ピリピ書講解(NO4)「キリストのために生きる」1章20~26節
仁井田義政牧師
獄中にあるパウロは、今日の御言にあるように、切なる祈りを捧げています。「切なる祈り」は、生きるにしても死ぬにしても、キリストが崇められることでした。私達の切なる祈りは何でしょうか。
★パウロは、処刑の決定がいつ下されるか分からないような状況にありました。処刑となれば、ローマの平和を乱し皇帝にたてついた者として、民衆の前に引き出され、そこで見世物にされ、殺されるのです。そのような状況下で、自分の生と死を前にして、切なる祈りをしていたのです。
★パウロの切なる祈りは、「生きるにも死ぬにもキリストが崇められますように」でした。パウロは獄中にあっても、自分の罪がさらに重くなるようなキリスト伝道を続けていたのです。パウロにとっては、「私にとって生きるのはキリスト」だったからです。その「生きる」とは、人生の目的のことです。
★パウロは、「死ぬこともキリストの為、生きるのも教会の為になる」という二つの板挟みになっていました。パウロは「死んでキリストのもとに行くこと、これ以上の幸せはない。しかし生きていれば、教会の為に活動ができるという生き方でした。処刑されずに生きながらえれば、ピリピ教会にも再度行って、信仰の励ましも出来ると思っていたのです。しかし、それは実現しませんでした。パウロは、数年後に処刑されたのです。
★パウロは、「私の人生の存在目的は、キリストの為に生きるところにある」「私にとって生きるのはキリスト、死ぬことも益です」と言っています。私達日本のクリスチャン達に必要なのは、まさにパウロのような人生目的の明確化なのです。私達日本の多くのクリスチャン達は、イエス様を信じた後も相変わらず「自分の為に生きている」ことが多いのではないでしょうか。しかし自分の為に生きるという古い生き方は、洗礼の時に殺してしまったのではないでしょうか。新しくなった私達の人生の目的は、生きるにも死ぬにも、キリストの為になるように生きることなのです。そうするのは、キリストが私達を救うために十字架で死んでくださったからです。
私達もパウロに倣って、「キリストの為に生きる」ことを揺るぐことのない人生目的としようではありませんか。