2月2日礼拝メッセージ「真理に生きる教会」

(メッセージ)ガラテヤNO5「真理に生きる教会」2章1~14節

仁井田義政 牧師

今日は、私達の教会において教会会議が行なわれます。今日のガラテヤ書の箇所でも、第一回エルサレム教会会議が背景になって、キリスト教会において固く守っていかなければならない事は何か。つまり、キリスト教会がしっかりと守っていかなければならない真理は何かが論じられています。

★エルサレム会議では、パウロの異邦人伝道に絡んで、救いの為に割礼は必要か否かの激しい論争がありました。その会議の結論は、「異邦人は、割礼の必要なし」「ユダヤ人は先祖代々の割礼が必要だと思うならばそれもよし。割礼の有る無しによって救われるのではないので、自由」と決議しました。ギリシャ人のテトスも、割礼を強要されずに信徒として認められていました。

★しかし、偽牧師がガラテヤ地方の教会に忍び込んできて、ガラテヤ教会の土台の真理を変えようとしたのです。パウロは十二弟子でも、エルサレム教会の信徒でもなく、そのうえかつては迫害者でした。パウロが設立した異邦人教会も、そのようなわけでエルサレムから来た偽教師によって、教会の基本的真理「信仰による義認」が失われる危機に遭遇していたのです。

★キリストの直弟子のペテロも、ユダヤ主義からなかなか抜け出せないでいました。ペテロ・ヤコブ・ヨハネは、パウロを異邦人伝道者として受け入れ、祝福した理解者であったはずです。その彼も、アンテオケ教会に滞在していた時に、本心を偽った行動をとったことが今日の聖書には記されています。「ヤコブの所から人々が来る前は、異邦人クリスチャンと一緒にしていたのに、最近は異邦人と食事をしなくなった」というのです。それは異邦人と食事をしていることが、エルサレム教会に伝わるとまずいと思ったからです

★ガラテヤ地方の教会は、この時「真理に生きる教会」から脱落する危険がありました。偽教師や、12弟子のひとりのペテロが人を恐れる事などによってです。「バルナバ」までそうしたのです。パウロにとってペテロもバルナバもクリスチャンの大先輩ですが、パウロは教会の大切な「キリストによる信仰のみによる救い」を守るためには、容赦しませんでした。教会は「真理に生きる教会」であり続けなければならないからです。真理だけが人間を救い自由にする力を持っているからです。私達の教会が「真理に生きる教会」であり続けるようにと祈りましょう。真理に生きる溝の口教会の教会員であることに誇りを持って、力強く生きて行きましょう。

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1月26日礼拝メッセージ「生き方が使徒の証明」

(メッセージ)ガラテヤNO4「生き方が使徒の証明」1章18~24節

仁井田義政 牧師

ダマスコに向かう道で復活のイエス様に出会ったパウロは、ダマスコの町に入っていきました。パウロは、その町に住んでいたアナニヤから洗礼を受けました。その様子は使徒9章に記されています。

★パウロは、洗礼を受けると直ぐに伝道を開始しました。まずダマスコで、それからアラビヤに出て行って伝道しました。その後、またダマスコに戻ってきました。ですからパウロは、十二弟子のいるエルサレムの教会から伝道の許可を取ることなく伝道を開始したのです。彼にとって、自分がイエス様によって救われたと言う事実が全てだったのです。彼の伝道の熱意が、彼の使徒職を証明する全てだったのです。

★パウロは、その後エルサレム教会に向かいました。それは使徒権を受けるためではなく、ペテロと主の兄弟のヤコブに会うためでした。まずパウロは、アラム語でケパ、ギリシャ語でペテロと呼ばれる弟子に会いました。またイエス様の弟のヤコブにも会いました。彼も初代教会の指導者でした。パウロは、この二人から地上でのイエス様について聞いたと思われます。パウロがエルサレム行きのことを記したのは、自分はエルサレム教会と対立していないことを示す必要があったためと思われます。

