8月1日「栄光を目指して」

ピリピ書講解(NO12) 「栄光を目指して」3章12~16節

仁井田義政牧師

 今は東京オリンピック中です。今日の御言もマラソンに関する譬えで、信仰にとても大切なことが記されています。オリンピックには、多くの国々から選手達が栄冠を目指して来ています。各競技で金メダル受けるのは、たった一人です。しかし信仰生活のマラソンは全く違うのです。

★パウロは、「私はすでに得たのでもなく、完全にされているのでもありません。」と言っています。それを得るのは、復活の時なのです。ピリピの教会には、異端が入り込んでいました。「これを守れば、この儀式を受ければ、完全に復活に与かれる」というユダヤ主義的なキリスト教でした。その確信を得たいために、他の宗教では修行とか悟りを開くことなどが求められるのです。しかしパウロは、「私はそれら一切を必要としない」そして「私は栄冠を得るようにキリストに捕らえられている」と言っています。

★オリンピックのマラソンと信仰のマラソンと決定的に違うのは、走る全員が栄冠を受けることが出来るということです。つまり信仰のマラソンでは、順位ではなく、完走することが絶対的に大切なのです。後ろのものを忘れとは、4~6節のかつての栄光と罪のことであると思われます。

★マラソンを見ていると、先頭を走る人が後から走って来る人を気にすることがあります。しかし信仰のマラソンは、他人と自分を比べる必要がありません。なぜなら信仰のマラソンは、順位が大切なのではなく、ゴールを目指すことだけが唯一大切だからです。完走すれば、全ての走者に神様から栄冠を受けることができるのです。

★パウロは、私達が栄冠を得ることが出来るように、キリストが既に捕らえて下さっていると言っています。つまりイエス様が、私達と並走して下さっているのです。どんなに走ることが遅くても、決して叱咤しません。常に愛と恵みの言葉で、励まし続けて下さるのです。「私は栄冠を受ける為にキリストに捕らえられている。私は神様の恵みと愛の中に生きているのだ」と感謝しつつ生きて行くことこそ、クリスチャンが信仰の栄冠を受ける秘訣なのです。たとえ一番最後を走っていようと、並走して下さっているイエス様に感謝してゴールを目指しましょう。

私達もパウロと同じく、一心にゴールを目指して進みましょう。

8月1日「栄光を目指して」

ピリピ書講解(NO12) 「栄光を目指して」3章12~16節

仁井田義政牧師

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 今は東京オリンピック中です。今日の御言もマラソンに関する譬えで、信仰にとても大切なことが記されています。オリンピックには、多くの国々から選手達が栄冠を目指して来ています。各競技で金メダル受けるのは、たった一人です。しかし信仰生活のマラソンは全く違うのです。

★パウロは、「私はすでに得たのでもなく、完全にされているのでもありません。」と言っています。それを得るのは、復活の時なのです。ピリピの教会には、異端が入り込んでいました。「これを守れば、この儀式を受ければ、完全に復活に与かれる」というユダヤ主義的なキリスト教でした。その確信を得たいために、他の宗教では修行とか悟りを開くことなどが求められるのです。しかしパウロは、「私はそれら一切を必要としない」そして「私は栄冠を得るようにキリストに捕らえられている」と言っています。

★オリンピックのマラソンと信仰のマラソンと決定的に違うのは、走る全員が栄冠を受けることが出来るということです。つまり信仰のマラソンでは、順位ではなく、完走することが絶対的に大切なのです。後ろのものを忘れとは、4~6節のかつての栄光と罪のことであると思われます。

★マラソンを見ていると、先頭を走る人が後から走って来る人を気にすることがあります。しかし信仰のマラソンは、他人と自分を比べる必要がありません。なぜなら信仰のマラソンは、順位が大切なのではなく、ゴールを目指すことだけが唯一大切だからです。完走すれば、全ての走者に神様から栄冠を受けることができるのです。

★パウロは、私達が栄冠を得ることが出来るように、キリストが既に捕らえて下さっていると言っています。つまりイエス様が、私達と並走して下さっているのです。どんなに走ることが遅くても、決して叱咤しません。常に愛と恵みの言葉で、励まし続けて下さるのです。「私は栄冠を受ける為にキリストに捕らえられている。私は神様の恵みと愛の中に生きているのだ」と感謝しつつ生きて行くことこそ、クリスチャンが信仰の栄冠を受ける秘訣なのです。たとえ一番最後を走っていようと、並走して下さっているイエス様に感謝してゴールを目指しましょう。

