(8月30日礼拝メッセージ)「金の家とわらの家」

(第一コリントNO9)「金の家とわらの家」第一コリント3章10~15節 仁井田義政 牧師

 パウロは、コリントの町に約1年半滞在し(使徒18:11)、コリント教会の土台を据えました。コリントの町には、ギリシャ神話の「愛と美の神」「豊穣の神」のアフロディテという女神が祭られていました。そこには神殿公認の聖娼が千人いたと言われています。ですから当時言われていた「コリント風に生きる」とは、不道徳に生きることを意味する程だったのです。

★パウロは「私は賢い建築家のように土台を据えた」と言っています。しかしそれは自惚れや傲慢ではありません。それは「与えられた神の恵みによって」と記されていることを見ても明らかです。決してパウロは、自分に力があるとは思っていませんでした。アテネでの伝道の失敗ゆえに、コリントに行った時は「弱く恐れおののいていた」(2:3)のです。パウロの据えた土台は、キリストそのものだったのです。

★他の人がその土台の上に教会という家を建てています。アポロかペテロか他の牧師か、それとも信徒達か、コリントの教会の全ての人でしょう。土台はキリストという堅固なものでも、その上にどのような家を建てるかが次に大切になってきます。教会と言う共同体も、クリスチャン個人の人生も、どのような材料で建てるかが大切なのです。

★パウロは「建てた建物が 火によって試される時が来る」と言っています。 「火によって」とは、キリストの再臨の時か、個人にあてはめれば死の時でしょう。その時に金、銀、宝石で建てた家は残り、木、草、わらで建てた家は土台を残して跡形もなく燃えて無くなってしまうと言うのです。金、銀、宝石は、御言葉に従って建てた家と考えられるでしょう。木、草、わらは、自分勝手な好みで建てた家であると考えられます。教会も、個人の人生も、必ずやがて神様の裁きによって試されるのです。

★木、草、わらで建てられた家は、どんなに表面上は立派に造っても、火の裁きには耐えられません。建て上げる材料に気をつけなければなりません。私達は金、銀、宝石である神の真理の御言をもって、教会も人生もしっかりと建て上げようではありませんか。

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(8月23日礼拝メッセージ)「教会の一番大切なもの」

(第一コリントNO8)「教会の一番大切なもの」第一コリント3章1~9節 仁井田義政 牧師

 パウロは2章で「聖霊によらなければ、神様の真理は誰にもわからない」と言いました。そして今日の3章ですが、コリント教会の人々にはかなり厳しい内容が記されています。コリント教会のクリスチャン達は、御霊によって生きている人々ではなく「肉に属している人々だ」と言うのです。これは私達今日のクリスチャンも気をつけなければならないことです。

★コリントの町全体が道徳的に腐敗していました。教会の中にもその影響が入ってきていたのです。パウロは既に最初の手紙を送っていました。しかし、コリント教会の信徒達に無視されたのです。赤ちゃんが堅いものを食べることが出来ずに吐き出してしまうように、受け入れなかったのです。

★パウロが第一の手紙を書いている時も、まだコリントの教会は赤ちゃんのままで成長していない状態でした。パウロはこの手紙で「まだ無理なのです」と書いています。その原因は「肉に属して」いるゆえであると、パウロは判断しました。御霊に属していないのです。それは「私はパウロにつく、私はアポロにつく」と言っているところから明らかです。

★霊的に成長した信徒は、そのようには言いません。「パウロは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださるのは神なのだ」ということが大切なのです。信仰の命は神様だけが創造して下さったものであり、パウロもアポロもペテロも「植えて水を注いだ人にすぎない」のです。

★コリント教会の人々は、パウロやアポロと言う指導者に過度の依存を示していました。それはコリントの町にあった文化をそのまま教会に持ち込んだものでした。当時のコリントの人々は、どの哲学者を信頼するかが大切なことであり、その人の学派に名を連ねることが重要と思われていたのです。教会にもその社会的な習慣が「私はペテロに。私はアポロに。私はパウロに」と言う形で入ってきたのです。指導者を絶対的に支持する姿は、何か美しくも素晴らしくも見えるところがあります。しかし教会で一番大切なのは神様です。神様の栄光を薄めてしまう程に、パウロにアポロにペテロにと間違った意味での尊敬を注いではならないのです。

