ピリピ書講解(NO14) 「いつも主にあって喜びなさい」4章2~7節
仁井田義政牧師
パウロは、十年前に開拓したピリピ教会を愛して、いつもその成長を祈っていたのです。そのような時に、ピリピ教会の二人の女性が対立していることを聞きました。しかもその二人は、ピリピ教会創設の時からパウロの伝道に協力した人達でした。パウロは、その解決の為にこの箇所を書きました。
★パウロは二人の女性の名を記しました。この手紙は、教会の信徒達の全員の前で読まれる手紙です。そこにこのように名前が記されるのは、異例と言えるでしょう。イエス様はこのような時に、マタイ18:15~17で「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、二人だけのところで責めなさい」と教えておられます。しかしパウロは、二人の争いを公にしました。ピリピの教会と二人を信じていたからでしょう。
★パウロは、二人の正義感から来る対立は、人間的な寛容さでは解決できないことを知っていました。その為に究極的な解決方法を記したのです。それは、「主にあって」解決することです。二人とも、主に集められた大切な人であることを認め合うことです。イエス様にとって自分の命を十字架に付け、その命を与える程に大切な人であることを互いに認め合うのです。
★そしてパウロは「主は近いのです」と書きました。それはキリストの再臨のことです。私達クリスチャンは、再臨の時に自分の大罪を主が赦して下さることを究極的に体験するのです。自分はキリストにその大罪を赦されるのに、赦して頂いた自分が他の人の罪を許していなかったとすれば、何と主の前に恥ずかしいことでしょう。
★争いの多くは、日頃の感謝が無いところから起こるのです。ですからパウロは「いつも主にあって喜びなさい」と記しました。私達の人生には、悲しいことや思うようにならないことが多いのです。それなのに、どのようにして「いつも喜ぶ」ことが出来るのでしょうか。それは、「主にあって」という方法によってです。そのためには、「何事も思い煩わないで、感謝を持って祈ること」です。そうすれば、「人の全ての考えにまさる神の平安が、あなたの心と思いを主にあって守られるのです」
人を許せない思いはありませんか。主にあってという言葉は、あらゆる問題からの解放の言葉です。いつも主にあって喜びましょう。