「私達は神の家族です」

エペソ人への手紙(N0.11)「私達は神の家族です」2章17~22節 

仁井田義政牧師

今日の御言の19節には「神の家族なのです」という言葉が出て来ます。それは、教会を現す言葉でもあります。今日の御言によって、いよいよ私達は神の家族として互いの愛を強くしていきたいと思います。

★キリストは、遠くにいた人達にも平和を宣べ伝えられました。「遠くにいたあなたがた」とは、エペソの人々です。神からも遠く、ユダヤ人からも遠かったのです。「平和を宣べ伝え」の「宣べ伝え」は、「ユウアゲリオン」というギリシャ語が使われています。それは「福音」と言う意味です。

★パウロは「私達は」と言って、エペソ人もユダヤ人も一緒であることを示しています。さらに「キリストによって」の「よって」ギリシャ語の「イン」と言う言葉です。それは「~の中で」という意味です。私達は、皆キリストによって初めて神様に近づけるのです。キリストの御霊が、私達を包んで下さるからです。その結果、神様は私達の「父」となって下さるのです。

★その結果、国籍や肌の色による差別はなくなったのです。聖書時代の世界は、差別と区別の時代でした。自由人と奴隷人の区別もありました。しかしキリストはそのような時代に、「教会」と言う新しい共同体「コミュニティ」を人間社会に投入されたのです。

★ですから教会は、どのような国民も、どのような民族も、平等にしなければなりません。つまり「神の家族」として尊敬し合うのです。キリストとキリストの教えが、礎石・頭石とならなければなりません。そうする時、教会はがっちりと互いに組み合わされ、成長し、聖なる宮となり、神の住まいとなるのです。

★皆さんは、教会が成長することを願っておられると思います。今はコロナ禍に私達の教会もあります。だからこそなお一層、神の家族としての信仰が必要なのです。そのためには様々な違いを越えて、互いに神の家族としての愛を強めてひとつにならなければなりません。キリストは、愛を強め合う所をご自分の住まいとして下さるのです。そのためには一切の差別や区別を取り払って、神を父として、キリストを長男とした神の家族としての愛を強めましょう。

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「十字架によって」

エペソ人への手紙(N0.10)「十字架によって」2章11~16節 

                    仁井田義政牧師

 今日の聖書の箇所には、エペソの教会の人々と私達と共通するものがあります。エペソの人達は豚を食べましたが、イスラエル人達は絶対に食べません。またエビ、カキ、タコ、イカ、ウナギも食べません。日本人にとっては美味しい食べ物です。イスラエル人は外国からの輸入物に、調味料の中に豚のエキスが入っていないかどうかを、今に至るまで国家機関レベルで調べているのです。

★初代教会は、そのような違う文化を乗り越えなければなりませんでした。日本人にとっては御飯の茶碗を持って食べるのがお行儀の良い食べ方ですが、日本以外の国の人からは、「テーブルのない」貧しい人のような非常識な行為に見えると言われます。茶碗をもって食べるのは、世界で日本人くらいだそうです。聖書時代に豚肉等を食べる異邦人は、イスラエル人から見れば宗教的汚れと相まって、取り返しのつかない罪と汚れを持った民族に見えたのです。イスラエル人から始まった教会が世界に広まっていくためには、そのような異なる文化を乗り越えて行かなければなりませんでした。

★パウロは、ダマスコの道で復活のキリストに「わたしはあなたを異邦人の使徒として遣わす」と言われたのです。イエス様ご自身は、公生涯の中で既に異邦人の救いに関わっておられました。イエス様が誕生された時に、イエス様を礼拝した「東方の博士達」や、ローマ百人隊長の僕の癒し。またツロの女性の癒しなどです。しかもツロの女性の時は、「イスラエルにこれ程の信仰を見たことがありません」と、その信仰を褒めておられるのです。

★パウロが異邦人の為に選ばれて後、「以前は遠く離れていた」異邦人に、神様の救いがもたらされました。何から遠く離れていたのかというと、第一に神様からです。第二に民族間が遠く離れていたのです。しかし、キリストの十字架によって、全ての隔たりが取り払われたのです。

