11月8日礼拝「あなたがたは洗われた」

(第一コリントNO17)あなたがたは洗われた」第一コリント6章1~11節 仁井田義政 牧師

パウロのこの手紙はコリントと言う巨大な文化圏へのチャレンジでした。そうすることによって、教会の進むべき道を鮮明に現わしました。

★ギリシャ人達は、議論好きであると共に訴訟好きでした。何でも裁判を起こして白黒を付けなければ気が済まないのです。些細な事でも、教会員同士で一般的な裁判所に訴え合う始末でした。パウロは「教会員同士の問題は、教会内で解決せよ」と手紙に記しました。しかしパウロは全ての裁判が必要ないと言っているのではありません。使徒の働きの中で「皇帝に上訴」し、ローマでの裁判を求めています。

★パウロは「小さな事で直ぐに兄弟を訴えたりしないで、忍耐しなさい。それはやられたらやり返すのではなく、出来る限り忍耐し、少しばかりの損であれば甘んじて受け入れなさい」と教えています。教会の中では問題を縮小しなければならないのに、困ったことに積極的に不正を行ない、教会仲間から騙し取り、裁判になることまで起きていたのです。

★それだけではありません。堕落したコリント文化が、教会の中にまで入ってきていました。町の女神アフロディテ神殿がもたらした欲望むき出しの堕落でした。その中に神殿娼婦だけではなく神殿男娼もおり、泥酔してそれらに浸っていたのです。

★キリスト教会は、パウロによって堕落の巣窟のようなコリントの町に誕生しました。ある者たちは、そのような堕落した文化に染まった生き方をしていました。そのような中で福音に触れ、クリスチャンになりました。「キリストと神と御霊の洗い」つまり洗礼によって、それまでの罪汚れが清められたのです。しかし元の汚れた習慣に戻ってしまう者や、その文化を持ったままクリスチャンになる者が出てきていたのです。 

★そのような堕落しきった社会の中に、教会の清い文化が植え付けられたのです。しかし汚れによって教会は「敗北」(7節)寸前となっていました。そこでパウロは「洗礼を受けた時の清い生活に帰りなさい」と強く勧めているのです。私達も、周りがみんなそうしているからと安易に妥協していないでしょうか。洗礼によって清くされた生活を続けようではありませんか。

 

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11月1日礼拝メッセージ「教会とクリスチャンの品格」

(第一コリントNO16)教会とクリスチャンの品格」第一コリント5913 仁井田義政 牧師

 先週お話ししましたように、コリント教会は不品行問題で、教会の品格が地に落ちる寸前の状態になっていました。キリスト教会と言う名がついていても、キリストの品格を失ってしまうならば、キリスト教会ではなくなってしまうのです。

★コリント教会の人々には、パウロの前の手紙に対する誤解がありました。 それは前の手紙で「不品行な者と交際しないように」と書いた文に対してでした。それを「教会外の全ての人と交際してはならない」との内容と誤解したのです。しかしそれは「兄弟と呼ばれる者で、世の中の人と同じことをしている人とは交わりをしてはいけない」との教えでした。

★パウロは、コリント教会に入り込んでいた悪の項目を記しています。その一番ひどいのは不品行「ポルネイア」でした。そして貪欲・偶像礼拝とさらに続けて記しています。教会は愛が大切だからと言って、そのような人達をクリスチャンと認め食卓を共にすれば、皆がそれで良いのだと思うでしょうし、救われたばかりの初心者達もそう思ってしまうでしょう。

★教会もクリスチャンも品格を大切にして、キリストの高さにまで高めなければなりません。先週お話しました5章8節の「古いパン種の入らない、純粋で真実な祭り(礼拝)をしようではありませんか」に続いているのです。しかしコリント教会では「不品行な人がいても、教会から取り除こうとも、悲しむこともしなかった」(5:2)のです。「悪い人達をあなたがたの中から除きなさい」とパウロは勧告しています。それは厳しい処置の除名なのです。

★キリストの教会は、キリストの品格を失ってはなりません。腐ったミカンは取り除かないと、箱全体のミカンを腐らせるのです。アッセンブリー教団は、数年前に教職倫理規定を作りました。それに違反した場合、牧師は処分を受ける事になるのです。

★教会やクリスチャンの品格を落す肉的なものは、ガラテヤ書5章19節~21節で明らかにされています。その反対にクリスチャンの品格を高めるものは、ガラテヤ書5章22節~23節で記されています。世の中の皆が行なっていることだからと言って、妥協的な生き方をしてはなりません。私達は、イエス様の品格の高さを求めて生きていきましょう。

