(2018年最後の礼拝メッセージ)「主の恵みを何一つ忘れるな」

(今年最後の礼拝メッセージ)「主の恵みを何一つ忘れるな」詩篇103篇1~5節

                         仁井田義政牧師

 2018年の最後の礼拝を迎えました。今日の御言である詩篇103篇によって、悪いものは全て捨て去り、良いものだけを持って2019年を迎えたいと思います。 

★ダビデは「我が魂よ、主をほめたたえよ」と言っています。人間は良いことは自分の力、悪いことは神が行なったと思いがちです。しかし、そのような自己中心の人間性に勝つためには「我が魂よ、主をほめたたえよ」と自分で自分の心を矯正しなければなりません。「聖なる御名を」とは、私は汚れている者で、本来ならば神様をほめたたえる資格も権利もない者ですが、神様の恵みによってほめたたえますという意味です。

★そして「主の良くして下さったことを何一つ忘れるな」と続きます。神様がして下さった良いことは全部忘れて、自分の失敗での辛いことはみんな神様のせいにしてしまいやすい私達人間。だから「神様のしてくださった良いことは何一つ忘れ」ないように思い出し、数え上げる必要があるのです。神様は、あなたに今年どんな良いことをしてくださいましたか。書き出して数えてみましょう。大きなことも、そしてどんな小さなことも書き出してみましょう。

★ダビデは、主がしてくださったことのリストを三つあげています。まず3節の前半に「主はあなたの全ての咎をゆるして下さった。」と、3節後半には「あなたの全ての病をいやして下さった。」と、そうして4節の「命を穴から贖って下さった」と記しています。穴とは墓穴、あるいは地獄のことで、「永遠の命を与えて下さった」という意味なのです。

★また4節の後半には「恵みとあわれみとの冠をかぶらせ」とあります。冠は王としての姿のことです。私たちは悩みを支配する王権をも与えられているのです。しかしそれは恵みによるのです。そのような能力が私たちに有るからではなく、信仰の恵みによるのです。この恵みは今年一年で終わるのではありません。「あなたの一生を良いもので満たされる。」と記されているように、一生続くのです。ですから当然迎えようとしている新しい年にも及ぶのです。信仰に満ち希望に満ちて、新年に向かって行きましょう。今日の御言に従って、神様の良くして下さったことを何一つ忘れることなく、感謝しましょう。

(クリスマス礼拝メッセージ)「天には栄光、地には平和を」

(クリスマス礼拝メッセージ)「天には栄光、地には平和を」ルカ2章8~14節

                         仁井田義政牧師

みなさん、クリスマスおめでとうございます。今日はクリスマス合同礼拝です。心を合わせてイエス様のお誕生をお祝いしましょう。

★ 今日の聖書には、天使が現れた時、羊飼いたちが荒野にいたことが記されています。夜に荒野にいたことから見て、彼らは雇われの羊飼いたちだったろうと言われています。この地方は、昼間は暑く太陽を避ける場所もないところであり、夜はその反対に寒さの厳しいところです。ですから羊飼いの労働は、寒さに耐えながら、羊の群れを肉食獣から守らなければならない過酷なものでした。しかも賃金は少なく、休日もない労働だったのです。羊飼いたちは、天使の出現に「ひどく恐れた」と記されています。それは恐怖でした。神様に裁かれて殺されると思ったのです。恐怖におののく羊飼いたちに、御使いは「恐れる必要はありません。喜びを知らせに来たのです」と告げました。

★まず御使いが伝えた「喜びの知らせ」は、第一義的に「羊飼いたちのあなたがたの為に」です。それと同時に、第二義的には「民全体の為に」です。羊飼いたちは経済的に貧しく、宗教的にも価値のない人たちと思われていたのです。神様からも人々からも捨てられた人間の屑と思われていた人々だったのです。それなのに御使いが現れて「あなたがたの為に救い主が生まれました」と伝えたのです。

