7月9日礼拝メッセージ「人生をいつまでも楽しむ秘訣」

2017特別礼拝「人生をいつまでも楽しむ秘訣」ピリピ3章5~9節   13~14節

杉田キリスト教会牧師 久保田顕先生

 私達は、どんな仕事やどんな肩書をもった人になれれば幸せになれるのでしょうか。すべてを手に入れた「福山雅治さんのようになりたい・・・」でしょうか。聖書にはそのような条件が満たされなくても、人生の喜びが約束されています。

★使徒パウロは、現代の福山さん以上の肩書と地位を手に入れていました。(4~6節)イエス様を知った時、パウロは「人生をいつまでも楽しむ秘訣」を手に入れたのです。むしろそれまで人生を楽しむ秘訣と思っていた「すべての肩書・地位がゴミとなった」(7~8節)と言っています。その理由は、パウロがキリストを知ったから(8節)です。キリストを信じる価値は、何にも変えられません。キリストを信じ従う人生には、他では埋められない喜びと楽しみが与えられるのです。

それではパウロは一体どこが変わったのでしょう。それは「キリストの家族となった。」(9節)というところにあります。罪人だったパウロは、イエス様の救いに与かり「神の家族」となり、希望と喜びを得たのです。ある一人のクリスチャンが「神様の救いがあれば頑張れる。私には神様という希望がある。」と、喜びに満ちて話された体験談を聞いたことがあります。聖書も「神を信じる者は失望で終わらない」(ローマ10:11)と言っています。私達も、神様と深い関係(神の家族)を築いて喜びをいただきましょう。

★パウロはイエス様を信じてから、その生活はどのように変わったのでしょうか。パウロは過去(罪)の生き方を振りかえらず、前(神・信仰)に向かって進んだのです。そして、人生の最後を迎えるまで、キリストと共に歩み続けたのです。あなたも「人生をいつまでも楽しむ秘訣」をしっかり学んで、信仰の長距離ランナーとなりましょう。

そして神様と一緒にある喜びの人生を走り続けましょう!!

7月2日礼拝メッセージ「パウロの第三の天体験」

第二コリントNO29「パウロの第三の天体験」12章1~6節

                         仁井田義政 牧師

 パウロの敵対者の偽教師達は、できるだけ自分の優れたことをひけらかして、人々の関心と信頼を得ようとしました。そのような偽教師達から信徒達を守るために、パウロは自分の優れた体験を記さなければなりませんでした。それが第三の天に引き上げられたという体験なのです。

★パウロの第三の天体験は「主の幻と啓示」でした。信仰の世界は皆そうです。私達が救われたのも、私達が素直だから救われたのではありません。神様が救いに導いて下さったのです。常に神様の恵みが先行してアクションを起こされるのです。ですからパウロは、私が第三の天に行って来たからと言って「誇るのは無益なことなのですが」と言っているのです。

★パウロは「14年前に…この人は…第三の天にまで引き上げられました」と記しました。なぜ「私は」と言わないで「この人は」言うのでしょうか。それは人々がパウロを過大評価するといけないからです。しかし、来週話します7節において、この体験者はパウロであることがはっきりと分かります。パウロは、自分が過大評価されたり、偶像化されたり、教祖化されることを積極的に避けたのです。コリントの人たちの異教的文化と気質が、人間を教祖化することに慣れていたからです。

★さてパウロが行った第三の天ですが、第一の天は地球を取り巻く大気圏内ということが出来るでしょう。第二は宇宙。第三は霊的世界でしょう。そして第三の天をパラダイスと言っています。それはイエス様が十字架上で言われたパラダイスのことです。創世記に出てくる「エデンの園=楽園」を七十人訳ギリシャ語聖書では「パラダイス」と訳しました。天国と考えてよいのです。パウロにとって第三の天体験は実体験でした。「しかし誇ることは控えましょう。人々が私を偉大な者と勘違いするといけないからです」と記しています。そして「自分の弱さを誇りたい」というのです。 

★私達も優れた能力を褒められたりすると、自分が何者かであるかのようにふるまったりすることがあります。それがクリスチャンや牧師の命とりとなるのです。それを体験させたり、見せたりして下さったのは神様なのです。 クリスチャンは、自分より見せて下さった神様を誇るべきなのです。