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10月18日礼拝「古いパン種を除きなさい」

(第一コリントNO15)古いパン種を除きなさい第一コリント5章1~8節 仁井田義政 牧師

コリントの教会に起こっていた問題は4章までの分裂問題だけではなく、道徳問題もありました。コリントの退廃した性道徳の悪習に飲み込まれようとしていたのです。5章において、パウロは強い憤りをもってキリスト教道徳の堅持を指示しました。

★パウロは「あなたがたの間に不品行がある。」と記しました。教会外の道徳を言っているのではなく、「あなたがたの中に」つまり教会の中にあると言うのです。不品行と訳されたギリシャ語は「ポルネイヤー」で、それは「ポルノ」の語源となりました。その最悪は「父の妻を妻にしている者がいる」と言うのです。それは義理の母のことだと思われます。当時のローマ文化にさえ無い程の堕落でした。それがコリントの町の性的堕落だったのです。

★コリント教会は、そのような堕落者を問題にせずにクリスチャンとして認めていたのです。その問題を取り除こうともせず認めてしまっていたのです。パウロは今、コリントから海を隔てた遠くのエペソの町にいますが、その堕落した者を「すでに裁いている」「サタンに引き渡した」と記しました。それは教会からの除名を現わしています。それも彼が罪に気がつき「主の日に救われるためである。」と言うのです。除名されなければ「そのままで良いのだ」と思ってしまい、悔い改めの機会を失ってしまうからです。除名さえも愛から出たものでした。

★さらにパウロは「古いパン種を、取り除きなさい」と記しました。 過越の祭の後は徐酵祭が続きます。その祭では一切の酵母を家から取り除いて、酵母の無いパンから新しい一年を始めるのがイスラエルの習慣でした。過越の祭の子羊であるイエス様は既に屠られたのです。その後の除酵祭の時のように、堕落した文化の影響を受けない純粋で真実なパンで祭をしようではないかと、パウロは言っているのです。それは教会の礼拝のことです。

★コリント教会は、その汚れた性的文化「ポルネイヤー」に染まってしまう危険がありました。気をつけないと、知らずしらずに教会までもポルネイヤーに染まってしまうのです。古い悪いパン種を徹底して排除しなければなりません。まずは自分自身の中から汚れたパン種を取り除き、純粋で真実な真のクリスチャンとなりましょう。

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10月18日礼拝「愛すればこそ」

(第一コリントNO14)「愛すればこそ」第一コリント4章14~21節 仁井田義政 牧師

パウロは4章に入ってから、コリント教会の人々を厳しい言葉で叱責してきました。しかしパウロは「私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子供として諭すためです」と書きました。

★そしてパウロは続けて「それは、信仰による自分の子供に対する愛と責任なのです。」と言っています。当時、自由人の子供は奴隷の養育係に世話されて育ちました。しかしパウロは「どんなに養育係が多くても、父親と養育係では全く違います。子供を諭すのは父親です。」と自分の責任を記しています。

★パウロはコリント教会の混乱を捨て置くことをせず、弟子のテモテを派遣しました。そしてパウロが以前、信徒達に教えていた「キリスト・イエスにある私の生き方」を思い起こさせました。コリント教会には、その教えを踏み外してしまう危険が迫っていたのです。

★コリント教会の特色は議論好きでした。一般的には、話を多くすれば理解が進むと考えられがちです。しかし教会においてそれだけでは駄目で、絶対に必要なのは祈りなのです。コリント教会では、話し合いをすればするほど分裂が始まり、倫理や道徳においても世の中と同じ価値観になってしまいました。そして教会は求心力を失い、分裂の危機に直面してしまったのです。「神の国はことばにはなく力にあるのです」とパウロは言います。

★現代はまさに忠告の難しい時代であると言われています。会社などでも新入社員に注意などしようものなら、反対に「それはパワハラになります。訴えますよ」と逆切れされる始末だといいます。クリスチャンの皆さん、現代はそういう時代なのです。皆さんが、牧師から何事かで忠告されるような時、牧師は皆さんをはずかしめるためにするのではなく、皆さんを「愛すればこそ」するのです。そのことを理解し、成長したクリスチャンになりましょう。

