4月7日礼拝メッセージ「いちじくとイエス様」

(礼拝メッセージ)「いちじくとイエス様」マルコ11章12~19節 

                     仁井田義政 牧師                    

 イエス様は、ロバの子に乗ってエルサレムに入られました。その日の夕方、イエス様はエルサレムを出られ、ベタニヤに退かれました。その翌日の朝、つまり月曜日にこの二つの事件が起こったのです。いちじくの呪いと、宮清めという事件です。この二つは、実はひとつのことなのです。

★いちじくの木に実がなかったので、イエス様が怒りその木を呪われたというのです。普通の人間ならばよくあることですが、イエス様にしては短気すぎると思ってしまいます。しかも「いちじくの実を結ぶ季節でなかった」と聖書は記しているのです。さらにその日は、神殿の庭で両替人の机なども倒して、暴力的にさえ見えてしまいます。

★まずいちじくの件ですが、イスラエル在住のリュ・モーセ博士の著書「聖書の世界が見える」(植物篇)で「いちじくは、4月に付く最初の実をパーグという。その後のいちじくはティエナーという」と記されています。最初の実のパーグは、大きくならず商品にならないので、旅人がとって食べても良いことになっている。実はそれもなっていなかったのだ」と言っています。

★ このいちじくのことと、次の神殿で両替人の机をひっくり返す事件とは、結び付いているのです。イエス様は「祈りの家を・・・強盗の巣にしてしまった」と怒り机をひっくり返されたのです。「強盗」とは、時には人を殺してでも他人の物を自分の物にしようとする人の行為です。宗教を金儲けの手段としている所は多いのです。神社等の絵馬も、最初は神の使いとして「馬を」捧げたのでした。それでは神社が馬を飼育しなければならなくなって大変になり、その対策として、馬の絵を描いた木札を売り出したのです。その方が多くの人が買えるようになり、神社やお寺は収入増となったというわけです。

★イエス様の行なわれた宮清めの行為を見て、神殿の庭の利権を持っていた祭司達や律法学者達は、イエス様を殺すことを計画しました。イエス様は、彼らの計画通りにあと数日で殺されるのです。神の子イエス様の為に小さい実さえ実らせていないいちじくの木と、神殿を商売の場にしてしまったイスラエルを重ねて、視覚的な教えとされたのです。つまりいちじくの木を枯らすという奇跡で、強盗の巣のようになってしまったエルサレムが神に捨てられて滅ぼされてしまうということを示したのです。たとえ私達の結ぶ実が、小さないちじくの実であっても、イエス様に喜ばれる実を結ぶクリスチャンになりましょう。

3月31日礼拝「神様の大いなるご計画」

メッセージ「神様の大いなるご計画」創世記45章1~8節

                           楠 亜紀子師

今日は創世記45章より「神様の大いなるご計画」と題して、恵みをお分かちしたいと思います。

★ヨセフは、兄弟の中で誰よりも父親から特別に可愛がられていました。しかし、父や兄たちが自分にひれ伏した夢を見たなどと語ったことから、兄たちの怒りを買い、通りがかった商人によってエジプトに売られてしまいます。ヨセフは、連れて行かれた主人の家で一生懸命働き、主人の信頼を得て財産を任されるまでになります。しかしその後、濡れ衣をきせられ、牢に入れられるなど理不尽な苦しみも受けますが、そこでもヨセフは忠実に働き、信用を得て囚人を管理することを任されます。

★ヨセフは家族から一人離れて異国の地で苦労は多かったはずですが、十数年経った時、エジプト全土を治める大臣になります。しかし神様はヨセフを大臣にすることを目的とされたのではなく、深いご計画を持っておられました。パロ王がある夢を見、ヨセフがその夢を解き明かしました。その夢で、数年後に大きな飢饉が起きることを知ったヨセフは、飢饉に備えて食料を蓄えます。このことによって、エジプト国内だけではなく、カナンに住んでいる父や兄たちもエジプトに行き、大臣となったヨセフから食料を買い、命が守られました。創世記45章4~5節で、「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わして下さったのです…。」神様が先にヨセフを遣わされ、神様の民の命を守られたのです。

