2月12日礼拝メッセージ「心を開いて下さい」

第二コリントNO15「心を開いて下さい」7章2~4節   仁井田義政 牧師

s-004 パウロは、誠心誠意をもってコリント教会を開拓したのです。開拓初期に、主が幻の中で「恐れないで、語り続けよ。この町には私の民がたくさんいるから」と語り掛けました。その結果、当時世界の中で最も堕落した町と言われたコリントに教会が出来たのです。しかし今やコリント教会のある者達は、パウロに心を閉ざしてしまったのです。

★パウロがコリント教会での働きを終え、他の地方に伝道に出て行きました。その後にコリント教会に入って来た反パウロ主義の指導者の教えによって、人々はパウロに心を閉ざしてしまったのです。そのような中で、パウロが「愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなる」(第二コリ12:15)という状態になってしまうのでした。

★パウロに対する悪口のひとつは、金銭問題でした。勿論パウロは、この教会から金銭をだまし取ったことなどありませんでした。むしろ金銭には細心の注意を払っていたのです。神様に仕える者にとって、金銭問題の疑いが最もつらいことです。私達の教会はそういうことがないように毎月、会計報告を出しています。コリントに来た異端的な偽牧師は、信徒達からパウロへの信頼を落とすために、偽りの情報を流したと思われます。

★パウロは、そのようなコリント教会の信徒達に言葉を選びながら「あなたがたを責める為にこう言うのではありません。それはあなたがたを命がけで愛しているからそう言うのです。」と語り掛けました。さらには「私とあなたがたは一心同体なのです。私のあなたがたに対する信頼は今も大きく、大いなる誇りです。」また「どんな苦しみの中にあっても、あなたがたを思うと喜びに満ち溢れてくるのです」ともパウロは記しました。

★そして「あなたがたも心を開いてほしい」と語り掛けました。このような状態こそ牧師の苦しみです。牧師はその人を愛して忠告します。しかし、その忠告を受けた側に忠告を受け入れる心がないと、その忠告は地に落ちてしまいます。私も牧師になって何度そのようなことを体験したことでしょうか。パウロは何度も「心を開いて下さい」と願っています。イエス様も同じです。私達は神様の御言を「心を開いて」受け入れ、そして従いましょう。

 

2月5日礼拝メッセージ「霊肉ともに聖く」

第二コリントNO14 「霊肉ともに聖く」6章11節~7章1節  仁井田義政 牧師


30818-holy-week-cross-1200.630w.tnコリント教会のある者達は、パウロを誤解していました。愛情を込めて話し、愛情をもって手紙を書いても、ある人々にとってパウロは単にうるさい人に過ぎなかったのです。パウロは愛情をもって話しました。ですから聞く者達も心を開いて聞くべきなのです。

★パウロは「釣り合わないくびきを共にしてはならない。」と教えました。これは、未信者と結婚することの注意と考えられてきました。それも含まれるでしょう。しかしそれだけではありません。これは、信徒達が置かれていたコリントの町の異教的習慣への注意なのです。それは「神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう」との文によって明らかです。

★神様の恵みに満ちた約束は「彼らの間に住み、歩む。彼らの神となり、彼らは私の民となる」との約束であり、「私はあなたがたの父となり、あなたがたは私の息子、娘となる」との恵み溢れた約束でした。その条件は、異教文化からの(特にコリントの宗教は不品行、ポルネイアーと結びついていました)脱出と分離でした。イスラエルの歴史には、10部族喪失の歴史があります。西暦前587年頃、バビロンのネブカデネザル王はイスラエルを滅ぼしました。それから約70年後に、ペルシャ王クロスがバビロニアを滅ぼしイスラエルを解放しました。しかし帰ったのは、ユダ族とベニヤミン族だけでした。その他の10部族がバビロニアに残ったのです。その後この10部族は歴史から消え去ってしまいました。