★パウロはその後、シリヤ、キリキヤと小アジアを伝道し北上して行きました。パウロは、自分の故郷キリキヤのタルソに向かいました。それ以後9年間も(使徒9:29-11:25の空白)突然音信不通になってしまうのです。パウロは、タルソで何をしていたのでしょう。おそらくペテロとヤコブから聞いたキリストに関する情報を旧約聖書と照らし合わせ、教理面を構築していたのであろうと思います。バルナバによって、タルソからアンテオケ教会に連れて来られたのは、9年か10年後なのです。

★その後パウロは、第一、第二、第三と伝道旅行を続けました。最後には、ローマにまで行ったのです。そのパウロが「私はかつて教会を激しく迫害していたが、今はキリストを伝える者となっている。それが使徒であることの証明なのである」と言っています。

★私達も、キリストから遣わされた信徒であり教会です。その証明は、伝道していることになければなりません。来週は教会会議です。伝道に重点を置いた教会を目指しましょう。また各部の計画も伝道に力を入れましょう。

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1月19日礼拝メッセージ「キリストの啓示による福音」

(メッセージ)ガラテヤNO3「キリストの啓示による福音」1章11~17節

仁井田義政 牧師

パウロに対するガラテヤ人教会の反対はすさまじいものでした。「キリストを信じることも大切だが、それと同時に割礼を受けなければ救われない」という異端の教えです。それを信じる人々が出て来てしまっていたのです。パウロは自分の使徒職の正当性と、「十字架の救いを信じるだけで救われる」という福音の正当性を強く主張したのです。

★パウロは「私の伝えた福音はキリストの啓示による」ものであると記しました。人から聞いたものではなく、直接キリストからの啓示によるのだと言っているのです。啓示とは、神の真理を神ご自身が伝えることです。啓示宗教の反対語は、自然宗教です。自然宗教は、神の存在を示すことは出来ても、神の全てを示すことは出来ません。例えば、キリスト誕生時の東方の博士達は、星を頼りにエルサレムまで来ました。そこまでは自然宗教です。その先は「キリストの誕生地はベツレヘム」という聖書の啓示よって知るのです。

★パウロは、復活の主に出会って「異邦人に福音を伝えるように」とキリストから直接任命されたのです。それ以前、パウロは初代教会の人々が恐れる迫害者でした。キリスト教をユダヤ教から出た異端だと思い迫害していたのです。しかし、ダマスコの道で復活のキリストに出会い、キリストを伝える者となったのです。それが、パウロの使徒としての証拠でした。

★パウロは、キリストの啓示と選びに応えて、命がけで伝道する人となりました。パウロの伝道がいかに大変なことであったかは、第二コリント11章23~28節に記されています。パウロはイエス様と出会った時に、自分の考えた人生とイエス様の自分に対する計画とを入れ替えました。それは15~16節に「生まれた時から私を選び分け、異邦人の…」と述べられています。

★パウロは、イエス様とダマスコへの道で出会った時「主よ、私はどうしたらよいのでしょう」とキリストに尋ねて祈りました。その時、使命が告げられたのです。それは「異邦人の為に使徒とする」ことでした。神様は、全ての人の人生にご計画を持っておられます。それを知る為には、パウロのように神様に問う以外ないのです。祈る時に「あなたをこのために選んだ」と答えて下さるのです。神様は、私達を正しい信仰へと選んでくださいました。ですから気をつけて、純粋な信仰に生きましょう。

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(1月12日礼拝)「聖書の真理とは違う」

(メッセージ)ガラテヤNO2「聖書の真理とは違う」1章6~10節

仁井田義政 牧師

 キリストの教会は、伝道の戦いと同時に異端との戦いでもあります。間違った教えが、教会や信徒達にあるいは社会に入って行かないように戦うのです。私達は、異端には警戒心を強く持たなければなりません。ガラテヤ地方の教会に起こった異端問題は、私達の現実問題でもあるのです。

