4月12日イースター「イースターの喜び」

(イースターメッセージ)「イースターの喜び」マタイ28章1~10節

                       仁井田義政 牧師          

今日はイースターです。今年のイースターは、世界中に新型コロナウイルスが蔓延しているため、みんなで主のご復活をお祝いすることが出来ません。人類全体の規模において、これほど死を近くに感じることはなかったのではないかと思います。イエス様も死んで墓に葬られました。ところがその朝は、予想に反して墓から女性達が大喜びで帰って来ることになるのです。

★イエス様は、マタイ17章23節で「そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」と言っておられました。しかしその言葉を聞いても、弟子達は信じていなかったのです。全ての恐れは、イエス様の言われた言葉を信じないことから起こるのです。

★イエス様の墓にいた御使いは、「急いで行って弟子達にこのことを知らせなさい」(28章7節)と言いました。どうして、そのように言ったのでしょう。それは、絶望した弟子達がいるからです。神様は、弟子達を心配しておられるのです。女性達は、その言葉に従って「急いで」「大喜びで」「走って」(28章8節)弟子達の所に知らせに行きました。「大喜びで」の言葉は、ギリシャ語の「メガ」であり、大きな喜びを表わす言葉です。

★女性達は「大きな喜び」を伝えに急ぎ走りました。しかし弟子達は、女性達の知らせを信じないであろうことが予想されました。当時の人は、女性の言葉を信じなかったからです。弟子達に「よみがえられたイエス様を見たのか」と聞かれたら、イエス様の復活のお体を見てはいないので、「いいえ」と答えるしかない状態でした。すると、走っていた女性達をイエス様が「おはよう」と迎えられました。復活のイエス様でした。日本語の聖書には「おはよう」と訳されていますが、ギリシャ語は「喜びなさい」と言う言葉なのです。   

★日本も世界も、今コロナ問題で死の足音が忍び寄って来ているのを感じて、息を殺して自粛しています。自分達の身にせまる危険を感じて身を隠している弟子達のようです。しかし恐れの中で、キリストだけが希望を下さるのです。イースターの朝に、復活のイエス様は「メガ的な喜びで喜びなさい」と勧めておられるのです。私達もイエス様のご復活に感謝し、「大きな喜び」に満ちて、心から主を賛美しましょう。

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(4月5日受難週メッセージ)「自分を十字架につけよ」

(受難週メッセージ)ガラテヤNO14「自分を十字架につけよ」5章16~26節

仁井田義政 牧師

 今日は受難週です。今日のメッセージの大切な所は、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉をさまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」という御言です。

★ヨハネ福音書5章39節を見ますと「聖書は私について証言しているのです」と話しておられます。確かにイザヤ53章を見ますと、そのことは明白なことです。つまりイエス様の十字架は、イエス様ご自身の考えではなく、父なる神様の人類救済の計画であったのです。その計画が、イエス様の十字架によって完成したのです。

★ですからイエス様は、地上の生涯を終わるにあたって「完了した」と十字架の上で叫ばれたのです。イエス様のように、壮絶な苦しみの中で「完了した」と言える人生があるでしょうか。さらには空虚の中にご自分を投げ出されるのではなく、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と、父なる神に死後の自分を完全に委ねられたのです。神の御心を完全に生きられた方の死の姿を、はっきりとそこに見ることが出来るのです。

★ガラテヤ書には、死ぬ時に「完成した」と言えない人生が記されています。多くの人は死が近づくと「人生でやり残したことがある」と後悔し、死後の自分に虚無を感じて恐れるのです。ガラテヤ5章19~21節に、肉の欲について「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 ねたみ、酩酊、遊興」と記されています。この中の罪汚れを行なったことのない人が一人でもいるでしょうか。肉の欲望によって人生を失敗し、生き直したいと思っても出来ずに死を迎えるのです。