★39章2~3節、21~23節には、「主がヨセフとともにおられたので…」とあります。「主がともにいてくださる」と言うのは、いつも自分の思う通り、願う通り、全てが順調に行くということではなく、時には難しい状況に置かれることがあるかもしれません。しかし、どのような時にも主が私たちとともにいて下さり、お守り下さるとは何と幸いなことでしょう。ヨセフのように、私たちの歩みも全て主の御手の中にあります。そして私たち一人ひとりに素晴らしいご計画を持っておられます。

どのような時にも全てを主にゆだね、主に信頼して歩んでいきましょう。

 

3月24日礼拝「主はロバの子に乗って」

メッセージ「主はロバの子に乗って」マルコ11章1~11節

                        仁井田 義政 牧師

イエス様と弟子達は、ついにオリーブ山のふもとのベタニア村まで来られました。イエス様は、そこからエルサレムに入るにあたって、当然のように二人の弟子に、ロバの子を連れてくるようにと命じられました。これは、ただイエス様がロバの子に乗られたというだけの意味ではありません。イエス様が救い主であられるという証明となる深い意味があるのです。

★イエス様は、ロバの子に乗ることが既に決まっているかのように行動されました。それは旧約のゼカリヤ書9章9~10節の中に「シオンの娘よ・・・あなたの王が・・柔和で、ロバに乗られる・・ロバ子の子ロバに」と預言されているからです。ローマの皇帝は馬を多く用いて戦争をしました。それほどローマは権力を維持するためには馬を絶対的に必要でした。しかしイエス様は世界の王となるための戦争をしないのです。しかしその支配は聖書が預言している通りに全地に及ぶのです。それがキリスト教会になっているのです。

★イエス様は、弟子達に「主がお入り用なのです」と言ってロバを連れて来なさいと言われました。イエス様がご自分を「主が」と言われたのは、おそらくここが唯一だろうと思います。ロバに乗った不思議な「王」の入城なのです。一般大衆は不思議に思ったことでしょう。聖書に預言された王の入城であるのに、イスラエルの重要人物達、祭司長や律法学者達の出迎えがないのです。つまり王を迎える準備が何ひとつされていませんでした。現代的に言うならば、赤じゅうたんがないのです。 

★人々は上着を抜いて道に敷きました。もしイエス様が軍馬にまたがり、軍隊を率いて「私を迎えないものは処刑する」とオフレでも出せば、みんな恐れからイエス様を王として最高の礼儀を尽くして迎えたでしょう。しかしロバの子に乗っての入城です。イエス様は何の力も感じられない姿で入城されたのです。それは現代も同じです。イエス様は人々から無視されても、拒否されても、裏切られても仕返しの出来ない無力な方のように見えるかもしれません。

★ですから私達は信仰によってイエス様を真の王であり、救い主であると見なければならないのです。本当の救い主は「柔和でロバに乗られた」お方であるからです。そのお方こそ、全世界の王であり主なのです。私達はロバの子に乗られたイエス様を、私の主としてお迎えしましょう。

3月17日礼拝「何をして欲しいのか」

(礼拝メッセージ)「何をして欲しいのか」マルコ10章46~52節

                                                                    仁井田義政 牧師

 イエス様の一行は、エリコという町に入りました。そのエリコからエルサレムまで直線で約20キロの距離です。その町でひとりの盲人と出会ったのです。イエス様はその盲人に「私に何をして欲しいのか」と話しかけられました。今日はそのイエス様の言葉から聖書の真理を学びましょう。

★エリコの町は、エルサレムまで一日の距離です。過ぎ越しの祭りが近かったので、祭りに集う人々が各地からエルサレムに向かっていました。エルサレムに近づくにしたがって、イエス様の受難預言を無視した弟子達と、エルサレムでイエス様は王になると信じた群衆の期待は高まるばかりでした。イエス様こそローマから解放してくださる救い主だと信じていたのです。