★ガラテヤの教会は、どのような教えからどのような教えに移って行ったのでしょうか。パウロが教えたのは、「イエスキリストの十字架の救いを信じる信仰」でした。しかしパウロが他の地に伝道に行っている間に「ユダヤ主義的」な信仰が入ってきました。十字架を信じても割礼を受けないと救われないという教えです。

★初代教会は、ユダヤ教の割礼問題からなかなか出られませんでした。弟子達の起こした初代教会なら、正しい信仰を持っていて当然と思う人が多いと思いますが、この割礼問題からはなかなか抜け出せなかったのです。弟子のペテロでさえも、ある時までは割礼のない異邦人が救われるとは信じられなかったのです。使徒10章に出て来るカイザリヤのコルネリオの家で、汚れた食べ物の夢を見て、初めて異邦人も救われると理解したのです。救われるために異邦人には割礼が必要ないということが教会の支流となるのは、使徒15章にある第一回エルサレム会議においてなのです。

★異端は聖書を使っていても、自分たちに都合の良い所だけを使ったり、聖書以外の書を聖書と同等に用いていることが多いです。また異端は自分達の団体名を巧妙に隠したりします。あるいはどんどん名前を変えていくことが多いのです。また豪華な礼拝堂や集まる人々が多いからと言って、正しい信仰とは限りません。教祖が今まで聞いたこともないことや、奇跡のような行いをして見せるからと言って、正しい教えとは限りません。

★南アフリカの教会の牧師が、体の痛みなどを治せるとして信者の顔に「殺虫剤」のスプレーをかけるというひどいことが起こりました。その人の所に多くの人がスプレーをかけてもらいに集まっているのです。異端は初代教会の時代から、人の弱みに付け込んで入って来る、非常に巧妙な団体です。私達は異端に騙されないように気を付けて、正しい信仰に満たされた生活をしましょう。

 

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1月5日礼拝 ガラテヤNO1「使徒となったパウロ」

(メッセージ)ガラテヤNO1「使徒となったパウロ」1章1節~5節

仁井田義政 牧師

 2020年の礼拝は、ガラテヤ人への手紙の講解メッセージから始まります。実はあまり知られていないのですが、ガラテヤ書は新約聖書の一番初めに書かれた可能性が高いのです。マルコによる福音書は、AD65年頃に書かれました。つまりマルコによる福音書が書かれる12年も前に、ガラテヤ書は書かれました。ですからガラテヤ書は、福音書も使徒達の手紙もなかった時代の教会の様子を知る貴重な考古学的な手紙でもあるのです。

★ガラテヤの諸教会は、パウロの伝道によって出来た教会です。しかしパウロが、ガラテヤでの伝道を一段落してそこを去った後のことです。ガラテヤ地方の教会に異端が入り込んできました。それは、キリストの福音の一部を変えることによって、福音の全体を変えてしまおうとするものでした。

★パウロは、ガラテヤの教会が変質していくことを見逃せませんでした。しかし既にガラテヤの諸教会の信徒達の中には、異端の影響によってパウロに反抗する人々も起こっていたのです。それでパウロは、挨拶文の中で自分が神様から選ばれた「使徒」であることを強調しているのです。

★パウロが使徒性を主張したのは、異端に騙されることなく、ガラテヤの信徒達が正しい福音を信じ続けるようになるために他なりません。その正しい福音とは、「キリストが私たちの罪の為に、ご自身をお捨てになった」ということです。しかしガラテヤの教会に入り込んだユダヤ主義的な異端が、「割礼」を受けなければ救われないと伝え始めたのです。ですから本当に大切なのは、律法の「割礼」ではなく、「キリストの十字架の罪の赦し」という福音を信じることであると主張しているのです。

★パウロは、来週お話しすることになっている1章6節にある「そんなにも急に・・・ほかの福音に移っていくことに驚いている」と、その感染のすさまじさに驚いています。新約聖書として初めに書いた手紙が、異端に対しての注意であったということを重く受け止めなければなりません。

