっていたのです。

★イエス様は、千年前にダビデが安息日に祭壇の供えのパンを食べた事(第一サムエル21章)を話し始められました。それは、王になる前のダビデがサウル王に命が狙われ、逃げ回っていた時のことでした。ダビデと家来たちが安息日に空腹になったため、祭司にお願いして聖なるパンを分けて頂き食べたのです。それを非難されることはありませんでした。王でなかったタビデがそうしたならば、真の王であるイエス様とその弟子達が安息日に麦の穂を摘んで食べたからといって、律法違反にはならないと言われたのです。

★さらにイエス様は「安息日は、人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。・・・人の子は安息日にも主です。」(マルコ2:27-28)と言われました。安息日にこそ、大いなる解放の御業を行なわれるのです。ですから私達は礼拝において、大いに主イエス様の解放の御業にあずかれるのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)という御言は、マタイの福音書では、この麦の穂を摘んだ安息日論争の直前にあるのです。

★イエス様は安息日の主です。人間は肉体の休養と同時に心に休養が大切です。いや「たましいに安らぎ」(マタイ11:29)とあるように、心に休みがなければ本当の休養にはなりません。いつも礼拝に集って、安息日の主であるイエス様に、全ての重荷と苦労から解放して頂き、活力に満たされましょう。

 

1月14日礼拝メッセージ「喜びをいっぱいにする」

(礼拝メッセージ)マルコNO13喜びをいっぱいにするマルコ2章18~22節

                                                                                    仁井田義政 牧師

  今日から、マルコによる福音書の連続メッセージに戻ります。イエス様は人々と楽しく食事をしていたことで、パリサイ人や洗礼者ヨハネの弟子達に非難されました。その答えとして、あの有名な「新しい葡萄酒は新しい革袋に入れなさい」という有名な話をされました。     

★パリサイ人達は、一週間に二度断食していました。月曜日と木曜日です。 バプテスマのヨハネの弟子達も、彼らの先生が蜂蜜とイナゴを食べて生きている人でしたから、当然のように断食もしていました。イエス様も決して断食を排除してはいません。イエス様の四十日の断食は有名です。

★それではイエス様は、断食をどのように考えておられたのでしょうか。イエス様は、断食を自分達の信仰の立場を誇示するために用いるべきではないと考えていました。私達は週に二回しているのに、あなたは何故しないとか言うのはもってのほかであり、すべき時に自由にするのが断食だと考えておられたのです。だからイエス様は断食そのものを否定しておられるのではなく「花婿が取り去られる時がくる。その時、彼らは断食する」と言われているように、どうしてもしなければならない時にすれば良いのです。

★イエス様は、食事に招かれると何処にでも喜んで行かれました。罪人の家にでも、パリサイ人の家にでも、喜んで行かれたのです。イエス様の食事の記事は数多くあります。十字架に付けられる最後の夜にも晩餐をもたれました。イエス様は復活後も、エマオの弟子の家で食事をし、ガリラヤ湖で弟子達の為に魚を焼き朝食の準備し、使徒の働き1章4節に記されているように「一緒にいるとき」(シュナリドメノス)も食事をしているのです。今も花婿なるイエス様が一緒におられるのです。修行的な断食や宗教的格付けの為の断食は、無用です。

★イエス様は、硬い顔よりもイエス様と一緒にいる喜びに爆発している顔を喜ばれます。旧約時代の考えのままに生きている人は、断食を好みます。イエス様は「花婿が自分達と一緒にいる時は、断食できないのです。」(19節)と言っておられます。今の時代は、花婿なるイエス様が私達と一緒にいて下さる時代なのです。「新しい葡萄酒は新しい革袋に」(22節)入れましょう。イエス様と一緒であることを喜び、その喜びで教会をいっぱいにしましょう。その喜びに満ちて、クリスチャン全員で今年の計画を立てましょう。