★そこに、バルテマイと言う盲人が街道筋で物乞いをしていました。既にイエス様のうわさは、街道を通る人を通して聞いていたようです。イエス様の一行が来ると「私を憐れんでください」と叫び出しました。群衆は盲人を黙らせようとしました。イエス様には盲人ごときに使う時間などないと、群衆は思ったのでしょう。しかし盲人は、求め叫び続けました。イエス様は「あの人を呼べ」と足を止められたのです。

★盲人は、哀れさを演出するためのボロボロの上着を脱ぎ棄て、イエス様の所にやってきました。イエス様が「私に何をして欲しいのか」と語りかけると、「目が見えるようになる事です」と答えました。「何をして欲しいのか」とは弟子達にも36節で言われた言葉です。すると弟子達は「権力と富をください」と言ったのです。盲人は、そのような弟子達の求めていたものとは全く違い、「見えるようになること」ですと言いました。弟子達は目が見えたのに真理が見えず、盲人は目が見えなかったのに真理が見えたのです。

★ここに聖書の逆説が見えるのです。その後「イエス様の行かれる所について行った」と記されています。エリコから高低1000メートルもあるエルサレムに、イエス様と一緒に歩いて行ったのです。今まで一日中ほこりにまみれて道に座っていた彼にとって、どれほどきつい坂道だったかしれません。しかしイエス様についていくことは、彼にとって喜びとなりました。私達にも「私に何をして欲しいのか」とイエス様は言われます。私達も信仰の目を開けて頂き、バルテマイのように喜んでイエス様について行きましょう。

3月10日礼拝メッセージ「野心家とイエス様」

(礼拝メッセージ)「野心家とイエス様」マルコ10章38~45節

                      仁井田義政 牧師

 野心家と言われる人は、向上心の強い人です。そのような人は出世欲の強い人とも言われます。向上心の無い人の方が問題かもしれません。イエス様は、決してそれらのことを否定しておられません。何にその力を向けるかです。イエス様は、その事こと弟子達に教えられました。私達にとっても、それは大切なことです。

★ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、イエス様の右側と左側に着くためなら何でもしたいと考えていました。何万という人々が歓声をあげるコロシアムや王宮で、勝利者イエス様の右と左に着きたいと思っていたのです。イエス様の死の予告と、エルサレムから伝わってくる不穏な噂。しかしイエス様なら大丈夫だろうと思い、王となる前に自分達兄弟の場を確実なものにしておこうと、イエス様に「私達をイエス様の右と左に座らせてください」と願い出ました。まさにみなぎる野心であり、向上心です。

★その願いにイエス様は「自分が何を求めているのか、分かっていない」と言われました。イエス様は「私の飲む杯を飲むことが出来るか」と言われました。すると即座に、二人は「できます」と即答しました。その立場の為なら戦争だってするとの決心とみることが出来るでしょう。命をかける覚悟であったのです。彼らの向上心は強固なものでした。その野心の為に彼らは従ってきたのです。他の十人の弟子達も、41節に「このことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた」と記されています。

★すかさずイエス様は、「人の上に立ちたいと思う者は人の僕となりなさい」と教えられました。弟子達の「権力者になりたい」という気持ちは、少なからず私達自身の心にもあるでしょう。そう認めることによって初めて、今日のイエス様の御言があなたを照らし変化させるのです。イエス様はご自分を例に「人の子が来たのも・・仕えるためなのです」と教えられました。そしてあなたがたも人の上に立ちたいと思うならば「人に仕えよ」と教えられました。

★私達人間にとって、野心家と言われるくらい情熱と行動力のあるのは素晴らしいことです。しかしその熱心、情熱が、誰の為であるのかが大切なのです。自分の出世欲のためであるならば神様を知らない人と同じです。人に仕えられるのではなく、人に仕える人になりましょう。単なる野心家ではなく、イエス様に倣って、神と人に仕える人になりましょう。