★今や国籍や民族が違っていても、等しく神様に愛され、集められていることが明らかになったのです。その集まりが教会なのです。溝の口教会は、キリストの十字架による神様との和解と、それに基づく民族の平和を、教会の大切なこととしてしっかりと守っていきましょう。 

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「私達は神の作品です」

エペソ人への手紙(N0.9)「私達は神の作品です」2章1~10節 

                       仁井田義政牧師

明けましておめでとうございます。新年第一回目の主日礼拝です。正月は一年の歩みの基礎を築く最も良い時です。今日の御言は、人生の基礎に大切なことが記されています。

★今日の御言に「私達は罪過と罪によって死んでいました」と記されています。新年の第一歩は、その認識から始めたいと思います。これは、エペソの教会のクリスチャン達がイエス様を信じる以前のことでした。それでは、どのように死んでいたと言うのでしょうか。それは異教的なことに流されて生きていたと言うのです。

★特に日本は宗教的な軟弱さが特徴なのです。多くの日本人は「、私は無神論者です」と平気で言います。そうかと思うと、正月には多くの人達が初詣に行きます。また家族が亡くなると仏式で葬式をします。日本で宗教調査をしますと、日本人一人当たり三つの宗教を持っているという統計数字が出るのです。つまりしっかりとした土台がないのです。それが自由だと勘違いしてしまっているのです。

★それは足元が土台に着いていない状態で、聖書はそれを「死んだ状態」と言っています。そして「土台の上に、しっかりと人生や生活を建て上げるように」とすすめています。その土台とは、イエス・キリストです。年の初めにまず、キリストを信じる信仰の上に一年を築くことを決心しましょう。そのようなしっかりとした土台を据え直して下さったのは、神様です。神様は私達が素晴らしいからそうして下さったのではありません。「ただ恵みによるのです」今日の御言は教えています。

★さらに聖書は、私達は「神の作品です」と記しています。例えば山の土は、そのままでは何の値打ちもありません。役に立たないのです。しかし、有名な陶器師の手にかかると、単なる土が何百万円もの値打ちのある器に変わるのです。神様は人間を造る名工です。その手によって私達は造られたのです。神様は「良い事に用いよう」という考えで造られたのです。良い行ないもあらかじめ用意して下さったのです。その目的にしっかりと立って、神様にお仕えする者になりましょう。

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「教会はキリストの体である」

エペソ人への手紙(N0.8)「教会はキリストの体である」1章22~23節 

仁井田義政牧師

 今日は、今年最後の礼拝です。今年一年間の自らを振り返りながら、御言を受け取りましょう。

★22節の初めで「神」は「一切のものを、キリストの足の下に従わせた」と記されています。それは、政治的権力も、世界の宗教と言う霊的なものも、全てキリストの足の下に従わせたことなのです。このことをパウロが記した時、パウロは捕らえられ、キリスト教は他宗教から迫害されていました。パウロの時代は、この言葉のようには見えない時代であり、むしろ反対に見える時代でした。

★そして「神はこのキリストを教会にお与えになった」と記されています。教会の原語は「呼び出された、召し集められた」の意味のエクレシアです。英語に訳すならば「アッセンブリーズ・オブ・ゴット」なのです。パウロはここで、神は政治においても、宗教においても、世界最大の権威者を教会に与えられたと記しているのです。教会は「神に召し集められた者達」であることを信じなければなりません。それを信じなければ、教会として成り立ちませんし、始まらないのです。

★ 23節では、「教会はキリストの体である」と宣言されています。パウロは、教会は単に「神様から呼び出された人々の集合体」に留まるものではないことを記しています。それでは何なのかと言うと、「教会はキリストの体」であると記しているのです。体に譬えたのは、教会がキリストの生身の体であると言うことを知ってもらいたいからなのです。ですから教会は、キリスト以外の「頭」を持たないのです。

