1月17日礼拝メッセージ「神は平和を得させようと」

第一コリントNO20「神は平和を得させようと」第一コリント7816仁井田義政 牧師

 コリント人への手紙からのメッセージを、クリスマスと新年のメッセージのために中断しておりました。今日から再開します。今日の聖書箇所は、コリント教会の信徒達からの質問に答える形で書かれています。ただコリントの教会のおかれた特殊な社会問題を充分に考えて聖書を解釈しなければなりません。その社会問題とは7章1節にある「不品行」問題です。

 ★コリントの町は裕福で、奴隷が自由人の3~5倍いたため、自由人は暇を持て余していました。コリントの丘の上には、愛の女神アフロディテ神殿が建てられていました。そこには神殿公認の売春婦が千人も働いていたのです。

 ★それまで不品行が推奨されてきたコリントの町に、パウロによってキリスト教倫理が植え付けられました。創立されて間もない教会の中においても混乱が起こりました。そこで使徒パウロに手紙を書いて質問したのです。 パウロは、コリントの町の「不品行」と教会に迫っている大迫害という見地から、今日の教えを書きました。

 ★パウロは、未婚者は迫っている迫害のために「私(パウロ)のように結婚しないがよい。無理ならばしなさい。」と書きました。それは迫害という状況の為です。さらに「既婚者は分かれてはならない」と書きました。それは、「聖さ」を早合点して離婚する人がいたからです。「相手が未信者であっても離婚してはならない」と書きました。それは男女のどちらかが早くクリスチャンになった場合、未信者と結婚していて良いのかという質問があったからです。しかしパウロは「未信者の一方から信仰を反対された場合は離婚して良い」とも記しました。また相手が「信者のあなたとは一緒にいられないと、去って行くならそのままにしなさい」と記しました。 

 ★性的に堕落しきったコリントの町にキリスト教が入ってきたことによって、キリスト教倫理による混乱が起こったのです。パウロは「神は平和を得させようとあなたがたを召されたのです」と、その教えの結論が「神による平和」であることを教えています。御言に立って、落ち着いた生活をしましょう。たとえ相手が未信者であっても優しくし、神様によって恵みが既にあることを信じ、救いを祈っていきましょう。

 

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1月10日礼拝メッセージ「強くなれクリスチャン」

(礼拝メッセージ)強くなれクリスチャン」申命記11章13~25節 仁井田義政 牧師

新年になって申命記からのメッセージが三回目となりました。コリント人への手紙講解メッセージを中断しております。来週の礼拝からそちらに戻ります。申命記からお話ししている理由は、私達の教会が創立41周年と言う大きく変化しなければならない時を迎えているからです。申命記におけるイスラエルの民にとっても、私達の教会にとっても41周年は約束の地への前進の時です。

★先週の御言にありましたように、エジプトではナイル川から人力で水を汲み上げて灌漑をした農作でした。しかし今入ろうとしているイスラエルの地には細いヨルダン川があるだけで、天からの恵みの雨に頼らなければ作物も家畜も死んでしまうのです。しかし神様は「先の雨と後の雨」を降らせて、約束の地を乳と蜜の流れる地として下さると言われています。

★その地での祝福は、信仰者たちの信仰生活にかかっています。そこで神様は「気をつけなさい」(16節)と言われます。偶像「自分の楽しみ優先も含む」神様の怒りを引き起こすことが無いように。「心が迷い」「横道にそれる」ことがないように注意しなければなりません。迷いや横道にそれる信仰生活は、まさにイスラエルの民の荒野における40年間でした。私達が信仰生活をするために必要なことは、不信仰に「気をつける」ことなのです。

★「主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら」と22節にあります。まず「イエス様を愛すること」です。「主の全ての道に歩むこと」です。その意味は、自分にとって都合の良い事にも悪い事にも従うということです。困難が起こった時に誰にすがるのか、親か、友人か、偶像か、それらに従えば失望に終わるのです。「主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら」、主は必ず勝利を与えて下さるのです。

