2月21日礼拝「建て上げる奉仕」

エペソ人への手紙(N0.16)「建て上げる奉仕」4章7~13節 

                            仁井田義政牧師

今日は、イエス様が与えて下さっている賜物についてお話し致します。

★今日の御言は、私達にキリストの賜物が与えられていることを示しています。アメリカの家庭にホームステイをしますと、家族の一員として受け容れられます。しかし家族なので、庭の掃除などの奉仕も与えられます。私達はキリストの家族、つまり神の家の一員とされたのです。そしてキリストによって、賜物としての奉仕も与えられました。

★その賜物は、イエス様から与えられたものです。イエス様は、過去・現在・未来に生きておられる大宇宙の存在者です。その御方から、クリスチャンの全てに賜物が与えられているのです。このことをしっかりと理解すると、霊的に成長した人になります。

★またイエス様は、御言に仕える者として、使徒・預言者・伝道者・牧師・教師を立てられました。役職であって、偉いわけではありません。賜物として、その役職を与えられている奉仕者なのです。今日の御言には、牧師の働きが記されています。その働きは、「聖徒達を整えて奉仕の働きをさせるため」とあります。そのことによって、「信仰の一致と、神の御子に関する知識の一致によって、完全に成長するため」なのです。

★今日の御言の大切なひとつは「建て上げる」と言うことです。当時、建物の主な材料は石でした。山から切り出された石はそのままでは使えず、形を整えて建物の適材適所に積み上げられるのです。そのことによって、建築主の望むような建物が完成するのです。バラバラであった石達は互いに力を出し合い、関連し合って大きな建物となります。

★また「キリストの身丈にまで成長する」とは、キリストの愛が完全で、キリストの存在が永遠なので、大きな建物となった教会は、キリストのように永遠の存在となるのです。

そのようなことがどのようにして実現するのでしょうか。それはクリスチャンの一人ひとりが、神様から与えられている賜物をキリストの体である教会を通して実行することによるのです。賜物は、全ての信徒に与えられています。「私は年寄りで何もできません」と言ってはなりません。体を動かせない人には「祈り」の奉仕があります。私達全てに与えられている奉仕の賜物を用いて、イエス様の偉大な働きに参加しましょう。

2月14日礼拝「御霊による一致」

エペソ人への手紙(N0.15)「御霊による一致」4章1~6節 

今日の御言には、クリスチャン倫理道徳について記されています。クリスチャン倫理道徳は、学んだから実行できるというものではありません。祈りによって、はじめて実行できるものです。今日のクリスチャン倫理道徳の教えは、皆がひとつとなると言うことです。
★パウロは、「主の囚人である私は」と述べています。確かにパウロはこの手紙を書いた時、ローマに囚人となっていました。しかし単なる囚人ではなく「主の囚人」と記されていることを見逃してはなりません。主の為の囚人という意味です。

★そのパウロは、「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」と記しました。パウロは、私は召された者として、キリストの為に牢獄に至るまでも召しにふさわしく生きて来ました。そのようにあなたがたも、召しにふさわしく生きなさいと教えているのです。それと同時に、クリスチャンになった時の「今の生活」にふさわしく歩みなさいとも教えています。クリスチャンになった人の中には、奴隷も主人も金持ちも貧しい人もいました。それぞれの生活の状況が違っても、その召しは「ひとつになることです」と教えているのです。

★そのためには、「柔和と寛容の限りを示し、御霊の一致を熱心に保ちなさい」と教えました。私達は、それがなかなかできないのです。ですから「謙遜と柔和の限りを尽くそう」との強い決心が必要なのです。何のためにそれが必要なのでしょうか。キリストが、教会はひとつになるように願っておられるからです。小手先ではなく、「御霊による一致を熱心に求める」のです。

★パウロは4~6節ので、神様と神様が定められた聖礼典はひとつであることを記しました。聖礼典は、ギリシャ語の「奥義=ムステリオン」を用いました。それは、神様の見えない恵みを見える形にして執行するからです。私達は、コロナの為に聖餐式が長い間出来ておりません。感染の危険があるからです。会堂において賛美し、御言を聞き、一緒に祈ると言うことも出来ておりません。ですが、今日の御言にあるひとつになることをおろそかにしてはなりません。このような状況を嘆くだけではなく、祈りましょう。御霊によって祈りましょう。謙遜、柔和、寛容、愛を持って互いに忍び合い、信仰をひとつにしましょう。今日の御言にあるように、「御霊による一致を熱心に」祈り求める人になりましょう。

