8月14日礼拝メッセージ「どのようにして人は復活するのか」

第一コリントNO44「どのようにして人は復活するのか」15章35~49節 仁井田義政 牧師

 P1020951パウロはすでに多くの文字数を用いて復活を論証してきました。しかしそれだけでは、コリントの復活否定者たちは納得しないだろうと考えました。そこで彼等が復活についてこのように質問をするだろうと想定して、今日の御言を記しました。

★それはまた、現代人も同じように質問をするだろうと思われます。現代のクリスチャンの中にも、「死者がどのような体で甦るのか」を明確に知らない人がいます。土葬ならまだしも、現代の火葬ではその体の材料が無くなってしまいます。パウロは、そのような質問者を「愚かな人だ」と手厳しい語調で記しています。その愚さは、知性の欠落のことではありません。神様の力を知らないゆえの愚かさなのです。

★パウロは、自然界に見ることの出来る類似性を例にして論証し始めました。一粒の種が地にまかれると、その種は死ぬけれど、もっと豊かな何十倍もの命で甦ります。肉も人間の肉だけでなく、獣の肉、鳥の肉、魚の肉があります。それと同じく、天上の体と地上の体には違いがあるのです。星もみな同じではありません。太陽の栄光も月の栄光も、他の星の栄光もそれぞれに違うのだとパウロは言いました。それと同じくクリスチャンが死んだ後に甦ると言っても、全く同じ物質で出来た体で甦るのではありません。

★私達クリスチャンが、死んだ後に甦って天国に入ることが出来るというのは、単に霊的に甦ってというのとは違います。体も甦るのです。しかし体の甦りと言っても、この地上の物質から出来た体とも違うのです。それを混同すると、火葬で燃え尽きてしまった体の物質がどのようにして元通りになるのか等と言う疑問に悩まされるのです。パウロは「死者はどのよう復活するのか」との問いに答えています。私達の体が土葬で腐敗して消えてしまおうと、焼かれた骨が風化して無くなってしまおうと、心配はいらないのです。地上に生きていた時よりも、完全な素晴らしい霊的な体に甦らされるのです。私達はみな霊的真理に目を開き、キリストを信じる者に与えられる復活の希望に心を躍らせましょう。

 

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8月7日礼拝メッセージ「復活と刹那主義」

第一コリントNO43「復活と刹那主義」15章29~34節 仁井田義政 牧師


e1e77c6059d2c69c4894a90be61d762a一世紀の初代教会においては、異端的なギリシャ的一派が影響を与え始めていました。その一派とは、グノーシス主義です。日本語に訳するならば「主知主義」と言われた一派です。彼らは、「死者の復活はない」と主張していたのです。パウロはその間違いを正そうと今日の御言も書きました。

★ですがパウロは、その中で誤解を受けかねない言葉を書きました。「もしこうでなかったら、死者のゆえにバプテスマを受ける人たちは、何のためにそうするのですか。もし、死者は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは、死者のゆえにバプテスマを受けるのですか」(15:29)が死者の為の身代わり洗礼が有効であるかのように書いているのです。しかし死者のための洗礼についての言及は、聖書のここ以外にありません。それはコリント教会の中にあった一派の特有なものであったのではと考えられています。彼らがそのような事をしているのを「死者の復活がないなら、なぜあなたがたはそうしているのか」との意図であったと考えられます。

★しかしその影響は現代にも及んでいます。「イエスの御霊教団」では死者の身代わり洗礼をしています。「モルモン教」においても行なわれています。他にも身代わり洗礼とまではいきませんが、「誰にも死んだ後に救われるチャンスが与えられている」と教える「セカンドチャンス」の教えが教会に忍び込んでも来ています。死んだ者がイスラム教・仏教・神道に関係なく、身代わり洗礼によって救われるとは、何とこの地上の信仰の大切さを踏みにじってしまう教えでしょうか。

★パウロは「キリストの復活がなかったとしたら、死者の復活がないとしたら、私達はなぜ危険にさらされてまで伝道しているのでしよう。」と記しました。もし私達に復活という希望がないならば、人生に意味を失ってしまうのです。さらにパウロは「もし復活がないならば、明日は死ぬのだ、さあ飲み食いしようではないか。」と記しました。それは刹那主義であり快楽主義です。しかしキリストは蘇られたのです。ですからそれを信じる私達も生きるのです。復活のイエス様が、私達の希望です。感謝しましょう。確かな人生の希望がそこにあると告白しましょう。