★そして教会は、「キリストの体」で「キリストが教会の頭」であればこそ、教会は一切のものを満たすことが出来る豊かさを持っているのです。 

私達も、今は自由に行動出来ないような状態にあっても、既に神様は全てをキリストの足の下におかれたのです。そして教会にそのキリストを与えられました。私達は神様の偉大さをしっかりと見て、喜びに溢れて新年を迎えましょう。

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クリスマス礼拝「永遠の王の誕生」

エペソ人への手紙(N0.7)クリスマス礼拝「永遠の王の誕生」1章20節~21節 

仁井田義政牧師

今日はクリスマス礼拝です。コロナ禍の中におけるクリスマスになってしまいました。今年は、世界中が人間の無力を感じた年でした。イザヤ書60章2節に「見よ、闇が地をおおい、暗闇が諸国の民をおおっている」とあるような状態です。イエス様がお生まれになったその夜、羊飼い達も闇に包まれていました。その夜、暗闇を破り「救い主の誕生」を示されました。しかもその救い主が、羊飼い達よりも低い場所にお生まれになったのです。

★「救い主が、彼らよりも低い所に生まれられた」と言ったのは、飼い葉桶に寝かされたからです。いかに貧しい羊飼い達でも、馬小屋の飼い葉桶に寝かされたことはなかったでしょう。自分の子供を、飼い葉桶に寝かせることもなかったでしょう。しかしイエス様は飼い葉桶に寝かされたのです。

★イエス様は、人の住む所などではない飼い葉桶に寝かされました。しかし、この赤ちゃんには「神の全能の力が注がれて」いました。その証拠は「死者の中からの甦り」でした。もうひとつの証拠は「全ての支配、権力」がイエス様の上にあったことが、今日の御言のエペソ書に記されています。

★羊飼い達は、馬小屋のキリストを礼拝した後、また闇に満ちた自分達の生活の場へと帰って行きました。しかし飼い葉桶に寝かされたキリストが、「自分達に与えられた救い主」であり「主」であるという信仰に満ち溢れていました。「主」であるという信仰とは、キリストは「神」であると言う信仰のことです。彼らは豊かな人となりました。そのことをルカ2章17~18節で「羊飼い達は、告げられたことを知らせた」と記されています。そして彼らは、貧しい中にも「神をあがめ賛美する」人となったのです。  

★今日の御言であるエペソ1章21節には、イエス様は「この世ばかりではなく、次に来る世においてもとなえられる全ての名の上に高く置かれました。」と記されています。このキリストの永遠性の一端を、この羊飼い達も得るのです。幾多の音楽家や画家が、この羊飼い達の美しい信仰の姿を描いて来たでしょうか。そうして今なお羊飼い達の素直な信仰の美しさは、色あせることなくキリストの福音と共に輝いているのです。

クリスマスのキリストは、あなたの人生もキリストの素晴らしさで美しくして下さるのです。

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(アドベント第三週)「神の偉大な力」

エペソ人への手紙(NO.6)(アドベント第三週)「神の偉大な力」1章18~19節

                                                     仁井田義政牧師

 早いもので、来週の日曜日はクリスマス礼拝です。今日はクリスマスを前にしたアドベント第三週のメッセージをお届けいたします。パウロは今日の御言の中で、三つの祈りをしています。

★第一の祈りは、「心の目がはっきりと見えるように」との祈りです。私達は多くのものを肉眼で見ています。しかし、それ以上の大切なことを見るためには、「心の目」があるのです。「心の目」でしか見えないものに、神の召しがあります。クリスマスの時の羊飼い達は、御子イエス様の誕生の馬小屋に招待されました。羊飼い達が神様から招待されるなどと言うことは、誰にも予想できないことでした。羊飼い達にとっても、予想も出来なかったのです。しかし羊飼い達は、心の目で見て信じました。

★第二の祈りは、「聖徒の受け継ぐものがどんなに栄光に富んだものであるかを知るように」との祈りです。アメリカ先住民は、自分達の土地をたった一本のウイスキーと交換してしまったことがあると聞きました。入植者に騙されたのです。もちろん騙した方が悪いことは言うまでもありません。