★パウロは、この手紙の挨拶で「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」と祝福の祈りをしています。真の信仰は、恵みと平安に満ちているのです。そのことをしっかりと心に据えて、2020年の神様の祝福を信じて祈りましょう。

 

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(今年最後の礼拝)「主の恵みはとこしえまで」

(今年最後の礼拝)「主の恵みはとこしえまで」詩篇118篇1~4節

                                                                                 仁井田義政 牧師

 いよいよ今年最後の礼拝です。今年も皆さんにとっていろいろなことがあったと思います。嬉しかったこと、辛かったこともあったでしょう。でも今年一年間、神様がどんなに素晴らしいことをしてくださったかを思い起こして感謝しましょう。メッセージの後に、ベートーヴェン作曲の第九「歓喜の歌」の讃美を歌って、神様に感謝して終わりたいと思います。

★この詩篇118篇は、イエス様が最後の晩餐の後に弟子達と歌い、また宗教改革者ルターが愛した歌と言われています。現代でもイスラエル人の家庭で、過越し祭にはこの詩篇が必ず朗読されると言われています。この詩篇の中には、神様の恵みがどんな困難の中にあっても決して離れないと記されています。22節に、キリストは人間の無理解のために一時的に捨てられるが、建物全体の大切な隅の頭石となると預言されています。

★25~27節には、イエス様のエルサレム入城の様子が預言されています。人々はその時「ホサナ」と言って迎えることが預言されています。それは「どうぞ私達を救って下さい。」というヘブル語で「ホシャア・ナ」です。それは、イエス様がロバの子に乗って入城された時に起こりました。イエス様は最後の晩餐の後に、この詩篇を弟子達と一緒に歌って、ゲッセマネの園へと向かわれました。つまりイエス様は、ご自身に起こる全てに神の計画と意志を確信しておられたのです。24節には、十字架の苦しみもすべて「この日を喜び楽しもう」と記されています。

★イエス様は、十字架のお苦しみまで受け入れておられました。ご自身の人生を恨むようなことはなさらなかったのです。それは神様が「慈しみと恵みに」満ちておられるからです。見て下さい。詩篇118篇は、1節と29節の「その恵みはとこしえまで」という言葉でサンドイッチされているのです。

★皆さんにとって、今年を振り返ってみると、感謝できることばかりではなかったかもしれません。しかし、どんな一年間であったとしても、主の恵みの御手の中にあったのです。ですから神様の豊かな恵みに感謝して祈りましょう。その後に大きな声でベートーヴェン作曲の第九の「歓喜の歌」(聖歌「御神の愛をば」)を賛美し、今年の礼拝を感謝に満ちて閉じましょう。

 

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クリスマス礼拝「疎外者達のクリスマス」

クリスマス礼拝「疎外者達のクリスマス」ルカ2章1~20節

仁井田義政 牧師

クリスマスおめでとうございます。今日はクリスマス礼拝です。イエス様のお誕生は、この世の片隅で、ひっそりと行なわれました。しかしそれがまた神様の御心であり、神様の人間に対する愛でした。クリスマスの逆説を、聖書から皆さんにお届けいたします。

★すでにマリヤは身重でした。聖霊による身籠りを信じる人もなく、結婚前の身籠りなので、この時代に、そのようなことは軽蔑の対象でした。夫ヨセフの家族や親戚にとっては恥でした。普通ならば、身重の女性に長旅をさせてはいけません。おいて行っても良かったでしょうが、ヨセフはマリヤを連れて行くのです。それは村からの疎外です。その疎外が「ダビデ王の町ベツレヘムに生まれる」預言の成就になるのです。

★ナザレで疎外されたマリヤの胎の中のイエス様は、はじき出されるようにしてベツレヘムに向かいました。そのベツレヘムこそが、救い主メシヤが誕生すると聖書に預言されたダビデの地でした。しかし千年も前のダビデ王の子孫です。人々は人口登録の忙しさで、聖書の約束など忘れていたはずです。それで、ベツレヘムでも身重の女性への愛はなく、キリストの誕生は疎外されてはじき出され、馬小屋で生まれることになったのです。

