6月5日礼拝メッセージ「神の教会と奉仕」

第一コリントNO36「神の教会と奉仕」12章27~31節 仁井田義政 牧師

朴さん②パウロは「教会はキリストの体であって、一人ひとりは各器官なのです」と教えています。私たち溝の口キリスト教会もキリストの体です。キリストの体である教会の活動が緩慢になってしまうようなことがあってはなりません。体は素晴らしい器官に満ちています。

★人間の血管を全て繋ぎ合わせると、約10万キロです。地球一周は約4万キロですから、一人分の血管の長さは地球2周半になります。また人間の神経の長さは、脳だけでおよそ16万キロにもなります。それは地球4周分にもなるのです。それらは全て電気信号で動いています。2私たちはとてつもない血管や、脳や、脳の神経の働きによって活動しているのです。神様の作られた体は、私達の想像を超えています。

★神様が造られた人間の体のように、教会の中の仕組みも私達の想像をはるかに越えたものです。しかも神様は、教会をキリストの体として作られたのです。第一に「ある人を使徒」として教会におかれました。使徒とは、キリストの弟子であるか、復活の主に会いキリストから遣わされた人のことです。ですから使徒を「アポストロス=遣わされた者」と言います。次に御言を預かって取り次ぐ人、預言者を置かれました。御言を預かって宣言する人のことですから、牧師・宣教師・伝道師と考えることができるでしょう。

教師は御言を宣言する人と言うよりも、御言の意味を教える人でしょう。さらに奇跡を行なう者、癒しの働き、助ける者=補助者、治める者=色々な管理をする人、異言を語る者を置かれました。

★このように神様は、教会にキリストの体にとって必要な違った賜物を持った人たちを置かれました。一人ひとりは、違った能力と働きをするようにと置かれたのです。私達はユニークであって良いのです。そのユニークさがあるから、神様はあなたを任命してくださったのです。

★神様は私達に異なる奉仕を与えて下さいました。神様が私達を信頼し、イエス様のお体の一部としてくださったのです。キリストのお働きは人々の救いです。あなたの優れているものは何ですか。それを自分だけのものにしておかないで、イエス様の為に捧げましょう。神様の任命に従って、神様と教会と人々の救いの為に、惜しみなく全てを捧げましょう。

 

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5月29日礼拝メッセージ「求めよと言われる主」

(メッセージ)「求めよと言われる主」ヨハネ16章24節 

                                                                                仁井田幸子師

 Jesus_praying私達が求める前から、私達の全ての必要を御存知である神様が、なぜ「求めなさい」と言われたのでしょう。

★求めることによって、求める相手である神様に対して、どれだけ信頼しているか、あるいは信頼が足りないかが見えてきます。そして自分の求めている神様がどのようなお方か知ることが出来るようになります。

今日、初めて祈る方もおられると思いますが、求めることによって、神様との関係が生まれます。求めることは、漠然としていた神様との関係がはっきりするのです。さらに素晴らしいことに、神様との信頼関係が築かれた後に、友の為に求める「とりなしの祈り」が出来るようになります。このとりなしの祈りは、神様への信頼と友への愛によって成り立ちます。

★次に、求めることによって、本当に必要なもの(こと)は何かが見えてきます。心の中が整理出来て行きます。どれくらい必要なのか。いつ必要なのか。私達は長く求めていく中で、応えられないと失望し、いつしか諦めてしまうことがあります。それはあまり必要ではないからでしょう。本当に必要なものは、どんなことがあっても求め続けるはずです。このように求めることによって、必要なもの(こと)がはっきりするのです。

★次に、求めることによって、与えられた時に大きな感動と感謝が沸き上がってきます。こんな小さな自分を覚えて下さっているのだと、神様がいかに恵み深いお方であるかを知ることとなります。求めないで同じことが起きた場合、私達は当たり前のこととして受け止めやすく、感動も感謝もないまま、時が過ぎてしまいます。

今日の御言でイエス様は、「求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」と約束して下さっています。求めることは、私達の喜びにつながるものなのです。ですからイエス様は、私達の全ての必要をご存知のうえで、求めなさいと言っておられるのです。そこに深い意味があるのです。

★私達は、神様との信頼関係を持ち、神様に求め続け、感動と感謝に満ちた素晴らしい人生を送る者になりましょう。

 

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5月22日礼拝「キリストの体なる教会」

第一コリントNO35「キリストの体なる教会」12章12~26節

仁井田義政 牧師

無題 先週はペンテコステで、聖霊の賜物には色々な種類があることを学びました。その聖霊の賜物ですが、私達は自分に与えられた賜物や能力が自分のものと思ってしまう危険があります。それを受けて今日の御言は「ですから」で始まっています。そして賜物についてはこのように考えなさいと、教えが続いています。