★しかし、イエス様が私達の代わりに十字架について下さったのですから、私達も十字架に自分を付けてしまうことが大切なのです。それでは「自分をキリストの十字架につけてしまう」とは、どういうことなのでしょうか。それは、罪に満ちた私達の裁きをイエス様が身代わりとなって受けて下さったと信じることです。イエス様の十字架の苦しみは、私の罪のためであったと信じることです。そのことによって、私達は人生をやり直せるのです。

★ですから、自分の罪を全て十字架の上につけてしまわなければなりません。そして5章22~23節にあるように「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を求めて生きるのです。イエス様は私達の罪をご自分の身に引き受けて、十字架で滅ぼして下さったので、私達はこれからの人生を御霊に導かれて生きる人となりましょう。

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3月29日礼拝メッセージ「十字架の恵みのもとに」5章2~15節

(メッセージ)ガラテヤNO13「十字架の恵みのもとに」5章2~15節

仁井田義政 牧師

今日の御言の中には、ぎょっとする程に厳しいパウロの言葉があります。異端的な教えは、キリストの十字架を無駄にしてしまう危険をはらんでいるからです。

★パウロは「もし割礼を受けるなら、キリストの十字架の救いは、あなたがたにとって何の益もないものになる」と言っています。なぜ割礼を受けるということが、キリストの救いを無駄にすることなのでしょうか。それは割礼というひとつの習慣によって救われようとすれば、神様は全ての律法を守ることを求められると言うのです。当然人間は、全ての律法を守り通すことなどできないのです。99%守ったとしても、キリストの十字架が無駄になるのです。

★イエス様は、十字架の救いを信じる時にどんな罪からも救って下さるので、割礼が有っても無くても関係がないのです。それなのに「救われるためには、割礼を受けることが絶対に必要だ」と言うところに間違いがあり、異端性があるのです。そう言っているパウロが、使徒16章3節でテモテに割礼を薦めている所があります。それは、救いの為でなく伝道の為でした。日本の教会でも、伝道の為に元旦礼拝、幼児祝福式(七五三)を行なっています。それは聖書には無いことです。救いの為ではなく伝道の為なのです。

★パウロは、律法によって人が救われるのではなく、イエス様の十字架を信じる信仰によって救われるということが、ユダヤ人達の躓きなのだと言いました。躓くという言葉は、「腹を立てる」という意味もあります。パウロは「それほど割礼にこだわるのであれば、皮膚を切るだけではなく去勢してしまいなさい」と過激な言葉を記しました。

★パウロは、ユダヤ主義者達が異邦人クリスチャン達を「なってない」と言って差別をしていることを聞いたのです。そのようにして、分裂を起こしている原因は、ユダヤ人達が異邦人を「自分達は正しい。あなたがたは間違っていると差別しているからではないか」と言っているのです。キリストの前に正しい人などは一人もいません。みんな罪人で、キリストの恵みによって救われたのです。その赦しと恵みに生かされているのが、クリスチャンなのです。教会は内部で争っていては弱体化してしまいます。私達は、イエス様の十字架の恵みにしっかりと繋がったクリスチャン生活をしましょう。

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3月22日礼拝メッセージ「キリストによる自由」

(メッセージ)ガラテヤNO12「キリストによる自由」4章21節~5章1節

仁井田義政 牧師

 パウロは、20節で「どうしたら良いかと困っている」と記し、筆を置いて考えたと思われます。そしてひとつのヒントを創世記に見出し、今日の箇所を書き始めたと思われます。それが今日の「キリストによる自由」なのです。

★パウロは、アブラハムから生まれた二人の子供達と子孫について記し始めました。イシマエルの誕生は創世記16章に、イサクの誕生は創世記21章に書かれています。イシマエルは、女奴隷のハガルから人間的な考えによって生まれました。ですからイシマエルがアブラハムの子であっても、アブラハムの実子とは認められませんでした。つまり奴隷の子だったのです。それと同じように、律法を守ることに執着するなら、イシマエルと同じく律法の奴隷となると言うのです。またそうであるなら、律法を守ることを奨励しているエルサレム神殿の信仰と同じ罪の奴隷となると言うのです。