★御使いが羊飼いたちに伝えたキリスト誕生の地は、タビデ王の出身地でした。ダビデの子孫として生まれるとの預言にのっとっています。それなのに御使いから、「みどりごが布にくるまれて飼い葉桶に寝かされている」と伝えられました。それは「馬小屋に生まれた」ということです。羊飼いたちでさえ、馬小屋で生まれた者はいなかったに違いありません。しかも救い主はボロ「布に包まれて」寝かされているというのです。

★さらに御使い達は、「いと高き所に栄光が神にあるように。地の上に平和が御心にかなう人々にあるように。」と賛美しました。クリスマスは、イエス様の誕生のお祝いと、イエス様を貧しい馬小屋に送って下さった神様への感謝でもあるのです。もうひとつは「地には平和」です。しかしイエス様の誕生から二千年過ぎても「地に平和」は実現していません。それは「御心にかなう人々にあるように」とあるからです。羊飼いたちは神様から心の平和を頂きました。私達も、羊飼いの様にイエス様を訪ね、イエス様から心の平和を頂きましょう。

(待降節Ⅲメッセージ)「マリヤとアドベントの幸せ」

(待降節Ⅲメッセージ)「マリヤとアドベントの幸せ」ルカ1章45~48節

                         仁井田義政牧師                          

 アドベント第三週に入りました。今朝の聖書箇所に記されているマリヤは「たましいからの幸せと喜び」を感じておりました。何がそうさせたのでしょう。今日は、マリヤが感じた幸せを考えてみましょう。

★マリヤはこの時、十代であつたと考えられています。私達は十代の時にどんなことを考えていたのでしょう。人からの評価が一番気になる時期で、お化粧や着る物に興味が向く時です。異性からモテるかモテないかが自己評価の基準になったり、モテなければ自分には価値がないと思い、モテれば価値があると思ったりします。そのように自分の価値を他人の評価に依存する傾向は、その後も続きます。それが人間関係の悩みにもなるのです。マリヤは天使の声を聞いて、そのような視点から神様に目を向けたのです。

★マリヤは、神様との関係に幸せの根拠を見出しました。マリヤは天使から声をかけられたことに、「主はこの卑しいはしために目を止めて下さった」と言いました。「卑しい」とは、神様の恵みを受ける権利がひとつもない者なのにという意味です。「それなのに神様は目を止めて下さった」と言って、神様に心から感謝する人になりました。

★私たち人間は、周りの人々の言動によって深く傷つきます。友達や家族や同僚の言動で傷つきます。それは、他の人によっての自己評価をしているからです。15~18歳のマリヤは、「これから後のどの時代の人々も、私を幸せ者と思うでしょう」と歌いました。それは、今後だれもこの私の幸せを奪うことは出来ないという意味です。

★アドベントは、世の喧騒から神様の御声に耳を傾ける時です。世の中の人々の評価から、神様の愛による評価に目を向ける時です。他人の評価は変わります。ですから多くの人が傷つき失望するのです。そのような傷ついた生き方では、せいぜい自分の為にできるのは自己憐憫か、その人への仕返しくらいです。そのような生き方のどこに喜びがあるでしょう。

★マリヤの胎にイエス様が宿って下さったように、あなたにもイエス様は来てくださいます。イエス様がこんな私の所に来てくださったと信じると、マリヤのように幸せになるのです。アドベントは、あなたが幸せになる日です。幸せに生きる為に、マリヤのように神様の愛を信じ、イエス様に目を向ける人になりましょう。

12月9日礼拝待降節Ⅱ「待降節と人類」

(待降節Ⅱメッセージ)「待降節と人類」ルカ3章23~38節

                         仁井田義政牧師                          

二週続けてキリストの系図からのメッセージです。私達にとってマタイによる系図も、ルカによる系図も、キリストを迎えようとするアドベントの大切なメッセージなのです。それは、平和の主の到来を待ち望むアドベントにふさわしい御言なのです。