★パウロは、「霊肉の汚れから自分をきよめ、聖さを全うしよう。」と7章1節で教えています。霊「プニューマ」の汚れは、信仰の汚れです。真の神様を信じている、愛していると言いながら他の神々も礼拝しているならば、霊的に汚れた生き方をしているのです。そのような人に神様は共にいて下さいません。また肉は「サルコス」欲望です。物質欲、性的な欲、名誉欲等々です。この欲望に従って生きる人とは、神様は共にいて下さいません。自らを聖くするならば、「全能の主」が私達と一緒にいて下さるのです。神様の教えにはひとつの間違いもありません。御言に従って、霊肉を共に聖くしようではありませんか。

1月29日礼拝「恵みを無駄にせず」

第二コリントNO13「恵みを無駄にせず」 6章1~10節 仁井田義政 牧師

jesus-foot-washing019 先週に続いて、今日の御言にも「懇願」と言う御言があります。神様が懇願しておられ、パウロが懇願しているのです。しかしコリント教会には嘆かざるを得ない状況がありました。突然パウロはイザヤ書の49章8節の御言を引用して「神の恵みを無駄にしてはなりません」と筆を進めました。

★コリント教会の現状は、信仰を持ってクリスチャンになったのに偶像礼拝者に戻る人もいたのです。またパウロの伝道によって正しい教えで始まったのに、偽教師の影響で信仰からずれてしまった人達もいました。パウロは、750年も前に預言者イザヤに預言された御言によって「恵みの時、救いの時が来たのに、その神の恵みを無駄にしてはならない」と訴えたのです。

★パウロは、自分の日常生活が人々のつまずきとならないように注意を払い生活して来たと記しました。それは神様が人々の救いを願い「懇願」しておられるからです。第一は、精神的な「悩み・苦しみ・嘆き」を、忍耐の限りを尽くして乗り越えました。第二は、迫害の「鞭・投獄・暴動」に耐えました。第三は、福音の為に「労役・徹夜・断食」という苦労も甘んじて受けました。さらに純潔と知識・寛容と親切を聖霊と偽りのない愛をもって人々に接してきました。パウロは、自分の生活のことで人々が躓かないように気を付けていたのです。

★ パウロは、ひたすら神様に喜ばれるように心掛けて、使徒の務めを果たして来ました。パウロは「悪評を流す者。人を騙す者」と言われても、真実のみを語り、死にそうになっても、生かされ、罰せられる事があっても、殺されず。悲しんでいるようであっても、喜んでおり。貧しいように見えても、多くの人を富ませ。何も持っていないようでも、すべてのものを持っている」という使徒としての生活をしてきたのです。そのように生きることが出来たのは「真理のことばと、神の力」(7節)とによったのです。

★今は誰でもイエス様を信じるならば救われる「恵みの時代、救いの日」となったのです。ですからイエス様もパウロも私達も、ひとつになって懇願します。神様のあなたへの恵みを無視せず、イエス様を信じて、イエス様と一緒にこれからの人生を歩いてゆきましょう。

 

1月22日礼拝メッセージ「懇願する神」

第二コリントNO12「懇願する神」5章16~21節 仁井田義政 牧師

5fea89f3bcdc626b097d52e2d9840cca 日本では、正月に多くの人々が神社や仏閣で神仏に懇願する姿が見られます。正月の参拝数一位の明治神宮には317万人が集まると言われています。如何に日本人は神仏に懇願する民であるかが分かります。しかし今日の聖書の中では、その逆に「神様が私達人間に懇願しておられる」ことを記しています。それこそ奇想天外であり、摩訶不思議な視点です。

★パウロにとって、かつてキリスト教は百害あって一利なしの存在でした。イエスが復活した!イエスの十字架は罪から救う!と言う話は、絶対に許せない神様への冒涜と考えていたのです。イエスがメシア(救い主)であるならば、ユダヤ人の嫌う木に架けられての死など絶対にありえないと考えていたからです。それゆえパウロは、教会を迫害し続けたのです。しかしダマスコへの道で復活のイエスと出会い、クリスチャンになりました。