3月3日礼拝メッセージ「イエス様は先頭に立って」

(礼拝メッセージ)「イエス様は先頭に立って」マルコ10章32~38節

                          仁井田義政 牧師

 イエス様と弟子達は、エルサレムに向かいました。しかし目指す目的は違っていました。イエス様は、エルサレムで多くの人々の救いの為に十字架につけられ死ぬためであり、弟子達はエルサレムに行って権力者となるためでした。このイエス様と弟子達の求めるものの乖離こそ、私達の最も気を付けなければならないことなのです。

★イエス様と弟子達のいたガリラヤからエルサレムまでは直線で100キロ。歩く実際の道のりは140キロくらいです。大体4日でエルサレムに到着します。イエス様は先頭に立ってその道を歩かれました。しかし弟子達は、「恐れた」と記されています。弟子達もこの時を待っていたはずです。弟子達の恐れの原因は、イエス様の受難予告です。それは8章31節と9章31節にあります。

★イエス様は弟子達の不安を見抜かれました。そして受難についての三回目の説明をされました。それはエルサレムでの御自分の凄惨な死のことです。しかも、最も不名誉な異邦人になぶり者にされて殺されるというのです。ですがイエス様は、弟子達が絶望してしまわないように「三日目に甦る」と話されました。(8:31,9:31)

★弟子達にとって、エルサレムは成功の場のはずでした。イエス様が王となり侵略者ローマを倒せば、長年ローマの植民地であったイスラエルの人々をその苦しみから解放したヒーロとなり、その弟子達となるはずでした。しかし度重なるイエス様の受難の話が気になり、恐れとなったのです。その恐れを無くすために、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟二人がイエス様に出世を願い出たのでした。

★イエス様は、エルサレムでの受難を何度話されたことでしょう。しかし弟子達の心は出世欲がいっぱいで、イエス様がエルサレムで実行しようとされている十字架の身代わりの死も、また罪からの完全勝利としての復活についての話も、全く理解できなかったのです。いやそのことを「理解するのを恐れ、聞くのを恐れていた」(9:32)のです。私達クリスチャンも、たとえ何年信仰を持っていても同じです。エルサレムに行かれたイエス様の愛よりも、自分の出世を愛してしまうのです。そのようなことがないように、「私の罪の赦しの為にイエス様は十字架について下さった」と心から感謝しましょう。そして十字架のイエス様をいつも崇めて、礼拝しましょう。

2月24日礼拝メッセージ「神にはできる」

(礼拝メッセージ)「神にはできる」マルコ10章23~31節

仁井田義政 牧師

 先週の聖書箇所には富める青年が出てきました。せっかくイエス様の所に永遠の命を得る方法を聞きに来たのに、イエス様の言葉に「顔を曇らせ、悲しみながら帰って行った」と言う所から話しました。イエス様の真理を理解し実行するのは、大変難しいという失望でした。

★イエス様の「金持ちが救われるのは難しい」(23節)という言葉に、弟子達は驚きました。イエスはさらに、その難しさの程は「ラクダが針の穴を通る方がやさしい」と言われました。もう不可能だと言っていると同じ言葉です。弟子達がまたその言葉に「それでは誰が救われることができるのだろうか」(26節)と驚きました。それはもう絶望的な言葉として聞こえたのです。

★するとイエスは、失望する弟子達をじっと見て「人には出来ないが、神には出来ます。神にはどんなことでも出来るからです」と言われました。すると弟子達は「私達はすべてを捨てて従ってきました。」と言いました。マタイの福音書には、そのあとに「私達は何が頂けるでしょうか」(19:27)と言っています。弟子達も全てを捨ててイエス様に従ったのも、もっと凄いもの、つまりイエス王国の富と権力を得たいと思って着いて来たのです。そのことがこのペテロの言葉で明らかになってしまいました。

★イエス様は本当に着いてくれば「捨てた百倍をうけます」(30節)そしてその与えられる最高のものは、「永遠の命」ですと言われました。そして「先の者が後になり、後の者が先になる」とも言われました。それは、いま去って行った金持ちの青年も、あなたがたの先になるかも知れないという意味が含まれます。それが神の業なのだと言うのです。