★しかし、律法が与えられるはるか以前に、神様はアブラハムに約束の子イサクを与えられました。それはイシマエルが生まれて14年後に、神の約束の子イサクが奇跡的に生まれたのです。アブラハム100歳、サラが90歳の時の子です。イサクが生まれると、年上のイシマエルがイサクをいじめ始めました。その結果ハガルとその子イシマエルは追放されてしまいます。この恨みが現代にまで続くアラブ系のイスラムと、イスラエルの対立なのです。西暦600年頃にムハンマドが、イシマエルがアブラハムの長男であって、その子孫のアラブ民族こそ神に祝福された民であると主張し、イスラム教が出てきたのです。そしてついにエルサレムに神殿を建て上げたのです。

★イエス様は、「神の国は地上の国ではない」と教えられました。パウロも今日の御言4章16節で「上にあるエルサレムの相続」を主張しました。それは天国のことです。地上の天国ではありません。そのことによって、律法からも地上の争奪戦からも解放されたのです。ユダヤ教もイスラム教も、地上支配にこだわりますが、クリスチャンは天国にこだわります。律法にこだわれば、律法を100%守れる人はいないので、神の裁きを受けるのです。地上の国にこだわれば、戦争の奴隷となるのです。イエス様は、私達を罪からも戦争からも解放して下さったのです。ですから異端の教えの奴隷になってはなりません。キリストによって与えられた完全な自由を大切にして、生きて行きましょう。

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3月15日礼拝メッセージ「キリストのようになるまで」

(メッセージ)ガラテヤNO11「キリストのようになるまで」4章12~20節

                        仁井田義政 牧師          

 先週の御言4章11節で、パウロは「あなたがたの為に労したことは無駄だったのではないかと案じている。」とガラテヤ教会を嘆いています。そして、今日の御言の20節では「あなたがたのことをどうしたら良いかと困っている」と言っています。パウロは、ガラテヤの教会が再度キリストのようになるようにと、産みの苦しみを感じつつこの手紙を書いています。

★パウロが初めてガラテヤ地方に行った時、病気の為に弱っていました。その病気は「軽蔑したり、嫌ったり」(14)とあるように、外見からもわかる病気だったようです。それにもかかわらず、天使でも迎えるかのように、またキリストを迎えるかのように、私を迎えてくれた」(14)とあります。

★しかしパウロが次の伝道地を求めてガラテヤを後にすると、異端の教師が入り込みました。すると偽教師の「熱心さに」感動し、パウロが伝えた「恵みに満ちた真理」を排除したのです。パウロは、熱心さが善し悪しの基準になるのではなく、その伝えられている内容にあると言っているのです。

★パウロは「私の子供達よ、あなたがたがキリストのようになるまで、産みの苦しみをしている」(19)と記しました。牧師にとって、一度救われた者が異端を信じてしまったり、信仰を無くしてしまったりするのを見ることは一番辛いことです。その時パウロは、ガラテヤの教会に行って信徒達と話すことも出来ない状態でした。反対者とその指導者がいるからです。パウロは「こんな異端問題でなく」、恵みに満ちた福音をあなたがたに話すことが出来たらどんなに幸せだろうと嘆きました。

★そして「どうしたら良いか困っている」と記しています。パウロの伝えたのは「神の恵みに溢れた自由のある」キリスト教です。一方、異端的な律法主義的ユダヤ主義的キリスト教は、規律のとれた統一性のあるキリスト教です。「割礼を受けよ」と言えばみな割礼を受け、「律法を守れ」と言えば613の戒めを守ったのです。異端は全体主義「ファシズム」の形態を取るのです。教会は、神様の恵みが最優先です。

★パウロの伝えたキリスト教は、自由を一番大切にしました。それがキリストの体である教会の姿です。キリストのようになることが教会であり、キリストがそうであられたように、あらゆる束縛からの解放こそが福音なのです。教会は、その解放の喜びによってひとつとなりましょう。