★聖霊を受けたからと言って、自動的に教会がひとつとなるわけではありません。教会がひとつとなるためには、聖霊と聖霊の賜物が何のために与えられたかの理解が必要なのです。そのことを知らなかったコリントの教会は、ひとつになるどころか、分裂の危機に至ってしまったのです。ユダヤ人、ギリシャ人、奴隷、自由人という多民族で構成するコリント教会が、ひとつとなって前進するためには次の理解が必要だったのです。

★それは「教会はキリストの体である」ということです。パウロは他の手紙(ローマ12:4)などでも、教会をキリストの体として記しています。パウロが教会をキリストの体と知ったのは、おそらくダマスコの道で「パウロ、なぜ私を迫害するのか」(使徒9:1~5)と聞いたことによるであろうと考えられます。教会はキリストの体なのです。

★神様は教会がキリストの体として健康で力強く活動することが出来るように、クリスチャン達に異なる賜物、異なる能力を与えられたのだと記しています。そして体は、弱く目立たない所こそ大切であり、各部分が互いに労わりあうことが大切であると教えています。心臓や肺は目立ちませんが、心肺停止になれば人は死にます。また体の一か所でも痛めば、体全体がカバーするのです。まさに、今日の御言葉の最後にある「ひとつの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ」(26節)の御言のとおりです。

★私達には、神様から御心のままに賜物が与えられています。賜物の無い人など一人もいません。その与えられた賜物を用いて、互いの益の為に生きるキリストの体となるのです。教会は単なる人の集まりではありません。キリストの体としての生命体の繋がりなのです。体の一部が自己主張すると、体全体が痛みます。そのような自己主張がない状態が、体の健康な証拠です。聖霊に満たされキリストの体としてひとつとなり、力強く活動しましょう。

 

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15日ペンテコステ記念礼拝「聖霊の教会」

第一コリントNO34「聖霊の教会」12章4~11節 ペンテコステ礼拝 仁井田義政 牧師

charismatic-pentecostal-worship-city-harvest-church-singapore-large今日は聖霊降臨日です。聖霊降臨日は、教会誕生の日でもあります。聖霊によって教会は力ある教会となって産声をあげました。しかしコリント教会には、力ある教会となれない問題がありました。その問題とは何だったのでしょうか。

★コリント教会は、聖霊の賜物が豊かな教会でした。しかしその豊かさが、教会分裂危機の原因となっていたのですから驚きます。それは、信徒達が賜物の優劣を競うような状態になっていたからです。神様からの賜物を、自分の物のように思ってしまっていたのです。賜物はギリシャ語の「カリスマ」で、それはギリシャ語の「カリス=恵み」プレゼントと言う意味から来ています。貰ったのだから自分のものだと思ったのでしょう。

★賜物には、与えて下さった神様の目的があります。そして賜物には、優劣の差などありません。三位一体の神様が与えて下さった賜物には、神様の御計画と目的があるのです。その目的とは、7節にある「みなの益となる為」であって、神の教会全体の益となるように与えられたのです。個人が誇る為ではありません。そこをわきまえなかったので、コリント教会は聖霊の賜物が豊かに与えられていたのに、分裂の危機が起こったのです。

★力強いキリストの教会となるように、神様が御心のままに与えて下さったのが聖霊の賜物です。それぞれに与えられている賜物は、やみ雲に与えられているのではありません。神様の緻密な御心によるのです。神様は力強い教会をこの世に送り出すために、考え抜かれてそれぞれの人に賜物を与えて下さっているのです。その目的に沿って用いる時に、カリスマ的な能力を発揮することが出来ます。教会がキリストの教会として、黄泉の力をも打ち砕く力ある教会として、賜物を用いる一致が必要なのです。

★聖霊の教会とは、単に異言を語ることではありません。異言を語ると同時に、聖霊に満たされ聖霊の賜物を喜んで教会の働きに用いることが聖霊の教会です。目立つ賜物であろうと、全く目立たない賜物であろうと、主権者であられる神様の正確な御心によって、それぞれに賜物が配置され配備されたのです。今日の午後は聖霊待望会があります。主の前に出て、溢れる聖霊の満しに浸され(バプタイズされ)ましょう。

 

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5月8日礼拝メッセージ「イエスは主である」

第一コリントNO33「イエスは主である」12章1~3節 仁井田義政 牧師

 e1e77c6059d2c69c4894a90be61d762aコリント人への手紙12章は、前の章とは違う新しい内容で書き始められています。その新しい内容とは、教会に与えられた聖霊の賜物のことです。

