第一コリントNO35「キリストの体なる教会」12章12~26節
仁井田義政 牧師
先週はペンテコステで、聖霊の賜物には色々な種類があることを学びました。その聖霊の賜物ですが、私達は自分に与えられた賜物や能力が自分のものと思ってしまう危険があります。それを受けて今日の御言は「ですから」で始まっています。そして賜物についてはこのように考えなさいと、教えが続いています。
★聖霊を受けたからと言って、自動的に教会がひとつとなるわけではありません。教会がひとつとなるためには、聖霊と聖霊の賜物が何のために与えられたかの理解が必要なのです。そのことを知らなかったコリントの教会は、ひとつになるどころか、分裂の危機に至ってしまったのです。ユダヤ人、ギリシャ人、奴隷、自由人という多民族で構成するコリント教会が、ひとつとなって前進するためには次の理解が必要だったのです。
★それは「教会はキリストの体である」ということです。パウロは他の手紙(ローマ12:4)などでも、教会をキリストの体として記しています。パウロが教会をキリストの体と知ったのは、おそらくダマスコの道で「パウロ、なぜ私を迫害するのか」(使徒9:1~5)と聞いたことによるであろうと考えられます。教会はキリストの体なのです。
★神様は教会がキリストの体として健康で力強く活動することが出来るように、クリスチャン達に異なる賜物、異なる能力を与えられたのだと記しています。そして体は、弱く目立たない所こそ大切であり、各部分が互いに労わりあうことが大切であると教えています。心臓や肺は目立ちませんが、心肺停止になれば人は死にます。また体の一か所でも痛めば、体全体がカバーするのです。まさに、今日の御言葉の最後にある「ひとつの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ」(26節)の御言のとおりです。
★私達には、神様から御心のままに賜物が与えられています。賜物の無い人など一人もいません。その与えられた賜物を用いて、互いの益の為に生きるキリストの体となるのです。教会は単なる人の集まりではありません。キリストの体としての生命体の繋がりなのです。体の一部が自己主張すると、体全体が痛みます。そのような自己主張がない状態が、体の健康な証拠です。聖霊に満たされキリストの体としてひとつとなり、力強く活動しましょう。