(イースターメッセージ)「振り向いたマリヤ」

(イースターメッセージ)「振り向いたマリヤ」ヨハネ20章11~18節 仁井田義政 牧師

tumblr_n13ko3ArtS1rrilt5o1_500 私達人間は、自分の考えや概念からなかなか抜け出せないものです。そのようなことが、イエス様の墓の前でマグダラのマリヤに起こったのです。その時のマリヤの驚きの声が、今日の聖書に記されています。

★イエス様は何度も「私は死んでから三日目に甦ります」と言っておられます。死んだ人間が甦るなど古今東西の人間には、普通には信じられません。イエス様の弟子やマリヤ達とて同じでした。弟子のユダに裏切られ、人々に十字架に付けられた血みどろのイエス様をマグダラのマリヤは見たのです。死体を布で包むのも三日前の夕暮れ時に見ました。イエス様のだらりとした手と力の無い首と足も見たのです。

★主をお慕いしていたマグダラのマリヤと言え、亡くなったイエス様にしてあげられるのは、お墓参りのみです。自分を罪のある女としてではなく、初めて人間として扱って下さった尊いお方でした。朝の明けるのも待てずに墓に行ったマリヤが見たのは、イエス様の体が無い現実でした。誰かがイエス様の死体を動かして、どこかに移してしまったと考えるのは当然です。

★悲しみと涙に溢れて、墓の中に目を凝らすマリヤに、墓の中の二人が「なぜ泣いているのか」と語り掛けました。後ろを振り返ると「なぜ泣いているのか」ともう一人の人が語り掛けました。それでも「死んだ人間が甦る筈がない」という当然な人間の概念に支配されていたマリヤは、それらの人々が墓守りの人達だと思いました。後ろに立つ人から「マリヤ!」と自分の名前が呼ばれて初めて、新しい世界に気付いたのです。イエス様が死んだ世界ではなく、甦られた世界に突入されたことを知ったのです。

★イエス様は過去のお方ではなく、今も「マリヤ」と親しく呼んで下さる生きておられるお方だと直感したのです。マリヤは「先生」と答えてイエス様を見たのです。あの愛に満ちたイエス様が立っておられました。復活のイエス様は、あなたの名前をも呼んでおられます。今までの人間の死に対する常識的概念から目を離して振り返るならば、そこに復活のイエス様の声が聞こえ、お姿が見えるのです。イエス様は甦られたのです。あなたも絶望的な死の概念から目を離して、復活のイエス様が一緒にいて下さる信仰の世界に生きようではありませんか。

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3月20日 受難週メッセージ「私は既に世に勝ったのです」

受難週メッセージ「私は既に世に勝ったのです」ヨハネ16章32~33節 仁井田義政 牧師

 教会の暦は今日から受難週に入りました。受難週は、クリスチャンがイエス様の御受難と十字架に目を向け、過ごし祈る時です。今日の御言のヨハネの福音書は、クリスチャンに向けて書かれた書です。その中には、キリストの受難と、その意味が強く記されています。その意味を学び、受難週を信仰に満ちて過ごしましょう。

★ヨハネの福音書は13章~19章までキリストの受難の一日を記しています。私達の暦では、受難は木曜日の夜に最後の晩餐、そして次の金曜日に十字架と二日にわたっていると思われています。しかしユダヤの一日は、夕方の日没から始まり日没で終わるのです。つまり一日なのです。その僅か一日をヨハネは実に福音書の三分の一を割いて記しているのです。

★イエス様による最後の晩餐での教えは、13章~16章の中に記されています。そして16章33節で「これらのことをあなたがたに話したのは」とその結論を話されました。すでにイスカリオテのユダは、イエス様を裏切り最後の晩餐の席から出て行っていました。この後のイエス様は17章ではゲッセマネの園での祈り、ゴルゴタの丘の十字架へと続くのです。

★イエス様は最後の晩餐の話の結論として「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と話されました。「勇敢」は決して男性だけが求めていることではありません。老若男女の誰もが求めているものです。イエス様はこの後に弟子の裏切り、逮捕、鞭打、十字架、埋葬、復活との受難が続くのですが、その前に「私は既に世に勝っている」と言われました。それは弟子達に「私に見習い勇敢であれ」と言われたのです。

★私達が勇敢に生きる秘訣は何でしょうか。クリスチャンが「世に勝てない」とすれば、どこに問題があるのでしょうか。それはイエス様の受難の中の勇敢さを見ていないからです。ユダのようにイエス様を裏切り、ローマの兵隊と一緒になってイエス様を捕え、イエス様の上に立ったような気になっても、その人生は神に呪われた最期となるのです。「私はすでに世に勝った」と言われた十字架上のイエス様を見、そして信仰の勇敢を学びましょう。