★「誰でもキリストにあるなら新しく造られた者です」とパウロは言っています。古い自分が過ぎ去って、新しい見方をする人間へと創造されたのです。キリストを見る目も依然と全く変わりました。かつては忌み嫌うものから、今は最も慕わしい方になったのです。すると、神様の心がはっきりと見えてきました。

★ キリストの救いを受けた者は、同時にキリストの使命を持つのです。その使命をパウロは「和解の務め」(18節)「和解の言葉」(19節)と言っています。パウロを通し、クリスチャンを通し、教会を通して「神との和解を受けなさい」と「神が懇願しておられるかのようです」(20節)と言っています。懇願とは「ひたすらお願いしていること」です。神様に人間が懇願するというなら分かりますが、神様が「切なる願い」をしてくださっているとは何ということでしょう。神様はあなたが救われることを、懇願しずっとずっと待っておられたのです。

★イエス様はあなたを愛して、あなたが神様のもとに帰って来ることを懇願し続けて待っておられます。イエス様のあなたへの愛を信じましょう。そしてイエス様の切なる愛を素直に信じて、あなたもクリスチャンになって下さい。

1月15日礼拝「キリストの愛が私達を取り囲んでいる」

第二コリントNO11「キリストの愛が私達を取り囲んでいる」5章11~15節 仁井田義政 牧師 

imgres パウロの生涯は苦難の連続でしたが、そのような中にあっても、決してクリスチャンとしてのありようを失いませんでした。パウロは「キリストの愛が私達を取り囲んでいる」と告白しています。これがクリスチャンの原動力であり、全ての活動の動機なのです。今日はそのことを学びましょう。

★私達の人生には、神様に収支報告をしなければならない時が必ずやってきます。それはイエス様が話されたタラントの例えでもわかります。パウロは人生最期の時のことを「主を恐れることを知っているので、人々を説得するのです」と言いました。「恐れる」とは、強く敬うという意味です。

★パウロは自分のしようとしていることは、コリント教会の人々全ての為であって自分の為ではないと言いました。しかしコリント教会には、パウロに敵意を持つ人々がいたのです。そのことは「神の御前で」で明らかなのですが、「あなたがたの良心にも明らかになるように」と記しました。

★なぜパウロは、それ程までしてコリント教会に関わるのでしょうか。人々から見れば、そのようなパウロの粘着質が「気が狂っている」と見えたのでしょう。その情熱が「気が狂っている」と見えるならば、それは「ただ神のため」であるとパウロは言いました。また「キリストの愛が私達を取り囲んでいるからです」とも言いました。パウロは神様の愛を自分だけに見ていたのではありません。キリストを礼拝する「私達を」です。だから、罵られてもコリント教会を捨てることが出来なかったのです。

★信仰の成長は「自分の救い」から始まります。少し信仰が成長すると「人々の為」と言う信仰になります。つまり信仰の共同体である私達「教会の為に」となります。更に成長すると「キリストの為に」という信仰になるのです。もちろんそれらが別々になるというのではありません。全部内包された信仰となるのです。自分の救いを信じましょう。教会に注がれているキリストの愛を信じましょう。神様の愛は、私達を四方八方から取り囲んでくださっています。その先行する神様の愛を信じ、私達もキリストを愛する為に生きるクリスチャンへと成長しましょう。恐れることは何もありません。今日もキリストの愛が私達を取り囲んでいるのですから。

1月8日礼拝メッセージ「私の願いは主に喜ばれることです」

第二コリントNO10「私の願いは主に喜ばれることです」4章16節~5章10節 仁井田義政 牧師 


stpaul  アドベント・クリスマス・元旦礼拝が入り、コリント人への手紙からのメッセージを中断していましたが、今日から再開致します。何事においても目標と言うものが大切です。今日の御言は、私達に目標をはっきりとするようにと奨めています。