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10月11日礼拝「使徒の苦難の道」

第一コリントNO13「使徒の苦難の道」第一コリント4章9~13節 仁井田義政 牧師

使徒達の伝道生涯を見る時に、その生涯の凄まじさに驚かされます。そこには、文字通り命をかけてキリストを伝えた使徒達の歴史があります。また日本の伝道の歴史においてもそうです。第二次世界大戦前に来られた宣教師の中には、戦争が始まっても本国に帰らず、敵国人として差別と迫害の中で伝道した方々もいるのです。八王子基督教会は、1923年関東大震災の年にアメリカから来られたジェシーウエングラー宣教師によって宣教が開始されました。その苦労は大変なものであったと思います。

★パウロを初め使徒達は、この手紙を書いている時代も迫害の真っ只中にありつつ伝道していました。ギリシャの円形競技場の最後の出し物が、死刑囚と猛獣の戦いのように、使徒達も見世物の如くに迫害されたのです。しかしそのような状況の中でも、使徒達はいやいやながら従っているのではありませんでした。神様がそうされたのだと従ったのです。「だから私達はキリストによって愚か者のように扱われることをよしとした」と言うのです。「しかし、あなたがたはキリストによって賢い者になった」とコリントの教会員を皮肉りました。それは、「キリストの使徒さえ選択する」と言って、使徒達を格付けするような傲慢さを揶揄しているのです。「あなたがたは栄誉を持っているが、私達は卑しめられています。」と非難しました。

★ 困難を極めて、キリストを伝える生活をしてきた使徒達は「罵られる時にも慰めの言葉をかけ」るのです。それはイザヤ書53章のイエス様の姿です。コリントの教会も、そのような使徒達の苦労と涙と犠牲の上に誕生したのです。しかしそのことを知らずに、使徒達のある者を素晴らしい人とし、ある者を素晴らしくないという。それは使徒達を判断する立場に自分達を置いて、使徒達を選別する偉い人になってしまっているのだとパウロは激しく非難しています。そうしながらパウロは「キリストに従うとは自己実現ではなく、自己犠牲の使徒的生き方なのだ」と教えています。クリスチャンの本当の生き方は、キリストのためにまた人々のために生きる自己犠牲の道です。イエス様は、「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。」(マタイ5:11)と言われました。私達も、イエス様のために人々のために喜んで犠牲を払った使徒達の道を歩きましょう。

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10月4日礼拝メッセージ「心を尽くして」

礼拝メッセージ「心を尽くして」箴言3章1~6節 楠 亜紀子師

 今日は箴言を学びたいと思います。箴言とは「格言」とか「ことわざ」と言う意味で、ソロモン王を中心として祭司や学者が平安で幸せな人生を送るにはどのようにしたらよいか…と言うことを教えている知恵を主題とした書です。

★3節に“恵みとまことを捨ててはならない”とありますが、恵みとまこととは神様のご愛と神様の真実のことです。私たちが人生を平安で幸せに生きるためには、神様がいつも私たちと共にいて下さり、私たちをどれほど深く愛して下さっているかという神様のご愛をしっかり心に留めることです。そうするならば私たちは苦しい時や辛い時、どのような時にも神様を信頼して平安を得ることができます。

★“心を尽くして…”の「心」とは「気持ち」というようなその時々で揺れ動くような心の状態ではなく、“決断して”や“知性をもって”等の意志の働きと強く関わりをもってという意味での「心」のことです。

“主に拠り頼め”とは主に明け渡すこと、おゆだねすることです。私たちは自分の力で物事を何とかしようとするのはなく、力を抜いて心を尽くして全てを主にお委ねしましょう。私たちは自分の頭で色々考え悩んでしまうことがあります。けれども私たちの考えは視野が狭かったり間違ったりします。私たちが最善だと思うことでも、本当はそうではないこともあるでしょう。しかし神様は私たちよりもはるかに高いところにお考えを持っておられ、私たちが考えるよりも、もっと最善を備えて下さっています。

★6節に「あなたの行く所どこにおいても主を認めよ。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる。」とあります。“主を認めよ”とは主を知りなさいということです。しかしそれは単に主をよく知るということにとどまるのではなく、主といつも深いお交わり持ちなさいということです。

私たちは聖書を読み、また祈ることによって主と深くお交わりをすることができます。私たちの心がいつも主を想い、いつも深いお交わりを持つなら、主は私たちの人生の歩みを守って下さいます。

私たちは神様のご愛をしっかり心に刻み、自分の悟りに頼らず、どのような時にも主に拠り頼み、主と深いお交わりを持ちながら、平安と恵みあふれる人生を歩んでまいりましょう。

