(6月14日礼拝)「大喜びと復活の朝」

(マタイNO134)「大喜びと復活の朝」マタイ28章1~10節 仁井田義政 牧師

お墓に行って「大喜びした」等ということは余り聞いたことがありません。お墓には死によってもたらされた無言の敗北感が満ちているからです。イエス様が墓に入れられて三日目、初めてお墓参りに行ったマグダラのマリヤ達も同じであったと思われます。マリヤ達の顔には微笑みすらなかったのです。よく日本の墓のイメージは、暗く悲しみに満ちていますが、西洋の墓は喜びに満ちていると言われることがあります。このような聖書の影響によるのかもしれません。マリヤ達が大喜びに至った訳を聖書の中からお話しいたしましょう。

★マグダラのマリヤは、7つの悪霊に支配されていた女性だったと聖書に記されています。そのようなひどい状態からイエス様によって救われたのです。 そのマリヤが、日曜日の朝早く葬られて3日目にもなるイエス様の墓に向かったのです。そして墓には女性の力ではどうにもならない重い扉があるのです。しかし御使いの介入によって重い扉は開かれ、「イエス様はここにおられない」と告げられたのです。

★御使いは「イエス様が甦られたこと。イエス様がガリラヤに先に行かれ待っておられることを伝えよ」と命じました。しかし弟子達は信じるだろうか。ペテロもトマスも女性の言う事を信じるだろうか。しかも復活を女性達は見てはいないのです。しかしイエス様は走ってくるマリヤ達と「出会った」ことが記されています。「出会って」と言う原語には「走り迎えて」と言う意味があるのです。その時マグダラのマリヤは喜んで、復活のイエス様を礼拝しました。

★絶望的な場所であるお墓で、マグダラのマリヤ達はイエス様の復活に出会い「大喜び」(8節)に満たされました。その女性達の大きな喜びは弟子達に伝えられ、弟子達から人々に伝えられ、人々からさらに世界の人々に伝えられて、今日のクリスチャンの喜びがあるのです。あなたにもこの大きな喜びが伝わっていますか。この大きな喜びを持っていますか。持っていたら、あなたもマグダラのマリヤ達のように恐れずに福音を伝える人になりましょう。

 神様は、当時軽んじられていた女性、しかも七つの悪霊につかれていると言われていたマグダラのマリヤを世界の喜びのために用いられました。今度はあなたが世界の喜びのために用いられるのです。そのことを感謝して伝道しましょう。

 

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6月7日礼拝「イエス様に墓を提供した人」

(マタイNO133)「イエス様に墓を提供した人」マタイ27章57~66節 仁井田義政 牧師

イエス様はついに十字架による極刑によって、金曜日の午後3時に息を引き取られました。今日の聖書の箇所は、その日の日没までの3~4時間の出来事と、次の日の出来事を記しています。11人の弟子達は、既にエルサレムの一室に隠れてしまっていました。イエス様のお体は、アリマタヤのヨセフの墓に葬られました。ヨセフが墓を提供したのです。今日の御言葉を通して、神様は私達に何を語りかけておられるのでしょうか。

★十字架の死は不名誉な死です。普通誰もその死体を引き取りたくはなかったのです。いつも十字架につけられた者の死体は、ローマ兵によってしかるべき所に捨てられるのが常でした。弟子達にもイエス様のお体を引き取ろうという考えはありませんでした。自分達の身の安全を考えてのことでしょう。死刑にされた犯罪者の体は、捨てられて動物や鳥達の餌食になるのが常でした。

★しかしアリマタヤのヨセフが、総督ピラトに願い出てイエス様のお体を引き取り、自分の墓に葬ったのです。彼はイスラエル最高会議の議員で、イエス様の処刑には反対していました。しかし「自分はクリスチャンです」とは言っていませんでした。その時もう一人の隠れクリスチャンが来ました。かつてイエス様の所に来たことのあるユダヤの指導者ニコデモです。彼はイエス様の体に塗る没薬を持ってきました。お金持ちのアリマタヤのヨセフは、自分と家族の為に新しい墓を作らせていました。その自分の墓に、イエス様のお体を惜しげもなくお迎えしたのです。