 

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3月13日礼拝メッセージ「歴史から学びとる教訓」

第一コリントNO27 題「歴史から学びとる教訓」10章16 仁井田義政 牧師

 聖書は、歴史は単なる時間の累積でも、偶然起こった事件の羅列でもないことを教えています。今日の聖書の箇所も、信仰の失格者とならない為に「旧約聖書の歴史に学びなさい」と教えています。歴史は英語の「ヒストリー」であり、それは「ヒズストリー」つまり「彼の物語」から来ているのです。「彼」とは誰でしょう。それは「神様」です。

★今日の聖書の箇所で、前章との接続に「そこで」と訳されていることは重要です。それがあって初めて前章との関連があり、失格者とならない為の教えであることがわかるのです。自分の好みによる指導者選び問題・生まれながらの知恵に頼るギリシャ人の問題・不品行つまりポルネイヤー問題・結婚離婚問題・偶像に捧げた肉問題・パウロの使徒職問題とパウロの生活費問題。そして、9章の最後に「信仰の失格者になることがないためです」と教えています。

★失格者とならない為に旧約聖書の歴史から学びなさいと、パウロはイスラエルの出エジプトの歴史を例に出しました。神様の恵みによって奴隷から救出されたのです。パウロは「雲の柱」を神の臨在。「海」は紅海の通過。「マナ」は御霊の食べ物として記しました。その指導者はモーセです。それを新約時代の救いの型として記しました。雲は聖霊。海は洗礼。御霊の食べ物は聖餐式。岩の水はキリスト。モーセは指導者キリストです。

★このように出エジプトは神の恵みに満ちていたのに、信仰の失格者が続出しました。イスラエルに帰ることが出来たのは、エジプトを出る時に20歳以下の人達だけだったのです。例外はヨシュアとカレブの二人だけでした。パウロは教会員に、洗礼を受けたから、聖餐式を受けているからと安心して傲慢になってはならないと教えているのです。5節の「荒野で滅ぼされ」は「荒野に撒き散らす」の意味のギリシャ語です。その原因になったのは「悪のむさぼり」です。「むさぼる」という言葉には、「自分の好む事のみをする」という意味があります。私達も気を付けなければなりません。聖書はコロサイ3章5節で「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」と言っています。私達クリスチャンは、神様の力強い恵みに包まれているのですから、信仰の失格者になることなく、勝利者になりましょう。

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3月6日礼拝メッセージ「福音宣教への集中」

第一コリントNO26「福音宣教への集中」9章24~27節 仁井田義政 牧師

パウロは、コリント教会の間違った姿を見ていました。それは教会の存在目的を見失った教会の姿でした。このままではコリント教会は力を失い消滅してしまうので、そのようにならない様に手紙を書いたのです。そしてここは、日本の教会にも強く迫るところです。

★コリント教会は、目標が分散した状態にありました。指導者として正しいのはペテロかアポロかパウロかと論争があり、偶像に捧げた肉を食べるのは良いことか、悪いことかと論争がありました。教会がこのような問題に関心とエネルギーを分散してしまっていては、消滅する以外にないのです。

★パウロは、その様な分散してしまっていた教会の関心を集中へと導いたのです。結婚問題にしても、既婚者と未婚者はどちらが良いのかという論争には、既婚者であろうと未婚者であろうと「秩序ある生活をおくって、ひたすら主に奉仕できる為なのです」(7:35)と集中へと導きました。さらには「偶像に捧げた肉を食べても良いのか悪いのか」という問題には、「食べても問題はないが、それが弱い人を躓かせるなら今後私は一切肉を食べないと」と記して「なんとか幾人かでも救うためである。」と教会の目標をひとつに絞り、集中に向かわせたのです。

★教会の目指す目標はひとつでなければなりません。パウロはコリントで行なわれていた二年に一度のスポーツの祭典を例に出し、ひとつの賞を得るために、スポーツ選手は自分を訓練し目標を目指すと言いました。教会にも絶対に失ってはいけない目標があるのです。 

★教会が正しい目標を失ってしまうならば、消滅以外ありません。それでは教会は、何を目標としなければならないのでしょうか。それは、イエス様の救いを知らずにサタンの支配の中にいる人々を救い出すことです。福音伝道の戦いをするのです。教会も信徒も、その存在目的は礼拝と伝道です。パウロは、このように目標を分散してしまったコリント教会に対して、福音宣教の集中を促しているのです。私達日本の教会にいま最も必要なものは、福音宣教への集中です。スポーツ選手がそうであるように、自分を打ちたたいて目標に集中する者が、勝利者に与えられる大きな喜びを得ることが出来るのです。私達も、福音宣教に集中しましょう。