★パウロは「御霊の賜物についてはぜひ次のことを知っていただきたい」と記し始めました。それは、異教社会から教会の中に異教的な興奮を持ちこみやすかったことによります。どんなに異教の礼拝で神がかり的な事があったとしても、それは物言わぬ偶像の前の興奮にすぎないと教えました。

★パウロは、聖霊に満たされている者は「イエスは呪われよ」とは言わないと言いました。これは、ユダヤ教徒たちがクリスチャンを迫害して、踏絵的に言わせたのかもしれません。パウロもかつてはクリスチャンへの迫害者でした。ですからパウロ自身も、かつては「御名を汚す言葉を言わせようとした」(使徒26:11)のでした。申命記21章22~23節の「木につるされた者は、神に呪われたものである」などの御言を用いたのでしょう。

★キリスト教徒の迫害者であったパウロが、「神の御霊によって語る者は誰でも、イエスは呪われよと言わず、また聖霊によらなければ誰もイエスは主ですと言うことは出来ません」と記したのです。それは口先だけの告白とは違います。イエス様は、終りの時には口先信徒が出てくることをマタイ7章22節で預言されました。しかし聖霊によって「イエスは主です」と告白する者は真のクリスチャンです。聖霊は心から「イエスは主です」と告白させるのです。この時代は、「皇帝は主です」と言わされることが多い時代でした。その時代に「イエスは主です」という告白は、信仰的な勇気が必要でした。

★聖霊の賜物としての最大の働きに導かれて「イエスは主です」と告白に導かれた者は、決して「イエスは呪われよ」とは言わないのです。もっと分かりやすく言うならば、信仰からの脱落をしないのです。親兄弟の言葉にも左右されない。自分自身の心の声にも左右されないのです。どんな宗教的な興奮にも惑わされない。どんな霊的に見える人間にも惑わされない。そのような信仰こそ、聖霊による「イエスは主である」との信仰告白です。

★聖霊の導きに全身全霊をゆだねて「イエスは主である」と告白しましょう。また洗礼を受けていない人も、聖霊の導きに従順になって、私も「イエスは主である」と信じますと信仰告白の祈りをしましょう。

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5月1日礼拝メッセージ「聖餐にあずかる」

第一コリントNO32「聖餐にあずかる」11章17~34節 仁井田義政 牧師

holyCommunion[1] 今日の聖書の箇所には、西暦一世紀頃の教会における聖餐式の様子が記されています。それから二千年を経た今日の教会でも、聖餐式が行なわれています。聖餐式にあずかるということはどのような意味があるのでしょうか。

★一世紀の教会では「イエス様の最後の晩餐」のように、まさに夕食だったのです。最初の頃は夕食を兼ねた聖餐も素晴らしく機能していました。(参照:使徒2:46)それは単なる夕食ではなく「主の晩餐」と言う名の教会のサクラメント(儀式)でした。しかし時間に余裕がある裕福な者は、夕方早くから飲み食いしてしまい、時間が自由にならない貧しい者や奴隷達が、仕事を終えてから来る頃には、聖餐のパンとぶどう酒が無くなってしまうということが起こりました。

★このように裕福で自由に時間がとれる階層と、貧しくて時間の取れない階層が聖餐式で分れてしまう様なことであれば、聖なる聖餐式の場が分裂の時となって、神の教会が軽んじられていることになってしまいます。そこで教会は聖餐式と食事とを分離して、現代の聖餐式の形になったのだと思われます。教会で初めて聖餐式を見られた方は、そのパンの小ささと杯の小ささに驚かれたことと思います。

★聖餐式を行なう大切な理由は、大きく分けてふたつあります。ひとつは、「キリストの十字架」という過去の事実を思い起こすことです。それは、私の罪の為に十字架について下さったイエス様を思い起こすためです。ふたつ目は、「主の来られるまで主の死を告げ知らせる」ということです。「告げ知らせる」とは、宣教に関わることです。

★このように聖餐式は、自分の罪の為に十字架について下さったという、イエス様の大きな愛を忘れないように、感謝と信仰を燃え立たせる為のものです。それと同時に「今も生きておられ、やがて再び来て下さるキリストを宣べ伝える」という宣教への献身の場なのです。信仰の修正と感謝、そして宣教の働きへの献身が、聖餐式において行なわれなければなりません。