 

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7月31日礼拝「キリストの保証」

第一コリントNO42「キリストの保証」15章20~28節 仁井田義政 牧師

6a6e7f650ccb798ef64919da1a59b64e 今や保証の時代だと思います。保証は契約によって成立します。聖書は契約の書です。それと同時に保証書なのです。その保証と契約にイエス様が大きく関わっておられます。私達に与えられているキリストの保証は、どんなに素晴らしいものでしょうか。

★聖書に、キリストは眠った者の初穂としてよみがえられたと記されています。初穂とは、麦の収穫を前にして行われたものです。まず神様に初穂を捧げてから、後に収穫全体を行なうのです。その初穂は必ず畑から穫った物で、畑以外に生えた物ではいけません。畑の豊作を感謝し祈る祭なのです。キリストは人類の初穂としてよみがえり、神様にささげられたのです。それから大収穫が始まるのです。

★人類は、アダムの契約違反によって命の保証を失ってしまいました。人間の死は、アダムによって入ってきたのです。アダムの名の意味は「人」です。人類は、その代表である「人」の契約違反によって保証を失ってしまったのです。しかし新たな人類の代表としてのイエス様が、新契約を結んで下さいました。古いアダムの契約に留まるのか、イエス様による新契約に乗り換えるのかが、人には委ねられているのです。

★イエス様は、新契約の保証を見せてくださいました。それがイエス様の御復活です。イエス様は私達の初穂として、私達に保証の確実性を見せてくださいました。初穂が捧げられた後に一斉に麦の収穫が始まるように、キリストの新契約に預かる私達も、一斉に神のものとされるのです。

★キリストは初穂であり、人類で最初によみがえられました。これは歴史の事実であり保証です。そのキリストが再臨される時、まずキリストの救いを信じて墓に葬られた人達が甦ります。次にキリストを信じて生きている人々が霊的体に変えられます。その後に人間の最後の敵である「死」が、キリストによって滅ぼされるのです。ついにキリストの「人間を救うという使命」は大勝利して終了するのです。私達の人生はイエス様による大勝利の保証があるのです。そのことを信じて、喜びに満ちて活動しましょう。

 

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7月24日礼拝メッセージ「絶望か希望か」

第一コリントNO41「絶望か希望か」15章12~19節

                         仁井田義政 牧師

006-Risen-Christ-950人間には、人生を考えて絶望して生きる人。人生など考えないで生きる人。人生を考えて希望に満ちて生きる人がいるのではないでしょうか。聖書は、絶望と希望の分岐点を明確に教えています。

★コリント教会のギリシャ人の中には、ギリシャ哲学のある考えによって死者の復活はないと信じている人達がいました。それではなぜ教会に加わったのでしょうか。それは、キリスト教会の倫理道徳に魅了されたのかも知れません。このように教会が新しい倫理道徳を教える所という考えは、昔も今もあったのです。特にギリシャ哲学のギリシャ地方においては、非合理性を排除しようとする人もいたのです。

★パウロは、コリント教会がそのような骨抜き状態の信仰の教会になってしまうことを拒否したのです。キリスト信仰は、使徒信条が示すように「三日目に死人のうちよりよみがえり」と、事実の上に築かれているのです。そしてキリストの復活によって、私たちの復活も確信するのです。このように、キリストの福音は教えによるだけではなく、キリストの歴史的事実の上にあるのです。教えはある意味なんでも言えますが、歴史的事実が一番難しいのです。ましてや不合理極まりない事実ほど難しいのです。キリストは、不合理極まりない奇跡の復活を歴史的事実として行なわれたのです。

★もしキリストの復活がなかったならば、私達の信仰は一瞬にして空しいものになってしまいます。キリスト教会二千年の伝道は、空しい努力だったことになるのです。パウロの小アジアからヨーロッパ。リビングストーンのアフリカ。ハドソン・テーラーの中国奥地。ジョン・ウエスレーのイギリス。その全ての働きは空しいどころか、大嘘つきのものとなるのです。そして私達の信仰そのものが空しく、人類中最も哀れな者達となってしまいます。