★「次の日」つまりは「安息日」です。祭司長とパリサイ人は、「安息日」の律法を破ってでも、安心の為にしなければならない事がありました。イエス様の死体が盗まれないように、ローマ兵を墓の番兵として配置してもらうことでした。その結果、墓は厳重に封印され、兵隊たちは交代で寝ずの番をすることになりました。そのような中で、次の朝早く、つまりイエス様が埋葬されてから三日目に、世界最大の奇跡・イエス様の復活が起こったのです。

★アリマタヤのヨセフは、極悪人として十字架で極刑にされたイエス様のお体を、自分と家族の為に作った新しい墓に受け入れました。ユダヤ人にとっては「神に呪われて死んだ」と思われている人なのです。その事によって自分の墓が、イエス様の復活された場所となったのです。アリマタヤのヨセフにとって、彼の墓は敗北の所ではなくなったのです。イエス様が彼より先に墓に入られ、そこから甦ってくださったからです。あなたも、ヨセフのように十字架のイエス様を心からお迎えしようではありませんか。

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5月31日礼拝メッセージ「見えない方を」

(礼拝メッセージ)「見えない方を」へブル11章23~27節  仁井田幸子師

 へブル11章には、目に見えない方を信じ、またまだ見ていない将来の祝福をも信じた人々のことが記されています。今日は、その中からモーセの信仰姿勢を学びたいと思います。

★モーセは、イスラエル民族がエジプトで奴隷の身であった時、レビ人の家に生まれました。エジプト王パロは、これ以上イスラエル民族が増えることを恐れ、助産師に生まれた男子はその場で殺すよう命じていました。しかし彼女達は、神様を畏れていたため王の命令には従いませんでした。そのような中でモーセの両親は、三カ月間モーセを隠し、その後パピルスのかごに入れナイル川の葦の茂みに置きました。そのモーセは、神様の奇しい計画によりパロの娘に拾われることになるのです。最高の教育を受け、やがて成人した時、虐げられている同胞を助けます。神様は燃える柴の中からモーセを呼び、苦しんでいるイスラエルの民を約束の地まで導くように召されます。

約束の地までは、数々の苦難や民の不平不満がありましたが、その中でモーセは神様を見上げ、見えない方を見えるように忍耐の限りを尽くして民を導きました。それでも人間の弱さを御存知の神様は、共にいることがわかるように(見えるように)昼は雲の柱、夜は火の柱に臨在を表してくださいました。

★私達も、どのようにしたら見えない方を見えるようにして生きることができるのでしょうか。ちょうどモーセに荒野で試練が与えられたように、神様は私達にも人生の所々に試練を与えられます。試練自体は辛いものですが、私達はその時、深く神様を求め神様に近づきます。祈らざるをえないからです。人生を振り返った時、その苦しいはずの試練が輝く宝石のように麗しいものとなっているのです。

★高熱のために体の瞼以外どこも動かなくなってしまった水野源三さんが「悲しみよ 悲しみよ 本当にありがとう おまえが私を この世にはない大きな喜びが 変わらない平安がある主イエス様のみもとに連れてきてくれたのだ」と詩っておられます。悲しみがあったからこそ、イエス様と出会えたと感謝しておられるのです。なんとすごいことでしょうか。

私達も苦しみや悲しみを乗り越えて、見えない方を見えるようにして、また見えないものを大切にして、生きていこうではありませんか。

 

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(5月24日礼拝)「神様からさえも捨てられた御方」

(マタイNO132)「神様からさえも捨てられた御方」マタイ27章45~56節

                                                   仁井田義政牧師

イエス様は午前9時に十字架につけられましたから、すでに3時間経っているわけです。そこには人間的な常識では説明や理解が不可能な事実が記されています。神の子が神から捨てられたという事実です。イエス様はどうして神様から捨てられなければならなかったのでしょうか。なぜ神様はイエス様を捨てなければならなかったのでしょうか。

★イエス様が十字架につかれた午前中の3時間は、肌を刺すような真昼の太陽が照っていたはずです。それなのに午後は太陽が黒雲に包まれ夜のようになりました。イエス様がこの地上に誕生された時は、大きな星が輝き暗闇が真昼のように明るくなりました。逆に今日は、真昼なのに暗闇が包んでしまいました。それは希望と絶望を表わすと同時に、神の御子の死が神の創造物である自然までもが悲しむ事態であることの表われでした。