★今日の手紙の中でパウロは「ですから、勇気を失いません」と言っています。パウロは想像を絶する困難を体験してきました。毎日が殉教死と隣り合わせだったのです。それは4章8~12節を見れば明らかです。しかし神の恵みのゆえに「勇気を失わない」というのです。

★パウロはさらに、クリスチャンのこの世での信仰の戦いを記しています。それは自分との戦いです。その戦いを「この幕屋を脱ぎたいのではなく、そのまま天からの住まいを着たいのです」という言葉で表わしています。不完全な私達が、信仰によって自己中心からキリスト中心の人間になる、それが信仰の戦いなのです。

★自分を喜ばせることに目標を置く人は、自分の為になることが人生の目的であり(エゴイズム)なのです。人を喜ばせることに目標を置く人は、人間中心主義(ヒューマ二ズム)なのです。クリスチャンの人生目標を、パウロが「主に喜ばれることです」と言っているように、私達の人生目標も主に喜ばれるかどうかなのです。

★私達は、上記のような「自己中心」という幕屋の上に、天からの永遠の命に繋がる「主に喜ばれる生き方」という人生を着ようとしているのです。本気にならなければ無理な話なのです。ですから気を付けないと、名前だけのクリスチャンになってしまいます。ではどうすれば、自己中心な幕屋の上に、「天からの住まい」、つまり「神に喜ばれる人生」となりうるのでしょうか。パウロは「神はその保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私達は心強いのです。」(5:5-6)と言っています。

★私達は聖霊に満たされて「私の願いは、主に喜ばれることです」と、しっかりと目標を定め、2017年を走り出しましょう。

2017年元旦主日礼拝「私は城壁を飛び越える」

2017年元旦主日礼拝「私は城壁を飛び越える」詩篇18篇29節 仁井田義政 牧師

%e3%82%ad%e3%83%a3%e3%83%97%e3%83%81%e3%83%a3 みなさん、明けましておめでとうございます。今年の御言は「私の神によって私は城壁を飛び越えます。」(詩篇18篇29節)とさせていただきました。今日は、幾度も大きな壁を乗り越えたダビデからその秘訣を学びましょう。

★ダビデの前に立ちはだかった第一の壁は、ダビデが兄弟の8番目の男子だったということです。(第一サムエル16:10-13)ダビデのお父さんも、8番目のタビデがイスラエルの王になるとは思いませんでした。しかし神様は、そのダビデをイスラエルの王として選んでおられたのです。ダビデに認証の油が注がれ、その日から一介の羊飼いに過ぎない少年ダビデに主の霊が激しく下ったのです。これは生まれた環境の壁を乗り越えたダビデです。

★ダビデに臨んだ第二の壁は、ペリシテ人ゴリアテとの戦いでした。(第一サムエル17章)ゴリアテは、三メートルにもなる訓練された軍人でした。ダビデは戦士ではなく、羊飼いの少年に過ぎませんでした。その少年がゴリアテとの戦いをかって出たのです。王は彼に鎧を付けさようとしましたが「こんなものを着けては歩くことも出来ない」と脱ぎ捨てて、神の名において羊飼いで使っていた石投器で立ち向かいました。第一投の石がゴリアテの額に命中し、強敵ゴリアテは倒れました。それは、神の名によって行なうならば、自分の今ある力で充分に余裕をもって壁を越えられることを示しています。

★第三の壁は、ダビデに対するサウル王の嫉妬でした。(第一サムエル18~31章)ゴリアテを倒したダビデは、女性達から大歓迎を受けました。サウル王は嫉妬のあまり、ダビデの命を狙い続けたのです。ダビデにはサウル王を殺す機会が幾度もありました。しかしダビデは「神様に王とされたサウル王を私は殺せない」と神様との関係を守り続けたのです。