★イエス様のその言葉に果てしない愛を感じます。教会にも先の者がいれば、後の者がいる。分かりやすく言えば、いま信仰がしっかりとしている者がいれば、信仰の弱い者がいる。今日の富める青年のように、あんなに熱心にイエス様の所に来たのに、最後には「顔を曇らせて」去っていく人もいます。この金持ちの青年だけではなく、聖書には他にもイエス様の所に来たのに、暗い顔で去っていった人が記されています。ニコデモです。しかし彼はイエス様の埋葬の時に、30キロもの没薬を持ってきました。十二弟子が隠れていたその時です。私達は「神には出来る」というその言葉を信じて、弱い人をも大切にしていきましょう。

2月17日礼拝メッセージ「主の愛を知らずに」

(礼拝メッセージ)「主の愛を知らずにマルコ10章17~22節

                                                                      仁井田義政 牧師

 今日の御言は、「富める青年」と言うタイトルがつけられて話されることが多い所です。その内容をひとことで言うと、せっかくイエス様の所に来たのに、イエス様のもとを去っていく人の話です。

★「彼は走り寄った」と記されています。そしてイエス様に聞いたのは、「永遠の命に入るにはどうすれば良いか」ということでした。その行動に青年の強い熱意を感じます。また「御前にひざまずく」という姿勢にも、イエス様に対しての謙遜さを感じます。また「尊い先生」と言う呼びかけは、彼が如何に処世術にもたけていたかを現わしています。しかも「永遠の命を得るためには」との言葉の中に、永遠の命を大切なものとして求めていたことが分ります。

★金持ちの青年がイエス様に礼を尽くして話したのに対して、イエス様の応答は「なぜ私を尊いというのか」と少し冷たいように感じます。それは、彼がイエス様に「走り寄っても」、「御前にひざまずいても」、「尊い先生と言っても」、救い主とは見ておらず、イエス様を律法の教師と見ていたからであると思います。イエス様が十戒の中の六つを話すと、「それらは守っています。他に何が必要なのですか」と青年は答えました。永遠の命は信じる者に神からのプレゼントとして与えられるもので、何かをしたら与えられるのとは違うのでした。ですからイエス様と青年の会話はかみ合わないのです。

★イエス様は「彼を見つめ、いつくしんで言われた」とあります。「いつくしみ」の原語は「愛」という言葉です。イエス様は、青年がこんなに熱心でも、決定的に欠けているものがひとつあることを教えられました。それは財産への執着でした。イエス様は「愛」を込めて「あなたに欠けたことがひとつある」と言われました。しか彼はイエス様の「愛」の言葉を受け止められず、イエス様のもとを暗い顔をして去っていったのです。

★今日の聖書に出て来た青年にとって、イエス様に従い通せない原因となっていたのは「財産」でした。あなたが一番大切にしているものが妨げとなることが多いのです。人に褒められたいと思って良いことをしている人がいるとします。あなたにとって今一番大切なものは何ですか。イエス様は「それを捨てて私に従ってきなさい」と言われます。イエス様は今日の聖書の中に出て来る青年にそうであったように、あなたを愛しています。イエス様の忠告は、全て愛から出ていることを知って、イエス様に従う者になりましょう。 

2月10日 礼拝メッセージ「子供たちを御許に」

(礼拝メッセージ)「子供たちを御許に」マルコ13章1~16節

                                                                 仁井田義政牧師

 今日の御言は、ある人々が子供達を御許に連れてきたという有名なところです。しかし弟子達はそれを止めさせようとしました。イエス様は疲れておられるし、子供たちにイエス様の教えなど分かるはずがないと思って叱ったのでしょう。

★子供達がイエス様の所に来たのは、子供達の意志ではありませんでした。自分の子供をイエス様に祝福して頂きたいとの親達の強い意志によりました。「さわって頂くために」とは、祝福の祈りをして頂くためにです。子供達の信仰は、親がどれだけ子供達の祝福を願うかが大切なのです。「子供は聖い」等の理想論とは全く違うのです。

