第一テサロニケ (NO7)「主が来られる時までに」3章11~13節
仁井田義政 牧師
今日の聖書の箇所には、パウロの祈りが記されています。それは、テサロニケ教会の為に「昼も夜も熱心に祈る」(10節)祈りでした。今日のパウロの祈りは3つあります。しかし最終的にはひとつの祈りになっています。それは「主が来られる時までに」という祈りです。
★第一番目の祈りは、「主が私達の道を開いて下さいますように」でした。 神様は、私達の為に道を開いて下さいます。私達が失敗するのは、神様が開いて下さるのを待てずに、自分で開こうとする時です。パウロは、神様が道を開いて下さるのでなれば進まない人でした。
★第二番目の祈りは、「あなたがたの愛を増し、満ち溢れさせて下さいますように」という祈りでした。まず「互いの間の愛」です。クリスチャン同士が愛し合う存在でなければなりません。次は「全ての人に対する愛」です。それは、クリスチャン以外の人への愛です。すでにテサロニケ教会の信徒の特徴は1章4節に記されていたように「愛」でした。パウロは、それがさらに「増して、満ち溢れる」ようにと祈りました。
★ 第三番目の祈りは、「主イエスが来られる時までに、聖く責められるところのない者となりますように」との祈りでした。現代の教会とクリスチャンに不足しがちなのは、「キリストの再臨信仰」ではないでしょうか。世紀末が近づくと、世の中も終末論が強調されるようになります。しかし、教会とクリスチャンは世紀末に関係なく、「再臨信仰」に満ちていなければなりません。いつイエス様が再臨されても「神の御前で、聖く責められることのない者となる」ことを強く願うべきなのです。
★初めに「今日の聖書箇所には3つの祈りがありますが、最終的にはひとつの祈りになっています」と言いました。そのひとつの祈りとは「キリストが来られる時、聖く、責められるところのないようにして下さいますように」というものです。クリスチャンの生活は、「神様の御前に立って責められることはないかどうか」を自己吟味して生きることです。今日の3つの祈りを心からの祈りとし、神様に喜ばれるクリスチャンになりましょう。
仁井田義政 牧師 

今日の御言は、私達の生活にとって神の御言がどの様に働くかを明確に示しています。神の御言は、その力を本気で信じる者と、そうかも知れない程度に信じている者とでは、全くその力が違って現れるのです。
先週のメッセージの中で、テサロニケ人への手紙の中には、「優しい言葉が多く記されている」と話しました。今日の御言にも、その優しさが「父親のような愛、母親のような愛」として出て来ます。パウロのそのような愛の起源は、どこにあるのでしょうか。どうすれば私達もそのような愛に近づくことが出来るのでしょうか。
★12節では、「基準」に従わないクリスチャン達のことが記されています。それは、ユダヤ主義キリスト教の人々です。彼らは、十字架も復活も信じていました。しかし「割礼を受けることも必要だ」と教えたのです。自分達と自分達の教えを信じる人をユダヤ教の一派として、ローマからの迫害を受けないようにしようとしたのかもしれません。しかしパウロは、それは「見栄の為」と記しました。見栄とは、「人の目にどう見られているか」ということを優先するものです。この言葉で、一気に現代味を帯びることとなります。