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2月28日礼拝「幾人かでも救うために」

第一コリントNO25「幾人かでも救うために9章19~23節 仁井田義政牧師

先週お話しました聖書の箇所には「私はお金のために伝道をしているのではなく、この退廃してしまっているコリントの町の人々がキリストの福音を知り、救われることを願って伝道したのである。」という意味のパウロの言葉がありました。パウロにとって福音を伝えることが全てのことに勝ったのです。

★パウロはローマの市民権をもつ自由人でしたが、今日の聖書の箇所では「私は全ての人の奴隷となりました。多くの人を救うためです。」と記しました。パウロのクリスチャン人生は伝道に全てを捧げたのです。そのためにパウロは「私はユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、弱い人には弱い人のようになりました」と記しました。八方美人のように、相手によって付き合い方を変えたのです。

★上記のパウロの行動は、一貫性が無いように見えます。あっちに行って良いことを言い、こっちの人に合わせてまたその人に良いことを言う。ユダヤ人が「ブタ肉を食べたらいけない」と言うとその通り。異邦人が偶像の肉を食べても問題ないと言うとその通りと。同じ異邦人でも躓きやすい弱い人が「偶像の肉を食べてはいけませんよね」と言うとその通り。一貫性が無く八方美人のコウモリ男と批判されても仕方がないように見えます。パウロは一貫性のない人だったのでしょうか。そうではなく、全てを許容したのです。

★それではパウロの一貫性は何処にあるのでしょうか。それは「より多くの人々を獲得するため」(19節)という所にあるのです。そこにパウロの偉大さがあります。パウロは私利私欲のために生きたのではなく、福音のために生きたのです。福音とは何でしょうか。それは父なる神様が、一人でも多くの人々を罪から救おうとして、独り子イエス様を人類の身代わりに十字架に着けた事実です。パウロはその一点に目を止めて、その一点を自分の宣教によって実現しようと神の僕になったのです。僕になったからには給料が出ようが出まいが、当時の奴隷がそうであったように働いたのです。

★目的は「より多くの人を獲得するため」でした。しかし、それを実現するためには「何とかして幾人かでも救うため」という伝道に徹したのです。私達もパウロの伝道生涯に習おうではありませんか。

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2月21日礼拝「人間の考えか、聖書の考えか」

第一コリントNO24 人間の考えか、聖書の考えか9章1~18節 仁井田義政牧師

   9章に入ると、パウロは8章の偶像問題から突然、使徒と使徒の権利について記し始めます。一見脈絡のない挿入文のように見えますが、実はそうではなく8章13節の「ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」と言う言葉に繋がっています。パウロは人々の救いのために、自分にある自由と権利を制限しました。それが使徒としての偉大さでした。

★コリント教会には、「パウロには使徒権が無いのではないか」との疑いを持つ人がいたようです。使徒の資格は、ペテロのように直接イエス様に会った人に認められていましたが、パウロは地上のイエス様に会ってはいませんでした。そのために疑いが起こったのです。しかしパウロは「私は復活の主に会って、復活の主から宣教命令を与えられた」と使徒権を主張しました。そして、コリントに一年半以上滞在し、多くの信徒達を起こしたことが、使徒であることの「証印」であると主張しています。(2節)

★パウロに起ったもう一面からの使徒権の疑義がありました。それは、パウロが意識的にコリント教会から活動費を貰わなかったことから起こりました。「パウロは使徒ではないから貰わないのではないか」との疑義でした。パウロは「神の福音を伝えるために働く者は、生活のための他の仕事を止めて、教会からの支給を受ける権利があります」と主張しました。使徒ペテロは、伝道の為の費用を受けていました。しかしパウロとバルナバは、受けていなかったのです。その為ある人々は「使徒ではないから受ける権利が無いのでは」と考えたのです。パウロは「私にも受ける権利はあります」と聖書の例を上げて主張しました。パウロは自分の考えではなく、聖書の考えを示しました。

★しかし聖書に記されている正統な理由があっても「あえて私はその正統な権利を用いなかった」とパウロは説明しました。なぜ受けなかったのでしょう。コリント教会の「信仰」が未熟であったからかもしれません。お金のために伝道していると言う誤解を嫌ったのでしよう。求めても当然な権利をコリント教会には行使しなかったと言っているのです。溝の口教会は、聖書に基づいた成熟した教会になりましょう。それが、牧師を招く教会の失ってはならない聖書的モラルなのです。 