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9月27日礼拝「健やかであるように」

礼拝メッセージ「健やかであるように」第三ヨハネ2節,マルコ5章34節 仁井田幸子師

 イエス様は、いつも私達の心と体が健やかであるように願って下さっています。今日はイエス様の御思いの深さを知って、感謝したいと思います。

★マルコ5章には、12年間婦人病を患った女性が出てきます。ユダヤの掟では、このような病気の女性は汚れた罪人として人前に出ることも許されませんでした。そのうえ長い間の病気治療のために財産を使い果たし、経済的にも厳しい状態にありました。ですから彼女は、肉体的な苦しみのみならず、精神的にも信仰的にも経済的にもどん底の状態にあったのです。そのような時にイエス様が来られたことを聞き、人前に出ることも触れることもいけないという掟を破り、命がけで群衆の中に紛れ込みイエス様の御衣に触れたのです。この声も出せない必死の求めをイエス様は、「自分のうちから力が外に出て行った」と感じ、私に触ったのは誰かと聞かれました。彼女は自らが犯してしまった行為を罰せられるかと思い進み出ましたが、イエス様は「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず健やかでいなさい。」と温かい声をかけられ、今までの苦しみを全てぬぐい去って下さったのです。イエス様の言葉で、信仰的にも罪人ではないこと、精神的にも安心して良いこと、そして肉体的にも病気が癒され、これからははばかることなく人前に出て良いことを知ったのです。

★イエス様は、三度イエス様を知らないと裏切ってしまったペテロにも、事前に落ち込んでしまわないように言葉をかけられ、また鶏が鳴いた後には、ペテロを優しく見つめられ、さらには復活された後に三度「わたしを愛するか」と聞かれ、ペテロが三度あなたを愛しますと応えることにより、心痛む三という数字を完全に払拭して下さったのです。

★イエス様は、私達に対しても完全なご配慮をしてくださるのです。私達の心が苦しむなら何とかしてその心が元気になるように慰め、病気で体が痛むならば癒しを与え、信仰的に元気がなければ助け主なる聖霊を注いで下さるのです。ですから私達は、いつもイエス様のこの御思いを覚えておかなければなりません。一人で苦しみ続けないようにしましょう。私達もこの女性のように、またペテロのように、まっすぐに求める者、主に応える者になりましょう。「あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神があなたがたを心配してくださるからである」(Ⅰペテロ5:7)

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(9月20日礼拝メッセージ) 「高慢にならないために」

(第一コリントNO12) 高慢にならないために」第一コリント4章6~8節 仁井田義政 牧師

 パウロは、コリントの教会信徒達が陥っている罪について、例を見ないほど強い言葉で叱責しています。それはコリント教会が今日の問題を解決しなければ、今後の教会の発展が望めないからです。これは現代のクリスチャンにも当てはまる問題です。それは高慢という罪の問題です。

★ギリシャ人の多いコリント教会の信徒達には、哲学の民として知恵者知識者としての誇りがありました。その結果、自分の所属する学派は絶対支持であり、他の存在は認め難い傾向がありました。それが議論好きな民となっていたのです。その議論好きが、コリントの教会内でも仲間を作り、分派を構成し、他者攻撃と指導者攻撃となっていたのです。

★そのようなコリント教会の信徒達に「書かれていることを超えないために」とパウロは書きました。「書かれていること」とは何でしょうか。それは「聖書全体で言っていること」という意味です。聖書に書かれていないことを信じるのは間違ったことです。体験主義は神秘主義であり、書かれていないことを神が教えてくれた、神が幻で見せてくれたと言って持論を主張するのです。そして一方に対しては強く支持し、他方を見下げるのです。

★そのような傲慢になるのを避けるために、自分が生まれながら頭が良い、優れていると思ってはならないとパウロは教えています。全てのものは神様から頂いたものであって、ひとつとして自分の究極的な所有はないのです。高慢にならないためには、知識も知恵も信仰も救いも全てが神様から頂いたものであると気付くことなのです。

★アポロもパウロも、コリント教会の指導者として神様が与えて下さった人です。それなのに一方を受け入れ、一方を軽んじるとすれば、自分達が王様になっており、神様の助けが要らないと言うことになるのです。王様は他人の指導を受けないからです。これぞ高慢に対する強烈な皮肉です。コリント教会の人々は、神様が与えて下さった使徒達の指導を受けなければなりませんでした。それが謙遜な姿なのです。

★高慢は教会を破壊し、分裂と分派をもたらします。私達人間は神様を愛すると言いながら、実は高慢になって神様の大切な教会に致命的な傷を負わせてしまうことがあるのです。そのことを肝に命じ、クリスチャン品性である謙遜を身につけましょう。