★私達の信仰は、どこかの教祖の言葉だけによる一瞬で消え去るような希望ではないのです。キリストの復活という歴史的事実に基づいた希望なのです。私達人間にとって、絶望か希望かはキリストの復活を信じるかどうかにかかっています。キリストは復活されました。それが福音です。キリストの復活を信じ、希望に溢れて力強く生きて行きましょう。

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7月17日礼拝「主の復活と福音」

第一コリントNO40「主の復活と福音」15章1~11節 仁井田義政 牧師

4eb0bc6a32af5ea366610a4a0c8a4d54ある学者は、今日の15章をコリント第一の手紙の冠であると言っています。パウロは、教会とクリスチャンに与えられた福音とは何かをここに記しました。復活は、福音とどのような関係にあるのでしょうか。

★コリント教会の一部の人達は、パウロからもう一度福音のイロハを教えられなければならない状態でした。イエス様が旧約聖書に書かれている通りに「私達の罪の為に死なれた」ことや(イザヤ53章など)、 聖書の示す通り三日目によみがえられたこと(詩篇16:10)などです。キリストの復活こそ、福音であることを教えられなければなりませんでした。

★イエス様でなくても民衆の為や思想・主義の為に、すすんで犠牲になって死ぬ人はいるでしょう。殉職です。しかしどんなに立派な死でも、決してよみがえることは有りません。イエス様も殉教死され墓に葬られたのです。このままでは殉教者であり、殉職者です。しかし弟子達の予想も人々の予想も超えて、イエス様はよみがえられたのです。これが福音です。イエス様はよみがえられ、今も生きておられるからです。

★イエス様の復活の事実は、多くの人達が目撃しました。最初はマグダラのマリヤに。ケパに。12弟子達に。その後500人以上の人達に。そしてクリスチャン達を殺していたパウロにまで現れたのです。しかもこの手紙が書かれたのは紀元55年~57年の間ですから、イエス様がよみがえられて20年以内です。ですからパウロが言っているように、イエス様の復活を見た500人の「大多数の人々が今も生き残っていた」時の手紙なのです。この手紙の著者パウロまでが、キリストの復活から約2年後にキリストに会ったのです

★私達のイエス様は、死よりよみがえって生きておられるのです。そのよみがえられたイエス様が、私達の人生を一緒に歩いて下さっているのです。更には死からよみがえられたイエス様は、私達をも死からよみがえらせ、死の彼方の天国にまで連れて行って下さるのです。ですからイエス様の復活こそ福音なのです。復活のイエス様を信じて、信仰を守り通し、意味あるこのクリスチャン人生を力強く生きて行きましょう。

 

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7月10日礼拝メッセージ『全て人の徳を高めるために」

第一コリントNO39「全て人の徳を高めるために」14章20節~40節 仁井田義政 牧師

AR-141209518パウロは、12章からコリント教会における聖霊の賜物について記してきました。その混乱は、教会の礼拝において顕著に現れました。原因が「愛の不足」であったため、13章と14章の初めに「愛の勧め」が強調されているのです。パウロは、今日の14章26節からこの問題に対する結論を記します。

★コリント教会は、「目立ちたい」「自分を認めさせたい」と思う人達がいました。特に異言を最高の賜物とする人達がいたと思われます。聖霊の賜物の豊かな教会も、そうであればなおのこと、秩序ある礼拝をすべきなのです。

★全ての賜物は、人の徳を高める為に用いるべきである。

パウロは26~36節で、教会は秩序ある礼拝をしなさいと教えています。特に33節では「神は混乱の神ではないからである。」と記しています。教会は、自己主張や自己顕示をする場であってはならないのです。

★今日の御言の中には「教会では女性は黙っていなさい」と女性蔑視のような言葉も記されています。女性達から猛反対を受けそうなパウロの言葉です。しかしパウロは他の手紙では、このような言葉を記してはいません。 それから見ても、コリント教会の女性達の特殊性がこの指導をパウロに起こさせたのです。つまりコリント教会には、11章に記されているような「かぶりものを捨てる」ような、急進的な女性達がいました。聖書版アマゾネス軍団の出現です。そのような女性達が「異言」を最高の賜物と主張し、教会の礼拝メッセージや祈り、賛美などの秩序ある礼拝を無視し、異言で祈りまくっていたのです。パウロはそのような無秩序状態に「預言も、異言も禁じてはいけない。全てのことを適切に秩序をもって行いなさい。」(40節)と教えました。これが結論なのです。 

