9月8日礼拝メッセージ「この人は誰なのだろうか」

礼拝メッセージ(マタイ61この人は誰なのだろうかマタイ12章22~37節

                                                       仁井田義政牧師 

今日の御言葉は「このお方は誰なのだろう」というテーマのもとに記されています。このお方とはイエス様のことです。「このお方は誰なのだろう」と言っているのは群集です。

★その時「目も見えず、言葉も話せない人」が連れて来られました。イエス様はその人を癒されました。人々はイエス様の癒しに驚いて「この人はダビデの子なのだろうか」言いました。「ダビデの子」とは「やがてダビデ王の子孫として救い主がお生まれになられる」と預言されていた人のことです。つまり「この様な癒しを行なうことの出来るイエスは、預言されたダビデの子なのかもしれない」と、イエス様を信じ始めた群衆の姿を現しています。

★ 人々はイエス様が行なわれた奇跡的な癒しを見て、クリスチャンになりかかっていました。しかしその群衆とイエス様の間に割って入ったのがパリサイ派の人々でした。彼らは、すでにイエスを殺そうとつけ狙っていた人々です。そしてイエス様を信じかけた人々の心を、イエス様からそらすために「彼は悪霊の頭だ、悪霊の力で癒しを行なっているのだ」と叫びました。

★彼らの言葉には大きな矛盾がありました。イエス様が悪霊の頭であってその権威で悪霊を追い出しているとすれば、悪霊同士の仲間割れと言うことになってしまいます。もし仲間割れをしているとすれば、悪霊同士の自滅ということになってしまいます。そのような愚かなことを悪霊といえども行なうだろうかとイエス様は言われました。彼らは、イエス様の癒しという良い働きを見たのに、それを悪霊の仕業と言ったのです。それは聖霊の御業を悪霊の業と言って、聖霊を冒涜する罪を犯したのです。「人はどんな冒涜も赦されるが、聖霊に逆らう冒涜は赦されません」とイエス様は言われました。否定の為の否定の結果は、この様な矛盾と冒涜となるのです。

★人々は、イエス様の「目も見えず、口もきけない人」の癒しを見て「この人はダビデの子なのだろうか」とイエス様を信じかけたのです。人々は「痛んだ葦を折ることなく、消えかかった燈心を消すことなく」と預言されているイエス様を信じかけていたのです。しかしパリサイ派の人々は、彼らの信仰を阻止しました。イエス様のなされたどんな良い事を見ても信じないと堅く決意している姿が見てとれます。今の時代にも、心を固くしかたくなになっている人を見ることがあります。そのような人になってはなりません。そのような人は、結果的に聖霊の働きを冒涜することになってしまうことがあるのです。謙遜になり、イエス様の良き業を良き業として見ることの出来る柔らかな心を持つ人になりましょう。

 

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