★ダビデの第四の壁は、バテシェバとのことでした。(第二サムエル11~12章)ダビデは家来の妻バテシェバを手に入れようと、夫のウリヤを戦死させたのです。しかし神様は、このタビデの罪を見逃しませんでした。ダビデは、預言者ナタンと神様の前に、本心から悔い改めました。

ダビデの人生を見ると、このほかにも彼には多くの壁がありました。しかしダビデは「私は私の神によって城壁を飛び越えます」と言っているのです。私達も、私達の前のあらゆる壁を飛び越えて、新しい年を進みましょう。

 

2016年 クリスマス礼拝「わが魂よ、主をあがめよ」

クリスマス礼拝「わが魂よ、主をあがめよ」ルカ1章39~56節 仁井田義政牧師

st-mary 今日は12月25日のクリスマスです。また2016年最後の主日礼拝でもあります。今日は「わが魂よ、主をあがめよ」と言う題で、クリスマスと2016年最後の礼拝メッセージをお伝え致します。

★今日の聖書には、二人の人物が出て来ます。マリヤと、マリヤの親類で祭司ザカリヤの妻エリサベツです。エリサベツは子を産めない年齢となっていました。しかし祭司ザカリヤは、神殿で突然「あなたに子供が」と天使から告げられたのです。そしてのちにバプテスマのヨハネと言われる赤子を身ごもったのです。それから六ヶ月後のことです。天使がナザレのマリヤに現れて、イエス様があなたから生まれると告げました。

★最初は二人とも、主の言葉を信じられませんでした。エリサベツもこの年になって子供が生まれるとは信じていなかったでしょうし、マリヤは結婚前だったのです。時には神様の祝福と恵みは、私達人間の思いを越え、また自己認識を越えてやってきます。しかも、神様は「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(第二コリント12:9)と言われています。

★エリサベツは訪ねてきたマリヤに「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」と語り掛けました。エリサベツも主の言葉によって身ごもり、六ヶ月目の妊婦体験として語りかけたのです。マリヤの心はエリサベツの言葉に励まされ、喜びにあふれて神を賛美し始めました。その賛美の中にある「わが魂は主をあがめ」の「あがめ」はギリシャ語の「メガ」が使われています。それは最大級を現わす言葉で「メガトン級」などと言われる言葉のもとになりました。マリヤは同意して「わが魂とわが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」と歌いました。マリヤは、キリストの懐妊という大きな恵みのゆえに神様を賛美したのです。それは口先だけの賛美ではありません。マリヤの「霊と魂が」口を動かし、神をほめたたえさせたのです。

★イエス様は、私達を罪から救うために来て下さいました。神様は、私達にも「大きなこと」をしてくださったのです。今日はクリスマスです。そして、2016年の最後の礼拝です。マリヤのように、私達も「魂で賛美し、霊で感謝」し、今年最後の礼拝をおささげ致しましょう。

12月18日待降節4「東方の博士達と西方の学者達」

アドベント第四週東方の博士達と西方の学者達マタイ2章1~11節 仁井田義政牧師

db522afffe0b2f5fd4065e99aabfb3c1アドベント第四週になりました。聖書のクリスマスの記事には、貧しい人々に対する神様の祝福が満ち溢れています。しかしイエス様の誕生は、貧しい者達に対する祝福と恵みを伝えているだけではありません。イエス様は全ての者の救い主です。今日の聖書には豊かな者達だけが出て来ます。

★イエス様の誕生時には、東方の博士達が片道2000キロ、往復4000キロの旅をしてイスラエルの国にやってきました。その距離は、大体片道で東京から台湾まであります。それを往復したのです。彼らはその旅に必要なすべての財力を持っていたことを示します。その旅費だけではありません。その当時の宝物の黄金・乳香・没薬を持ってきたのです。

