2017年元旦主日礼拝「私は城壁を飛び越える」

2017年元旦主日礼拝「私は城壁を飛び越える」詩篇18篇29節 仁井田義政 牧師

%e3%82%ad%e3%83%a3%e3%83%97%e3%83%81%e3%83%a3 みなさん、明けましておめでとうございます。今年の御言は「私の神によって私は城壁を飛び越えます。」(詩篇18篇29節)とさせていただきました。今日は、幾度も大きな壁を乗り越えたダビデからその秘訣を学びましょう。

★ダビデの前に立ちはだかった第一の壁は、ダビデが兄弟の8番目の男子だったということです。(第一サムエル16:10-13)ダビデのお父さんも、8番目のタビデがイスラエルの王になるとは思いませんでした。しかし神様は、そのダビデをイスラエルの王として選んでおられたのです。ダビデに認証の油が注がれ、その日から一介の羊飼いに過ぎない少年ダビデに主の霊が激しく下ったのです。これは生まれた環境の壁を乗り越えたダビデです。

★ダビデに臨んだ第二の壁は、ペリシテ人ゴリアテとの戦いでした。(第一サムエル17章)ゴリアテは、三メートルにもなる訓練された軍人でした。ダビデは戦士ではなく、羊飼いの少年に過ぎませんでした。その少年がゴリアテとの戦いをかって出たのです。王は彼に鎧を付けさようとしましたが「こんなものを着けては歩くことも出来ない」と脱ぎ捨てて、神の名において羊飼いで使っていた石投器で立ち向かいました。第一投の石がゴリアテの額に命中し、強敵ゴリアテは倒れました。それは、神の名によって行なうならば、自分の今ある力で充分に余裕をもって壁を越えられることを示しています。

★第三の壁は、ダビデに対するサウル王の嫉妬でした。(第一サムエル18~31章)ゴリアテを倒したダビデは、女性達から大歓迎を受けました。サウル王は嫉妬のあまり、ダビデの命を狙い続けたのです。ダビデにはサウル王を殺す機会が幾度もありました。しかしダビデは「神様に王とされたサウル王を私は殺せない」と神様との関係を守り続けたのです。

★ダビデの第四の壁は、バテシェバとのことでした。(第二サムエル11~12章)ダビデは家来の妻バテシェバを手に入れようと、夫のウリヤを戦死させたのです。しかし神様は、このタビデの罪を見逃しませんでした。ダビデは、預言者ナタンと神様の前に、本心から悔い改めました。

ダビデの人生を見ると、このほかにも彼には多くの壁がありました。しかしダビデは「私は私の神によって城壁を飛び越えます」と言っているのです。私達も、私達の前のあらゆる壁を飛び越えて、新しい年を進みましょう。

 

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2016年 クリスマス礼拝「わが魂よ、主をあがめよ」

クリスマス礼拝「わが魂よ、主をあがめよ」ルカ1章39~56節 仁井田義政牧師

st-mary 今日は12月25日のクリスマスです。また2016年最後の主日礼拝でもあります。今日は「わが魂よ、主をあがめよ」と言う題で、クリスマスと2016年最後の礼拝メッセージをお伝え致します。

★今日の聖書には、二人の人物が出て来ます。マリヤと、マリヤの親類で祭司ザカリヤの妻エリサベツです。エリサベツは子を産めない年齢となっていました。しかし祭司ザカリヤは、神殿で突然「あなたに子供が」と天使から告げられたのです。そしてのちにバプテスマのヨハネと言われる赤子を身ごもったのです。それから六ヶ月後のことです。天使がナザレのマリヤに現れて、イエス様があなたから生まれると告げました。

★最初は二人とも、主の言葉を信じられませんでした。エリサベツもこの年になって子供が生まれるとは信じていなかったでしょうし、マリヤは結婚前だったのです。時には神様の祝福と恵みは、私達人間の思いを越え、また自己認識を越えてやってきます。しかも、神様は「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(第二コリント12:9)と言われています。