「内なる人を強く」

エペソ人への手紙(N0.14)「内なる人を強く」3章14~21節 

仁井田義政 牧師

 今日のメッセージは、「内なる人を強くしてください」というパウロの祈りです。

★内なる人とは、私達の霊や心のことです。それが強くなるようにとパウロは祈りました。この時、パウロの足は鎖で繋がれていました。そのような状況では、解放されるようにと祈るはずです。しかしパウロは、内なる人が強くなるように祈ったのです。私達は今、コロナからの解放を祈っています。しかしそのことばかりを祈っていると、「内なる人」が弱くなってしまいます。むしろ内なる人が強められるように祈ることによって、魂に力がついてくるのです。

★この手紙が書かれたのは、パウロがエペソの町に伝道してから10年以上経っています。エペソの町には、アルテミス神殿などがあり、また教会狩りの迫害もありました。パウロ自身も今、獄中にいるのです。信徒達の間に「本当に神は全能なのか」との疑問が出ても当然の状況でした。しかしパウロは、「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることが出来ますように」(19節)と祈りました。

★「内なる人が強くされる」とは、どういうことでしょうか。それは、どのような状況に置かれても、神様は全能であると信じる強い心にされることです。辛子種のような存在であっても、祈り信じる者には、願うところ思うところを越えて、神様の全能が導いていて下さるのです。迫害され続けている当時の小さな教会が、そこから人類を席巻する世々の影響、とこしえの影響が始まると確信していたのです。

★パウロは、内なる人の強い人でした。それと同じようにエペソの教会の人々にも「内なる人」が強くなって欲しかったのです。逆境の中にあると、身の安全や健康のこと、生活のことなどだけに心が捕らわれかねないのです。そうして外側のことを優先させやすいのです。礼拝よりも生活優先。キリストよりも自分優先。キリストの栄光よりも自分の栄光優先。自分が主人となってしまい、キリストが心の内から出ていかれてしまうのです。ですからパウロは「キリストが心のうちに住んでくださいますように」と祈っているのです。私達も、人知をはるかに超えて働かれる神様を信じて、「主よ、私の内なる人を強くして下さい」と祈りましょう。

「一番小さな私に」

エペソ人への手紙(N0.13)「一番小さな私に」3章8~13節 

仁井田義政牧師

パウロは、異邦人の救いについて2章の終わりから3章の7節まで記してきました。そして今日の御言の3章8節で、感極まるようにして「全ての聖徒達のうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは」と記しました。今日は、パウロの自己認識についてお話しいたしましょう。

★パウロは、自分を聖徒達の中で「一番小さな者」と考えていました。人と比べるのは、相対的な自己認識のように見えますがそうではありません。 それは、神様の前に「私は最も小さな者だ」という絶対的な自己認識なのです。パウロは、他で「私は罪人の頭」とも言っています。それは、キリスト教徒を迫害し、ステパノを殺し、エルサレム教会の信徒達を国外に散らす原因を作った張本人なのです。さらには、その信徒達をダマスコまでも追って行ったのです。ですから「一番小さな私」には主の恵みを受ける資格など全くないのに、イエス様は私に奉仕を与えて下さったと感謝しているのです。

★そのような私に「測りがたい富と奥義を宣べ伝える偉大な働き」を与えて下さったと記しました。その「測りがたい富」とは何でしょうか。それは神様が全人類を愛しておられ、救って下さると言うことです。世界のあらゆる民族を救って下さるということです。これは神様の御心でした。パウロに示されたこの奥義によって、キリスト教はイスラエルのユダヤ教の一派から世界宗教へと扉が開かれたのです。

★世界に開かれたキリスト教の教理は、「全ての人々の為の十字架の救い」でした。イエス様の十字架によって、全ての人の罪が赦され、「大胆に神に近づく」ことが出来るということが分かったのです。かつては年に一度、大祭司が身を清めて細心の注意を払って、神殿の至聖所で神様に近づきました。しかし、イエス様の十字架の赦しによって、誰でも大胆に神様に祈ることが出来るようになったのです。しかも個人の日毎の食事のことから、世界情勢に至るまで、大胆に祈ることが出来るようになったのです。