★このように主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら「自分よりも大きくて強い国々を占領することが出来る。」「あなたがたの足の裏で踏む所は、ことごとくあなたのものとなる。」「あなたがたの前に立ちはだかる者はいない。」これらの約束を心と魂に刻みつけて、強いクリスチャン、強い教会になりましょう。そして開拓41周年の2016年を、大成長の年としようではありませんか。 

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1月3日主日礼拝「年の初めから終わりまで」

(今年最初の主日礼拝)「年の初めから終わりまで」申命記11章8~12節 仁井田義政 牧師

 新年になって初めての日曜礼拝となりました。私達の心には「今年はどんな年になるのだろう」と、期待と不安があるのではないでしょうか。モーセがこの書を書いている時、すでにイスラエル民族は40年間荒野を迷い続けて生きてきたのです。それは、神様を信じていると言いながらその信仰が徹底せず、誘惑に負けて偶像礼拝を行ない、神様の前に罪を犯し続けた結果でした。その不信仰と罪の荒野生活を後にして、神様が約束された祝福の地に入って行こうとしているのです。過去との決別です。新しい地には信仰に伴う神様の祝福が待っているのです。

★エジプトでは、作物のためにナイル川から水をくみ上げて撒かなければなりませんでした。何でも自分の力に頼らなければならない生き方が、エジプトの生活でした。そのエジプトの生活が、自分の力に頼る生活の譬えとして記されています。

★イスラエルには大きな川がありません。その地では、天からの雨に頼る以外ありません。つまり神様にたよる以外ないのです。自分の力や考えには限界があります。そのために、何でも自分でしなければならない生き方では思うようにならないことが多く、息詰まると疲れ果て絶望してしまうのです。しかし約束の地は、神様にお任せすることの出来る地なのです。神様のお力を信じる地なのです。

★約束の地は「年の初めから終わりまで神様が目を留めておられる地である」と、今日の聖書に記されています。エジプトは自分の力に頼る生き方であり、信仰の約束の地は神様に頼る生き方です。神様に頼る生き方は、心細いように思う人がいるかもしれませんが、信仰に生きる人を「年の初めから終わりまで」神様が守ってくださっているのです。それも「あなたの神、主が絶えずその上に目を注いで下さっている」と記されている通りです。

★イスラエルの民は40年間、自分の力に頼ろうとし、真の神以外の偶像に頼ろうとしました。しかし幸せにはなれず、40年間荒野をさまよい続けました。しかし神様を信じる者には、年の初めから終わりまで全ての生活を祝福して下さるのです。神様にしっかりと信仰を向け、神様の祝福に期待する2016年としましょう。そして新しい年、祝福で満たされましょう。

 

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12月27日礼拝「わたしは初めであり終わりである」

(今年最後の礼拝)「わたしは初めであり終わりである」黙示録1章8節 仁井田義政 牧師

 今年もクリスマスが終わり、2015年の最後の主日礼拝となりました。今年一年間に起こった悲しかった事、嬉しかった事などを思い出しながら、今年最後の御言葉を傾聴して頂きたいと思います。

★黙示録は聖書の最後に置かれた書です。使徒ヨハネがパトモス島に流されて、そこで示された啓示です。その中で、イエス様を「時間の主」として、アルファーでありオメガーであると記しています。日本語に訳せば「始まりと終わり」と訳せます。それはギリシャ語のアルファベットの最初と最後の文字だからです。神様は、使徒ヨハネにイエス様を現在・過去・未来の時間の主として啓示されたのです。

★イエス様は、現在・過去・未来の全てを支配しておられます。イエス様の力を小さく見てはいけません。イエス様は、私達の現在・過去・未来の全てを支配しておられるのです。創世記の1章2節には「地は茫漠として何もなかった」と記されています。それは意味のない混沌つまり、カオス状態のことです。イエス様はそのカオスに、意味と秩序を与えました。私達はその意味と秩序の中に生かされているのです。