6月25日礼拝メッセージ「パウロの心の激しい痛み」

第二コリントNO28「パウロの心の激しい痛み」11章28~33節

                         仁井田義政 牧師

 迫害よりも使徒パウロの心を激しく痛めつけていたことがありました。それはいったい何でしょうか。

★教会の外側からの苦難とは、異端や偽教師、同じ民族ユダヤ人からの迫害でした。しかしパウロは、それに耐えながら伝道を続けて来たのでした。しかしそのパウロにも、耐えがたい苦しみがありました。それは、「日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります」(11:28)と今日の聖書の箇所に記されています。偽教師やその教えによって、信仰の弱い人は正しい教えに躓いてしまうのです。その事を聞くことによって、パウロの心は激しく痛み傷つき弱りました。現代の伝道者や牧師にとっても、そのことが心の激しい痛みとなり、最大の心の傷となるのです。

★パウロは、11章1節、17節、21節などで「愚か者達のする自慢話」と思えることをしてみました。しかし、どんなに福音の為に迫害されながら伝道してきたことを話しても、自分を偉大に見せようとしているようでしっくりこないのでした。なぜならば「父なる神が永遠にほめたたえられる方」であることを知っているからです。パウロは、私は使徒だからと言って強い人間ではなく、信徒達の不信仰に悩み、心を痛める弱い人間である」ことを告白しています。そのような弱い自分を使徒として用いて下さっている父なる神こそ、偉大なのですというのでした。私が弱い者という証拠に「ダマスコで迫害を受けた時、城壁の門は閉ざされたので、城壁の窓から籠に乗せられて釣り降ろされて、迫害を逃れました」と記しました。

★今日の御言で心に留めて頂きたいことは、信徒の一人が不信仰になる時、牧師の心は耐えられないほど激しく痛むということです。しかし人が不信仰になる時、本人はいたって元気であるということが多いのです。それは神様の御心に従うよりも、自分の思い通りに行動しようとするからです。その時の不信仰のエネルギーは強いものです。そのような時、パウロの心も牧師の心も激しく痛み、人々への心配が日々押しかかるのです。

★信徒の皆さん、そのようなことのないように、御言にしっかりと立ちましょう。そして正しく信仰を守り、神様の御心に従順に従いましょう。

6月18日礼拝メッセージ「何を見つめて歩んでいますか」

「何を見つめて歩んでいますか」マタイ14章22~33節 

                          楠 亜紀子師

 今日はペテロの姿を通して、私たちはいつも何を見つめて歩むべきなのかということをご一緒に考えてみたいと思います。

★イエス様は多くの人々の病気を癒されたり、五つのパンと二匹の魚で五千人ほどの人たちに分け与えられる奇跡をなさいました。多くの人々はイエス様のみわざを見て喜び熱狂しましたが、イエス様は弟子たちが群集の熱狂や興奮に巻き込まれてしまわないよう船に乗り込ませ、群集から離れるようにされました。弟子たちが船を漕いでいると逆風と大波に翻弄され、何時間も湖の上で格闘することとなります。弟子たちが大変な思いをしながら船を漕いでいると、イエス様が弟子たちの所へ来られましたが、弟子たちはイエス様が来られてもイエス様だと分からず、かえっておびえてしまいました。まさかイエス様が湖の上まで来てくださるとは思わなかったのでしょう。それと同時に心の中は不安と恐れでいっぱいだったため、一番大切なことを見ることができなかったのではないでしょうか。私たちも困難や悩みだけに目を向けていると大切なことを見失い、最も近くに来て下さるイエス様が分からないということにならないでしょうか。

★28節「するとペテロが答えて言った。主よ、あなたでしたら私に水の上を歩いて…」ペテロはイエス様のお言葉に従い船から降りて水の上を歩きましたが、途中で怖くなり沈みかけてしまいます。ペテロは最初、まっすぐイエス様を見て歩きましたが、しばらくすると風と波に目を向けてしまい、その時に恐れの心が来たのです。そのようなペテロに、イエス様は信仰が薄い人だとおっしゃいました。信仰生活は水の上を歩くのと同じです。目の前にある困難や悩みだけに目を向けていると、不安と恐れの中に沈み込んでしまいます。私たちはどのような時もイエス様から目を離さず、御言をしっかり握り締めているなら必ず向こう岸に辿り着けます。そして、どのような強い風も嵐も、共にいて下さるイエス様が静めて下さるのです。

あなたは今、何を見つめて歩んでおられますか…。風と波を見つめていますか。それともイエス様をまっすぐ見つめて歩んでいますか。

 

 