★パウロは今日の御言で、かつては聖徒達を殺していたような「一番小さな私」に、そのような新しい時代を知らせる働きが与えられたと感謝しているのです。パウロは、獄中でも奉仕の感謝に溢れていました。私達も「一番小さな私に与えられた奉仕を感謝します」と祈り、奉仕する者になりましょう。

「神の啓示による差別の撤廃」

エペソ人への手紙(N0.12)「神の啓示による差別の撤廃」3章1~7節 

仁井田義政牧師

 今日からエペソ3章に入りました。3章は「こういう訳で」という言葉で始まっています。それは2章と繋がっていることを現わしています。差別撤廃のメッセージは、既に3週続いていますが、今日も差別がいかに神様の御心に反するものであるかをお話しいたします。

★パウロは、今ローマの獄中にいます。それは、異邦人にキリストの救いを伝道したからです。パウロは、囚人となるような人ではありませんでした。それどころか、ユダヤ人達の宗教的指導者となる人でした。しかも異邦人と交流することを最も嫌うユダヤ教の差別主義のパリサイ派に属していました。

★パウロは復活のキリストに出会った時、「主よ、私は何をしたら良いでしょう」と聞いたのです。クリスチャンになったら、そう聞くべきです。イエス様は、パウロに「あなたを異邦人に遣わす」と言われました。その使命は、苦難の連続でしたが、パウロは「恵みによる私の務め」と獄中で感謝しています。(2節)

★差別の撤廃は神の奥義であり、人間の中からは出てこなかったのです。それは、神の啓示によることだったのです。5節の「前の時代」とは、旧約聖書時代のことです。その時代には、異邦人への差別が罪であることが人々に知らされていなかったのです。しかし今の時代は、聖霊によって、使徒達と預言者達によって、神の奥義を知らされるようになったとパウロは記しています。そしてパウロは、その働きの最初の使徒として自分が「この福音に仕える者となった」と誇りに思っているのです。ローマの獄中においても、悲壮感を持っていませんでした。獄中にいると言うことは、明日をも知れない命であるのに、神様に仕えて来たことの喜びに溢れていたのです。

★この手紙を書いた数年後に、伝説ではパウロは斬首で殉教したと言われています。この手紙がAD61年頃に書かれ、殉教が65年頃と言われています。差別を取り払うためには、イエス様の十字架処刑と、パウロや使徒達の殉教がかかっているのです。そのことから見ても、民族間の差別は絶対に取り払わなければなりません。私達は、差別をなくすことと、神様の使命に生きることとを目指しましょう。

「私達は神の家族です」

エペソ人への手紙(N0.11)「私達は神の家族です」2章17~22節 

仁井田義政牧師

今日の御言の19節には「神の家族なのです」という言葉が出て来ます。それは、教会を現す言葉でもあります。今日の御言によって、いよいよ私達は神の家族として互いの愛を強くしていきたいと思います。

★キリストは、遠くにいた人達にも平和を宣べ伝えられました。「遠くにいたあなたがた」とは、エペソの人々です。神からも遠く、ユダヤ人からも遠かったのです。「平和を宣べ伝え」の「宣べ伝え」は、「ユウアゲリオン」というギリシャ語が使われています。それは「福音」と言う意味です。

★パウロは「私達は」と言って、エペソ人もユダヤ人も一緒であることを示しています。さらに「キリストによって」の「よって」ギリシャ語の「イン」と言う言葉です。それは「~の中で」という意味です。私達は、皆キリストによって初めて神様に近づけるのです。キリストの御霊が、私達を包んで下さるからです。その結果、神様は私達の「父」となって下さるのです。

★その結果、国籍や肌の色による差別はなくなったのです。聖書時代の世界は、差別と区別の時代でした。自由人と奴隷人の区別もありました。しかしキリストはそのような時代に、「教会」と言う新しい共同体「コミュニティ」を人間社会に投入されたのです。

★ですから教会は、どのような国民も、どのような民族も、平等にしなければなりません。つまり「神の家族」として尊敬し合うのです。キリストとキリストの教えが、礎石・頭石とならなければなりません。そうする時、教会はがっちりと互いに組み合わされ、成長し、聖なる宮となり、神の住まいとなるのです。

★皆さんは、教会が成長することを願っておられると思います。今はコロナ禍に私達の教会もあります。だからこそなお一層、神の家族としての信仰が必要なのです。そのためには様々な違いを越えて、互いに神の家族としての愛を強めてひとつにならなければなりません。キリストは、愛を強め合う所をご自分の住まいとして下さるのです。そのためには一切の差別や区別を取り払って、神を父として、キリストを長男とした神の家族としての愛を強めましょう。