★エリサベツは訪ねてきたマリヤに「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」と語り掛けました。エリサベツも主の言葉によって身ごもり、六ヶ月目の妊婦体験として語りかけたのです。マリヤの心はエリサベツの言葉に励まされ、喜びにあふれて神を賛美し始めました。その賛美の中にある「わが魂は主をあがめ」の「あがめ」はギリシャ語の「メガ」が使われています。それは最大級を現わす言葉で「メガトン級」などと言われる言葉のもとになりました。マリヤは同意して「わが魂とわが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」と歌いました。マリヤは、キリストの懐妊という大きな恵みのゆえに神様を賛美したのです。それは口先だけの賛美ではありません。マリヤの「霊と魂が」口を動かし、神をほめたたえさせたのです。

★イエス様は、私達を罪から救うために来て下さいました。神様は、私達にも「大きなこと」をしてくださったのです。今日はクリスマスです。そして、2016年の最後の礼拝です。マリヤのように、私達も「魂で賛美し、霊で感謝」し、今年最後の礼拝をおささげ致しましょう。

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12月18日待降節4「東方の博士達と西方の学者達」

アドベント第四週東方の博士達と西方の学者達マタイ2章1~11節 仁井田義政牧師

db522afffe0b2f5fd4065e99aabfb3c1アドベント第四週になりました。聖書のクリスマスの記事には、貧しい人々に対する神様の祝福が満ち溢れています。しかしイエス様の誕生は、貧しい者達に対する祝福と恵みを伝えているだけではありません。イエス様は全ての者の救い主です。今日の聖書には豊かな者達だけが出て来ます。

★イエス様の誕生時には、東方の博士達が片道2000キロ、往復4000キロの旅をしてイスラエルの国にやってきました。その距離は、大体片道で東京から台湾まであります。それを往復したのです。彼らはその旅に必要なすべての財力を持っていたことを示します。その旅費だけではありません。その当時の宝物の黄金・乳香・没薬を持ってきたのです。

★東方の博士達は、新たに生まれたユダヤ人の王を探して星を頼りに旅をしてきました。ユダヤ人の王として生まれる方ですから、エルサレムの王宮に生まれたと思ったのは当然なことです。しかしイエス様の誕生の確実な情報は、聖書学者から聞くことになりました。学者達は、子供の時から学者になるべく旧約聖書を読み暗記していました。ですから口をそろえて、キリストが生まれる所は、「ユダの地、ベツレヘム」であると答えることが出来ました。ユダヤ人の学者達は、聖書学者としてさすがでした。

★博士達がエルサレムに着いた時は、イエス様が生まれて2年くらいは経っていたと考えられます。学者達のいたエルサレムからベツレヘムまでは、5時間もかからない距離でした。毎日聖書を読んでイエス様誕生の地を知っている学者達が、隣の町に生まれておられたイエス様を知らなかったのです。しかし、聖書の知識もほとんど無かったであろう東方の博士達が、2000キロの距離を命がけの旅をして救い主を見つけ出したのです。

★今日の聖書箇所には、聖書特有の「皮肉」があります。皮肉と言いますと悪い言葉に聞こえますが、英語の「アイロニー」です。またこの所には聖書特有の逆説もあります。英語の「パラドックス」です。近い者が遠く、知っているものが知らないという皮肉と逆説です。その皮肉と逆説は、読む私達クリスチャンにも鋭く迫ってきます。あなたはどうかと問い詰めるのです。私達も東方の博士達に倣って、たとえどんな犠牲を払ってでも、ベツレヘムに生まれられた幼子イエス様にひれ伏して、心から礼拝しましょう。

 

