マタイNO116題「油に満ちた2015年」マタイ25章1~13節 仁井田義政 牧師
明けましておめでとうございます。元旦礼拝では「神様の御心は、全ての人が救われること」であると話しました。しかし現実は、神様を信じない人達が多くいるのです。しかしキリストの「全ての人が救われるように」との御心は、ひとつも薄められることはありません。むしろ終末に向かって、ますますその御心が強く、濃厚となっています。教会は、そのキリストと共に活動するのです。それが御心に生きると言うことです。今日の御言は、どうすれば私達が神様の御心を全うできるかを教えています。
★イエス様は、数日後に十字架で殺されるのです。そのような緊迫したさなかに、なんと婚礼の譬を話しておられるのです。花婿はイエス様のことと思って良いでしょう。それを迎えるのは10人のクリスチャン達です。最初は10人とも、花婿を迎えるのに招待され喜びの中にあったのです。
★10人とも同じく招かれたクリスチャン達でした。しかし5人は賢く、5人は愚かであったと聖書は記しています。その賢さと愚かさを分けるものは、予備の油を持っていたかどうかにかかっていました。花婿の到着があまりにも遅れて夜遅くなったために、10人ともつい眠ってしまったのです。それは、人間に共通した弱さを表わしています。
★夜遅く、ついに「花婿が到着されました」との声が響きました。眠っていた10人の娘達は飛び起きて、花婿を迎えるために灯を整えようとしました。しかし5人の娘達の灯の油が無くなっていました。花婿がいつ到着しても大丈夫なだけの油を用意していなかったのです。他の賢い5人の娘達は、予備の油を用意していました。用意していなかった娘達は、夜中に油を買いに行きました。しかし油を満たして帰って来た時には、家の戸がしまっていました。イエス様は「だから目を覚ましていなさい」と言われました。
★イエス様の「だから、目を覚ましていなさい」との言葉は、不思議な言葉でした。それは10人全員が眠っていたからです。して見ると「目を覚ましていなさい」は、眠ったからではなく、眠る以前の娘達の自己認識のことであることが分かります。賢い娘達は花婿の自由を受け入れ、愚かな娘達は自分達の考えの範疇に花婿の行動を縛りつけたと言うことです。油は、聖書で聖霊を示すために用いられる言葉です。目を覚ましましょう。私達には、聖霊の豊かな満たしが必要であることに目を覚ましましょう。聖霊の油に溢れるほどに満されて、2015年を進んで行きましよう。