★この世界を強い意志をもって始められたイエス様は、同じ強い意志をもってこの世界の最後ももたらします。それが「私はアルファーであり、オメガーである」の意味なのです。神様は、全てのもののアルファーであり、オメガーなのです。宇宙も個人もその中にあります。イエス様は、宇宙や私達の創造者であり支配者です。そのことを信じなければ、意味のないカオスにいることになります。

★黙示録22章13節にも「私はアルファーであり、オメガーである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」と記されています。これは、復活のイエス様が使徒ヨハネに直接示した幻による啓示です。そして全ての時間の支配者であられるイエス様を迎える姿勢が記されています。それは「しかり、私はすぐに来る」と言われるイエス様に、「アーメン!主イエスよ!来て下さい」と、喜びをもって迎える姿勢です。私達の過去・現在・未来には、喜ばしい事も、悲しい事も起こるでしょう。しかし全てはイエス様の御計画の中での事です。そしてイエス様は無駄な事をひとつもなさいません。目先のことしか見えない私達は、イエス様の絶対愛と時間の支配を強く信じなければなりません。そして感謝しましょう。今年も色々なことがありましたが、素晴らしい一年であったと感謝しましょう。

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12月20日(クリスマス記念礼拝)「神が共にいて下さる」

(クリスマス記念礼拝)「神が共にいて下さる」マタイ1章21~23節 仁井田義政 牧師

 今日は、クリスマス記念礼拝となりました。イエス様のご誕生の意味を自分の体験として礼拝する日です。クリスマスの出来事を自分との関係において驚き、その真の意味を知り畏れ多き心で膝まずき礼拝しましょう。

★迷い悩むヨセフの夢の中に、神からのメッセンジャーが遣わされました。それは天使です。その方はひとつの間違いもなく、神様からのメッセージを伝えました。それは、まもなく「ご自分の民をその罪から救って下さる」方がお生まれになると言うものでした。どのようにして人々を罪から救うのでしょうか。その答えが「インマヌエル」と言う名に込められています。良い人の傍ではなく、罪人の傍にいて罪びとを救って下さるのです。当時、罪人達は神様から遠ざけられていました。神殿の礼拝に入れなかったのです。しかし、このお方はそのような罪人に近づき、罪人の友となってくださるのです。

★このお方は罪人と言われた人達を、「ご自分の民」として下さいました。 マグダラのマリヤや姦淫の女性。現場を押さえられ、死刑にされそうになっていた女性をイエス様は「ご自分の民」として下さいました。病気の人や障害のある方達。重い皮膚病の人、盲人、聾唖者、足の萎えた人、手の萎えた人など、当時は差別の対象でした。しかしイエス様は「誰の罪の結果でも、本人の罪の結果でもなく、この人を通して、むしろ神様の素晴らしさが現れるためである」と言われて、彼らを「ご自分の民」として愛されたのです。

★イエス様は、弱さを負っている人達や罪人と言われて差別を受けている人々の「インマヌエルなる神」として来てくださいました。訳せば「神は私達と共におられる」という意味です。あなたは「自分は正しい人間だ」と思っていますか。そう思っている間は、クリスマスの有難さがわかりません。私は不完全で、弱い人間で、うそつきで、見栄っ張りで、汚れている罪人だと知っていますか。そのような人のためにイエス様は来られました。そのような人にこそ「神は私達と共におられる」と言う意味のキリストが来られたのです。そのお方の前に、心を注ぎ出して祈り礼拝しましょう。それがクリスマスです。

クリスマスのこの日に、あなたのために来られたイエス様を心にお迎えし、神様が罪人の私と共にいて下さるという感動のクリスマスと致しましょう。

 

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(12月13日礼拝 アドベント第3週)「希望のクリスマス」