★イエス様の十字架は、午後3時まで続きました。午後3時は、過ぎ越しの祭りで子羊が殺される時間でした。イエス様はその時に、大きな声で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられるのですか」と叫ばれました。さらに、また大きな声で「全てが終わった」と叫ばれました。その意味は「全てが完成した」という勝利の声でした。ふつう死に逝く者の声は、だんだん弱くなり最期を迎えるはずですが、イエス様は違いました。その時の為に力を保持しておられ、午後3時に爆発させたのです。

★十字架上のイエス様の最後の言葉は、ルカ23章46節に「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ、わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」と記されています。ここでの「息を引き取られた」は、日本の文化的訳文なのです。原語は「霊を送り出した」なのです。イエス様は大きな声を発しつつ、父なる神に「霊を送り出された」のです。

★イエス様は人からだけではなく、神様からも捨てられました。それは私たち人間の罪を背負って神様の前に立って下さったからです。その罪を背負ったイエス様に対して、父なる神様の裁きは少しの容赦もありませんでした。それなのにイエス様は「父よ、わが霊を御手にゆだねます」と、大声で力強く叫んで、父なる神に「霊を送り出された」のです。イエス様の十字架は、私達の罪の身代わりだったのです。イエス様の十字架を見上げて救われましょう。

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(5月17日 聖霊降臨記念礼拝マタイNO131)「世界の王イエス」

(聖霊降臨記念礼拝 マタイNO131)「世界の王イエス マタイ27章32~44節

                           仁井田義政 牧師

イエス様は、総督ピラトの内庭で500~600名によるローマ兵から暴力の限りを尽くされた後、ついに処刑場のゴルゴタの丘へ引かれて行きました。その道を歩かれたイエス様の本当の姿は「世界の王なるイエス様」なのです。

★その道でクレネ人シモンと出会いました。彼はアフリカに住んでいるユダヤ人で、過ぎ越しの祭りを目指して旅をして来た人と思われます。彼は「無理やり」イエス様の十字架を背負わされることになりました。しかし、この人はクリスチャンになったと考えられています。この人の二人の子供がマルコ15章21節で「アリキサンデルとルポスの父」と紹介されているからです。

★ゴルゴタの丘に着くと、ローマ兵はイエス様に「苦みを混ぜた葡萄酒」を差し出しました。十字架に両手両足を釘打つ時の処刑者への情けでした。それは麻酔の役割を果たしたのです。しかし、イエス様は差し出されたそれをなめただけで飲もうとはされませんでした。人間の肉体が受ける全ての痛みと苦しみを、わずかのごまかしもなく味わう決意の為でした。

★十字架についたイエス様の頭上には「これはユダヤ人の王イエスである」との罪状書きが掲げられました。それは、皮肉も込められた罪状書きでした。人々もその罪状書きを見て「自分も救えないで十字架につけられる王様などいるものか」と、イエス様をあざけりました。イエス様は、十字架の全ての痛みと人々の辱めの全てを漏らすまいと、十字架につかれたのです。

★本当の王は誰なのか。マタイの福音書2章1~2節は、イエス様の誕生の時から、東方の博士達によってこのテーマがたどられています。現代の世界の最高権力者は誰でしょうか。アメリカのオバマ大統領でしょうか。中国の習近平国家主席でしょうか。ロシアのプーチン大統領でしょうか。日本の安倍晋三総理大臣でしょうか。もちろん違います。本当の世界の王は、十字架の上でいばらの王冠を頂き、全ての苦しみを受けられた御方こそ、永遠の王なのです。

★十字架のイエス様は、人々の救いだけではなく、もうひとつの大きなビジョンを持っておられました。そのビジョンは、ヨハネ14章から16章の中に記されている聖霊のことです。イエス様が十字架につけられなければ「聖霊」は来られないのです。イエス様は十字架の上で、まもなく聖霊による宣教の拡大が始まることを望み、耐えられました。今日の午後の聖霊待望会では、イエス様のお苦しみを覚えながら、イエス様の希望に立って、聖霊の充満を求めて祈りましょう。

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(5月10日礼拝メッセージ)「棘の戴冠式」 マタイ27章27節~32節

 

(メッセージ マタイNO130)「棘の戴冠式」 マタイ27章27節~32節 仁井田義政 牧師

 