2018年1月18日礼拝メッセージ「霊に燃え主に仕えよ」

(礼拝メッセージ)「霊に燃え主に仕えよ」ロ-マ12章9~21節

                          仁井田義政 牧師

  新年第一回目の主日礼拝の朝を迎えました。牧師にとって、この第一回目の礼拝にどのような御言をお伝えするかは、非常に大切なことであると思っています。教会の中には、黙示録3章に出て来る「生ぬるい」教会もあるかもしれません。神様が望んでおられるのは、熱く燃える教会であり、熱く燃えるクリスチャンです。その神様の御心を、今年最初の礼拝の御言として、「霊に燃え主に仕えよ」という題でお話しいたします。

★今日の御言には「勤勉で怠らず」とあります。どの社会でも、勤勉さが成功の鍵であることは明らかです。学生は勉強に、社会人は仕事に勤勉さが求められます。勤勉とは、たゆまぬ努力のことです。「たゆまぬ」とは忍耐強い努力のことです。「よーし!今年こそやるぞ」と決意しても、私達は三日で終わることが多いのです。今日は7日ですから、もう終わっているかもしれません。御言が私達に勤勉であることを求めています。

★続いて「霊に燃え」とあります。人間は、努力や単なる決心で「勤勉で怠らず」という生活を続けられないことが多いのです。それで聖書は、「霊に燃え」と教えています。霊に燃えるとは、聖霊に心が燃やされ続けることです。聖書の中の「燃えた」という事件を拾ってみると、①出エジプト3章のモーセと消えない柴。②第1列王記18章のエリヤの祈りにより祭壇に下った火。③ ルカ24章32節のエマオの途上における弟子達の心に燃えた炎などがあります。聖霊に燃やされ続けるクリスチャンになりましょう。

★続いて「主に仕えなさい」とあります。主にお仕えするということは、クリスチャンにとって最高の幸せです。ところが主に仕えるということは、そう簡単ではないのです。まずお金に淡白(13節)にならなければなりません。敵をも愛する(14~20節)という自分との戦いもしなければなりません。悪に対して善で勝つ(21節)生き方をしなければならないのです。

★モーセもエリヤもエマオの弟子達も、あるいは使徒の働き2章に出て来る弟子達も、信仰が生ぬるくなった時に、神の火を体験して信仰の炎を熱く燃やしたのです。信仰のリバイバルです。単に「勤勉で怠らず」と言っているのではなく、「霊に燃え、主に仕えなさい」と言っているのです。「勤勉で怠らず霊に燃え、主に仕える」2018年、信仰の炎を燃やしましょう。

2018年 元旦礼拝「主の恵みの年を告げ知らせる」

元旦礼拝「主の恵みの年を告げ知らせる」ルカ4章14~21節

                         仁井田義政 牧師

 皆さん、あけましておめでとうございます。今年最初のメッセージとして、ルカの福音書4章14~21節の御言から、元旦のメッセージをお伝えいたします。

★イエス様は宣教を開始される前、40日間の祈りによって聖霊に満たされ、伝道を開始されました。その結果、ガリラヤ地方の会堂で教え「みなの人にあがめられた」と14節に記されています。その後、自分の故郷のナザレの村に帰り安息日にいつものように会堂へと入られました。

★イエス様は、会堂で聖書を朗読するために一抱えもあるイザヤ書を指名し、そのイザヤ書を会堂司が持ってきてイエス様に渡しました。イエス様はもちろん当時、章も節もないイザヤ書の61章1~2節を選んで朗読されたのです。そこは「聖霊が」「油が」と記されているところです。メシヤは油注がれた者の意であり、イエス様ご自身を指すところでした。そしてそこには「主の恵みの年を告げ知らせるために」と記されていました。「主の恵みの年」とは「ヨベルの年」のことです。ヨベルの年は、50年ごとに来る一切の束縛から解放される時でした。イエス様は、解放を告げる為に来られたのです。

★旧約聖書に記されているヨベルの年は50年に一回でしたが、本当のヨベルの年は、油注がれた方であるイエス様の宣言で始まりました。それでイエス様が「今日あなたがたが聞いたとおりに実現しました」と宣言されたのです。ナザレの人々にとっても、イエス様の言葉を聞いたその日から、恵みの年であるヨベルの年が始まったのです。