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2月14日礼拝メッセージ「どちらを選ぶかによって」

「どちらを選ぶかによって」ルカ5章1~11節 仁井田幸子師 2016.2.14

今日の聖書の箇所は、イエス様の全知全能の偉大さと、イエス様の言葉に従ったシモン(ペテロ)の素晴らしい体験を見ることが出来ます。そしてここから、選択の大切さを痛感させられ考えさせられます。

★ペテロは長く漁師をしていましたが、その日は一匹も獲れず漁を終えて網を洗っていました。そこへイエス様が来られ、ペテロの舟の上から群衆に話をされました。話を終えられたイエス様は、既に網を洗い片付けているペテロに、もう一度深みに漕ぎ出して網を下し魚をとりなさいと言われました。ペテロは、まず「夜通し働きましたが何一つとれませんでした。」と厳しい結果を伝えました。当然のことと思います。ペテロには職人としての経験もプライドもあったでしょう。しかしその本音を言った後、「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と自分の経験や考えよりもイエス様の言葉に従うことを選びました。素晴らしい選択でした。

★「そのとおりにするとたくさんの魚が入り網は破れそうになった。」と聖書は記しています。あまりの大漁で、近くにいたヤコブとヨハネの舟も助けに行きましたが、二艘とも沈みそうになったというのです。その衝撃的な体験の後、彼らはイエス様から弟子としての召命を受け、従いました。もしペテロが自分の経験や知識に固執し、イエス様の言葉の方を選ばなければ、この素晴らしい体験も祝福も無かったのです。

★聖書の中に、イエス様に信頼し強い意志を持って今を変えようとした人々が出てきます。12年間病気であった女性の決断(マルコ5:28)、子供の病気を癒して欲しいと願った母親の告白(マルコ7:28)、盲人の叫び(マルコ10:47-51)・・人生を変えようとイエス様の所に行くことを選択した人々は、みな祝福を受けて帰って行きました。

★私達はどうでしょうか。私達の人生でも大切な選択の時があるのではないでしょうか。それが人生の岐路とも言うべきところかもしれません。イエス様を信頼し、御言葉に従い、強い意志をもって祝福の道を選択するものになりましょう。

 

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2月7日礼拝メッセージ「愛は知識にまさっている」

第一コリントNO23「愛は知識にまさっている」第一コリント8113節 仁井田義政 牧師

 パウロは7章において、迫害が迫っている状況下でのクリスチャンの結婚観について記しました。8章に入るとがらりとテーマが変わり、偶像に捧げた肉を食べることが是か非かの問題に入ります。それもコリント教会から質問されたテーマであったと考えられます。

★コリント教会の信徒達の多くは、ギリシャ人でした。そしてギリシャ人達は知識の民でした。当然クリスチャンになったギリシャ人達も、知識を最高の価値と考えていたのです。しかしパウロは、知識は人を高ぶらせる危険があるので、知識よりも愛を最高の価値としなければならないと教えています。しかも神を愛するという立場を堅持するクリスチャンが、本当には神に知られているクリスチャンだと記しました。

★パウロは「本当のキリスト教的真理によれば、偶像なる神は存在しないので、偶像に捧げた肉を食べても問題ない」と理解していました。パウロに手紙を出して質問したグループは、正しい知識を持った人々であったと考えられます。「この世に唯一の神がいるだけで、偶像なる神などは存在しないので、偶像に捧げた肉を食べても問題ない」とは正しい知識でした。

★「 しかし」で始まる7節からの御言が、1節の「愛こそ知識に優る」ことを説明しています。教会には偶像に捧げた肉に対しての正しい知識に到達していない者もいました。「知識のある人が偶像に捧げた肉を食べるのは自由だ。しかしその自由が弱い人を躓かせてしまうことになってしまうなら、弱い人を躓かせないように私は偶像に捧げた肉を食べない」とパウロは言っています。★現代に当てはめるならば、まさに知識の集積である科学の暴走の危険です。知識は良いもので悪いものではありません。しかし愛の無い知識は、弱者に牙をむく暴力となる危険があるのです。たとえば生命科学においてもクローン技術が発達し、ヒットラーのような人物をいくらでも作れる時代に突入しているのです。知識を最高の位置におき、それが暴走すると、人類の壊滅に繋がる恐れがあるのです。そしてそれを止めるために、知識の上には愛が必要であることが明白となってきました。愛は知識にまさっているのです。弱い立場にある人達の為に、自分の知識と自由を制限できる愛を持ったクリスチャンとなりましょう。