私達もパウロと同じく、一心にゴールを目指して進みましょう。

7月25日礼拝「キリストの素晴らしさのゆえに」

ピリピ書講解(NO11) 「キリストの素晴らしさのゆえに」3章1~11節

仁井田義政牧師

 パウロは、3章1節で「喜びなさい」と勧めています。今日の御言は、クリスチャン生活にとても大切です。私達も、コロナ禍で心配事が絶えません。今日の御言に耳を傾けましょう。

★パウロは、「どうか、犬に気を付けて下さい。」と記しました。強烈な言葉です。さらに「悪い働き人に気を付けて下さい。」と続きます。つまりキリストの名を語るユダヤ主義的なキリスト教の異端が出ていたからです。 それは、「肉体だけの割礼の者に気を付けて下さい」との言葉で明らかです。
★パウロも、クリスチャンになる以前は人間的なものを誇っていました。彼は他の人と同じように、ユダヤ人という血統主義であり、パリサイ派という完全な律法主義者であり、律法を守るという聖さにおいては、ガマリエルの門下生としての学歴に自信を持っていました。それらは彼の人生において、神からも人からも愛されるために得で益としかならないことだったのです。

★今まで誇っていたそれらのものが、キリストを知った時に、それらが本当の信仰にとっては害になると分かったのです。神は律法を守る者を愛する神ではなく、むしろ律法を守れない罪人を愛する「哀れみの神」であることを発見したのです。ルターも、そのことを知るまでは修道院で難行苦行をしていました。しかし神は憐れみであり、「信仰による義」を知ったのです。

★パウロもルターも、罪人の自分を愛する神を知り、キリストを知って喜びに溢れたのです。人間的な誇り、生粋の血筋とか家系、財産をどれくらい持っているか、学歴があるか、何か特技を持っているか、人の役に立つ仕事をしているか等。そのような所に、安心と喜びをおいてはいけないのです。

★8節の「私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさのゆえに、それらのことを損と思っています。私はキリストの為に全てのものを捨てて、それらを塵あくたと思っています。」とパウロは宣言しました。私達も、キリストの愛を知る以前と以後とを、はっきりと区切るべきなのです。それが3章1節の「兄弟達よ、主にあって喜びなさい」と言う意味なのです。クリスチャン達が喜びの土台をしっかりとそこに据える時、喜びを失うことはないのです。私達も、キリスト・イエスに救われた素晴らしさを、人生のこのうえもない喜びとして、生きて行きましょう。

7月18日礼拝「戦友エパフロデトの紹介」

ピリピ書講解(NO10) 「戦友エパフロデトの紹介」2章25~30節

仁井田義政牧師

 パウロは、テモテの次にエパフロデトを紹介しています。紹介していると言っても、エパフロデトはピリピ教会の信徒です。それなのに紹介しているのです。彼が、ピリピ教会で高く評価されていなかったのかもしれません。パウロは、その彼を最高の言葉で紹介しています。

★エパフロデトは4章18節を見ると、パウロの所にピリピ教会から献金を届けてくれた人であったことが分かります。献金を届けた後にローマに留まり、パウロの釈放後に一緒に伝道したいと思っていたのかもしれません。

それが、今日の2章25節に出てくる「しかし」にかかっているのかもしれません。

★パウロは、エパフロデトを「私の兄弟」と紹介しています。それは、パウロと彼が信徒と先生の関係ではなく、兄弟の関係であり「同労者」であるということです。それは、福音伝道の為に同じ働きをする人という意味です。また「戦友」とも紹介しています。それは、福音伝道の戦いの為には命の危険さえ覚悟して行動する人のことです。それが迫害時の伝道でした。

★なぜパウロは、ピリピ教会にこのような紹介をしなければならなかったのでしょうか。それは、エパフロデトが生死をさまよう病気になったことによります。そのことがピリピ教会に「彼は志を遂行できずに、ホームシックになっている」という噂が伝わったのです。噂は尾ひれがつきやすいものです。ある時、私の噂がアメリカの教会に伝わりました。「仁井田先生は、幸子先生に結婚記念にグランドピアノを購入してあげた」というものでした。しかしそれは、家内が子供の頃に買って貰ったピアノでした。

★パウロは、神様が彼の病気を癒して下さったことを伝えました。エパフロデトは、迫害の時代に囚人パウロに、献金を届ける働きを主の使命として引き受けたのです。彼は、「私に任せろ」と豪語してピリピ教会を出発したのかもしれません。しかしその彼に「ローマでホームシックにかかっている」との噂があったので、ピリピ教会では評価されていなかったのかも知れません。ですから2章3節の「互いに人を自分よりも優れた人と思いなさい」とすすめたと考えられます。