★先週お話しましたマタイは、キリストの系図をイスラエル民族の父祖アブラハムから始めていますが、ギリシャ人と思われるルカは、人類の祖先とされるアダムとエバから始めています。アメリカ・ロックフェラー大学のマーク・ストークル氏と、スイス・バーゼル大学のデビッド・セイラー氏は、遺伝子情報を解析した結果、現代の人類は20万年~10万年前に一組の男女から始まったと発表しました。そのことは比較解剖学、古生物学、血清学、遺伝学などの明白な証拠すべてに基づく結論なのです。 聖書の創世記に記され、ルカの福音書に記されているアダムとエバからの人類史が、ようやく現代のDNAの解析によって近づいたのです。

★アダムとエバという一組の夫婦から人類が生まれたということは、私達がみな兄弟であると言うことです。兄弟であると言うことは平等です。国籍や民族、肌の色、そのようなことで差別や区別は、創造者なる神への冒涜なのです。神様が一組の夫婦から世界人類を創られたという科学も支持するに至った考えを私達が持つ時、神様による「神に栄光、地に平和」(ルカ2:14)が訪れるのです。

★イエス様は人類の救いの為に来られました。ルカが記す系図は人類の系図です。その人類の頂点にイエス・キリストが来られたのです。それは、神様が愛しておられる人類全ての救い主となる為です。イエス様は、全ての民族の為にご自分の体を十字架につけられたのです。

★それこそ、まさしく「諸人こぞりて迎えまつれ」です。どこの民族であろうと、手を取り合ってイエス様を心からお迎えする準備をしようではありませんか。それが本当のアドベント、つまりキリストの降誕を待ち望む週間なのです。いよいよクリスマスに向かって、バプテスマのヨハネが叫んだように「主の道を真っ直ぐにし」、つまり神様の前に喜ばれない部分があるならばそれを正すのがアドベント週間です。「諸人こぞりて」イエス様をお迎えする信仰の準備をしましょう。

(アドベント礼拝1)「キリストの系図の女性達」

(アドベント礼拝)「キリストの系図の女性達」マタイ1章1~16節 2018.12.2

                 仁井田義政牧師

 今日からイエス様の御降誕を待ち望むアドベント(待降節)に入りました。新約聖書は、イエス様の系図から始まります。その系図は、アブラハムから約二千年間が記されています。しかしこの系図を読んだユダや人達は、戸惑いを感じたことと思います。それは、この時代の系図には絶対に載せない女性四人の名が記されていたからです。今日は、なぜ四人の女性達の名が記されているのかを、アドベントメッセージとしてお話し致します。

★この系図は、キリストがアブラハムの子孫、ダビデの子孫であることを示すために記されました。ユダヤ人とは、3節に出て来る「ユダ」と言う人の子孫のことです。ユダヤ教は、この民族の信仰です。彼らのもうひとつの名がイスラエル人です。それは1章2節に出て来る「ヤコブ」に由来します。この名前は、神様がヤコブにつけて下さった名前であり、イスラエルの正式名称であり、今もイスラエルは国名ともなっています。

★系図の中に四人の女性達が出て来ます。イスラエル人の記す家系図に女性の名が記されることは、普通ありませんでした。しかもこの四人ともイスラエル人達が嫌う異邦人の女性達なのです。キリストの系図に、異邦人の女性の名が記されたことは、人種差別や男女差別の撤廃されたことを意味しています。

★しかも四人の中の三人は、道徳的に問題のある人達でした。3節に出て来る「タマル」は売春婦になった人です。(創世記38:24) 5節の「ラハブ」は、エリコの町の売春婦でした。(ヨシュア記2:1) 6節に「ウリヤの妻」と出てくる女性は、バテシェバのことでタビデ王と不倫関係になりソロモンを生んだ女性です。(Ⅱサムエル11:5) 四人の女性の中で唯一信仰深い人でした。そのことはルツ記に記されています。

★旧約聖書には、このような女性達をキリストの系図に載せなくても多くの信仰深い女性達がいたのです。どうして、このようなキリストの系図に傷がつくような女性達の名を載せたのでしょうか。神様にとってみれば、これが完全な系図なのです。綺麗事ばかりではない人間生活。民族の差別もあれば私達の人間生活はドロドロとした罪にまみれた生活です。イエス様はそれら全てから私達を救って下さるのです。イエス様は私達の救い主です。今日からアドベントです。私達は、イエス様をお迎えする準備をしましょう。