各月の第一日曜日は、溝の口キリスト教会の聖餐式の日です。信仰を正して、心から主の聖餐にあずかりましょう。

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4月24日礼拝メッセージ「男らしさ、女らしさ」

第一コリントNO31「男らしさ、女らしさ」11章2~16節 仁井田義政 牧師

tl145_01今日の聖書の箇所は難解なところです。一見すると、現代社会において最も嫌われる男女差別について書かれているように思えます。果たして現代の私達に、何を教えようとしているのでしょうか。

★この時代の一般的な社会常識は、女性は公の場所ではかぶり物を被るのが常識でした。それは、ユダヤ教社会やギリシャやローマ社会においても同じでした。しかしその反対に、男性は被る必要がありませんでした。キリスト教会では男女同権が進んだために、被り物をしない女性が出てきたのです。

★そのような急激な変化は、教会の伝道にブレーキをかける事態となり始めました。キリスト教の母体となったユダヤ教では女性の地位は低く、公の礼拝で「祈りや預言」は出来ませんでした。せっかく教会という公の場で、男性と同じように「祈りや預言」という奉仕が出来るようになったのに、被り物をしない女性が出てきたために、世の人々から受け入れられない危険があったのです。それは、当時女性が公の場で被り物をすることが、女性の慎ましさと心の優しさを現わすことだったからです。急進的な女性達の振舞いによって、教会が悪い教えによって破廉恥な女性を作っていると批判されかねない事態になったのです。時は迫害時代でした。

★パウロは男性と女性が同じではないことを説明しました。それは男女の差別ではなく区別です。その区別とは、男らしさ女らしさです。女性は「女の権威の象徴」(10節)として、あるいは「女の光栄」(15節)として、そうすべきなのですとパウロは記しました。だからと言って教会でどちらが尊いと言うのではありません。「主にあって、女は男なしには存在せず、男は女なしに存在しない」それは結婚のことでなく、奉仕のことです。男女が居て初めて、素晴らしい神の栄光が教会を通して現わされるのです。 

★それでは、現代の教会においても女性は被り物をすべきなのでしょうか。現代の女性の多くは被り物を付けておりません。もし被り物をして集まれば、それこそ奇異に見えるでしょう。しかし聖書の原則は適用できます。女性は女性らしい光栄つまり素晴らしさを、男性は男らしさを失わないようにして、神様と教会に仕えることが大切なのです。

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4月17日礼拝メッセージ「他人の利益の為に」

第一コリントNO30「他人の利益の為に」10章23節~11章1節 仁井田義政 牧師

BRICKEY_xi_GoodSamaritan 「自由」ということほど現代において大切なことはありません。何でも自由に発言し、何でも自由に行動できる、それが現代の人間の基本的人権や権利と結びつく大切なことです。さらに資本主義社会に生きている者にとって、利益の追求も大切なこととして共通理解を得ていると思われます。今日の聖書の箇所には、その「自由」と「利益」という二つの言葉が出てきます。

★パウロは「クリスチャンは何をしても良いのです」と記しています。「何をしても良い」と言っても、ここでは偶像に捧げられた肉についてのことで、食事に限定されています。絶対的真理から見るなら偶像などと言う神は存在しない。だからどのような食べ物も、食べようが食べまいが自分の良心を痛めることなく、全く自由であると言っているのです。

★しかし、パウロはさらに「全てのことはしても良いのです。しかし全てが利益になるとは限りません」と記しました。そしてパウロは読者が誤解しない様に、さらに「利益と言っても、自分の利益ではなく他の人の利益のことです」と記しました。自分の良心が傷つかなくても、その事によって他の人の良心が傷つくのであれば、クリスチャンはそれを慎むべきだと言うのです。私達は、利益や良心と言うと自分のことと思います。ここに、一般倫理や一般道徳とは違うキリスト教倫理、またはキリスト教道徳の優れた真理があるのです。クリスチャンは「ユダヤ人やギリシャ人、または神の教会にも躓きを与えないようにしなさい。」と教えています。

★パウロは確信を持って、私はその様に生きています。「私を見習って下さい」と言いました。しかしこのキリスト教倫理・道徳は、パウロの創作ではありません。ですからパウロは「私がキリストを見習っているように」とその出所を明らかにしているのです。イエス様こそ「人々が救われるように」と、自分の利益をひとつも求めずに生涯を送られたお方でした。

★私達の模範はキリストです。イエス様は十字架の死に至るまで、ご自分の利益をひとつも求められなかったお方です。パウロはそのキリストに習って、自分の利益も自由も制限して、人々の利益の為に生きた使徒なのです。私達クリスチャンも自分の自由と利益を制限してでも、人々と教会の為に生きるクリスチャンとなろうではありませんか。