私達はクリスチャンとして、「互いに認め合い、尊敬し合う」者となりましょう。

7月11日礼拝「パウロの同労者テモテ」

ピリピ書講解(NO9) 「パウロの同労者テモテ」2 章 19~24 節
                    仁井田義政牧師
パウロは、2章の終わりに二人の同労者について記しています。ひとりはテモテで、もう一人はエパフロデトです。パウロの伝道は、決してパウロひとりの働きではありません。このような人達が一緒に働いてくれたので、伝道が出来たのです。今週は、テモテを紹介したいと思います。


★テモテは、ルステラという町の出身で、父はギリシャ人、母はユダヤ人(使徒 16:1)です。彼の祖母ロイスも母のユニケも、聖書の神様を信じていた
人でした。(Ⅱテモテ 1:5)。テモテは、パウロによってキリストに導かれた青年でした。パウロは、ピリピ教会の設立をテモテと一緒に行ないました。だからピリピの人達は、テモテを良く知っていたのです。


★獄中のパウロは、ピリピ教会の状況を知りたいと思い、テモテを遣わしました。そしてこの手紙で、ユウオデアとスントケの問題解決をしたかったのです。パウロのこの手紙が「良い結果となった」という知らせを聞いて、励ましを受けたいと願いました。この手紙を届ける適任者は、ピリピ教会の設立に共に働き、今もピリピ教会を愛し心配しているテモテだったのです。パウロは、テモテを信頼して遣わす計画をしたのです。


★パウロは、一般的なクリスチャンの生活を例にして、テモテの献身的な奉仕を際立たせています。それは「誰もみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいない」という言葉です。しかしテモテは「子が父に仕えるように福音に奉仕し」と言っています。それはパウロに仕えてはいるが、福音の創始者イエス・キリストに仕えていると言う意味の言葉です。


★パウロはこの手紙を書きながら、もうすぐ下るだろう判決を待っていました。その結果をピリピ教会に知らせるためでした。しかし結果はこの手紙に書かれていないので、判決は保留となりました。この後にも、獄中からコロサイとピレモンへの手紙を書いているので、明らかです。


★テモテはパウロの判決の出ないまま、この書をもってピリピ教会へ向かいました。向かったといっても、当時の旅は命がけのものでした。青年テモテは、命がけで福音の為に働いたのです。私達もテモテのように、イエス・キリストの為に、福音の為に、心から奉仕する人となりましょう。

7月4日礼拝「星のように輝け」

ピリピ書講解(NO8) 「星のように輝け」2章12~18節

               仁井田義政牧師

 パウロは、「十字架の死にまでも従われました」というキリストの模範を受けて「そういう訳ですから」と続けます。キリストがそのように従順に生涯を全うされたように、あなたがたも従順を心掛けて信仰生涯を全うしなさいと言っています。そのためには、どのようなことが必要であり大切なのでしょうか。

★パウロがピリピにいた時、信徒達は他の教会になかったほど従順でした。その時から十年近くもパウロを見ていないのですが、彼らは変わらず従順でした。イエス様も、今は肉眼では見えない存在です。当時のパウロとピリピ教会の関係と同じです。だからますます従順であるようにとパウロは記しています。教えに従順に従うことによって、救いの達成に努めるのです。イエス様も、生涯の全てで父なる神様に従順であられました。

★神様に従順に生きるとは、具体的にはどのようなことを意味するのでしょうか。私達の人生には、楽しいことも苦しいことも起こります。楽しいことが起こった時には傲慢にならず、苦難の時には「つぶやかず、疑わずに行ないなさい」と教えています。それは「理屈をこねない」で従うことです。理屈は、自分中心の考えの理由付けになりかねないからです。イスラエル民族が奴隷から解放されて出エジプトした時も、神様の守りを信じないで不平ばかりを言って、神様の怒りをかいました。

★15-16節に「曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、…世の光として輝くためです」とあります。他の訳では「星のように輝く」と訳しています。「邪悪な世代」とは、神に敵対している時代のことであり、神をも恐れないで嘘をつく人々の闊歩する時代のことです。その暗闇のような世の中で、燦然と輝く星のように生きるのです。その秘訣を「いのちのことばをしっかり握って」と教えています。

★パウロは、ピリピの信徒達が神様に従順に生きてくれれば「あなたがたに努力し苦労して伝えた私の働きが無駄ではなかった」と確信することが出来るというのです。神に敵対した邪悪な時代にあって、クリスチャン生涯を全うし、夜空の星のように輝く生き方をするためには、神様に対する徹底した従順が必要です。私達は、神様に従順なクリスチャンになって、夜空の星のように輝くクリスチャンになりましょう。