「十字架によって」

エペソ人への手紙(N0.10)「十字架によって」2章11~16節 

                    仁井田義政牧師

 今日の聖書の箇所には、エペソの教会の人々と私達と共通するものがあります。エペソの人達は豚を食べましたが、イスラエル人達は絶対に食べません。またエビ、カキ、タコ、イカ、ウナギも食べません。日本人にとっては美味しい食べ物です。イスラエル人は外国からの輸入物に、調味料の中に豚のエキスが入っていないかどうかを、今に至るまで国家機関レベルで調べているのです。

★初代教会は、そのような違う文化を乗り越えなければなりませんでした。日本人にとっては御飯の茶碗を持って食べるのがお行儀の良い食べ方ですが、日本以外の国の人からは、「テーブルのない」貧しい人のような非常識な行為に見えると言われます。茶碗をもって食べるのは、世界で日本人くらいだそうです。聖書時代に豚肉等を食べる異邦人は、イスラエル人から見れば宗教的汚れと相まって、取り返しのつかない罪と汚れを持った民族に見えたのです。イスラエル人から始まった教会が世界に広まっていくためには、そのような異なる文化を乗り越えて行かなければなりませんでした。

★パウロは、ダマスコの道で復活のキリストに「わたしはあなたを異邦人の使徒として遣わす」と言われたのです。イエス様ご自身は、公生涯の中で既に異邦人の救いに関わっておられました。イエス様が誕生された時に、イエス様を礼拝した「東方の博士達」や、ローマ百人隊長の僕の癒し。またツロの女性の癒しなどです。しかもツロの女性の時は、「イスラエルにこれ程の信仰を見たことがありません」と、その信仰を褒めておられるのです。

★パウロが異邦人の為に選ばれて後、「以前は遠く離れていた」異邦人に、神様の救いがもたらされました。何から遠く離れていたのかというと、第一に神様からです。第二に民族間が遠く離れていたのです。しかし、キリストの十字架によって、全ての隔たりが取り払われたのです。

★今や国籍や民族が違っていても、等しく神様に愛され、集められていることが明らかになったのです。その集まりが教会なのです。溝の口教会は、キリストの十字架による神様との和解と、それに基づく民族の平和を、教会の大切なこととしてしっかりと守っていきましょう。 

「私達は神の作品です」

エペソ人への手紙(N0.9)「私達は神の作品です」2章1~10節 

                       仁井田義政牧師

明けましておめでとうございます。新年第一回目の主日礼拝です。正月は一年の歩みの基礎を築く最も良い時です。今日の御言は、人生の基礎に大切なことが記されています。

★今日の御言に「私達は罪過と罪によって死んでいました」と記されています。新年の第一歩は、その認識から始めたいと思います。これは、エペソの教会のクリスチャン達がイエス様を信じる以前のことでした。それでは、どのように死んでいたと言うのでしょうか。それは異教的なことに流されて生きていたと言うのです。

★特に日本は宗教的な軟弱さが特徴なのです。多くの日本人は「、私は無神論者です」と平気で言います。そうかと思うと、正月には多くの人達が初詣に行きます。また家族が亡くなると仏式で葬式をします。日本で宗教調査をしますと、日本人一人当たり三つの宗教を持っているという統計数字が出るのです。つまりしっかりとした土台がないのです。それが自由だと勘違いしてしまっているのです。

★それは足元が土台に着いていない状態で、聖書はそれを「死んだ状態」と言っています。そして「土台の上に、しっかりと人生や生活を建て上げるように」とすすめています。その土台とは、イエス・キリストです。年の初めにまず、キリストを信じる信仰の上に一年を築くことを決心しましょう。そのようなしっかりとした土台を据え直して下さったのは、神様です。神様は私達が素晴らしいからそうして下さったのではありません。「ただ恵みによるのです」今日の御言は教えています。

★さらに聖書は、私達は「神の作品です」と記しています。例えば山の土は、そのままでは何の値打ちもありません。役に立たないのです。しかし、有名な陶器師の手にかかると、単なる土が何百万円もの値打ちのある器に変わるのです。神様は人間を造る名工です。その手によって私達は造られたのです。神様は「良い事に用いよう」という考えで造られたのです。良い行ないもあらかじめ用意して下さったのです。その目的にしっかりと立って、神様にお仕えする者になりましょう。