6月11日礼拝メッセージ「苦難によるパウロの証明」

第二コリントNO27「苦難によるパウロの証明」11章16~27節

                         仁井田義政 牧師

 コリント教会のある人達は、偽教師たちの自慢話に感動し彼らを信じました。パウロはその人々を救い出すために、あえて自慢話と誤解を受ける危険性のある話をしなければならなかったのです。そのパウロの苦労が、ここに記されています。

★パウロは自分を愚か者と思う者の為に、不本意ながら私は自分を誇って見せると記しました。あえて偽教師の立場に立って、自分を愚かにして、不本意ながら自慢話をするのです。それは「多くの人が肉によって誇っている」からです。その「肉によって」は、生まれながらの能力や家系図のことです。偽教師はそれを誇ったのでした。「私も愚かになって言います。私もヘブル人、イスラエル人、アブラハムの子孫です」とパウロは言いました。

★さらに、自分がキリストの僕である証拠は、キリストの為にどれだけ労苦したかであると言いました。キリストの僕であることは、「狂気したようになって言いますが」と記しています。これだけは絶対にゆずれないという強い意味です。その証拠は何か。キリストの救いを伝える為に、数々の苦難に遭いながら伝道して来た事実です。キリストの為に生きる使徒でなければ、このような苦難の連続に耐えることは出来ないとパウロは主張しました。

★その苦労は「同国民の難。異邦人の難。投獄の難。暴動の難。偽兄弟の難など数々の苦難に遭いながら伝道して来たのです。パウロは私達と同じ人間です。食べ物がなければ飢え、寒さにあえば凍えるし、心配があれば    不眠症になるのです。その弱さを持ちながら、イエス様の福音が各地に伝えられたことこそ、パウロがキリストの僕である事実の証明なのです。

★パウロは福音の為に例えどんな困難があっても、決して諦めないで伝道して来ました。自分の生活の安定や平安よりも、人々を救おうとするキリストの愛に生きて来たのです。パウロは当時の最高権力国ローマの市民権を持っており、ユダヤ人国家であっても手が出せない高い立場にあったのです。それらを教会の為にかなぐり捨てて、夜も眠れぬほどにキリストの教会の為に生きてきたのです。これ以上の使徒としての証明や証拠はありません。

私達もキリストにある者として、パウロのように少しでも苦難による証明を人生の中に持とうではありませんか。

6月4日礼拝(ペンテコステ礼拝)「なぜ聖霊派は成長したのか」

(ペンテコステ礼拝)「なぜ聖霊派は成長したのか」使徒1章8節

                         仁井田義政 牧師

   今日はペンテコステ記念礼拝です。キリスト教の報道は「世界中で聖霊派が目覚ましい成長を遂げている」と伝えています。その成長の理由は何でしょうか。聖霊のバプテスマによって教会は誕生したのです。そして「エルサレム・ユダヤ・サマリの全土・および地の果てまで」(使徒1章8節)教会は拡大するとイエス様が約束されたからに他なりません。

★今から116年前の1901年、アメリカ・カンザス州トペカの町あったベテル聖書学院の女学生から始まりました。その女性の名はミス・アグネス・オズマンです。その人に始まったというより、その人によって教会に聖霊のバプテスマが戻ったということが正しいでしょう。教会は長い間、聖霊の力を忘れてしまっていました。

★近代の世界の教会は、自由神学の影響を受け、力を失いつつありました。そのような時に、アメリカ・カンザス州のアグネス・オズマンに聖霊が注がれ、一気に宣教の熱意に満たされたアッセンブリー教団が誕生したのです。アッセンブリー教団を代表とする聖霊派の神学は、新生・聖化・神癒・再臨の伝統的教理の上に、聖霊のバプテスマを加えました。神様は20世紀の終わりと21世紀の初頭に、この信仰を持つクリスチャンと教会を用いて教会刷新を続けているのです。

★しかし、今も聖霊派をよく思わない人々がいます。反対者は第一コリント12章から14章の御言をミクロ的に見て反論します。しかしマクロ的に見ますと、14章18節でパウロは「私は・・・多くの異言を話すことを神に感謝しています」と言っています。そし12章から14章の結論というべき39節でも、パウロは「異言を話すことを禁じてはいけません」と言っています。

★教会発祥の原動力となった聖霊のバプテスマは、20世紀終り頃まで消え去っていました。そのために世界の教会は、宣教の無力さを体験したのです。しかしついに教会は、聖霊の力の真理に戻ったのです。今や聖霊派は、世界の教会を動かし始めたのです。現在すでにペンテコステ派は、プロテスタントの中で第1位となりました。特に「世界のアッセンブリー教団の発展は目覚ましい」と報道されています。ですから私達の教会も、しっかりと聖霊のお働きの上に教会の伝道の基礎を置き、聖霊によって成長しましょう。