 ローマの総督の裁判での判決後イエス様はユダヤ人の管轄から、ローマ人の管轄へと完全に引き渡されたのです。それは「総督の兵士達は官邸の中に連れて行った。」と記されている事から明らかです。そこでイエス様に対する侮辱的ないばら戴冠式が行われたのです。しかしその侮辱的な「棘の戴冠式」にさえ、神様の人類を救う真理の成就が表されています。今日は「棘の戴冠式」に込められた、くすしき真理をお話し致しましょう。

 

★最初ピラトの外庭で裁判は行われました。訴える側のユダヤ人が異邦人の家には入らない習慣だったからです。外庭での裁判によってイエス様の死刑が決定したので、イエス様をローマの手に渡したのです。

 

★イエス様はローマ人だけの中庭に連れて行かれ、全部隊500人から600人の兵隊に取り囲まれました。そしてイエス様に王様の恰好をさせて笑い転げて楽しんだのです。ローマ兵500~600人が「ユダヤ人の王なのだから」と言って 王様の着る最高の紫布のマントに変えて、兵隊のマントを着せ、王の冠がないと言って近くに生えていた棘を冠に編んで王冠としました。王の権威の杖は葦の棒を代用しました。兵隊たちは、イエス様の王権を、コスプレ化し、パロディ化して遊んだのです。膝まずいて忠誠を誓う格好をしたりして遊びました。

 

★ 500人以上のからかいは、すぐに感情的になり、過激化して行きました。ツバキをかける人、葦の棒を取り上げてイエス様の頭を叩くなどを500人から600人以上の兵隊が次々に行ったのです。それは残虐な人間性の爆発でした。イエス様はされるままにまかせて沈黙し耐え続けられました。

 

★イエス様がこのように「棘の戴冠式」を、黙って受けられたのは何故でしょう。創世記2章18節のでは棘は人間が罪を犯したために与えられた神の呪いの象徴でした。それをイエス様は、御自分の頭にしっかりと受け止められ、人間の罪を引き受けられたのです。

 

★ある人には500人、600人の兵隊にからかわれても、ただ黙ってなすがままにまかせているイエス様の姿に、意気地のない、ただの弱い人間のようにしか見えなかったと思われます。しかしあなたの霊の目が開かれ棘の冠を黙って受け取られるイエス様のお姿に、救い主のお姿を見ることが出来ますように。そして、イエス様を信じてクリスチャンとなられますようにお勧め致します。

 

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(5月3日礼拝メッセージ)「十字架につけろ」

(メッセージ マタイNO129)十字架につけろマタイ27章11~26節 仁井田義政 牧師

大祭司カヤパの庭でのイエス様の裁判が終わり、その判決は死刑でした。しかしイスラエルはローマの植民地だったため、それだけではイエス様を処刑することは出来ませんでした。そこでカヤパは、イスラエルを支配するローマの総督ピラトに引き渡しました。裁判官は、正義に基づいた裁判を行なうことが当然な義務ですが、またしてもイエス様の前で人間の汚さが現されてしまうのです。

★ピラト官邸でも、イエス様の裁判が始まりました。祭司長や長老達は、イエス様を有罪にすべく不利な証言をし続けました。カヤパの家での判決は「神殿侮辱罪と自分を父なる神と同等の立場にした」ということの宗教的罪での判決でした。しかし宗教的な罪ではローマの法に触れることはないので、どうしても政治的罪に仕立て上げなければなりませんでした。つまり祭司長達は、イエス様がローマへの反逆を計画したと論点を変えなければならなかったのです。そのために嘘の証言をしました。ですがイエス様は自分へのどんな嘘や不利な証言がされようと、ひとつの反論もせずに黙っておられました。

★総督ピラトは、祭司長や長老達がイエス様へのねたみから訴えていることに勘付いていました。そこでピラトは、過越しの祭にユダヤ人の囚人を一人だけ赦免する習わしを用いて、イエス様を釈放しようとしました。人々に名の知れたバラバ・イエスと、キリストと呼ばれているイエスのどちらを恩赦するのが良いのか選ぶように言いました。すると祭司長達は「バラバを釈放し、イエスを十字架につけよ」と群衆を扇動したのです。