(アドベント第3週)希望のクリスマスイザヤ11章1~2節 仁井田義政 牧師

 預言者イザヤの活動した時代は、イスラエル民族においては最悪な時代に向かう時でした。アッシリヤそして次にはさらにバビロンが攻めてきて、イスラエルは奴隷となり国を失う危険が迫っていました。それはイスラエル民族にとって、木が根元から切り倒されてしまうような体験でした。そのような絶望の時代に向かっていたのです。イザヤは、そのような時代の預言者でした。しかし彼は、その絶望の中でクリスマスの希望を見たのです。

★イザヤは、イスラエルへの敵国侵略は、不信仰に対する神様の裁きだと思いました。そのことが今日の御言直前(10章33~34節)に「見よ。万軍の主、主が恐ろしい勢いで・・」と記しています。人間は罪の結果、神様の怒りを呼びこんでしまうことが多いのです。

★そのような絶望的な時代の中で、イザヤは約束されたクリスマスの希望を預言しました。「切り倒されたエッサイの根株から」若枝が伸びて実を結ぶと預言したのです。ダビデと言わず、ダビデの父親「エッサイ」と預言したことにも意味があります。エッサイはベツレヘムの庶民であり、平凡な羊飼いでした。そのエッサイからイスラエル最大の王ダビデが生まれたのです。その時と同じように、まさかと思われるような人、つまり切り倒された木株から突然新芽がはえて実を結ぶ大きな木になると預言しました。

★その生まれ出る御方の特徴は、いつも聖霊が住んでおられることでした。メシヤは「油注がれた人」の意味で、油は聖霊の象徴です。つまりキリストこそ聖霊に満ちた御方であることを預言しました。その結果「知恵と悟りの霊」「はかりごとと能力の霊」「主を知る知識と、主を恐れる霊」に満ちているとイザヤは預言したのです。

★預言された若枝であるキリストの特徴は「聖霊に満ちておられること」です。まさにイエス様は、生まれる前から聖霊に満ちておられました。イザヤは、希望の持てない時代の預言者でした。しかしその中でイエス様の誕生に希望を見たのです。

それは私達にも当てはまります。あなたがいま希望を持てない状況にいるとしても、キリスト誕生の目的を見ることさえできれば、希望を見ることが出来るのです。あなたの為に来られた希望のイエス様を、あなたの心にお迎えしましょう。

 

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(アドベント第2週)「ひとりのみどりごが生まれる」

(アドベント第2)ひとりのみどりごが生まれる」イザヤ9章6~7節 仁井田義政 牧師

 アドベント二週目に入りました。イエス様は、突然お生まれになられたお方ではありません。イエス様は、旧約聖書の中で幾度もその誕生を預言されたお方なのです。キリスト誕生の約750年前の預言者イザヤはキリストの誕生を預言し、その御働きや御性質まで5つの名前に込めて預言しました。

1.その名は「不思議」これは、このお方が他の人間とは違った奇跡に満ちたお方であることを現しています。イエス様の誕生から復活、そして昇天までイエス様の生涯は不思議に満ちています。そして今も生きておられ、私達と共におられるお方なのです。この不思議こそ、キリストの印であり、他の人間のまねのできない神の子の印でした。

2.その名は「助言者」この言葉よりも、英語のカウンセラー、あるいはアドバイザーの方が現代人にはわかりやすいかもしれません。カウンセラーやアドバイザーは、優れた知恵と知識を持っていなければなりません。イエス様のような正しい知恵と知識をもったお方は、他には見当たりません。人生のカウンセラーであり、信仰のアドバイザーとして優れたお方です。

3.その名は「力ある神」「みどりご」とは赤ちゃんのことで、それはか弱いことを現わします。実は「そのお方が力ある神」だと預言したのです。ベツレヘムの馬小屋に「ひとりのみどりご」として生まれる方が、三位一体なる偉大な神なのです。