★その夜、ベツレヘムの荒野には、人口調査の町の騒ぎとは関係ない羊飼い達が、夜通しで羊の番をしていました。彼らもまた人間社会からはじき出されて、寝る場所もない疎外された人達でした。その人達に天使達が現れて「ベツレヘムに、あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と伝えたのです。神様からのクリスマス招待でした。

★羊飼い達が見たのは、社会から疎外され飼い葉桶に寝かされているイエス様でした。しかもぼろ布に包まれて寝かされているのを見たのです。1時間ほど前に、荒野で聞いた天使たちの賛美は、ついに彼らの心からの歌となって溢れてきました。その賛美は、彼らの神への賛美そのものとなったのです。彼らは神を賛美しながら、仕事の場へと戻っていきました。

クリスマスの聖書のメッセージは、イエス様に忘れられ疎外されている人はいないということです。イエス様はあなたのためにも来てくださいました。そのイエス様を心から信じて、お迎えしようではありませんか。

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アドベントNO.3「主はロバの子に乗って」

アドベントNO.3「主はロバの子に乗って」ゼカリヤ書9章9節

仁井田義政 牧師

アドベント第三週に入りました。来週の日曜日は、クリスマス記念礼拝です。今日はゼカリヤの預言から、アドベント第三週の礼拝メッセージと致します。

★今日の御言に出てくる「シオンの娘」は、エルサレムの人々のことです。花婿にも譬えられる救い主が来られるという預言です。その御方は救い主であり、王でもあられます。イスラエルは、その時までも幾多の王が支配してきましたが、歴代の王は不完全で、民は外国の奴隷にもなりました。しかしようやく、新しい時代と新しい王が来られるのです。その方こそ、今までの奴隷の屈辱から救って下さるとゼカリヤは預言したのです。

★その方がエルサレムに入られる時には、ロバの子に乗って来られると預言しました。イスラエルの歴代の王は、ロバに乗る王などいませんでした。王達は力を現わすために、力強い馬に乗ってきたのです。永遠の王は馬の力「軍事力」等を必要としないので、柔和な「ロバの子」に乗って来られたのです。

★「ロバの子の背に乗って来られる王」とは、キリストのことです。「ロバの子」のヘブル語は「イール」という言葉で、その語源には「目が開かれる」という意味と、その反対の「目を塞がれる」という意味があるという人がいます。もしそうであるならば、イエス様がロバに乗られる姿を見て目が開かれる人と、目が塞がれる人がいるということになります。「キリストがゼカリヤの預言の通りに来られた」と信じる人は目が開かれ本当のキリストを見ることが出来、信じない者はキリストを見る目が閉じられるということを示していると、とることも出来るでしょう。

★人は、偉大な王様なら当然第一級の軍馬にまたがって、さっそうと登場するだろうと思うのが常です。しかし本当の救い主キリストは、ロバの子の背に乗って来られると預言されているのです。剣も槍も盾も鎧も、ロバの背に必要な鞍さえ無い姿で、世界の王キリストが来られたのです。彼は、ひたすら神の愛とその柔和さで、人々を救う神の御子キリストだったのです。この方こそ、預言されたキリストでした。ロバの子に乗られたキリストをよく見ましょう。そして私達の為に来られた救い主を喜んでお迎え致しましょう。

 

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アドベントNO.2「エッサイからの若枝」

アドベントNO.2「エッサイからの若枝」イザヤ10章33節~11章2節

仁井田義政 牧師

  預言者イザヤの時代、イスラエルは国の80%近くをアッシリヤに占領され、人々は打ちのめされていました。それが8章22節の文章に現わされている「苦難と闇。苦悩の暗闇。暗黒。追放された者」という言葉です。そのような絶望的な社会に向かって、キリスト誕生の預言が希望を与える光として告げ知らされたのです。