心の目でしか見えない聖徒達の受け継ぐものに、キリストの十字架と天国の国民としての登録があります。「天国があるか無いか分からない」という人は、心の目が見えない状態なのです。イエス様は天国を与える為に来られたのです。

★第三の祈りは、「神の全能の力と、信じる者に働く神の力を知ることが出来ますように」との祈りです。全能の「力」に「デュナミス」という言葉が使われています。それはダイナマイトという言葉になりました。ですから爆発するような神の優れた力が働く時代に突入したのです。人間に出来ることはその神の全能を「信じる」ことで、その力にあずかれるのです。羊飼い達は、社会的地位は低く学問もなく、希望の持てない闇に包まれていたのです。しかし彼らは、歴史の最先端に引き出されたのです。

★神のデュナミスが、私達を御子イエス様の誕生つまりクリスマスへと召して下さっているのです。今日礼拝堂に集っておられる方々、またネット配信で礼拝をしておられる方々の心の目がはっきりと見えるようになりますように。神の召しによって、私達に与えられる全ての価値がはっきりと見えて、希望と感謝に溢れますように。

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(アドベント第二週)「知恵と啓示の御霊」

エペソ人への手紙(NO.5) (アドベント第二週)「知恵と啓示の御霊」1章15~ … 続きを読む

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アドベント第一週

エペソの手紙(NO.4)(アドベント第一週)「聖霊の証印と保証」1 章 12~14 節
                        仁井田義政牧師

今日からアドベントが始まります。クリスマスの意味について、祈りなが
ら深く心に留める期間です。イエス様の御降誕を感謝して、有意義に過ごし
ましょう。
★今日の御言には「約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は御国を
受け継ぐことの保証です。」と記されています。世界のキリス教界の中で、い
ま最も注目されているのが聖霊です。アメリカの 1000 万人の読者をもつ『ク
リスチャニティ・トゥディ』は「アメリカで急激に成長を続けている教団は
二つある。アッセンブリー教団と、もう一つの教団だ。しかも両方とも聖霊
派である」と記しています。これはアメリカだけでなく、世界的な現象とな
っていると記しています。
★私達が「天地が創られる前から選ばれ」(4 節)、「キリストの血によって救
いを受けた」(7 節)のは、何のためだったのでしょうか。「それは神の栄光を
ほめたたえるためです。」と記されています。救いも聖霊のバプテスマも、ユ
ダヤ人クリスチャン達が最初に受けました。ユダヤ人クリスチャンである弟
子達は、はじめ異邦人は救われないと思っていました。しかしパウロは「あ
なたがたも救いの福音を聞き、信じたことにより、聖霊をもって証印を押さ
れました。」と記しました。それは異言の伴う聖霊のバプテスマです。エペソ
の信徒達は、パウロによって「聖霊のバプテスマ」を受けたのです。(使徒 19
章 1 節)
★聖霊のバプテスマとは、聖霊が私達の体の中に入って下さり、私達の内に
溢れるほど住んで下さることの印なのです。私達が神のものとなったことの
印なのです。
★私達は三週間前の礼拝で「神様は、私達を天地が造られる前から選んで下
さった」ことを学びました。先週は「主が十字架で血を流して下さった」こ
とを学びました。そして今日は、「私達の内に聖霊が入って住んでくださる」
ことを学んだのです。それは「神の栄光がほめたたえられるため」ですと記
されています。神様の素晴らしさを誇りましょう。イエス様が来られた目的
のひとつは、聖霊のバプテスマを与える為だったのです。

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11月22日礼拝「歴史を貫く祝福」

エペソ人への手紙(NO.3)「歴史を貫く祝福」1章7~11節

                     仁井田義政 牧師

今、私達はコロナ禍の中で自由に行動出来ない状態にあります。パウロもこの手紙を自由に行動できないローマの獄中で書いています。ともに不自由な境遇です。もちろん獄中にあるパウロの不自由と、コロナ禍の私達の不自由とは比べものになりません。パウロはその不自由の中でどのように考え、どのようにエペソのクリスチャン達に伝えたのでしょうか。