★しかしイエス様から直接「恵みの年」始まりを聞いたナザレの人々は、そのことを受け入れずに、「イエスを町の外に追い出し、丘の崖ふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした」(29節)と記されています。ナザレの人々は恵みの年の「福音」(18節)を聞きながら、受け入れなかったのです。

★2018年最初の日の元旦礼拝において、私達は聖霊満たされたイエス様が選ばれた聖書の御言を聞きました。今年もヨベルの年なのです。あなたを束縛している一切のことから解放する年なのです。それを信じるか、信じないか、イエス様を迎え入れるか、追い出すかはあなたにかかっているのです。追い出してしまうならば、2018年は何の変化もない一年になるでしょう。しかし受け入れ信じるならば、あなたにとって2018年は素晴らしい「恵みの年」となるのです。一年の始まりにイエス様の祝福を受け入れましょう。

2017年最後の礼拝「イエス様に送り出されて」

2017年最後の礼拝「イエス様に送り出されて」ルカ17章11~19節

                                                                                  仁井田義政 牧師

 今年最後の礼拝です。礼拝に大切なのは感謝です。感謝はどのような時に生まれ、どのような時に忘れてしまうのでしょうか。

★今日の御言には、重い皮膚病にかかった十人の人が出て来ます。普段は仲の悪いユダヤ人とサマリヤ人が、同じ所で生活していたようです。両方の町の境にツァラアトの村を作っていたのでしょう。その病のために「汚れている」という差別を受けて、本来敵対的な二つの民族がひとつになって生きていたのです。イエス様がその所を通られると、十人の病人は、遠く離れた所に立って「イエス様、どうぞ憐れんでください」と叫びました。

★イエス様はその声に「祭司の所に行って体を見せなさい」と言われました。それは病気の癒しの約束でした。彼らが祭司に体を見せに行く途中で、その病が次々に癒されました。しかしイエス様に感謝するために帰って来たのは、十人中一人であったと聖書は記しています。病気が治ったら、九人がイエス様との関わりから消えてしまったのです。汚れた病気だったことを後の人生で人々に知られたくなかった為であったかもしれません。しかし一人だけが九人から分かれたのです。

★その人はサマリヤ人でした。イエス様は「戻ってきたのはこの外国人のほかに誰もいないのですか」と言われました。サマリヤ人は「大声で神をほめたたえながらイエス様の足元にひれ伏して感謝した」のです。感謝の礼拝の姿でした。ユダヤ人から「サマリヤ人は神の恵みを受ける資格がない」と言われていた外国人なのです。しかしこのサマリヤ人はイエス様から「癒し」と「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」という祝福を受けたのです。

★大声で神をほめたたえながら、イエス様の所に帰ってきて礼拝したとありますが、この「大きな」はギリシャ語でメガです。「声は」フォンです。メガフォンを使ったような大声で神を賛美したのです。これこそ真の感謝の礼拝です。感謝できてこそ人間は心身が健康体なのです。イエス様は、感謝して礼拝したその人に「立ち上がっていきなさい」と言葉をかけて送り出して下さるのです。イエス様に心から感謝の礼拝をし、イエス様の力強い言葉に送り出されて、2018年に進んで行きましょう。

 

2017年12月24日 クリスマス礼拝「神が共におられます」

2017年クリスマス礼拝「神が共におられます」マタイ1章18~23節

                                                                                  仁井田義政 牧師

  皆さん、クリスマスおめでとうございます。今日の御言には、クリスマスがなぜ私達にとっておめでたいのかが記されています。

★まずその理由は、私達を罪から救ってくださる方の誕生ですと記されています。「罪」と言いますと、刑法に触れる犯罪のことだと誤解してしまうことが多いです。しかし聖書によると、それは罪の結果であって罪そのものではないことがわかります。聖書はもっと根源的な意味で「罪」という言葉を用いています。聖書で言う「罪」とは、関係の断絶のことです。どのような関係の断絶かと言いますと「神様との関係の断絶」なのです。

