6月21日礼拝「主が来られる時までに」

第一テサロニケ (NO7)「主が来られる時までに」3章11~13節 

仁井田義政 牧師 

今日の聖書の箇所には、パウロの祈りが記されています。それは、テサロニケ教会の為に「昼も夜も熱心に祈る」(10節)祈りでした。今日のパウロの祈りは3つあります。しかし最終的にはひとつの祈りになっています。それは「主が来られる時までに」という祈りです。

★第一番目の祈りは、「主が私達の道を開いて下さいますように」でした。 神様は、私達の為に道を開いて下さいます。私達が失敗するのは、神様が開いて下さるのを待てずに、自分で開こうとする時です。パウロは、神様が道を開いて下さるのでなれば進まない人でした。

★第二番目の祈りは、「あなたがたの愛を増し、満ち溢れさせて下さいますように」という祈りでした。まず「互いの間の愛」です。クリスチャン同士が愛し合う存在でなければなりません。次は「全ての人に対する愛」です。それは、クリスチャン以外の人への愛です。すでにテサロニケ教会の信徒の特徴は1章4節に記されていたように「愛」でした。パウロは、それがさらに「増して、満ち溢れる」ようにと祈りました。

★ 第三番目の祈りは、「主イエスが来られる時までに、聖く責められるところのない者となりますように」との祈りでした。現代の教会とクリスチャンに不足しがちなのは、「キリストの再臨信仰」ではないでしょうか。世紀末が近づくと、世の中も終末論が強調されるようになります。しかし、教会とクリスチャンは世紀末に関係なく、「再臨信仰」に満ちていなければなりません。いつイエス様が再臨されても「神の御前で、聖く責められることのない者となる」ことを強く願うべきなのです。

★初めに「今日の聖書箇所には3つの祈りがありますが、最終的にはひとつの祈りになっています」と言いました。そのひとつの祈りとは「キリストが来られる時、聖く、責められるところのないようにして下さいますように」というものです。クリスチャンの生活は、「神様の御前に立って責められることはないかどうか」を自己吟味して生きることです。今日の3つの祈りを心からの祈りとし、神様に喜ばれるクリスチャンになりましょう。

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6月14日礼拝メッセージ「パウロの喜びと生きがい」

第一テサロニケ (NO5)「パウロの喜びと生きがい」3章6~10節 

仁井田義政 牧師 

パウロがこの手紙を書いている地は、コリントであると考えられています。コリントからテサロニケまでは往復1000キロになります。そこからテモテが帰ってきました。テモテの報告は、素晴らしいものでした。パウロはその報告を聞いて、「私達には今、生きがいがあります」と、喜びに満たされました。

★テモテは、パウロにテサロニケ教会の素晴らしい信仰の姿を知らせました。「良い知らせ」は「ユーアゲリオン」で、福音と訳せる言葉です。テサロニケ教会の信徒達は「信仰と愛」に満ちていました。パウロがテサロニケの信徒達を心配しているように、彼らもパウロに会いたいと願っていました。

★パウロは、コリントの町で苦戦していました。そのコリントで「恐れるな、黙っているな」(使徒18:9~11)という主の声を聞いていました。つまり恐れていたのです。その中での吉報だったのです。

★パウロは、テサロニケ教会についての素晴らしい知らせを聞いて、「私達には今、生きがいがあります」と記しました。良い知らせを聞いて「もうテサロニケ教会に行かなくても大丈夫だ」と言ったのではありません。「是非会って、あなたがたの信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っている」(10節)と記したのです。テサロニケの信徒達の信仰は素晴らしかったのですが、それで完成ではないのです。イエス様の素晴らしさと比べるならば、足元にも及ばないのです。イエス様のようになることが、私達の姿勢でなければなりません。その為には互いに「顔を」見ることが大切なのです。私達もようやく来週から「会って、顔を見る」礼拝が出来るのです。

★信徒は牧師・伝道者によって励まされ、牧師・伝道者は信徒達の信仰の素晴らしさによって励まされるのです。コリントの地で伝道に苦戦していたパウロは、迫害にも負けず純粋な信仰を持って戦っているテサロニケ教会の信徒達に励まされました。また自分達にキリストの救いを伝えてくれたパウロに切に会いたがっていることを聞いて、「喜びを感じ、生きがい」を感じ励まされたのです。私達も来週、同じ思いを持って礼拝に集まり、神様への感謝の礼拝を一緒に捧げようではありませんか。