★クリスチャンは、全ての人の徳を高める為に賜物を用いるべきです。どんなに優れた賜物や能力も、自己主張や自己顕示欲に支配されて用いる時、それは教会における害となるのです。すべての賜物は主が与えて下さったのです。与えられた賜物を神様と人々への愛に満たされて用いましょう。全ての賜物を用いて人々の徳を高めましょう。

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7月3日礼拝メッセージ「愛を追い求めなさい」

第一コリントNO38「愛を追い求めなさい」14章1~19節 仁井田義政 牧師

GiveMeJesus前の章から聖霊の賜物問題が続いて記されています。この章はとても大切です。この所を通して、正しいペンテコステの信仰を持ちましょう。

★コリント教会には、行き過ぎた人々がいました。収拾がつかないほど、異言で祈る人たちがいたのです。異言の伴う聖霊のバプテスマこそ最高の賜物だと主張し、牧師が説教出来ない程に異言で祈っていたのです。それでは礼拝になりません。現代にも、行き過ぎたペンテコステ派があります。異言が救いの証拠だと言う人たちもいるのです。

★パウロは、賜物は全て人の徳を高めることにあると記しました。異言は人の徳を高めるのではなく、自分の徳を高めるのであると教えました。しかし預言である説教は人の徳を高めるのであるから、教会の礼拝においては、預言をする人に従うべきであると教えました。それは異言が必要ないと言っているのではありません。パウロは「異言は自分の徳を高める」と、聖霊の働きを教えています。だからこそ、イエス様が与えて下さったのです。自分の信仰を高めないでどうして伝道ができるでしょう。聖霊のバプテスマは伝道の力です。だからと言って異言を解き明かす人がいなければ、異言そのものでは伝道できません。ですから説教の代わりにはならないのです。

★ パウロは「霊において祈り、知性において祈りましょう。霊において賛美し、知性において賛美しましょう。」(1コリ14:15)と教えました。聖霊のバプテスマを知らない教会では、神の教会の豊かさを失い、礼拝も大学の教室のような礼拝になることが多いのです。私たちの教会では、霊において祈り、知性において祈り、霊において賛美し、知性において賛美するのです。

★パウロは「私はあなたがたの誰よりも多くの異言を話すことを神に感謝している」(14:18)と言っています。さらにパウロは「愛を追い求めなさい」と教えました。それは愛されることではありません。愛することです。その道は生やさしいものではありません。聖霊によって霊性を高め、賜物を用い人々を愛するのです。あなたも愛を行なうクリスチャンとなりましょう

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6月26日礼拝メッセージ「愛は永遠」

第一コリントNO37「愛は永遠」13章1~13節 仁井田義政 牧師

bd4d3f8d750b228b493de2d40d7b80f4 (1)コリントの教会の人々は、一見すると素晴らしい人々に見えました。当時の流行の先端であった様々な哲学に通じた人々がいました。経済的にもコリント特有の貿易で潤った富裕層もいました。また教会に必要な霊の賜物が豊かに与えられた者たちも多くいました。しかしコリント教会には、決定的な欠陥がありました。

★13章に入って、愛がないなら全てのことが無益であると示されています。異言・預言・知識・山を動かす信仰を持っていても、愛がないなら全てが無益なのです。これはペンテコステ派の否定ではありません。「愛がないなら」であって、愛があれば全てが有益なのです。

★コリント教会には全てのものがありました。しかし愛がなかったのです。その為に全てが無駄になりそうになっていました。1章~4章の指導者選びの分裂危機。5章の不品行問題。7章の結婚問題。10章の偶像礼拝問題。 11章の貧しい者を軽んじた聖餐式問題。12章の賜物の優劣論争問題。そして、今日の13章の「愛の章」があるのです。愛がないならば、全てが空しいのです。ペンテコステの信仰も、無駄で無益なのです。全てのクリスチャンは、このことに対してアーメン「その通りです」と言わなければなりません。

★有能な能力を持ちながら、どのようにして完全な愛を持つことができるのでしょうか。傲慢になりすぐに何々学派を作り、自分たちの方が上だと主張したがるのが人間です。15章の9~10節を見ると、そこに偉大で謙遜なパウロの自己理解が記されています。パウロは「私は使徒とかクリスチャンとか呼ばれる資格さえありませんでした。今あるのは恵みによるのです。」と言っています。神様の恵みによって、私達もあるのです。 