11月25日礼拝メッセージ「祈りと信仰」

(礼拝メッセージ)マルコNO46「祈りと信仰」9章14~29節

牧師   仁井田義政

                             

 今日の御言は、イエス様が山を下りて来られると、律法学者と弟子達が論じ合っていたというところです。それは、弟子達が祈っても子供を癒すことが出来なかったことが原因でした。それを理由に、律法学者が弟子達の指導者であるイエス様のことまで、見せかけだけで何の力もない人だと論争を仕掛けてきたのでしょう。今日は、イエス様から祈りに必要なことを教えて頂きましょう。

★イエス様は「ああ、不信仰な世だ」と嘆き驚かれました。それは何と不信仰な世界なのだろうという意味です。そこに集まっていた群衆は、弟子達の祈りによって現れるイエス様の奇跡を期待していたのでしょう。しかし弟子達の祈りによっては、癒しが起こらなかったのです。

★弟子達の祈りに力がなかったのはどうしてでしょうか。弟子達は、イエス様と三人の弟子達がいない心細い中で、祈りを求められたと思われます。しかしイエス様は、いつも弟子達と一緒にいて下さるのです。弟子達はイエス様の姿が見えなくても、イエス様の癒しの力を信じるべきでした。祈りの失敗の後、弟子達は群衆の見守る中で、律法学者に論争を仕掛けられたのです。律法学者とは聖書学者です。どんなに不安だったことでしょう。

★弟子達の信仰が不完全だったというだけではありません。この子の父親も不完全だったのです。父親は「この子は幼い時からです」と、子供の病気を説明しています。それは今までも色々な人に祈ってもらったが癒されなかった、今日はイエス様の弟子に祈ってもらったが駄目だった、という度重なる失望があったと思われます。ですからイエス様にも、「もしでおできになるのなら、助けて下さい」と不完全な願いをしてしまうのです。イエス様は「できるならと言うのか。信じる者にはどんなことでもできるのです。」と父親の不信仰を指摘されました。父親はすぐに悔い改め、息子は癒されたのです。

★その後、イエス様と弟子達は家に入られ「弟子達がそっとイエスに尋ねた」とあります。自分達の不甲斐なさが恥かしかったのでしょう。イエス様は「この種のものは祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません」と教えられました。今日の御言は、イエス様がたとえ見えなくてもイエス様を信じきって祈ることの大切さを教えています。私達はイエス様の御名によって、どんな時にも大胆に信じ切って祈る人になりましょう。

(11月18日礼拝メッセージ)「恵みが取り囲む」

(メッセージ)「恵みが取り囲む」詩篇32篇10節,ローマ3章24節

                           仁井田幸子師

今日の御言を自分のものに出来れば、必ず幸せになれます。これから3つのポイントでお話しします。①聖書の言う「恵み」とは。②私達は本当に恵みを受け取っているか。③どうしたら恵みを受け取り幸せに満たされるか。

★聖書の言う「恵み」とは、全く価値のない者に神様から与えられるものです。私達は、能力のある者、価値のある者に与えられるものだと考えがちですが、それは違います。善い行ないをする者に与えられるのでもありません。イエス様を救い主として信じる者に、何の生産性もない無きに等しい者に、神様はあふれるばかりに恵みを注がれるのです。その恵みの究極は、罪の赦し(救い)と永遠の生命です。イエス・キリストのゆえに私達の罪を赦し、義と認めて下さるのです。(ローマ3:24)パウロは特にローマ人への手紙の中で、この恵み(ギリシャ語で「カリス」)は神様から罪深い人間に与えられるものであると徹底的に伝えています。