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6月7日礼拝「苦難と忍耐」

第一テサロニケ (NO5)「苦難と忍耐」3章1~5節 

仁井田義政 牧師 

一年の折り返しの6月に入りました。1-2月は会議の月でしたし、3月に入りますとコロナの影響が始まり、今日まで自粛生活が続いています。しかし私達は「神の国」に生かされています。神の国とは、神様の支配のことです。ですからどんな苦難があっても、耐え忍ぶことが出来るのです。

★当時、テサロニケ教会の人達が受けていた迫害は、すさまじいものでした。それを知ってパウロは、直ぐに飛んで行きたかったが行けなかったと、先週の御言の中に記されていました。パウロは心配で、若いテモテをテサロニケに遣わしました。

★テモテ派遣の目的は、ユダヤ教徒や同国民から迫害を受けているテサロニケ教会の人々を励ますためでした。イエス様を信じたら、そよ風のような日が来るのではありません。迫害する者や反対する者が起こって来るのです。そのことはイエス様も「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ24:3-13)と教えています。

★迫害や問題が起こると、信仰を持って間もない人達は動揺することが多いのです。いや信仰の長い人であっても動揺するでしょう。今日の聖書箇所に出ている「動揺」という言葉は、ギリシャ語で「ダイネスサイ」で、犬がシッポを振るという意味の語から来ています。妥協と引き換えの御褒美に、シッポを振る様子を意味しています。同国人からは「混合宗教」への誘惑、ユダヤ教からは「割礼」を受けるようにとの律法主義の誘惑が突き付けられていたのです。それを受け入れさえすれば「迫害をすぐにやめる」との条件を突き付けられて誘惑されたのです。それに「動揺」し、シッポを振る子犬のようになってしまうことを意味しています。

★パウロは、迫害の中で信仰から落ちていってしまう者がいるのではないかと心配したのです。テサロニケ教会の人々が誘惑され信仰を失ってしまうようなことがあるならば、私達の労苦が無駄になってしまうと心配し、テモテを遣わしたのです。私達も、御馳走を前にシッポを振る子犬のようになってしまってはなりません。最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。苦難の時には、忍耐を持って信仰を貫く人になりましょう。

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5月31日ペンテコステ礼拝「再臨と聖霊」

第一テサロニケ (NO4)「再臨と聖霊」2章17~20節 

                          仁井田義政 牧師 

今日は、聖霊降臨記念礼拝・ペンテコステです。そこでメッセージ題は「再臨と聖霊」とさせていただきました。しかし今日の聖書箇所には「聖霊」と言う言葉はひとつもありません。ただ再臨と聖霊は切り離すことが出来ないのです。

★パウロがこの手紙を書いている時は、テサロニケを去って1年あまりです。この時もテサロニケ教会は、激しい迫害の真っただ中にありました。パウロはそれを聞いて、どんなに心配で切ない思いをしていたことでしょう。2章17節の「引き離された」という語は「孤児にされた」という意味の言葉です。コロナで引き離されている私達の教会のようです。しかしパウロも言っているように、私達も心においてはひとつです。

★パウロは「二度もあなたがたの所に行くことを心に決めた」のです。それは、心で思ったと言うことではなく、実際に計画したのです。「しかしサタンが私達を妨げた」と言っています。それが迫害の危険の為であったのか、あるいは病気の為であったのかはわかりません。両方であったかもしれません。行きたいのに行けない。会いたいのに会えない。パウロはその時に「主イエスが再び来られる時」を想いました。イエス様と会いたいのに会えない。イエス様が来たいのに来られない。それは時が来ていないからです。

★パウロとテサロニケ教会は、距離的に離れています。しかし祈り合い、心はひとつとなっていました。イエス様と私達も、天国と地上に離れています。しかし心はひとつです。主も祈り私達も祈っているからです。イエス様は、ご自分と教会が天と地に離れている間、教会が孤児にならないようにと「聖霊」を送って下さっていました。(ヨハネ14:16~18)

★今、新型コロナウイルスのためクリスチャンが教会から引き離されています。キリストが天に帰られた時から、もう一度来られる間の時代、つまり現代は聖霊の時代なのです。聖霊に助けられて生きるなら「主イエスが来られる時、私達の望み、喜び、誇りの冠となる」(19節)ことが出来るのです。パウロは、テサロニケの信徒達に「あなたがたこそ、私達の誉れであり、喜びなのです」(20節)と言いました。再臨の日は近いのです。聖霊に満たされて、どんな困難の中にあっても、聖霊によって勝利しましょう。