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2020年3月8日礼拝「アバ父の御霊に生きる」

(メッセージ)ガラテヤNO10「アバ父の御霊に生きる」4章1~11節

仁井田義政 牧師

いよいよガラテヤ書は4章から文面が変わって、クリスチャン達の自由について書かれ始めました。キリストを信じることは自由をもたらすのです。

★精神的に子供の状態であるとは、どういうことなのでしょうか。パウロは子供と大人の違いを例に記しました。一般的に人間は、親や教師等から教育や躾を受けます。パウロは、その様子はその家の子供であっても奴隷と何ら変わりがないと言います。親も教師も不完全な人間ですので、その教育や躾にも理不尽なことや偏りがあることも少なくありません。それで親を尊敬できなくなることも起こるのです。大人になると親の躾の元から離れ、親の言うことを聞かなくなることがあります。

★本当の自由になるためには、親を越えた完全な真理と結びつかなければなりません。大人になるということは、親を替えることです。つまり肉親の親よりも高度の愛を持つ神に信頼を移動することです。このことが出来ないと、大人になって自由になったと思っても、肉親としての親に支配されています。親を恨んだりして生きている人が多いのはその為です。本当の大人になるとは「神を父」とし、しかも「アバ父」として信頼することなのです。

★大人になっても子供の状態に留まっているのは、親との関係だけではありません。パウロは、偶像の奴隷となっている状態もそうだと言っています。当時ガラテヤ地方も、アルテミス、アフロディテ、先祖までが神として礼拝されていました。現代も、星占い、手相占い、姓名判断、印相、家相、風水等々、人間が囚われるものが多くあります。テレビ、ラジオでまで毎日放送しているほどです。それらに囚われているのは、その奴隷の証拠です。クリスチャンはそれらのいっさいから自由にされたのです。

★そして完全に自由になるには、神を「アバ、父」と呼ぶキリストの御霊にいつも満たされることです。イエス様は、神を「アバ、父」と呼んだ最初の御方です。イエス様は、その御霊を私達にも与えて下さいました。極端な言い方ですが、理路整然とした祈りさえいらないのです。「アバ、父よ」との信頼した一言の祈りさえ出来れば、全ての不安が消え去るのです。「アバ、父」の御霊に満たされるとは、そういうことなのです。私達は、いつまでも幼稚な教えに翻弄されることなく、「アバ、父よ」と祈るキリストの御霊に満たされて、自由な人生を生きて行こうではありませんか。

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3月1日礼拝メッセージ「キリストにあってひとつ」

(メッセージ)ガラテヤ NO9「キリストにあってひとつ」3章15~29節

仁井田義政 牧師

現代はグローバルの時代で、数時間でどこの国にも行くことが出来ます。ですからクリスチャンは、パウロの時代以上に差別の問題を解決しておかなければならないのです。パウロの時代も、ローマ帝国の支配のもとに昔のグローバル時代でした。パウロは、そこで起こった異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンの問題に、聖書的に取り組みました。

★ユダヤ主義的な偽教師は、「律法」を持っていない異邦人を一段低く見たのです。しかしパウロは、「律法はアブラハムとの約束から430年後に与えられたもので、アブラハムとの約束の方が先である」(3:17)と言いました。つまり神様は、律法を与えていなかった時に既にアブラハムを祝福しておられると、聖書の記録をもとに主張しました。

★パウロはさらに聖書を用いて、神様はアブラハムを祝福された時に「あなたの子孫たちによって」と複数形で言わず、「子孫に」(創世記12:7)と単数形で言われたと主張しました。それはユダヤ民族という民族によってではなく、「キリストによって祝福する」という約束のことであると示したのです。つまり神様は律法がなかった時に、アブラハムにキリストによる全人類の祝福の約束をされたのだと記しました。