私達の教会は、神様を第一とし、神様を賛美し、神様にお仕えする霊的な教会になりましょう。

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8月16日礼拝メッセージ「私達にはキリストの心がある」

(第一コリントNO7)「私達にはキリストの心がある」第一コリント2章6~16 仁井田義政 牧師

 パウロはコリントの町では、純粋にイエス様の十字架の救いを話しました。それは哲学好きのコリント人には愚かな人のように見えたかもしれません。しかし今日の聖書箇所では、パウロは今までの話をひっくり返すように、「しかし、私達は成人の間では知恵を語る」と記しました。今まで「知識や知恵の言葉を用いない」と繰り返して来たパウロの主張がひっくり返ってしまったかのように感じる人も多いでしょう。しかしこの知恵も、人間の哲学などの知恵ではなく、「神の知恵」のことなのです。

★この世の知恵では、神様の御心の大きさ、広さ、高さ、深さを誰も知ることが出来ません。神様は、アルファーでありオメガなのです。永遠から永遠を誰が知ることが出来るでしょうか。「神の知恵」は、普通の人には隠されている奥義なのです。それは、人間が発想も何も出来ないことなのです。

★その神様の深遠な奥義は、御霊によってのみ啓示されます。神様の奥義は、聖霊が私達に働かれることによって初めて理解できるのです。そのために生まれながらの人間は、神に属する真理を受け入れることが出来ません。それが愚かに見えるからです。生まれながらの人間の知恵には限界があり、神様の知恵まで到達できないのです。まさにこの世の知恵の限界です。

★ですから御霊の働きを受けている者は、神様を信じていない者には謎多き存在となるのです。それは「キリストの心がその人の内にある」からです。偉大な「キリストの心が私達の内にある」のです。聖霊によって神様の御心を知ることが出来るからです。 

★神様の奥義を知る唯一の方法は、謙遜になって聖霊を敬いつつ御言を聞くことです。そうする時、この世のどんな知者よりも、高く深く広く神様の真理を知ることが出来るのです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの、神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(2:9)と記されています。謙遜になって聖霊の力を受け、御言を聞き神様の知恵に導いていただきましょう。そうして今日の聖書のように「私達には、キリストの心があるのです」と言える人になりましょう。

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8月16日礼拝「キリストの十字架だけを」

(第一コリントNO6)「キリストの十字架だけを」第一コリント2章1~5節 仁井田義政 牧師

パウロはコリント教会の創立者でした。パウロは、初めてコリントの町に伝道した時のことを思い出しつつ2章を記しました。パウロは、神様がどのような話を望まれるかをしっかりと守って、注意深く伝道しました。

★パウロは「コリント伝道は優れた(哲学的な)言葉を用いなかった」ことを記しました。パウロはかつて、コリントに来る直前のアテネの町では、エピクロス哲学やストア哲学の人達と哲学を戦わせました。しかしアテネの人々に合わせた哲学的説教では、人々は神を信じることが出来なかったのです。パウロは、失意の中でコリントの町にやって来たと思われます。そしてアクラとプリスキラ夫婦のもとで「天幕づくり」のアルバイトしながら、教会を開拓したのです。

★パウロがコリント伝道で徹底したことは、「哲学な」言葉を使わないことでした。神様が望んでおられる「宣教のことばの愚かさ」による伝道を続けたのです。それは私達の為に「十字架に付けられたイエスキリストの他は何も知らない」人のように伝道したのです。

★ パウロは人に馬鹿にされようが、あざけられようがイエス様の十字架による救いを伝え続けたのです。哲学のもてはやされる学問の地で、パウロは愚か者のように「イエス様の十字架を信じれば救われる」と伝えました。それこそ、聖霊とその御力に委ねた伝道でした。その目的は「それは、あなたがたの信仰が人間の知恵に支えられず、神の力に支えられるためでした。」と記されている通りです。 

★神様は「宣教のことばの愚かさ」による伝道を望んでおられます。教会は神様の望んでおられる伝道をしなければなりません。人間の知恵や哲学で人々の関心を集めても、別の人が新しい知恵や哲学を持ってくれば、また人々はその人の教えに関心を向けるのです。しかし十字架のことばは、人の目にはたとえ愚かに見えても、ひとたび神の真理に目が開かれれば、太陽の前には月や星の光が消え去ってしまうように、人間の知恵や哲学は消え去るのです。永遠の真理であり、私達を罪から救うイエス様の十字架を心から信じていきましょう。そして私達はパウロのように、十字架の真理を伝えていきましょう。

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8月2日礼拝メッセージ「しかしという逆転の真理」

(第一コリントNO5)「しかしという逆転の真理」第一コリント1章26~31節 仁井田義政 牧師

私達個人の人生において、マイナスなことを数え挙げたらきりがありません。そのマイナス要因を、一瞬にして振り落としてしまう方法はないものでしょうか。今日の御言葉には、その方法が記されています。それは、イエス様が私達にもたらしてくださる「しかしと言う逆転の真理」なのです。