6月27日礼拝「私達の模範」

ピリピ書講解(NO7) 「私達の模範」2章5~11節

仁井田義政牧師

ピリピの教会は、素晴らしい教会でした。しかし教会内に、ユウオデヤとスントケという女性達の争いが起こりました。パウロは、その問題が教会の伝道力を奪う危険を感じ、その解決のために模範者としてのキリストを示しました。

★パウロは「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい」と記しました。それは、2章2~4節の「他の人を自分よりも優れた者と思いなさい。」との言葉を受けています。

★しかし現実的に、私達が他の人を愛せなくなった時、どうすれば良いのでしょうか。パウロは、キリストに倣いなさいと言っています。今日の御言の何節かは、当時の讃美歌の歌詞だった可能性があると言われています。ピリピの教会は、賛美によって生まれた教会と言っても良いのです。(使徒16章25節には、ピリピの夜の獄中で、パウロとシラスが讃美歌を歌っていたことが記されています。)

★今日の御言の内容は、謙遜のキリストです。神の子キリストが(しもべ)となり、十字架に付けられて殺されるまで、謙遜を貫き通されたのです。十字架につけられることは、ユダヤ人にとって屈辱的で堪えがたいことでした。(申命記21:22~23)しかしイエス様は、自らを低くし「苦難の僕」の預言(イザヤ53章)のように従い通したのです。

★人間の救いの為に、ご自分を低くして十字架の屈辱まで甘んじて受けて下さったキリストを、父なる神様は全ての上に高く引き上げてくださいました。天にあるもの、地にあるもの、地下にあるものが全て「膝をかがめる」世界の王として下さったのです。そのことで「父なる神様が崇められるためである。」と記されています。つまり、キリストの謙遜によって、父なる神様が栄光をお受けになるのです。

★キリストの謙遜は、「世界中で父なる神の名がほめたたえられる」という結果をもたらしたのです。つまりキリストの謙遜は、世界伝道につながったのです。そのキリストの十字架にまで至る謙卑があったゆえに、ユウオデヤとスントケという女性達も救われたのです。また私達も救われているのです。私達もキリストに倣って謙遜な者となり、互いに許し合い、教会の前進の為に、クリスチャン同士の平和を最優先しようではありませんか。

6月20日礼拝「一致を保ちなさい」

ピリピ書講解(NO6)「一致を保ちなさい」2章1~4節

仁井田義政 牧師

今日の中心的な御言は、「一致を保ち」です。ピリピの教会は、初代教会の中では素晴らしい教会でした。しかしそれは、他の教会と比べて問題が比較的に少なかったということです。パウロは、ピリピの教会に不一致という危険の芽を感じて、この手紙を書きました。

★今日の御言は、先週話しました御言と繋がっています。本来、手紙に章節はないので、繋がっているのは当然です。1節に「キリストの励まし、愛、御霊の交わり」という言葉が出てきます。ピリピの教会にそれがなかったからではなく、むしろあなたがたにはそれらがあるでしょうという意味で書かれています。あなたがたはキリストに愛され、そしてあなたがたもキリストを愛しているでしょう。「それならば」との意味です。

★ピリピの教会に、不一致問題が起こっていました。ただそれは、教会が二分するような大きな問題ではなく、むしろ個人的なものでした。それは4章2節にある「ユウオデアとスントケ」という二人の女性達のいざこざでした。この二人は、教会の女性達の中では指導的な存在で、福音を広めることに熱心でした。(4:3)

★教会は、キリストのもとに一致し志を同じくする時、最も大きな力を発揮することが出来ます。主は「二人が心を合わせて祈るなら」と、マタイ18章19節で教えています。サタンは教会がその力を持つことがないように、いつもちょっかいを出すのです。まるで主の教えを逆利用しているようです。

★ユウオデアとスントケは、教会で用いられていた人達でした。クリスチャンは用いられても、傲慢にならないように注意しなければなりません。その秘訣をパウロは「他の人を自分よりも優れた人と思いなさい」と教えています。しかし、これが一番難しいのです。私達は、自分を人よりも優れていると思いたいのです。それでパウロは、私達のその固い自我を砕くために、強烈な爆弾を投げ込んできました。それが、来週の御言に出てきます。

★パウロは1章2節で「私の喜びが満たされるように」と言っています。パウロの喜びは、遠く離れた地にあるピリピ教会の二人の姉妹達が互いに悔い改め「一致」してくれることでした。信徒達がひとつになる時、教会は最大の力をもって伝道することが出来るのです。私達も「一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志をひとつにして」伝道に前進しましょう。