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12月11日待降節3「ヨセフと聖霊」

アドベント第三週「ヨセフと聖霊」マタイ1章18~25節 仁井田義政 牧師 

b43b675019bc81abdd36dfe7641398c2先週もお話しましたが、マリヤとヨセフにとっては、キリストのアドベント(来るの意味)は、自分達の婚約と結婚という幸せな生活を破壊する恐怖そのものとなりました。イエス様を迎えるには、その「恐れ」を乗り越えなければなりませんでした。今日はヨセフがどのようにして恐れを乗り越えて、キリストを迎えたかをお話いたしましょう。

★先週、ルカの福音書からお話しましたように、すでにマリヤの心から恐れが消え去っていました。御使いが「神にとって不可能なことはありません」と語り掛け、マリヤはその言葉を受け入れたからです。しかし、マリヤの婚約者であるヨセフは、突然のマリヤの妊娠に承服できず、マリヤの説明を聞けば聞くほど、嘘をついているのではと悩みに包まれてしまいました。

★ヨセフは、「正しい人」(1:19)でしたので身に覚えが全くないのです。ヨセフは、マリヤの不貞以外に原因がないと思っていました。しかしマリヤの不貞を訴え出れば、マリヤは姦淫の罪で死刑になってしまいます。不貞の妻を罰するのは、当時の夫の権利でした。自分の身に覚えのない事は決して許せない、それが当時の男性の特徴でした。しかしヨセフは、マリヤが死罪になり人々の前でさらし者になることを可哀想に思い、外国に逃がそうとしました。不貞な婚約者に対するヨセフの成し得る最大限の優しさでした。

★ヨセフが眠りにつくと、御使いが夢に現れ、マリヤの胎の子は「聖霊によるのです」と語り掛けました。聖霊こそ神の力であり、天地万物さえも創造された超現実なる御方です。そのことによってマリヤが嘘をついているのではなく、神様の御計画が聖霊によって実行されているのだと受け止めることが出来ました。

★ヨセフは越えられない悩みから解放され、「マリヤを妻として迎え入れ」(24節)ました。二人は「生まれてくる子は聖霊によるのです」という御使いの知らせによって、悩みを乗り越えたのです。それは神の聖霊の力を信じていたからです。その数年後、マリヤとヨセフはヘロデ大王の「幼子キリスト殺害計画」を避け、難民となりエジプトにまで逃れて行きました。聖霊の力を信じる時、どんな問題も乗り越えることが出来るのです。私達も聖霊の力を信じましょう。

 

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12月4日待降節2「聖霊によって来られた方」

アドベント第二週「聖霊によって来られた方」ルカ1章26~38節  仁井田義政 牧師

annunciation2 アドベントとはラテン語の「アドベントゥス」から来た言葉で「来る」という意味です。マリヤは、キリストのアドベントの意味を神様から聞かなければなりませんでした。それはあまりにも壮大な計画であり、恵みに溢れたことでした。ガリラヤの田舎町ナザレに住んでいたマリヤにとつては、想像することも出来ないことだったのです。そしてマリヤの体験したことは、マリヤだけのものではありません。私達人間が全て体験できる恵みなのです。今日から三週間にわたって、キリストのアドベントの意味を学びましょう。

★ナザレは、人々からは忘れ去られている町でした。現代のことですが、ある女の子が、理由があって一歳ぐらいの時に施設に預けられました。「私は親に捨てられた」と思いながら成長しました。二十歳を過ぎて、ついにその母親を探し当てました。母親から今までの事を知らされました。母はその子の写真をいつも持ち歩き、その子の誕生日にはケーキをふたつ買って、いつもお祝いをしてくれていたのです。母親は自分を忘れてはいなかったのです。神様も田舎のマリヤを忘れていなかったのです。

★イエス様の時代、王はローマ皇帝でした。またイスラエルの王は、ヘロデ大王でした。ローマの植民地のイスラエルをヘロデ大王が支配していたのです。その皇帝の子供や、ヘロデ大王の子供ならまだしも、マリヤは自分のようなナザレの娘から、永遠の王が生まれるとは思ったこともないことでした。ですからその事は神様から聞かなければならなかったのです。