「教会はキリストの体である」

エペソ人への手紙(N0.8)「教会はキリストの体である」1章22~23節 

仁井田義政牧師

 今日は、今年最後の礼拝です。今年一年間の自らを振り返りながら、御言を受け取りましょう。

★22節の初めで「神」は「一切のものを、キリストの足の下に従わせた」と記されています。それは、政治的権力も、世界の宗教と言う霊的なものも、全てキリストの足の下に従わせたことなのです。このことをパウロが記した時、パウロは捕らえられ、キリスト教は他宗教から迫害されていました。パウロの時代は、この言葉のようには見えない時代であり、むしろ反対に見える時代でした。

★そして「神はこのキリストを教会にお与えになった」と記されています。教会の原語は「呼び出された、召し集められた」の意味のエクレシアです。英語に訳すならば「アッセンブリーズ・オブ・ゴット」なのです。パウロはここで、神は政治においても、宗教においても、世界最大の権威者を教会に与えられたと記しているのです。教会は「神に召し集められた者達」であることを信じなければなりません。それを信じなければ、教会として成り立ちませんし、始まらないのです。

★ 23節では、「教会はキリストの体である」と宣言されています。パウロは、教会は単に「神様から呼び出された人々の集合体」に留まるものではないことを記しています。それでは何なのかと言うと、「教会はキリストの体」であると記しているのです。体に譬えたのは、教会がキリストの生身の体であると言うことを知ってもらいたいからなのです。ですから教会は、キリスト以外の「頭」を持たないのです。

★そして教会は、「キリストの体」で「キリストが教会の頭」であればこそ、教会は一切のものを満たすことが出来る豊かさを持っているのです。 

私達も、今は自由に行動出来ないような状態にあっても、既に神様は全てをキリストの足の下におかれたのです。そして教会にそのキリストを与えられました。私達は神様の偉大さをしっかりと見て、喜びに溢れて新年を迎えましょう。

クリスマス礼拝「永遠の王の誕生」

エペソ人への手紙(N0.7)クリスマス礼拝「永遠の王の誕生」1章20節~21節 

仁井田義政牧師

今日はクリスマス礼拝です。コロナ禍の中におけるクリスマスになってしまいました。今年は、世界中が人間の無力を感じた年でした。イザヤ書60章2節に「見よ、闇が地をおおい、暗闇が諸国の民をおおっている」とあるような状態です。イエス様がお生まれになったその夜、羊飼い達も闇に包まれていました。その夜、暗闇を破り「救い主の誕生」を示されました。しかもその救い主が、羊飼い達よりも低い場所にお生まれになったのです。

★「救い主が、彼らよりも低い所に生まれられた」と言ったのは、飼い葉桶に寝かされたからです。いかに貧しい羊飼い達でも、馬小屋の飼い葉桶に寝かされたことはなかったでしょう。自分の子供を、飼い葉桶に寝かせることもなかったでしょう。しかしイエス様は飼い葉桶に寝かされたのです。

★イエス様は、人の住む所などではない飼い葉桶に寝かされました。しかし、この赤ちゃんには「神の全能の力が注がれて」いました。その証拠は「死者の中からの甦り」でした。もうひとつの証拠は「全ての支配、権力」がイエス様の上にあったことが、今日の御言のエペソ書に記されています。

★羊飼い達は、馬小屋のキリストを礼拝した後、また闇に満ちた自分達の生活の場へと帰って行きました。しかし飼い葉桶に寝かされたキリストが、「自分達に与えられた救い主」であり「主」であるという信仰に満ち溢れていました。「主」であるという信仰とは、キリストは「神」であると言う信仰のことです。彼らは豊かな人となりました。そのことをルカ2章17~18節で「羊飼い達は、告げられたことを知らせた」と記されています。そして彼らは、貧しい中にも「神をあがめ賛美する」人となったのです。  

★今日の御言であるエペソ1章21節には、イエス様は「この世ばかりではなく、次に来る世においてもとなえられる全ての名の上に高く置かれました。」と記されています。このキリストの永遠性の一端を、この羊飼い達も得るのです。幾多の音楽家や画家が、この羊飼い達の美しい信仰の姿を描いて来たでしょうか。そうして今なお羊飼い達の素直な信仰の美しさは、色あせることなくキリストの福音と共に輝いているのです。

クリスマスのキリストは、あなたの人生もキリストの素晴らしさで美しくして下さるのです。