4.その名は「永遠の父」聖書の中には、多くの場合「父親」は保護者として記されています。イエス様が強く保護者として出てくる所は「私は良い羊飼い。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という決意に現れています。イエス様は「永遠の父」なのです。人間の父親と違って、自分の気分次第で守ったり突き放したりはしません。永遠の愛で保護して下さるのです。

5.その名は「平和の君」先週もお話ししましたように、人類は今だに平和な世界を築いてはいません。どんなに平和会議を開いても、実現しませんでした。人類の平和は、「平和の君」と呼ばれるイエス様の肩にかかっているのです。預言された「みどりご」に込められた5つの名前の意味は、イエス様の優れた能力と力を現わしています。そのような力ある方が、私達の所に来て下さったのです。そのイエス様を私達の心にお迎え致しましょう。

 

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2015年アドベント1 題「勝利者キリストの希望」

(アドベント第1週)勝利者キリストの希望」創世記3章14~15節 仁井田義政 牧師

21世紀こそは素晴らしい平和な時代でありますようにとの願いを込めて始めたはずなのに、世界は平和とは逆行し、どこにいても安心の出来ない時代を迎えてしまいました。実はこのような重苦しい時代は今に始まったことではなく、聖書を見ると人類の最初の人であるアダムとエバの時代から始まったのです。しかもその所を見ると、暗闇の現実とその中での希望までが記されています。

★そこには蛇に騙される人間の闇が記されています。蛇はサタンの象徴です。人間はサタンに騙されることによって、神を敵としてしまったのです。そこから暗闇が始まりました。サタンに支配された人間は、サタンに従うばかりでサタンに従っているという自覚さえありません。ですから人間は、どんなに善を求め平和を求めても、人間の力では決して実現できないのです。それは今までの人類歴史が証明するところです。現代に至るまで科学文明がどんなに進んでも、世界の混迷と暗闇は一向に解決しないのです。

★人間はサタンに支配されてしまっているので、問題を解決することが出来ません。しかし神様は、そのような人間に解決の道を計画されました。それは、キリストによるサタンの支配からの解放です。女から生まれる一人の男が、サタンに戦いを挑むのです。そしてサタンに致命傷を与えるのです。しかし聖書には「彼はお前の頭を踏み砕き、お前は彼のかかとに噛みつく」と、その戦いでは女から生まれた一人の男も傷を受けることが記されています。しかし致命傷とはならず。サタンの「頭を踏み砕く」のです。

★そのサタンの頭を打ち砕き致命傷を与えると預言された男の子とは誰でしようか。それはイエス・キリスト以外にはおられません。十字架の傷を受けてサタンのもたらした人の暗闇を消し去ったのです。このお方の前には国境は意味を持ちません。人種の壁も意味を持ちません。そして拡大し続けていくのです。今やアッセンブリーの信徒だけでも世界人口の百人に一人となり、二十秒に一人がアッセンブリーの信徒となっていると吉原博克宣教師は報告しています。今日はイエス様をお迎えするアドベント第1週です。あなたの人生に、心から救い主イエス様をお迎えしましょう。

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11月22日礼拝メッセージ「クリスチャンと結婚」

(第一コリントNO19)クリスチャンと結婚」第一コリント717 仁井田義政 牧師

 コリントの町は多種多様な価値観の溢れている町で、結婚についての考え方も多種多様でした。そこでパウロは、新しい共同体のキリスト教会に「クリスチャンと結婚」について記しました。

★この手紙の著者パウロは独身でした。おそらくこの質問をした人々は禁欲主義者で、独身のパウロに同意して欲しかったのかも知れません。パウロは「男が女に触れないのは良いことです」と記しました。それは結婚に否定的に見える文ですが、当時の状況が教会に大迫害が迫っていた時代であることを考えなければなりません。パウロも、この手紙を書いた4~5年後には殉教死しているのです。教会に次々に殉教者が起こって行くのです。キリスト教がローマの国教になるのは、約三百年後のことなのです。