★人間は神様によって造られたものですから、本来は神様と一緒に生きていくのが自然でした。聖書の全てを二行くらいにまとめるならば「神様から離れた人間の悲惨と、その人間を救いに来て下さったイエス様」と言うことが出来るでしょう。神様との関係について言えば「人間と神様は、はじめ愛で繋がっていた」のですが壊れてしまい、そのためにボタンのかけ違いのように全てがずれてしまったのです。そして人間には、孤独、自分を大切に思えない、人を愛せない、犯罪等が入って来たのです。

★イエス様は、人間と神との関係修復の為に来て下さったのです。そのために「その名をイエスとつけなさい。御自分の民をその罪から救ってくださる方です」(21節)と記されています。イエス様の名前にその意味が込められています。当時使われていたアラム語で「イェーシュア」ですが、それは「神は救う」という意味です。道に迷ってどちらの方向に行ったら良いか不安な時に、道案内の人がそばに来てくれたら不安から救われます。イエス様は私達の所に、道案内に来て下さったのです。

★旅人は知らないところでよく迷います。知らない所で迷う時、不安で周りの美しさを楽しむ余裕すらありません。そのような時、その土地の人が「目的地まで私が送ってあげましょう。」と言うことがあります。そうすると旅人の心から一切の不安が消え去り、旅人は周りの景色の美しさを楽しむ余裕まで出て来るのです。イエス様は私達の人生の道案内です。いつも一緒に旅をして下さるのです。そのために私達は初めて人生の旅を楽しむ余裕が出て来るのです。私達を罪から救うために来て下さったイエス様に心から感謝しましょう。

12月17日アドベント礼拝3「マリヤの勇気とアドベント」ルカ1章27節~38節 

(アドベント礼拝3)「マリヤの勇気とアドベント」ルカ1章27節~38節                                        

                         仁井田義政 牧師

 今日は、アドベント第三週を迎えています。来週はいよいよクリスマス礼拝です。アドベントメッセージの中で、受胎告知は素晴らしく示唆に富んだところです。

★今日の聖書箇所には、天使の「おめでとう。恵まれた方。主が共におられます」と言う言葉に、マリヤが「ひどく、戸惑った」(29節)と記されています。この戸惑いがあればこそ、マリヤは私達からも遠くない存在です。マリヤはヨセフと婚約中で、マリヤは幸せでした。それなのに天使まで現れて「おめでとう」と言われたのです。ナザレの村の田舎娘に、神様がこれほどの扱いをするとは思いもよらないことでした。マリヤの「戸惑い」はそこに起こったのです。マリヤも私達と同じです。

★マリヤはこの時15歳か16歳の時であったと言われています。いいなずけのヨセフと将来の幸せが待っていたのです。婚約者ヨセフとの間でさえ結婚前に子供が出来たとなれば、両家にとって不名誉という時代なのです。ところがヨセフの知らない懐妊となれば、婚約の解消どころか、マリヤを拷問し相手を探し出し、両者を会衆の面前に引き出し、みんなで石を投げつけて処刑されてしまう時代なのです。幸せだったマリヤの身に不幸なことが起こったのです。

★マリヤは「どうしてそのようなことがあるでしょう」と言いました。自分の身に覚えがないのに、身ごもって殺される、こんな馬鹿げた恵みはないと思ったことでしょう。しかし、人間の常識的世界から見れば「どうしてそのようなことがありえましょう」という事態なのに、御使いは「聖霊が」つまり全能の神がそうして下さるのですと言ったのです。

★「聖霊がそうして下さる」と聞いても、それで全てが解決したわけではありません。身に迫る処刑が心配ですし、夫婦になる約束を交わした夫となるヨセフの怒りはどうなるのでしょう。しかしマリヤは「私は主のはしためです。あなたのお言葉通りにこの身になりますように」と受け止めるのです。信仰を持つ時に必要な勇気です。今なおマリヤの状況に心配事は残っています。勇気を奮い立たせて「私は主のはしためです」と言いました。つまり「主は私の主です」と言っているのです。そこから主の素晴らしい恵みと力が溢れ出すのです。マリヤのように、このアドベントの日にはっきりと主のしもべになりましょう。