★それでは、私達はそのような神様からの恵みを受け取っているでしょうか。イエス様の十字架の赦しを知ってクリスチャンになった私達は、毎日どれだけ感謝し喜んでいるでしょうか。環境に押しつぶされて意気消沈していませんか。今日の御言を告白したダビデは、完璧な人ではありませんでした。大きな罪を犯し、激しい悔い改めの後、自らの小ささを知り、神様の恵みの大きさに驚き、こんな小さな者を神様の「恵みが取り囲んでいる」と告白できたのです。私達は、自信の無さからか自分は神様から恵みが与えられる筈がないと思い込んでいたり、神様と一対一の関係が希薄なためか神様に対する期待・求めが少なかったりしないでしょうか。もう一度、自分を見つめ直し、神様からの恵みを受け取っているか省みましょう。

★恵みを頂く方法はただ一つ、信仰によってです。「あなたがたは、恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。」(エペソ2:8-9)

神様が御手を差し伸べて恵みを与えて下さっているので、私達もその差し伸べられた御手を握りしめる必要があります。御言を信じ、期待し求めることです。そしてどんな時も、ダビデが告白したように恵みが自分を取り囲んでいると受け止めることです。そうするならば、必ず幸せになれます。

 

11月11日礼拝メッセージ「信仰の次元を高くせよ」

(マルコNO45) 「信仰の次元を高くせよ」9章9~13節

                          仁井田義政牧師

 イエス様と弟子達の3人は姿変わりの高い山から下りて来られました。その途中、イエス様は「今見たことをキリストの復活を見るまでは誰にも話してはならない。」と言われました。それでも弟子達はイエス様が十字架につかれる意味も、復活するという意味も理解できていませんでした。

★3人の弟子達は「律法学者は、救い主の現れる前に、預言者のエリヤが現れると言っていますが、預言者エリヤが表れていないのですか」と質問しました。先程山の上でイエス様と話すエリヤを見たには見たが、すぐ消え去ってしまったからです。エリヤがイエス様と一緒に山から下りてきたら別だったでしょうが、山を下りる弟子達と一緒にイエス様しかいなかったのです。

★8章31節で「人の子は・・かならず・・殺され・・なければならない」と言われています。自分は殺されて命を失うが、人々には永遠の命を与えると言い、この地上の王にはならないと言うが、世界人類の永遠の王となると言う。既成概念で凝り固まっていた弟子達には到底理解できず信じられない事でした。本当に父なる神様の言われる通り、イエス様にしっかりと聞く以外に人間には知るすべがありません。それを教えて下さるのが神様からの啓示なのです。そして神様からの啓示はイエス様を通して行われます。ですから神様は「彼の言う事を聞きなさい」と語りかけて下さったのです。

★イエス様は救い主の受難は、聖書に「かいてある 」(12節)とおりに行われるのだと言われました。さらにイエス様はエリヤも旧約の預言のとおりすでに来ましたよと言われました。そのエリヤとは洗礼者のヨハネの事ですと話されました。洗礼者のヨハネは、聖書に書かれているエリヤとしてすでに来たのに「人々は…好き勝手な事を彼にしたのです」(13節)とイエス様は言われました。「好き勝手な事」とは洗礼者のヨハネ殺害の事です。

★「好き勝手な」生き方は現代人の理想とする生き方です。クリスチャンも気をつけなければ現代の風潮に流される危険があります。「自分の好き勝手」に合わなければ、いとも簡単にイエス様をも裏切ってしまう危険があるのです。私達は自分の「好き勝手な」信仰から脱皮しなければなりません。そして「これは私の愛する子である。彼の言う事を聞きなさい」(9章7節)という御言にしっかりと従うクリスチャンになる事です。自分の「好き勝手」な生き方を、足の下に踏みつけて、さらに次元の高い信仰者となりましょう。

11月4日礼拝「イエス様の言うことを聞きなさい」

(マルコNO44)「イエス様の言うことを聞きなさい」9章1~8節

                          仁井田義政牧師

 イエス様の教えは、弟子達にとって理解に困難を極めました。難しいからというのではなく、弟子達にはイエス様が言われた「救い主の十字架の死」などと言う考えは思いもよらないことだったからです。イエス様はその弟子達の無理解を埋める為に、3人を連れて山に登られました。そこで3人の弟子達は、イエス様をどのように信じなければならないかを天の父なる神様から聞き、学んだのです。

