8月12日礼拝メッセージ「くまなく走り回って」

(マルコNO34) くまなく走り回って6章53~56節

                        仁井田義政 牧師

 今日の聖書の箇所は、あまりメッセージには取り上げられない所かもしれません。前の湖で起こった有名な話の付け足しくらいにしか話されないことが多い所です。実は私も前のメッセージの時に、この部分まで聖書朗読に含めてしまおうかどうか迷ったのです。しかしどうしても、そうしてはならないという思いの方が優ったのです。それはイエス様と弟子達がベツサイダという港に向かっていたのに、なぜゲネサレという港に着いたのかということが気になったからです。その観点から今日の聖書をじっくり読んでみると、今まで気が付かなかった御言に目が留まりました。それは名もなき人々が、他の人々を愛して走り回る姿でした。

★聖書の前の所では、向かっていた港が「ベツサイダ」であったことが記されています。しかし着いた港はゲネサレの地でした。私達の人生には、時として嵐のようなことが起こり、目指した所に行けないこともあるのです。その結果、予定にもなかったゲネサレに着くこともあるのです。着いた所は予想外でも、イエス様が一緒でした。時計で言うと12時の方向に行こうとしたのに、9時の方向に行ってしまったのです。しかし、そこにはイエス様の救いを必要としている人達が、イエス様と弟子達を待っていました。

★そこに着くと、人々は「イエス様だと知って」とあります。つまり人々は前にイエス様を見たか、聞いたかであったことがわかります。その中にはイエス様の癒しを体験した人か、家族の病を癒して頂いた人がいたのではないかと思われます。その人々が、イエス様の持っておられる癒しの力を他の人たちに体験させてあげようと考え「走り回った」のです。「病人を床に乗せて運んできた」とも記されています。大変なことだったと思います。

★その土地の人々は、村や町や部落も「くまなく走り回って」、イエス様の前に人々を運んできたと記されています。「せめてイエス様の衣にでも触らせていただけるようにと願った」のです。そうしてイエス様の力に期待する人々が集まった所では、すべての人が癒されたのです。

★「くまなく走り回って」イエス様の所に人々を連れて来る働きをする信仰に燃える人を必要としています。そのような人たちの奉仕によって、イエス様の力が教会に満ち溢れるのです。私たちもそのようになって、主の救いの御業を見させて頂きましょう。

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