★マリヤは「どうしてそのような事になりえましょう」と言いました。人間の当然な反応でしょう。それに対して、御使いは「聖霊があなたの上に臨み」と言いました。「臨み」は強い言葉で、襲うという意味があると言われています。それは神様の強い情熱と、強い決心が現れている言葉なのです。

★御使いがマリヤに現れて、「おめでとう恵まれた方。主があなたと共におられます。」と語り掛けました。マリヤはその言葉を信じ、恵みの人生へと変えられました。マリヤのように、私達も「どうぞ、あなたのお言葉どおり、この身になりますように」と告白し、祝福された人生へと入れて頂きましよう。

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11月27日礼拝メッセージ「土の器であっても」

第二コリントNO9「土の器であっても」4章7~15節  仁井田義政 牧師

bigstock-nativity-christmas-story-illus-50244518-1今日の御言には、使徒パウロの宣教と苦難が記されています。パウロの宣教目的は、「神の栄光が現れるため」(4:15)でした。

★パウロは偉大な伝道者であって、数々の教会を創立しました。しかし、その働きに対して必ずと言ってよいほどの迫害が起こったのです。その迫害の激しさは、「39回の鞭を打たれたことが5度」(11:24)と、「いつでもイエスの死をこの身に帯びている」(7:1)との御言でわかります。

★パウロにとって「イエス様は福音の為に迫害を受け、十字架に付けられて殺された。私もイエス様の福音に仕える者として、迫害されることは当然なこと」と受け止めていました。パウロはそのような迫害と苦難を受けても、伝道を諦めませんでした。そのことの結果を知っているからです。その結果とは「それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。」(4:15)

★パウロは「私達は・・・土の器」と言いました。「私達は」とは、福音に仕える伝道者、牧師、宣教師、クリスチャン達のことです。パウロは神様に仕える自分達を、粗末な、見栄えのしない、安価な、壊れやすい土の器に例えています。それは器自体には何ら誇るものがないということです。しかし神様は、あえてこのような土の器のような者達に福音の働きを委ねて下さったのです。働き人である器が誇ることがないためです。

★今日の御言にある「土の器」は、単独の聖句として読んでしまう時に、情緒的に流されてしまう御言でもあります。しかし迫害の真只中の御言として読む時に、私達の真に迫ってくる御言です。弱い器でありながら、自分の内に与えられた福音には「人々を救う測り知れない力がある」のです。イエス様の救いを伝えるならば「ますます多くの人々に及んで、感謝が満ち溢れる」のです。そして大宇宙の全ての目的である「神の栄光が現れる」ようになるのです。そのような大きなことが、なんと価値のない土の器から始まるのです。自分に与えられた福音を広める為に、苦難をも引き受けるならば、あなたを通して多くの者が救われるのです。与えられた福音を伝える為に、苦難をも引き受けるクリスチャンとなりましょう。

 

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11月20日礼拝メッセージ「光が闇の中から」

第二コリントNO8「光が闇の中から」4章1~6節  仁井田義政 牧師

geloof-in-god-1 パウロは、コリント教会の内部から激しい攻撃を受けました。それにもかかわらず、失望落胆することなく、コリント教会を正しい信仰へと立て直そうとして関わりを持ち続けました。パウロは、誰の為に福音宣教をしているのかをはっきりとさせています。それはまた私達クリスチャンが、誰の為に生きるのかと言うことを教えています。

★パウロは、混乱するコリント教会に何度も手紙も書きました。また直接訪問して、混乱を鎮めようとしました。しかしその努力の甲斐もなく、ある人々は信仰の道を踏み外し、パウロを非難し続けている状況でした。そのような中でもパウロは、なぜ勇気を失わないのでしょうか。それは、「主の憐れみにより使徒とされた」という恵みの自己認識があったからです。だからどんなことがあっても、落胆しないで主の教会のために働いたのです。

