第一コリントNO41「絶望か希望か」15章12~19節
仁井田義政 牧師
人間には、人生を考えて絶望して生きる人。人生など考えないで生きる人。人生を考えて希望に満ちて生きる人がいるのではないでしょうか。聖書は、絶望と希望の分岐点を明確に教えています。
★コリント教会のギリシャ人の中には、ギリシャ哲学のある考えによって死者の復活はないと信じている人達がいました。それではなぜ教会に加わったのでしょうか。それは、キリスト教会の倫理道徳に魅了されたのかも知れません。このように教会が新しい倫理道徳を教える所という考えは、昔も今もあったのです。特にギリシャ哲学のギリシャ地方においては、非合理性を排除しようとする人もいたのです。
★パウロは、コリント教会がそのような骨抜き状態の信仰の教会になってしまうことを拒否したのです。キリスト信仰は、使徒信条が示すように「三日目に死人のうちよりよみがえり」と、事実の上に築かれているのです。そしてキリストの復活によって、私たちの復活も確信するのです。このように、キリストの福音は教えによるだけではなく、キリストの歴史的事実の上にあるのです。教えはある意味なんでも言えますが、歴史的事実が一番難しいのです。ましてや不合理極まりない事実ほど難しいのです。キリストは、不合理極まりない奇跡の復活を歴史的事実として行なわれたのです。
★もしキリストの復活がなかったならば、私達の信仰は一瞬にして空しいものになってしまいます。キリスト教会二千年の伝道は、空しい努力だったことになるのです。パウロの小アジアからヨーロッパ。リビングストーンのアフリカ。ハドソン・テーラーの中国奥地。ジョン・ウエスレーのイギリス。その全ての働きは空しいどころか、大嘘つきのものとなるのです。そして私達の信仰そのものが空しく、人類中最も哀れな者達となってしまいます。
★私達の信仰は、どこかの教祖の言葉だけによる一瞬で消え去るような希望ではないのです。キリストの復活という歴史的事実に基づいた希望なのです。私達人間にとって、絶望か希望かはキリストの復活を信じるかどうかにかかっています。キリストは復活されました。それが福音です。キリストの復活を信じ、希望に溢れて力強く生きて行きましょう。