★イスラエルは、アッシリヤ軍によって完膚なきまでに打ちのめされました。それは根元から切られた木のようで、回復は絶望的に見えました。歴史的には、アッシリヤのティグラテ・ピレセルが切ったのです。しかし聖書は「それは主である」と記しています。それは民の不信仰のゆえでした。神様はイスラエルに不信仰の間違いを教えるために、他民族であるアッシリヤ軍を用いたのです。そのことは10章33~34節で示されています。

★しかし預言者イザヤは、「切り倒された根株から、新芽が生えて実を結ぶ」と預言しました。「実を結ぶ」とは、元気になり成長し、木の目的である実を実らせるということです。また「ダビデの若枝」と言わずに「エッサイの若枝」と預言されたのも大切なことです。それは軍事力を持った強い人ではなく、エッサイのように弱い人に見えるキリストによって、世界中に希望を与えるのです。それは「主の霊がその上に留まる」からです。(11:2)

★イザヤ書11章10節に「その日」という言葉が出てきます。「その日」とは、イエス様の誕生の日とも再臨の日ともとれる言葉です。アドベントなので、誕生の日と受け止めてみましょう。エッサイの根であるキリストが来られると、「国々の旗として立つ」と預言されています。つまり世界に祝福が広まるということです。また「彼の憩う所」とは、イエス様を迎える国のことです。イエス様を迎える国や人は、「栄光に輝く」のです。切り倒された株から出た人が、実を結ぶ素晴らしい人になるのです。それはキリストのことです。

★あなたが今、命の力を失っていたとしても、イエス様を信じるその時から、あなたの将来は動き出すのです。そうして必ず多くの実を結び実のある人生となるのです。イエス様があなたの救いの為に来て下さいました。そのイエス様を信じて希望の人生を生き始めましょう。

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アドベント第一週「死の陰の地に光が照った」

アドベント第一週死の陰の地に光が照ったイザヤ8章22節~9章2節 

                          仁井田義政 牧師

12月に入りました。今日からアドベントに入ります。アドベントとは、ラテン語の「アドベンティウス」からの言葉で「来る」を意味します。750年も前にイザヤは、イエス様について「死の陰の光」として来られると預言しました。

★「暗の中を歩んでいた民」「死の陰の地に住んでいた民」は、何を意味しているのでしょうか。それは1節の中に「しかし、苦しみのあった所に闇が無くなり」とある通り、人間の苦しみのことです。その苦しみから逃れるために、人々は霊媒や占いのようなオカルト宗教を頼ってしまうのです。

★イエス様が来られると「苦しみのあった所に希望が与えられる」と9章1節に記されています。エルサレムからは遠いガリラヤ地方は、異邦人とユダヤ人が混在する「異邦人のガリラヤ」と軽蔑された地でした。神様から捨てられていると思われていたその地が「神の光栄を受けた」と記されています。イエス様がその地方から出られたからです。

★新約聖書には、イエス様が暗闇で死の恐怖におののく弟子達を助けられたことが記されています。まさに差別の地の中心にあるガリラヤ湖で、この問題が起こったのです。夜中の嵐で誰も助けに来ることが出来ない状況に、イエス様が近づかれ救ってくださったのです

★預言者イザヤは、イエス様の誕生を「闇を照らす大きな光」と預言しました。私達人間は、様々な問題に取り囲まれると希望を失ってしまうことがあります。どんなに目を凝らして出口を見つけようとしても、闇が深くて見つからないのです。イエス様は、あなたの暗闇を照らす大きな光として来て下さいました。イザヤは、イエス様は決して小さな光などではなく「大きな光」であると預言したのです。光と暗闇は共存できません。光は闇を追い出すのです。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ9:2)

イエス様は、私達の暗闇を照らす為に来て下さいました。そのイエス様を心からお迎えしましょう。

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