★それでは、律法は何のために与えられたのかという問題がユダヤ人クリスチャンたちから起こります。パウロはその問題にも答えました。律法は、キリストが現れるまでの養育係であって、「律法は全ての人を罪の下に閉じ込める為に与えられた」(3:22)と記しました。律法は「自分は罪人である」ということを教え、キリストの赦しにのみ救いがあることを教える「養育係」(3:24)の働きをし、有効であったと記しました。

★そこにはユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、男子も女子もなく、神の御子イエス様によって救って頂いた尊い人達であるのに、皮膚の一部に傷をつけたかどうか等と言う「割礼」のことで「異邦人はそれがないから劣っている」等という差別は愚かなことであり、「イエス様を信じる者はひとつであり、アブラハムの子孫なのです。そして、その祝福の相続人なのです」と言っています。グローバルな時代が来ています。益々クリスチャンは、聖書の教える真理に立ち、人間の平等を大切にしましょう。それが平和の道なのです。

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3月23日礼拝「神の祝福と呪い」

(メッセージ)ガラテヤNO8「神の祝福と呪い」3章7~14節

仁井田義政 牧師

 パウロの時代、ユダヤ主義的キリスト者は、異邦人キリスト者も努力してユダヤ人のように律法を完全に守らなければ救われないと主張しました。それに対しパウロは、「アブラハムは神を信じた、それが彼の義とみなされた」と創世記15章6節を引用し反論しました。

★パウロは、ユダヤ人が何百年も信じてきた伝統的考えを否定したのです。創世記15章6節の御言を証拠に「信仰による人こそアブラハムの子孫だ」と宣言したのです。パウロの主張は、アブラハムの子孫かどうかで神様の祝福が決まるのではなく、信仰による人こそアブラハムの子孫であり、神様の祝福を受けることが出来るクリスチャンなのだと言っているのです。

★パウロは、神様がアブラハムに語り掛けた言葉にあると言っています。創世記12章3節を見ると、紀元前二千年頃アブラハムの父テラは、異教徒であり偶像礼拝者だったことがわかります。その子であるアブラハムも当然そうだったでしょう。しかしアブラハムは偶像礼拝を離れて、万物の創造者であられる唯一の神を信じたのです。その信仰によって救われたのです。そして神様は、アブラハムに「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記22:18)と約束されたのです。全ての民族は平等で、異邦人も信仰だけによって救われるのです。

★今日の御言には「キリストは私達の為に呪われた者となって、私達を律法の呪いから贖い出して下さいました」と記されています。人間は全て律法を守ろうとしても守れずに、神様の祝福を受けられなくなって、神様に呪われた状態になっています。キリストは私達の為に「全ての民族の為に呪われた者となって下さった」のです。それは聖書に「木に架けられる者は全て呪われたものである」(申命記21:23)と定まっているからです。

★パウロの時代も現代も同じく、神様の前に民族的な差別は何一つありません。しかし、イエス様を信じる人には救いと祝福が、イエス様を信じない人には呪いがあるのです。そして今は、イエス様を信じるならば、誰にでも救いと祝福が与えられる恵みの時代です。私達はイエス様を信じて、救いと祝福にあずかりましょう。

 

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2月16日礼拝メッセージ「聖霊の力に満ちた教会」

(メッセージ)ガラテヤNO7「聖霊の力に満ちた教会」3章1~6節

仁井田義政 牧師

パウロは、今日の御言の冒頭で「ああ、愚かなガラテヤ人」という激しい言葉を記しています。しかしそれは決して憎しみからではなく、愛するゆえの言葉でした。そうでなければ、相当な時間と費用を用いて、この手紙を送ることなどなかったのです。その原因を作ったのは、偽教師でした。彼らが異端的な教えを吹き込んだのです。パウロは、ガラテヤ教会の信徒達に目を覚まして欲しかったのです。

★ガラテヤ地方の教会は異端の教えを聞いて、パウロから聞いた十字架に付けられたキリストの信仰から迷わされました。「迷わした」はギリシャ語の「バスカイネン」で「魔法をかけられる」という意味です。現代でも、催眠術をかけられて酸っぱいレモンが甘く感じたりして迷うことがあります。