★ピラトは群衆の暴動を恐れてバラバを恩赦し、イエス様を十字架につけることを決定しました。総督ピラトも正義を貫かなかったのです。祭司長達(宗教界の長)や、総督ピラト(政界の長)や、民衆(庶民)の不正義によって、イエス様は十字架に渡されたのです。しかしイエス様は、そのような人間の動物的本能にも近い自分を守ろうとする心から出る醜さ、汚さ、弱さの腐りきった流れの中で、ただ一人神様の御心だけを考えて進んで行かれたのです。イエス様の心の中には、イザヤ書53章7-8節の御言があったと考えられます。それはどんな不当な証言や屈辱を受けても、どんな不当な裁判の判決を受けても消えませんでした。まさにイエス様は神の御子であられたのです。このお方こそ救い主キリストなのです。このお方を心から礼拝しましょう。

 

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(4月26日礼拝メッセージ)「ユダの後悔」

(メッセージ マタイNO128)「ユダの後悔」マタイ27章1~10節 仁井田義政 牧師

祭司長カヤパの庭でイエス様の様子を見ていたペテロ。もう一人、昨晩からイエス様の様子を見ていた人物がいました。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダです。彼は自らの裏切りを激しく後悔しました。そのユダの姿に、ユダの本心が見えるのです。

★祭司長達は、既にイエス様を死刑にすることを決めていました。ユダはその成り行きを見ていました。なぜユダは裁判を見ていたのでしょうか。死刑の判決が下れば、イエス様が革命のために立ち上がると思ったのかもしれません。しかしイエス様は嘘の証言で罪を着せられても、自己弁護されませんでした。それだけではなく、口を開けば自分にとって不利になる事ばかりを言われたのです。挙句の果てには、ローマの十字架で処刑されることになったのです。旧約聖書には「木に付けられるものは呪われた者である」という言葉があるので、当時ユダヤ人たちは最も十字架刑を嫌ったのです。それを知ってユダは、祭司長達に銀貨を返してイエス様を取り戻そうとしたのかもしれません。

★ユダは「罪のない人を売ってしまった」と言って後悔しました。しかし「後悔」(メタメロマイ)と、「悔い改め」(メタノイアー)は、似ていますが、全く違うのです。「後悔」は悔いて悲しむことで、「悔い改め」は、自分のした罪を悲しみ、神様に立ち帰ることなのです。ペテロもユダも、同じ場所でイエス様を裏切ったのです。しかしペテロは「悔い改めて」弟子達(教会)の所に帰り、ユダは自分の裏切りに悲しみ「後悔し」ましたが、悔い改めず自殺して、イエス様からも弟子達(教会)からも離れてしまったのです。

★5日前のエルサレム入場の時は、ユダも「イエス様は王様になってくださる」と、最高の信仰を持っていたはずです。イエス様がエルサレムに入られたからには、革命を指導して下さると期待していたようです。しかしイエス様には、革命の意思など全くないと知り、ユダはイエス様にあいそを尽かしてしまったのです。そしてイエス様を僅か銀貨30枚で敵に売ったのです。しかし今や、祭司長達の悪巧みで十字架につけられようとしているのです。彼は「私は罪のない人を売ってしまった」と悔いて悲しみました。ユダは、イエス様を裏切るという最大の罪を犯してしまったのです。自分勝手な信仰の結末は、裏切りです。イエス様は、革命家でも世直しの政治家でもありません。私達を罪から救って下さる救い主なのです。

 

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4月19日礼拝メッセージ「鶏が鳴いた時」

2015年4月19日 マタイNO127)鶏が鳴いた時マタイ26章69~75節 仁井田義政 牧師

イエス様は、大祭司カヤパの庭で出来る限りの侮辱にさらされました。嘲笑う人々の中で、唾を掛けられ、拳や平手で打たれたのです。弟子達は皆逃げてしまいました。しかしペテロはひそかにイエス様の後を追い、大祭司カヤパの庭に紛れ込んでいました。さすがにイエス様から一番弟子として扱われたペテロは、イエス様の後を追ったのです。イエス様の御受難と十字架の周りには、人間の醜さや弱さが渦巻いています。