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5月24日礼拝「神のことばの力」2章13~16節 

第一テサロニケ (NO3)「神のことばの力」2章13~16節 

                         仁井田義政 牧師 

今日の御言は、私達の生活にとって神の御言がどの様に働くかを明確に示しています。神の御言は、その力を本気で信じる者と、そうかも知れない程度に信じている者とでは、全くその力が違って現れるのです。

★この手紙を書いた時、パウロはテサロニケ教会から距離的に遠く離れた所にいました。2章の最後には「行きたくても行けない」と記しています。しかし、パウロの耳に伝わってくるのは、テサロニケの信徒達の「信仰に満ちた」素晴らしい信仰でした。牧師にとって、信徒達が信仰に溢れ、御言を信じて生活しているのを見ることほど嬉しいことはありません。

★テサロニケ教会のクリスチャン達は、パウロが伝えたメッセージを文字通りに神のことばとして受け入れました。御言を神のことばとして信じて行動すると、どんな事がおこるのでしょう。それはパウロの体験したことでもありました。「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」と、自明なこととして書き送りました。神様は御言を信じる者に働かれ、私達の生活に奇跡を起こして下さるのです。

★それでは、テサロニケ教会の信徒達にどのような奇跡が起こったのでしょう。第一には、信仰をもってまだ一年あまりのテサロニケ教会が、地域一帯の教会の模範となってしまったことです。第二には、ユダヤ人の迫害にも負けないで、純粋な信仰を守り通していたことです。パウロは、迫害を逃れて夜中にその町を脱出し、次の町ベレヤに向かいました。まだ教会には役員もいなかったでしょう。壮年会・婦人会・青年会などの組織もなかったでしょう。しかしその教会の信徒達が、迫害にも負けないで他の教会の信仰の模範となったのです。これが、御言をそのまま神のことばとして信じたテサロニケ教会に起こった神様の奇跡なのです。

★奇跡というと、病気が治った等の目に見えることと思ってしまいます。確かに神様は、病気をも癒される御方です。しかし神様は、神のことばを信じる私達を強くし、どんな反対にも微動ともしない強い信仰の人にして下さるのです。生活の中で様々な困難を覚えながら生きている私達に必要なのは、そのような神の力なのです。御言を信じ、神様の奇跡を体験する者になりましょう。

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5月17日礼拝メッセージ「神様に喜ばれる生活」

第一テサロニケ (NO2)「神様に喜ばれる生活」2章1~12節 

                        仁井田義政 牧師 

  先週のメッセージの中で、テサロニケ人への手紙の中には、「優しい言葉が多く記されている」と話しました。今日の御言にも、その優しさが「父親のような愛、母親のような愛」として出て来ます。パウロのそのような愛の起源は、どこにあるのでしょうか。どうすれば私達もそのような愛に近づくことが出来るのでしょうか。

★パウロはテサロニケに来る前、ピリピの町で牢獄での地震の奇跡を体験していたことは先週話しました。その結果、看守家族が救われ洗礼を受けたのです。その後パウロは、ローマの市民権を持っていたために釈放されました。神様の素晴らしい救出の強い確信をもって、テサロニケに来たのは確実なのです。

★パウロには、テサロニケでの伝道で心がけていたことがあります。それは、他の巡回宗教者や巡回哲学者と同じように見られないことでした。当時のギリシャには、そのような地方を回りながら金品を得ていた人々が多くいたからです。そこでパウロは、アルバイトをして生活費を得ていました。パウロは天幕作りの技術を持っていたので、その仕事をしていたのでしょう。

★パウロは、テサロニケの人々に「母の愛のような、父の愛のような愛で接した」と記しています。7節で「母親が子供を育てるように、優しく振る舞い」8節では「命までも与えたいと思う程に」愛したことが記されています。さらには11節で「父がその子供にするように慰めを与え、厳かに命じました」と記されています。両方に優しさを現わす語が用いられているのです。

★パウロは「父と母のような愛で」愛しました。しかしそれは人に喜ばれる為ではないと言っています。人に喜ばれる目的の愛は、人に喜ばれなくなった時に破綻します。パウロは「しかし、私達の心をお調べになる神を喜ばせようと」(4節)と愛の目的を記しています。だからその言葉には、人に対してのへつらいも、むさぼりもないのです。  

★私達も「神様を喜ばせるために」というところに、全ての愛の起源と動機を置いて生活する時、全ての生活が改まるのです。クリスチャン生活の動機は、全て神様を喜ばせることにあるということを確認し、神様に喜ばれる生活をしましょう。