★愛とは何でしょう。人間の愛では長続きしません。神の愛である「アガペー」の愛が必要なのです。その為に信仰の原点に立つのです。決して誇り高ぶってはなりません。愛こそ永遠の価値なのです。お互いに愛を実践しあって、それぞれに与えられている神様の賜物を教会に満ち溢れさせましょう。

 

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ペンテコステミニストリー「ペンテコステの説教」

ペンテコステミニストリー「ペンテコステの説教」中央聖書神学校授業にて 仁井田義政 牧師

14899123531_f6b4873dd7_b今日の礼拝はアメリカのカイアルファの学生による奉仕ですので、メッセージの要約はありません。そのため牧師が先週の木曜日に行なった神学校での授業の要約を載せることにします。スペースの都合上、その全てを記すことが出来ませんので、その中の2~3を記すことにします。

★ペンテコステの説教者に有りがちなのが、「聖霊に導かれて話す」という言葉に隠れて、説教の準備をおろそかにしやすいことです。しかしペンテコステの説教者こそ、準備の段階から聖霊に満たされて準備をしなければなりません。神の御言を話すのですから、準備し過ぎることはないのです

★ペンテコステの説教者は、何にでも興味を持って調べることが大切です。天文、物理、哲学、歴史、文学、芸術、植物、動物など。「そんなに広い知識を持つことは私には無理です」と思う人もいるかもしれませんが、広く浅くでも良いのです。人間としての広さとバランスが大切なのです。

★神学生は、説教学と牧会学などの実践神学こそが神学の花であることを心得て学ばなければなりません。組織神学やギリシャ語、ヘブル語、聖書学などが神学生達には魅力的に感じるかも知れません。しかしそれらは根であり、茎であって花ではないのです。根も幹もしっかりしていなければ良い花は咲かないことも事実ですが、根や幹がどんなにしっかりしていても花が貧弱では意味がないのです。この神学校の目的は「ペンテコステの説教者」を育成することです。すべての学問を牧会と説教学の下におかなければなりません。

★ペンテコステの説教者は、一番何を話さなければならないのでしょうか。それは今も生きておられるキリストを聖霊の助けを頂きながら話すのです。今も生きておられるイエス様と聴衆を出会わせるのです。その人を罪から解放し、その人の人生を変えるのです。これがペンテコステの説教者です。

 

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6月12日礼拝メッセージ「神の霊によって」

メッセージ「神の霊によって」ゼカリヤ書 4節 めぐみ福音キリスト教会 stainedglassdesignb11三宅規之 牧師

神の霊によってすべてが始まる。

この天地の秩序も私たちの命も、神の霊によって始まりました。そして神様の偉大な御業はすべて聖霊から始まっています。

私たちの人生にも、神様が何かを始めようとしておられます。まだ小さくて、それが何かは分からないかもしれません。しかしそれはやがて大きくなり、見たことのないような素晴らしい御業となります。重要なのは、私たちの力ではありません。神の霊、聖霊です。私たちが、聖霊様、どうか私のうちに、ご自身の業を始めてください、と祈るのであれば、必ず神の霊が何かを始められるに違いありません。すべてを始められる神の霊を求めましょう。

2、神の霊は私たちと共にいる。

私たちが、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、受け入れたとき、神の霊が私たちに宿ります。私たちは、神の霊といつもともにいることができます。

私たちが苦しみのうちにあるとき、聖霊が私たちと一緒にいるのです。私たちが悲しんでいるとき、聖霊が一緒にいてくださるのです。私たちがどう祈ったらよいのか分からないときも、聖霊が居てくださり、私たちのためにとりなしてくださるのです。

この聖霊とともに歩んでまいりましょう。

3、神の霊によってすべてが完成される。

神様は私たちに、「恐れてはならない。おののいてはならない。私の霊によってはじめたことは、私の霊がそれを完成させる。あなたはただ、私の行なう業を見なさい」と言われます。聖霊が成し遂げてくださいます。

神様が始められることを期待しましょう。また神様が成し遂げてくださることを信じましょう。神の業が、教会と私たち一人ひとりの人生に起こりますように、聖霊に満たされ、聖霊とともに歩んでまいりましょう。

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