11月25日礼拝メッセージ「祈りと信仰」

(礼拝メッセージ)マルコNO46「祈りと信仰」9章14~29節

牧師   仁井田義政

                             

 今日の御言は、イエス様が山を下りて来られると、律法学者と弟子達が論じ合っていたというところです。それは、弟子達が祈っても子供を癒すことが出来なかったことが原因でした。それを理由に、律法学者が弟子達の指導者であるイエス様のことまで、見せかけだけで何の力もない人だと論争を仕掛けてきたのでしょう。今日は、イエス様から祈りに必要なことを教えて頂きましょう。

★イエス様は「ああ、不信仰な世だ」と嘆き驚かれました。それは何と不信仰な世界なのだろうという意味です。そこに集まっていた群衆は、弟子達の祈りによって現れるイエス様の奇跡を期待していたのでしょう。しかし弟子達の祈りによっては、癒しが起こらなかったのです。

★弟子達の祈りに力がなかったのはどうしてでしょうか。弟子達は、イエス様と三人の弟子達がいない心細い中で、祈りを求められたと思われます。しかしイエス様は、いつも弟子達と一緒にいて下さるのです。弟子達はイエス様の姿が見えなくても、イエス様の癒しの力を信じるべきでした。祈りの失敗の後、弟子達は群衆の見守る中で、律法学者に論争を仕掛けられたのです。律法学者とは聖書学者です。どんなに不安だったことでしょう。

★弟子達の信仰が不完全だったというだけではありません。この子の父親も不完全だったのです。父親は「この子は幼い時からです」と、子供の病気を説明しています。それは今までも色々な人に祈ってもらったが癒されなかった、今日はイエス様の弟子に祈ってもらったが駄目だった、という度重なる失望があったと思われます。ですからイエス様にも、「もしでおできになるのなら、助けて下さい」と不完全な願いをしてしまうのです。イエス様は「できるならと言うのか。信じる者にはどんなことでもできるのです。」と父親の不信仰を指摘されました。父親はすぐに悔い改め、息子は癒されたのです。

★その後、イエス様と弟子達は家に入られ「弟子達がそっとイエスに尋ねた」とあります。自分達の不甲斐なさが恥かしかったのでしょう。イエス様は「この種のものは祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません」と教えられました。今日の御言は、イエス様がたとえ見えなくてもイエス様を信じきって祈ることの大切さを教えています。私達はイエス様の御名によって、どんな時にも大胆に信じ切って祈る人になりましょう。

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