★私達がクリスチャンであるのは、聖書の思想や哲学によるのではありません。キリストの血によるのです。血とはキリストの十字架のことです。ある人は「神様は天と地を言葉で創造されたが、教会を御子の血で創造された」と言いました。まさに神様は、広大無辺な宇宙の創造にではなく、私達の為に「御子の命」という大きな犠牲を払われたのです。

★パウロは、自分の命もエペソ教会の命も握っているローマ帝国という巨大な権力の真っただ中にいます。しかしパウロは、今日の御言で「私達(エペソ教会も)は、神の恵みを豊かに溢れるばかりに受けている」と言っています。 極限の不自由の中にあっても、「神はあらゆる知恵と思慮深さをもって知らせて下さる」とも言っています。

★その知らせて下さったこととは何でしょうか。それは「ムステリオン」であると言っています。日本語訳では「奥義」と訳されています。それはキリストの支配と教会の救済のことです。ローマ帝国が全ての国を支配しているかに見えても、真の支配者はキリストであると見ていたのです。そのことを現すのが、「いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められる」という御言です。

★パウロは、ローマの支配力を見せつけられている牢獄の中で「本当の支配者はキリストなのだ」と言っています。そのとおりパウロを捕え、エペソの教会や他の教会を迫害していたローマ帝国は、今や消滅し跡形もありません。日本の歴史においても、キリシタンを迫害した幕府は倒れ、自分を神としキリスト教会を迫害した明治天皇や昭和天皇も倒れ、象徴天皇となったのです。しかしキリストは、今も世界中で礼拝されています。それが分からないとすれば、目に覆いが掛かっているのです。覆いは信仰によって取り除かれます。祈りましょう。

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11月15日礼拝「私達が選ばれた目的」

エペソ人への手紙(NO.2)「私達が選ばれた目的」1章4~6節

                     仁井田義政 牧師

今日の御言は、神様の選びの目的です。「神様はなぜ私達を選んで、クリスチャンにして下さったのか」と言うことです。私達の信仰が大きく飛躍するために「神の選び」についてお話しいたしましょう。

★「私が選んでクリスチャンになった」と言うことと、「神様が私を選んで下さったので、私はクリスチャンになれた」という間には大きな開きがあります。私達は「私が選んでクリスチャンになった」と言う方が自然と理解しやすいのです。しかし御言に、神様が私を選んで下さったと記されています。エペソの教会は、設立されてから少なくとも十年以上経っています。パウロは、手紙に「神の選び」について書いています。「神の選び」を知って、さらに信仰がしっかりするようにとの願いをもって書いたのです。

★今日の御言には「神の永遠の選び」(5節)のことが記されています。神様は天地を創造される以前から私達を選ばれていたと言うのです。しかも4節の「彼にあって選び」とは、キリストにあって選ばれたということです。さらに5節においては「愛を持って選ばれた」と記されています。その愛は、ギリシャ語の「アガペー」という最高の愛を表わす言葉が用いられています。私達は、最高の愛で選ばれ、愛され続けているのです。

★神様は、私達に与えられた「アガペー」の愛をどのようにして示されたでしょうか。それを「神がその愛する方にあって」と記されています。それは私達の為に十字架について下さった主キリストにあってと言う意味です。6節の「その方によって与えられた恵みの栄光」とは、(ギ)「恵み=カリス」と「栄光=ドクサー」です。「恵み」は、人間の功績によらない神様の恵みのことです。「栄光」とは、その素晴らしさのことです。私達を選んで下さった目的は、そのことによって神様が「ほめたたえられる」ためなのです。

★「ほめたたえられるため」と言っても、決して強制ではありません。神の選びという神の愛と、私達の罪の為に十字架について下さったキリストの愛を知ったならば、「神の恵みと栄光をほめたたえる」ことなくいることは出来ないのです。それが礼拝です。私達クリスチャンは、神の永遠の選びに感謝して、生涯に亘って、私達をアガペーの愛で愛し続けて下さっている神様をほめたたえ、礼拝しましょう。

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