★それから6日経ってと記されています。いつから数えて6日だったのでしょうか。それは、弟子達にご自分の受難をはっきりと話されてから6日という意味です。6日経ってもイエス様の受難を弟子達は理解できなかったのです。そのため7日目に礼拝の為に「高い山に登られた」のでした。その高い山とは、ヘルモン山ともタボル山とも言われています。

★山に登ると、イエス様の姿が変わり白く輝きました。「姿が変わった」(2節)は、正しくは「変えられた」との受動形です。変えて見せたのではありません。父なる神様に変えられたのです。そして雲の中から「これは私の愛する子」(7節)という声が聞こえてきました。それは、イエス様が父なる神様にとってどの様な存在かを、父なる神様ご自身が教えられたことを意味しています。その言葉に続いて「彼の言うことを聞きなさい」と聞こえました。つまりキリストの受難は、弟子達がどんなに理解しようとしても、それは考えも及ばないことなので、イエス様に聞く以外に方法がないのです。

★高い山の上でのエリヤとモーセとイエス様の会話の内容は、マルコによる福音書にはありませんが、ルカ9章29~31節に「イエスのエルサレムで遂げようとしておられる最期について一緒に話していたのである」と記されています。十字架に着けられた弱く見えるイエス様が、実は強い神の子イエス様であると理解できなければ、34節にある「自分の十字架を負うて、イエス様の後をついてゆく」ことなど出来ないのです。後に弟子達と教会は、イエス様の弱く見える姿こそ、世界を変える力であることを確信するのです。

★だからこそ、イエス様のように無抵抗の歩みが、初代キリスト教会の重要な特色となったのです。天から「彼の言うことを聞きなさい」との父なる神の御声に従い、私達もイエス様の御声をしっかりと聴いて前進しましょう。

 

10月28日礼拝メッセージ 「叱られたペテロ」

(マルコNO43) 「叱られたペテロ」8章31~38節

仁井田義政牧師

   先週の聖書箇所でペテロは、イエス様に「あなたはキリストです」とはっきりと信仰告白をしました。ところが今日の御言では、ペテロがイエス様から激しく叱られたことが記されています。何故でしょう。その理由をお話ししましょう。

★先週の御言の中で、ペテロが「あなたはキリスト(救い主の意)です」と言った時、イエス様はすぐに「この事を誰にも言ってはならない」と言われました。それは、当時の人々が期待して待っていたキリスト像と変わらないものだったからです。その待望のキリスト像とは「地上の王」としてのキリストでした。しかしイエス様は、この世の王となるために来られたのではありません。

★イエス様は、正しいキリストについて話しておられます。それは、31節にあるように「多くの苦しみを受け・・殺され、三日目に甦る」というキリストでした。強いこの世の王としてキリストを待っていたペテロには、絶対に理解できなかったのです。

★イエス様が正しいキリストについて話し始められると、ペテロが「イエス様を脇にお連れしていさめ始めた」と言うのです。「いさめる」とは「叱る」ことです。つまりペテロは自分の考えを正当化して、イエス様を「先生、そんなことを言ってはいけません」と叱ったのです。ペテロがイエス様を「わきにお連れして」と記されていることから見ても明らかです。イエス様は、そのペテロを「下がれ、サタン」と激しい言葉で叱られました。

★そしてイエス様は群衆と弟子達を一緒に呼び寄せて、「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て十字架を負い、私について来なさい」と言われました。そして「自分の命を優先する者は、自分の命を失い、捨てる者は得る」と言われました。それは自分の得することばかりを求める者は、本当の生きる目的を失うということです。

★自分勝手なキリスト像をイエス様に押し付けて、イエス様に叱られるクリスチャンになってはいけません。イエス様に本当のキリストを教えていただき、その本当のキリストを信じて「私について来なさい」(8:34)と招いておられるイエス様に、心から従いましょう。