★ところが弟子達は彼らを叱りつけました。それは、イエス様への愛だったと思います。イエス様はパリサイ人と難しいギリギリの論争をしたばかりです。そのような時に、親に連れられて入ってきた子供達を叱ったのです。叱るという語は強い言葉です。弟子達は、既にイエス様から子供達の大切さを聞いています(9:36-37)。しかし叱りつけてしまいました。大人の無理解の根強さを現わしています。

★その様子を見ておられたイエス様が憤られたことが記されています。その「憤って」は激しい怒りの言葉です。大人が軽んじている子供達をイエス様は尊んでおられ、大人と同じ人格として扱っておられます。先々週も痛ましい事件が起こりました。父親による子供の虐待死です。学校も教育委員会も自己保身で、子供が学校に提出した虐待を訴えるアンケート用紙を、虐待する父親に渡してしまいました。子供の命を大人が軽んじたのです。イエス様は子供を軽んじることを憤られます。

★親達はイエス様に「手を置いて」祝福して頂きたかったのです。しかしイエス様は、「抱き」上げて手を置いて祝福されたと記されています。それはイエス様が、親達の願っていたこと以上のことを子供達にしてくださったことを示しています。親は率先して、子供達をイエス様の所に連れて来ることを心掛けてほしいのです。教会の大人達も、子供がイエス様に来るのを妨げてはなりません。むしろイエス様に子供達が来るように、真剣に祈って考え助けましょう。そうする時、イエス様は私達の願った以上のことを子供達にして下さるのです。親も教会も、子供達の救いを真剣に願い実践していきましょう。

(2月3日礼拝)「パリサイ人の罠にかかるな」

(礼拝メッセージ)「パリサイ人の罠にかかるな」マルコ10章1~12節

                                                                                           仁井田義政牧師

 本日の10章6~9節の御言は、パリサイ人がイエス様を合法的に殺す為に、その罪名作りの為に必死になって考えた罠です。そういうパリサイ人の質問であることを心得て読まなければなりません。そのような緊迫した中で教えられた大切な教えなのです。

★イエス様は、10章に入って三つの話をされました。まず離婚問題。次は子供問題。さらに財産問題です。どれも日常の大切な事ばかりです。この話が終わると、32節の「先頭に立って」という有名な言葉が出て来ます。この流れの中で、今日の離婚問題も読まれなければなりません。

★パリサイ人が提示した律法は、1300年も前の律法でした。女性は人間として扱われていない時代の言葉でした。しかしパリサイ人は、イエス様が女性を人間として扱われることを知っていました。そしてそれがすなわち、イエス様が律法を無視することと考えていたのです。そこでイエス様は、パリサイ人に「モーセはあなたがたに、何と命じていますか」(3節)と質問されました。パリサイ人は自信を持って「モーセは妻に離婚状を渡せば離婚しても良いと言っています」と答えました。その逆は絶対に許されていなかったのです。モーセは紀元前1300年も前の人です。その間ずっと男尊女卑が続いていたのです。

★男だけが優位に立つ結婚などあってはいけません。結婚は、互いの親や家を離れて神が二人をひとつとしたと聖書にあります。そのひとりを傷つけることは自分を傷つけることです。ですから結婚を軽んじてはならないと言われたのです。イエス様の弟子達まで、男性優位が当然と思っていました。男性が自由に離婚を決められないなら「結婚しない方がましです」(マタイ19:10)と言っています。 

★結婚は、神様が作られた大切なものです。人と人とが親の家を離れてひとつとなるのです。ですから結婚相手を選ぶ時は、軽い心で決断してはなりません。互いの思い込みや不十分さの結果、離婚が起こるのです。そのことで互いに傷つくのです。パリサイ人はイエス様が「離婚をしてはいけない」と答えれば愛がないと責め、「離婚しても良い」と言えば律法を破ったという罠をかけたのです。どちらの答えでも罠にかかるのです。イエス様はどちらでもなく、人間の罪のために「先頭に立って」十字架に向われるのです。イエス様の愛に感謝しましょう。