★パウロは「聖霊を受けたのは、律法を守ったからか、イエス様を信じたからか」と言いました。聖霊派でない人は、「この聖霊を受けた」とはイエス様を信じた時のこととか、洗礼の時のこととかと言います。しかし、聖書の文脈から「聖霊のバプテスマ」であるのは明らかです。異邦人伝道は「聖霊を受けると力を受ける。そうしてエルサレムから地の果てにまで私の証人となる」(使徒1:8)というイエス様の約束の延長線上にあることが明らかです。それをパウロは、キリストとは関係なく「肉」(ギ語:サルコス)で表わされる人間の努力や律法によって完成させようとする人々に、忠告しているのです。

★御霊は聖霊のバプテスマであり、それに伴ってガラテヤ地方の教会で奇跡が現われたのです。その奇跡は、ギリシャ語の「デュナミス」で、強力な力を現わしています。英語の「ダイナミック」の語源です。キリストへの信仰を正しく持ち、聖霊に満たされた教会において、神の力が現れるのです。

★聖霊には、そのような力強い働きがあります。どうしてその信仰を捨てて「律法を守ることが大切だ」というようなユダヤ的な異端に騙されて「キリストの恵みから落ちてしまっているのか。悔い改めて正しい教えに戻って、御霊に溢れ、御霊の力の溢れた教会になりなさい」と教えているのです。私達の教会にとっても、大切なのは正しい福音と聖霊のバプテスマ、聖霊の充満です。そうする時、教会には必然的に神の力が現われてくるのです。私達の教会は正しい教えに立ち、神の力「デュナミス」に満たされた教会になりましょう。

 

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2月9日礼拝メッセージ「十字架を無駄にせず」

(メッセージ)ガラテヤNO6「十字架を無駄にせず」2章15~21節

仁井田義政 牧師

 先週の御言には、異邦人と食事をしていたペテロが、律法に生きる人達のことが気になって、異邦人とは食事を一緒にしなくなったことが記されていました。そして、今日の御言は「それではキリストの十字架が無駄になってしまう」と続いています。

★パウロは、「私達は、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではない」と記しました。しかしパウロは、決してユダヤ人の優位性を主張するような民族主義者ではありません。ユダヤ人であるペテロやバルナバが、異邦人と食事をしなくなったのは、人々から「罪人と一緒に食事をした正しくない人」と言われたくなかったからであることを知っていたので、私も彼らと同じユダヤ人だと言ったのです。

★しかし律法を守ることが正しいとすれば、「異邦人と食事をした」という事実はどうなるのか、「人は行いによっては、正しいと認められない」こと、律法を守って勝手に「自分は正しい」と思っても、それは思い込みに過ぎず、救いはそこにはないことを、パウロは伝えようとしているのです。私達も「自分の考えと行動は正しい」と思っているでしょう。それは自己義認であり、真理はその人には無いのです。

★「キリストを信じる信仰によって救われる」とは、「キリストの信仰によって救われる」とも訳せる言葉です。パウロは、以前キリスト教会に対する迫害者でした。その自分が「キリストの信仰」つまり、彼を救おうとする主の愛で救われたと言おうとしているのです。

★キリスト教徒への迫害者パウロを救った「キリストを信じる信仰」または「キリストの信仰」とは、いかなるものなのでしょうか。それは教会を迫害したパウロの罪を、キリストが身代わりとなって、父なる神の裁きを受けて下さったので私は救われたという信仰です。そのことをパウロは、「私はキリストの愛の中で十字架に死に、今はキリストが私の中で生きているのです」と言いました。つまり私は「再び生まれたクリスチャン」であると言っているのです。英語で言う「ボーン・アゲイン・クリスチャン」です。パウロは、ガラテヤの信徒達が十字架にある罪の赦しを知って、生まれ変わって欲しかったのです。私達も十字架に死に、再び生まれた者として生きましょう。それがイエス様の十字架を無駄にしない生き方なのです。

 

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