1月28日礼拝メッセージ 「イエス様の怒り」

(礼拝メッセージ)マルコNO15「イエス様の怒り」マルコ3章1~6節

                            仁井田義政 牧師

今日の御言には、ユダヤ人の会堂でイエス様が片手の萎えた人を癒されたことがもとで、パリサイ人とヘロデ党の人が、イエス殺害に団結する様子が記されています。そこに人間に対するイエス様の愛と、私達人間の持つ強情な罪が記されています。

★イエス様は安息日の度ごとに、礼拝の為に会堂に入られました。町には会堂があり、パリサイ人はそこでイエス様を待ち構えていたようです。「片手の萎えた人」が、その会堂の隅にうずくまっていました。パリサイ人は、イエス様の行動をじっと監視していました。それは、またイエス様が安息日の掟を破ってこの片手のなえた人を癒すのではないかと思ってのことでした。安息日違反の現場を押さえて、法的に処罰するためでした。

★片手のなえた人は、会堂の片隅にいました。当時このような病気の人は、神の罰を受けた人と言われ、軽んじられていたのです。イエス様は片手の萎えた人を会堂の中央に呼び出されました。礼拝において、このような人にこそ神様が恵みを与えたいと思っておられることを示す為でした。

★人々は、イエス様が律法を破ってその人を癒すかどうかを見ようとしていました。その人々にイエス様は、「安息日にして良いのは善か悪か」と問われました。しかし、彼らは「黙っていた」と聖書は記しています。その沈黙は人間のずるさを現わしています。「安息日にふさわしいのは善か悪か」という誰でもわかる真理の前にさえ、黙ってしまうのです。イエス様はそのような人間を見て、「嘆きながら」人を救うという正しい行ないを実行されるのでした。私達は、イエス様の前にそのような頑なさを持っていないでしょうか。

★イエス様は、安息日に片手の萎えた人を癒せばパリサイ人から命を狙われることを知っておられました。8時間くらい待って癒すなら、安息日が終わるので問題なかったのです。しかし差別され会堂の隅に追いやられている人も、神様に愛されている人であることをみんなに知って欲しかったのです。だからこそ「会堂の真ん中に」来るようにと言われたのです。しかし会衆は沈黙したのです。なんという人間の自己保身と強情さでしょうか。イエス様は、その強情さに怒りを感じられたのです。この日イエス様殺害を目的に「パリサイ人とヘロデ党は手を組んだ」ことが記されています。その強情さは、イエス様殺害を選択するのです。私達はイエス様の前に、強情と自己保身を捨て去りましょう。そして素直な心でイエス様をお迎え致しましょう。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Spam Protection by WP-SpamFree