★そのような迫害の時代にあっても、パウロは結婚を禁じているのではありません。パウロは結婚について一夫一婦制を勧めました。しかも男女同権の勧めです。コリントの男社会の真っ只中で、夫婦という最小共同体の男女同権の教えは画期的なことでした。日本もかつては男女同権ではありませんでした。「女性に学問はいらない」等という時代があったのです。明治時代に日本に入って来た宣教師がミッションスクールの女子校を多く作ったのは、キリスト教思想の男女同権を日本にも拡めたかったからでした。

★ パウロは独身でした。しかしペテロや他の使徒達が結婚していたことは明らかです。イエス様が、使徒ペテロの姑の熱を癒されたことが記されています。(マタイ8:14~15)他の使徒やペテロも、妻を連れて伝道していました。(Ⅰコリ9:5)結婚して生きるのも神の賜物。結婚しないで生きるのも神の賜物。両方認め合い尊敬することが大切なのだとパウロは記しました。結婚している人は駄目だとか、結婚していない人は駄目だとかではなく、それぞれを神の賜物として認め合い、尊敬し合うことが大切だと教えています。

★今日の聖書の箇所は、二千年前のコリントという町の絶対的な男性社会での教えなのです。そのような中でパウロの記した既婚者と未婚者の平等性、しかもそれを神様の賜物の結果として高く評価していることは大切なことです。さらには夫婦と言う最小単位の家族の平等性。この二つは現代の私達にもそのまま通じるものです。これが「クリスチャンと結婚」という事に対する聖書の明確な答えです。尊敬し合うことが何にもまして大切なのです。

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11月15日礼拝「神の素晴らしさを現わす」

(第一コリントNO18)神の素晴らしさを現わす」第一コリント6章1220

                         仁井田義政 牧師

 大都会のコリントには様々な人間が流れ込み、その価値観は多種多様になっていました。パウロはその町に生きるクリスチャンに、永遠不変のクサビを打ち込みました。それは「クリスチャンの自由」というクサビでした。

★当時のコリントの町には「人間の望むことをすることは何でも自由である」という思想でした。自由人一人に対して奴隷を三人~五人をもっていたコリントの人々は、暇を持て余し昼間から享楽にふけっている有様でした。パウロはそれを「しかし全てが益になるわけではない」と記しました。    現代でも、競馬・競輪・競艇・パチンコなどギャンブルも公営であれば何でも行なうことは自由です。しかしそれらは中毒となる危険が多いのです。全てが益になるわけではないのです。

★パウロは「あなたがたはキリストの体の一部です」と、クリスチャン達に第二のクサビを打ち込みました。それは教会とは何かという教会論です。イエス様が死者の中から復活されたのは、新しい霊的な体になられたということです。それと同じく私達がクリスチャンになったことは、キリストを甦らせた神の力が私達にも働き、新しい体になったということです。それはキリストの体である教会の一部とされたということです。先週の礼拝で話しました「洗礼」によって、古い汚れた自分は死んで、新しいキリストの御体の一部になったのでいす。

★パウロが第三のクサビとして打ち込んだのは「神の栄光を現しなさい。」という言葉でした。それは新しい価値観に生きるクリスチャンの生き方です。「自分の喜び、自分の楽しみ、自分の成功のために生きている」のは、古いままの価値観に生きているのです。「あなたがたは買とられたのです」とパウロは記しました。それは主の奴隷になったことを意味します。奴隷は主人を喜ばせるために生きるのです。クリスチャンに与えられた新しい価値は「神の栄光を現す」ことなのです。 

★私達の溝の口教会においても全く同じです。それぞれが「自分の為に生きるのではなく、神様の栄光のために生きるのだ」と、その目指すものをはっきりさせて生き始める時、教会は最強の集団となり、クリスチャンは輝くクリスチャンとなるのです。心を新たにし、今日の御言葉に従って「神様の素晴らしさを現す生活」を始めようではありませんか。

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