1月21日礼拝メッセージ「疲れからの解放の日」

(礼拝メッセージ)マルコNO14「疲れからの解放の日」マルコ2章23~28節

                             仁井田義政 牧師

 安息日のことでした。イエス様とその弟子達が、麦畑のある道を通っている時に空腹を覚えて、ひとくち麦の穂を取って食べました。するとそれを見ていた律法学者・パリサイ人から「安息日破りである」と非難を受けました。するとイエス様はその非難に対し、安息日が何のためにあるのかを教え始められたのです。その教えは、私達の日曜日の礼拝にも関わる大切な教えです。

★空腹で安息日に麦の穂を摘んで食べた弟子達の行為は、パリサイ人の目には許されない律法違反行為でした。当時、安息日には一日に歩く距離さえ決められており、その距離は800メートルまででした。さらには煮炊きまでも禁止されていました。律法が神様から与えられた本来の目的は、本人だけでなく奴隷や家畜まで、労働から解放し休ませる為でした。それが長い年月の間に、人々を束縛する戒律となってしまっていたのです。

★イエス様は、千年前にダビデが安息日に祭壇の供えのパンを食べた事(第一サムエル21章)を話し始められました。それは、王になる前のダビデがサウル王に命が狙われ、逃げ回っていた時のことでした。ダビデと家来たちが安息日に空腹になったため、祭司にお願いして聖なるパンを分けて頂き食べたのです。それを非難されることはありませんでした。王でなかったタビデがそうしたならば、真の王であるイエス様とその弟子達が安息日に麦の穂を摘んで食べたからといって、律法違反にはならないと言われたのです。

★さらにイエス様は「安息日は、人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。・・・人の子は安息日にも主です。」(マルコ2:27-28)と言われました。安息日にこそ、大いなる解放の御業を行なわれるのです。ですから私達は礼拝において、大いに主イエス様の解放の御業にあずかれるのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)という御言は、マタイの福音書では、この麦の穂を摘んだ安息日論争の直前にあるのです。

★イエス様は安息日の主です。人間は肉体の休養と同時に心に休養が大切です。いや「たましいに安らぎ」(マタイ11:29)とあるように、心に休みがなければ本当の休養にはなりません。いつも礼拝に集って、安息日の主であるイエス様に、全ての重荷と苦労から解放して頂き、活力に満たされましょう。

 

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