★なぜ大祭司達は、これほどイエス様を迫害し、正しい裁判もせず急いで殺そうとしたのでしょうか。大祭司は、イスラエルの宗教界の最高指導者でした。正しく生きることを教える人達のトップだったのです。それなのに彼は、不正な裁判でイエス様の処刑を即決したのです。それは27章18節に記されているように、「ねたみ」が要因のひとつでした。自分の尊敬をイエス様に奪われると思ったのです。そこには人間の醜さと弱さが見えます。自分の立場や人気を守るために、ねたみで罪なき方を殺害することを決めたのです。

★弟子のペテロは、いつもイエス様のそばにいた弟子でした。イエス様への信仰においては、誰にも負けないとの自負がありました。「たとえ弟子のみんながイエス様を知らないと言ったとしても、私は決して知らないなどと言いません。もし死ななければならないならば一緒に死にます」と言いました。あっぱれな決意です。しかし彼は、大祭司カヤパの庭でイエス様が侮辱され、いたぶられるのを見た時、恐怖がわいてきたのでしよう。イエス様を三度も「知らない」と言ってしまったのです。しかしイエス様は、ペテロのその弱さを既に知っておられました。(ルカ22:31~34)

★ ペテロは外に出て激しく泣きました。その涙は、イエス様を裏切ってしまったという理由だけのものではありません。そのような弱い自分を知っておられながら「同じような弱い人を助けてあげなさい」と言われたイエス様の愛を感じて泣いたのです。人間は、強さの中では本当のイエス様の愛を知ることができません。弱さの中でこそ、イエス様との本当の出会いが出来るのです。あなたは弱さを感じた時がありましたか。あなたの人生の夜に、あなたの弱さを告げる鶏が鳴いた時がありましたか。その時イエス様はあなたの方を振り向いて、全神経を集中して見ておられました。自分よりもあなたを愛して、愛の眼差しで見ておられました。

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4月12日礼拝メッセージ「彼は痛めつけられた」

(メッセージ マタイNO126)彼は痛めつけられたマタイ26章57~68節 仁井田義政牧師

先週はイースターでした。今日からまたマタイの講解メッセージに戻ります。イエス様の御受難と御復活についてお話しすることになります。受難と十字架と復活のないキリスト教は、塩気のない塩のようになってしまいます。それは、キリスト教信仰にとって最も大切なことなのです。

★イエス様は、ゲッセマネの園で捕らえられて、大祭司の庭で裁判を受けられました。そもそも大祭司カヤパは、ユダヤ人から選ばれたのではなく、ローマから選ばれた人でした。ですからいつもローマに睨まれないように気を使っている指導者でした。ラザロが生き返った時も、イエス様への人気がローマを刺激するとして、彼はイエス殺害計画を提案しました。(ヨハネ11:49)

★大祭司カヤパは、立場上、正式な裁判に見せなければなりませんでした。二人以上の証人を立てようとしたことが、その事の証拠です。しかしどれも、一致した証言を得ることが出来ませんでした。偽りの裁判だったからです。イエス様は不利な嘘の証言が次々出ても、自己弁護せず黙っておられました。決定的な罪の証拠となったのは、大祭司カヤパの「あなたは神の子なのか」という質問でした。イエス様ははっきりと「あなたの言うとおりです」と答えられました。

★ そのイエス様の言葉によって、大祭司カヤパは「イエスは神を冒涜した」と死刑を宣告しました。群衆もそれに同意しました。そしてイエス様につばきをかけ、こぶしで殴り、嘲笑の平手打ちをして「お前が神の子キリストなら、いま打った者がだれか言い当てて見よ」と嘲笑いました。イエス様は、彼らの侮辱の限りをただ黙って受けられたのです。

★人々の目には、イエス様は縄で縛られて自由を失った哀れな人間に見えました。唾を掛けられても、何一つ手出しも出来ない弱い人間の姿にしか見えなかったはずです。夜中じゅうイエス様に対する侮辱が続きました。しかしイエス様は、人々のなすがままに任せられたのです。それは、イザヤ53章7~8節に預言された救い主の姿でした。それも知らずに、人々はキリストつまり救い主に悪口雑言を浴びせ、唾を吐き、拳や平手で打ち続けたのです。イエス様のその忍耐は、何のためであったのでしよう。それは、私達人間を罪から救うためでした。我慢に我慢し、その仕打ちを忍ばれたのです。私達は御受難の主のお姿に、救い主イエス様を見ようではありませんか。

 

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