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(9月13日礼拝メッセージ)「神からの称賛」

(第一コリントNO11)「神からの称賛」第一コリント4章1~5節 仁井田義政 牧師

 パウロは3章までにおいて、コリント教会に起きていた分裂問題について記して来ました。それは、コリント教会のクリスチャンであるギリシャ人特有の人間崇拝に至る危険をはらんでいたからです。キリストの教会が求めるものは、人間崇拝ではありません。讃えられるべき御方は、神様なのです。パウロは、コリント教会を人間崇拝の危険から守ろうとしたのです。

★パウロは「こういうわけで私達をキリストのしもべだと考えなさい」と、4章を書き始めました。私達とは、パウロ・アポロ・ペテロという使徒達のことです。「しもべ」と使われた語は「大きな船の三層の最下位層の漕ぎ手を意味する」言葉です。神のしもべとして過酷な状況で教会という大型船を漕いでいる様を表わしています。さらに「また神の奥義の管理者だと考えなさい」と言っています。神の奥義は、聖霊によらなければ人間には理解できません。ですから神の奥義の管理者である使徒達は、祈りつつ教会を前進させている者達なのです。そして「管理者には、忠実であることが求められます。」と言っています。

★コリント教会のある人達は、パウロを指導者にふさわしくないと裁いていました。(Ⅱコリ10:10)しかしパウロは、使徒に召された者は、人々の評価を超えて働く者であると言っています。つまり使徒達を判定し裁くのは、主なる神のみなのです。パウロはさらに「自分で自分を裁くことさえしない」と言うのです。それはパウロが傲慢なのでしょうか。そうではありません。パウロは「私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって無罪とされるのではありません」と記しています。人間はそれほどに不完全な者だから、先走った判断をしてはならないわけです。パウロは自分の支持者を増やそうとしているのではありません。使徒たる者は「人からの称賛を求めているのではなく、神から称賛を受けられるように生きている」ことが大切なのだと言うのです。

★今日の聖書の箇所は、使徒、牧師、伝道者達の働きの気高さを現している所です。しかし主に仕えるクリスチャン全員が、このような気高い心を持たなければなりません。人から悪く言われてへこむような場所に、自分を置いてはならないのです。人からの称賛ではなく、「神からの称賛」を求めて生きるクリスチャンになりましょう。

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(9月6日礼拝メッセージ )「あなたがたは神の神殿です」

(第一コリントNO10)「あなたがたは神の神殿です」第一コリント3章16~23節 仁井田義政 牧師

今日の聖書の箇所は、1章から続くコリント教会の分裂危機を戒める手紙の結論的な部分です。コリント教会に多くいたギリシャ人のクリスチャン達は、この世の判断によって神の使徒達を格付けしようとしました。その結果、教会は分裂の危機に至りました。教会に分裂を起こす者が、いかに神の前に許されない罪であるかをパウロは記しました。

★パウロは「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊が宿っていることを知らないのですか。」と記しました。その「知らないのですか」は、「今になっても知らないのですか」の意味です。そして「あなたがたは」は複数形であり、コリントの教会員たちであることがわかります。さらに「神の神殿」とは、ギリシャ語の「ナオス」であり、至聖所を現す言葉なのです。教会は神の臨在を現す至聖所なのだということを表しています。

★神の至聖所とされている神の教会に分裂をもたらすような者は、神の厳罰を受けるというのです。しかも分裂を起す原因となっているのが、パウロ・アポロ・ケパの中で誰が指導者としてふさわしいかというものでした。それはギリシャ人の癖、この世の知恵者探しに繋がっているのです。それは、この世の価値を教会にそのまま持ち込んだコリント教会の愚かな姿でした。

★パウロもアポロもペテロも、神がコリント教会に与えてくださった贈り物なのです。指導者もみな、それぞれの個性があり違いがあります。全く同じならば一人で良いでしょう。神様はコリント教会が豊かになり、霊的に深みのある教会になるようにと、別の人を送られたのです。そのようにコリント教会の指導者達も信徒達も、キリストを愛する人々でありキリストのものなのです。そしてパウロは、キリストは神のものなのですとコリント教会が分裂ではなく、ひとつになるように勧めているのです。

★コリント教会の人達は、優れた指導者を選ぶことによって、理想的な強い教会が出来ると考えました。それが神の為にも自分達の為にもなると思ったのです。しかしそれは、逆の分裂の危機をもたらしました。神様は、教会をご自身の臨在する至聖所として立ち上げられました。パウロは「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊が宿っていることを知らないのですか。」と教えました。私達の教会も神の臨在する教会であることを知り、強くひとつになりましょう。

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