★パウロの伝道者としての姿勢は、「恥ずべき隠されたことを捨て、悪巧みに歩まず」と記されているところにあります。それは、金持ちになりたいとか有名になりたいとかとの人間的な欲望のことであるかも知れません。人々に「あの人は良い人だ」と思わせるのは詐欺師の上等手段です。しかしパウロは「恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。」と記しています。パウロはいつも「神の御前で」生きていたのです。

★このようにパウロが真心込めて伝道しているのに、信じない者達や反対者までいました。パウロがこのような希望が見えないコリント教会になぜ関わりを持ち続けるのでしょうか。それは6節の「光が闇の中から輝き出よ。と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」という御言に現されています。闇は絶望を表わし、光は希望を表わします。そしてイエス様が光なのです。

★パウロの置かれた立場は、闇と言う言葉があるように最悪の状況でした。それは全く希望が見えない状況でした。私達にも、そのような希望が持てない状況の中を通されることがあるでしょう。そのような時には、パウロと同じように「イエス様は、どんな闇をも照らすことができる」と信じましょう。そしてどんなことにも勇気を失うことなく、福音の為に働きましょう。

 

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11月13日礼拝メッセージ「御霊による自由」

第二コリントNO7御霊による自由3章12~18節  仁井田義政 牧師

p1030605  今日の御言でパウロは「このような望みを持っているので、私達は極めて大胆にふるまいます。」と言っています。その大胆さとは何でしょうか。それは「御霊による自由」です。

★パウロは律法信奉者を「彼らの心にはいつも覆いがかかっている」と言いました。それは出エジプト記34章に出てくる「神と話した後、モーセは輝く顔を人々の前で覆い隠した」という旧約聖書の記事に拠っています。パウロは、モーセの時代から律法に拘泥しているユダヤ人には覆いがかかっているというのです。その覆いは、キリストのみが取り除くことができるのです。

★それでは「覆いを取り除いて下さる」のでしょうか。それは、律法至上主義の為に神様の御心と真理が見えなくなっている状態からの解放のことです。同じ14節の前半に「鈍く」と言う言葉があります。それは「固くなって」の意味で化石化のようなことなのです。パウロはかつて律法至上主義のパリサイ派でしたので、この状況を誰よりもよく知っていました。キリストイエスは、そのような的外れな「罪人を救うために来てくださった」のです。神様は罪人を救いたいと強く願っておられるのです。

★それではどのようにして覆いが取り除かれるのでしょう。「人が主に向くなら覆いは取り除かれる」とあります。「人」という言葉で、それは全人類に広げられた神の恵みであることが分かります。そして「主の御霊のある所には自由がある。」と記しています。その自由は、何をしても良いという自由ではありません。神様の喜ばれることを何でもして良いという自由です。そしてクリスチャンは「栄光から栄光へと変えられていく」です。これはまさに御霊なる主の働きによるのです。それは私達の自力によるのではありません。「御霊なる主の働きによる」のです。「御霊なる主の働きによる」と言う所に、神様の私達への恵みがあり、私達の安心と希望があるのです。だからこそ、私達は大胆になれるのです。

★そのことを聖霊は助けてくだいます。私達は、イエス様の喜ばれることをもっともっと大胆にしましょう。

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11月6日礼拝メッセージ 「御霊は人を生かす」

第二コリントNO6 御霊は人を生かす3章1~11節  仁井田義政 牧師

persimmon-1103782_960_720コリント教会には、まことしやかな推薦状を手にした異端教師たちが巡回して来ることがありました。その中には、ユダヤ主義的キリスト教の教えを持ってきた人もいました。そのような背景の中で、パウロは「文字は殺し、御霊は生かす」という有名な言葉を記したのです。