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1月31日礼拝メッセージ「持てる者は持たぬ者のように」

第一コリントNO22「持てる者は持たぬ者のように」第一コリント72540 仁井田義政 牧師

 今日の聖書の箇所は、難解なところです。なぜかと言うと、私達の生活とあまりにも危険度が違うのです。この時代、クリスチャンであるということは命がけでした。パウロは、コリントの教会に忍びよる迫害の危険を感じていたのです。そのような迫り来る危険という立場に立って今日の御言葉を読む時、まさに生きた御言葉となって私達に迫ってくるのです。

★コリント教会の親達が、乙女の結婚について質問してきました。パウロはその質問に「結婚してもしなくても罪はない。しかし出来れば結婚しない方が良い」と記しました。そればなぜでしょうか。

★パウロの意としたことは「そのような目に遭わせたくない」(7:28)との言葉から分かるように、迫害の苦しみとの関係からそのように記したのです。結婚すれば、愛する妻や夫が迫害で殺されるような時、その苦しみと悲しみは幾倍にも増すだろう。さらに結婚すれば子供が生まれる。その子供が信仰のゆえに迫害を受ければ、親の悲しみはさらに幾倍にもなる。それゆえに一人の時に耐えられることも、家族の苦しむ姿には耐えられないであろうと言うことから出てきた教えでした。

★パウロは、さらにそのような苦しみの時代に生きる方法を教えました。結婚している者は、結婚していることに没頭しないように。している者はしていない者のように。結婚していない者はしている者のように生きるのである。無機質な人間になってはならない。物欲に対しても物欲に支配された生活をしてはならない。そのような生き方をしていると、それらが奪われた時に立ち上がれない程に失望してしまうからであると教えているのです。

★今日のところで大切なことは、心の偏りがクリスチャンを信仰から逸らしてしまう危険性があると言うことです。そうして解釈してみるならば、私達にもそのまま当てはまります。仕事や趣味に心が偏り没頭してしまうならば、神様のために何もしないで一生が終わってしまいます。結婚している人はしていない人のように、学生は学生でない人のように、サラリーマンはサラリーマンでない人のように主のために生きる、これこそ信仰による新しい生き方ではないでしょうか。私達は、どんな時にも神様のために生きる人生を歩んで行きましょう。

 

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1月24日礼拝メッセージ「神が召された者達」

第一コリントNO21「神が召された者達」第一コリント71724仁井田義政 牧師

 7章全体を見ますと、コリントの教会において、そこに集う人々が数多くの問題で苦悩する姿が伝わって来ます。1章から見ますと、さらに派閥争いや自分達の派閥の指導者選び問題などなど、収拾のつかない状態に突入していたことがわかります。このままではせっかくの教会が壊滅してしまいます。思い余ったコリントの心ある人たちが、海を隔てたエペソの教会にいるコリント教会創立者のパウロに手紙を書いて、どのように考えることが正しいのかを質問しているのです。パウロはその解決策を示しています。今日の御言葉に見る解決策のキーワードは、「召し」と言う言葉です。

★ユダヤ人の男性は、みな割礼を受けて正式にユダヤ人となり、ユダヤ教の信徒となりました。コリントの教会には、キリストに救われるためにも割礼が絶対に必要であるとする派と必要ないという派が存在していました。パウロは「割礼のあるなしではなく、重要なのは神の命令を守ることである」(19節)と記しました。

★またクリスチャンになった人々には、奴隷階級の人々も多くいました。その人達は、自分達が奴隷階級であることを自由人達の前で卑屈な思いになっていました。また自由人達は、奴隷階級の人達に優越感をもって接していたようです。パウロは「奴隷であっても、主に召された者は主にある自由人。自由人であっても主の前には奴隷なのです。」と教会においては平等であることを教えました。

★ユダヤ人キリスト者から「キリストは割礼を受けていたのですよ」と言われたら、受けていないギリシャ人にとってはひとたまりもない状況だったでしょう。自由人の主人達から「奴隷は奴隷だ」と言われたら、気の弱い奴隷は委縮するか、気の強い奴隷は暴動を起こすかであったでしょう。パウロは「教会の全ては神様(イエス様)に召されたことが最も重要なのだ」と教えました。 

★今日の聖書で重要な言葉は、「召された」と言う言葉です。神様は、目的を持って人々を教会に召されたのです。私達の教会も、2月7日に教会会議が終わると2016年の活動が開始されます。神様が私達を召して下さった目的を完成するために、ひとつとなって活動していきましょう。

 

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