★東方の博士達は、新たに生まれたユダヤ人の王を探して星を頼りに旅をしてきました。ユダヤ人の王として生まれる方ですから、エルサレムの王宮に生まれたと思ったのは当然なことです。しかしイエス様の誕生の確実な情報は、聖書学者から聞くことになりました。学者達は、子供の時から学者になるべく旧約聖書を読み暗記していました。ですから口をそろえて、キリストが生まれる所は、「ユダの地、ベツレヘム」であると答えることが出来ました。ユダヤ人の学者達は、聖書学者としてさすがでした。

★博士達がエルサレムに着いた時は、イエス様が生まれて2年くらいは経っていたと考えられます。学者達のいたエルサレムからベツレヘムまでは、5時間もかからない距離でした。毎日聖書を読んでイエス様誕生の地を知っている学者達が、隣の町に生まれておられたイエス様を知らなかったのです。しかし、聖書の知識もほとんど無かったであろう東方の博士達が、2000キロの距離を命がけの旅をして救い主を見つけ出したのです。

★今日の聖書箇所には、聖書特有の「皮肉」があります。皮肉と言いますと悪い言葉に聞こえますが、英語の「アイロニー」です。またこの所には聖書特有の逆説もあります。英語の「パラドックス」です。近い者が遠く、知っているものが知らないという皮肉と逆説です。その皮肉と逆説は、読む私達クリスチャンにも鋭く迫ってきます。あなたはどうかと問い詰めるのです。私達も東方の博士達に倣って、たとえどんな犠牲を払ってでも、ベツレヘムに生まれられた幼子イエス様にひれ伏して、心から礼拝しましょう。

 

12月11日待降節3「ヨセフと聖霊」

アドベント第三週「ヨセフと聖霊」マタイ1章18~25節 仁井田義政 牧師 

b43b675019bc81abdd36dfe7641398c2先週もお話しましたが、マリヤとヨセフにとっては、キリストのアドベント(来るの意味)は、自分達の婚約と結婚という幸せな生活を破壊する恐怖そのものとなりました。イエス様を迎えるには、その「恐れ」を乗り越えなければなりませんでした。今日はヨセフがどのようにして恐れを乗り越えて、キリストを迎えたかをお話いたしましょう。

★先週、ルカの福音書からお話しましたように、すでにマリヤの心から恐れが消え去っていました。御使いが「神にとって不可能なことはありません」と語り掛け、マリヤはその言葉を受け入れたからです。しかし、マリヤの婚約者であるヨセフは、突然のマリヤの妊娠に承服できず、マリヤの説明を聞けば聞くほど、嘘をついているのではと悩みに包まれてしまいました。

★ヨセフは、「正しい人」(1:19)でしたので身に覚えが全くないのです。ヨセフは、マリヤの不貞以外に原因がないと思っていました。しかしマリヤの不貞を訴え出れば、マリヤは姦淫の罪で死刑になってしまいます。不貞の妻を罰するのは、当時の夫の権利でした。自分の身に覚えのない事は決して許せない、それが当時の男性の特徴でした。しかしヨセフは、マリヤが死罪になり人々の前でさらし者になることを可哀想に思い、外国に逃がそうとしました。不貞な婚約者に対するヨセフの成し得る最大限の優しさでした。

★ヨセフが眠りにつくと、御使いが夢に現れ、マリヤの胎の子は「聖霊によるのです」と語り掛けました。聖霊こそ神の力であり、天地万物さえも創造された超現実なる御方です。そのことによってマリヤが嘘をついているのではなく、神様の御計画が聖霊によって実行されているのだと受け止めることが出来ました。

★ヨセフは越えられない悩みから解放され、「マリヤを妻として迎え入れ」(24節)ました。二人は「生まれてくる子は聖霊によるのです」という御使いの知らせによって、悩みを乗り越えたのです。それは神の聖霊の力を信じていたからです。その数年後、マリヤとヨセフはヘロデ大王の「幼子キリスト殺害計画」を避け、難民となりエジプトにまで逃れて行きました。聖霊の力を信じる時、どんな問題も乗り越えることが出来るのです。私達も聖霊の力を信じましょう。