★パウロは、誰かの推薦状をもってコリント教会に行ったわけではありませんでした。パウロがコリント教会の創立者だったからです。一番パウロのことを知っているのはコリント教会の人々であって、推薦状は必要ないはずです。コリント教会は、パウロを他の所に紹介する文を書く立場でこそあれ、もらう立場ではありません。パウロは「推薦状はあなたがたの心に記されている」と言いました。更に「あなたがたは私達によって書かれたキリストの手紙である」とも書きました。

★それからパウロは「文字は人を殺し、御霊は生かす」と言いました。ユダヤ主義的なキリスト教を伝える教師が、コリントの教会に入り込んで混乱させていたからです。ここで言う「文字」とは、石板に書かれたモーセの律法のことです。パウロ自身、クリスチャンになる以前は徹底して律法に仕えるパリサイ派でした。しかしイエス様に出会って、目からうろこが落ちたのです。一番大切に思っていた律法が、主の恵みの前に色あせて見えたのです。

★キリストが来られる以前は、律法にもその時代の最高の栄光(素晴らしさ)がありました。しかしキリストが来られた後には、太陽が昇ると月の光が薄くなるように、律法は薄くなるのです。そのキリストの素晴らしさを伝えるのが、「御霊の務め」です。ですから御霊は人を生かすのです。

★律法は人々を罪に定める働きをし、イエス様は「人々を救うために来られた」のです。第一テモテ1章15節には「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。ということばはまことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」と記されています。「神は私達に、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました」と、福音伝道と言う栄光に輝く働きに、私達を加えて下さったと喜ぶのです。私達も、この最高の栄光に預かる人つまり御霊によってイエス様の福音を伝える人となりましょう。御霊は人を生かすからです。

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10月30日礼拝メッセージ 「キリストの勝利」

第二コリントNO5 「キリストの勝利」 2章12~17節   仁井田義政 牧師

p1030585-3 パウロは、テトスに手紙を持たせてコリントに遣わしました。しかしテトスが予定していた季節に帰ってこなかったので、パウロに「心のやすらぎがなく」なってしまいました。パウロは、待ちきれずに陸路コリントへの途中にあるマケドニアに向かったのでした。

★パウロが不安でいっぱいになったのは、自分の思い通りに物事が進まないことに原因がありました。パウロは、コリントの教会を心から愛して「涙の手紙」を書きテトスに持たせました。当然コリント教会の人達がその手紙を読んで、良い反応を示してくれることを望んでいたのです。しかし思い通りに事が進まなかったのです。

★「しかし」(14節)という変化によって、パウロの心は勝利の思いでいっぱいになりました。その変化の出所は、パウロの心の中ではありませんでした。「神に感謝します。神は」と記されているように、神様が勝利の心へと導いて下さったのです。それは、「キリストの勝利の凱旋」に自分も加えられているという気付きでした。パウロは、当時ローマの兵隊が喜びにあふれて勝利の凱旋をするのを見たことがあるのでしょう。パウロはそれと自分を重ね合わせて、勝利者キリストの凱旋に自分も加えられている幸いに気が付いたのです。

★パウロは、不安を通して新しい信仰の境地へと導かれたのです。コリント教会のパウロに対する不評と反対の動き、社会公認の性的な文化など、解決しなければならない問題は山のようにありました。しかしパウロは、そのコリント教会に「私達は、神のことばに混ぜ物はしない」(17節)という宣教理念の決意を伝えたのです。

★その結果、当然信じる者と信じない者が出てきます。パウロに対する評価も分かれるでしょう。しかし混じりけのないその「御言を信じない者にとっては死に至らせるキリストの香りとなり、信じる者にとっては命に至らせるキリストの香り」となるのです。私達も神の御言に決して混ぜ物をすることなく、聖書への絶対的な信頼をもって伝道していきましょう。聖霊に満たされ、誇りをもって活動しましょう。溝の口教会の全てのクリスチャンが「キリストの勝利の凱旋」に加わり、御言を力強く伝えていきましょう。

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