 

5月28日礼拝メッセージ「光の天使に偽装して」

第二コリントNO26「光の天使に偽装して」11章7~15節

                      仁井田義政 牧師

 パウロの使命は、「まだキリストの教えが伝わっていない所に、キリストを伝える」ことでした。日本で伝道されたマクリンというアメリカ人宣教師が、そのような人でした。この人が創立した教会が、アッセンブリーには沢山あります。パウロが福音伝道の為にコリント教会を去った後に、コリント教会に入ってきたのが偽教師達でした。パウロは激しくその本性を暴こうと、この書を書きました。

★パウロは、コリントにおいて極貧の中で天幕作りのアルバイトをしながら伝道しました。しかしギリシャ文化ではそのような労働は奴隷の仕事で、有能な哲学などの教師は多くの給料を得るのが当然でした。パウロがコリント教会から給料をもらわなかったのは無能だったからと、偽教師に批判されたのでした。

★なぜパウロは、コリント教会から給料をもらわなかったのでしょうか。コリントの町には、お金の為の新しい教えがあふれていました。新しい宗教や哲学も、その目的があったのです。パウロは「キリスト教もその目的をもってやってきた」と思われたくなかったのです。だからと言って、パウロが霞を食べて生きていたわけでありません。最初は天幕作りをし、その後はピリピ教会からの献金によって生活し、伝道活動をしたのです。

★偽教師たちはパウロの伝えた正統的な教理に縛られず、すこぶる自由に魅力的な教えをしました。それは、サタンが光の天使に変装して人々を惑わすのに似ているとパウロは指摘しました。彼らの目的はお金なのです。牧師や伝道者にとって、お金の為に牧師や伝道者になったと言われる程、屈辱的なことはありません。パウロは第一コリント9章14~15節で、そのようなことを言われるくらいなら「死んだ方がましだ」と言っています。

★偽教師たちは、人々の欲望に応え、幸せに導く天使に偽装してコリント教会に入ってきました。しかしそのような偽教師やその教えに心酔した者達も、その最後は神様の厳しい裁きによって裁かれるのです。私達の教会は成熟した教会となり、どんなに光の天使に偽装した偽教師にも決して騙されず、しっかりと正しい真理の上に立つ強い教会となりましょう。

 

5月21日礼拝メッセージ「キリストの花嫁として」

第二コリントNO25「キリストの花嫁として」11章1~6節

                       仁井田義政 牧師

7450c58d41d544e43f2a2922d69862f6   パウロは、コリント教会の人々を思う自分の思いは誰よりも強いと主張します。そのことを伝えるために、自分を婚約中の娘を持つ父親に例えて、コリント教会に対する強い心配を記します。

★パウロは、「神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っている」と記しました。「熱心」のギリシャ語「ゼロオー」は「激しい情熱と、激しい嫉妬」を表わします。パウロはその神の「激しい情熱」と「激しい嫉妬」を受け継ぎ「あなたがたのことを思っている」と記したのです。そうであればこそ、激しい叱責の言葉ともなるのです。神の教会においては、褒められる時よりも「神の情熱」によって注意される時に、その人の本当の信仰が現れるのです。

★当時、婚約中の娘を持つ父親は、婚約期間が終わったら娘をその夫に渡すために整える責任がありました。立ち振る舞いや、純潔においても婚約期間中に夫になる人に恥ずかしくないようにするのです。教会はキリストの花嫁になる存在であり、この世の教会はキリストの花嫁の準備の時なのです。

★しかし誘惑者であるサタンは、婚約期間中のクリスチャンをキリストから離れさせようと誘惑します。創世記でエバを騙した時のように、神の言よりも魅力的に聞こえる言葉で誘惑するのです。その方法は、ちょっとだけ「神の言」を変えて教えるというものです。偽物の教えは、キリストの花嫁たちをこのようにして汚すのです。現代もその危険は増加しています。パウロは、使徒に絶対的に必要なのは弁舌の素晴らしさではなく、話される「知識が正しいかどうかである」と主張します。

★今日の御言が教えている通り、皆さんは今キリストの婚約者なのです。やがて花婿なるキリストが、私達を迎えに突然おいでになられます。サタンは婚約中の私達をキリストから離そうと悪知恵を駆使して働きかけてきます。しかし、サタンを恐れることはありません。誘惑が来た時、はっきりと意識して「キリストを選びとる」のです。サタンの甘い言葉に騙されてはいけません。私達はキリストの花嫁です。キリストに信仰の純潔を捧げましょう。