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5月10日礼拝「響き渡る信仰」

第一テサロニケ (NO1)「響き渡る信仰」1章1~10節 

                  仁井田義政 牧師 

 先週で、パウロによる一番初めの手紙「ガラテヤ人への手紙」を話し終えました。今日からは、二番目の手紙「第一テサロニケ人への手紙」をお話します。パウロがテサロニケの町で伝道したのは49年頃で、その様子は使徒17章に記されています。パウロは、50年頃にテサロニケ教会に二通の手紙を書きました。この手紙には、愛と優しい言葉が満ち溢れています。

★パウロは、挨拶文の中で「あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています」と記しました。「信仰の働き」は伝道のことです。「愛の労苦」は、人々への愛です。「キリストへの望み」は、復活と再臨のキリストへの信仰のことです。テサロニケの教会の人々は、それを守るために必要な忍耐に満ちていることを私は知っていると記しているのです。そして「あなたがたこそ、神に愛されている人々、神に選ばれた人々である」と記しました。一年前に生まれたばかりの教会には、信仰の純粋さがありました。

★パウロは、言葉だけによるのでなく「力と聖霊と強い確信を持って伝えた」と記しています。パウロがビリピの町で逮捕されて獄中にいた時、地震が起こり、その結果、看守の一家が救われたということが、このパウロの強い確信につながっていたのかもしれません。テサロニケ教会の人々も、御言を「聖霊による喜びを持って受け入れ」ました。御言を受け入れただけではなく、苦難の中でも御言を実践する教会となっていたのです。

★多くの苦難の中でも動じることなく、御言を信じる純粋な信仰と、聖霊による喜びに満たされた生き方は、教会の模範でした。先週までお話しましたガラテヤの教会とは全く違っていました。テサロニケ教会の良い評判は、「あらゆる所に響き渡っている。」(8節)と記されています。「それは真の神を知って、偶像からきっぱりと離れ、生ける神に仕える者となったからである」とも記されています。

★テサロニケ教会は、一年前に生まれたばかりの赤ちゃん教会です。その教会が苦難の中にあっても「聖霊による喜び」に満ちていたのです。私達も聖霊に満たされた信徒となり、あらゆる教会の模範となりましょう。

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5月3日礼拝メッセージ「この基準に従って進む」

ガラテヤ書(NO17)「この基準に従って進む」6章11~18節 

仁井田義政 牧師 

パウロは、今日の聖書の部分に、ガラテヤ人の手紙の結論を書きました。それは、「信仰の基準」です。

★12節では、「基準」に従わないクリスチャン達のことが記されています。それは、ユダヤ主義キリスト教の人々です。彼らは、十字架も復活も信じていました。しかし「割礼を受けることも必要だ」と教えたのです。自分達と自分達の教えを信じる人をユダヤ教の一派として、ローマからの迫害を受けないようにしようとしたのかもしれません。しかしパウロは、それは「見栄の為」と記しました。見栄とは、「人の目にどう見られているか」ということを優先するものです。この言葉で、一気に現代味を帯びることとなります。

★私達クリスチャンは、十字架に以外に誇りとするものがあってはならないとパウロは記しました。十字架を重要なことと信じる時に、「私に対して世界は死ぬ」と記されています。それは、世間の評価が気にならなくなると言うことです。「私も世界に対して十字架につけられた」とは欲望のことです。様々な欲望は、信仰の邪魔となります。「自分を十字架につけて殺さなかった」為に、どれほど多くのクリスチャンが、途中で信仰から離れるかしれません。

★十字架を誇ることは、クリスチャン信仰の基準です。「基準」は、ギリシャ語の「カノン」です。救いの基準となるものは、唯一キリストの十字架であると信じることが、キリスト信仰の基準なのです。それは、神の新しい創造なのです。つまり古い割礼の民であるユダヤ人ではなく、キリストへの信仰によって創られた新しいイスラエルこそが、真の神の民なのです。パウロはその人々に「平安と哀れみがあるように」と祈っています。

★パウロは、手紙の最後に至って「私は、この身にイエスの焼き印を帯びている」と記しました。焼き印とは、真っ赤に焼けた所有者の印を家畜に押すことです。絶対に消えないのです。それは、パウロが受けた迫害の傷のことかもしれません。イエス様も、十字架の上でその身に傷を受けられました。キリストの十字架の救い、これこそ信仰の「物差し」、つまりカノンであり「基準」です。十字架のみの救いを信じて、強く生きましょう。