★この時、コリントの教会の信徒達が陥っているのは、どの派閥に所属し賢くなるかという問題でした。パウロはその人達に「召し」の時を考えてみなさいいと言っています。「あなたがたは賢かったから召されたのですか。そうではありません。この世の知者も、権力者も、身分の高い者も多くはなかった。神の召しはそのような基準によらないからです」と。さらには「それは、この世の知者を辱めるためです。」と記しました。神様は傲慢な知者や権力者を辱めるために、愚かな者、弱い者を選ばれたのです。そのように、コリントの教会は多くの無きに等しい人々が召されたのです。それは、神様の前で誰一人として誇らせないためです。

★自分のことでは何一つ誇ることが出来ないのがクリスチャンです。しかしそのクリスチャンが誇って良いものがひとつだけあります。それは「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにある」ということです。キリストのうちに入れられている事実を誇りなさいというのです。まさしく「誇る者は主を誇れ」です。 

★私達の人生は、マイナスなことを数え挙げたらきりありません。生まれながらに持って生まれたマイナスや、この世の選抜や選択によって着けられたマイナスな点なども多くあります。しかしイエス様はそのような私達を選んで下さったのです。そして、私達をご自身との交わりに入れて下さったイエス様には、神の知恵、義と清め、贖いが満ちているのです。ですから私達に立ち上がれない程のマイナスなことがあったとしても、「しかし」という言う神様の御言葉によって、大逆転が起こるのです。イエス様のうちに入れられた私達にとって、これからは神の知恵が私達の知恵となり、義となり、清めとなり、贖いが満ちあふれるのです。ですから、あなたにどんなマイナスに思える点が多くあっても、「しかし」という御言葉によってあなたの人生が逆転し、神の知恵に導かれた人生が始まることを信じましょう。

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(7月26日礼拝)「智者と学者と十字架」

(第一コリントNO4)「智者と学者と十字架」第一コリント1章18~25節 仁井田義政 牧師  

 パウロは「どの指導者が偉大な指導者なのか」という論争にとらわれてしまっているコリントの教会にこの手紙を書いています。彼らの多くは哲学と弁舌の優れた人を偉大な教師として求めるギリシャ人なのです。パウロはその事を教会の危機として察知しました。そして猛然とキリストの十字架について、その大切さを記しました。それは現代の教会にも必要なことです。

★イエス様の十字架は、単なる歴史的事実ではありません。パウロは十字架には神の言があると言いました。十字架が神の啓示でなければ、単なる愚かな事件になってしまいます。事実、十字架の意味が分からない人達には「愚かに見える」のです。智者と自称する者達は躓いたのです。

★パウロは「滅びに至る人には十字架は愚かに見える」と記しています。十字架は極悪人が処刑される死刑台です。そしてイエス様はその十字架で殺されたのです。その十字架に何か力がある等と信じるのは、愚かなことです。その愚かに見えるイエス様の十字架こそ、神の救いの言(啓示)であると言うのです。その言を聞いて信じることが、救われているしるしなのだとパウロは記しました。それは神様の知恵にかなっています。神様の知恵は人間の知恵をはるかに越えているので、人間には愚かに見えるのです。

★パウロは「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を求める。」と記しました。つまりキリストの十字架は、両方に理解されにくいのです。ユダヤ人は、事実かどうかどうでも良いのです。イエス様が神の子であるなら「十字架から降りて来い」と叫び、しるしを求めました。ギリシャ人は論理的で議論に耐えうるものを求めます。そのように十字架の言は、その両方に愚かに見えるのです。

★しかし愚かに見えても私達は十字架に着けられたキリストを述べ伝えるとパウロは言います。どんなに十字架が愚かに見えても、愚直なまでに十字架の真理を述べ伝えると言うのです。現代の教会も「十字架の愚かさ」を捨ててはいけません。人は謙遜になって、キリストの十字架の言を信じなければ救われないのです。「十字架の言は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私達には神の力」なのです。実直にキリストの十字架を伝え続ける溝の口教会を、私達はこの上もない誇りとしようではありませんか。

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7月19日礼拝メッセージ「十字架の真理のみ」

(第一コリントNO3)「十字架の真理のみ」第一コリント1章10~17節 仁井田義政 牧師

 パウロはいよいよこの手紙の本題に入っていきます。それは今までにも何度も話していますように、コリント教会分裂の危険でした。コリントはギリシャ哲学の盛んな所でもあったので、ギリシャ人のクリスチャン達も知識欲に満ちていました。パウロはそのことで仲間割れしないようにと勧めました。