(5月14日 母の日メッセージ)「父と母を敬えと言われる神」

(母の日メッセージ)「父と母を敬えと言われる神」出エジプト20章12節 

                        仁井田義政 牧師          

 images母の日は、アメリカのアンナ・ジャービスさんが、お母さんの召天二周年記念会で教会に白いカーネーションを飾ったことが始まりと言われています。そして今日では、世界で「母の日」が行なわれるようになりました。

★母の日や父の日には、モーセの十戒の「父と母を敬え」という教えが読まれたりします。モーセの十戒は、神様からの十の命令です。一戒から四戒までは、神様についての教えです。五戒から十戒までが、人間関係についての戒めです。人間関係の最初の戒めが「父と母」についての戒めなのです。何か収まりが悪い感じがします。しかも「殺人の禁止」よりも前に出て来るのです。両親を敬わないことは、殺人より悪いことなのでしょうか。

★親を敬えないことが、全ての人間関係に影響するということが現代になってようやく分かってきました。親達は、教会でもっと子供たちにこの所を教えてもらいたいと思うかもしれません。そうではないのです。幼い子供達への教えではなく、成人の為の教えなのです。ですから子供たちへ目を向けるのではなく、あなたが年老いた父母に目を向けなければならないのです。

★しかし「父と母を敬え」と言われても納得できない、自分が子供の時、いつも親は仕事を優先させ自分は放って置かれた、兄弟間であからさまに差別された等、親から傷を受けた体験を持つ人もおられるでしょう。中には「私は親に捨てられた、という体験をお持ちの人もいるかもしれません。それなのに「敬え」と言われても腑に落ちないということもあるでしょう。

★私達は親によって深く傷つくことがあるのです。しかし親は神様ではなく人間で、不完全なのです。その不完全な親に、完全さを求めてしまっていた私達の方が間違っていたのです。ですから十戒は「素晴らしかった父と母を敬え」とは記さず「父と母を敬え」と命じているのです。親からの傷を受けたままの人間は、どんなに素晴らしく見えても、どこかに人間関係のひずみや歪みがあるものです。イエス様は私達を完全な親へと導いて下さいました。それは神様で、私達はその子供なのです。もし傷ついていたなら許しましょう。そして父と母に「ありがとう」と言える人生を歩み出しましょう。

5月7日礼拝メッセージ「主に推薦される人」

第二コリントNO24 「主に推薦される人」10章12~18節

                         仁井田義政 牧師

th_shutterstock_118040215 ギリシャ人は「知恵を求める」(第一コリ1:22)とあります。ギリシャ人達は、議論を戦わせて相手を打ち負かし、そこで評価を得た者が成功者として人を教える権威を得るのが常でした。パウロもギリシャに伝道に行くと、否応なくその渦に巻き込まれたのです。

★かつてパウロは第二回伝道旅行の時にヨーロッパに渡り、ギリシャのアテネのアレオパゴスの広場で伝道したことが使徒17章の中に記されています。一時ギリシャ人達は、アジアから来たパウロが何か新しい教えをしていると興味を持ちました。パウロも知恵を求めるギリシャ人達に合わせ、宗教哲学的な論法で話したのでした。そして長い話の後、大切な「イエス・キリストの復活」の話をすると、ギリシャ人達に「あざ笑われ」(使徒17:32)と記されています。パウロは挫折感を味わいました。人からの評価がどんなに空しいかを、身をもって体験したのです。

★人からの評価や推薦を得られないとすると、私達は自己推薦と、自己評価をしやすいものです。自己推薦とは、評価を勝ち取るために、自分を過度に評価推薦することです。今の世の中も、まさにそのような時代です。過度な自己推薦、時々政治家が選挙運動中に行なってしまう学歴詐称などがそうでしょう。結果的には「それは知恵のないことなのです」(12節)とパウロは教えています。

★大切なのは自己推薦でもなく、多人の推薦でもありません。「主に推薦される人」(18節)こそ、主の働きにふさわしい人なのです。主の計画の限度を超えない働き人。他人の手柄を自分のものにしない人です。パウロも異邦人伝道に主が遣わされたので、コリントの町まで伝道して来ました。主がコリントの人々を救いたいと思われ、計画して下さったからに他なりません。「だから、誇る者は主を誇りなさい」と教えています。また「自分を推薦する人でなく、主に推薦される人になりなさい」と教えています。(17~18節)

私達は人や自分からではなく、主に推薦される人になりましょう。