6月13日礼拝「霊により心をひとつにして」

ピリピ書講解(NO5)「霊により心をひとつにして」1章27~30節

仁井田義政牧師

 パウロは、迫害の中にあるピリピの教会に「福音にふさわしく生活しなさい」と教えています。しかし「福音にふさわしく」と言われると、たちまち私達は自信を失ってしまうのです。なぜでしょうか。

★パウロはローマの獄中にいましたが、パウロの願いは釈放されて自由の身になることではありませんでした。また釈放されて、自分を信頼してくれているピリピの教会に行き、互いに喜び合うことでもなかったのです。パウロがただひとつ獄中で願っていたのは「ピリピの教会の信徒達が福音にふさわしく」生きることでした。

★それでは、福音にふさわしく生きるとは、どのようなことなのでしょうか。「福音にふさわしく生きる」とは、律法主義的に生きることの反対の言葉です。私達が「福音にふさわしく生きなさい」と言われると、不安になるのは律法主義になっている証拠です。「福音にふさわしく生きる」生活とは、すでにイエス様に救われていると信じて生きることです。

★私達クリスチャンは、すでに救われているのです。しかし救われているクリスチャン同士でも、考え方や気質は違います。いやその違いこそ大切であり、教会の力なのです。しかし、心においてはひとつにならなければなりません。心をひとつにするのは、聖霊様の働きです。聖霊様は、ペンテコステの日に強い教会を建て上げられました。使徒の働きは、聖霊様に満たされて歩んだ初代教会の歴史なのです。

★パウロは「福音にふさわしく生きる」生活として、「どんなことがあっても反対者たちに驚かされることはない」と教えています。反対者は迫害者を含みますが、その陰でキリスト教徒迫害に人々を用いているサタンのことでもあります。「驚かされることはない」は、馬が突然、何事かに驚き慌てふためく様子です。福音にふさわしく生きる時、驚かないというのです。迫害する者にはそれが滅びの印であり、迫害されるクリスチャンにとっては、それが救われていることの印だからです。「信仰だけでなく、キリストの為に苦しみをも賜った」(29節)という理解が、クリスチャンを強くするのです。

★そのような教会の力は「霊をひとつにし、心をひとつに」(27節)する以外ありません。私達も聖霊に満たされて、ひとつ心となりましょう。そして迫害や逆境に負けないクリスチャンになりましょう。

6月6日礼拝「キリストのために生きる」

ピリピ書講解(NO4)「キリストのために生きる」1章20~26節

仁井田義政牧師

 獄中にあるパウロは、今日の御言にあるように、切なる祈りを捧げています。「切なる祈り」は、生きるにしても死ぬにしても、キリストが崇められることでした。私達の切なる祈りは何でしょうか。

★パウロは、処刑の決定がいつ下されるか分からないような状況にありました。処刑となれば、ローマの平和を乱し皇帝にたてついた者として、民衆の前に引き出され、そこで見世物にされ、殺されるのです。そのような状況下で、自分の生と死を前にして、切なる祈りをしていたのです。

★パウロの切なる祈りは、「生きるにも死ぬにもキリストが崇められますように」でした。パウロは獄中にあっても、自分の罪がさらに重くなるようなキリスト伝道を続けていたのです。パウロにとっては、「私にとって生きるのはキリスト」だったからです。その「生きる」とは、人生の目的のことです。

★パウロは、「死ぬこともキリストの為、生きるのも教会の為になる」という二つの板挟みになっていました。パウロは「死んでキリストのもとに行くこと、これ以上の幸せはない。しかし生きていれば、教会の為に活動ができるという生き方でした。処刑されずに生きながらえれば、ピリピ教会にも再度行って、信仰の励ましも出来ると思っていたのです。しかし、それは実現しませんでした。パウロは、数年後に処刑されたのです。

★パウロは、「私の人生の存在目的は、キリストの為に生きるところにある」「私にとって生きるのはキリスト、死ぬことも益です」と言っています。私達日本のクリスチャン達に必要なのは、まさにパウロのような人生目的の明確化なのです。私達日本の多くのクリスチャン達は、イエス様を信じた後も相変わらず「自分の為に生きている」ことが多いのではないでしょうか。しかし自分の為に生きるという古い生き方は、洗礼の時に殺してしまったのではないでしょうか。新しくなった私達の人生の目的は、生きるにも死ぬにも、キリストの為になるように生きることなのです。そうするのは、キリストが私達を救うために十字架で死んでくださったからです。

私達もパウロに倣って、「キリストの為に生きる」ことを揺るぐことのない人生目的としようではありませんか。