★パウロは「兄弟達」(39回)と穏やかに本論を伝え始めました。しかもお願いしているのです。この願いは、パウロ自身の考えではなく、イエス様の全存在がかかっている願いであることを「イエス・キリストの御名によってお願いします」と表わしました。

★パウロはクロエ家からの情報で、コリント教会に仲間割れの危険がある事実を知りました。その争いは「私達は創立者のパウロ先生につく」「私達はパウロ先生の後に来た雄弁家のアポロ先生につく」「私達はイエス様の直弟子のケパ先生につく」「私達はキリスト党になる」等と言って分裂の危機になっていたのです。パウロはコリント教会の創立者でしたが、自分にコリントのクリスチャンを結びつけたことはなかったのです。

★パウロは「教会に分裂を起こすほどに、誰につくかが大切なのでしょうか。それならばイエス様の十字架が無駄になってしまう」と言うのです。なぜそのように、十字架が空しくなってしまうようなことになったのでしょうか。ギリシャ人特有の哲学的言葉を重んじ、それを求めたからです。分裂が起こりそうになっているのは、まさに指導者の言葉に重きを置き過ぎて、最も大切な十字架の真理を忘れたからなのです。

★パウロの挙げた3人は、初代教会において重要な人々でした。ケパと記されているペテロも、パウロよりもはるかに早く指導者となった人です。アポロは雄弁家でした。パウロは行動家でした。3回も伝道旅行をし、ヨーロッパにまで多くの教会を設立しました。大切なのは、キリストを伝えた指導者ではありません。教会にとって最も大切なのは、私達の罪の為に十字架について下さったキリスト御自身なのです。分裂や争いは、キリストの十字架を空しいものとしてしまうのです。ですから教会は、十字架の真理のみを最も価値あるものとし、いつもイエス様の十字架のもとに、ひとつとなって前進しましょう。

 

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(7月12日礼拝)「神様の恵みに感謝する」

(第一コリントNO2)「神様の恵みに感謝する」第一コリント1章4~9節

                         仁井田義政 牧師

 パウロは挨拶の後4~9節に、コリントのクリスチャン達のことを感謝しています。しかしコリントのクリスチャン達の今の信仰は、決して褒められるような状況にはありませんでした。分裂問題で右往左往している状態なのです。しかし事実パウロは、ここでためらうことなく感謝しているのです。なぜパウロは感謝したのでしょうか。それが今日の御言葉の意味を開く鍵なのです。

★パウロは、決してコリントのクリスチャン達に感謝しているのではありません。パウロは神様に感謝しているのです。まさに「神の恵みのゆえに」です。それは不完全なコリントのクリスチャンと知りつつも、それを捨てたまわない「神の恵み」に感謝するのです。それは、キリスト・イエスによって、コリントの信徒達に与えられた神の恵みなのです。

★パウロは「コリント人は豊かである」とも言っています。これは経済的なことだけではありません。知識、知恵、等々に豊かなのです。しかし、それを自分から出たこととして誇ってはなりません。コリントのクリスチャンはそこを間違っていたのです。キリストにあって豊かな者とされたのです。この処を無視すると、あらゆる富はあらゆる堕落の始まりとなるのです。

★パウロは混乱しているコリント教会の現状を知りつつ、神様の召しに目を向け感謝しました。分裂寸前のコリントの教会、しかしその教会も神様が召して下さった教会であると感謝しているのです。神様は真実ですから、キリストが再臨されるまで、必ずコリントの教会を守って下さるとの感謝でした。 

★実はパウロはコリントの教会に第一の手紙の前に、もう一通の手紙を送っています。それは5章9節「前に送った手紙」と記されている通りです。しかしコリントのクリスチャン達は、その手紙に従わなかったと思われます。そのようなパウロの教えに従わない人達がいるコリントの教会に、この手紙は送られました。パウロは徹頭徹尾、コリントの信徒達に感謝しているのではありません。「恵み」と「召し」によって、キリストとの交わりに入れられ、再臨の時までに責められるところのない者として下さる神様に感謝しているのです。

★私達も状況はどうであろうと、「恵み」と「召し」によって信仰を整えて下さる神様の確かさに心から感謝しましょう。

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6月28日礼拝 「強い教会を目指して」

(第一コリントNO1)「強い教会を目指して」第一コリント1章1~3節  仁井田義政 牧師

 今日から「コリント人への手紙」からのメッセージになります。この手紙は、使徒パウロが紀元56年頃に書き送りました。この手紙を書くに至った動機は、コリントの教会に分裂騒ぎが起こったからです。1章10~13節に、その悪い知らせを「クロエの家の者から聞いた」と記されています。そこでパウロは、本当の教会はどのようにあるべきか、本当のクリスチャンはどのようにあるべきかの教えをコリントの教会に送ったのです。