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4月10日礼拝「偶像礼拝を避けよ」

第一コリントNO29「偶像礼拝を避けよ」10章14~22節 仁井田義政 牧師

venus_greece 当時ギリシャ文化の影響のもとに、至る所に偶像の神殿がありました。その中でもコリントの町には、不道徳を拡散していた女神アフロディテの神殿とその支配があったのです。その中でクリスチャンが正しい信仰を維持していくためには、偶像礼拝との決別が重要でした。その状況は、現代日本も同じです。日本において、生涯クリスチャンである為には、偶像との完全な決別が大切なのです。

★今日の御言は「ですから」で始まっています。それは、7節の「偶像礼拝者となってはいけません」と繋がっているのです。原文の「避ける」は「遠くに逃げる」という意味で、大きく距離を開けることを意味しています。

★コリントの人々も、多くの偶像を信じていた中からクリスチャンになりました。どんな宗教を信じていたか、無宗教であったか、は関係ありません。キリストの十字架によって、全てが洗い清められ、キリストの体である教会の一員となったのです。その交わりの象徴として聖餐式が行なわれます。それで聖餐式を原語では、交わりを現わす「コイノニア」と記されているのです。そこから英語では聖餐式を「コミュニオン」と言っているのです。

★偶像礼拝とは、偶像が何万あろうとも神々が何万と存在するわけではありません。その陰に悪霊がいて悪霊自身を礼拝させているのです。クリスチャンであって偶像を礼拝するのは、悪霊礼拝者です。そのような者とキリストの体である教会は、交わり「コイノニア」を持つことが出来ません。その為に、そのような人には聖餐の停止が行なわれるのです。

★偶像礼拝は「主のねたみを引き起こす」と教えられています。一般的に「ねたみ」は、悪い意味で使われることが多い言葉です。しかし「主のねたみ」は、神の聖い愛に対する裏切りへの神の怒りのことです。偶像礼拝に対する神の怒りは、必ずその人への裁きとなって臨むのです。その裁きを人間は到底避けることは出来ません。「まさか、私達が主よりも強いことはないでしょう」(22節)と言われている通りです。クリスチャンは「異教・霊媒・占い・異端」からはっきりと決別しましょう。主のねたみを自分の身に引き起こしてはいけません。聖い主の愛に感謝し、祝福の聖餐式にあずかり続けましょう。

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4月4日礼拝メッセージ「試練を乗り越える方法」

第一コリントNO28 「試練を乗り越える方法」10章7~13節   仁井田義政 牧師

Jesus43受難週と復活祭によって、二週間ほどコリントの連続メッセージから離れましたが、今日から、また戻ります。

★私達の人生は、困難や試練に囲まれています。イエス様は最後の晩餐の席でも「あなたがたは世にあっては患難があります」(ヨハネ16:33)と言われました。それはモーセに率いられたイスラエルの民が、荒野を四十年間旅した時と同じです。ですからパウロは荒野の歴史を引用しつつ話すのです。

★イスラエルの民が荒野で困難や試練に遭った時、その苦しみや試練から逃れるために、信仰によって乗り切るのではなく、様々な罪を犯して逃れようとしました。金の子牛を作って偶像礼拝をしました。イスラエルの男性達がモアブの娘達と姦淫し、そのあげくモアブの神々を礼拝しました。その結果、神様の裁きを受け二万三千人が死にました。またある時は、主を試みる罪を犯し、多くの者が荒野でヘビにかまれて死にました。またつぶやきの罪も犯しました。それは不平不満です。イスラエルの歴史の中で、不平不満が一番多かったのではないでしょうか。そのような罪の結果、出エジプトをする時に二十歳以上だった者は、全て荒野で滅んだのです。例外はヨシュアとカレブの二人だけでした。

★それでは、苦しみや試練を乗り越える方法はあるのでしょうか。それは、偉大な神様が全てを支配しておられるという信仰に徹することです。試練はテストです。神様は、私達を滅ぼす為に試練に会わされることは決してありません。本物かどうかテストしておられるのです。アブラハムの試練(創世記22章)を思い出してみましよう。アブラハムは、神様から「ひとり子のイサクを捧げよ」と言われました。アブラハムがそうしようとした時「あなたの信仰は今わかった。イサクを殺すな」と神様の声が聞こえたのです。見ると木の枝に角を引っ掛けた雄羊がいました。神様が備えられた犠牲の動物でした。

★今日の御言には「神は真実な方ですから、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。試練と共に脱出の道も備えて下さいます」と記されています。どんな試練にも脱出の道があるのです。不信仰になってはいけません。神様の御言を信じて祈り、信仰に立って試練を乗り越えましょう。

 

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