(礼拝メッセージ)「見えない方を」へブル11章23~27節 仁井田幸子師
へブル11章には、目に見えない方を信じ、またまだ見ていない将来の祝福をも信じた人々のことが記されています。今日は、その中からモーセの信仰姿勢を学びたいと思います。
★モーセは、イスラエル民族がエジプトで奴隷の身であった時、レビ人の家に生まれました。エジプト王パロは、これ以上イスラエル民族が増えることを恐れ、助産師に生まれた男子はその場で殺すよう命じていました。しかし彼女達は、神様を畏れていたため王の命令には従いませんでした。そのような中でモーセの両親は、三カ月間モーセを隠し、その後パピルスのかごに入れナイル川の葦の茂みに置きました。そのモーセは、神様の奇しい計画によりパロの娘に拾われることになるのです。最高の教育を受け、やがて成人した時、虐げられている同胞を助けます。神様は燃える柴の中からモーセを呼び、苦しんでいるイスラエルの民を約束の地まで導くように召されます。
約束の地までは、数々の苦難や民の不平不満がありましたが、その中でモーセは神様を見上げ、見えない方を見えるように忍耐の限りを尽くして民を導きました。それでも人間の弱さを御存知の神様は、共にいることがわかるように(見えるように)昼は雲の柱、夜は火の柱に臨在を表してくださいました。
★私達も、どのようにしたら見えない方を見えるようにして生きることができるのでしょうか。ちょうどモーセに荒野で試練が与えられたように、神様は私達にも人生の所々に試練を与えられます。試練自体は辛いものですが、私達はその時、深く神様を求め神様に近づきます。祈らざるをえないからです。人生を振り返った時、その苦しいはずの試練が輝く宝石のように麗しいものとなっているのです。
★高熱のために体の瞼以外どこも動かなくなってしまった水野源三さんが「悲しみよ 悲しみよ 本当にありがとう おまえが私を この世にはない大きな喜びが 変わらない平安がある主イエス様のみもとに連れてきてくれたのだ」と詩っておられます。悲しみがあったからこそ、イエス様と出会えたと感謝しておられるのです。なんとすごいことでしょうか。
私達も苦しみや悲しみを乗り越えて、見えない方を見えるようにして、また見えないものを大切にして、生きていこうではありませんか。