★パウロは、挨拶文も手紙の本題に関わる大切な真理を込めて書きました。パウロは自分を紹介するにあたって、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロ」と記しました。自分は神に選ばれて使徒となったということを記しているのです。それは、パウロの使徒性を疑問視する人がいたからです。その後に出てくる「ソステネ」は、使徒ではなく兄弟と記されています。神を父なる神とし、その他は平等な兄弟姉妹なのです。この時代の一般社会には階級性が強くありました。自由人から奴隷まで階級があったのです。しかし教会は、全ての差別を撤廃し兄弟と呼んだのです。

★パウロは宛先を「コリントにある神の教会へ」と記しました。大きな教会も、二人しかいない小さな教会も、等しく「神の所有の教会」なのです。私達の教会も世界の至る所にあります。アフリカ諸国にもアジアの諸国にも西洋諸国にもあります。ネパール地震の時にも、私達の教会も僅かばかりですが、ネパールのアッセンブリー教会へお見舞金を送りました。コリントの教会も、世界の教会の聖徒達と共に「キリストの御名を呼ぶ」キリストの教会なのです。

★「父なる神と、主イエス・キリストから 恵みと平安がありますように」と、挨拶文の終わりの祈りが記されています。祝祷と言っても良いでしょう。この手紙によって「恵み」と「平安」がコリントの教会にあるようにとの祈りなのです。コリントの教会には、「私はパウロにつく。私はアポロにつく。私はケパにつく。私はキリストにつく」などと言って分裂を起こすような人がいました。パウロは、分裂ではなく一致団結するようにと勧めています。

★教会は一致団結する時、最強の力を発揮するからです。私達の教会も、父なる神様の前にある兄弟姉妹として、お互いに認め合い、尊敬し合って力強い教会となりましょう。

 

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6月21日礼拝「あらゆる国の人々を弟子とせよ」マタイ最終回

(マタイNO135)「あらゆる国の人々を弟子とせよ」マタイ28章11~20節 仁井田義政 牧師

今日の箇所は、マタイの福音書の終わりのところです。しかしキリストの教会にとっては決して終わりのところではなく、むしろ力に満ちた世界宣教開始のところなのです。

★ローマの兵士達は、イエス様の体が墓の中にあるのを確認し、三交代の見張りを立てました。しかしそのような蟻の子一匹も通さない厳重な警備の中で、この事件は起こりました。イエス様が復活されたのです。もはやその任命を受けた兵士達の責任問題でした。しかしイスラエルの指導者は、嘘と金で情報操作をし、弟子達がイエスの体を盗んだと言うように、兵士達にお金を与えたのです。しかしイエス様は復活され、その体を弟子達に現されました。

★さらに復活のイエス様は、弟子達にガリラヤに移動するように命じられました。彼らの多くは、ガリラヤ湖の漁師でした。ガリラヤは、彼らがイエス様と最初にお会いした所なのです。弟子達は、イエス様が言われた山に登りました。山に登るとは、モーセがシナイ山で神様から十戒を受けたように、神様からの重大な啓示がある場所の設定でした。そこでイエス様は弟子達に「あらゆる国の人々を弟子とし、洗礼を授けなさい。」と命令されたのです。

★イエス様は、弟子達に世界宣教を命じられただけではありませんでした。「 世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」との最大の約束をされたのです。多くの宗教家は「私の亡き後は、教えを守れ」としか言えないでしょう。しかしイエス様は「いつもあなたがたと共にいます」と約束されたのです。その約束のように、イエス様はいつも私達と共にいてくださるのです。その印として与えられたのが、聖霊のバプテスマなのです。「あなたがたを捨てて孤児とはしません」(ヨハネ14章18節)と言われたとおりです。

★イエス様がベツレヘムに生まれてから33年半。イエス様と弟子達の出会いは、僅かに3年半です。そして弟子達への世界宣教命令を最後に、イエス様の地上での活動はここに終わるのです。しかしそれはまた出発でした。イエス様の地上の生涯中の活動は、イスラエルと近隣国への数回の活動にすぎませんでした。しかし「私には一切の権威が与えられているゆえ、あなたがたは行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのです」との声を弟子達は聞いたのです。私達もイエス様の約束を信じ、勇気を持って宣教命令を実践しましよう。

 

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