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4月26日礼拝「御霊に蒔く人」

ガラテヤ書(NO16)「御霊に蒔く人」6章6~10節

仁井田義政 牧師

 教会には牧師がおりクリスチャン達がおります。そうして男性を兄弟と呼び、女性を姉妹と呼びます。「教会に来ている人はみな家族です」と言う意味で、兄弟姉妹を使っているのです。私は初めて教会に行った時「教会には兄弟や姉妹で来ている人が多い」と勘違いしました。さあ、今日は「信仰の家族」についての御言です。

★教会は、牧師と信徒によって構成されています。牧師の起源は、旧約時代に神殿で従事していたレビ人に見ることが出来るでしょう。彼らは、土地を耕したり羊を飼ったりせず、神様にお仕えする奉仕に専心していたのです。その宮を支える為に献金をするようにされたのです。それを受けて「御言を教えられる人は、教える人と良いものを分け合いなさい」(6節)と記されているのです。それは献金のことです。牧師はその献金の中から生活の為の費用を得て、専心御言に仕える働きをするのです。

★6章8節には「自分の肉の為に蒔く者は、肉から滅びを刈り取ります」と記されています。「自分の肉の為に蒔く者」とは、自分の生活の為に全ての収入を使ってしまい、何とも思わない人のことです。そのような人は自分の欲望を優先させて生きるので、人生のどこかで誘惑に負けてしまいます。その結果は、信仰からも遠ざかり、兄弟姉妹としての教会の交わりからも遠ざかり、結果的に滅びを刈り取ることになるのです。

★「御霊の為に蒔く者」とは、教会の使命を知っている人のことです。教会は「福音の宣教」と言う霊の使命を持っています。教会に献金を献げるのは、御霊に献げることなのです。聖書は「思い違いをしてはいけません。・・自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(7~8節)と記しています。

★また「善を行なうのに飽いてはいけません」とも記されています。善は全ての人に対してすべきです。しかし「特に信仰の家族に対して行ないましょう」と聖書は勧めています。私達は神様の家族です。家族である私達が愛し合うことなくして宣教も成り立ちません。御霊は宣教の御霊です。忠実に献金を捧げることによって、しっかりと「御霊に蒔く人」になりましょう。

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4月19日礼拝「御霊の人の証拠」

ガラテヤ書(NO15)「御霊の人の証拠」6章1~5節

仁井田義政 牧師

先週は復活祭でした。イエス様が復活の日や次の日曜日に弟子達に会われたこと、そしてトマスとの再会を見ても、弟子達に対するイエス様の愛は驚くばかりです。

★今日の聖書にあるように、ガラテヤ地方のクリスチャン達を「御霊の人」と呼びました。私達が「御霊の人」と呼ばれることがあったならば、「違います」と言いたくなるのではないでしょうか。パウロはこの手紙で、教会のクリスチャン達を本来あるべき姿に戻そうとしているのです。

★御霊の人とは、どのような人のことでしょうか。御霊の人と言うと、何か他の人とは明らかに違う人、預言をしたりする人、と勘違いしている人が大勢います。むしろ5章22節のクリスチャンの品性に関わる意味での「御霊の人」なのです。6章1節の「柔和」と5章23節の「柔和」は結びついています。つまり「御霊の人」とは、柔和さを備えた人と言うことなのです。

★パウロは、「御霊の人」はその柔和な心で過ちに陥った人を正してあげなさいと言っています。「過ちに陥った」とは、誘惑に負けた人のことです。私達は、誘惑に負け信仰を踏み外した人に対して案外きびしいものです。パウロは、「自分自身も誘惑に陥らないように」とも勧めています。

★パウロは、「互いに重荷を負い合い、キリストの律法を全うしなさい。」(2節)と言いました。キリストの律法とは、どんなことでしょうか。キリストの律法は、「私が・・愛したように」(ヨハネ15:12~13)と教えています。重荷を負わせるのとは違います。重荷を負い合うのです。悩み、困っている人の為に犠牲を払うのです。5節には「人には、それぞれに負うべき重荷がある」と言っています。

★2節の重荷は、「バロス」。5節は「フォールティオン」です。2節は他人の重荷であり、5節は人それぞれの重荷のこと、つまり使命なのです。ですから「御霊の人」とは、人の落ち度に対して強く自分の正しさを建てて攻撃することなく、その人が道を外して車輪が溝に落ちていたら、むしろ柔和に無償で助けてあげる人であり、それを神様からの使命として行なえる人のことなのです。私達も「御霊の人」として、柔和な心を持ちましょう。

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